フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 始動 / 幻燈 | トップページ | 更新停止 »

2017/12/28

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 玻璃

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「玻璃」は昭和一三(一九三八)年三月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 一部の段落末に簡単な注を附した。

 なお、本篇のロケーションであるが、私は一つの候補として、現在の広島県広島市中区の新天地(しんてんち)を挙げておくに留める。(グーグル・マップ・データ)。【2017年12月28日 藪野直史】]

 

 

 玻璃

 

 夜の漫步者の群に交はつて、俊(しゆん)はふらふらと步いてゐた。そこは夜分、車馬が通行止めになつてゐるので、漫步者のリズムものんびりとしてゐたが、兩側の商店から放つネオンも睡むたげで、二筋竝んでゐる鈴蘭燈は藍色の空に輕く嵌められてゐるやうな趣だつた。俊を後から追越す人間は、帽子に白線の入つた高等學校の學生達だつた。俊の側をすれすれに通り拔ける子供や、俊の眞正面に接近して來て、衝突しさうになる若い女もゐた。さう云ふ場合、若い女の眼球は電燈の光線で虛空に輝き、頰はセルロイドのやうに佗しかつた。生きてゐる人間の方が、却つて俊には白々しく感じられるのだつた。

 銀行前の引込んだ空地では、頭髮をてらてら光らした男が人絹の帶を賣つてゐた。パチンと掌を打つと同時に、さつと黑い帶を擴げてみせ、「やあ」とか何とか非常に威勢のいい掛聲と身振りで、帶の美點を説き立てるのであつた。成程、帶はふわふわと神祕的な姿でその男の兩肘に纏ひついてゐるのだが、辨舌爽やかな男の方は段々空疏な存在のやうになつて來る。その男の前に立留つて見物してゐる人々も、大概張合のない顏をして、その癖、容易に立退かうともしなかつた。俊も暫く無意味に傾聽してゐたが、そのうちに不圖氣がつくと左端から三人目のところに、黃色の三尺を結んだ若い女が熱心に口をあけて聽いてゐるのだつた。その女は俊が死ぬる年の前頃までは、可憐な女學生だつた。それが何時の間にか結婚して、離緣になつて、其後發狂したのは俊も薄々知つてゐたが、するともう氣違も癒つたのかもしれなかつた。突然、すぐ側の橫町から太鼓が鳴り出した。それに合せて救世軍の男女が勇しい歌を合唱し出した。すると今迄無心に聽いてゐた彼女は急に何かそはそはし出し、太鼓の鳴る度びに眉のあたりをヒリヒリと痙攣させるのであつた。俊はそれを視てゐるのが、次第に氣の毒になつた。そこで、ふわりと人垣を離れて步き始めた。が、ものの二三間も行くと、彼はそこに陶器店があるので、思はずまた足を留めて眺め入つた。店頭に曝されてゐる茶碗や皿の群は電燈の洪水で艷々と整つて、大變娯しさうにざわめき合つてゐるのだ。俊は生きてゐた頃から陶器は好きだつたが、今も胸をぞくぞくさせながら、その陶器の一つ一つを視線で撫でてみた。それから飾窓のところに立つて、盆の上に竝べられた茶碗を眺めた。飾窓の床には小さな茣蓙が敷いてあつて、水盤に南天が活けてあつた。それに隅の方の柱には何の積りか鐵で造つた蟹の置物が置いてあつた。あまり額を硝子板に接近させて眺めてゐるうちに、俊はふと頰が冷々して來た。それで少し額を硝子板から遠ざけると、今迄硝子板に紛れ込んでゐた感冒除けのマスクをして黑い毛糸の襟卷に頤を埋めてゐる俊の影がぷつと動いた。俊はまた思ひ出したやうに步き出した。

 俊がふらふらと前へ進んで行くに隨つて、向ふにある四つ角が近づいて來るのだつた。その邊は燈も澤山ありすぎるし、人足も混むし、一二つある路がワーと云つて口を開けて、來る人を吞まうと構へてゐるのであつた。まつ直ぐ行けば、映畫館や射的場の競つてゐる、凸凹した盛場に出るし、右へ折れれば、齒の拔けたやうに酷い小路なのだが、左へ曲るなら、書籍店や百貨店などのある通りへ出る。俊はどの口に吞み込まるべきか、迷ひながら例によつてもぢもぢしてゐたが、どう云ふものか今夜の人波は大概左へ曲つて流れ込むので、俊もついそちらへ誘はれて行つてしまつた。

 すると、そこの通りには、軒每に提燈が點されてゐて、露店がずらりと竝び、路は人間でぎつしり埋もれてゐた。人間は押し犇きながらなかなか進まなかつた。一杯に竝んだ頭とすれすれに電線が架けられ、それに電球が裸でぶらぶらしてゐるのだが、人間の吐く濃い息がかかるため、黑い空もぽうつと霞んでゐた。そのなかを搔き分けるやうに、熊手がいくつも現れた。頭上に掲げられてゐる熊手には大福帳や惠比須の面ががたがたと慄へ、時々えびすの面の微笑は白つぼい殺氣をちらつかせてゐた。俊は人混みの外側に押出されて、露店を一つ一つ眺めながら步いた。蜜柑やキヤラメルはピラミツト型に積んであつた。今川燒の溫かさうな匂ひが漾つて來た。ふと、硝子函のなかに、痰切飴があるのに氣づいて、眼を留めると、金米糖や、薄荷糖もあるので、俊は一寸微笑した。そして、ひよいと、その昔ながらの菓子を賣つてゐる佗しさうな男の方を眺めると、これはまた、俊の中學時代の先輩だつた。雄辨會で、拳をあげてテーブルを撲るのが癖だつたが、今はその拳を大切さうに脇の下に隱し、眼ばかりが何かを求めるやうに虛しく光つてゐた。[やぶちゃん注:「ピラミツト」はママ。]

 人波は煙草屋の角から右へ折れて雪崩れて行つた。そのためには往來は一層混み合つて、步行は困難になつた。風船玉が一つふわふわと搖れてゐた。そのすぐ側にロイド目鏡を掛けた慶ちやんの顏があつた。俊は慶ちやんの側へ近寄らうとして、無性に急り出したが、慶ちやんの方は悠々としてゐて、もとより一向に意志が通じなかつた。氣がつくと成程、慶ちやんは何時娶つたのか、綺麗な細君を連れてゐるのだつた。その上、慶ちやんは人混みのなかで、細君と手を握り合つたりなんかしてゐる。俊は一層面白くなつて慶ちやんの姿を見失ふまいと努めた。だが、この時、俊のすぐ前へ嚴丈な男が橫から割込んで來たので、俊の視野は古ぼけたトンビで塞がれてしまつた。見るとトンビの背には煙草の火で燒いたらしい穴が二つあつて、步く度にその穴は空氣を吸つてゐた。俊は人間の背と云ふものが、次第に腹立たしく感じられた。それと同時に俊は不貞腐れた子供のやうになつた。隨分昔のことだが、たしか俊はこれに似た經驗をしたのを憶ひ出した。子供の時の俊はお祭りだと云ふと新しい下駄を履かされたり、帶をきつく結ばれるので、自然に神經が高ぶつて來て感情が激しくなるのを、大人は理解して呉れなかつた。それで結局、不貞腐れた氣持で、大人の手に引かれ厭々ながら人混みのなかを行つたものだつた。今、目の前にゐるトンビの男がやはり俊を不貞腐らせてゐるので、俊は自分ながらをかしかつた。そして、もう勝手になれとばかりにそのトンビに導かれて人混みを泳いだ。[やぶちゃん注:「急り出したが」「あせりだしたが」と訓じていよう。]

 急にあたりが明るくなり、人混みのなかからポアアと風船玉の笛が鳴つた。不圖、上を仰ぐと鳥居のところに大きな電球があつて、石の鳥居は靑空に白く浮出て居り、その下に無數の顏が犇いてゐた。次第に俊は昔ながらの怪しげな氣分に浸つて行けた。緩い太鼓の響が段々近づいて來た。人間の列は今ゆつくりと順番を追つて、定められたコースを流れて行くのだつた。石疊の上にはさらさらと下駄の齒が磨り込まれて行つた。太鼓の音はいよいよ近づき、拜殿の軒が現れ、軒の注連が颯と搖れた。俊の前にゐた嚴丈な男はこの時、帽子を脱ぎ、威儀を整へてお叩頭をした。すると、その男の屈められた肩を乘り越えて、冷たい風が一すぢ俊の方へ流れて來た。拜殿の格子の棧に闇が一つ一つ嵌められてゐて、そこを風は滑り拔けて來るらしかつた。

 後から後から押して來る人間のために、俊はひとりでに鳥居を潛り拔けて、表通りへ出されてゐた。氣がつくと、もう慶ちやんの姿は完全に見失はれてゐたし、さつきまで俊の眼の前に纏いついてゐた嚴丈なトンビもなくなつてゐた。俊の眼の前には今、女の兒を負つたおかみさんがゐた。女の兒は靑いコールテンの足袋をピヨコピヨコ動かせて、おかみさんの掌に戲れかけてゐた。おかみさんの拇は時々怒つて、退儀さうに動いた。人波は株の小路小路で吸取られて行くため、何時しか疏になつてゐた。すると、人間と人間の隙間に吻としたやうに風が割込んで來るのだつた。俊はふらふらと路の四つ角のところまでやつて來てゐたが、見ると、火見櫓のある角の交番の前には人間がまつ黑に集まつてゐた。交番の窓硝子は埃で霞んでゐたが、内部には一人の巡査と、譯のわからない男が煮えきらない姿勢で立つてゐた。二人は何か頻りに話をしてゐる模樣なのだが、何時まで經つても同じやうな話をしてゐるらしく、黃色い硝子越しに、二つの唇があぶあぶと動いた。そのうちに、譯のわからない男の方が、白い齒を見せて笑ひ出した。すると、その口のまはりに一杯生えてゐる眞黑な鬚までをかしさうになった。今迄じつと窓の方に集中してゐた人間達の眼は、それをきつかけに、この時ばらばらになつてしまつた。[やぶちゃん注:「拇」はこの場合は「おやゆび」(親指)ではなく、「および」と読んで、手の指総ての意であろう。「疏」「まばら」。「吻と」「ほつと(ほっと)」。]

 交番の角からは、二つ盛場の出口に群がつてゐる、カフエーやバアのネオンが間近かに見えた。俊がその方角へ引寄せられて、ふらふらと進むにつれて、思ひがけない處から暖簾を割つて、銀杏返の首がぼつかりと現れたりした。そんな首は、どれもこれも同じやうで、俊が生きてゐた頃見たのと殆ど區別がつかなかつた。と、思ふと蓄音器商の店頭から電氣蓄音器が突如、大砲のやうに鳴り出し、それが直ぐ隣のミシン商の硝子坂にビリビリと震動を與へてゐた。

 俊が中學時分から死際まで繁々と行つたことのある、契茶店の燈が見えて來た。そこの壁には俊の友達が描いた油繪も掲つてゐるし、俊はそこの椅子の、どの邊によく腰掛けたかもまだ憶えてゐた。俊はのこのことその喫茶店の硝子扉のところに立ち、金文字の上からそつと内部を覗かうとした。その時、すつと扉が開かれたので、俊はひとりでに内部に這入つた。すると、非常な雜沓ぶりで、どの卓にも人間が四五人づつ集まり、匙や茶碗を持上げたり、大理石の肌を撫でたりしてゐたが、扉が開くと同時に、大概の人間の眼が一度そちらを向いた。人間は絶えずそはそはしながら、卓と卓ではお互に相手を觀察し合つたり、或は特にあたりの人間に聞かすために何かを聲高く喋つてゐるのであつた。俊は空いてゐる席を求めて、次第に奧の方へ這入つて行つた。すると一番奧の卓に、さつき見失つた筈の慶ちやんとその細君が控へてゐた。ふと、細君は眼を虛空に凝しながら、さながら俊の姿が見えるやうな顏つきをした。細君の眼には、ちらつと會釋の微笑が浮んだ。俊は慶ちやんの前のたつた一つ空いてゐる席をぢろぢろ見やつた。すると俊の後からやつて來た婦人が、忽ちその席に腰を掛け、細君に對つて大聲で笑ひ掛けた。俊は虛しくそこを立退いて、壁の方へ立つた。中央にあるストーブは盛んにかつかと燃えてゐた。側にゐる男の頰にその赤い火の反射が映つて、まるで燒かれてゐるやうだつた。その男は時々、コツプの水を飮み、ふわつと頭を搖すつた。その隣には、たしかに醉ぱらひらしい親爺と、睡むたげな子供がゐた。子供はどうかすると、とろとろと眼を塞ぎかけ、ハツとしてはアイスクリームを砥めた。親爺は獨りで痛快さうに、あたりを見𢌞してゐた。何時まで經つても俊には憩へさうな席が見つからなかつたので、俊はそろそろと出口の方へ彷徨つて行つた。外から人間が這入つて來たのと入れ違ひに、俊は扉を潛つて、往來へ出た。

 俊の左と右には盛場の入口が控へてゐて、正面には遠くなるほど寂れて行く路があつた。俊は暫く躊躇つてゐたが、足は何のつもりか左側の盛場へ踏込んで行つた。そこのアスフアルトは、あんまり人が步くために、ところどころ窪んでゐて、もう夜更けの風が白々と吹いてゐた。玉轉の臺には、今も二三人の若衆が海豹のやうにくつついてゐた。その奧の方には若い女が平べつたい姿でぽつねんと坐つてゐて、柱時計がチクタクと鳴つてゐた。隣の射的場から、プツンと彈を打つ音がした。すると、棚の招き猫の掌が陀しく光り、達磨の眼玉が黑々と窪んだ。[やぶちゃん注:「躊躇つて」「ためらつて(ためらって)」。「玉轉」「たまころがし」。玉突き(ビリヤード)。「海豹」「あざらし」。]

 映畫のハネた映畫館が死骸のやうに聳えてゐた。その飾窓の燈も消されてゐるので、黑い背景に貼られた七八杖の寫眞が薄すらと眺められ、綠色のリボンが棺の上の飾りに似てゐた。俊はその窓に近寄つてはみたが、眞鍮の手摺は冷々として、幟がハタハタと風に動くばかりだつた。しかし、そこを通り過ぎると、向ふは盛場の端にあたつてゐたが、急に左右の軒からネオンとレコードが汎濫して來た。きやあ、と鳥類に似た女の聲や、はははは、と胴間な笑ひが路傍まで彈け出してゐた。さうして、この騷々しい軒のなかにも、一軒の小料理屋の硝子函のなかでは、鰻がぬらぬらと泳いでゐるのだつた。薄暗い玻璃の表は、むかふの軒のネオンがくるくると𢌞るのを映したり、路上に食み出した女給の衣裳の妖しげな模樣を映してゐた。さつきから、一人の背廣服の人間がその小料理屋の前で女給とむかひ合つて、何か立話をして居るのだつたが、あたりの雜音のために、その二人の人間は大變重大なことを相談し合つてゐるやうな印象を與へた。さうして、俊が彼等のところまで辿りついた時、恰度二人はもう相談が濟んだものとみえて、背廣服の男は靴の踵をカタカタと鳴らしながら、落着きのない姿で步き出した。

 盛場の殷賑も、其處であつけなく盡きて、路は細く薄陪い小路に出てゐた。左手には白い壁の見えるお寺があり、そのお寺のむかふの空が蜜柑色に見えるのは、色町が控へてゐるしるしだつた。薄暗い小路を人間の影は白い息を吐きながら、ひそひそと、或は思ひきり躁いだ調子で、その色里の方向へ流れて行くのだつた。俊はしかし、それとは逆の方向へ、ゆるゆると進んで行つた。その狹い路は、一度アスフアルトの廣い通りと交錯すると、今度は更に幅が狹くなつて、もし兩手を擴げれば、左右の軒に屆きさうな處へ出た。そこは半町向ふに見える、徒廣い電車通に對つて、七八軒の屋根が額を寄せ合つて顰蹙した表情を呈してゐた。さうして、薄暗い、凡そ華やかでない喫茶店と酒場が、七八軒の人家の中央に向き合つて存在してゐた。酒場の方はそれでも、微かに内部に綠色の照明を用ひて、情緒を釀し出さうとしてゐるらしかつたが、不思議なことには、オルガンの音がそこから洩れて來た。今迄、俊の周圍には絶えず人間の往來があつたが、此處まで來ると、ぽつんと人足も消えてゐたので、洩れて來るオルガンの音は、はじめ侘しい吐息か何かのやうに想はれた。が、耳に入るメロデイは何處かの大學の應援歌であつた。俊の眼にはむしろ契茶店の燈が映つた。その燈は、半紙を貼つて作つた四角の雪洞に、もものはな、と云ふ文字を滲ませてゐた。[やぶちゃん注:「殷賑」は「いんしん」でもよいが、ここは「にぎはひ」と訓じておきたい。「雪洞」「ぼんぼり」。]

 俊は紅のカーテンを潛つて、半間の入口から、その家へ足を蹈込んでみた。ひつそりとした内部には、三方の隅に小さなテーブルがあつたが、誰も居なかつた。中央の煉炭ストーブに掛けられた、アルミの藥鑵がしゆんしゆんと呟いてゐて、白い湯氣が白く塗られた天井へ立昇つてゐた。俊はストーブの脇にある小さな椅子に腰を下した。俊のすぐ側の椅子の上には編みかけの毛糸の束が無造作に置かれてあつた。俊は吻としたやうに、兩手を伸して、ストーブの上に翳した。奧の方もひつそりとしてゐて、向ふの酒場で彈くオルガンの音ばかりが侘しく續いた。俊はそろそろと眼を擧げて、壁の方にあるペンキ塗りの柱を眺めた。白いペンキの光は電燈の光に慄へてゐるやうだつたが、その柱の中央には何のためにか二本程、釘が打込んであつた。錆びて歪んだ釘は、今不思議な影をもつてゐた。俊はそれを何時までもぼんやり視凝めてゐた。暫くして、俊がほつとその釘から眼を外した拍子に、入口の方から何かが、そろつと這入つて來る氣配がした。それで俊が向きかはると、相手は意外にも死んだ渡邊だつた。渡邊もいささか愕いたやうな風で、しかし直ぐにニコニコと笑ひ出した。

「やあ、今晩は」と俊は云つた。

「君もここへ來てたのか、今晩は夷子講で、何處も人間で滿員だつたよ」と渡邊は俊の脇に腰掛けた。[やぶちゃん注:「夷子講」「えびすこう」。十月二十日(地域によっては十一月二十日)に催される祭礼。商売繁盛を祈願する。]

「フフフ」と俊は無意味に笑つた。

「フフフ」と渡邊もついて笑つた。暫く話が杜絶えた。ふと、俊は思ひ出したやうに口をきいた。

「隨分久し振りだね」渡邊はニコニコ頷いた。

「君が死んだのは何時だつたかしら」

「もう今年で三年になる」と渡邊は感慨深かげに答へた。

「さうかね、もう三年になるのだつたかね、してみると君の家へ何時か夏の晩僕が訪ねて行つたのは、あれはもう七八年位昔のことになるね」と俊は呟いた。

「あゝ、あれは君、君が死ぬる前の年の夏ぢやないか、あれから僕はまだ五年も生きてたんだよ、尤も僕だつてあの頃からもう駄目だつたのだが、君があんなに早くまゐるとは思はなかつた」

「うん」と俊は頷いた。

「それで、君が死んだ時には、君は知つてるまいが、君の親しい友達は、俊の野郎は意氣地無しだ、と云つたよ」

「そのことは知つてる」と俊は云つた。「しかし僕は何も態と死んだ譯ぢやなかつたね。君だつてさうだらう」

「うん」と渡邊は頷いた。「僕が死んだ時はもうそんなことを云ふ人間もゐなかつた。みんな年寄になつたのだね」

「フフフ」と俊は笑ひ出した。「さう云へば、今夜慶ちやんと逢つたよ、大將も到頭結婚して、とても幸福さうだつたよ」

「あ、あれなら僕も見た。あの男、齡はいくつ位なのだらう」

「さあ、僕が生きてた頃もう三十近かつたやうだね」

 それきりまた話は暫く杜切れてゐた。オルガンの音が喧しかつた。

「君は每晩ぶらぶらしてるのか」と俊が訊ねた。渡邊は首を橫に振つた。

「よく此處へは來るのかい」と今度は渡邊が訊ねた。

「いや、今夜が始めてなのさ」

「フフフ」と、渡邊は笑つた。

「オルガンが鳴つてるね」と俊は呟いた。

「あ、あちらの酒場へ行つてみようか」と渡邊は輕く立上つた。

「いや、人間の居るところはうるさい」と、俊は動かうとしなかつたので、渡邊もまた腰を下した。俊と渡邊はストープを取圍んでぽかんとして居た。

「君は靑木て男識つてたかね」と、俊は憶ひ出したやうに云つた。

「あ、何時か君と一緒にやつて來た男だらう」と渡邊は頷いた。

「あの男もこの頃になつて、僕のこと頻りに憶ひ出したりなんかしてるらしいのだよ」

「フフフ」と渡邊は笑つた。

 恰度、その時、露次の方に忙しさうな跫音がして、カーテンが開くと女が二人、這入つて來た。二人の女はそれぞれ籠と手拭を提げてゐて、手足に錢湯の匂ひを漾はせてゐた。ぴんぴんと身體を動かせながら、ストーブのまはりを一寸の間、踊るやうに𢌞つてゐたが、やがて側の椅子に腰を下した。一人がふいと袂から、いきれの立つ紙袋を膝の上に置き、指でさあつと新聞紙を裂くと、なかから燒芋が出た。すると二人の女は素早く手摑みにして、ふうふうと吹きながら唇へ持つて行つた。暫くは賑やかに唇を動かす音と呼吸とが續けられた。が、そのうちに一人の女は膝の編物を執ると、せかせかと編み出した。すると、もう一人の女もそれを視凝めながら、何かせかせかと落着かぬ眼つきをしてゐた。

「今夜はもう誰も來ないかしら」と、落着かぬ女は到頭呟き、それから唇をあけて、ほつと缺をした。[やぶちゃん注:「缺」「あくび」。底本は「欠」。]

「ああ、睡むくなつた、今夜は大分冷えるわね」と、その女はまた獨言ちた。[やぶちゃん注:「獨言ちた」「ひとりごちた」。]

「大分冷えるね」と、今迄默つてゐた渡邊が俊に云つた。

「煉炭がもう消えかかりでせう」と、編物をしてゐる女は云つた。

「成程、ストーブも滅入つて來たね」と、俊は云つた。さつきまで鳴つてゐたオルガンも、その時ぴたつと歇んでしまつた。

「靜かだな」と渡邊は云つた。「かうして、女達を眺めてゐると、僕はまだ生きてるのぢやないかと疑はしくなるね」

 すると、落着かない女が呟いた。

「ああ、何だか變に淋しくなつて來た、誰だかすぐ側に男がゐるやうな氣持がして、何だか今晩は變な晩だわ」

「フフフ、馬鹿ね」と、編物をしてゐる女は一寸笑つた。俊はそつとその女を視やりながら云つた。

「女の笑顏て氣持の惡いものだね」

「わーと云つて、お化けになりさうなのか」と、渡邊も笑つた。すると編物をしてゐる女は急に、

「あははは」と笑つた。

「まあ、びつくりさすぢやないの、氣でもちがつたの」と、相手の女はビクビクしながら、不安な目つきであたりを見𢌞した。

「あははは、もうおしまひにしよう。睡むり睡むり編んでたら、とても變になつちやつたわ」と、編物をしてゐた女は立上つた。そして、奧の方へ行き帚とバケツを持つて來た。そこで、もう一人の女も、そはそほと立上つた。

「歸らうか」と、渡邊と俊とは同時に一つことを云つて立上つた。

 露次に出ると、もう前の酒場の燈も消されてゐた。渡邊と俊は竝んでそろそろと步き出した。兩側の家はみんなもう戸を下してゐて、門燈の光が路上に冴えてゐた。少し行くと、葉の散つてしまつた柳の大木が、路上に蹲つてゐた。

「まあ、お互に身體を大事にしようね」と、俊は無意識に呟いた。

「フフフ」と渡邊は笑つた。

 二人は何時の間にか電車通まで來てゐた。電車通を隔てて、向ふに在る小學校のトタン屋根は、夜露に濡れて光つてゐた。

「さて、君はどちらへ行く」と渡邊は訊ねた。俊は今來た道の方を頤で指差した。

「ぢやあ、ここで別れよう」と、渡邊の姿は電車通を越えて、もう小學校の方へすつと消えて行つた。

 俊が今來た道を後歸りして行くに隨つて、路は妖しく煙つて朦朧と現れて來るのだつた。そして、一步一步俊が空間へ進んで行けば、冷えた固い地面と兩側の家屋の影が確かにはつきりと現れては來るが、俊の通り過ぎた路は忽ちまた妖しく煙つたもののなかに紛れ込んでしまふ。さつきの契茶店の前まで來ると、もう入口には木の戸が嵌められてゐて、白い半紙で作つた雪洞の燈も消されてあつた。それで、もものはな、と云ふ鉛色の文字が門燈の光で味氣なく照らされてゐた。そこの狹い通りはやがてアスフアルトの路と交錯してゐたが、その角の電信柱まで來て、俊がひよいと顏を橫に向けると、一列に竝んだ電柱の群が、一瞬ずらりと無氣味に現れた。俊はなほも眞直ぐに道をとつて、細い小路を突き進んで行つた。何かガリガリと云ふ音がするので、眼をやると、掃溜に首を突込んでゐた犬が、ひよいと俊の方を見た。烈しい眼つきをした、その犬は、しかし、また直ぐに首を掃溜のなかに突込んだ。ガリガリといふ音が遠ざかつて、なほ暫くは聽えた。盛場の入口が現れて來た。入口の上に針金を渡して吊つてある、ペンキ塗りの廣告板が、風にぶらんぶらんしてゐて、かなり剽輕な表情だつた。さう云へば喧嘩の果て、今、白痴と化して睡つてゐる兩側の酒場も俊の眼には入つた。どの軒も板で造つた戸を入口に嵌めたり、黑いカーテンで扉を隱したりしてゐた。窓の外に糸杉の鉢を置き、窓側の壁を天然岩になぞらへてゐるのも哀しさうだつた。[やぶちゃん注:「剽輕」「へうきん(ひょうきん)」。「喧嘩」はやや違和感がある。或いは「喧噪」の誤記・誤植かも知れぬ。]

 俊は今、人間の影の一つも見えない盛場の凹みへ出た。映畫館は依然として片側に置かれてあつた。その大きな棺を想はす空洞の建物の後には、靑磁色の空が展がり、綠色の星が瞬いてゐた。ふと、俊の眼には、建物の影が取殘した、アスフアルトの眞白い部分が映つた。其處をちよろちよろと何か小さな黑い塊りが動いてゐるのは、人間が吐き捨てて行つた汚れた米粒に集まつてゐる鼠だつた。やがて俊は射的場の前に來た。すると、奧の方から、ぷつんと時計が鳴つた。俊は盛場の出口まで辿り着き、向ふの盛場の入口が目の前に現れた。其處から誰だか見たことのあるやうな男が、背後に貧しい照明を浴びながら、ふわふわと出て來た。ふらふらとトンビの兩袖が無性に搖れてゐて、その男は自分で身體が自由にならないらしい。顏は濛と煙つてゐて、トンビの兩袖と一緒にふらふら搖れた。俊とその男の距離は次第に接近して來た。たしか見憶えもある筈で、その男はさつき夷子講の人混みで、俊の前にのさばり出た古トンビだつた。古トンビは今俊の前に衝突しさうになつた。俊がひらりと身を避けた拍子に、その男は雄雞のやうに蹣跚き出したが、下駄から足が滑ると同時にくるりと一𢌞轉して、路上にべつたり倒れた。倒れたかと思ふと、ウエへへへへと腸をちぎるやうな狂笑を發した。それから何かぶつぶつ獨りで呟いてゐたが、直ぐにぐうぐうと睡り出した。そこで、俊はその男の脇を通り拔けて、行きつけの喫茶店の前へ出た。そこの軒の看板には、ぽつちりと白い小さな電球がいくつも嵌められてゐたが、それはよく視ると、風車の形になつてゐるのだが、ところどころ電球が缺げた儘になつてゐるのだつた。俊はそんなことを今になつて氣づいたので、變な氣持がした。[やぶちゃん注:「雄雞」「をんどり(おんどり)」。雄鶏。「蹣跚き」「よろめき」。「缺げた」底本には「げ」の右にママ注記がある。]

 やがて、火見櫓のある交番の背が見えて釆て、そこのアスフアルトの通りを今緩い速度で黑いものの影が移つて行つた。俊がその通りまで來た時、黑い列は既に遠ざかつてゐたが、もーう、といふ牛の聲がまだ向ふで聽え、彼等の殘して行つたいきれがまだ少し漾つてゐた。俊は胡神社の方へふらふらと進んで行つた。もう人間のいきれは何處にもなかつた。花崗石の鳥居の肌は靑白く、急に丈が低くなつてゐるやうに思へた。そこから見える境内も狹く貧弱で、あんなに澤山の人間を吞吐したものの姿ではなかつた。太鼓が拜殿の脇に裸でころがつてゐた。煙草屋の角まで來ると、針金で吊された路上の電球は、一樣にもう消されてゐた。路の上には熊手から落ちたらしい、夷子の面が泥まみれになつて裂けてゐた。そこにはまた新聞紙の破片や、繩屑などが時を得顏に散亂してゐた。[やぶちゃん注:「胡神社」「えびすじんじや(えびすじんじゃ)」。もし、私が冒頭注で候補として挙げた広島県広島市中区の新天地地区がロケーションであるなら、同地区の北、広島県広島市中区胡町に胡子神社がある。(グーグル・マップ・データ)。]

 左右の商店はみんな戸を下してゐたが、不圖、むかふの料理屋のところには、變な女が瞬もせず立つてゐた。近づいてみると、それは木で造つた人形であつた。人形の手は燈の消えた奧の方を指差してゐるので、俊は何氣なしにその奧の方に眼を向けた。するとその時、俊の後から自動車が慌しくやつて來た。自動車のなかに乘つてゐた、影のやうな人間も、ちらりと人形の指の方を眺めたらしく、一瞬ぼやけた顏が窓硝子に白く浮んだ。間もなく左手に盛場の入口が見え、俊の正面には暗い通りの入口が近づいて來た。暗い通りの軒下では、今赤い火の粉がちらちらと亂暴に立騰つてゐた。そこに、綠色の燈を點けた蕎麥屋の車が停められてゐて、その脇で二人の男が竝んで饂飩を食つてゐた。薄闇のなかに饂飩の白い姿ばかりがつるつると動いてゐて、食つてゐる男の顏は湯氣で暈されてゐた。俊がそこの曲角まで來た時、まだ向ふの隅では男達が饂飩を吞込んでゐた。俊はそこから、鈴蘭燈の竝んだ商店街の方へむかつて進んで行つた。そこにはもうすつかり人間の影が無くなつてゐて、白つぽい路と兩側の家が遠くまで見渡せた。が、戸を立ててゐる一軒一軒の家が、今度は何だか人間の顏に似てゐるのであつた。と云ふより、街全體がやはり人間のかはりに眼を開けてゐるらしいのだ。俊はそのなかを進んで行くうちに、どうも次第に步みが前よりか速くなつて來た。大きな看板のなかにゐる、頰の紅い女や、靑い鬚をした紳士達が軒の上から空洞な道路を放下してゐるのだが、彼等の眼の色は奇妙に活々として來た。また、三等郵便局の前に在る赤いポストなども、今は思ひきり判然と存在を見せてゐた。かと思ふと、電信柱の上に在る白い磁器の碍子までが、人間の眼球に似てゐた。俊は何時の間にか、そこの通りと交錯してゐる電車の軌道まで來てゐて、右手には練兵場の入口の闇が、左には氏神神社の闇があつて、軌道はそのなかを貫いてゐるのだつた。軌道を渡ると俊はまた商店街の續きに這入つた。さうすると、路は少し彎曲して來たが、もう向ふには橋がある徴(しるし)に、冷たい氣流がぞくぞくと辷つて來るのだつた。[やぶちゃん注:「三等郵便局」地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供して貰い、郵便の取り扱い事業を委託する形で設置された郵便局。現在の特定郵便局の前身。]

 やがて、角にある郵便局と呉服屋が見え、そこから橋の燈が續いてゐた。俊は石の欄干に添つて、次第に橋の中央まで進んで行き、大きな石の柱まで來ると、そこに立留まつて、眞下の方へそつと顏を覗かせてみた。橋の下の水は眞黑だが、橋から少し離れたところは、茫とした白つぽい燈のために、水の動きがよく眺められた。波の黑い背筋に乘つてゐる、細い燈りは針金細工のやうに凍えたまま搖れてゐた。その邊を眺めてゐると、後から後からやつて來る水のために、俊は橋に立つたまま、後の方へずんずん流されて行くやうな氣持がした。かうした氣持は何も今夜に始まつたことでもなかつた。隨分子供の時から、そこの橋に來ては俊は立留まつた。子供の時には確か橋の左側の方の家の壁に、小倉の袴を穿いた小學生と、葡萄茶の袴を穿いた女學生の看板が掛つてゐた筈だつた。さう云へば、ここの橋も何時頃から石で造り變へられたのだつたか、以前は秋の洪水でこの橋がよく押流されたものだつた。俊は中學を卒業して上京する前の晩、ここに立つたのを憶ひ出した。今、兩側の家はみんな黑く睡つてゐて、ところどころに燈が點ぜられてゐた。その燈は遠方になるほど微かであつたが、微かな燈ほど氷のやうに凝結してゐた。俊の背後からは風が頻りに吹いて來た。ここからは夜の空が廣々と眺められた。空には澤山の星がてんでに冴えてゐた。俊は反對側の欄干へ今度は身を寄せてみた。そちら側は上流になつてゐるので、遙か遠方の山脈が半輪の月に照らされて、靑黑い姿で浮出してゐた。

 

« 原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 始動 / 幻燈 | トップページ | 更新停止 »