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2017/12/24

千葉寒川   原民喜

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年十月号『草莖』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 「千葉寒川」現行の住居表示に従がうなら、「さむがわちょう」と濁る。なお、次注も参照のこと。

 「荒木山」現在の千葉公園内の南端。(グーグル・マップ・データ)。この地図の中央付近(当時の所番地は千葉市登戸(のぶと)町二―一〇七。現在、千葉市中央区登戸)に民喜と貞恵は住んでいた(昭和九(一九三四)年初夏に淀橋区(現在の新宿区)から転居後、昭和二〇(一九四五)年一月末に兄の住む広島市幟町に疎開するまで。貞恵は昭和一九(一九四四)年九月に亡くなっている)と推定される。「寒川」は現在はここよりも南西へ二キロメートル以上離れた地区名として残るが、恐らくは当時はこの辺まで含む広域古称であったものと推定される。

 「荒木大尉」陸軍軍人荒木克業(かつなり 明治四〇(一九〇七)年~昭和七(一九三二)年)。熊本出身。最終階級は工兵中尉、死後、大尉。ウィキの「荒木克業によれば、一九三二年九月二十七日、『満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文』(そへいぶん)『少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり』、『満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した』(ホロンバイル事件)が、『関東軍は交渉を打ち切り、ただちに第十四師団にこの東北民衆救国軍の撃退と邦人救出を命じた。第』十四『師団には鉄道第』一『連隊の第』二『中隊および材料廠の一部が隷下に組み込まれ、列車追撃隊を編成した。荒木大尉は小隊長としてこの列車追撃隊の先頭となり』、十二月一日、『九一式広軌牽引車』二『両をもって斉斉哈爾』(チチハル)を出発し、道中、『無数の破壊線路を修復しつつ』、『満州里へと向かった』。十二月三日午後三時十五分、『大興安嶺隧道東麓環状線路交叉点のループ線下側東方約』二百『メートルにさしかかるころ、上方より敵の攻撃を受け、橋梁(全長』十七『メートル)が損傷。追撃隊は直ちに敵を排除し、橋梁を修復した。すると』、『山上の敵は』さらに『石塊を満載した車輌』三『輌を列車追撃隊に突放した。荒木は装甲単車を後退させると』、『部下』四『名とともに』、『すかさず』、『下車し、橋梁前方に』二『個、後方に』一『個の脱線器を取り付けた。だが』、『荒木は部下を後退させ』、『一人』、『脱線器の装着具合を確認していたため』、『退避が遅れ、脱線した貨車の落石を受け』、『死亡した。追撃隊は』十二月六日午後一時三十分に『満洲里に到着。戦力を失った蘇はソ連へと亡命し、監禁中の邦人は全員救出された』。『死後、この功績を称え、関東軍司令官武藤信義大将より鉄道兵初の個人感状が授与された』。『死後、荒木は満州事変における英雄として祭り上げられ、特に地元・熊本県では浄瑠璃や浪花節にも取り上げられた』。『また、鉄道第一連隊の敷地内で連隊のラッパ手の訓練が行われていた小高い丘に、殉職した荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され』、昭和八(一九三三)年、『荒木山公園として整備された。「工兵の歌」の第』七『節にも』、『この荒木山が歌われている。 だが、銅像は戦争末期に供出されてしまい、敗戦によって荒木の名前も人々から忘れ去られてしまった。今では、千葉公園の敷地内にある「荒木山」の名前と台座にはめ込まれていたレリーフが残るのみである』とある。

 「登渡神社」(グーグル・マップ・データ)。千葉家末裔登戸権介平定胤が祖先を供養するために正保元(一六四四)年に創建した白蛇山真光院(通称は登戸妙見寺)の妙見大菩薩を創始したのが濫觴とされ、慶応三(一八六七)年に登渡神社に改名した。

 本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月24日 藪野直史】]

 

 

 千葉寒川

 

 荒木山。私の家から荒木山まで二三十分で行ける。麓から上へ登るには三分位である。山上には荒木大尉の銅像がある。今年の一月五日の午後、私は行つてみた。途中の畑道は固く凍ててゐたが、冬晴の空に魚型の氣球が一つ浮いてゐて、麥は丘に煙つてゐた。藁を被せた畑があちこちにあつた。二人づれの子供がひそひそ笑つて向ふからやつて來たが、見ると、一人は生きてゐる鳩を兩手で經握つてゐた。山の麓の邊は畑と路とが紛らはしくなつてゐて、麥の芽が、下駄で蹈み躙られてゐた。荒木山獵犬飼育所と立札がある空地の方へ道入つてみると、金網張の犬小屋があり、箱のなかにゐた黑い犬が急に飛出して金網へ這ひ登つて來た。銅像のところから下を見下ろすと、小さな沼があつて、枯尾花が白く光つてゐた。

 海岸。海岸へは五分位で行ける。去年の九月三日の夜、私が外へ出ると、軒每に御神燈が點されてゐて、暗いアスフアルトの國道も少し人通りがあつた。登戸神社の祭なのだつた。海岸へ來てみると、海は曇つた夜空と溶け合つてゐて、茫とした闇だつた。その闇のなかに二つ三つ、微かに白い線が浮んでゐるのは、捨小舟だつた。

 

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