原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 棉の花
棉の花
十歳の時の夏、構造は川端の小母の家で暮した。小母は夕方、構造を連れて畑のなかを通つて、或る家の風呂へ入らして貰ひに行くのだつた。湯氣で上氣した小母の顏が湯氣の中の電燈と一緒に彼の瞳に映つたりした。歸りは月が出てゐて、畑には棉の花が咲いてゐた。
或る日、母が來て、久し振りで見た母の顏は懷しかつたが、もういい加減で家へ歸らないかと誘ひ出すと、構造は顏を顰めて駄々を捏ねた。それを二人の女は面白いことのやうに笑つた。
今度東京を離れて千葉海岸の借家へ移ると四坪の庭と風呂桶が附いてゐた。それで風呂桶を買つて据ゑ、庭には何か蒔かうかと思つた。何時か妻が棉賣りから棉を買つた時、一つまみの棉の種を貰つたのを想ひ出した。彼はそれを尋ねてみた。しかし、妻は割烹着のポケツトのなかに、いろんな書きつけなどと一緒に入れてゐたのだが、何處へやつたのかもう憶ひ出せなかつた。
[やぶちゃん注:後半は原民喜の事実に即すと考えられ、とすれば、時制は千葉市登戸(のぶと)へ転居した昭和九(一九三四)年初夏と考えてよい。]
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