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2018/01/31

エウラギシカ・ギガンティアの生態映像

南極の海底にしか棲息しないゴカイ目ウロコムシ科のエウラギシカ・ギガンティア Eulagisca gigantea の生態映像!  これは凄い! 如何にも不気味なエイリアン型の数個の標本しかないが、これは、何と美しいことか!

芥川龍之介 手帳12 《12-1》

 

手帳12

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波書店の新しい「芥川龍之介全集」の第二十二巻(一九九八年刊)で始めて全集内資料として活字化されたもので(同巻の「後記」によれば、最初の紹介は一九九七年九月発行の『山梨県立文学館館報』第三十号の井上康明氏の「芥川龍之介の手帳」で、そこでは先行する「手帳1」「手帳10」も併せて紹介されている、とある)、旧全集には所載しない手帳で、僅かに、旧全集「手帳一」の最後に《12-4》が紹介されていることから、この手帳は旧全集編者によって確認されていたが、何らかの理由によって活字化出来なかったことが判る。当時の所有者の許諾が下りず、全部を確認することが出来なかったか、或いは、これが最も可能性が高いと私は思うのであるが、内容から見て、あまりに断片的な記載が多いこと(他の手帳に比して確かにそうは言える)、終りの方が当時の個人の住所録で、公開した場合、或いはプライベートな問題が生ずる可能性があった(今でいう個人情報の問題も含む)こと等から、活字化を見送ったものとも思われる。

 現在、この手帳は山梨県立文学館が所蔵しており、東京電力株式会社の大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてあるとある(と言っても、古いそれを彼がメモ書きに使用することはあるから、この書誌データによっては、単にそれ以降の使用と言うだけの上限を知るに留まる)。

 底本は無論、新全集の当該巻を使用したが、例によって恣意的に漢字を正字化して、原資料の形に近づけて活字化し、底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示したが、それが著しく困難な箇所があり(具体的には《12-3》(この記号は後述する)パートのチャート部分)、そこに関しては、新全集のその部分だけを画像として読みとって、トリミングして示すこととする(但し、それは新全集の編者によって完全に描き直されたものであるから、画像としての著作権を云々されるかもしれない。万一、そうした指摘を受けるようであれば、完全に私が手書きで書写した画像に差し替えようとは思う)。また、芥川龍之介自身の描いたデッサン(手書き地図一枚を含む)が四葉あるが、これはそのまま画像としてトリミングして当該箇所に表示する。既に、今までの手帳でもそれは行っているが、パブリック・ドメインの描かれた絵を完全に平面的に複製しただけのものには著作権は発生しないというのは文化庁の公式見解であるから、これらについては全く問題はない。

 新全集の「見開き」部分については各パートごとに《12-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は■で示した。私の注については、白兵戦の各個撃破型であるからして、叙述内容の確かさの自信はない。

 新全集の「後記」では、本「手帳12」の記載時期に就いては、大正五(一九一六)年から大正七(一九一八)年頃の閉区間の推測がなされているが(根拠は記されていない)、下限の閉時期は記載内容と「龍」脱稿等との関連から私にはやや不審である(鷺只雄氏の推定では「龍」の脱稿は大正八年四月二十四日頃である。因みに、そこでは本手帳内の記載で関わる作品で公開作としては「猿」(大正五(一九一六)年九月『新思潮』発表)、「道祖問答」(大正六(一九一七)年一月『大阪毎日新聞』)・「偸盜」(同大正六年四月及び七月『中央公論』)・「軍艦金剛航海記」(同大正六年七月『時事新報』)・「枯野抄」(大正七(一九一八)年十月『新小説』)、「龍」(大正八(一九一九)年五月『中央公論』)が、未定稿としては「BEAU(「道祖問答」の草稿。「BEAU」は「ボォウ」で、「洒落男・婦人の相手役となる男・恋人・ボーイフレンド」のこと。もとはフランス語の「美しい」の意)「東洲齋寫樂」が挙げられてある。また、そこでも言及されているが、《12-10》の曜日と時間と人名、及び『Syntax』(構文)とか『Prosody』(作詩術・韻律法)というメモは明らかに、横須賀の海軍機関学校教官(教授嘱託・英語)当時の即時的メモランダである。因みに、芥川龍之介が海軍機関学校に就任したのは大正五(一九一六)年十二月一日で、航海見学で軍艦金剛に乗艦して横須賀から山口県由宇まで行ったのが、大正六(一九一七)年六月二十日から二十四日、彼が厭で厭で仕方がなかったこの教職を退いたのは大正八(一八一九)年三月三十一日(最後の授業は三月二十八日)であった。]

 

 

《12-1》

○日本橋盡し 播州室津

[やぶちゃん注:「日本橋盡し」ありそうな書名なのだが、不詳。ただ、個人サイト「日本紀行の「室津街道を見ると、この地に「友君橋」という橋があり、この橋の名は室津の伝説的遊女の一人「友君」に因むらしく、そこには、彼女は『木曾義仲の愛妾で』あった『山吹御前』という伝承があると書かれている。しかし、芥川龍之介がこの橋を考えてメモしたのかどうかは定かではない。「日本橋盡し」という本、どなたか知らんかえ?

「播州室津」「ばんしうむろつ(ばんしゅうむろつ)」は現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ)で、播磨灘に面する港町で漁港。(グーグル・マップ・データ)。港町として約千三百年の歴史を持ち、奈良時代、行基によって五つの港が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。万葉以来の歌枕で、古くから多くの文人墨客を魅了し、井原西鶴は処女作「好色一代男」(天和二(一八六二)年刊)で遊女の発祥地と謳い上げ(「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま國々になりぬ」)、近代になっても竹久夢二(当地の旧木村旅館の女将をモデルに「室の津懐古」を描いている)・谷崎潤一郎(室津の遊女伝説をもとに「乱菊物語」を書いている)らが訪れてここを舞台とした作品を執筆している。日本紀行の「室津街道を参照されたい。]

 

 

○東都名所 永代橋儡

[やぶちゃん注:「東都名所」葛飾北斎に「東都名所一覽」はあるが、「永代橋」の絵は載らぬ。どうも下の画題らしきものが気になる。「儡」はどう見てもおかしい。どう見ても誤字だ。何の誤字かと言われりゃあ、永代橋なら佃島よ! さすれば、これ、私の好きな一枚、歌川広重の「名所江戸百景」(安政四(一八五七)年板行)の「永代橋佃しま」のことではあるまいか? (国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)だよ! これ!]

 

○江戸名所 兩國花火

[やぶちゃん注:これもねぇ、おらのとっちゃあ、広重の「名所江戸百景」の「兩國花火」なんだけどなぁ! これ(国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)よ! これ!]

 

○木曾路の山川}

       }三枚續二色

 金澤八景  }

[やぶちゃん注:「木曾路の山川」これも多分、歌川広重の同じく安政四年の三枚続きの「木曽路之山川」(雪月花之内 雪)じゃあねえかなぁ! れ!(「文化遺産オンライン」)

「金澤八景」前がそれとなりゃ、もう! 同じ広重の同じ「雪月花之内」の「月」の、「武陽金沢八勝夜景」でゲショウ!! さ!(同じく「文化遺産オンライン」)]

 

○類書東海道 中版東海道

[やぶちゃん注:「類書東海道」というのは「東海道」を題に含んだ東海道の名所を辿った厖大な類書類(小説化した滑稽本などは含まないが、名所記以外に浮世絵は含む)のことではないかと思う。

「中版東海道」これは歌川広重の浮世絵木版画の連作「東海道五十三次」の「中版」であろう。同題のものは他作家のものも一杯あり、広重のものだけでも実は三十種余りの木版画シリーズが作られ、大版・中版など、大きさやデザイン・枚数の多寡等、さまざまなものがあった。]

 

○京都名所 中ノ淀川の圖

[やぶちゃん注:う~~、これも、やっぱし、広重の「京都名所之内 淀川」のことやないかいなぁ? でお(国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)。]

 

芥川龍之介 手帳11 《11-10~11-17》 / 手帳11~了

《11-10》

Vertical relation

chemical interest ヨリモ mechanical interest ヲ多キ點ハ Majolica モ交趾も似たり Java の文字ある故――Java 住ノ支那人 交趾燒を造る(今泉説)されど交趾なる名の起りし why は説かず Hano? Annam 地方に Pottery Majolica ニ似タルもの多し 廣州(廣東)の石灣にも似たるものあり 然らばこの Pottery は僞にして Java にて支那人

《11-11》

の造りしを眞なりと云ふは question なるべし rather Java ハ後來

[やぶちゃん注:「ノ多キ點ハ」の「ヲ」は旧全集では「ノ」。その方が読める。

Annam」安南。

rather」寧ろ。]

 

○交趾も西洋傳來ならずやと思はる

○安南燒(信樂 明石)の存在(大土瓶等)(靑 or 黃に■手等をかけるもの)も安南の産たる事を示すならん icchin(?)を用ひて線を作る乎 これも ethching と關係ある乎

[やぶちゃん注:「安南燒」(あんなんやき)はベトナムの焼物の総称。小学館「日本大百科全書」より引く。但し、占城(チャンパ)国時代(一世紀~十七世紀末)の『焼物はこれに含めない。安南焼の安南とは、唐王朝がかつてこの地を治めていたとき、安南都護府を置いた』(六七九年)『ことに始まるが、今日では正式なベトナムの国名が使われ、安南と称することはなくなった。ベトナムで本格的な焼物がつくられるようになったのは、民族自立に目覚めた李朝』期の十二世紀頃からで』、『南中国の陶技を受けて、黄釉(こうゆう)陶、青磁、緑釉陶、黄釉褐彩陶などを焼き始めた。その後』十四『世紀になると、陳王朝下で新たに元』『文化の摂取が始まり、元様式の色濃い白磁、青磁、緑釉陶を焼き』、十四『世紀後半には、元時代に景徳鎮』『窯が創始した染付とよばれる下絵付磁器をいち早く導入』、『染付を焼造して』、『みごとな製品を世に送り出し、元様式直模(ちょくも)の一期を画した。この元様式は』十五世紀から十七世紀に至るベトナム陶磁の骨格をなしている』十五世紀には赤絵も工夫されたが、十七『世紀に入ると』、『隆盛も萎』『え、粗略な作風に堕したが、この時期に日本に輸入された多くの製品は、粗笨(そほん』:見かけが大雑把で粗雑なこと『)ゆえに茶人が尊ぶところとなり、俗に絞手(しぼりで)、蜻蛉(とんぼ)手とよばれる茶碗』『や水指(みずさし)をはじめとする茶具が多く伝存している』とあるから、本邦の「信樂」や「明石」には手本とするためのそれらが伝えられて現存している(していた)ということを指しているのであろう

icchin(?)を用ひて線を作る」これは陶磁器の装飾技法の一つである「イッチン描き(筒描き)」のこと。サイト「陶磁器お役立ち情報」の「イッチン描き(筒描き)の技法」によれば、「イッチン」はチューブ型若しくはスポイト型の筒を指し、泥漿(でいしょう:粘土を水で熔いたもの)や釉薬をこの中に入れて絞り出すための道具である。『イッチン描きとは、その筒に入った泥漿を作品に盛り付ける装飾技法のことで』、『平らな器面に絞り出した泥をつけると、その部分が盛り上がって模様とな』るようになっており、『粘土を水で熔いた泥漿のほか、釉薬を』そのまま『イッチンで使うこともよくあ』るとある。『イッチン描きは材料を筒に入れることから「筒描き」、スポイトで絞り出すこともあるため「スポイト描き」・「絞り描き」とも』称し、また、『盛り上がりの部分が素麺(そうめん)のように見えることから、古唐津の作品では素麺手と呼んでいる例もあ』る、とある。イッチン盛・イッチン掛・カッパなどとも称するようだ。伝来経路は不明とされている。伊藤南山氏の伊藤南山Nanzan 京焼き制作工程(2)いっちん(絞り出し)で作業動画が見られる(You Tube)。

「これも ethching と關係ある乎」「イッチン」と「エッチン(グ)」の発音は確かに似ているが、物理的に盛り上げを主とする「イッチン」技法の装飾工程と、化学薬品等の腐食作用を利用した塑形・表面加工技法である銅版腐食技法であるエッチング(最初期のものは蠟びきした銅版に針で削って下絵を描き、それを強い酸性薬剤で腐食させて原版を作る)技法は、素人の私が見ても、全く異なるものである。etch」の語源は「鮮明に描く・銘記する・~を深く刻みつける」の意のドイツ語とされる点から見ても、私には同語源とはちょっと思えない。]

 

○漢の硝子 秦の七寶等は不明なれど六朝の晋の僄子

《11-12》

隋の綠子 唐の三彩等は From West (Persia or Arabia or Rome)ノ釉藥を用ひしならん その後は宋窯赤畫なり(彫の上に赤繪を加ふ) 彫刻象嵌等に釉藥の不十分なりしを補ふ爲也 更に明淸に至れば堅きものの上へ軟きものを加ふ 軟藥も後には不透明とし soft effect を與ふ

[やぶちゃん注:「僄子」「綠子」不詳であるが、「硝子」(ガラス質様の変異ではあるのかも知れぬが(漢代には既にガラスの生産が行われていた)、ここは当て字の「がらす」ではなく「ショウシ」(現代仮名遣)と音読みしておく。されば後の「僄子」も「ヒョウシ」、「綠子」も「リョクシ」と読んで自然であるからである)「七寶」と並び、「釉藥を用ひ」たものであろう、といっているのであるから、何らかの釉薬を用いて変化させた陶磁器の表面の特殊な様態(粗密。「僄」には「粗い」の意がある)や色彩変異(或いはその変異物質)を指す語と考えられる。

soft effect主に視覚上で軟らかな質感を見る者に与える効果。]

 

《11-13》

     {素燒(低)}

○硬(藥){     }

     {本燒(高)}

 

  {しめ燒(高)}

○軟{      }西洋流ト云ヒ得

  {樂 燒(低)}

 

○卽チ軟質陶器の西來説の一因ならん

[やぶちゃん注:以上の「○」三条は纏まった一連メモであるが、錯雑を避けるために特異的に行を空けた。それぞれ三つの「{」「}」は底本では一つの大きなそれである。]

 

○七寶

○拂菻嵌

 佛郎嵌   >七寶

 發藍嵌

[やぶちゃん注:以上の二条目の「○」(「拂菻嵌」から「發藍嵌」までの記載)は旧全集には存在しない。「>」は底本では「拂菻嵌」の下及び「發藍嵌」の下まで開いた線が伸びている。

「拂菻嵌」「佛郎嵌」「發藍嵌」これは琺瑯(ほうろう)質の微妙で多様な質感を表わす語らしい。「東罐マテリアル・テクノロジー株式会社」研究開発部長の濱田利平氏の「琺瑯の歴史について」によれば、琺瑯の起源について、

   《引用開始》

 『琺瑯』の字源をたどってみると、サンスクリット語(古代インド語)で七宝質のことを言う“フーリンカン”にさかのぼるという説があります。「琺瑯」という言葉は七宝質という意味であり、七宝とは、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)といった7種類の宝物のことです。もともとは装飾品、美術品として製作されてきたものであるといえます。最も古い琺瑯製品らしきものが見つかったのは、エーゲ海に浮かぶミコノス島で、紀元前1425年頃に製作されたと思われるものです。その後、この技術がヨーロッパ方面とアジア方面に伝播し、16世紀頃に朝鮮半島に流れ、その後日本へと渡ってきたと言われています。

[やぶちゃん注:中略。以下で一部の記号を移動した。]

 琺瑯は、不透明ガラス質の物質であり、石灰、長石、粘土・珪石・硼砂・蛍石などを混合してこれを溶融して作り、金属器物の表面に焼き付けて装飾として、腐食を防ぐものです。瀬戸引、エナメル引などとも呼ばれ、装飾品では七宝焼きがあります。

 七宝は、七つの宝、七宝ながしという意味があります。七というのは西方を表す数字であり、「西方の宝物」という意味も含まれており、私自身も初めて知ることができました。また七つの宝を集めたような美しい宝物とも辞書に書かれています。

 また、「琺瑯」の漢字は『王』偏でありますが、実はこの『王』は『玉』(ギョク)であると言われており、宝石という意味も含まれています。

   《引用終了》

また、その後に、枠で囲った記事があり、そこに『琺瑯の語源は』として、

   《引用開始》

 「琺瑯」という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

 「払菻嵌(フーリンカン)→払菻(フーリン)→発藍(ハツラン)→仏郎嵌(フーロウカン)→法郎(ホーロー)→琺瑯(ホーロー)」という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説もあります。

   《引用終了》

と出、順序は異なるが、ここにまさに芥川龍之介が記している「払菻嵌」・「発藍」嵌・「仏郎嵌」の語が登場している。なお、ここで濱田氏がこの内容を囲み記事にしているのは、Japan Enamel Association の公式サイト内にある「ほうろうのなれそめ」の内容を元にしているからであろう。そちらも引いておく。

   《引用開始》

ほうろうは漢字では「琺瑯」と書きます。覚えてしまえば簡単ですが、一見すると難しそうな字。さて、この「「琺瑯」という言葉、どこからきたのかといえば、実は定説がないのです。最も有力なのは、日本のほうろうに関する代表的な名著である森盛一氏の「琺瑯工業」という本に載っている説で「琺瑯という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

「払菻嵌→払菻→発藍→仏郎嵌→法郎→琺瑯」

という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。このほかにはビザンチン帝国から転化したのではないかという説。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。(Fu-linと前述の払菻にご注目を!)同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説があります。ただしフランク王国では七宝が盛んだったのは12世紀。時期的にはビザンチンのほうが早いといえましょう。その他諸説がありますが、何しろかの有名なイギリスのブリタニカという百科事典にも「言葉の由来そのものははっきりせず論争のまととなっています・・・」と書かれているくらい。どなたか、これぞ決定版!という説をうちたててもらえませんでしょうか。

   《引用終了》

実は以上のことを芥川は次の条で記しているのである。]

 

Rome ヨリ西 Rome に傳はる 卽 Arabia は東 Rome の傳統なり 支那は東 Rome 拂菻と云ふ 佛郎 發藍も亦然り

《11-14》

明初の佛狼機の語源も然らん 法朗 viz 琺瑯の字を生ぜし所以也 何故に Rome を拂菻と云ひしかと云ふにFrank の語の音譯ならん乎と思はるれど period 短く 土地遠く Arabia とは敵故然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり 大食窯 鬼國窯共に Arabia 七寶を意味す 卽ち Arabia

《11-15》

の支那に傳はりしは Arabia による事明らかなり。(後來語洋磁)

[やぶちゃん注:「period 短く」フランク族が建てたフランク王国は四八一年にクロビスが諸支族を統一してメロビング朝を興して建国、分裂・統一を繰り返したが、七五一年にピピンがカロリング朝を創始し、その子カール大帝の時に最盛期を迎え、西ヨーロッパ全域に版図を拡大、教皇から西ローマ帝国皇帝の帝冠を受けたものの、八四三年に三分されて、ドイツ・フランス・イタリア三国の起原となった。ヨーロッパの主要国の原型ではあるものの、王国としての存続は三百六十二年に過ぎなかった。

「然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり」前条の注引用や、ネット上の記載を見るに、現在ではフランク由来とするのが定説に近いようである。

「鬼國窯」ネット記載を見ると、現在、明末から清初にかけて雲南人が京師で製作した仏郎嵌を鬼国窯と言うとあったり、或いはもっと広く中国製の七宝焼をかく言うとある。]

 

Glass

{璧(支)

{玻瑠(和)

{玻璃(和)

○皆印度を中心として東西に擴がる polish の語も玻瑠より傳はる 然らばこの glass の傳來も Arabia は一手をかせしならん

[やぶちゃん注:「璧」「へき」。古代中国で祭祀器或いは威信を示すための掲揚器として使われた玉器。ウィキの「璧」によれば、多くは軟玉から作られ、形状は円盤状で中心に円孔を有する。『表面に彫刻が施される場合もある』。『璧の起源は良渚文化』(りょうしょぶんか:長江文明の一文化で紀元前三千五百年頃から紀元前二千二百年頃に存在したとされる)『まで遡り』、『当時は琮』(そう:古代中国で祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。方柱状を成し、長軸方向に円形の穴が貫通しており、上下端は丸く円筒状になっている。方柱部の四隅には浮彫りや細線で幾何学文様・神面・獣面・巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は「天」を、方形の外周は「大地」を象徴しているとされ、琮全体はは天地の結合の象徴であると一般には考えられている)とともに『神権の象徴として扱われていた』。『良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる』。『周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定され』、また、「周礼(しゅうらい)」では、『諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している』。『璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ』、『春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた』とある。

「支」支那。中国製。

「和」本邦製。

「玻瑠」「玻璃」と同義で狭義に鉱物としては水晶だが、ここは七宝の様態の一つの謂い。で無色か白色のガラス質を指す。

「瑠璃」狭義に鉱物としてはラピスラズリだが、ここも七宝の様態の一つの謂い。青色系ガラス質を指す。

polish」研磨する。]

 

《11-16》

○鐡圍山叢談(宋)

鐵屑を集めて glass を作らんとせしに耳飾りのみを得たりと云ふ 陶器の既に進步せしに關らず glass は作り得ざりし その來りし土地は大食なりしや否や忘る

(中央 Asia の發掘を待つ外なし)

[やぶちゃん注:「鐡圍山叢談」宋の蔡絛(さいじょう)撰の随筆。蔡絛は徽宗時代(一一〇〇年~一一二五年)後期の高級官僚であったが、次代の欽宗になって流刑に処され、その流刑先で記したのが本書とされる。]

 

《11-17》

Contemporary authority ニ服スルハ危險ナリ co. au. の高さ未定なればなり 山陽と木米

[やぶちゃん注:以上の一条は旧全集にはない

co. au.」前の「Contemporary authority(現代の(陶磁器)の大家(と称する者)

)の略。ここでは後に「山陽と木米」を挙げているところから、恐らく研究者や陶磁器の目利きの骨董の好事家などではなく、名陶工とされている当時の人物のことを指しているように読める。

「山陽」不詳。頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)が陶磁器を蒐集したとも聞かんしのぅ。識者の御教授を乞う。

「木米」青木木米(もくべい 明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)は江戸時代の絵師で京焼の陶工。京生まれ。幼名は八十八。以下、ウィキの「青木木米から引く。『若くして高芙蓉』(こうふよう:篆刻家・画家で)『に書を学び』、『頭角を現』わし、二十九歳の『時、木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した』「陶説」を『読んで感銘を受けて作陶を志し』、『奥田頴川に入門』、三十歳を『境に京都・粟田口に釜を開き評判を得』た。五『年後には加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力した。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画系統に属する絵画にも秀作が多い』。『永樂保全、仁阿弥道八とともに京焼の幕末三名人とされる』。『木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。そのため』、『木米の耳はいつも赤く腫上がったが』、『その手法を変えることはせず』、『完治する間もないほど作陶を続けたため』、『木米は晩年、音を失くした。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号していた』という。

 以上を以って「手帳11」は終わっている。]


芥川龍之介 手帳11 《11-7~11-9》

《11-7》

Italian Pottery の上にて barren になれり(Rome 後の亂) At that time Majorca came to Italy.

[やぶちゃん注:「barren」不毛な状態。オリジナルな陶器を生み出せなくなったということであろう。

Rome 後の亂」古典的文化的な意味に於けるローマ帝国の滅亡は西ローマ帝国が滅亡した四八〇年を以ってするのが世界史上では一般的であるが、ここは陶器の問題で、「その直後にマヨリカ焼きの時代がイタリアにやってきた」と芥川龍之介は言っているから、これは形式上のローマ帝国の滅亡、一四五三年にオスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを陥落させた東ローマ帝国の滅亡を指している。]

 

Luca della Rovia? Luca Della Robbia(Italian Sculptor)ハコノMajolica ノ術ヲ傳へタリ Thus 15―16 C. の間の陶工は maître 多し こは 17C. 支那磁器の輸入と共にその模倣行はれ陶質に磁器の design

《11-8》

附しその爲 decline を得たり 卽 Majolica is a new vitality to European pottery.  Viz,  Vertical line of civilization middle point をなす

Luca Della Robbia(Italian Sculptor)」ルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia 一四〇〇年~一四八一年)はイタリアのフィレンツェ出身の「Sculptor」、彫刻家。ウィキの「ルカ・デッラ・ロッビア」によれば、『テラコッタの丸皿で知られる。ルカ以降、デッラ・ロビア家は土器芸術家の名門となり、甥のアンドレア・デッラ・ロッビア、その子ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアを輩出した』とある。ちゃおちゃお氏のサイト「Firenze美術めぐり」の彼の人物伝によれば、彼は一四三一年に『フィレンツェ大聖堂管理組合から大聖堂の聖歌隊席の発注を受け』、これが非常に高く評価されたが、その『聖歌隊席と並んでルカの名声を確かなものにしたのは、彼が創始した彩釉テラコッタ芸術である。単にテラコッタに顔料をつけるだけでなく、像の縮みを計算に入れた上で粘土像を焼き上げ、マルツァコット(融解性の高い透明なガラス性の物質)で覆った後、さらに釉薬を重ねて、低い温度で再び焼き上げるという技術を開拓した』。『このような技法は、フィレンツェで当時目にすることができたマヨルカ陶器やイスパノ・モレスク陶器、アラブ・イスラム陶器などに似たようなものがあったが』、『彫刻に応用し、独創的なものとして芸術性を高めたのはルカの功績である』とある。芥川龍之介の叙述をこれに重ねるならば、腑に落ちる。

Thus」このように。

maître」フランス語で音写は「メート」。「親方・名匠」。所謂、職人気質の超絶技巧を持った名人の意味を含んでいると考えてよかろう。

decline」表の意味では手間賃を節約でき、複雑な意匠を押しつけてプリントして安上がりに仕上げられたから「得たり」と言っているのであろうが、この後のマヨルカ焼きの急速な衰退を考えると、実はその安易な模倣が、技術の不可逆的な低下と質の劣化をも意味していたと私は深読みしてしまう。致命的なマイナス点もそこから「得」てしまったのではなかろうか?

Majolica is a new vitality to European pottery.」(Majolica の綴りはママ)「マヨルカ焼きはヨーロッパの陶器にとって新たな活力であった。」。

Viz,」正しくは「viz.,」で「viz.」はラテン語の「videlicet(換言すれば)」の略語。なお、辞書によると、通例これで「namely」(即ち)と当て読みするらしい。

Vertical line of civilization middle point をなす」『「文明」という直線上の、まさにど真ん中の、重要な支持ポイントとしての正中点(middle point)を成す』。]

 

Militia

       >――Alchemy――磁器

 Pecuniary

[やぶちゃん注:「>」の左は底本ではそれぞれの英単語の後ろに長く延びている。

Militia」単語としては「市民兵・義勇軍・国民軍・民兵組織」であるが、ここは市民から自然発生的に生じてくる芸術的情熱・活力といったような意味ではあるまいか。それならこの図式は私には何となく腑に落ちるからである。

Alchemy」錬金術。

Pecuniary」財政的(金銭上の)問題。]

 

Majorca ノ位置ハ ambiguous ナリ Faenza? モ亦 Majolica を造る これより France Potter ヲ傳ふ 卽ち faïence より Palissy 出づ

[やぶちゃん注:「Majorca」「Majolica」の綴りの違いはママ。

ambiguous」曖昧な・不明瞭な。

Faenza」先にマヨルカ焼きの注で示した、フィレンツェの後にマヨルカ焼きの中心地となったファエンツァ(現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。ここ(グーグル・マップ・データ))のこと。

faïence」既注だが再掲する。ファイアンス焼きのこと、繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要である。

Palissy」フランス・ルネサンス期に活躍した陶工ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy 一五一〇年頃~一五九〇年)。ウィキの「ベルナール・パリッシーより引く。『ガラス工として各地を遍歴。ガラス工の需要が少なく、測量の仕事に従事した後、独力で釉陶の研究に取り組んだ。貧困の中、家具や床板まで燃料にして研究を続けたというエピソードがある』。『年ほどかかってようやく技法を完成し、「田園風土器」として人々に知られるようになった。その最大の作品は』『テュイルリー宮殿の庭園の一角に作られた』『陶製の人工洞窟であった』(現在は断片しか残っていない)。『プロテスタント(新教徒)であったため、度々弾圧を受けたが、才能を認めたアンヌ・ド・モンモランシー将軍やカトリーヌ・ド・メディシスの庇護を受けた。テュイルリー宮殿内の工房で、王室のために作品を制作した』。一五七五『年からパリで地質学、鉱物学、博物学など自然科学に関する講演会を約』十『年間続けた』。一五八〇年と一五八三年には『農学など、自然科学に関する論文集を出版している』。一五八五年の勅令で新教徒はカトリックへの改宗か国外亡命を迫られたが、従わなかった。庇護者のカトリーヌ・ド・メディシスが』一五八九年に亡くなった後』、『捕らえられ、バスティーユ牢獄で獄死した』。『独学で多くを学んだ自然主義者であり、啓蒙主義の先駆けの一人であった。しかし、ヴォルテールによってパリッシーの人物像は歪められて伝えられ、その事蹟は忘れ去られた』。明治四(一八七一)年に『中村敬宇が訳した』「西国立志編」第三篇『に伝記が掲載されたことにより、明治の日本人にはパリッシーの』事蹟『は有名だった』とある。]

 

Quality

viz 釉藥出づ

土は鐵アル故ヤケバ赤シ Phenicia 釉藥出づ 珪酸 加利 曹達等よりなる硝子(珪酸アルカリ)に鉛入る(樂藥) なほ藥 transparent Tin を加ふ 之を

《11-9》

Majoria とす(不透明なる白色) faïence ハ白い素地を用ひし故この上にもう一度透明の藥を加ふ(Palissy) 低熱にもとける故美しい色を持つ これ硝子 七寶と甚密接なり これ支那と全然反對なり 支那 hard より soft へうつる

[やぶちゃん注:「Phenicia」=Phoenicia。フェニキア。古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角でだいたい現在のレバノンの領域に相当する。

「樂藥」楽焼きの釉薬の主原料は白粉(おしろい)・白玉・珪石であるが、上に「鉛入る」とあるからこれは白粉。

transparent」透明な・ごく薄い。

Tin」錫(スズ)。

Majoria」綴りママ。

hard より soft へうつる」これは以上の釉薬の種別が生み出す見た目の硬軟感を指して言っているものと思う。]

 

2018/01/30

芥川龍之介 手帳11 《11-1~11-6》

 

芥川龍之介 手帳11

 

[やぶちゃん注:発行年・発行所ともに不明の手帳。

 現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)し、岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻はそれを底本としている。従って、底本はそれを用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《11-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。底本が読み易く整序して繋げた箇所は、原資料に合わせて、注によって復元した。判読不能字は■で示した。なお、私の注は白兵戦の各個撃破型であるからして、叙述内容の確かさの自信はない。

 新全集の「後記」では、本「手帳11」の記載推定時期に就いては言及されていない。

 なお、一読、判明することであるが、本手帖は冒頭の《11-1》を除いて、他の手帳類と異なり、全篇が陶磁器に関わる特異なメモである。思うに、これは陶磁器史を扱った洋書の内容を一部訳しつつ、本邦の解説書等からも抜書きしながら、自分の意見を添えたものかも知れない。]

 

 

《11-1》

僕は誰にでも噓をつくまいと決心したんだ

○僕はこれから噓をつくまいと思つたんだけれども人と話してゐると何時か噓をついちまふんだね 私は滅多に本當の事はしやべるまいと思つたんです けれども人と話してゐると何時かほんとの事を云つちまふんですね

[やぶちゃん注:前の「手帳10」の末尾注に示した通り、旧全集では、これは「手帳11」の最後の部分に記されてある。]

 

《11-2》

○古今東西(+)の中點にあるものを Arabian Pottery(窯工術)と爲ス

[やぶちゃん注:「古今東西(+)の中點にあるもの」意味不明。文化的時空間にあって有意な価値(過去に対しても未来に対しても普遍的に)のフラットな位置にあるもの、という意か。非常に酷似した表現が、後の《11-8》のマヨルカ焼きを語る部分で、『卽 Majolica is a new vitality to European pottery. Viz,  Vertical line of civilization middle point をなす』と出る。そちらも参照されたい。

Arabian Pottery」アラビア風の陶器の製造業。]

 

○陶 }

 七寶}3 heads

 硝子}

[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では一つの大きな「}」である。

「七寶」「しつぽう(しっぽう)」。金属などの表面にガラス質の色釉(いろぐすり)を焼きつけて模様・絵などを表わす装飾工芸。エマーユ(フランス語:émail)。

3 heads」三大代表群。]

 

原料燃料ノ地理的缺乏は窯業の發達を impossible ならしめしがその領土的 development はこれを可能にせり 且 commercial の發達も技術を教へしならん 唯その period の短かりし爲 Persian Patten より劣る

《11-3》

ならん 唯 Arabian Pattern は織物に伴ひし爲傳播したり Arabian Pattern は囘教關係より beasts 等を使はざりし爲 幾何的 pattern をなす 正倉院中の甃の如き是乎

[やぶちゃん注:「development」「発展」よりも「進行」よりも皮肉に「侵攻」ととりたい。

commercial」商業上の・工業上の。後者であろう。

beasts動物類。イスラムは偶像を嫌うので、具体的なシンボルと見えるような人を含めた動物などを意匠化しない(植物のそれは許容されて反復模様とされる)。]

 

A文化ノ傳統

Rome(東)& Paris

Rome には七寶 硝子あり 東Rome の硝子も色硝子より發達し Damube よりBohemia に入る この内地は Gothic Architecture の本場也 卽ちこの二者

《11-4》

の關係起る but 之は問題外なり

[やぶちゃん注:Damube」ダニューブ川。ドイツ南西部に発し、東流して黒海に注ぐドナウ川のこと。

Bohemia」ボヘミア(ラテン語:Bohemia:チェコ語:Čechyドイツ語:Böhmen:ベーメン)。現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広く、ポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。この中央一帯(グーグル・マップ・データ)。

Gothic Architecture」ゴシック建築。但し、ここで言っているそれは十二世紀後半に生まれた洗練されたフランスのそれとは直接の関係性を必ずしも持たない、原ゴシック様式を指すと考えないと地理的文化的にはおかしいように思われる。]

 

○隨――Persia (盛)

○唐――Arabia (盛)

Arabian Civilization の方向=From east to west

Persian Civilization の方向=From west to east

[やぶちゃん注:「唐――Arabia (盛)」の「盛」は底本では「〃」であるが、特異的に判り易く変更した。旧全集でも繰り返し記号ではなく「盛」となっているからでもある。

Civilization」文化・文明。その中でもここは特に技術的工業(科学)的側面でのそれを指していよう。]

 

《11-5》

Persian Prince married with a Chinese Princess

[やぶちゃん注:これはイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)のオペラ「トゥーランドット」Turandot 一九二六年初演)のもととなった、フランスの東洋学者フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix 一六五三年~一七一三年)が一七一〇年〜から一七一二年に出版した「千一日物語」(Les Mille et un Jours:所謂、「千一夜物語」とは全く別物なので注意)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に基づく話ではなかろうか。参照したウィキの「トゥーランドット」によれば、この異国の王族間の恋物語は『アラビア半島からペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩』「ハフト・ペイカル」(七王妃物語 一一九七年)という作品に『までさかのぼる』伝承で、『この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまった』ものの、『同じような筋書きのペルシャ語写本が』今も『残されている』という。『ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーランの国名はあるもののトゥーランドットの人名はなく、フランス人の研究者オバニアクは、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている』(一八〇一年)。『なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている』とある。私はオペラに関心もなく、これ以上、付け加える情報も持ち合わせていないので、ここまでとする。因みに、「高僧伝」などの史料によると、安息国(次条の注を参照)の王の太子と伝えられる安世高(安清)が当時の後漢に行って経典の漢訳を行ったと、ウィキの「パルティア」にはある。]

 

○大智安息國公主の碑 俗説 長安の囘寺(大秦寺)

[やぶちゃん注:「大智安息國公主の碑」「安息國」は、かつて、紀元前二四七頃から紀元後二二六年の長きに亙って、西アジアあった王国パルティア(Parthia)の漢名。都はヘカトンピュロス。セレウコス朝の衰微に乗じて、ペルシャ人で遊牧民パルニの族長であったアルサケスが建国した。ローマ帝国と対抗、ミトラダテスⅠ世の時、最盛期となり、インダス川からユーフラテス川に亙る地域を版図(はんと)としたが,ササン朝に滅ぼされた。そのパルティアの王の妃の碑、ということになる。

「長安の囘寺(大秦寺)」中国の唐代に伝来したネストリウス派キリスト教である景教の、長安に存在した寺院(教会)の固有名。ウィキの「大秦寺」によれば、但し、「大秦寺」はその後に中国各地に建立された同教の教会の一般名称でもある。六三五年にネストリウス派宣教団が長安に到着し、その三年後に景教は唐朝公認の宗教となり、朝廷から資金が援助されて、長安にこの寺が建立された(但し、この時は「波斯寺」或いは「波斯経寺」(波斯はペルシアの漢訳語)と呼ばれていた)。高宗の治世(六四九年~六八四年)になると、景教は唐王朝全域に広まり、六九八年に武則天が仏教を重んじた時期には仏教勢力から攻撃を受けて、一時は衰退したものの、続く玄宗の時代(七一二年~七五六年)には再び隆盛し、七四五年には大秦国(東ローマ帝国)から高僧佶和(ゲワルギスの漢音写)が訪れている。同年、教団の中国での名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたことから、朝廷側による当寺院の呼び名も「大秦寺」に改称されている。『これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている』。しかし、八四五年、時の『武宗は道教を保護する一方で、教団が肥大化していた仏教や、景教、明教(摩尼教)、祆教などの外来宗教に対する弾圧を行な』いこれを「会昌の廃仏」と称する)。寺院四千六百ヶ所余、招提・蘭若四万ヶ所余『が廃止され、還俗させられた僧尼は』二十六万五百人に及び、『寺の奴婢を民に編入した数』も十五万人に達したとされる。この時、『大秦景教流行中国碑も』『埋められた』。『武宗は、翌年の』八四六年に三十三歳で『崩御し、弾圧は収束する。しかし、会昌の廃仏によって、中華本土の景教は衰滅していったと考えられている』。それでも、『中原をとりまく周辺地域ではネストリウス派信仰が』、『ケレイトやウイグルなどのモンゴル高原や中央アジアの人々の間で存続していた。彼らが王朝の担い手となった元の時代には中国内で再び活性化し、華南の港湾都市に景教教会が建設された』りはした。しかし、『その後、元の滅亡やイスラム教・チベット仏教の普及により』、『東アジアにおけるネストリウス派信仰』自体が『衰え、明代の』一六二三年(または一六二五年)になって、『「大秦景教流行中国碑」が発見される』『まで、景教は中国人に完全に忘れ去られることとなった』とある。]

 

○甘肅眞州の窯(五雜俎)ニ Persian Ottery アリ

[やぶちゃん注:「甘肅眞州」不詳。こんな地名は見当たらぬ。……古くからシルクロードの要衝だった蘭州(現在の蘭州市)の誤記じゃあねえかなぁ?……

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになったという数奇な経緯を持つ書物である。]

 

唐太宗に對 Arabia の援兵を乞ふ 得ず Defeat

[やぶちゃん注:「唐太宗」唐の第二代皇帝李世民(五九八年~六四九年)の在位期間は六二六年~六四九年

Defeat」負け。敗北。サーサーン朝ペルシャは六五一年にアラブ帝国に亡ぼされている。]

 

Arabianization of Persia

Persia Arabia ニ服せられしを以て Arabian Civilization Persia に入れり

○遣唐副使に使ひ Persian 奈良に來る(聖武)

[やぶちゃん注:「使ひ」は「使(仕)へし」の意であろう。

「続日本紀」には天平八(七三六)年十一月に唐人三人と波斯(ペルシャ人)一人が聖武天皇に謁見したという記録があり、これは遣唐使が連れ帰った人物で、中国名は李密翳とある。しかも最近では「破斯清通」という、彼或いは彼の縁者である可能性がある人物が、なんと、平城京で役人(大学寮の大属(だいさかん:四等事務官)として宿直勤務に当たっていた木簡の調査で明らかになってきてもいるこちらのニュース記事を参照されたい)。]

 

《11-6》

End of    宋

Influence of

[やぶちゃん注:完全な宋の滅亡であろうから、南宋の滅びた一二七九年。本邦では弘安二年に当たる。

Influence」影響。現在の中国を支配していた民族が全く変わるわけで、その文化的影響は計り知れない。]

Arabian influence on China

○大食窯=七寶=the relation between Arabia & China

[やぶちゃん注:「大食窯」イスラム(アラブ)の窯のことであろう。

relation」関係(性)。]

 

Pottery

15 C. Spain ニアリシ Arabian Majorca or Majoria 島民ニ製陶術を教ふ

lustre を帶びし釉藥を特色とす(交趾ニ似タリ。)

[やぶちゃん注:「Majorca or Majoria」綴りが不確かなために併記したものと思われる。英語では Majorca(マジョルカ)で前者が正しい。マヨルカ島(カタルーニャ語:Mallorca:スペイン語:Mallorca:は地中海西部、スペインの西のバレアレス海に浮かぶ島。バレアレス諸島最大の島。ウィキの「マヨルカ島」によれば、『日本では以前マジョルカ島と呼ばれたが近年はフランス語の発音に近い「マヨルカ島」に統一されてきた。マリョルカ島とも表記される』。『中世からルネサンス期のマヨルカ島は地中海貿易の中継地となった。バレンシアから輸出されたムーア人様式の陶器の影響を受けてイタリア各地で作られるようになった「マヨリカ焼き」の語源はマヨルカ島であるとされることもある』とある。そこでウィキの「マヨリカ焼き」を見ると、『マヨリカ焼き(Maiolica)はイタリアの錫釉陶器でルネサンス期に発祥した。白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたものが多い。地名呼称の表記のゆらぎにより』、『マジョリカ焼、マヨルカ焼、マリョルカ焼、マジョルカ焼とも』言う。『その名称は、中世イタリア語でマヨルカ島を意味する。マヨルカ島はバレンシア地方からイタリアにムーア人様式の陶器を輸出する際の中継点だった。ムーア人の陶工はマヨルカ島を経由してシチリア島にも移住したと見られ、同様の陶器はカルタジローネからもイタリア本土に入ってきたとされている』。但し、『別の説として、スペイン語の obra de Malaga、すなわち「マラガから(輸入された)食器」が語源とする説もある』。『ルネサンス期には、「マヨリカ」』焼きは』『イタリア産のものとスペインからの輸入ものを含んでいたが、その後』、『イタリア産の錫釉陶器全般を指すようになった。スペインがメキシコを征服すると、錫釉のマヨリカ焼きは』一五四〇年『ごろからメキシコでも生産されるようになり、当初はセビリア産の陶器を真似て作っていた』。『メキシコ産マヨリカ焼きは「タラベラ焼き」として有名である(タラベラ・デ・ラ・レイナが産地として有名)』。『錫釉は不透明で真っ白な表面を生み出し、その上に絵付けしたときに鮮やかに映える。錫釉薬を全体に施して、火にかける前に金属酸化物などで絵を描く。フレスコ画のように釉薬が顔料を吸収し、間違っても後から修正できないが、鮮やかな発色を保つことができる。時には表面にもう一度釉薬をかけ(イタリアではこれを coperta と呼ぶ)、さらに光沢を強くすることもある。光沢を増すには、低温での火入れに時間をかける必要がある。窯には大量の木材が必要とされ、陶芸が盛んになるに従って、森林伐採が進んだ面もある。釉薬の原料は砂、ワインのおり、鉛、錫である』。『マヨリカ焼きに端を発した』十五『世紀の陶芸(ファイアンス焼き』faience:繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要)『と総称される)は、シチリア島経由で入ってきたイスラムの陶器の影響を受けてスズ酸化物を釉薬に加え、それまで中世ヨーロッパで行われていた鉛釉陶器の様式に革命を起こした』。『そのような古い陶器』『は「プロト・マヨリカ」などとも呼ばれる』。『それまで陶器の彩色はマンガンの紫と銅の緑ぐらいしかなかったが』、十四『世紀後半にはコバルトの青、アンチモンの黄色、酸化鉄のオレンジ色が加わった。ズグラッフィートと呼ばれる技法も生まれた。これは、白い錫釉をかけた後にそれを引っかいてその下の粘土が見える部分を作り模様などを描いたものである。ズグラッフィートはペルージャやチッタ・ディ・カステッロが本場とされていたが、モンテルーポ・フィオレンティーノやフィレンツェの窯からズグラッフィートの不良品が大量に見つかっており、そちらの方が生産量が多かったことがわかった』。十三『世紀後半以降、イタリア中部で錫釉陶器を地元で使用する以上に生産するようになり、特にフィレンツェ周辺が産地となった。フイレンツェの彫刻家の家系であるデッラ・ロッビア家もこの技法を採用するようになった(アンドレア・デッラ・ロッビアなど)。フィレンツェ自体は』十五『世紀後半には周辺の森林を伐採しつくしたために陶芸が下火になったが、周辺の小さな町に生産拠点が分散していき』十五『世紀中頃以降はファエンツァFaenza:現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。(グーグル・マップ・データ))が中心地となった』。『フィレンツェの陶器に触発され』、同時期には『アレッツォやシエーナでも独特な陶器を生産するようになった』。この十五『世紀にはイタリアのマヨリカ焼きが完成度の面で頂点に達した。ロマーニャはファエンツァの名がファイアンス焼きになったことからもわかるとおり』、十五『世紀初頭からマヨリカ焼きの生産拠点となった。ファエンツァは陶器生産が経済上重要な地位を占めるようになった唯一の大都市だった』。『ボローニャでは輸出用に鉛釉陶器が生産された』。十六『世紀になると』、『マヨリカ焼きはウルバーニア、ウルビーノ、グッビオ、ペーザロでも作られるようになった』。十六『世紀初めには istoriato と呼ばれる様式が生まれた。これは歴史上または伝説上の光景を極めて精緻に描く様式である』。その後、『マヨリカ焼きの生産は、北はパドヴァ、ヴェネツィア、トリノまで、南はシチリア島のパレルモやカルタジローネまで広ま』り、十七『世紀にはサヴォーナが生産の中心地となった』が、十八世紀になると、『マヨリカ焼きは廃れ、より安価な陶磁器が主流となった』。『マヨリカ焼きという呼称は主に』十六『世紀までのイタリアの陶器を指し、ファイアンス焼き(および「デルフト焼き」)という呼称は』十七『世紀以降のヨーロッパ各地のものを指すが、その様式は多種多様である』とある。

lustreluster に同じ。主にイギリスで用いられる。光沢。

「交趾」交趾焼(こうちやき)。中国南部で生産された陶磁器の一種。名称はベトナムの旧地方名コーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船により、本邦に齎されたことに由来する。ウィキの「交趾焼」によれば、『正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼である。総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物の』ことを指す、とある。]

 

South Kensington, Museum

[やぶちゃん注:現在のロンドンのサウス・ケンジントンにある国立科学産業博物館(National Museum of Science and Industry)に属する科学博物館である「サイエンス・ミュージアム」(Science Museum)の前身。一八五七年に設立される以前は、「ケンジントン・ミュージアム」と呼ばれ、その当時のミュージアムは、次に出る、現在、向かいにある「ヴィクトリア&アルバート博物館」の一部であった。一九〇九年に独立の施設となり、一九一三年に現在ある位置に移転している。]

 

Victria-Albert Museum ニ多數の標本アリ

[やぶちゃん注:最後の「アリ」は次の《11-7》の頭に記されていると底本の編者注があるが、流石にこれは底本のママ、ここに配した。

同じくケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(
Victoria and Albert Museum)は現代美術・各国古美術・工芸・デザインなど多岐に亙る四百万点余りの膨大なコレクションを中心にした国立博物館。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫アルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。]

 

芥川龍之介 手帳10 《10-6~10-17》及び旧全集一条 / 手帳10~了

《10-6》

O彼は彼女を戀してゐる 彼女も彼を戀してゐることを信じてゐる 少くとも彼を信用してゐることを信じてゐる for 彼は遊蕩しない 每日家へかへる 酒やビイルをとる時も一々帳場に斷る etc.

[やぶちゃん注:「帳場」とあるからにはロケーションは旅館か。]

 

Oプラクテイカルな男の戀愛觀 女は何を話してもやりこめられる程利巧だと云ふ

○その女は生活費の來る道わからず 下宿屋から一週間に一度電話をかける 「わたしだわ」と言ふ しかも僞名を用ふ 相手は茨城縣選出の代議士の弟の銀行重役 女は山口縣 兩方より戸籍謄本をとる 男のは郡がちがふと言ふ 女のは何々太郎兵衞の娘にはあれども何々太郎と言ふものなしと云ふ

○女男に金を借せと言ふ 又來りて蒲團をつくる故かせと言ふ(30) 盛裝して出行きかへらず 前例なし 翌日車屋手紙持ち來り 金を落せし故持つて來てくれと云ふ 上野の宿屋なり 行く きたなき宿にあり きけば

《10-7》

伯父の所へ行きしも伯父居らず 下宿料も拂へぬ故(勘定日)かへらなかつた。私立探偵を使ひてしらべるに一人で來たりしに相違なし 始大きい宿屋へ行きしもやすい宿屋斷られ そこより小宿屋へ送らる 女の母は向ひ合ひの下宿にあり 高商を數年前出でし男 その男の生活を保證す 女その男をきらひ別に下宿す 下宿は本郷 母女の lover に娘のことばかりきくなと云ふ あの娘は本統[やぶちゃん注:ママ。]の子にあらず 大阪の砲兵工廠に出てゐる人が或女と出來しものを夫のやしなひしなりと言ふ 又自分の情夫――高商の男と逃げし事ありと言ふ 娘になじる 娘泣いてお母さんとの關係を知らなかつたと云ふ 又 愛せぬ男と關係せぬ故後悔なしと言ふ 女の下宿に大學生來り 枕もとに立つ 女何用と云ふ 大學生用ありと言ふ 女用ならば晝來いと云ふ 大學生出て行く 女よびとめ 一しよに出て行つて上げると

《10-8》

云ふ 出て行き便所に行き またかへる 枕の上に置手紙あり 女又獨り大學生の部屋へ行き手紙をおく どちらも「只今は失禮 人に言ふな」

[やぶちゃん注:底本では見開き見出しを出さず、《10-6》から《10-8》までの総てを続けて示した上で、最後に注記で見開き位置を示すという変則表記をしているが、注記内容に従って以上のように表記した。「30」は横転ではなく、横書で正立。]

 

《10-9》

○學校にて忘れものせし人を立たせ スケツチの model とす 「オ前ナド忘レモノバカリシテ皆ガマタアノモデルカ アキタト云フダラウ」

《10-10》

○黃色く cold 光る 小ぢんまり 一人ゐ「獨房」と稱す 獨房にかざるもの欲し 壁に釘をうつ事をゆるさず 布もかけたけれどもゆるされず 畫をかかんとすき かけんとすれどもゆるさず

○壁をぬりかへた爲に結婚を申しこむ話をつける

○父の頭惡し(購買狂)

○悴(弟) 愛嬌ガアル 小學校出る 頭惡し 慶應夜學 活動好き 「ヱヲ畫イテクレ」 「スゴイナア」震災記念 喪章の代りにボエミアンネクタイを買ふ 父は日本畫にさせんとす 子は油畫 兄サンの方は墨畫ダネ

○姉 母の代理に働ク 非常に黑く ポツチヤリ 顏に光澤あり 妙に色白し 束髮を自分でゆふにも不關髮結よりもうまし 碧童に相談に來る 「兄サン」碧曰犧牲ニナレ シカシ思ヒコンダモノガアレバ云へ ソハセル

[やぶちゃん注:これは次の《10-11》に続いている。底本では続けて表記し、注でそれを示してある。

「不關」拘わらず。

「碧童」小澤碧童。後の『「兄サン」碧』は芥川龍之介が最年長(十一年上)の友であった彼を敬して呼ぶ際の「入谷の兄貴」の「兄サン」の謂いととっておく。]

 

《10-11》

 最近碧のところへ來る 碧の見によれば選擇をあやまたず 男はまた別にかけこむ

[やぶちゃん注:《10-10》からの続き。]

 

○母 眼片目スガメ 娘による事多し 一家に娘派 弟派あり 店員に百圓位拂ふもの二三人あり 不折の書をかける

[やぶちゃん注:「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。]

 

○叔父醉ひてかへる 途中女の影二あり 見れば歸りを危み 女中の見送りしなり 金をやる かへりてねこむ 家へはひるなり 金をこぼし 拾ひて寐しと言はる

○ハワイ 兄の後妻の身 來年3月女學校 日本 兄の子(父ナシ) 高等二年迄 驛夫(テンテツ夫) 日當一圓四十四踐

[やぶちゃん注:「テンテツ夫」「転轍夫」。転轍機(鉄道のレールの切り替え装置。ポイント)を操作する係。]

 

○村ノモノ等貰へト云フ 手紙を二三度出す 返事なし 岩國へ出る自動車運轉手 妻を世話せんとす それは女學校を出 女教員になる資格あり 貰はんとす 叔父に問ふ 叔父曰ハワイをたしかめよ 一切

[やぶちゃん注:以下、《10-12》に続く。底本では続けて表記し、注でそれを示してある。これは前条と繋がったメモであろう。]

 

《10-12》

をつげ 來るなら來よと云へ 甥曰來ると云つたらどうするか? 叔父曰東京を步いてゐて熊や狼が出たらどうするか 甥25

[やぶちゃん注:《10-11》からの続き。「25」は縦書正立。]

 

○將軍 賴朝 尊氏 家康

《10-13》

○父と女子と母と

 女子)

○  )→父 Strindbergian tragedy

 母 )

○父→子

[やぶちゃん注:三つの「)」は底本では大きな丸括弧一つ。旧全集では二番目の「○」のような式構造は示されておらず、「女子」「母」「→」も丸括弧もなく、ただ、『父と女子と母と。Strindbergian tragedy.』とあるだけで、後の「○父→子」も旧全集には存在しない

Strindbergian tragedy」「作家ストリンドベリ風の悲劇」。ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。]

 

○決死隊(天津の) 強弱の差アラハレ 強者弱者を輕蔑す 戰後強者弱者和す

[やぶちゃん注:既注の清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱(北清事変)の際の、最初の連合軍の正念場であった大沽砲台・天津攻略戦での日本軍のエピソードであろう。この時、日本を含む八ヶ国連合軍は、租界を攻撃していた清朝の正規軍聶士成(じょうしせい)の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒し、結果、聶士成は戦死、数日後の一九〇〇年(明治三十三年)七月十四日に連合軍は天津を占領、直隷総督裕禄(ゆうろく)は敗戦の責を取って自殺し、天津城南門上には凡そ四千名もの義和団・清朝兵の遺体があったという(ここはウィキの「義和団の乱」に拠った)。]

 

○或男の哲學――虎は虎 猫は猫 どちらもよろし

《10-14》

○革命の成功は文明の破壞となる時如何するや

○アレキサンドリアの圖書館

[やぶちゃん注:紀元前三百年頃、プトレマイオス朝のファラオであったプトレマイオスⅠ世ソテル(在位:紀元前三二三年~前二八五年)によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。ソテルは学問・文化を奨励、地中海世界の著名な学者や詩人を招いて「学園(ムセイオン)」を設立したが、その際に附属研究施設として創立された。蔵書数は 十万巻とも七十万巻ともいわれ、館長には当代の言語学・文献学の大家が就任した。紀元前四八~前四七年のアレクサンドリア戦争の際に焼け落ちたが、後、ローマの政治家マルクス・アントニウス(Marcus Antonius 紀元前八二年頃~前三〇年)がペルガモンの蔵書 二十万巻をクレオパトラに贈り、復旧された。しかし、三世紀後半頃から、次第に破壊され、ローマ皇帝テオドシウス一世治下の 三九一年、キリスト教徒の手によって破壊されてしまった。アラビア人が六四一年にこの地を占領した際には既になく、現在では、かつてあった正確な位置も不明である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○白髮をかくすので髮の形などにかまつてゐられない 三十は皺 四十は白髮

《10-15》

○母娘に聟をとり 聟に娘はすぎものと言ふ 娘死す 聟に後妻をとる 今度は聟にすぎものと言ふ

[やぶちゃん注:これは同様の話を読んだことがあるのだが、思い出せぬ。思い出し次第、追記する。]

 

○手に黑子あり 天才か 盜癖か

○睫毛ぬき 眶赤し

[やぶちゃん注:「眶」は「まぶち」などとも読み、「瞼(まぶた)」に同じい。或いはより広く目の周囲を指す語ではある。]

 

○自轉車二臺 一臺は税關まで引いて來し故泥つき 税助かる 甘栗 紅茶 絹物 税かかる 珈琲 羅紗 かからず

○盲人姿勢を正し 點字本をよむ にやりと笑ふ

《10-16》

○鳥屋の人殺し 西川の話

[やぶちゃん注:「西川」芥川の晩年の義兄、実姉ヒサの再婚相手で弁護士であった西川豊(明治一八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)であろう。滋賀県生まれで、明治大学大法科卒。ヒサとの間に一男一女をもうけた(瑠璃子と晃。瑠璃子は後に龍之介の長男比呂志の妻となった)。大正一二(一九二三)年年初に偽証教唆の罪で市ケ谷刑務所に収監され(芥川龍之介はこの時の面会をシチュエーションとした小説冬と手紙と(昭和二(一九二七)年七月発行の『中央公論』)を書いている(正確にはその「一 冬」。現行では「冬」と「手紙」の二篇に分割されてしまっており、並べて読まれることがなくなってしまった。リンク先は旧全集をもとにした本来の形である)、弁護士を失権、更に昭和二(一九二七)年一月四日、西川の家が焼けたが、直前に多額の火災保険がかけられていたことから、彼の金目当ての放火とする嫌疑がかかって、取調べられたが否認、その直後に失踪して、身の潔白をたてるために死を選ぶという遺書を残して、二日後の一月六日、千葉県山武郡土気(とけ)トンネル附近で鉄道自殺を遂げた。彼の死後、彼には高利の借金があることが判明し、火災保険・生命保険などの処理のごたごたや、残された姉一家の生活などのため、芥川龍之介は東奔西走することとなって、肉体的にも精神的にも彼を消耗させた。この騒動は彼の自死に繋がる一つの副次的素因であったとも考えられている。]

 

○古い人形 老先生 兄 妹 弟大學生 子(女) 妹と兄 妹と兄と弟 妹と兄と弟と父、妹と兄と弟と父と子と

《10-17》

O「宣教師」

利根川口 アアネスト・グレン 西洋婦人 日本日曜學校の先生など三四人を別棟に住まはしむ その女の一人 或朝 井戸端に罎を洗ふ 罎亦昇天せんとす 川に近し 川中の船 漁(鰹)ある度に太鼓を打つ 或時 各國の女三人 集まり 讃美歌をうたふ オルガン マシマロに café 造酒屋の主人 朝鮮併合前 朝鮮にあり(事業さがし) 曰グレンは好いが アアネストはいけない

[やぶちゃん注:「アアネスト」不詳。日本でホーリネス教会(キリスト教プロテスタントの教派の一つホーリネス教団の教会)を立ち上げた宣教師にアーネスト・アルバート・キルボルン(Ernest Albert Kilbourne 一八六五年~一九二八年:明治三五(一九〇二)年来日)がいるが、アーネストは普通にある名であり、軽々に比定は出来ない。

「グレン」不詳。]

 

○ここは何と言ふんです 小石川アツパアトメントと言ふんです アツパアトメントと言ふのは何ですか? さあ 西洋のデパアトメントとは違ふんですか? 何でもデパアトメントと言ふのはものを賣る所ださうです

○君 お八重は處女ぢやないんだぜ (平然と)若樣 私も處男ぢやありませんよ 處男? 處男とは何だい? 女が處女なら男は處男ぢやありませんか?

[やぶちゃん注:以上の「君 お八重は處女ぢやないんだぜ」は旧全集でこの位置にあるものの、現存する原資料に見出せないものである。また、以下に、旧全集では、

   *

○僕はこれから噓をつくまいと思つたんだけれども人と話してゐると何時か噓をついちまふんだね。――私は滅多に本當の事はしやべるまいと思つたんです、けれども人と話してゐると何時かほんとの事を云つちまふんですね。

Contemporary authority ニ服スルハ危險ナリ。co. au. の高さ未定なればなり。山陽と木米。

   *

があるが、これは新全集の再検証によって、現状では次の「手帳11」の《11-1》及び《11-17》にあることが判っている。そちらで再掲し、必要な注は附す。

 以上を以って底本の「手帳11」は終わっている。]

 

芥川龍之介 手帳10 《10-5》

《10-5》

○おおフロリアンよ フロリアンよ わたしにおいしいお菓子をたべさせてくれたフロリアンよ(結句)

[やぶちゃん注:「フロリアン」ドイツ語・フランス語圏等の男性名の Florian(フランス語異形に Florent(フローラン/フロラン)もある)であるが、これは高い確率で四条後に出る当時のドイツ映画「ゲニーネ」(Genine:後注参照)のカール・メイヤー(Carl Mayer 一八九四年~一九四四年)の原作の、自死するヒロイン・ゲニーネのエンディングに近いシーンの原作の台詞ではないかと推測され、「フロリアン」は彼女に失恋して最後にやはり命を絶って彼女の遺体に斃れ伏す男性の主人公の名(Friseurlehrling Florianと考えてよいであろう。原作を知らぬので何とも言えぬが、後で挙げるリンク先の梗概から見ても、この「お菓子」とは人間の血液であると思われる。]

 

door―Palace of Sweet(gilded)

[やぶちゃん注:大文字になっているから、「扉」に記された館か部屋の固有名の記銘か。(「金鍍金(メッキ)された」)『甘き宮殿』。]

 

O Soldi. ナポリの民謠

[やぶちゃん注:「Soldi」はイタリア語で最も普通に使われる「お金」の意の単語だが、こんな題名の民謡はない。ナポリで有名な民謡と言ったら、「オー・ソレ・ミオ」(ナポリ語で単に「私の太陽」。「'O」は冠詞であって感動詞ではない)で、その綴りを誤ったものではなかろうか?]

 

○畫の中の女 足少し惡イ

[やぶちゃん注:もしこの「畫」というのが前に出、次に出る映画「ゲニーネ」(次注参照)の「映畫」の画面の中の女であるとすれば、ヒロインのゲニーネである。同作は今回、音楽英語単独字幕途中挿入You Tube 全篇映像Robert Wiene's "GENUINE A Tale of a Vampire" (1920)を見ることが出来たのであるが、彼女を演じた女優フェルン・アンドラ(Fern Andra)の演技は、特殊な演出によって、終始、カラクリ人形のような、ギクシャクした演技をしており、その異様な歩き方は、あたかも足が少し悪いのではないか? と思わせるものではある。]

 

○獨乙のゲニイネの中の主役フロリアン

[やぶちゃん注:これは一九二〇年に製作されたドイツ映画Genine(ゲニーネ:吸血鬼のように血液飲用嗜好癖を病んでいるヒロイン(映画の中での彼女の設定自体が女優である)の女性の名)で、「フロリアン」は彼女に恋し、破滅して行く主人公の男性 Florian である。奇体な梗概はサイト「Movie Walkerを参照されたいし、全篇動画も前条に注した通り、音楽附き英語挿入字幕のYou Tube Robert Wiene's "GENUINE A Tale of a Vampire" (1920)で見ることが出来る。この映画は、かのドイツ表現主義映画を代表する、私の偏愛する幻想的怪奇映画「カリガリ博士」(Das Kabinett des Doktor Caligari:「カリガリ博士の箱」 一九二〇年)の監督ロベルト・ヴィーネ(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)と原作カール・メイヤー(既注)の同じコンビで製作されたもので、「カリガリ博士」と同じく、強烈な表現主義演出が行われている。]

 

○三好の畫――春の野邊

[やぶちゃん注:当初、山水画をよくした日本画家三好雲仙(うんぜん 文化九(一八一二)年~明治二八(一八九五)年)かとも思ったが、「春の野邊」が正確な作品名だとすると、「三好」とは戦前のモダニズムの洋画家で当時は新進気鋭であった三岸好太郎(明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九三四)年)の姓名の略ではあるまいか?(実は私も三岸好太郎を「三岸」が言い難いから「三好」と短縮して記憶しているからである) 彼は大正一三(一九二四)年の第二回春陽展で「兄及ビ彼ノ長女」などを出品して春陽会賞を主席で受賞しているが(ここはウィキの「三岸好太郎の記載)、落合道人ブログの「画家たちの第一歩を伝える『中央美術』」の中にに、『時事新報』の当時の記事「米の配達しながら絵を勉強する人----二十二才の三岸氏 昨日春陽会賞の首席を占む」を引き(太字下線やぶちゃん)、

   *

 入賞者のうち最高点の三岸好太郎氏は北海道札幌の生れで本年二十二才の青年である。目下はキリスト教青年会の家庭購買組合に雇はれ、米の配達をやりながら苦学をつづけてゐる奮闘の士である。去年は「オレンヂ持てる少女」[やぶちゃん注:前年の第一回春陽展に出品して入賞した作は「檸檬持てる少女」が正しい。]出して入選し今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。同君は語る。「私は十三の時父を失って、それから上京し大野麦風さんの弟子になりましたが、間もなくそこを出て下谷郵便局員となり小林喜一郎君と一緒に働いてゐました。今は郵便局もやめましたがやはり同君と同じ宿にゐて一緒に絵をかいてゐます。今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。

   *

とあるからである。手帳の時制的にも違和感がない。]

 

○三角の肩かけ(赤)――女

[やぶちゃん注:これも或いは三岸好太郎の絵かも知れない。彼には知られた赤い服の女性の肖像画や赤系に服を塗った作品がしばしば見られるからである。]

 

○蒙古の子供カボチヤを食ふ 顏が黃いろくなる お前は南瓜を食つたね 鉈割南瓜

○塗料の職工の組長 ニッケル時計をぬすまれる失ふ(工場で) 易者に見て貰ふ 曰盜まれたり 年三十五六と云ふ 組長その後三十五六の職工に當つける 六年間變らず 人を介して了解を求むれどもきかず 組長曰一生言ふといふ 職工易者を恨む

○叔母 習字の甲上を障子に貼る 子一晩泣く

[やぶちゃん注:「甲上」教師の最高評点である。]

2018/01/29

芥川龍之介 手帳10 旧全集冒頭~《10-4》

 

芥川龍之介 手帳10

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月五日新潮社発行の「新文章日記1925 新潮社」(扉の記載。アラビア数字は顚倒しない横書)の右開きの日記帳。

 この原資料は現在、山梨県立文学館所蔵で、底本はそれを用いた岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻の手帳「十」を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。但し、一部に原資料にない箇所(他の旧全集の手帳にあるものは除く)があり(冒頭及び終りの方)、そこは旧全集で補填した(今まで通り、その箇所の句読点は除去した)。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《10-1》というように見開きごとに通し番号を附けた。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、本「手帳10」の記載推定時期を記していないが、使用されいる日記帳の上記の発行日から、自ずと閉区間は形成される。]

 

 

京都にて友禪や震災の時 鐵の買ひつぎ(屑)をし損(5000)をし 東京に出でて型を彫りながらやり 或友染屋に入り 主人の氣に入り 幹部になる 花見の時奴さんをまつ先にをどる(二時半より) ちやんとした着物を着てゐる(羽二重友禪の長襦袢 高貴職ひげあり 尻はしよりに鉢まき)

[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。「5000」は横転表記。]

 

○主人役割をきめ 或男には席をたのみ 或粹がつた男に藝者をたのませる その藝者來ず 或一人旦那 わたしがよんで來ましようかと言ふ いけない その男の顏がつぶれる そこへやつと singer 來る すぐをどる

[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。]

 

《10-1》

○某女元祿袖の着物を着るを褒める 相手曰そんな事をしては片身わけの時に困る 若き奧さん曰わたしは片身にする着物のない爲に死に切れない 相手曰わたしは××の叔母さんの片身に鼠のお高祖頭巾を貰ふ 當時の娘は皆紫色なりしかど ちりめん故それをかぶつた云々

○上根岸百十七 碧童生

[やぶちゃん注:以上の「○」二条分は旧全集には存在しない。因みに、最初の条の「××」には底本編者により、右にママ注記がある。

「碧童」小澤碧童。]

 

《10-2》

○顏に腫物出來 醫者へ行く 醫者切るも泣く その爲に學校を休み 後出る かへる 母曰何ぼお醫者でもあんまりだとて泣く おのれも泣く その爲に學校を休み 後出る 先生出席簿をよみ 返事に驚き「ああ 出てゐるんですか」と云ふ 又「御飯粒がついてゐます」と云ふ 万創膏を少々はれる也

○母産婆の稽古に行き 二人きり故 子供學校よりかへるも母なし 且戸じまりしてある故 雨天にはシネマヘはひる 成績惡し 自習學校に一圓 家庭教師に六圓也 「どうか中學へあげたい」と云ふ 始め受持の教師に家庭教師にたのむ 受持 いけないと云ひ 他の教師にたのむ(小學校教師に家庭教師組合あり)禮は? 五六圓と答ふ一週に一時間づつ三度 先生怠ける その外につけ屆をする 先生座蒲團を持つて來いと云ふ 拵へて行く

《10-3》

○女曰 お醫者樣がさういふ事は(氣の違ふ事)月經の時にあると云ひました その女はもう月經もありとは思はれぬ 黃面なり(半年 or 二年にて癒る) その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す 母これを惡魔の同類とし追ひまはす 子供泣いて二階に上る 母も二階に上る 後にその事を話して曰 向うは泣いてゐたんですが こつちには近眼故見えなかつた 發狂中は夫も子供も憎し 且彼等の罪惡を犯す樣見ゆ 故に彼等を責む 後にその事を話して曰 それでもよくわたしを答めずに置いてくれた

[やぶちゃん注:「その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す」旧制高校は敗戦前には女子は受験出来なかった(旧制高校の廃止(新生大学への切り替え)は昭和二四(一九四九)年であったが、敗戦後からこの間で幾つかの旧制高校で女子の入学を受け入れてはいる)。]

 

○度々話せし發狂中の事故誰も聞くものなし 父(○)はトランプの獨り遊びをなし居る 突然歌をうたひ始む 「ホントニソノ通リダ」と獨語す 父曰よくそんな事を覺えてゐるね

[やぶちゃん注:「父(○)」は総て本文そのまま(ルビではない)。]

 

○二十四型の時計ナンゾトラナイ 顏ニハサウ言ツテヰル

[やぶちゃん注:「二十四型の時計」不詳。文字盤が倍の二十四時間表記になっていて、短針が一日で一回りする時計のことか? 現在も存在する。]

 

○子に 諏訪へ來て氷すべりせよ 湖水はあぶなければ裏の田畝に氷はる故そこへ來てせよ 官權もそこでやる

《10-4》

○結婚前の娘と母とのヒステリイ

○原始 オケコケ

[やぶちゃん注:「オケコケ」不詳。]

 

○祇園女御 出雲のお國 安南の最後の日本人(海外の日本人)

[やぶちゃん注:「祇園女御」(生没年不詳)平安後期の女性。出自未詳。祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子惟清の妻という説もある。白河院の下級官女として仕えていたのを見出され、院の寵愛を得る。長治二(一一〇五)年、祇園社の東南に阿弥陀堂を建てて盛大な儀式を営み、堂を邸宅とした。女御宣旨は下らなかったが、「祇園女御」と通称され、「東御方」「白河殿」とも呼ばれて権勢をふるった。長治元(一一〇四)年頃、藤原公実の娘璋子(しょうし:鳥羽天皇の后で崇徳・後白河両天皇の母待賢門院)を養女に迎え、白河法皇の養女として育んだ。天永二(一一一一)年、仁和寺内に威徳寺を建立して晩年の住居とした。「平家物語」には平清盛を、忠盛に下賜された女御の生んだ白河法皇の落胤とする説があるが、信憑性は薄い。正盛・忠盛父子が女御に取り入って(女御は永久元(一一一三)年に正盛の六波羅蜜寺で一切経供養を行っている)、白河法皇に接近し、官界へ進出したことと関係するか(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「安南の最後の日本人」阿倍 仲麻呂(文武天皇二(六九八)年~宝亀元(七七〇)年)ことか? 遣唐の留学生であった彼は、何度も帰国を試みるが、失敗し、その際に安南(ベトナム)にも漂着しており、その後、帰国を断念して唐で再度、官途に就き、七六〇年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として、ベトナムに赴き、総督を務め、七六一年から七六七年までの六年間も、ハノイの安南都護府に在任している。]

 

○神風連(福本日南)

[やぶちゃん注:「神風連」既出既注

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年はジャーナリスト・政治家・史論家。ウィキの「福本によれば、勤王家の福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれた。本名は福本誠。司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で原敬・陸羯南らとともに退校処分となった。その後、『北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年、同じ『南進論者である菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、翌明治二十二年には陸羯南らと『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという』明治二十四年には、発起人の一人となって『アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立』、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』明治三八(一九〇五)年、『招かれて』、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』、二年後の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し』て当選した。一方、同年に「元禄快挙録」の連載を『九州日報』紙上で開始している。これは『赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が』、「忠臣蔵」の『巷説・俗説を排して』、『史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の』「忠臣蔵」の『スタイル・評価を確立』したものとされる。彼には大正五(一九一六)年実業之日本社刊の「淸教徒神風連」という著作があり、芥川龍之介のこれはその本のメモランダである可能性が高いと思う。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その4) / 由井正雪~了

 

 由井正雪は、駿河の國旅籠屋梅屋庄右衞門といふものゝ方にて、七月廿五日、早天に障子を開(あけ)、東武の方を詠けるに、江戸に當(あたり)、黑雲一村(ひとむら)、眞黑に立(たち)、一天をつゝむ。しばらく有(あり)て風に吹(ふか)れ、四方へ散行(ちりゆ)けるをみて、障子、引立(ひきたて)、内へ入(いり)、水仕(みづし)の者の釜より飯を移(うつし)けるが、煙の結ぼふれ、其氣のくろく座中に滿(みち)けるを、正雪、みて、元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)三通みち、氣を鎭(しづめ)、是をみて、則(すなはち)、熊谷三郎兵衞・鵜野九郎兵衞・玉井半七・星崎岩鐵・原田次郎右衞門を召集(めしあつめ)、正雪、申けるは、

「我、忠彌を殺さずして、此謀叛、顯(あらはれ)候。東武に一村(ひとむら)の雲氣、立(たち)候を、考へみるに、忠彌、からめられ候に疑なし。後悔、今更かへるべからず。只今、討手の向ふべし。各(おのおの)、此時、臆病を働き、后(のち)の笑ひを取(とり)玉ふな。露と成(なり)煙と成(なる)も、過去遠々の因果なり。臆し給ふな。」

と諫立(いさめたて)、頭(かしら)を剃(そら)せ、身を淸め、裝束改め、香(かう)をとめ、謀叛往返(わうへん)の書通をやき捨(すて)、一通、書置、認(したため)、料紙に添(そへ)、床(とこ)に置(おき)、討手(うつて)の來(きた)るを待居(まちゐ)たり。

 正雪が討手に駒井右京進、被仰付(おほせつけらる)。

 右京進、早馬にて七月廿五日八(やつ)時分、駿河缺付(かけつけ)、御城代大久保玄番頭(げんばのかみ)、町奉行落合小平次より相談致し、旅籠町觸(ふれ)を𢌞し、旅人を押置(おしおき)、正雪人形(ひとがた)を以て改め玉ふに、梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ、駒井右京進、正雪かたへ人を遣はし、

「江戸表にて御家人を切殺(きりころし)、此地隱れ居(をり)候者、有之(これあり)。きびしく御詮儀にて候。其者、手疵(てきず)負(おひ)候間、改申(あらためまうす)。町役所出(いで)られ候樣に。」

と被申越(まうしこされ)しかば、正雪、兎(と)かく難澁して、其夜も既に明(あ)ければ、大久保玄番頭、聞へたる荒人(あらびと)なれば、大(おほき)に怒りて、

「天下に對し、大事の囚人を斯(かか)る手延(てのび)の詮義を仕(つかまつり)、萬一、取逃(とりにが)して如何可仕(いかがつかまつるべき)。併(しかし)、紀伊大納言殿御家來と申(まうす)を利不盡に搦取(からめとり)候も麁忽(そこつ)にて候。善惡、我等、罷越(まかりこし)、對面仕(つかまつる)。其上にて埒(らち)明可申(あけまうすべし)。」

と、足輕、大勢、召連(めしつれ)、梅屋方へ立越(たちこし)、申入(まうしいれ)られけるは、

「此度(このたび)、武州にて天下對し、狼籍者、有之。依之(これによつて)、度々、町役所出られ候樣に申越候へども、兎角に出(いで)られず候。尤(もつとも)不審にて候。大久保玄番頭罷越候上は、御のがれ有間敷(あるまじく)候。御出(おいで)、御對面候へ。」

と、あらゝかに申入られける。

 正雪、是を聞て、

「さらば、出(いで)て對面可仕(つかまつるべし)。」

とて、練(ねり)に桃色の裏、付(つけ)たる袷帷子(あはせかたびら)、菊水の紋所、伏縫(ふせぬひ)にしたるを着(ちやく)し、唐綾(からあや)の帶を前に結び、金龍(きんりやう)の目貫(めぬき)打(うつ)たる九寸五分の小脇差を指(さし)、杖を突(つき)、路次下駄(ろじげた)をはき、郭善坊(くわくぜんばう)とて、丈六尺餘(あまり)、面(つら)赤く、眼(まなこ)大きく、口廣(ひろき)、大力(だいりき)の入道に刀を持(もた)せ、其外、宗徒(むねと)の剛勇のもの、十人餘(あまり)も前後を圍(かこま)せ、閑(しづか)に立出(たちいで)、大久保どのに對面し、

「我等事、紀伊大納言殿家來に星崎玄正と申ものにて候。先々(まづまづ)、被仰聞(おほせられきこえ)候狼籍者の儀、家來共(ども)迄、詮義仕(つかまつり)候に、手疵負(おひ)候もの、無之(これなく)候。若(もし)疑敷(うたがはしく)思召(おぼしめし)候はゞ、爰(ここ)にて、銘々、御改め候へ。」

と申ける。

 玄番殿、被申けるは、

「天下の大法にて、手疵の事は兎も角もにて候。玄番罷越候上は御供可仕。御病氣にても、苦(くるし)からず、籠にて御出候へ。町の前後をば足輕を以て十重廿重(とへはたへ)に取かこみ申候。天上り地をくゞる神變も候はゞ存ぜず、人間の所爲(しよい)にて叶(かなふ)まじ。覺悟御究め候へ。」

と申さる。

 正雪、笑(わらひ)て、

「御尤にて候。病氣にて候へば、籠の通る程、道を御明(おあけ)下され候へ。」

とて内へ入、

「もはや、遁れぬ所にて候。各々覺悟候へ。」

とて、盃を出(いだ)し、最期の酒盛を始めける。

 郭善坊に盃をさし、

「御身、一度、出家得脱(とくだつ)の佛身也。介錯、賴入(たのみいり)候。死出(しで)の山の魁(さきがけ)仕(つかまつり)、各(おのおの)進(すすみ)候へ。」

とて、氷の如くなる小わきざしを拔(ぬき)て、左の腰突立(つきたて)、右一文字に押𢌞(おしまは)し、首、さし延(のべ)ければ、郭善坊、透(すか)さず、首、打落(うちおと)す。

 殘る者ども、

「後(おくれ)じ。」

と、肌、押脱(おしぬぎ)、腹を切(きる)も有(あり)、差違(さしちがへ)、おもひおもひに念佛題目を唱(となへ)、算(さん)を亂して重り臥す。

 此有增(あらまし)、表に扣(ひかへ)し足輕ども、聞付(ききつけ)て、

「すはや、自がいをするは。搦捕(からめとれ)。」

と、戸、押明(おしあけ)、押破(おしやぶり)、我先にと込入(こみいり)けるが、正雪、兼て扉をかすがいにて強く打〆(うちとめ)、細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)、たゝみ、ひしをさし、容易(たやすく)込入事、ならず。

 見ながら、自害をとげさせける。

 則(すなはち)、各(おのおの)首切(くびきり)、酒にて洗ひ、正雪を始め、徒黨の奴原(やつばら)、駿河阿部川原にて獄門にかけさせさらせり。

 其ころ、狂歌、

  正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり

 

[やぶちゃん注:「元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)」「元享利貞」(げんりこてい)とは「易経」で乾(けん)の卦(け)を説明する語で、「元」を「万物の始・善の長」、「亨」を「万物の長」、「利」を「万物の生育」、「貞」を「万物の成就」と解して、天の四徳として春夏秋冬・仁礼義智に配する。但し、それを「三通みち」というのはよく判らぬ。先ほど見た江戸の空の黒雲と、室内の黒い湯気と煙の中に、その印(シンボル)が三つも満ち満ちているのを幻視したとでも言うのだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「玉井半七」不詳。

「星崎岩鐵」不詳。

「原田次郎右衞門」不詳。

「香(かう)をとめ」薫じていた香を消しであろう。後で衣裳改めるので、香を焚き染めたでは、私はおかしいと思う。

「謀叛往返(わうへん)の書通」謀叛企画のために諸方との往復の書簡類。

「料紙に添(そへ)」「認(したため)」た「書置」を書いた余りの紙で包んだものか。

「駒井右京進」不詳。甲斐武田氏の旧臣に同名の者の名を見出せるから、その末裔かも知れぬ。

「八(やつ)時分」午後二時頃であろう。

「缺付(かけつけ)」「驅けつけ」。

「大久保玄番頭(げんばのかみ)」当時の駿府城代大久保忠成(在職:寛永一〇(一六三三)年~明暦二(一六五六)年)であろうか。「絵本慶安太平記」を見ると、例の大久保彦左衛門忠教(ただたか)の弟とし、この時、七十九歳とするが、本当かどうかは確認出来なかった。

「町奉行落合小平次」旗本。駿府大手組奉行(寛永一七(一六四〇)年就任)。「川崎市立博物館だより」第三十三号(PDF)で、彼へ宛てた徳川秀忠の知行宛行(あてがい)朱印状(知行地の割り当てと、その権利保障をした文書)の画像と解説が見られ、その解説の最後に正雪一党の捕縛の事実も載る。

「人形(ひとがた)」人相書き。但し、絵ではなく、特徴を述べた文書である。絵はテレビの時代劇の真っ赤な嘘である。

「梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ」同も文章としてはしっくりこない。意味は「梅屋庄右衞門方の人(者)、人體書(にんていが)きの通りにて、正雪に究(きは)まりければ」で判る。

「兎(と)かく難澁して」のこのこ出て行っては、抵抗も出来ず、ただ捕縛されるだけだからである。

「伏縫(ふせぬひ)」絵革と革を突き合わせて紐状に縫ったものをかく称するが、これは非常に手間の掛かるもので、江戸時代ではそのように見せた、二本の捻り糸を並べて縫いつけたものを言うようである。

「九寸五分」約二十九センチメートル。「鎧通し」の別称でもある。

「路次下駄(ろじげた)」露地下駄(この場合は歴史的仮名遣は「ろぢげた」となる)。雨天や雪の場合に露地(茶室の庭)を歩く際に履く、柾目の赤杉材に、竹の皮を撚った鼻緒を付けた下駄。

「郭善坊(くわくぜんばう)」不詳。

「六尺餘(あまり)」一メートル八十二センチメートルほど。

「星崎玄正」出まかせの名であろう。

「人間の所爲(しよい)にて」は遁るることは「叶(かなふ)まじ」。

「差違(さしちがへ)」るも有り。

「算(さん)を亂して」占いの算木を乱り散らした如く、入り乱れて。

「自がい」「自害」。

「かすがい」ママ。「鎹(かすがひ)」。木製のものを相互に繋ぎ止めるために打ち込む両端の曲がった大釘。

「細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)」周囲の部屋に無暗矢鱈、縦横無尽に張り渡したのである。侵入を困難にさせる賢い方法である。

「たゝみ、ひしをさし」「疊」に「菱を刺し」。忍者のアイテムでお馴染みの鉄菱(てつびし)であろう。

「見ながら、自害をとげさせける」ただただ見物するばかりで、彼らの思う通りに、自害を遂げさせてしまったのであった。

「駿河阿部川原」駿府城西近くを流れる安倍川の河原。

「正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり」特異的に手を加えず、底本通りに示した。整序すると、

 正雪は元が紺屋(こうや/こんや)てありければ獄門振りも見事なりけり 

であるが、何を掛けているのか(「こんや」と「ごくもん」)私にはよく判らぬ。単に血染めの梟首の様か或いは、染色作業の何かと関係があるか。なお、現在も静岡県庵原郡由比町由比に「正雪紺屋」として生家が現存し、今も縁者が営んでいるとこちらにある(地図附き)。] 

 

 斯(かく)て八月十日、忠彌を始(はじめ)、謀叛の輩(ともがら)、妻子一族殘らず、武州鈴森にて磔(はりつけ)に行(おこなは)るゝ。

 忠彌、三十七歳也。

 磔に行はるゝ時、次々のもの迄も念ごろにいとま、こひ、禮を伸(のぶ)。辭世に、

 

 雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ

 

[やぶちゃん注:辞世の前後は一行空けた。

「次々のもの迄も」彼の後に処刑される同志及び妻子・母並びに連座させられた親族の一人一人にまでも。

「雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ」やはり底本のままに示した。整序すると、

 雲水(くもみづ)の行衞(ゆくへ)も西の空なればたのむ甲斐(かひ)あり道しるべせよ

別に「雲水」を音読みしてもよいが、硬い気がする。] 

 

 或説に、丸橋、召捕(めしとら)れ、品川へ引(ひか)るゝ折、忠彌は、はな馬にて、其跡より、だんだん、妻子同類引渡(ひきわたさ)るゝに、至(いたつ)て幼き童部(わらはべ)どもをば、切繩を結び、首にかけさせ、手に風車(かざぐるま)などの遊(あそび)物を持(もた)せ、穢太(ゑた)ども、肩車にのせ、母親どもの乘(のり)し馬の脇付添(つきそひ)參り候。外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまりへ、丸橋が馬の、先(まづ)のぼり參り、屆きしかども、跡の紙幟(かみのぼり)は、いまだ、糀町土橋邊やうやう見へたり。

「斯る大勢の罪人、引晒(ひきさ)らされし事も、前前(まへまへ)、なかりし。」

と見物の諸人、申けると也。

 忠彌が、品川表(おもて)にて、馬より抱卸(だきおろ)されける警固の者共禮を云(いひ)、少も臆するけしきはなかりける。

 磔柱叢取付られ、柱、おし立(たて)ける折(をり)、忠彌、高聲(かうしやう)に念佛申けるを、母、顧(かへりみ)て、頻(しきり)にむせび入(いり)、淚を流しけるを、忠彌が女房、是を見て、母の心中、押(おし)はかり、悲しくや思ひけん、母に申樣(まうすやう)、

「此世は假の宿(やどり)にて、永き來世こそ大事にて候。何事もおもひ捨(すて)玉へ。」

と目を塞き、

「御念佛、御申(おんまうし)候へ。」

とて其方(そのはう)は念佛を申(まうし)、母にも勸(すすめ)ければ、母、打(うち)うなづき、念佛を申(まうし)けるといへり。

 母子恩愛の情は、かゝる大惡人を子に持(もち)、そのあらき浮目(うきめ)に逢(あひ)ける。「子の善惡は父母の教(をしへ)による」といへば、子の父母たる人、貴賤にかぎらず、心得有(ある)べき事共(ども)也。 

 

 丸橋かかゝるしな川なりけれは安房上總まていひ捗るかな 

 

[やぶちゃん注:「はな馬」「端馬」。ここは引き回しの先頭の馬の意。

「穢太(ゑた)」差別意識から「穢多」の字を当てた、中世以降、賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制では、民衆支配の一環として非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理や、ここに見るように罪人の処刑や見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや河原などの特定の地域に居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)の注を参照されたい。

「外櫻田(そとさくらだ)」外桜田門(現在の桜田門)周辺。日比谷堀・桜田堀と外堀に挟まれた範囲で、武家屋敷が立ち並んでいた。もともとは東京湾の入江であったが、文禄年間(一五九二年~一五九六年)に江戸城西丸造営で生じた大量の残土で埋め立てられた。江戸時代を通じて諸大名の屋敷地となった。国立国会図書館解説を使用させて戴いた。この部分「外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまり」と一応読んだが、底本は『外桜田外馬(そとさくらだそとうま)とまり』であって、これ全体が地名や位置名を指しているかも知れぬ。よく判らぬ。ただ、「のぼり參り、屆きしかども」とあることから、この場所が周囲からは有意に高い丘状になっていたことが判る。だからずっと後ろ、列の最後の幟(次注参照)が、遠望出来たのである。

「跡の紙幟(かみのぼり)」後尾に掲げられた罪状などを書いた(と思われる)市中引き回しの紙製の幟(のぼり)。

「糀町土橋」半蔵門附近か。そこなら直線でも凡そ一キロメートルは離れている。引き回しの行列の異様な長さ、また、それだけ多量の処刑者がいたことがよく判る。八月十日に一味とその親族三十五人の処刑で一件は落着したと、小学館の「日本大百科全書」にはあり、同じ記載には正雪が計画に引き入れた浪人の数は二千人と伝えられている、とある。この時、丸橋忠弥とともに鈴ヶ森刑場で処刑された江戸工作担当のメンバー(他に小塚原刑場でも処刑されている)は後に出る「丸橋忠彌」によれば、全部で『二十六人』とある。]

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その3)

 

 正雪は七月廿二日、

「駿河の久能の御城を乘取(とつとら)ん。」

とて、宗徒(むねと)の者ども、大勢、先達(さきだつ)て登(のぼ)し、其身はかごに乘(のり)、わづか供人(ともびと)二十人斗(ばかり)召連(めしつれ)、東空[やぶちゃん注:ママ。「東雲」(しののめ)の誤字か。]に東武を立(たち)、駿河へ下(くだる)とて、神奈川の宿外(しゆくはず)にて鵜野九郎兵衞を招(まねき)、

「忠彌は武勇の者なれども、其氣質、物に忍(しのび)ず、短慮未練にして、大功、とげ難し。汝、東武に忠彌を密(ひそか)に差殺(さしころ)し、後難を除(のぞく)べし。はやはや、急げ。」

と申付(まうしつく)。

 九郎兵衞、聞(きき)て、

「忠彌は四天八勇の隨一にて候。かの忠彌を、今、故(ゆゑ)なく殺(ころし)候ては味方、甚(はなはだ)疑(うたがひ)を生じ、返忠(かへりちう)のものも候わん。其上、武州にて、又、誰(たれ)か大將の人と成(なる)。此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて、先(まづ)、駿河へ御登(おのぼり)候て、今度の大望(だいまう)をとげ候へ。」

と、熊谷三郎兵衞・九郎兵衞、とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「是は紀伊大納言殿の家來由井正雪と申(まうす)者にて候が、長病(ちやうびやう)にて紀州へ罷登(かまりのぼ)り候。乘打(のりうち)御免あるべし。」

といひければ、「苦(くるし)からず。御通り候へ。」

とて相違なくかごを通ける。

 夫より、正雪は駿河の府中の旅籠町梅屋庄右衞門といふものの方へ落着(おちつき)ける。

[やぶちゃん注:「鵜野九郎兵衞」正雪門人の中でも高弟で大将格。鵜野九郎衞門。

「物に忍(しのび)ず」冷静に期を見ることが出来ず、やたらに血気に逸り、肝心なる忍耐が出来ない。

「四天八勇」仏法を守護する四天王・(天龍)八部衆に掛けた勇猛なメンバーの名数。

「返忠(かへりちう)」裏切ること。

「此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて」この度(たび)の世を覆す大事を成すを支えるに相応しき者は、かの丸橋忠也弥をおいては、他に御座らぬと存ずればとて。「は」は「取り立て」(強意)の係助詞と採り、濁音化しない。

「熊谷三郎兵衞」浪人。由比正雪の乱に参加し、加藤市右衛門とともに、京都二条城奪取計画を担当したが、乱の未然露見によって逃亡、同慶安四年七月二十九日、江戸で自殺した(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「九郎兵衞」彼の弟か。

とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「乘打御免」病者であるから、駕籠から降りずに、乗ったままで関所を打ち越す(通過する)ことを許す(許してもらう)こと。

「梅屋庄右衞門」この宿「梅屋」は実に徳川頼宣の定宿であった。]

 

 爰に正雪が徒黨隨一奧村八郎右衞門と云(いふ)もの有(あり)けるが、親(したし)き友に十時醉龍子(とときすいりやうし)といふ隱居あり。此者、八郎右衞門方へ來(きたり)、語(かたり)けるは、

「我、先夜【七月九日なり】、天文をみるに、一星(いつせい)、月の正東(しやうとう)に出(いで)て月中(げつちう)を直通(ぢきつう)にし、寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日戌の刻、斯(かか)る天變有けるが、肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り、其上、賊星(ぞくせい)、盛(さかん)にして、直(すぐ)に主星を犯す。不思義成(なる)事也。」[やぶちゃん注:【七月九日なり】は二行割注。]

と語(かたる)。

 奧村、密(ひそか)に正雪が事を語りければ、醉龍子、大(おほき)に驚き、奧村を禁(いましめ)て曰、

「今は天下泰平にして、萬民、堯舜(げうしゆん)の世に逢(あひ)て鎖(とざさ)ぬ御代(みよ)を樂(たのしみ)、百歳彌勒の代に及ぶ共(とも)、何者か天下を亂すべき。然るに況(いはんや)、正雪・忠彌が分ざいにて、かゝる大望、企(くはだて)候事、蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)に似たり。其上、當陽成院御在位也。公家に西八條殿おはしまし、武家には幼君御堅めとして井伊・保科(ほしな)の名將を始(はじめ)、御家は重代の御大名、雲の如く霞の如(ごとし)。昔の楠、再び生出(いきいで)るとも、容易には叶(かなふ)まじ。訴人に出(いで)て後(のち)の大難を遁れ玉へ。疾々(とくとく)。」

と進(すすめ)ければ、奧村、忽ち心を變じ、松平伊豆守殿へ訴人に出(いで)けるこそ、忠彌・正雪が謀叛は顯われける[やぶちゃん注:「わ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「奧村八郎右衞門」一般には訴人は奥村八左衛門と、その従弟奥村七郎右衛門とされる。但し、鏡川伊一郎氏のブログ「小説の孵化場」の「慶安事件と丸橋忠弥 5」その他のネット記載を見るに、この二人は実は幕府の間者であったと考えられ(八左衛門の兄奥村権之丞は当時の老中首座松平伊豆守信綱(後注参照)の家来であったからである)、のちに彼らは三百石を得て御家人となっており、鏡川氏によれば、彼らの兄奥村権之丞もこの慶安の乱未遂直後に百石加増されて千石の知行取りとなり、しかも公儀からは別に金十枚と『着物二かさねを貰っている。弟たちの密偵の成功報酬であったと思われる』と述べておられる。また、奥村八左衛門・七郎右衛門だけでなく、別に林理左衛門なる訴人もおり(同じく松平伊豆へ知人を通じて訴え出ている)、彼も実に五百石を貰っている、とある。「絵本慶安太平記」などでは丸橋が奥村に借金を願い出て、早急に融通してもらうために計画を打ち明けてしまってその謀略の内容に驚いた奥村が訴え出たと書かれているいるが、堪え性がないとは言え、丸橋の低劣軽率なる粗相とするそれは鏡川氏同様、受け入れられない。なお、変わった形での本件の公儀側への情報露見が、根岸鎭衞の「耳囊 卷之七 備前家へ出入挑燈屋の事」、及び、松浦静山の「甲子夜話卷之一 28 松平新太郎どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事」(孰れも私の電子化注。前者は訳もつけてある)に出る。短い上に面白いので、参照されたい

「十時醉龍子」不詳。この星占の老人を出す辺り、如何にも持って回った芝居染みた「ありがち」な展開で、却って作りものっぽい

「七月九日」慶安四年のそれは、グレゴリオ暦で一六五一年八月二十四日。

「寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日」「寛文十四年」は存在しない。寛文は寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日) 延宝に改元している。後の天草の乱勃発から、これは「寛永十四年丁丑」(一六四七年)の誤りであることが判る。こういう誤り自体が、このシークエンスの作話性を物語っている。因みに、以上の誤りなので注する必要もないが、延宝二年は甲寅(きのえとら)である。寛永十四年の二月八日はグレゴリオ暦で一六四七年三月四日

「戌の刻」午後八時前後。

「肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り」天草の乱は寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)に終っている。しかし、十ヶ月弱も後(同年は閏三月がある)の乱の予兆というのは、これ、今の感覚では、如何にも間が抜けているように私には思われる。

「賊星(ぞくせい)」彗星。流星。

「主星」陰陽五行説で、その日の干支の干と、他の五行の気との関係に於ける相生相剋の変化を星に置き換えた時に措定される十大主星の孰れかを指す。

「百歳」永い年月の意。

「彌勒の代」弥勒菩薩は釈迦入滅から五十六億七千万年後に地上に如来となって来臨し、衆生を救うとされる。

「分ざい」分際。

「蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)」孰れも「力のない者が自分の実力も顧みず、天下をとろうとしたり、強い者に立ち向かう無意味な行為を指す譬え。前者は、虫のカマカリが前足を振り上げて車の輪に向かおうとすることで、「蟷螂が斧を以って隆車に向かう」「蟷螂車轍に当たる」などとも言う。前漢の韓嬰(かんえい)「韓詩外伝」に基づく故事成句。後者は、蚊(か)や蜂(はち)が鉄製の牛の像(或いは本物の屈強な猛牛の角でもよい)の、その角を刺して血を吸おうとすること。

「陽成院」不審。当代の天皇は後光明天皇(ごこうみょう 寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年:反幕府的であったともされる)である(追号も後光明院)。彼の祖父で三代前の後陽成天皇(後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年:追号・後陽成院)とごっちゃにしてしまったものか。この辺りも、あってはならない誤りで、やはりこのシークエンスの作話性の証左とは言えまいか?

「西八條殿」不詳。識者の御教授を乞う。

「井伊」井伊家。当代の井伊家では、家督を譲ったものの、存命であった井伊直勝(天正一八(一五九〇)年~寛文二(一六六二)年:上野安中藩初代藩主で直勝系井伊氏初代)がいる。徳川四天王の一人井伊直政の長男で家康の信望も厚かった。

「保科」保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)会津松平家初代。信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫で第三代将軍徳川家光の異母弟。家光と第四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。

「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。]

 

 去程に、江戸中、騷動し、御老中御寄合ましまし、忠彌が討手には石谷(いしがや)將監殿、向(むかは)れける。

 此折(このをり)、忠彌、女房に向(むかひ)、申けるは、

「家は近き内、百萬石取(どり)の大名と成(なる)ならば、汝、御臺所と仰(あふ)がせ、大勢、侍女を召仕(めしつかひ)、榮華の春を迎(むかへ)、今の貧苦を忘るべし。賢者の戒に糟糠の妻は堂をくたさず、貧賤の朋(とも)をば捨(すつ)べからず、と云(いへ)り。汝、貧にして朝暮のくらしに侘(わび)ながら、老母に孝有(あり)て、我によく仕(つか)り。報恩の酬(むくふ)べき折、來(きたる)也。」

と、心よげに語(かたり)ければ、女房、泣(なき)て曰、

「貧は先(さきの)世の宿報也。然るに、御身、及(および)なき天下を望(のぞみ)、今にも此事顯(あらはれ)なば、御身は心からなれば、いか成(なる)荒き刑罪にあひ、釜に煎られ、牛裂(うしざき)に逢(あひ)給ふとも、是非もなき次第也。七十に餘(あまる)母人(ははびと)、常々まづしき渡世なれば、心に任せ給ふ御事もなくて、子故(ゆゑ)にうきめを見玉はん事、餘りにいたわしく候。急(いそぎ)て此惡事を思ひ留(とどま)り、訴人に出(いで)玉はゞ、天下に對しては大忠臣、母御(ははご)へは孝行の第一に候。今夜の内に心を飜し、善人となり給へ。」

とさまざまに勸めければ、忠彌、笑(わらひ)て、

「大丈夫といふ者は、生(いき)て公侯に封(ふうぜ)られずんば、死して五體を煎らるゝ共(とも)、悔(くい)なかるべし。」

と云(いひ)ける。

 其詞(ことば)の未終(いまだをはらざる)に、捕手(とりて)の足輕、忠彌が家をおつ取卷(とりまき)、大竹を手々(てんで)にひらき、

「火事よ、火事よ。」

と呼(よばは)る。

 忠彌、竹の割るゝ音を聞(きき)て、帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)、障子、押明(おしあけ)、緣先へいでけるを、石谷殿の組の同心、間込彌右衞門、一番に走懸(はしりかけ)、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」と思ひしが、

「忠彌に組(くむ)は氣健(けなげ)也。」

と、彌右衞門が元首(もとくび)をつかみ、押付けるを、彌右衞門、忠彌を懷(いだき)、緣より下へ落(おち)けるを、二番三番の捕手ども、すかさず大勢折重り、忠彌をからめ引居(ひきすゑ)ける。

 足輕ども、大勢、家の内へ込入(こみいり)ければ、忠彌が女房、申樣(まうすやう)、

「此家の内には只(ただ)自(みづから)と老母斗(ばかり)にて、靜(しづか)に御入候へ。」

とて、連判狀の有(あり)けるを、爐に入(いれ)、燒捨(やきすて)、髮を撫付(なでつけ)、我(われ)と後へ手を𢌞し、顏色も變せず、靜に繩をかけられける。斯(かく)て、母をも禁(いまし)め、三人、獄屋へ引(ひき)たりける。

[やぶちゃん注:丸橋忠弥の妻の健気さが如何にも哀れである。

「石谷(いしがや)將監」石谷貞清(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。本事件の一ヶ月前の慶安四年六月十八日(一六五一年八月四日)に江戸北町奉行に就任していた。但し、彼が従五位下左近将監に叙任されたのは同年八月十六日である。しかし、別に後代に書かれたものであるから、これは何ら、問題はない。

「堂をくたさず」底本では「堂」を「黨」(党)の誤字(右に補正注がある)とするが、意味は「堂(家・家門を腐(くた)さず」で通るように私には思われるので、字はそのままとした。

「うきめ」「憂き目」。

「いたわしく」ママ。

「大竹を手々(てんで)にひらき」逃走を防ぐためのバリケードではなく、後に見るように、竹を折り割って、火災の際、家屋が焼けて爆ぜる音を出すためのものであろう。

「帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)」妻と就寝しようとしたところであったか。

「間込彌右衞門」不詳。「まごめやゑもん」と読んでおく。

「無手(むず)」オノマトペイアに漢字を当てたもの。上手い当て字だ。

「元首(もとくび)」頸根っこ。

「からめ」「搦め」。]

 

2018/01/28

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 駒込の一人住い

 

     駒込の一人住い

 

 十二月に入ってから居士は寄宿舎を出て、本郷区駒込追分町三十番地に移った。自分で一戸を構えたのは、この時がはじめである。これより前十月二十一日の陸羯南(くがかつなん)翁宛の手紙に、下宿を探している旨を述べ、その条件を次のように記している。

[やぶちゃん注:「本郷区駒込追分町三十番地」現在の東京都文京区向丘(むこうがおか)二丁目の、この附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「十二月」明治二四(一八九一)年十二月。

「陸羯南」(安政四(一八五七)年~明治四〇(一九〇七)年)は政治評論家で新聞人。青森の生まれ。本名は中田実。紆余曲折を経て、明治一六(一八八三)年に太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた。この頃、友人加藤恒忠(安政六年~大正一二(一九二三)年は後の外交官・政治家。彼の三男忠三郎は子規の妹リツの養子となって正岡家の祭祀を嗣いでいる)の甥正岡子規の訪問を受けている。二年後には文書局が廃止されて内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの明治二一(一八八八)年の春に依願退職、翌明治二十二年二月十一日に日刊紙『日本』を創刊、紙上で日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開した。結局、この翌明治二十五年に隣りに移り住んで来た正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規は「生涯の恩人」と泣いた、と参照したウィキの「陸羯南」にはある。肺結核のため、満四十九歳で亡くなった。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。歴史的仮名遣なので漢字を恣意的に正字化し、前後を一行空けた。]

 

尤(もつとも)通例の下宿屋では不都合也。なるべく離れ坐敷の貸間にて少しは廣き處(二間あれば殊に宜(よろ)し)ほしく(本箱少々有之(これあり)候故六疊の間位にてはとてもはいり不申(まうさず)候)といふむつかしき注文に御坐候。それでふと思ひつき候は、明治十六年頃御寓居の團子阪の植木屋はよほど右の注文に相應するものかと存候故御尋申上候次第に御座候。乍御面倒(ごめんどうながら)右御曾寓(さうぐう)之在り所御御聞被下度奉願上(おききなされくだされたくねがひあげたてまつり)候。勿論右の處に限る譯にはなけれども閑靜なる處にて學校より餘り遠からざる處と存(ぞんじ)候故、團子阪かまたは當時御住居の根岸近傍よろしくと存候。恐れ入候へどももし右樣の場處御坐候はば御一報被下度奉願上候。

[やぶちゃん注:「御
曾寓(さうぐう)」かねてよりのお住まい。

 

 追分町の家へはどういう順序で入るようになったか分らぬが十月中から移転の意志があったことはこれで明であるし、翌年根岸に住むようになる前兆も已にここに見えているように思う。

 居士が閑静なところに下宿を探したのは、学校の勉強のためではない。小説を草せんがためであった。しかもこの時の小説は前年来の合作小説などと違って、直(ただち)にこの一篇を提げて世に問おうとしたのである。

 居士の小説に対する興味の変遷は、二十三年中藤野古白に与えた手紙に「少小より餘が思想の變遷を見るも龍溪居士に驚かされ春廼家(はるのや)主人に驚かされ二葉亭に驚かされ篁村翁に驚かされ近頃また露伴に驚かさる」とあるのに尽きているように思う。このうち最も居士に刺激を与えたのは春酒屋主人及(および)露伴氏で、前者の影響は「竜門」「山吹の一枝」などとなって現れたが、遂に大成するに至らなかった。露伴氏の影響は春廼家主人よりも更に強く深いものがあり、それが寄宿舎を出て小説執筆を決意する原動力になったのである。晩年この当時の事を回顧した「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」の中で、居士は次のように述べている。

[やぶちゃん注:「龍溪居士」矢野龍溪。既出既注。

「春廼家主人」坪内逍遙。既出既注。

「篁村」饗庭篁村(あえばこうそん 安政二(一八五五)年~大正一一(一九二二)年)は小説家・演劇評論家。本名は饗庭與三郎、別号に「竹の屋主人」。江戸文学の継承者。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を空けた。「天王寺畔の蝸牛廬」(ネット情報によれば、明治三五(一九〇二)年九月の『ホトトギス』掲載)は原典を確認出来ないので底本のまま載せた。]

 

そこで今までは『書生気質』風の小説の外は天下に小説はないと思うて居った余の考えは一転して、遂に『風流仏』は小説の最も高尚なるものである、もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬという事になってしもうた。つまり『風流仏』の趣向も『風流仏』の文体も共に斬新であって、しかもその斬新な点が一々に頭にしみ込むほど面白く感ぜられた。『風流仏』は天下第一となり、露伴は天下第一の小説家となり了(おお)せた。さすがに瘦我慢の余も『書生気質』以後ここに至って二度驚かされたわけである。

 それからは言うまでもなく露伴崇拝となってその『対髑髏(たいどくろ)』なども最もすきな小説のであった。これより後余は少し『風流仏』に心酔して熱に浮されたような塩梅で、どうか一生のうちにただ一つ『風流仏』のような小説を作りたいという念が常に頭の中を往来して居って、今まで小説には疎(うと)くなって居たものが遽(にわか)に小説中の人間となって、自ら立騒ぎたいほどの勢いであった。そこで一つの『風流仏』的小説を書くことが殆ど余の目的となって、それがためにいろいろの参考書を集めたこともある。それがためにわざわざ三保の松原を見に往ったこともあった。

 

 居士の『風流仏』に対する心酔は尋常でなかった。「わざわざ三保の松原を見に往った」というのは、「しゃくられの記」上篇の時を指すのであろう。居士はこの決意の下に『風流仏』的小説を書くべく、駒込に家を借りて筆を執りはじめたのである。広い家の中に動く者は居士一人しかない。表には「来客を謝絶す」と貼札し、十四畳の間には置火燵を中心として、足の踏み処もない位書物を出しひろげ、寂然(せきぜん)たる裡(うち)に思(おもい)を凝(こら)したのであった。

[やぶちゃん注:「しゃくられの記」上篇は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから全文が視認出来る。]

 この駒込の一人住いについては、あまり記されたものがない。漱石氏の談話の中に「追分の奥井の部内におった時分は、一軒別棟の家を借りていたので、下宿から飯を取り寄せて食っていた」とあるのが、僅にその生活ぶりを伝えているに過ぎぬ。「大將雪隠へ這入るのに火鉢を持つて這入る。雪隠へ火鉢を持つて行つたつて當る事が出來ないぢやないかといふと、いや當り前にするときん隱しが邪魔になつていかぬから、後ろ向きになつて前に火鉢を置いて當るのぢやといふ。それで其火鉢で牛肉をぢやあぢやあ煑て食ふのだからたまらない」という逸話もこの際のものである。

[やぶちゃん注:夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。しかし、原文の「ぢやあぢやあ」を「じいじい」(底本)に変えることは表記上、私は「あってはならないことだ」と考えるということは言っておかなければならない。これが仮に宵曲の仕儀だとすれば、彼の書誌学的態度は最低である。]

 この年十二月三十一日、虚子氏に与えた手紙に「小生やむをえざる儀に立ち至り現に一小説を書きつつあるなり。その拙なること自分ながらうるさく實は冬期休暇已來來客謝絶致候得どもそれだけに仕事は出來ず、一枚かいてはやめ半枚かいては筆を抛(なげう)つこと幾度といふことをしらず」とあるから、小説の方が進行せぬうちに、二十四年は暮れてしまったものと見える。

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その2)

 

 今年慶安四年辛卯(かのとう)四月廿日、大將軍家光公御他界の折を幸と悦び、正雪、忠彌が方へ來り申けるは、

「天の與ふる時節にて候。かねがねの大望、當七月廿六日曉を限りにおもひ立申(たてまうす)べし。某(それがし)、かねて御城の堀の淺深を探置(さぐりおき)候。丹波國より金掘(かなほり)を呼寄(よびよせ)、御城の水下を掘ぬき、御城へ死間(しくわん)を入(いれ)、二の鹽焇藏(えんしやうぐら)へ火を付(つけ)、御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし。其上、福原右馬介が孫福一鬼とて、能(よく)猿(さる)遣ふ者、有(あり)。此頃、密(ひそか)に道灌山へ猿廿疋程、集(あつめ)、火を付(つく)る事を敎(をしへ)候。此猿どもを大名衆の屋敷屋敷へ忍入(しのびいら)せ、火を付(つけ)させ申べし。又、七月廿六日は天ほう日と申(まうし)て、大風の吹(ふく)日にて候。又、江戶の町々へ、二、三百人の忍びを入(いれ)、諸所より火をかけ、虛空生(こくうむしやう)に燒立(やきたて)、江戸中の用水、玉川の水上(みなかみ)、とめ、事を闕(かか)せ申べし。又、鐵炮上手にて物馴(ものなれ)たる者ども、二、三百人程、火消裝束に出立(いでたた)せ、腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮を以て、御老中其外大名登城の節、撰打(えらみうちに)打落(うちおと)し、面立(おもてだち)たる大名屋敷へ、五十人、六十人、一組に組合せ、火炮(くわはう)鳴物(なりもの)を以て人の耳目を驚(おどろか)し、前後左右より亂入(みだれいり)、散散(さんざん)に切殺(きりころし)申さすべし。駿府の御城は、我(われ)、幾度か忍行(しのびゆき)、淺間山へ登(のぼり)、とくと、懸り場・引場(ひきば)迄の事、細(こまか)に見置(みおき)たり。乘取(のつとり)候に手間(てま)入(いり)候まじ。神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候。其家士、御當家を恨(うらみ)奉るよし承る。其上、駿河大納言忠長卿、爲差(さしたる)御咎(おとがめ)にてましまさゞるを、大將軍、神君へ申させ玉ひ、安藤右京亮へ御預(おあづけ)、寬永十年十月、御腹召させ玉へば、忠長卿御一門を御つぶし、品川辻門(つじもん)に被成(なされ)しを、京童(きようわらべ)、

『此門は亞相(あしやう)忠長樣御首の獄門のかわり也。』

と沙汰いたし候。加樣に、四民、背申(そむきまうし)候は、我等の幸(さいはひ)に候。我々、後(うしろ)だて、紀伊大納言樣の御名を借(かり)申べし。賴宣公は剛勇無雙の御大將也。世、以て、恐(おそれ)奉る事、唐の項王の如し。今日の敵は明日の味方となるもの也。久能山御城、乘取候はゞ、集置(あつめおか)れし金銀を以て、諸牢人召かゝへ申べし。必(かならず)、手配、違(たがひ)玉ふな。御身(おんみ)、勇(ゆう)は萬人に勝ㇾ候(すぐれさふら)へども、短慮、なるが第一の大疵(おほきず)にて候。此事、能能(よくよく)愼み給へ。」

とて、立別(たちわかれ)けるが、又、立歸り、又、申樣、

「唯今申述(まうしのべ)候通り、愼(つつしみ)候へ。當月廿六日を成納(なしをさめ)の大吉日と定(さだめ)、一時に事を斗(はかり)申べし。能々、徒黨の方の面々へしめし合(あはせ)候へ。」

迚(とて)立別ける。是は正雪が永き冥途の別(わかれ)なる。

[やぶちゃん注:「慶安四年辛卯四月廿日」一六五一年六月八日。

「大將軍家光公御他界」同日、病気のため、徳川家光は逝去している。

「七月廿六日」グレゴリオ暦九月十日。

「を限りにおもひ立申(たてまうす)べし」を以って予てよりの行動を実行に移そうと存ずる。

「御城」江戸城。

「死間(しくわん)」「孫子」の間者(かんじゃ:スパイ)の一種。潜入させるが、自分からわざと捕らえられて、偽(にせ)の情報を自白して相手を攪乱させる間者のこと。処刑され、生きて帰れないことが前提のスパイである。但し、もう少し広義に、噓の情報を巷に流し、それと同時に、同胞のスパイにもその偽情報を本当と信じこませて流し、結果的にそれを探査する敵のスパイを誑かす間者の意もあるようだ。

「鹽焇藏(えんしやうぐら)」煙硝蔵(焔硝蔵・焰硝蔵)。鉄砲弾薬の火薬庫。江戸城の安全性を考えて、和泉新田御焔硝蔵(現在の杉並区永福の明治大学和泉キャンパス。京王線の「明大前」駅は以前は「火薬庫前」と称した)と千駄ヶ谷御焔硝蔵(新宿御苑の南東端の貼り出した附近。ここ(グーグル・マップ・データ))の二箇所に配されてあった。

「御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし」江戸城周辺で二つの大火災が発生すれば発生すれば、飛び火や延焼を確認し易くするために、江戸城内の灯りは当然、ごくごく制限されるからであろう。

「福原右馬介」安土桃山時代の武将で大名の福原長堯/直高(ながたか/なおたか ?~慶長五(一六〇〇)年)か。初め、豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えた。福原右馬助を称した。後に馬廻衆。慶長二(一五九七)年で十二万石を得、府内新城へ転封された。後は豊臣秀頼に仕えていたが、慶長四(一五九九)年の石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められて、当時の五大老筆頭であった徳川家康により府内領が没収され、臼杵六万石のみの領有となった。翌年の「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、敗北、後に自刃した(一説に殺害されたとも。ここはウィキの「福原長堯」に拠った)。

「孫福一鬼」不詳。

「天ほう日」不詳。「ほう」の表記も不詳。識者の御教授を乞う。

「虛空無生(こくうむしやう)」四字で一語と見た。完全に灰燼に帰して、生きているものがないような状態。

「事を闕(かか)せ」消火活動が出来ないようにさせて。

「腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮」管打式短筒銃。現在の短銃・拳銃の類。所持していることが見破られ難い。

「撰打(えらみうちに)」選り取り見取りに。

「火炮(くわはう)」通常は大筒(大砲)であるが、ここは普通の鉄砲でよかろう。しかも、この場合、嚇しだから、弾丸を入れない空砲でも構わない。

「淺間山」この浅間山は駿府城西方直近にある静岡市葵区宮ケ崎町の現在の静岡浅間(せんげん)神社の後背地、現在の賤機山(賎機山)公園であろう。確かに(グーグル・マップ・データ)からなら、駿府城はよく見下ろせる。

「懸り場」舟の寄せ場をかく言うが、この場合は城壁等でとっ懸かって最も侵入し易い箇所の意であろう。

「引場(ひきば)」退却ではなく、ある程度、攻めた後に、一時、待つか、少し後退したと見せておいて、敵を待って再度、攻めるに都合の良い箇所の謂いであろう。

「神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候」近世史に疎いため、この家康逝去の際にお取り潰しとなった両加藤家というのが、誰を指すのか、全く判らぬ。お恥ずかしながら、識者の御教授を乞う

「駿河大納言忠長卿」(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)は秀忠の三男で家康の孫。母は浅井(あざい)氏。父母の寵愛を一身に集め、兄家光をさしおいて世子に擬せられたが、実現しなかった。元和二(一六一六) 年、甲斐に封じられ、寛永二(二五)年さらに駿河・遠江を加増されて五十五万石を領した。翌年八月には従二位大納言に叙任したが、寛永八年五月、乱行を理由として甲州へ蟄居を命ぜられ、翌年には上州高崎へ移されて二年後の同十年、高崎の大進寺で自刃した。

「大將軍、神君へ申させ玉ひ」この辺の言い方も判らぬ。家光が家康の御霊(みたま)に申し上げなさって、その御神霊の許諾を得、蟄居を命ぜられた、というのか。そもそもが幕府転覆を画策する由井正雪が、「大」将軍とか、「神君」とかいうのは、これ、変だと素人の私でも思うのだが?

「安藤右京亮」上野高崎藩第二代藩主安藤重長(慶長五(一六〇〇)年~明暦三(一六五七)年)改易となった徳川忠長を預かって、高崎城に幽閉した。

「品川辻門(つじもん)に被成(なされ)し」後の京童の洒落も含めて、意味が判らぬ。識者の御教授を乞う

「紀伊大納言」ウィキの「慶安の変によれば、『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』とある。

「久能山御城」戦国時代からあった山城。現在の静岡県静岡市駿河区根古屋で、久能山東照宮がある。(グーグル・マップ・データ)。以下の正雪の謂いを見るに、ここに家康の埋蔵金伝説でもあったのであろう。

「成納(なしをさめ)」絶対の祈願成就決定(けつじょう)の謂いか。]

芥川龍之介 手帳9 (4) / 手帳9~了

酸化炭素CO.2パアセント 薔薇色になつて死ぬ(窒息)

[やぶちゃん注:「2」は縦書なので全角で示した。この体色変化はかなり有名な死体変容として有名る。ただ、芥川龍之介の謂いは、一酸化炭素が密閉空気中に二%で死に至るという意味のメモのようだが、これでは即死・瞬殺である。ガス会社の「空気中の一酸化炭素濃度と吸入時間による中毒症状」のデータによれば、

0.04%:一~二時間で前頭痛や吐き気、二時間半から三時間半後に頭痛

0.16 二十分間で頭痛・めまい・吐き気を発症して二時間で死亡

0.32 五分から十分で頭痛・眩暈に襲われて三十分間で死亡

1.28 早ければ一分、長くても三分間で死亡

(因みに、リンク先には0.04%の分量は標準的な浴室(五立方メートル)に二リットルのペットボトル一本分の一酸化炭素を混ぜたほど、とある)。この猛毒性は、ヒトの血色素であるヘモグロビンが酸素よりも一酸化炭素と親和性が強いために、結びつき易く、急速に体内が低酸素状態になることによる。なお、このバラ色に美しく変色するのは、一酸化炭素と結びついたヘモグロビン(COHb)がピンク色を呈することに起因する(酸素と結び付いたヘモグロビンはオレンジ色又は朱色)。但し、貝毒による中毒死でも同様の症状が起こるので、断定は禁物。この手の毒物や中毒症状の話は私の得意分野である。]

 

○下瀨火藥 徹甲榴彈 魚雷

[やぶちゃん注:「下瀨火藥」(しもせかやく)は大日本帝国海軍軍属(技官)下瀬雅允(まさちか 安政六(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:工学博士)が実用化したピクリン酸(Picric acid:芳香族フェノール誘導体のニトロ化合物。水溶液は強力な酸性を示し、不安定で爆発性の可燃物質)を成分とする爆薬(炸薬(さくやく:爆弾などに詰めて爆発(炸裂)させるのに用いる火薬の一種で、本来は日本海軍で用いられた用語。地雷・砲弾・魚雷などに用いられる。これらの爆発の威力は炸薬がいかに速く燃焼するかにかかっており、性能を維持・向上させるために不可欠な要素となる反面、火薬の中でも信管以外によるいかなる衝撃や加熱によっても爆発しない鈍感な性質のものが理想とされる))。ウィキの「下瀬火薬」によれば、『日露戦争当時の日本海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。なお、大日本帝国陸軍では黄色薬と呼ばれていた』。『ピクリン酸は』一七七一『年にドイツで染料として発明され、その』百『年後に爆発性が発見された。猛烈な爆薬であるが、同時に消毒液としての効果もある。しかしピクリン酸は容易に金属と化学結合して変化してしまう』ため、『鋭敏な化合物を維持する点で実用上の困難があった。下瀬雅充は弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間にワックスを注入してこの問題を解決した』。『なお、日本海軍規格の下瀬火薬/下瀬爆薬は、ほぼ純粋なピクリン酸で』あった。『爆薬として用いた場合の爆速は』秒速七千八百メートル。『日本海軍は』明治二六(一八九三)年、『この火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。これは日清戦争』(一八九四年~一八九五年)『には間に合わなかったが、日露戦争』(一九〇四年(明治三十七年)~一九〇五年)『で大いに活躍した。海軍は』『、ただでさえ』、『威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な信管(伊集院信管)を用いて榴弾』(狭義には砲弾の種類を指す。爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散するように設計されている)『として用いた。敵艦の防御甲鈑を貫通する能力は不十分だったが、破壊力の高さと化学反応性(焼夷性)の高さから、非装甲部と乗組員に大きな被害を与えた』。明治三八(一九〇五)年五月二十七日の「日本海海戦」で『ロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬であ』った。『下瀬火薬は、メリニット『(一八八五年、爆薬の研究で知られるフランスの化学者フランソワ・ウジェーヌ・テュルパン(François Eugène Turpin 一八四八年~一九二七年)の発明で、純粋なピクリン酸とされている)『のサンプルを下瀬が分析し、純粋ピクリン酸を炸薬に用いるアイディアを得て、研究の末に国産化したものとされる』。『下瀬火薬が実用化された後に、フランスが「新型火薬」を日本に売り込んできた。フランスに派遣された富岡定恭は、「新型火薬」のサンプルの微量を爪の中にすり込んで持ち帰った。この微量のサンプルを分析した結果、下瀬火薬と同様のピクリン酸であると判明したという』。『下瀬が、下瀬火薬(純粋ピクリン酸)の試作に成功した後も、当時の日本の技術レベルでは手工業的な生産しかできず、量産は困難であった』(ピクリン酸は一般にはフェノールを濃硫酸と濃硝酸でニトロ化することで製造する)。明治三一(一八九八)年一月から一年間、『下瀬雅允は、ピクリン酸製造技術の導入のため、欧米を視察した。ドイツのグリーシャム社の元技師長であるバーニッケと会い』、五『万円の代価で、ピクリン酸合成工場設計図』二十『枚余、及びピクリン酸製造技術の提供を受ける契約を結んだ。しかし、代価の』五『万円は支払われず、バーニッケは』一九〇六年四月に『契約履行を迫る書簡を送り、下瀬はこれを受けて斎藤実海軍大臣に上申を行ったが黙殺された』とある。その後、『下瀬火薬は旧式化して一線を退くが、太平洋戦争で再び使用されるようになる。トルエンを原料とするトリニトロトルエン(TNT)が石油原料を必要とするのに対して、ピクリン酸は石炭酸(フェノール)を原料としていたため、極度の石油不足状態にあった戦時中の日本でも』、『石炭から作る事のできる下瀬火薬は問題なく製造できたのである。その多くは砲弾などの強い衝撃がかかる物を避け』、『九九式手榴弾などに使用されていた』。『下瀬火薬を使用する艦砲の自爆事故(膅発』(とうはつ:砲弾(榴弾もしくは榴散弾)が砲身内で暴発する事故のこと。)が相次いだ。これはピクリン酸そのものの欠陥ではなく砲弾に火薬を充填する技術の未熟さが原因ではなかったかと推測されている』。『ピクリン酸は鉄などの重金属と反応して非常に衝撃に敏感な塩を作る性質があるため、砲弾内部の漆とワックスにごくわずかでも隙間があって砲弾本体と触れると』、『自爆の危険性は激増することになった。欧米諸国では、この欠点を解消するため、ピクリン酸をアンモニウムなどアルカリと混合して塩にした』『爆薬を開発し』ている。また、『ピクリン酸は毒性が高い物質』でもあるため、『下瀬火薬は、のちにTNTや環状ニトロアミン系高性能爆薬』『に代替されることになった』。『下瀬火薬は、経年劣化により衝撃に対して過敏になる傾向があるため、旧日本軍の不発弾の取扱には細心の注意を要する』ともある。

「徹甲榴弾」徹甲弾の弾頭に比較的少量の爆薬を搭載し、装甲や障害物に突き刺さってから炸裂する弾丸。]

 

5%(酸素あれば15%)空氣より二倍半重し 舟澤山のトンネル破壞 工夫頭七日に七尺上へ行く(水をのむ) 草鞋を食ふ 酸素21%窒素79%鐵道官吏(四人) 技師腰に酸素(ボンボイ)(壓搾酸素)前の奴炭酸瓦斯中毒にかかる(それより前に大勢蠟燭などをつけて見物に入る故)

[やぶちゃん注:アラビア数字と「%」は総て横転半角。

「炭酸瓦斯」今度は二酸化炭素中毒のメモ。二酸化炭素中毒でも死に至る。濃度が三~四%を超えると、頭痛・眩暈・吐き気などを催し、七%を超えると、呼吸不全を起こして数分で意識を失う。この状態が継続すると、麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る。無論、芥川が言うように、酸素より重いから、低い位置に横臥して睡眠しているところに、多量の二酸化炭素を流入させれば、窒息死する(ドライアイスを使ってそれを密室で行って殺害するというダサい日本の推理小説を読んだ記憶がある。作者が思い出せない。思い出したくないくらい、ダサかった)。

5%」意識喪失の数値か。

「酸素あれば15%」前注通り、楽観的数値でダメ。

「空氣より二倍半重し」温度湿度によって変わるが、密度でなら、酸素原子の原子量は約十六、炭素原子の原子量は約十二であるから、酸素分子の分子量は三十二、二酸化炭素の分子量は四十四となり、一・四倍弱で「二倍半」はおかしい空気は大方、窒素で窒素は空気よりやや軽いけれども、それでも二酸化炭素は空気の一・五倍ぐらいにしかならないから、やっぱりおかしいぞ

「舟澤山のトンネル破壞」いろいろなフレーズで検索を試みるも、全く不詳。識者の御教授を乞う。

「七日に七尺上へ行く(水をのむ)」崩落した後、七日間かけて七尺(二メートル十二センチ地表方向へ掘り進んだという意味か。

「酸素21%窒素79%」乾燥状態で酸素は二〇・九四%、窒素七八・〇八%、他にアルゴン〇・九三%、二酸化炭素〇・〇三%他。

「(ボンボイ)(壓搾酸素)」ドイツ語の「Bombe」由来の「ボンベ」の音写か。ネイティヴの発音を聴くと「ボムベ」或いは「ボンボェ」と聴こえる。但し、ドイツ語の「Bombe」は「爆弾」の意味で、本来は圧搾した気体を封入する鉄製円筒の意は、辞書にはあるものの、現代になってから添えられたようで、全く並べて一緒に『アイスクリームを詰めたメロン形の氷菓子』というとんでもない意味が記されてある(「同学社版 新修ドイツ語辞典」一九七二年(初版)の一九七七年(七版))。因みに、英語では「oxygen cylinder bottle」である。]

 

Mustard-Gas(Iprelite). lewisite. ○五六時間後より 目とのどとひふ 淚 嚏 鼻汁 咳 血へど死ぬ 八時間後皮膚障害 粟粒位の火ぶくれ(火傷の如く痛む)一錢銅貨位になる 二日乃至四日死ぬ 5%15%重症(六箇月)

[やぶちゃん注:「Mustard-Gas(Iprelite). lewisite.」近代化学兵器として知られる、2,2'-硫化ジクロロジエチル(2,2'-Dichloro Diethyl Sulfide)という化合物を主成分とした、糜爛(びらん)剤(皮膚をただれさせる薬品)に分類される毒ガス兵器。硫黄を含むことから「サルファ・マスタード」(Sulfur mustard gas)とも、また、第一次世界大戦のベルギーのウェスト=フランデレン州のイーペル(オランダ語:Ieper・フランス語:Ypres:カタカナ音写:イープル)戦線で初めて使われたことから「イペリット」(Yperiteとも呼ばれる。芥川龍之介の「Iprelite」は綴りの誤り英語でも「Ipritで全く違うウィキの「マスタードガス」より引く。『主にチオジグリコールを塩素化することによって製造される。また、二塩化硫黄とエチレンの反応によっても生成される。純粋なマスタードガスは、常温で無色・無臭であり、粘着性の液体である。不純物を含むマスタードガスは、マスタード(洋からし)、ニンニクもしくはホースラディッシュ(セイヨウワサビ)に似た臭気を持ち、これが名前の由来であるが(他にも、不純物を含んだマスタードガスは黄色や黄土色といった色がついている為に、マスタードの名が付けられたという説もあ』り、『さらに皮膚につくと傷口にマスタードをすりこまれるぐらいの痛さという説もある)』。『実戦での特徴的な点として、残留性および浸透性が高いことが挙げられる。特にゴムを浸透することが特徴的で、ゴム引き布を用いた防護衣では十分な防御が不可能である。またマスクも対応品が必要である。気化したものは空気よりもかなり重く、低所に停滞する』。『マスタードガスは遅効性であり、曝露後すぐには被曝したことには気付かないとされる。皮膚以外にも消化管や、造血器に障害を起こすことが知られていた。この造血器に対する作用を応用し、マスタードガスの誘導体であるナイトロジェンマスタード』(nitrogen mustards)『は抗癌剤(悪性リンパ腫に対して)として使用される。ナイトロジェンマスタードの抗癌剤としての研究は第二次世界大戦中に米国で行われていた。しかし、化学兵器の研究自体が軍事機密であったことから戦争終結後の』一九四六『年まで公表されなかった。一説には、この研究は試作品のナイトロジェンマスタードを用いた人体実験の際、白血病改善の著効があったためという』。『マスタードガスは人体を構成する蛋白質やDNAに対して強く作用することが知られており、蛋白質やDNAの窒素と反応し(アルキル化反応』(alkylation)『)、その構造を変性させたり、DNAのアルキル化により遺伝子を傷つけたりすることで毒性を発揮する。このため、皮膚や粘膜などを冒すほか、細胞分裂の阻害を引き起こし、さらに発ガンに関連する遺伝子を傷つければ』、『ガンを発症する恐れがあり、発癌性を持つ』と言える。『また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出やすい』。一八五九年、『ドイツの化学者アルベルト・ニーマン』(Albert Friedrich Emil Niemann 一八三四年~一八六一年)『により初めて合成』された。『彼は皮膚への毒性を報告するが』、二『年後に』本剤の『中毒が原因と思われる肺疾患により死去』している。一八六〇年には『イギリスのフレデリック・ガスリー』(Frederick Guthrie 一八三三年~一八八六年)『も合成して毒性を報告している』。一八八六年、『ドイツの研究者ヴィクトル・マイヤー』(Viktor Meyer 一八四八年~一八九七年)『が農薬開発の過程で合成法を完成』したが、『彼はその毒性に手こずり、実験を放棄』している。一九一七年七月十二日、『第一次世界大戦中にドイツ軍がカナダ軍に対して実戦で初めて使用し、約』三千五百『人の中毒者のうち』八十九『人が死亡。その後、同盟国・連合国の両陣営が実戦使用した。大戦中のドイツ・フランス・イギリス・アメリカの』四『ヶ国での生産量は』計一万一千トンにも及んだ。一九四三年十二月には『イタリア南部のバリ港にて、アメリカの貨物船「ジョン・ハーヴェイ号」がドイツ空軍の爆撃を受け、大量のマスタードガスが流出し、アメリカ軍兵士と一般市民』六百十七『名が負傷、』八十三『名が死亡し』ている。『旧日本陸軍も「きい剤」の名称で、「マスタード・ルイサイト」(後注参照)を『保有していた』。『イラン・イラク戦争時、イラク軍はイラン軍および自国のクルド人に対し、マスタードガス、サリン、タブンを使用したと』も『言われる』。

lewisite」は同じく糜爛剤毒ガス兵器として用いられる有機ヒ素化合物「ルイサイト」ウィキの「ルイサイト」によれば、ルイサイトは即効性があることから、遅効性のマスタード・ガスと組み合わせ、「マスタード・ルイサイト」として使うことがある。繊維やゴムを透過する性質があるため、通常の防護服では防ぐことが出来ない。『皮膚、気道に直接接触すると』、『直ちに痛みと刺激を感じ』、三十『分以内に皮膚』が『発赤』し、十二『時間後に水疱が生じる』。『呼吸系に吸い込むと』、『胸が焼け付くような痛みと』、『くしゃみ』・咳・『嘔吐などを伴う。また、肺浮腫を引き起こして死ぬ場合もある』。さらに、『細血管透過性を亢進する作用があるため、血管内体液量減少、血液量減少、ショック、臓器鬱血が生じ、これにより消化器症状を伴った肝、腎壊死が起こる。 眼に触れると激しい痛みを感じ、直ちに洗浄しなければ視力を失う』。『アメリカ人の化学者ウィンフォード・リー・ルイス』(Winford Lee Lewis 一八七八年~一九四三年)『にちなんで名付けられた。ルイスは』一九一八『年に』、『この化合物の合成法を説明するJulius Arthur Nieuwlandの論文を発掘』、一九二〇年代には『アメリカ軍によって実験が行われ』ている、とある。

「嚏」「くさめ」或いは「くしやみ(くしゃみ)」。]

 

Sneezing Gas,  Vormitting Gas. 三十分間戰鬪を失ふ(1000萬分の一あると)

[やぶちゃん注:「Sneezing Gas」「Sneeze」は「くしゃみをする」、「Vormitting Gas」の「vomit」は「嘔吐する」で、これらは鼻や目などを強く刺激し、くしゃみや吐き気を起こさせる毒ガス兵器のことを指す。有害な有機砒素化合物の一種であるアダムサイト(adamsite)や、同じ砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)などがある。旧日本軍では「あか剤」と呼称し、保有していた。]

 

○酸アセチリン瓦斯を熱すると攝氏2500度出す 鐵(1700度でとける)はその爲にアメリカでは一尺位迄ます それでもこもる爲

[やぶちゃん注:「酸アセチリン瓦斯」アセチレン(acetyleneは酸素と十全に混合させて完全燃焼させた場合、その炎の温度は最高摂氏三千三百三十度にも及ぶ。現在では「溶解アセチレンガス」というアセチレン・ガスが、各種可燃性ガスの中では最も高温で燃焼し、金属の溶接・溶断加工に適し、作業性や効率も高いガスだと、「太陽日酸ガス&ウェルディング株式会社」公式サイト内のこちらのページにある。

「それでもこもる爲」意味不明。]

 

Chloraceto phenome(weeping gas).  Diphenylchlorasine(sneezing gas).

[やぶちゃん注:「Chloraceto phenome」催涙剤の一種クロロアセトフェノン(chloroacetophenone)。ウィキの「クロロアセトフェノン」によれば、現在、ごく普通に『防犯グッズの催涙スプレーとして市販されて』おり、『また、世界各国の警察が暴徒鎮圧用として使用し』、『日本の警察も保有している』とある。『塩化フェナシル(phenacyl chloride)、CNガス とも呼ばれる』とある。

weeping gas」催涙ガス。

Diphenylchlorasine」先に注した砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)の綴り違い。]

 

Phosgene(瓦斯)(肺氣腫)より染料を作る (孔雀石 green. 靑 黃)平氣で作る 死ぬ人かへり見られず European War 以來大へんに重大視さる ○酸化炭素と酸素とにて Phosgene. ○靑化加里 氷ザタウ 金の精錬に用ふ 小指ほど食ふ ○伜自殺す 親父遺書をうけとり 驚きかけつけ 喉のかわきし爲そこの水をのむ 靑化加里の水溶液の爲に死ぬ(カリウム)

[やぶちゃん注:「Phosgene(瓦斯)」炭素と酸素と塩素の化合物で「二塩化カルボニル」などとも呼ばれる非常に強い毒性を持つ気体「ホスゲン」。ウィキの「ホスゲン」により引く。『化学工業分野で重要な化合物であり』、一八一二『年に初めて合成された』。『一酸化炭素と塩素から多孔質の炭素を触媒として合成される。ポリカーボネート、ポリウレタンなどの合成樹脂の原料となる』。『有機合成分野でもホスゲンはアルコールと反応して炭酸エステルを、アミンと反応して尿素あるいはイソシアネートを、カルボン酸と反応して酸塩化物を与えるなど用途が広い』。但し、『猛毒の気体であるホスゲンは実験室レベルでは使いにくく、近年では炭酸ビス(トリクロロメチル)(通称』で『トリホスゲン)が代用試薬として用いられるようになった』。『また、フロン類(クロロフルオロカーボン、ハイドロクロロフルオロカーボン)が加熱される事でも発生するので、特に冬季など暖房器具を使用する時期には中毒事故が発生しやすかった。室内の空気に塩素を含む有機性のガス、あるいは塩素と有機性のガスが存在する場合に、放電式の空気清浄機を使用すると、中毒事故が起こる可能性がある』。『毒性が強く、化学兵器(毒ガス・窒息剤)とされている』。『第一次世界大戦では大量に使用され』、『旧日本軍では「あお剤」と呼称して』所有していた。『現在の日本では化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律の第二種指定物質・毒性物質であり、同法の規制をうける』。摂氏二十度 『では気体である。沸点は』摂氏八度『で、純粋なホスゲンは独特の青草臭であるが』、『毒ガスに使われるような低純度なもの、希薄なものは木材や藁の腐敗臭がするといわれている』。『水があると』、『加水分解を受け、二酸化炭素と塩化水素を生じる』。『高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる』。『無症状の潜伏期を経』た後、『肺水腫』(pulmonary edema:肺の実質(気管支、肺胞)に水分が染みだして溜まった状態をいう。溜まった水分により呼吸が障害され、呼吸不全に陥る)『を起こす』。『潜伏期は数時間から、場合によっては』二十四『時間以上持続する場合もある』。『肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると』、『咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が出る。肺水腫によって肺胞毛細血管への酸素運搬が阻害され、低酸素症を引き起こす。また』、『体液が肺胞に流出することによって血液濃縮を起こし、心不全に進行する』。『低濃度のホスゲンに長期曝露した場合には』、『肺に障害を与え、繊維症、機能障害を生じることがある。また、数日が経過してから感染症による肺炎を起す場合がある』。『解毒剤は存在しない。治療は主に肺水腫への対処を行うことになる。目の角膜が損傷する危険がある場合は洗浄を行う。肺炎などの感染症への予防措置を取る。防護措置としては、吸入をしないために、ガスマスクが用いられる』。『第一次世界大戦で毒ガスとして用いられた時には、拡散して低濃度になったホスゲンに長時間曝露した兵士が』二十時間から八十『時間後に突然症状が悪化して死亡する事例が多数あった。このため、曝露した場合は低濃度であっても』三『日程度の経過観察を行う必要がある』。

「孔雀石」(くじゃくいし:malachite:マラカイト)は緑色の単斜晶系の鉱物で、最も一般的な銅の二次鉱物。ウィキの「孔雀石」によれば、『孔雀石の名は微結晶の集合体の縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する。英語起源のマラカイトなど欧語表記はギリシア語(アオイ科の植物の名称)に由来する』。『孔雀石は紀元前』二千『年ごろのエジプトですでに宝石として利用されていた。当時のエジプト人はラピスラズリ(青)や紅玉髄(赤)などと組合せ、特定のシンボルを表す装身具に用いた。現在でも、美しい塊は研磨して貴石として扱われ、アクセサリーなどの宝飾にも用いられるが』、『柔らかい鉱物であることから、硬度』七『以上を定義とする宝石には合致しない』。『銅鉱石として利用されたこともあるが、現在では高品位の銅鉱石と競争できないため、ほとんど使われていない』。『孔雀石の粉末は、顔料(岩絵具)として古来から使用されている。この顔料は「岩緑青」、「マウンテングリーン」などと呼ばれる。青丹(あおに)はその古名』。『銅の炎色反応を利用した花火の発色剤としても重用される』とある。

European War」第一次世界大戦。

「靑化加里」青酸カリ。シアン化カリウム(青酸カリウム)。毒物の代名詞的存在だが、工業的に重要な無機化合物でもある。水酸化カリウムとシアン化水素の反応によって得られる、無色で潮解性のある粉末。水によく溶け、アルコールにも溶ける。水溶液は加水分解してアルカリ性を示す。猛毒で、致死量は〇・一五グラム。金・銀の冶金や鍍金(メッキ)などに利用する。

「カリウム」Kalium(ドイツ語:英語:potassium周期表第一族に属し、アルカリ金属元素の一つ。ナトリウムとともに化合物として古くから人類によって利用されてきた。]

 

○生姜や唐辛子を食ふとぽつくり死ぬ 瘦せ衰へしは(惡病)うづむ ヤセウマ――背負ひ子

○坂みちを人一人下り來る ネクタイピンの如きもの赤し 何かと思へば長きパイプの先に卷煙草の火赤きなり

○大孤山の病院の話

[やぶちゃん注:中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「手帳6」に既出既注。]

 

○山田さんの話 寺の家で自殺

[やぶちゃん注:「山田さん」不詳。]

 

○狂 Pigmy tree. a morality. 道德的侏儒

[やぶちゃん注:「Pigmy treepygmyの誤記であろう。ここは侏儒。「侏儒の木」「矮木」はよく判らぬ。「侏儒の言葉」(生前のそれは大正一二(一九二三)年一月一日発行の『文藝春秋』から連載)の別タイトルを考えていたものか。]

 

○インクのセピア色に血を感ず 十錢 Right ink. サカサマニハイツテヰル ラデイオ

[やぶちゃん注:「サカサマニハイツテヰル ラデイオ」不詳。]

 

○丹前を着た三人の男川の對岸に來り 寫眞をとる(宿の) 我をうつされし如く無氣味なり

barbar.  Café 赤い壁 寫眞屋 溫室――川向う 崖崩れ 狆に櫛を入れる女

○岩の動くを感ず

 

○ 9yubisasi_3  の札 life-like なり

[やぶちゃん注:底本より画像を読み取って挿入した。手の矢印は底本通り(縦書)上を向けた。その手の絵札が「生きている実物の手のよう」で、気持ち悪いほどであった、ということであろう。]

 

○小穴に手紙を出さうとして宿所を忘れる

[やぶちゃん注:「小穴」小穴隆一。後も同じ。]

 

○靑池に白鯉

○大導寺信輔の半生 眞田隼太郎の半生

[やぶちゃん注:「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)の作品名(主人公名)の別案らしい。]

 

○天然を愛するは天然の怒つたり嫉妬したりせぬ爲なり

[やぶちゃん注:「侏儒の言葉」の以下の草稿と言える。

   *

 

      自  然

 

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺いたりしないからである。

 

   *

私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自然』も参照されたい。]

 

○キニイネ――解熱 ゼネガシン ブロチン――祛痰劑

[やぶちゃん注:「祛」の字の(へん)は底本では「衤」。

「キニイネ」キニーネ(オランダ語: kinine:英語:quinine(キニン))南アメリカ原産のキク亜綱アカネ目アカネ科キナノキ属アカキナノキ Cinchona pubescens の樹皮に含まれるアルカロイド。白色粉末で苦い。「日本薬局方」では「硫酸キニーネ」「塩酸キニーネ」などが収載される。原産地では経験上、古くからマラリアの治療薬として使われていたが、記録上では、一六三〇年ペルー駐在スペイン総督キンコン伯の夫人が、キナノキの樹皮でマラリアを治療した実績から、ヨーロッパに輸入されたと伝えられている。一八二〇年、フランスで製剤化に成功し以降、マラリアのほか、強力な効果を持つ解熱剤・鎮痛剤としても多用され、抗生物質の出現(一九四一年のペニシリンの治療効果の確認を最初とする)までは、熱性疾患に対する有力な治療薬の一つであった。他に子宮収縮作用及び抗不整脈作用もある。飲食物に苦味を加える食品添加物としても認可されており、しばしば劇薬と考えている人がいるが、キニーネは薬事法上、「劇薬」には指定されていない。これはストリキニーネ(strychnine:リンドウ目マチン(馬銭)科マチン属マチン Strychnos nux-vomica の種子から得られる非常に毒性の強いインドールアルカロイドの一種。強力な中枢興奮作用を示し、激しい強直性痙攣・後弓反張(体が弓形に反る)・痙笑(顔筋の痙攣により笑ったような顔になる)を起こし、最悪の場合は呼吸麻痺等によって死に至る)との混同等による誤認である。

「ゼネガシン」このような薬剤名は現在は存在しない。セネガシロップのこと。「日本薬局方」に於いては、マメ目ヒメハギ科ヒメハギ属セネガ Polygala senega 或いはヒロハセネガPolygala senega var. latifolia の根を生薬「セネガ」としている。これは去痰作用があり、セネガシロップ(現在もこの名で販売されている)として使うほか、お馴染みの「龍角散」や「改源咳止液W」などにも配合されている(ウィキの「セネガ」に拠る)。

「ブロチン」桜の皮のエキスから造られた古くからある生薬の去痰剤。痰を薄めて出し易くし、咳を鎮める。副作用の殆んどない安全な薬物である。ブロチンシロップとも称する。

「祛痰劑」「去痰劑」に同じい。「祛」は「熱・痰などの病状を取り除く・取り払う」の意。]

 

○親は子ぢやとて尋ねもするが親とてたづねる子は持たぬ

○古道具屋 螺細の硯箱よごれ不細工なり 猿面硯でも入れたくなると言へば小穴(白ズボン)「何 端溪でも似合ふ」と言ふ 鐵の兜や鳥籠もあり 誰か外にもゐる

[やぶちゃん注:思うにこれは、最後の一文から、芥川龍之介の夢記述ではないかと私は思う。

「猿面硯」は「ゑんめんけん」と読み、「圓(円)面硯」とも書く。古代の硯(すずり)の一形態で、陶質で中央に平らな陸(おか)を設け、その周囲に溝を巡らして、さらに下方に台脚をつけたものを指す。グーグル画像検索「猿面硯」をリンクさせておく。]

 

○きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ 白ナンテンの木を箸にし「私は永年癪に苦しんでゐます どうかこの癪の根をたち切つて下さい」と言ひ 蕎麥を一口でもたべる(小さい茶碗に汁をかけ) 大晦日の晩 泊雲居士(キヨシ)

[やぶちゃん注:この話、確実にどこかで(芥川龍之介とは無関係なところで)読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出し次第、追加するが、思うに、この「泊雲居士(キヨシ)」(「キヨシ」はママ。なお、これはルビではなく、丸括弧附本文である)というのは、私は俳人の西山泊雲(明治一〇(一八七七)年~昭和一九(一九四四)年)ではあるまいかと考えている。彼はウィキの「西山泊雲」によれば、兵庫県竹田村(現在の丹波市)生まれで、本名は亮三。『酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り』、『家出や自殺未遂を経験』し、『また』、『家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた』。鈴木花蓑(はなみの 明治一四(一八八一)年~昭和一八(一九四二)年:愛知生まれ。大審院書記。本名は鈴木喜一郎)と並んで『ホトトギス』の沈滞期を『代表する作家で同誌巻頭を』二十八『回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。泊月とともに丹波二泊とも呼ばれた。代表句に「土間にありて臼は王たり夜半の月」』とある。違っていたら、削除する。

「きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ」本来の位置を逆転させることによって、異界への通路は開かれるので、この坐り方はそうした呪的意味を持っていると考えられる。しかも和式便所は穴であり、地下の国である根の国や黄泉の国へのトンネルとも採れるから、祈誓の意味もそこでまさに腑に「落ちる」のである。但し、実は非常に古くはこのしゃがみ方の方が実は正しかったようである。「きんかくし」(金隠し)の言葉は、元は「衣掛(きぬか)け」が語源であって、平安期の「おまる」にあたる携帯用便器である「樋箱(ひばこ)」では衣懸け側(神社の鳥居形のものが上に飛び出ていて、ここに衣の背部の裾を懸けた)を後ろとしていたからである。]

 

○墓場へ位牌をすててゆく 夜汽車でかへる

○カゲキ――歌劇 イナ・ブルスカヤ カルメン フアウスト アイダ トラヴイアアタ ゴドノフ(マリア) 貴族 縊死 孔雀の扇 男たち ボツクス プザノウスキイ

[やぶちゃん注:これは大正一五(一九二六)年七月の『文藝春秋』に発表した「カルメン」(リンク先は「青空文庫」版)のためのメモであるが、彼の小説「カルメン」は芥川龍之介らしき「僕」の語りで幾つかの出来事を語っているものの、多分に架空の話として創作されたものである。実は芥川龍之介自身が実際の舞台を見ているかどうかさえ、現在、確認されてはいないのである。筑摩全集類聚版脚注(以下の上演データ等も総てそれを参照した)によれば、ロシア帝室オペラ歌劇団専属オペラ団は大正八(一九一九)年の九月に来日している(破格に高額の入場料(最上級の席は十二円)を採った)。この頃、ロシア国内の革命(二月革命と十月革命は一九一七年)による混乱を避けて同劇団(芥川龍之介の小説「カルメン」では『グランド・オペラ』と出る)は国外巡演をしていた。実際の同オペラ団による「カルメン」Carmen:フランスのジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が最晩年の一八七三年から翌年にかけて作曲した四幕のオペラ)の上演は同年九月四日・九日・十四日の三日間だけで、しかも小説中にあるように、主役の「イナ・ブルスカヤ」(Ina Burskaya:生没年は確認出来なかった。ソプラノ。当時の同劇団の花形ヒロインであった)芥川の小説「カルメン」では『イイナ・ブルスカアヤ』と表記)が出演せず、代役を立てた「カルメン」は類聚版の注によれば、九月十四日の晩の「カルメン」だけ(代役は『ゾンツエーブ嬢』とある)である。宮坂覺氏の岩波新全集の最新の年譜には、「カルメン」観劇の記載自体が存在しないしかも私は思うのだが、限定されたブルスカヤの出なかった九月十四日(日曜日)の晩に彼がそれを見た可能性は、私は頗る低いと考えている。何故なら、この日は芥川龍之介が客と会うことを決めていた面会日であったこと(但し、一日中、客はなかった)や妻の弟が来訪していることが、彼の日記「我鬼窟日錄」(リンク先は私の注附き電子テクスト)によってわかり、しかもそこには、

   *

九月十四日 雨

 日曜なれど終日客なし。塚本八洲來る。

 夜に入つて風雨大に催す。

   *

と、夜になって風雨が激しかったことを記すだけだからである。その風雨に敢えて怯まずに丸の内の帝国劇場に彼が、この日の「カルメン」を見に行ったとすれば、それを日記に書かぬはずはないからである。実際、ブルスカヤでなく、『水色の目をした、鼻の高い、何なんとか云う貧相ひんそうな女優で』、『落膽し』(小説「カルメン」より)たのだったら、なおのこと、それが癪に触って書いたに違いないからである。

 いや――もう一つ、行かなったであろうと推定する理由がある。

 それは――この翌日の大正八(一九一九)年九月十五日こそが――かのファム・ファータル秀しげ子と不倫の肉体関係を持ったその日――だからである。

 敢えて言えば、芥川龍之介は前の二回(九月四日と九日)のブルスカヤの演じた「カルメン」を見ている可能性は充分ある。何故なら、宮坂年譜では同月九月一日から、九日までが空白だからである。「カルメン」では「僕」が「カルメン」を見たのを、『確か初日から五日目の晩』と言っているが、同歌劇団の初日は九月一日の「アイーダ」で、その日から四日目に第一回目の「カルメン」が上演されている(因みに、九月十日の岩野泡鳴の「十日会」で秀しげ子と逢った際に十五日の密会を約束したものと推定される。これは先の日記「我鬼窟日錄」を読んでも十日以後は「カルメン」どころじゃない、初めての不倫へ向けて精神状態が普通でなくなっているのが、一目瞭然である)。

 それにしても……秀しげ子とカルメン……嵌り過ぎと言えば――嵌り過ぎている…………

「フアウスト」Faustはフランスの作曲家シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod 一八一八年~一八九三年)の最も知られる、ゲーテの劇詩「ファウスト」(ドイツ語でも綴りは同じ)第一部に基づいて作られた同名の五幕のオペラ。来日中、九月三日・八日・十三日に三回公演している。

「アイダ」Aidaはイタリアの作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)が作曲し、一八七一年に初演された全四幕のオペラ。ファラオ時代のエジプトとエチオピアの二国に引き裂かれた男女の悲恋を描く。来日中、九月一日・六日・十一日に三回公演している。

「トラヴイアアタ」La traviata。所謂、ジュゼッペ・ヴェルディが一八五三年に発表した三幕のオペラ「椿姫」のこと。このイタリア語のオペラの原題は「堕落した女・道を踏み外した女」の意であるが、本邦では、原作の、フランスの作家「小デュマ」、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils  一八二四年~一八九五年)の小説La Dame aux camélias(「椿の花の貴婦人」)の意訳「椿姫」のタイトルで上演されることの方が多い。来日中、九月二日・七日・十二日に三回公演している。

「ゴドノフ」Борис Годунов「ボリス・ゴドゥノフ」。モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский 一八三九年~一八八一年)はが作曲した、彼の作品の中でも最も知られらた、プロローグと四幕から成るオペラ。ロシアの実在したツァーリボリス・ゴドゥノフ(一五五一年~一六〇五年)の生涯をオペラ化したもの。来日中、九月五日・十日・十五日に三回公演している。因みに、筑摩全集類聚版脚注によれば、以上の他、九月二十四日がマチネー(matinée:フランス語で「昼間興行」)で「カバレリヤ・バリアッチ」(イタリアの作曲家モルッジェーロ・レオンカヴァッロ(Ruggero Leoncavallo 一八五七年~一九一九年)のI Pagliacci(「道化師」:一八九二年に初演。全二幕)のことであろう。同じイタリアのピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 一八六三年~一九四五年)作曲の一幕物Cavalleria Rusticana(カヴァレリア・ルスティカーナ:「田舎騎士道」。一八九〇年初演)と並ぶ、ヴェリズモ・オペラ(verismo opera:一八九〇年代から二十世紀初頭にかけてのイタリア・オペラの新傾向作品。市井の人々の日常生活や残酷な暴力などの描写を多用し、音楽的には声楽技巧を廃した直接的な感情表現に重きを置いたもので、重厚なオーケストレーションを駆使することを、その特徴とする)の代表作であるから、或いは二作とも公演したものか)でお名残り公演となったとある。

「マリア」「ボリス・ゴドゥノフ」に登場するポーランド貴族の娘マリナ・ムニシュフヴナ(ポーランド語:Maryna Mniszchówna:偽(にせ)ドミトリー世(Лжедмитрий I 一五八二年~一六〇六年)はモスクワ国家のツァーリ(在位:一六〇五年~一六〇六年)。動乱時代にイヴァン四世の末子ドミトリー皇子を僭称した最初の人物)の皇妃となった)。ソプラノであるから、或いはイナ・ブルスカヤが演じたか。

「貴族 縊死 孔雀の扇」総て芥川龍之介の「カルメン」に登場する重要なキー・ワードであるが、ロシア人鉄道技師が帝国ホテルで九月十五日午前一時半(実際の最後の「カルメン」上演の翌日)に服毒自殺したというだけの記事(筑摩全集類聚脚注に拠る)から、芥川龍之介が完全にデッチ上げた創作部に相当するメモである。

「プザノウスキイ」不詳。]

 

○ダニ山 ヒル山(先頭にたからず) マムシ山 三四尺の所に二十匹

○偉大なる悲劇も lookers-on には單なる comedy なり

[やぶちゃん注:「lookers-on」傍観者・見物人。]

 

○男の Bovarism.

[やぶちゃん注:「Bovarism」自惚れ・過大なる自己評価。フランス語“bovarysme”が語源。フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert  一八二一年~一八八〇年)の代表作である長編小説「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)に因む。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が自由で華やかな世界に憧れ、不倫や借金地獄に追い詰められた末に人生そのものに絶望、服毒自殺する物語。]

 

○英雄の末年――Bismark.

[やぶちゃん注:「鉄血宰相」(Eiserner Kanzler)の異名をとったプロイセン及びドイツの政治家で貴族のオットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。プロイセン王国首相(在職:一八六二年~一八九〇年)・北ドイツ連邦首相(在職:一八六七年~一八七一年)。ドイツ帝国首相(在職:一八七一年~一八九〇年)を歴任した、ドイツ統一の中心人物であったが、新たに王位に就いたウィルヘルムⅡ世と社会主義者鎮圧法の更新を巡って衝突し、一八九〇年三月十八日に宰相を辞任した。以下、ウィキの「オットー・フォン・ビスマルクによれば、その後の『ビスマルクの失意は深く』、一八九〇年から翌年にかけては、『たびたび自殺を考えたというが、個人的威厳を重んじる念と信仰心によって思い止まったという』。『退任後もビスマルクの影響力は絶大であり、多くの人々が彼の周りに集り、彼も大臣やヴィルヘルムⅡ世をも批判した。それでも、一八九四年初頭にはヴィルヘルムⅡ世と和解している。『ビスマルクの失脚原因ともなった社会主義への敵意は退任後も一貫して強く持ち続け』、一八九三『年にはアメリカのジャーナリストの取材に対して「社会主義者はドイツ国内を徘徊するネズミであり、根絶やしにしなければならない」と述べ』、一八九四『年にハルデンに宛てた手紙の中では社会主義者を伝染病の病原菌に例えた。死を間近にした』一八九七『年にも「社会問題はかつてなら警察問題で解決できたが、いまや軍隊を用いねばならない」と述べている』。

一八九四年十一月二十七日に『妻ヨハンナに先立たれると』、『生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった。ビスマルクは妻の死に関して妹へ宛てた手紙の中で「私の残されていた物、それはヨハンナだった。(略)民が寄せてくれる過分な好意や称賛に対して私は恩知らずにも心を閉ざしてしまうようになった。私がこの』四『年間それを喜んでいたのは』、『彼女もそれを喜んでいてくれたからだった。だが』、『今ではそのような火種も徐々に私の中から消えようとしている」と書いている』。『血行障害』のために、『あまり身体を動かさなくなったことで片足が徐々に壊死していき、しばしば激痛に悩まされるようになっ』て、一八九七年の『秋以降には車椅子生活になった』。一八九八年七月三十日、『息を引き取った』。『主治医によると』、『死因は肺の充血だったという』。『息子ヘルベルトの妻によると最期の言葉は「私のヨハンナにもう一度会えますように」だったという』。『ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム』Ⅰ『世に忠実なるドイツ帝国の臣」であった』。また、「コロサイの信徒への手紙」第三章二十三節にある『「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれている。これはビスマルクが』十六『歳の頃より愛していた言葉だった』という、とある。]

 

○東雲の煤降る中や下の關

[やぶちゃん注:『驢馬』(大正一五(一九二六)年四月発行)の「近詠」欄に、

   *

 

  旅情

しののめの煤ふる中や下の關

 

   *

として載るが、しかし、

 

東雲(しののめ)の煤降る中や下の關

 

の形で、前年大正一四(一九二五)年九月一日附室生犀星宛(旧全集書簡番号一三六五・軽井沢鶴屋旅館発信)に記されており、しかも句の直前の手紙文に「御覧の通り、軽井澤の句ではない。」とある。これは情景から見て、明らかに四年前の中国行出立の折の回想句で、私は大正一〇(一九二一)年三月二十八日の門司から上海に向けて出航した際の情景と推理している。]

 

○桑ボヤに日かげ移りぬ午の鐘

[やぶちゃん注:ここにのみ出る芥川龍之介の句

「桑ボヤ」桑の葉を摘み採った後の小枝。乾かして薪(たきぎ)などにした。]

 

続きが見たい夢

本未明、二時前に久々に続きが見たい夢を見た……

私は18で、教え子のO君と一緒に京都の大学に合格している。二人で学生相手の私設の木賃宿舎に入る。私は芥川龍之介全集を始めとして本を山のように持って来ていたが、置き場がないので、部屋の中の壁際にドミノのピースのように並べ、O君は「サンダーバード2号」の見たこともないプレミアム・ポッドの中に彼の好きなエヴァンゲリオンのフィギアが満載しているという奇体なもの広げては「どうだ!」という風に微笑んだ。

六畳一間に二人でなかなかに狭い。
最初の一夜、私は廊下に近いところに雑魚寝をしている。
何か夢を見ているような気になって、ふと目が覚めると(夢の中の私が、である)、廊下と隔てる襖が少し開いていて、そこから若い女の生白い腕がさし入っており、私の蒲団からはみ出た右手の人差し指に、その女の人差し指が載っている。と見たら、ゆっくりとその女の腕は廊下の方へと引っ込んでゆく。

襖の隙間からそっと覗いてみると、そこには16、7の若い女たちが、煎餅布団を強いて、廊下に川の字になって寝ているのであった。彼らは皆、貧しい家庭から、この宿屋に女中奉公をしに来ている少女らで、それは昼のうちに見かけて知っていた。一番近い、則ち、私と指と指を重ねていたのは香代という娘であった。目を閉じてはいるものの、起きているように思えたが、私はそっと襖を閉じた。

数日経って、宿舎の中で出しているという、手書きの回覧雑誌が回って来た。
開いて見ると、中に「K女」と署名のある小説があった。
それは、一人の宿屋の奉公人の少女が、そこに泊まっている青年と恋仲になり、夕餉の買い物に出かける時、青年と踏切のところで落ち逢って宿へ戻るまで一緒に歩くという、束の間の逢引きを描いた掌品であったが、そこで最後に踏切の所で別れる際、彼女が右手の人差し指を青年に指し出し、青年がやはり自分の人差し指をそれに接するというシーンで終わっているのであった。

その途端、私は何か非常な切なさを感じ、部屋の壁と言わず、宿中の壁という壁に筆で訳のわからぬ言葉を書きまくり始め、O君を始めとする下宿学生たちがそれを必死で押し留めようとする……

   *

というところで眼が覚めてしまった。小便をしに下に降りると、妻はカウチに寝っ転がってテニスを見ていた。
また、寝床に戻って思わず『続きが見たい!』と思った(これほど切にそう思った夢は今までの60年間の夢見の中でも数回しかない)が、この数年、一度目が醒めると、私は最早、二度寝出来ない体質になってしまっており、その「夢」は叶わなかったのであった――

2018/01/27

芥川龍之介 手帳9 (3)

 

○足の非常に長い蜘蛛(胴ハ淡褐也) ハジキ飛バセシニ足ダケ一本疊の上ニ動イテヰル

[やぶちゃん注:これはまず、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目ユウレイグモ科 Pholcidae の幽霊蜘蛛類(世界で約八十属、記載種は凡そ千種で、本邦では八属十八種が確認されている)であると比定してよい。さらに、頭胸部と腹部の(これを一体で「胴」と表現しているのもユウレイグモに相応しい。頭の先が狭く、腹部との間のくびれもあるにはあるが、腹部は長円形で一定の距離で見ると、一見、棒状・桿状・胴体状に見えるからである。特に不気味に思ってよく観察しようとしなければ、なおのこと、一つの「胴」のように見える)色が淡いこと、及び屋内であることを考えると、その中でも高い確率でユウレイグモ属イエユウレイグモ Pholcus phalangioides であろうと私は思う。教員になり立ての頃、数年暮らした鎌倉岩瀬の山家のアパートには室内外に無数にいた。脚を震わせてユラユラと覚束な気に動く姿はまさに幽霊そのものであった。]

 

○宿屋で植木屋が二三人茶をのんでゐる そのそばを通る 皆默る それだけでも不快なり

○⑴猿(寫生用)雌黃を食はんとす 少し食へば下痢 多く食へば死 ⑵鷄 卵をうむ時學校中さがしまはる ⑶七面鳥は牝牡と價異る(モデル賃)牡を借りしに卵をうむ

[やぶちゃん注:美術学校か美術研究所での実話記録であろう。されば、晩年最も親しかった盟友で画家の小穴隆一の記憶かも知れぬ。彼は太平洋画会研究所出身で、かの中村不折に師事している。

「雌黃」(しおう(現代仮名遣):orpiment)は第一義的には砒素の硫化鉱物で「雄黄」「石黄」とも呼び、中世ごろまでは画材の黄色顔料として広く利用されたが、毒性があるため近現代では使用されなくなったのでこれは違う。されば、これはやはり黄色顔料として画材として用いられたガンボージ(gamboge)の別名としてのそれである。インド原産のキントラノオ目フクギ科フクギ属ガルシニア・モレラ Garcinia morella からとった黄色の樹脂である(辞書類ではキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae に属する植物であるとするが、紀井利臣著「新版 黄金テンペラ技法:イタリア古典絵画の研究と制作」(二〇一三年誠文堂新光社刊)の「題二章 工程と製作」に載る記載(グーグルブックスを使用)に従った)。黄色絵の具として日本画などで用いられ、「草雌黄」「藤黄(とうおう)」などと呼ばれ、東アジアでは数百年以上も昔から絵具として使用された歴史がある。主としてインド、中国、タイ等に自生するから採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われ、日本画にも盛んに使用された。主として水性絵具・揮発性ニス・金属ラッカーの用途がある。紀井氏の解説によれば、『有毒で、非常に辛い苛烈な味がすると言われ、古くから漢方薬として』も使用されたとあり、さらに、『水練りにして使用しますが、練る指先に傷がないように注意して下さい』とある。他のネット記載では、現在は毒性はないとするものもあるが、強い成分があることは確かで、鶏が多く食えば頓死するというのは腑に落ちる。なお、現在、通常の黄色絵具は化学顔料にとって代わられつつある。]

 

○十三人の子を産んで家出せし妻 世間――十三人も子のある癖に 妻――十三人も子を生せられただけでもやり切れない

○障子へ戸の穴より風景映る

○歷史上の人物を一人づつ書き如何に作者がその人物を愛し或は敬してゐるかを示すもの

○河童國――遺傳的義勇隊

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された、知られた怪作「河童」(リンク先は私の電子テクスト)の「四」に出る、ポスターに(斜線は改行)『遺傳的義勇隊を募る!!!/健全なる男女の河童よ!!!/惡遺傳を撲滅する爲に/不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!」』とあるのに、主人公が『僕は勿論その時にもそんなことの行はれないことをラツプに話して聞かせました。するとラツプばかりではない、ポスタアの近所にゐた河童は悉くげらげら笑ひ出しました。』『「行はれない? だつてあなたの話ではあなたがたもやはり我々のやうに行つてゐると思ひますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令孃が運轉手に惚れたりするのは何の爲だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的に惡遺傳を撲滅してゐるのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合ふ義勇隊ですね、――ああ云ふ義勇隊に比べれば、ずつと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思ひますがね。」』と返されてしまうシークエンスの内容の構想メモである。]

 

○孝子 性欲的に母を慰む

[やぶちゃん注:これは遺稿の「侏儒の言葉」の、

   *

 

       或孝行者

 

 彼は彼の母に孝行した、勿論愛撫や接吻が未亡人だつた彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

 

   *

及び、「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」の中で、「僕」が「アナトオル・フランスの對話集」と「メリメエの書簡集」を買い、

   *

 僕は二册の本を抱(かか)へ、或カッフェへはひつて行つた。それから一番奧のテエブルの前に珈琲の來るのを待つことにした。僕の向うには親子(おやこ)らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等(ら)は戀人同志(こひびとどうし)のやうに顏を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等(ら)を見てゐるうちに少くとも息子は性的(せいてき)にも母親に慰めを與へてゐることを意識してゐるのに氣づき出した。それは僕にも覺えのある親和力(しんわりよく)の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例(れい)にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陷るのを恐れ、丁度珈琲の來たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讀みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフォリズムを閃かせてゐた。それ等(ら)のアフォリズムは僕の氣もちをいつか鐵のやうに巖疊(がんじやう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱點の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飮み了つた後(のち)、「何でも來い」と云ふ氣になり、さつさとこのカッフェを後ろにして行つた。

   *

というシークエンスにも生かされている。私のブログ版の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者』も内容がダブるが、是非、参照されたい。]

 

1七面鳥 2寫眞機 3アンマ 4This キリノ box? 5本屋? 6八百屋の禁煙 7風呂 8畫の古びる話 9畫を描いてゐるうちに風景のかはる話(壁 庭木 人物)

[やぶちゃん注:「4」はよくメモの意味が判らない。「これっ切りの箱」か「この桐の箱」か。もっと謎解きがあるか?]

 

f, m, f sister ― Frühling ヲ感ズ à la Maupassant.

[やぶちゃん注:「f」はfemale、「m」はmale(孰れも英語)であろう。

Frühling」はドイツ語(音写:フリューリンク)で「春」の意。

à la Maupassant.」フランス語で「モーパッサン風に。」。]

 

○利休と太閤

[やぶちゃん注:これは面白いものが出来たであろうに。惜しい。]

 

○濱田彌兵衞 德川家康 老いたる人形

[やぶちゃん注:「濱田彌兵衞」(はまだ やひょうえ 生没年不詳)は江戸初期の朱印船の船長。長崎出身。寛永四(一六二七)年に発生した「タイオワン事件(ノイツ事件)」の実行者。二百八十八年後の大正四(一九一五)年に贈従五位されている。ウィキの「浜田弥兵衛」によれば、『寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領』(一六二四年)、『ゼーランディア城を建て』(Zeelandia:熱蘭遮城:現・安平古堡:私の「女誡扇綺譚 佐藤春夫  一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の注を参照されたい)、『この地における交易には一律』十%『の関税をかけはじめた』。寛永四年、『長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツ』(Pieter Nuyts 或いは Nuijts 一五九八年~一六五五年)『を人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功した』とある。事件については、遙かに先行する「芥川龍之介 手帳4-16~18」の「臺灣事件」の私の注を参照されたい。

「老いたる人形」意味不明。]

 

○寫首筋竹石 目遊瘦石枯槎上 心寄寒秋老翠邊 寫罷茶經踏壁眠 古爐香嫋一糸煙 新羅山人

[やぶちゃん注:「新羅山人」(?~一七五六年頃)は清代の画家で既出既注。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。以下、自己流で訓読しておく。

 

   古樹・竹石を寫す

 目は 瘦石(さうせき)枯槎(こさ)の上に遊び

 心は 寒秋の老翠(らうすゐ)の邊りに寄す

 茶經を寫すを罷(や)め 壁を踏みて眠る

 古爐(ころ)の香(か) 嫋(じやう)として一糸煙(いつしえん)

 

「枯槎」は老樹の枯れた差し出た複数の枝の謂いか。「茶經」は唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書を指すか。「壁を踏みて」超し掛けて足を上げ、壁を足の裏で踏み押さえて、の意でとった。「嫋」嫋(たお)やか。]

 

○木こり夫婦 負傷 七階より飛び下る男

error のある事卽ち humanity ない事は divinity or machinery.

[やぶちゃん注:「divinity」神性。]

 

Saint for his virtue. We for our sins. 不公平も甚し

[やぶちゃん注:「彼の持つ美徳ゆえの聖人。その罪によって在る私たち。」か。]

 

手紙をかく Psy.

[やぶちゃん注:「Psy.」は「psycho」で精神病患者の意と思われる。]

 

○アンマ アンマの妻――二等を知る話 上機嫌

[やぶちゃん注:当時の列車の二等車のことか。]

 

○障子より光まつすぐにはひる 蠅光りつつ來る

○水陸洲 税關官舍 傳家洲 英國領事館 湖南 廣東 黃興 宋教仁 支部亡國紀念會 秦力山 湖廣總督 張之洞 武昌の兩湖書院

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』に掲載され、後、生前最後の創作集の題名ともなった「湖南の扇」の構想メモ(リンク先は私の注釈附き電子テクスト)。

「水陸洲」湖南省の長沙城の西の湘江の中にある砂州である水鷺州の俗称。古くは橘洲と言い、現在、その古名が長沙市岳麓区橘洲として駅名や公園名に復活しているのが判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「傳家洲」前の橘洲の北にある砂州。岳麓区傅家洲村。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は橘洲と橋で繋がっていることが航空写真で判る。

「黃興」(一八七四年~一九一六年)は一九一一年十月十日に清の武昌(現在の湖北省武漢市武昌区。ここ(グーグル・マップ・データ))で起きた、辛亥革命の幕開けとなる兵士らの反乱事件である「武昌蜂起」を指導し、孫文ともに辛亥革命の革命家として双璧を成す人物。南京臨時政府陸軍総長兼参謀長。長沙出身。

「宋教仁」(一八八二年~一九一三年)は清末民初の政治家。武昌蜂起に参加し、湖南省都督府代表となったが、後に袁世凱と対立、革命組織を改組した「国民党」を組織し、事実上の党首として活躍したが、袁世凱のヒットマンによって上海で暗殺された。湖南省桃源県出身。

「支那亡國紀念會」日本へ亡命していた革命家章炳麟(しょうへいりん 一八六九年~一九三六年)。孫文や後に出る秦力山と親交を深めた彼が、明治三五(一九〇二)年に東京で開催しようとした、正しくは「支那亡國二百四十二年紀念會」のこと。ウィキの「章炳麟」によれば、「支那亡國」とは『南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は明崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより』、『満州王朝への復仇心の扇動を計画した。会の宣言書は章炳麟が起草したが、その内容は革命遂行を提唱するものであった。清国公使の要請により』、『明治政府は当日になって紀念会の開催を禁止したが、これ以後』、『在日留学生の多くが排満革命に靡き、革命結社が続々と結成されるようになった』とある。芥川龍之介は中国特派の旅で、上海で彼に逢って親しく対談している。「上海游記 十一 章炳麟氏」を参照されたい。

「秦力山」(しんりきざん 一八七七年~一九〇六年:本名は秦鼎彝(ていい))は湖南省長沙出身。鞏黄(きょうこう)とも称した。戊戌政変(一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター)後、一九〇〇年に唐才常の自立軍に参加し、安徽大通蜂起を起したが、失敗、日本に亡命した。『國民報』を発刊したが、病気のため、二十九の若さで亡くなった。

「湖廣總督」清の地方長官の官職で湖広省(湖北省・湖南省)の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。

「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)清末の洋務派官僚。曽国藩・李鴻章・左宗棠とともに「四大名臣」の一人に数えられる。彼は直隷(現在の河北省)南皮の出身であるが、湖広総督となっている(在任は一八八九年八月から一八九四年十一月まで)。主に武漢を拠点に富国強兵・殖産興業に努めた。

「兩湖書院」書院は各省がその省都に設立した学問所。政府から経費を割り当てて教師と学生に食費を供給した。書院の学長は師長と呼ばれ、本省人かそうでない外省人かは不問であった。武昌のここは張之洞が一八九〇年に建学したものである。]

 

the Curious Love of Precious Stones.

[やぶちゃん注:「美しい貴重な石に対する奇妙な愛」であるが、これは、次に名が出る、アメリカの鉱物学者 George Frederick Kunz(ジョージ・フレデリック・クンツ 一八五六年~一九三二年)が一九一三年(初版)に刊行した、ざっと見では、貴(稀)石や石造文化に関わる評論書らしい。私が小泉八雲の原文探しでよく使う“Internet Archive”のここで原書が読める。]

 

the Magic of Jewels & Charms (George Frederick Kunz)

[やぶちゃん注:ジョージ・フレデリック・クンツの一九一五年刊。「宝石と御守りの魔術」か。作者は前注参照。]

 

○戊戌の變 譚嗣同 詩的 畢永年 僧になる 哥老會 湘潭

[やぶちゃん注:ここもやはり「湖南の扇」の構想メモ。

「戊戌の變」先に注で出した戊戌政変。一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター。

「譚嗣同」(たんしどう 一八六五年~一八九八年)は清末の思想家。湖南省劉陽出身。初め、科挙を志したが、日清戦争を契機として西欧思潮に接することで、古い学問を捨て、康有為・梁啓超らの説く変法自強の主張に共鳴、梁啓超を湖南時務学堂に迎えて、長沙に南学堂を建てて同志を集め、『湘報』を出すなど、革新運動に没頭した。「戊戌の新法」の際、招かれて四品卿軍機章京となって活躍したが、戊戌政変が勃発、約百日にして西太后派に敗れ、亡命の勧めを断って、北京の菜市で刑死した。所謂、「変法派」の中では最もラディカルな立場をとり、死後、日本で刊行された主著「仁学」では、あらゆる儒教倫理の破壊を主張している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「畢永年」(ひつえいねん 一八六九年~一九〇二年)は長沙出身の革命家。譚嗣同と親しく交わり、革新を目指す集団の連合の一つである「興漢會」(ここに記されている湖南のた馬福益を頭目とした「哥老會」と広東の「三合會」が連合したもの。但し、結局、互いに理解し合えず、組織としては有名無実に終わった)の結成に深く関わった人物であったが、病気のため、三十三で若死にしている。ここで、是非、気がついて貰いたいことがあるそれは「湖南の扇」の中で、芥川龍之介らしき主人公を長沙で迎える、主人公と『同期に一高から東大の醫科へはいつた留學生中の才人』の名である。彼は『譚永年(たんえいねん)』なのである。これはまさに実在した政治革新を目指して処刑された「譚」嗣同と、彼に共鳴した愛国の革命家であった、この畢「永年」の名をカップリングしたものなのである。なお、以上は劉耕毓(リュウ ゲンギュウ)氏の非常に興味深い論文『「湖南の扇」論―中国革命との関連をめぐって―』(PDFを大いに参照させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

「湘潭」現在の湖南省中東部、長沙の南の湘江上流に位置する湘潭市。唐代に湘潭県が置かれ商業都市として発展し、「米市」「薬都」と呼ばれ、また、蓮の栽培が盛んなことから「蓮郷」とも呼称され、現在は毛沢東の出身地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○曾國藩 瞿鴻機 紅牌樓 小西門外(日本人) 赭石砂岩層

[やぶちゃん注:「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家で学者。弱体化した清軍に代わる湘軍を組織して「太平天国の乱」の鎮圧に功績を挙げた。一八六八年には漢人として初めて地方官最高位である直隷総督となった。先に挙げた「四大名臣」の一人。湖南省湘郷県出身。「湖南の扇」の冒頭に彼の名は出るが、以下のメモは現行の作品自体とは関係がない。

「瞿鴻機」(くこうき 一八五〇年~一九一八年)は清末光緒年間に軍機大臣・政務大臣などを歴任した人物。湖南省長沙府善化県出身。翰林院(勅書の起草・国史編纂担当部署)編修にも就いており、詩も残しており、文化人でもあった。辛亥革命後に上海に逃れ、その後、病死した。ここは書道用品会社「トモナリ」公式サイト内の「中国墳墓」の記載を参考にさせて戴いた。ここ、写真入りで解説もしっかりしており、なかなか見応えがある。

「紅牌樓」四川省成都市武侯区に紅牌楼という街はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小西門」不詳。台南にならあるが。]

 

○フランネル(鼠+靑) 袖口よごる 背廣茶のコオル天のズボン 黒タイ 額脂うく 金齒 顏に目金の影

[やぶちゃん注:「コオル天」英語のコーデュロイ corduroyの転訛語で、フランス語の「コルド・デュ・ロア」(corde du roi:皇帝の紐)から出たとも、corded velveteen(畝(うね)織りのビロードの意)からともある。「天」は「天鵞絨(ビロード)」の略である。パイルで縦畝(たてうね)を表わした織物で、畝幅は通常二~三ミリメートルを基準とする。繊維は綿で、地組織は平織・綾織。用途は婦人子供服・背広上衣・ズボン・足袋・椅子張地など。

「目金」「めがね」。眼鏡。]

 

○はんぺん さつまあげ つみいれでごさい アンケサツ

[やぶちゃん注:「つみいれ」摘入。「つみれ」のこと。魚の擂り身を適宜に丸めて茹でた「摘み入れ蒲鉾(つみいれかまぼこ)」の略。

「アンケサツ」不詳。「サツマアゲ」をひっくり返した「揚げ薩摩」か。]

 

○時計を炬燵へのせると熱で暖まりぐるぐるまはる

2018/01/26

芥川龍之介 手帳9 (2)

 

○後藤新平の■女 新平に金をせびり甥を洋行さす

[やぶちゃん注:「後藤新平」(安政四(一八五七)年~昭和四(一九二九)年)は政治家。帰農した伊達藩士の子で当初は医師であった。児玉源太郎のもとで台湾経営に顕著な働きを見せ、明治三九(一九〇六)年には南満州鉄道初代総裁となり、二年後には逓信大臣兼鉄道院総裁・拓殖局副総裁、大正七(一九一八)年に外務大臣などを歴任、その後、大正九年から同十二年には東京市長となり、震災直後の第二次山本内閣では、内務大臣(二度目)兼帝都復興院総裁として世界最大規模の帝都復興計画にも携わった。]

 

○名刺を出す 一枚では當にならんと言ふ 五枚出す

○鴿の卵を見つけ(三つ) 鷄にかへさす 卵は蛇になる

[やぶちゃん注:「鴿」「はと」。鳩に同じい。]

 

○分量 戀愛 離惱 新思想 殘刻な等の制限を受く

[やぶちゃん注:「殘刻」ママ。]

 

○おれはあいつを殺したのにあいつの事を考へると屍體の事は考へてない 生きてる姿を考へる

○信輔 雨中の漏電の如き mental flash を欲す

[やぶちゃん注:「信輔」は芥川龍之介の自伝風小説「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月の『中央公論』に掲載)の主人公の名であるが、そこには出ない。しかし、同作は最後に芥川自身が、

   *

附記 この小説はもうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。

   *

と記している通り、同作は未完で、これを、その後のシークエンスのメモとして書いたことは明白である。しかし、もうお分かりの通り、「雨の」中の電線から「漏電」した火花の閃光のような精神の閃(ひらめ)きを「欲す」るというメモは、反故にされることはなく、遺稿となった阿呆一生」で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 

       八 火  花

 

 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の滿ちた中(うち)にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を發してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雜誌へ發表する彼の原稿を隱してゐた。彼は雨の中を步きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相變鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

 

   *

となって芥川龍之介の死後に閃光を放つこととなったのである。]

 

There is a plan that flowers only one in its life-time, though in 70 years ― the talipot-palm.

[やぶちゃん注:「七十年もの歳月を通して、その生涯でたった一度だけ花を咲かせるという生態を持つものがいる。それはタリポット椰子である。」。「talipot-palm」(タリポット椰子)は和名を単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)属コウリバヤシ Corypha umbraculifera と称する(本邦には自生しない)。ウィキの「コウリバヤシによれば、『南インド(マラバール海岸)およびスリランカが原産で』、『東南アジアから中国南部にかけて栽培されている』。『英名からタリポットヤシとも呼ばれる』。『世界で最も大きいヤシのひとつで、直径』一・三メートル、高さ二十五メートルに達する個体もあり、最大直径五メートルにも及ぶ掌状葉と、四メートルの葉柄及び百三十枚もの葉を持つ。『また、植物の中で最大の花序』(六~八メートル程度になる)『を持ち、幹の先端で形成される分岐した茎から数百万の花で成り立つ』が、『一稔性の植物で』、樹齢三十年から八十年の間に『一度だけ花を咲かせる。単一の種を含んだ黄色から緑色の直径』三~四『センチメートル程度の果実を数千個結実し』、一『年かけて実が熟した後、枯れてしまう』とある。因みに、このコウリバヤシの葉は、『歴史的に』「貝葉」(ばいよう:椰子などの植物の葉を加工し、紙の代わりに用いた筆記媒体で、東南アジア・南アジアで多く利用された。漢名「貝多羅葉(ばいたらよう)」の略称であるが、これは古代インドに於いて植物の葉が筆記媒体として用いられていたため、サンスクリットで「木の葉」の意味を持つ「パットラ」と、その素材として主に用いられたオウギヤシ(パルミラヤシとも。ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer)の葉を指す「ターラ(多羅樹)の葉」を漢訳したものであって、貝とは関係がないので注意されたい)『を作成するために用いられ、尖筆により』、『東南アジアの様々な文化』が、この葉に『書き綴られてきた』、ともある。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その1)

 

     由井正雪

 

 慶安年中、駿河國油井と云(いふ)所に正雪(しやうせつ)といふものあり。元賤しき紺屋(こんや)の子也(なり)しが、十三の歳、高松半平と云浪人者を師として手習をならひ、隙に小瀨甫庵(おぜほあん)入道が作(つくり)し「太閤記」をみて、謀叛の志(こころざし)あり。十六の春、信濃國淺間嶽に立(たち)玉ふ水守大明神(みづもりだいみやうじん)とて楠(くすのき)が守り本尊を登りける。此(この)神主と示合(しめしあはせ)、神前の乾(いぬゐ)の角(すみ)の大杉の下をほり、石櫃(いしびつ)一箇(いつか)を埋(うみ)、其内、菊水の旗・甲(かぶと)一刎(ひとはね)・吉光(よしみつ)の九寸五分の脇差を埋(うづ)み、其後、年月、遙(はるか)に移り、東武淺草に來り、

「紀州家の牢人也。」

といふ。楠(くすのき)流の軍法を教(をしへ)、諸旗本の歷々を取(とり)、「平家物語の評判」廿四册を作り、我(わが)智を人にしらしむ。

[やぶちゃん注:本編は長いので、部分部分で注することとし、注の後は一行空けた。筆者は由井正雪とその謀叛話が非常に好きで、既に前でも記しているが、本最終巻は最後の二篇(切支丹物)を除き、総てがその関連譚である。注も既に記したものが多いが、最後なの煩を厭わず、再掲することとした。

「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「慶安」一六四八年から一六五二年(慶安五年)までであるが、慶安四年年七月二十六日(グレゴリオ暦一六五一年九月十日)、由井正雪の幕府転覆計画は未然に知られてしまい、計画遂行のための駿府城の乗っ取り計画実行のために駿府に赴いていた正雪は、宿泊した駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に於いて、駿府町奉行所の捕り方に囲まれ、自決している。

「駿河國油井」現在の静岡県静岡市清水区由比。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高松半平」ネット情報や「絵本慶安太平記」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像のここ)では、江戸を逐電してきた福島家の浪人とし、正雪が修学のために奉公した吉岡家の菩提寺清光寺(禅宗。所在不祥)の住職の親類筋に当たる人物とある。

『小瀨甫庵入道」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)。豊臣秀吉の生涯を綴った「太閤記」(初版は寛永三(一六二六)年。全二十巻)や、織田信長の一代記「信長記(しんちょうき)」の著者として知られる(但し、「太閤記」や「信長記(信長公記)」は彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作が複数ある。その中でも小瀬のそれは著名なもので、単に「太閤記」といった場合は小瀬のものが最も知られる)。

「水守大明神(みづもりだいみやうじん)」不詳。現在の浅間山の祭神としては見られない。調べてみるに稲荷神に「水守」を多く冠する。謀叛を祈念するには稲荷の妖力は頗る腑に落ちるが、以下で「楠(くすのき)」を「守り本尊」とするとあるから、もっと古い北欧神話の「ユグドラシル」(古ノルド語:世界樹)のような大樹崇拝の神か。浅間は火山神であるから、それを鎮めるための「水守」であるのかも知れぬが、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「乾(いぬゐ)」北西。

「刎(はね)」兜(かぶと)などを数えるのに用いる助数詞。「跳ね」と同語源とされるともあるが、これはもう、首を刎(は)ねるのそれであろう。

「吉光(よしみつ)」十三世紀鎌倉中期の刀工粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)。正宗と並ぶ名工で特に短刀作りの名手として知られた。

「九寸五分」二十九センチメートル弱。

「紀州家の牢人也。」

「楠(くすのき)流の軍法」楠木正成を祖とする軍略法。

「取(とり)」教授の門下に取り入れ。迎え入れ。

「平家物語の評判」小学館「日本大百科全書」によれば、新井白石が『正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀(れんじゃく)町の五間(いつま)の裏店であったこと、『平家物語評判』という書物を著したこと、などを書き残している』とあり、「慶安太平記 下巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像)にも「正雪平家物語評判記を作る事」という章がある。]

 

 或時、弟子大勢の前にて語けるは、

「我、此間、每夜、ふしぎの夢をみたり。『楠大明神也』と自(みづから)名乘(なのり)、甲冑(かつちう)を帶(おび)玉ふ人、我(わが)枕がみに立(たち)、『汝は我(わが)再身(さいしん)也、必(かならず)、疑ふ事なかれ、其印に我(わが)軍神、淺間嶽水守大明神、乾の老松(おいまつ)の下を掘(ほり)てみよ、必、印あるべし』といふ。三夜續(つづけ)て見申(みまうし)たり。如夢現泡影(によむげんぱうやう)とて、兒女子(じぢよし)だに、是をとらず。かやうの夢物語仕(つかまつり)候も、おこがましく、はぢ入申(いりまうす)。」

といふ。

 鵜野九郎兵衞、進出(すすみいで)、

「尤(もつとも)左樣に候へども、亦、夢にも神夢(しんむ)靈夢と申(まうす)事候へば、強(あながち)、はかなし、とて、捨(すつ)べからず。」

と申(まうす)。

 其後、五、六人、申合(まうしあはせ)、乾の大杉の下を深く掘(ほり)、見るに、果たして石櫃あり。弟子とも不思義におもひ、ふたをひらくに、しころなき桃形の甲一刎(はね)・眞向に銀にて正成(まさしげ)と象眼(ざうがん)を沈(しづめ)たる菊水の旗一流・九寸五分の小脇差・軍書一册、有(あり)。

 弟子ども、互に目を見合(みあはせ)、

「扨は正雪は楠が再來、必ず、疑ふべからず。」

と立歸(たちかへり)、正雪に、

「かく。」

と語(かたる。

 正雪、僞(いつはり)て淚を流し、

「此事、深くかくして玉はるべし。」

と、皆々の口を堅め、夫(それ)より密(ひそか)に「楠正雪」と、あらためける。

[やぶちゃん注:おう! モロ田舎芝居! 奸計じゃのう、楠正雪!

「如夢現泡影(によむげんぱうやう)」如何にも仏典や禅語に有りそうな文字列だが、そのまんまは見当たらないようだ。「夢現(ゆめうつつ)のごとき泡影(ほうえい:水の泡と物の影法師で、儚い対象を譬えて言う語)なり」の謂いか。或いは後半は四字熟語で「夢現泡影のごとし」と読む方がそれらしいか。

「鵜野九郎兵衞」門人として「慶安太平記」や「正雪記」に登場する。]

 

 是より聞傳(ききつたへ)て、正雪を重んじ、其名、夥しく世に弘(ひろま)り、爰(ここ)に東武弓町に四國浪人丸橋忠彌秀勝といふ者あり。生(うまれ)不敵にして、人を人ともおもわず、管鑓(くだやり)の師として、隙もなく大勢の弟子にもてなされありける。弟子どもに語(かたり)けるは、

「我父は太閤秀吉公より三代の孫也。關白秀次公、文祿四年の七月五日、人の讒言(ざんげん)に依(より)て紀州高野山にて御生害(ごしやうがい)の折節、愛妾の賤き御子(みこ)をはらむもの有(あり)。此女、四國の丸橋に逃來(にげきた)り。我祖父を儲(まうけ)、我に至り。我(わが)氏(うじ)、豐臣也。」

と語。諸人、是をきゝて誠(まこと)とす。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木枯の笠

 

     木枯の笠

 

 八月二十五日に故山を出発して東上の途中、居士は広嶋、厳嶋、尾道、岡山、小豆嶋寒懸(かんかけ)などに遊んだ。

 

   小豆嶋寒懸

 頭上の岩をめぐるや秋の雲

 

 その他数句がある。

[やぶちゃん注:「寒懸(かんかけ)」現在は寒霞渓(かんかけい)と表記するが、私が大学一年の時、卒業論文のために尾崎放哉の最期の地として小豆島を訪れた時、無償で宿を貸してくれた西光寺(放哉はこの寺の奥の院である南郷庵(みなんごあん)で没した)の住職杉本宥尚氏の娘さんたち(幸さんと文さんという名であった)は「かんかけ」と可愛らしく言っていたのを思い出す。]

 学年試験を受けずに帰った居士は、九月に追試験を受けなければならぬ。この間題については漱石氏に問合せていた模様であったが、上京後間もなく試験準備のため、大宮に赴いて万松楼(ばんしょうろう)に投じた。丁度萩の盛で、あたりは閑静でもあるし、「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」ったらしい。竹村黄塔(こうとう)、夏目漱石というような友人たちは、居士の手紙によって大宮に来り、各〻万松楼に一、二泊した。漱石氏の帰るのと同時に、居士も大宮を引上げたようである。漱石氏もこの時のことを「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」といっている。この滞在は十日ばかりで「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」り、試験はどうにか通過した。

[やぶちゃん注:「万松楼」現在の大宮公園にあった高級割烹旅館。推定であるが、附近(グーグル・マップ・データ)にあったと思われる。

「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十六日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出冊子で訂した。こんなものまであるのは、やっぱり、国立国会図書館、凄い!

「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注

「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。踊り字「〱」は正字化した。

「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」同じく「墨汁一滴」の「六月十六日」から。上記と同じもので訂した。]

 この年の「寒山落木」には

 

   十月廿四日平塚より子安に至る道に日暮て

 稻の香や闇に一すぢ野の小道

   翌廿五日大山に上りて

 野菊折る手許に低し伊豆の嶋

 

などの句がある。この旅行は文科大学の遠足会で、藤井紫影氏などは大山登りの途中ではじめて居士と言葉を交したのだという。この時居士は大学の制服を著ていたそうである。

[やぶちゃん注:「藤井紫影」後の国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)の号。淡路(兵庫県)生まれ。東京帝国大学卒業後、四高・八高の教授を経て、明治四四(一九一一)年、京都帝国大学教授となった。専攻は近世文学で「近松全集」「諺語大辞典」を編集し、著書に「江戸文学研究」等がある。大学時代から正岡子規と親交を持ち、俳句を始めた。句集に「かきね草」がある。]

 十一月上旬、居士は川越方面に遊んだ。武蔵野に試みた小行脚で、忍(おし)、熊谷、松山などの各地を歩いている。子規庵に現存する菅笠は、この旅行の際、蕨(わらび)駅あたりでもとめたもので、前に引いた「室内の什物」の中に「三日の間武藏野をさまよひて、時雨にも濡れず霰にも打たれず、空しく筆の跡を留めて發句二つ三つ書きたる菅笠なり」と記されている。

[やぶちゃん注:「忍(おし)」埼玉県北部の行田(ぎょうだ)市の中心市街地の旧地名。(グーグル・マップ・データ)。関東七名城のひとつに数えられる忍城の跡がある。

「松山」埼玉県東松山市附近。松山町の地名が残る((グーグル・マップ・データ))。

『「室内の什物」の中に』。先に示した「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」で確認されたい。そこには以上の言葉に添えて、

 

 春雨のふるき小笠や霰の句

 

の句が配されてある。]

 

 木枯やあら緒くひこむ菅の笠

 

という句は、この旅行の実感であろう。

 『筆まかせ』の終に合綴(がってつ)された「常盤豪傑譚」なるものがある。舎監たる鳴雪翁をはじめ、常盤会寄宿舎にいた人々の逸話を興味本位に記したもので、その最初に「明治二十四年十一月上旬旅行中熊谷小松屋にて書初む」と註記してあるのを見れば、旅宿の夜長にこの稿を起したのである。果して全篇のどの位を草し得たかわからぬが、滞留久しきに及んで無聊に苦しむ場合ならともかく、僅三日の行脚旅行に、昼は笠を被って歩き起りながら、夜は夜で旅宿に筆を執る。それも旅行とは全然関係のない「常盤豪傑譚」であるに至っては、その筆まめに驚かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「常盤豪傑譚」岩波文庫「筆まかせ抄」の最後に附された全目録によれば、「筆まか勢」第四編の『明治廿四十一月上旬より』としてこれ一篇のみが載る。未見。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木曾旅行

 

    房総行脚、木曾旅行

 

 明治二十四年(二十五歳)も依然常盤会寄宿舎にあった。三月中に碧梧桐氏が上京して、同じ寄宿舎にいたようなこともあるが、この時は高等中学の試験を受けるためだったので、文学的方面には格別の展開を見るに至らなかった。

[やぶちゃん注:「明治二十四年」一八九一年。

「二十五歳」無論、数えで正岡子規は慶応三年九月十七日(グレゴリオ暦一八六七年十月十四日)生まれであるから、この「三月中」は未だ満二十三歳。]

 三月二十日、居士は房総行脚の途に上っている。脳痛を医(いやさ)んがためとあるが、煙霞の癖(へき)の已みがたきものがあったのであろう。市川に菅笠をもとめ、雨に遭って蓑(みの)も買い、全くの行脚姿になった。後年の居士の歌に「旅行くと都路さかり市川の笠賣る家に笠もとめ著(き)つ」「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」などとあるのは、この旅行の際のことを詠んだのである。子規庵に長く伝わったのはこの蓑で、三十二年に書いた「室内の什物」なる文章に「十年前房總に遊びし時のかたみなり。春の旅は菜の花に曇りていつしか雨の降りいでたるに、宿り求めんには早く、傘買はんもおろかなり。いでや浮世をかくれ蓑著んとて、とある里にて購(あがな)ひたるが、著て見ればそゞろに嬉しくて、雨の中を岡の菫に寐ころびたるその蓑なり」と記されているが、買った場所は明(あきらか)でない、

[やぶちゃん注:「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」の「蓑」は諸引用を見ても「みの」で、字余りとなっている。

「室内の什物」明治三二(一九〇〇)年筆。「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」(子規没後出版)の「君が室内の什物」で画像で読める(画面操作によって単ページ・ダウン・ロード画像の生成も出来る)。]

 この行は船橋、佐倉、馬渡を経て千葉に到り、小湊、平磯、館山から那古、船形(ふながた)に詣で、保多、羅漢寺、鋸山等を歴遊、四月二日帰京した。行程九日である。帰来「かくれみの」を草して知友の回覧に供した。「かくれ蓑」「隠蓑日記」(漢文)「かくれみの句集」の三篇より成っているが、著しく目につくのは、巻頭の「かくれ蓑」の文章が西鶴張(ばり)になっていることと、俳句の作品が多くなったことである。句はなお見るべきものが少いけれども、

 

 馬の背に菅笠広し揚雲雀(あげひばり)

 菜の花の中に路あり一軒家

 鶯や山をいづれば誕生寺

 

などの如く、旅中の実感が旬になっていることに注意すべきであろう。

[やぶちゃん注:「馬渡」現在の千葉県佐倉市の南西部に位置する馬渡(まわたし)附近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。底本は「まわたり」とルビするが、現行地名が「まわたし」であるので、敢えて除去した。「隠蓑日記」の旅程を追うと、ここから「千葉」へ向かった後、そこから内陸を南進して長柄山(現在の千葉県長生郡長柄町長柄山。ここ)越え、大多喜に出ていることが判る。従って「平磯」は房総半島東端の南房総市千倉町平磯(ここ)であり、そこから内房総に移って海岸線を北上した。「羅漢寺」は現在の千葉県安房郡鋸南町の鋸山にある曹洞宗乾坤山(けんこんざん)日本寺のことであろう。ここは鋸山羅漢石像群で知られるからである。ルートこそ逆方向で独り旅ではあるのだけれど、その主なロケーション(小湊(誕生寺)・那古・保多)といい、風体(ふうてい)といい、これはまさに漱石の「こゝろ」の「先生」ととの房州行を髣髴させるではないか! ここここここ(総て私のブログ版「心」初出版。サイト一括版(後の「先生と遺書」パート)はこちら)だ。或いは漱石は、「こゝろ」のこのシーンを、心密かに正岡子規へのオマージュ或いはレクイエムとして捧げていたのではあるまいか?

「かくれ蓑」「隠蓑日記」「かくれみの句集」今までも参考に供してきた国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第八巻(少年時代創作篇)」(大正一四(一九二五)年アルス刊)で、総て画像で読める。リンク先の左コンテンツの「目次・巻号」を表示し、そこの各篇をクリックされたい。]

 向嶋木母寺(もくぼじ)内の茶店の二階を借りて、三日ほど哲学の試験勉強をやったのもこの春であった。蒟蒻版(こんにゃくばん)のノートを読むことに倦(う)むと、手帳と鉛筆とを持ってあたりを散歩する。帰ると俳句や歌を推敲する。結局ここにいる間にノートを読むこと一回半、俳句と歌を得ること二、三十、試験はどうやら無事に通過した。「もっともブッセという先生は落第点はつけないそうだから、試験がほんとうに出来たのだかどうだか分った話じゃない」と後年当時のことを回想した文中に述べている。

[やぶちゃん注:「向嶋木母寺」現在の東京都墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。本尊は地蔵菩薩及び元三(がんさん)大師。ここ

「蒟蒻版」謄写版の一種。寒天にグリセリンと膠(にかわ)を混ぜて煮て作った版に、特殊なインクで書画を書いた紙を当て、転写したものを原版として印刷したもの。寒天版。呼称は初期は蒟蒻(こんにゃく)を使ったとも、版がぶよぶよした蒟蒻状であったからとも言う。

「もつともブツセといふ先生は落第點はつけないさうだから、試験がほんとうに出來たのだかどうだか分つた話ぢない」これは宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十五日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子で訂した(「ほんとう」はママ)。この「ブッセ」はカール・ハインリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・ブッセ(Carl Heinrich August Ludwig Busse 一八六二年~一九〇七年)でドイツ出身の哲学者。お雇い外国人として明治二〇(一八八七)年から明治二五(一八九二)年まで東京帝国大学で哲学講師を務めた。後に哲学者となった西田幾多郎も教え子の一人であり、帰国の際には、当時、同大英文科第三学年に在学中夏目漱石がクラスを代表してブッセ宛に「別離の挨拶」を英文で認(したた)めている。ここは「こゝろ」のKが哲学に関心を示し出す辺りとも皮肉にリンクしているように思われて興味深い。]

 五月、高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た。中学の同窓たる碧梧桐氏の紹介によるのである。碧梧桐氏は当時受験のため上京中であったが、直接居士に話さずに手紙で紹介したと「子規を語る」の中に記されていたかと思う。虚子氏もまた俳句をしたためて送ったものと見えて、居士は碧梧桐氏の場合と同じく、返書において一々これを評している。

[やぶちゃん注:「高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た」虚子も愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)生まれである(旧松山藩士池内(いけのうち)政忠の五男)。明治二十四年当時は伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)の三年で、河東碧梧桐と同級であったことから、彼を介して正岡子規に兄事し、まさにこの年、子規より虚子の号を授かっている。二年後の明治二六(一八九三)年、碧梧桐とともに京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学した。]

 六月、学年試験を抛擲(ほうてき)して帰国の途に上った。四月七日大谷是空氏宛の手紙を見ると、房総行脚のことを述べた末に「この夏もまた同じ姿で木曾道中と出かけるつもり」云々とあるから、前々からの予定を実行に移したものであることは明である。特に木曾路を選んだ理由について、居士は何も記しておらぬけれども、『風流仏』の舞台であることも、あるいは一理由になっておりはせぬかと思われる。

[やぶちゃん注:「風流仏」既出既注であるが、再掲しておく。幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:子規と同年)作の小説。明治二二(一八八九)年『新著百種』に発表。旅先で出会った花売りの娘に恋した彫刻師珠運の悲恋を描いた露伴の出世作。]

 この旅行の日次ははっきりわからぬが、先ず軽井沢に一泊してから、木曾駅より汽車に搭(とう)ずるまでの間、途中六日を費しているらしい。猿が馬場の木いちご、木曾の桑の実、奈良井の苗代茱萸(なわしろぐみ)など、菓物(くだもの)の居士をよろこばすものも少くなかった。この時の事を記したのが「かけはしの記」で、翌二十五年になって新聞『日本』紙上に先ず現れたのがこの一篇である。文中の句は後に改刪(かいさん)を加えたらしく、「寒山落木」に存せぬのがあるけれども、「かくれみの」に比すれば慥(たしか)に数歩を進めている。

[やぶちゃん注:「日次」(ひつぎ)は毎日・日数の意であるが、ここは旅程の意。

「猿が馬場」現在の長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ:標高九百六十四メートル)附近であろう。

「木いちご」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の類。私も偏愛する木の実であるが、思いの外、種は多い。

「奈良井」中山道の旧奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。

「苗代茱萸(なわしろぐみ)」正式な種和名。バラ亜綱バラ目グミ科グミ属ナワシログミ Elaeagnus pungensウィキの「ナワシログミによれば、『別名タワラグミ、トキワグミ。 盆栽としてはカングミの名で呼ばれることが多い』。『日本の本州中南部、四国、九州、中国中南部に分布する。海岸に多いが、内陸』でも見かける。『常緑低木で、茎は立ち上がるが、先端の枝は垂れ下がり、他の木にひっかかってつる植物めいた姿になる。楕円形の葉は厚くて硬い。新しい葉の表面には一面に星状毛が生えているため、白っぽい艶消しに見えるが、成熟するとこれが無くなり、ツヤツヤした深緑になる』。『開花期は秋』で、『公園木、海岸の砂防用、庭木として植栽されている』。『果実(正確には偽果)は春に赤っぽく熟し食べられる。ナワシログミの名は、稲の苗代』(四~五月頃)『を作る頃に果実が熟すること』に由来する。『葉にはウルソ酸(ursolic acid)オレアノリン酸(oleanolic acid)、クマタケニン(kumatakenin)、ルペオール(lupeol)、β-シトステロール(β-Sitosterol)、3,7-ジメチルカエンフェロール(3,7-Dimethyl kaempferol)などの成分が含まれ』、『中国では生薬として「胡子」(こたいし)の名で』古く「本草綱目」「本草経集註」などにも記載がある。「本草綱目」は『葉の性質を「酸、平、無毒」とし、咳、喘息、喀血、出血、癰疽に効用があると』している、とある。これも私はかつてよく裏山で食べた。

「かけはしの記」「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 

 山々は萌黃(もえぎ)淺葱(あさぎ)やほとゝぎす

 馬の背や風吹きこぼす椎の花

 桑の實の木曾路出づれば穂麥かな

 

[やぶちゃん注:「萌黃淺葱」「萌黃」は黄と青の中間色で葱(ねぎ)の萌え出る色の意であり、「淺葱」(時に「葱」を「黄」と混同して「浅黄」とも書く)は薄い葱(ねぎ)の葉の色の意で、緑がかった薄い藍色であるから、ここはそれぞれ切って色を山景に配して味わうべきである。]

 松山帰省中、居士は永田村の武市雪燈(名は庫太、蟠松とも号す)の居に遊んで句会を催したりしている。碧、虚両氏が影の形に従う如く、その身辺に現れるようになったのは、この夏の帰省からである。

[やぶちゃん注:「永田村」現在の愛媛県伊予郡松前町(まさきちょう)永田か()。

「武市雪燈」子規の友人で後に政治家となった武市庫太(たけいちくらた 文久三(一八六三)年~大正一三(一九二四)年)。伊予(愛媛県)生まれ。松山中学から同志社大学を経て、この時より三年前の明治二一(一八八八)年には自由党に入り、後、愛媛県会議員や県農会初代所長などを経て、衆議院議員(当選六回)となった。]

 

2018/01/25

芥川龍之介 手帳9 (1)

 

芥川龍之介 手帳9

 

[やぶちゃん注:現在、この原資料は不明で、岩波新全集は旧全集を元としているので、底本は岩波旧全集第十二巻の「手帳(九)」に従った。なお、ここまで手帳ナンバーは新全集と同じアラビア数字を使用してきた関係上、それを使う。先の《8-1》というような通し番号は附せないので用いない。但し、今まで通り、旧全集の句読点は旧全集編者がほどこしたものであることは明白(これまでの芥川龍之介の手帳の癖及び新全集の本手帖の原資料からの活字化様態から)なので総て除去した。除去の跡は基本一字空けとしたが、私の判断で除去して詰めた箇所もある。「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では□が記されているが、ここでは「■」で示した。また、「×」があるが、これは本当に「×」であるのか、旧全集編者による伏字かは明瞭ではない。前の「手帳8」では編者の政治的判断で「×」とした箇所が存在することが新全集の再判読で判明したからである

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、メモされた内容の中で確定出来るものとして最も古い関連作品は「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)で、その後は「河童」「歯車」「侏儒の言葉」と続き、「カルメン」(大正一五(一九二六)年七月『文藝春秋』)を挙げている。]

 

○庭つちに皐月の蠅のしたしさよ

○サイダアにて口を火傷す 小僧

○この寺はただ木石の夜寒かな

○印刷屋の二階 下のリンテンキ鳴る 小さい汽船中にゐる如し ねられる(大和のりのレツテル インクのレッテル 縮刷朝日)

[やぶちゃん注:「ねられる」は「ねられぬ」の誤記か誤判読であろう。]

 

○ジムバリスト航海中の作曲を送る

[やぶちゃん注:ヴァイオリニストのエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist:ロシア語名:Ефре́м Алекса́ндрович (Аро́нович) Цимбали́ст:エフレム・アレクサンドロヴィチ(アロノヴィチ)・ツィンバリスト 一八八九年~一九八五年)。指揮や作曲・編曲も手がけた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれ、指揮者であった父の楽団で八歳になる頃にはヴァイオリンを弾いていたという。十二歳でペテルブルク音楽院に入学、卒業後、ベルリンでブラームスの協奏曲を弾いてデビュー、一九〇七年にはロンドンで、一九一一年にはボストン交響楽団と共演してアメリカでもデビューし、その後はアメリカに定住した。古い時代の音楽の演奏によって、大いに人気を博した。大正一一(一九二二)年の初来日以来、四度に亙って来日した。(以上はウィキの「エフレム・ジンバリスト」に拠った)。]

 

○外にチヤルメラ吹き來る 方々へむける故 音かはる

○室外の日光は室内の光よりも百倍つよし 卽室外の一年は室内の百年に當る

[やぶちゃん注:紫外線による皮膚癌等のリスクの上昇やDNAの重大な損傷を考えれば、この芥川龍之介の言は医学的生物学的正しい感じがする。]

 

○電車にとび上らんとし 落ち 人事不省になる 住所を英語にて言ふ それより自信を生ず

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した「貝殼」の以下の章の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       十三 「いろは字引」にない言葉

 

 彼はエデインバラに留學中、電車に飛び乘らうとして轉げ落ち、人事不省になつてしまつた。が、病院へかつぎこまれる途中も譫語(うはごと)に英語をしやべつてゐた。彼の健康が恢復した後、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを話して聞かせた。彼はそれ以來別人のやうに彼の語學力に確信を持ち、とうとう名高い英語學者になつた。――これは彼の立志譚である。しかし僕に面白かつたのは彼の留守宅に住んでゐた彼の母親の言葉だつた。

 「うちの息子は學問をして日本語はすつかり知り悉してしまひましたから、今度はわざわざ西洋へ行つて『いろは字引』にない言葉を習つてゐます。」

 

   *]

 

○カツパ語の語原 たとへばBAPRR(莫迦)はBAP(莊嚴)より來るが如し 又カツパには月光も日光なり

[やぶちゃん注:「BAPRR(莫迦)」「BAP(莊嚴)」は河童世界の架空言語と考えてよいが、英語の“Bap.”“Baptist”(バプテスト派(浸礼派):幼児洗礼を認めず、成人して信仰告白をした者にのみ全身洗礼を行なうべきと主張する、聖書主義の保守派)の意があるから、それを芥川龍之介は皮肉に掛けているように私には思われる。これは昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された「河童」を書くに当たって、「Kappa」語(実際に作中にアルファベットで示される)についての言語学的体系及び文化的言語感覚をそれなりに芥川がしっかりと考えていた証しと言える(リンク先は私の草稿附き電子テクスト。他に私は別ページ仕立ての「芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈」や、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』等、多彩な変わり種テクストを用意してある。お尋ねあれかし。]

 

○少年 禁煙 もろこしの毛を煙管につめてのむ

○樺太 ギリアアク犬 教導犬 二匹分一匹につとめる 氷の穴の中にて子をうむ 橇は他種の犬 ○黑百合あり ○氷の上を自動車にて走る シベリアとつづく 自動車を八十圓(トラツク)にて賣る 買ひ手なし ○鑵づめ三年分 ○海豹の敏感 七八町先にて人間を感ず ○ギリアアク犬五頭小樽は通り函館にてかへす 食糧人間よりかかる ○橫須賀へつき蛙をきく なつかし 東京ではなかず ○氷やけ 潮風を感ずる手

[やぶちゃん注:「ギリアアク犬」ここは所謂、シベリアからカナダ北極圏にかけてのツンドラ地帯を原産地とするシベリア犬(Siberian Husky:シベリアン・ハスキー:祖先はスピッツと同系とされる)ではなく、樺太及び千島列島で作り出された樺太犬(からふとけん: Sakhalin Husky:サハリン・ハスキー)であろう(樺太犬の剥製や写真を見るに、シベリアン・ハスキーとはかなり違う)。ウィキの「樺太犬」によれば、アイヌやニヴフ『などの北方の民族が犬ゾリ・猟犬に使っていた(いる)犬種』で、明治四三(一九一〇)年から二年、『白瀬矗を隊長とする南極探検隊に同行し』、『犬ぞり用の犬として活躍し、戦後の南極地域観測隊第一次越冬隊でも犬ぞり用の犬として採用された』『タロとジロのエピソードにより』、『有名な犬種。北海道では昭和』四十『年代くらいまで、車や機械にとって替わられるまで漁業、木材の運搬、電報配達、行商などに使役犬として働いていた。車社会の到来とともに使役犬として必要のなくなった樺太犬は他犬種と混血して雑種化したり、野に放されたものは』、時折しも、『エキノコックス症の発生とも時期が重なって』、野犬狩りに遇うなどし、一九七〇年『代頃にはほぼ絶滅してしまった』とある(涙)。以上に出たニヴフは、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族で、古くは「ギリヤーク」と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語であるニヴフ語を持っている。

「二匹分一匹につとめる」これは二匹で一頭分の仕事をこなすというのではなくて、社会性が非常に高く、分業や割当に於いて高度な調教と効率の良い実労働が可能であることを指しているように思われる。]

 

○婆曰 うちの旦那はえらい 日本語はすつかり覺えてしまつて外國へ行つて辭引きにない字を學つてゐる

[やぶちゃん注:先に注した「貝殼」の『十三 「いろは字引」にない言葉』と同内容のメモ。]

 

○釜に金魚 植ごみ

○家中にて動物園へ行く 象談出る(子供たち) 姉曰 象強し 鐵砲にも打たれぬ いざと言へば釘を足の裏へさせばよし(皆默つてゐる) (突然) 豚の尻尾は柿の蔕だね ○妹曰、あれは猪 母曰 いつか駱駝に紙をやつたね 妹曰 あれは羊だ(笑ふ) 母曰 福島中佐の馬ゐるか? 末弟 末妹曰 馬なんかゐなかつた 福島中佐つて何だ? 母曰 シベリアをぬけた人だ(ボンヤリ) ○虎談出る(男の子たち) 牛を手でころす話 いざとなればヤツと氣あひをかけ虎の口ヘ手をつつこめば殺すことを得べし 猫をこはがる少年 一つ上の姉送つてやる 中學三年にもなつていかれぬやつはない 姉 妹と思はる 中學生もトシ子トシ子と言ふ お前は子供にかへつたか おしろいなどつけてゐる(コノ間末弟虎のまねをして步く)

[やぶちゃん注:「トシ子トシ子」の後半は底本では踊り字「〱」。思うに、これは高い確率で盟友の画家小穴隆一が語った話をメモしたものではなかろうか? 私の『小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」』を読まれたい。酷似したシーンが登場するのである。

「談」二箇所とも「ばなし」と訓じておく。

「蔕」「へた」。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮し、その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 

○兄妹 レモン――父は縣會議員 兄は早稻田に入り ソシアリストとなる よびかへされる カンキンさる カンキンされし所は島なり ××部屋 ××感激ス 長崎の新聞に入り 又東京へ來り 或新聞に入る 又長崎へかへる 妹病にて死にさうなり 妹レモン食ひたいと云ふ故長崎をさがしてもなし レモンを送つてくれと東京へ手紙を出す

[やぶちゃん注:この話、二人とも長崎から上京して芥川龍之介に弟子入りした、蒲原春夫(かもはらはるお)或いは渡辺庫輔(くらすけ)辺りからの聞き書きではあるまいか。]

 

○ワクラバニワガ見出ツルナメクジリ硝子ノ箱ニカヒニケルカモ

○子セムシ 親辯士にせむとす 樂屋うちの使にせられ 喜劇などのツマ辯士に使はる 辯士は前借を重ね 素人の座主に抑へられず 逃げられればその辯士につきし客も去る 辯士仲間に組合あり (河岸人 座主も河岸人)

[やぶちゃん注:この話、何か読んだ気がするのだが、どうしても、思い出せない。思い出したら、追記する。]

 

○樂の菓子鉢を sweets 入れに使はむとす しかし郊外にすむ 日本の炊事婦煮豆などを作り それを入れる爲に樂の色よくなる(海外談)

[やぶちゃん注:「樂」楽焼。素人が趣味などとして作る、低い温度の火で焼く陶器。]

 

○向うで二人並んで顏を洗ふ(ホテル) ひとりの腰より何か落つ 他の一人の何かと思ふ 一人あわててそれをしまふ 他の一人何かと言ふ 一人出して見せる バツトの箱位の布に木綿糸にてクリストの像 上に聖書の文句あり 二人とも外交官 一人の前任地にてつくる

[やぶちゃん注:「バツト」「ゴールデンバット」日本産煙草の銘柄(Golden Bat)のこと。ウィキの「ゴールデンバット」をどうぞ。]

 

○寫眞に畫の具があるんだよと一人言ふ 一人曰領事につかまり一畫帖を出さる 畫の具なしと言へば畫の具持ち來る その畫の具シヤシンの畫の具なり 卽ち茄子を書く 向ふにも茄子あるかねと一人言ふ 一人曰あるさ

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、一部、意味が判らぬ。]

 

○服はシヤツのやうにつくれと言ふ(ハイカラ)洋服屋の作り來る洋服シヤツの如くにしてシヤツを着ては着られず

○兎屋の母 信州の溫泉へ行き 東京へ行く男に河鹿 櫻實 笹餅をとどけさす 土瓶の中に河鹿あり 男六十二匹 女二匹 女を別にしないと皆男を食ふ 河鹿は死ぬ時合掌して死す

[やぶちゃん注:「兎屋」現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。これはかなり有名な話で、日経の「Bunjin東京グルメ」の第三回、我妻ヒロタカ氏の記事「『うさぎや』~喜作最中がつむいだ"思い"~(前編)」同(後編)でどうぞ、ご賞味あれかし! なお、実は芥川龍之介の全集版の遺書の「芥川文あて」には(リンク先は私の旧全集版の方の遺書電子テクスト)、自作の出版権の下りで謎の『谷口氏』なる人物が登場するのであるが、比定候補の一人が、なんと、この店主なのである。芥川龍之介の葬儀実務も彼が取り仕切った。

「河鹿」「かじか」。無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエルBuergeria buergeri。美しい鳴き声を楽しむため、江戸時代から贈答にされた。青蛙(アオガエル科 Rhacophoridae類は性的二型で♀の方が♂よりも有意に大きい。但し、蛙で鳴くのは♂のみ。

「櫻實」「さくらんぼ」。]

 

○漆の師匠をとふ 留守 鄰にて聞けば手紙があるさうです 師匠もお上さんもるす 上りて手紙を見れば午頃まで待てと言ふ手紙なり そこへ半玉二人來る 手紙がありますよと言へば上りてよみ 笛 鼓などをいぢりて待つ

○女優募集の看板を出して女を釣る そこへ女たづねて來る 男はその女にこんな所へ來るなと言ふ そこへ刑事來り 二人ともつかまる

 

芥川龍之介 手帳8 (27) 《8-35~/8-40》 / 手帳8~了

《8-35》

○ぞろぞろと白楊(どろ)の並木も霞みけり

[やぶちゃん注:この句は抹消されていない

「白楊(どろ)」キントラノオ目ヤナギ科(ポクラ)ヤマナラシ属Populus のポプラ類であるが、本邦に自生する種はヤマナラシ属ヤマナラシ(山鳴らし:ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii)・ドロノキ(泥の木:ヤマナラシ属ドロノキ Populus suaveolens)・チョウセンヤマナラシ(Populus tremula var. davidiana)の三種で、それに対し、明治期に導入された外来種を一般には「ポプラ」と呼んでいるようである。外来種は、ウィキの「ポプラ」によれば、『外来ポプラの和名は非常にややこしく、整理された和名がない。そのため同一種でも別名や別表記が多く、学術論文ですら混乱しており、植物園などの表記にも不統一なものが多い。以下の名称も統一名称ではない』とした上で、以下の三種他を挙げてある。『Populus nigra ヨーロッパクロポプラ  別名・ヨーロッパクロヤマナラシ。ヨーロッパ原産。日本には明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた』。『Populus nigra var. italica セイヨウハコヤナギ 別名・イタリアポプラ/イタリアヤマナラシ。ヨーロッパクロポプラの改良種。直立する羽状の美しい樹形で知られ、並木に適する』。『Populus tremuloides カロリナポプラ(Carolina Poplar)別名・アメリカポプラ・アメリカヤマナラシ・カロライナハコヤナギ等。北アメリカ東部原産。イタリアポプラのように高く伸びず、樹高が低くて管理しやすく暑さに強いため、市街地の街路樹としてよく利用される』とある。後者の外来ポプラの街路樹を見馴れている我々は直ちにそれらしか想起出来しない可能性が高い。この「どろ」というルビを重く見るなら、在来種の「ヤマナラシ」或いは「ドロノキ」を指すことになるが、俳句の音数律に合わせた可能性の方が遙かに優先することを考えれば、ここは外来種のポプラでよいように思う。但し、この句が遡る中国特派の終り頃の回想吟であるとすると、俄然、中国東北部にも植生するドロノキ Populus suaveolens である可能性が高まるとは言える。]

 

○まんまろに入日かかるや野路の杉

○鶯や茜さしたる雜木山

[やぶちゃん注:この二句(抹消なし)は底本新全集にはなく(現存する本「手帳8」と仮称する原本には、ない、ということである)、旧全集に載るものである。新全集ではここより一条前で見開き《8-34》が終わっている以上、落丁の疑いは極めて低く、良心的に考えるならば、投げ込みか、貼りつけとなるが、実は、この後の以下の「この村の白楊もそろり」以下、実に、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が、旧全集では脱落していることを考えると、何か、不審な感じがする。単に落丁であるなら、新全集の編者が再検証した際に、この有意なページ落丁に気づくであろうし、それが新全集後記に記されていない以上、寧ろ、旧全集編者が、何らかの理由で(ただの凡ミスも含めて)活字化しなかった可能性が高いように私には思われる……実は、この劣化した原物は、私の家から徒歩一時間もかからぬ、私の眼と鼻の先の、藤沢市文書館に所蔵(死蔵)されているのである(劣化対策もされず、画像撮影とそのブラッシュ・アップといった最新処理が成されていない以上、「死蔵」というのが正しいと私は思う)。見たいが、アカデミストでない私には見せてくれないに決まっている。ああ、見たいなぁ……

 

○この村の白楊もそろり

[やぶちゃん注:抹消なし。前注で述べた通り、ここから、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が旧全集では脱落している。]

 

○倉屋敷703  里見

[やぶちゃん注:「里見」不詳。晩年の知人作家なら里見弴であるが、彼はその後なら、永く鎌倉に住んでいたが、鎌倉には昔も今も「倉屋敷」などという地名は、ない。大正末から昭和初年にかけて里実がどこに住んでいたかは知らぬ。]

 

○マジメ――コツケイ

○スキイ

     >去ル原因

 危險思想

   {名ヨ慾

○怪談{金錢欲

   {作家慾

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。「慾」「欲」の違いはママ。]

 

産兒擴張

○産兒擴張? 宗教? 哲學? 工業? 商業? 家庭制度

《8-36》

曹雲西

[やぶちゃん注:「曹雲西」元代の文人画家曹知白(一二七二年~一三五五年)の号。華亭 (江蘇省)の出身。一時、官途に就いて、水利の専門家として灌漑事業などによって巨富を築き、後は豪奢な生活と文人画家らのパトロンとして数々の逸話を残した。山水画を得意とし、元代の李郭派山水画様式の典型ともされる。]

 

〇八大=逆襲

[やぶちゃん注:「八大」(命数? 名前?)が何を指すのか、これでは判らぬので、不詳であるが、芥川龍之介が好み、作品も入手していた清初の画家朱耷(しゅとう 一六二六年~一七〇五年)の号は「八大山人」で、ウィキの「八大山人」によれば、『江西省南昌に在した明朝の宗室で、洪武帝第』十七『子の寧王朱権の』九『世の孫で、石城王の一族出身。朱謀𪅀の子、朱謀垔の甥。少年の頃から詩文を詠むなど秀才であった。官吏を目指し、科挙試験を受けるため』、『民籍に降り、初頭段階を経て応試の資格を得』たが、一六四四『年に明朝そのものが瓦解したため、その夢は断たれた』。『清軍の侵攻を避けて臨川県・進賢に逃げ』、一六四八『年に出家』し、『その地の禅寺である耕香庵に入った。一説には、清朝が庶民に強制した辮髪を避けるため』、『とも言われている。そこで仏道修業に励み、数年後には宗師となった』。『仏門に入って』二十『年後、百人近い弟子を持ち、寺の外にも評判が聞こえていた』ことから、『警戒され、県令の胡亦堂の命により官舎に軟禁状態とされた』。一時は『拘禁に耐えていたが、ついには僧服を焼き捨てて』、『南昌へ』遁走したが、『仏曹界から離れ、政治力の無い一庶民となったことにより』、『警戒も解かれた』。『その後、妻を娶ったことから、清の俗である辮髪にしたものと考えられている。世間との交流を避け、数少ない飲み友達と酒を飲み、絵を描く生活を送った。画でも高い評判を得たが』、『それを売って富を蓄えるようなことはせず、知人に惜しげもなく与えたり、訪ねた寺の小僧にせがまれて渡したりする程度で、山人は貧窮の生涯を送った』。『水墨花鳥画の形式を基本とし、花卉や山水、鳥や魚などを多く題材としつつ、伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。だが、八大山人の筆を評するに、その描く鳥の足を一本のみで表したり、魚などの目を白眼で示すなど』、『時に奇異とも取れる表現を用いている点を避けることは出来ない。白眼は、阮籍の故事に倣い中国では「拒絶」を表現するものとされる。そこから汲み取れるように、その作画の中には自らの出目であり滅び去った明朝への嘆きと、その眼に侵略者と映る清朝への、屈してしまったからこそ』、『心中でより激しく沸き立つ反抗が暗に表現されている』。『晩年に近くなってからの号「八大山人」には、その由来について諸説』あり、『僧でもあった経歴から』、『仏教用語に由来を求める説がある。「六大」というあまねくものを網羅する意を』、『更に拡げ』、『「八大」としたとの内容だが、発狂』(これは以上の、僧衣を焼き捨てて遁走したことなどを初めとする奇矯な行動によるもので、例えば平凡社の「百科事典マイペディア」の記載には『狂人のような行動が多かった』と明記されてはいる。しかし、これはある意味、中国史の賢者が権力や汚穢した世俗を避け、拒絶するためによくやる「佯狂(ようきょう)」であろうと私は思う。近現代なら、一本足の鳥(実際に鳥は一脚で立つことはしばしばある)や白眼の魚を描いたからといって、それを即、狂人とする者は、まず、おるまい)『して棄教した山人が名乗るには似つかわしくないとの反論もある』。一方で、彼はこの号を署名するに、『「八」「大」「山」「人」の四文字を潰し気味に』しており、それは『一瞥して八大の二文字で「哭」や「笑」』、四『文字あわせて「哭之(これをこくす)」とも見えることから、清朝のものとなった世への厭世感』(或いは「逆襲」としての拒絶)『に苛まれ、むしろこれらの字を崩して名としたとの説もある』(下線やぶちゃん)とある。以上の彼の奇矯な生涯を考えると、この「逆襲」の意味が腑に落ちるような気も私はするから、或いは「八大」とは彼のことなのかも知れない。]

 

○畫帖

○新羅 仿古人物帖

    山水(人物)

    人物(山水)

[やぶちゃん注:「新羅」(?~一七五六年頃)は清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。

「仿古人物帖」既に述べた通り、「仿」は「倣(なら)う・模倣する」の意であるから、画家新羅が、先達の画家の描いた人物画を模写した画集の題と読める。

「山水(人物)」「人物(山水)」意味不明。妙なメモだ。「仿古人物帖」と名打った画集であるのに山水と人物が交互に描かれているというのか? 或いは山水画の中に同時に人物が描かれており、人物画の背景に必ず山水の風景が添えられているというのか?]

 

《8-37》

○北の山

○珠州久滿元祿の星辰にやとるやよひの末

[やぶちゃん注:お手上げ。ただ「珠州久滿」(「すずひさみつ」と読んでおこう)は、これで人名のように、まず、採れる。さすれば、これを切り離してみると、「元祿の星辰にやとるややよひの末」は「元祿の星辰(ほし)にやどるややよひの末」と下五が字余りながら雑排或いは芝居の台詞らしい感じになるから、或いは、珠州久滿は俳人か作劇中の登場人物か? と考えたが、しかし、この名も文句も、ネットでは一切、ヒットしない。だから、やっぱし、お手上げなのだ。]の

 

    {元祿甲申

○■■■{

    {支考序

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。

「元祿甲申」は元禄十七年。但し、これは元禄の最後の年で、元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日) に宝永に改元されているから、事実上は二ヶ月半弱しか存在しない。「支考序」で三文字の誰かの撰集(であろうと踏んだ)という条件で探すと、あった! あった! 涼菟編の各務支考の撰集「山中集」自身が序を書いている(こちらのページのデータに拠る)。これか?

 

○ありのまま 闌更撰

[やぶちゃん注:「闌更」俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。この「ありのまま」というのは正しくは「有り儘」で、彼の編した撰集。明和六(一七六九)序。因みに彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、まさに「ありのまま」を詠むことを節とした。]

 

○霞形

○浪花上人發句集

[やぶちゃん注:浪化(元禄一六(一七〇三)年~寛文一一(一六七二)年:東本願寺十四世琢如の第十五子。諱は晴研・晴寛、法名は常照。延宝五(一六七七)年に得度し、越中国の名刹井波別院瑞泉寺に入寺、元禄三(一六九〇)年には応真院と号した。向井去来の紹介により、京都嵯峨野の落柿舎で松尾芭蕉の門下に入った)の幕末に幸塚野鶴が編した「浪化上人発句集」の誤り(一般でもしばしば見られる)であろう。]

 

○去來文 寛政三

[やぶちゃん注:「去来文」「きょらいぶみ」(現代仮名遣)と読む。岸芷(がんし)編になる書簡形式の俳論書。寛政三(一七九一)年岸芷序。「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」のこちらで画像でもPDFでも総てが見られる(但し、草書)。

 なお、以下には底本自体に一行空けがあるので二行空けた。特異点。

 

 

○生田長江 秋田雨雀 長與 中村吉藏

      小説

 小山内薰<  長田秀雄 岩野泡鳴

      飜譯

 内藤鳴雪 長田幹彦 井泉水

[やぶちゃん注:以上の一条(「○生田長江」以下「井泉水」まで)は底本では、全部、一行で繋がっている。ブログのブラウザの不具合を考えて、かく特異的に改行を施して示した。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。鳥取県生まれ。芥川龍之介の作品もよく読み、よく批評している。特に「一塊の土」(大正一三(一九二四)年一月『新潮』)を芥川龍之介が新しく一歩出た作品として高く評価しており、芥川龍之介の盟友佐藤春夫も最初に彼に師事しているから、面識はあったものと思われる。

「秋田雨雀」(明治一六(一八八三)年~昭和三七(一九六二)年)は劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)生まれ。彼の名が芥川龍之介の全著作物の中で出るのは恐らくはここだけであるから、親しくはなかったと考えてよい。

「長與」長与善郎(明治二一(一八八八)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家・劇作家・評論家。東京生まれ。同時代作家ではあるが、白樺派でも頓に人道主義作家としられたから、芥川はあまり親しくはなかったと思われる。書簡には長与のドストエフスキイ崇拝を批判的に揶揄する記載なども見られる。

「中村吉藏」(明治一〇(一八七七)年~昭和一六(一九四一)年)は劇作家・演劇研究家。島根県生まれ。作品中に二度、名が出るが、親しくはなかったと考えて良かろう。

「小山内薰」(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年)は劇作家・演出家・批評家。「小説」「飜譯」とあるが、近現代演劇の革新に携わった以外にも、多くの小説やロシア作家の小説の翻訳なども手掛けている。ウィキの「小山内薫を参照されたい。芥川龍之介にとっては第一次『新思潮』の先輩であり、芝居好きでもあったし、主なテリトリーが演劇で異なっていた点で却って常に意識していても平気な作家であったことは疑いあるまい。

「長田秀雄」(ながたひでお 明治一八(一八八五)年~昭和二四(一九四九)年)は詩人・小説家・劇作家で演劇人(昭和一四(一九三九)年に築地小劇場が会社組織となった際の代表取締役)。東京生まれ。芥川は特に親しくはなかった模様である。

「岩野泡鳴」(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)は小説家・詩人。名東県津名郡洲本馬場町(現在の兵庫県洲本市)生まれ。ここに挙がった作家の中では唯一、芥川龍之介が親しく交わった作家である。何より、彼の文学サロン「十日会」(当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年から十二年の大震災までの時期は、万世橋の西洋料理店「ミカド」で徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らの主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。毎月一〇日に泡鳴からの案内ハガキにより会費制で開かれていた)に芥川龍之介も大正八(一九一九)年六月十日の会に参加し、当時の自然主義の平面描写論(小説は主観を交えずに事実をありのままに描くべきだとする考え方。田山花袋の命名)に対抗して岩野がぶち上げた一元描写論(小説では作者の主観を移入した人物を設定し、その視点から描写を一元的に統一すべきだとする考え方)について親しく議論をしている。因みに、恐らくはこの時の参加者の中に、後の芥川龍之介のファム・ファータルと化すことになる歌人秀しげ子がおり、龍之介は一目惚れしてしまったものと考えられる。

「内藤鳴雪」(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士で、後に明治政府の官吏となった俳人(歳下ながら、正岡子規の弟子)。詳しくは『子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 身辺に現れた人々』の私の注を参照されたい。

「長田幹彦」(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)は小説家・作詞家。先の長田秀雄の弟。芥川は兄同様、親しくはなかった。

「井泉水」荻原井泉水(明治一七(一八八四)年~昭和五一(一九七六)年)は自由律俳句の俳人。『層雲』を主宰し、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた(私は中学時代から二十代前半まで同派に属し、大学の卒論は「尾崎放哉論」であった。拙サイトには「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版正字體版)」他もある)。芥川龍之介に兄事した作家滝井孝作は『層雲』の俳人でもあったが、芥川龍之介は多少、新傾向俳句に色気はあったものの、自由律には批判的であったと思われ、また、井泉水の持つ一種の精神主義的求道的立場は芥川の嫌うところと私には思われるから、直接の接触はなかったのではないかと思う。]

 

《8-38》

○小公子 佐々木 Burnett

[やぶちゃん注:「小公子」(Little Lord Fauntleroy:「小フォントルロイ卿」)はフランシス・イライザ・ホジソン・バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett 一八四九年~一九二四年:イギリス生まれのアメリカ人作家)が一八八六年に書いた児童向け小説。「小公子」という邦題は、最初の邦訳者若松賤子(しづこ 元治元(一八六四)年~(明治二九(一八九六)年)が明治二三(一八九〇)年につけた。]

 

O久保田

[やぶちゃん注:盟友久保田万太郎か。]

 

○好色今美人 一册(永田■)

標題知らず 四册 桃林堂 序

好色またねの床 一册(■■■)

好色とし男 一册

[やぶちゃん注:「好色今美人」数多の好色本浮世草子の一種であろうが、不詳。「永田」とのセット。フレーズでもネットに掛からない。

「桃林堂」桃林堂蝶麿(とうりんどうちょうまろ 生没年未詳)江戸前期の浮世草子作者。元禄八(一六九五)年から宝永二(一七〇五)年にかけて、江戸で「好色赤烏帽子」など十数冊の好色本を残した。彼については、松尾芭蕉の門人であった天野桃隣(?~享保四(一七二〇)年:芭蕉と同じ伊賀上野の生まれで、各務支考によれば、芭蕉の従弟だとする。四十を過ぎた頃、芭蕉の援助を得て、俳諧師として独立した芭蕉が没した(元禄七(一六九四)年)後は、後ろ盾を失って次第に零落し、晩年は惨めな暮らしであったとされる)と同一人物とする説がある。

「好色またねの床」「好色亦寐の床」。五巻一冊。江戸前期の浮世絵師で版元の奥村政信(貞享三(一六八六)年~宝暦一四(一七六四)年)著・画になる浮世草子。宝永二(一七〇五)年板行。丸括弧内は三文字の判読不能字であるが、政信の三字の号には「芳月堂」「丹鳥斎」などがある

「好色とし男」作者不詳の浮世草子で元禄八(一六九五)年刊のそれか(全五巻か)。國學院大學図書館デジタルライブラリーの画像で総て(五巻分)読める。]

 

○大森山上二六一九 廣島龍太郎

[やぶちゃん注:住所・氏名ともに不詳。]

 

○丸山97  お若

[やぶちゃん注:杉本わか(生没年未詳)。長崎丸山遊廓の待合「たつみ」の、東検番の名花と謳われた芸妓照菊の本名。芥川龍之介は大正十一(一九二二)年五月十日から同月二十八日まで長崎に滞在したが、五月十八日に「たつみ」に遊んだ際に知り合った。芥川は彼女を非常に気に入り、「堂々としてゐて東京に出て來ても恥ずかしくない女」と評し、この滞在中、芥川龍之介畢生の名作「水虎晩歸圖」を銀屏風に描き、「萱草も咲いたばつてん別れかな」の句も与えている。後年、料亭「菊本(きくもと)」の女将となった。この女性。]

 

《8-39》

〇六番町3  南

○横須賀汐入124  加藤由藏(牧星)

[やぶちゃん注:「加藤由藏」(明治二三(一八九〇)年~?)は小説家。「牧星」はペン・ネーム。青森生まれ。新全集の「人名解説索引」によれば、『若年の頃から労働者となり、各地を放浪』、のちに『プロレタリア文学』系の『商業雑誌「新興芸術」などで作家として活躍』、『「富良野川辺の或村」などの小説を発表した』とある。旧全集書簡番号一二〇四(大正一三(一九一四)年(年は推定)六月二十二日附岩波茂雄宛)では、彼を岩波茂雄に紹介し、便宜取り計らいを請うている。]

 

○シナノ町鹽町の間 柳原愛子のそばのかじ

[やぶちゃん注:「シナノ町」現在の東京都新宿区信濃町(まち)。

「鹽町」旧四谷区には四谷塩町(現在の新宿区四谷本塩町及び四谷)があった。

「柳原愛子」「やなぎわらなるこ」(現代仮名遣)と読む。安政六(一八五九)年生まれで、昭和一八(一九四三)年没。明治天皇の典侍で大正天皇の生母。幕末の議奏(天皇に近侍して勅命を公卿以下に伝え、また、議事を奏上した職)柳原光愛(みつなる)の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪に当たる。]

 

○西信濃町二  佐藤春夫

[やぶちゃん注:盟友佐藤春夫。彼は大正一三(一九二四)年、西信濃町の弟秋雄方に寄寓している(十一月まで)。因みに、春夫は本名で春四月九日生まれだかららしく、彼の弟には夏樹もいる。]

 

○北四川路西安樂里23 鍋島政男

[やぶちゃん注:先に示した通り、「この村の白楊もそろり」から、ここまでが、旧全集にはない。

「北四川路」旧上海の地名。

「鍋島政男」不詳。中国特派の際に知り合った人物か。]

 

○山峽の杉冴え返る谺かな

○土用浪砂吸ひ上ぐるたまゆらや

○蒲の穗はほほけそめつつ蓮の花

○水をとる根岸の糸瓜ありやなし

○枝豆をうけとるものや澁團

[やぶちゃん注:旧全集では下五が「澁團扇」。そちらの方が腑には落ちる。]

 

○初霜の金柑のこる葉越しかな

○菜の花は雨によごれぬ育ちかな

○三月や茜さしたる萱の山

○線香を干したところへ桐一葉

○山茶花の莟こぼるる寒さかな

○丈草集 野田別天樓

[やぶちゃん注:野田別天楼(のだべってんろう 明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久郡磯上村(現在の岡山県瀬戸内市)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から、正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句した。教師で、報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり、関西俳壇で活躍、後に『雁来紅(がんらいこう)』を創刊し、主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった(以上はウィキの「野田別天楼に拠った)。「丈艸集」は彼の編になる蕉門の内藤丈草の句文集で、大正一二(一九二三)雁来紅社刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

○芭蕉研究 樋口功

[やぶちゃん注:以上の二条は旧全集には、ない。

「樋口功」(ひぐちいさお 明治一六(一八八三)年~昭和一八(一九四三)年)の、芭蕉研究書としては評価の高い「芭蕉研究」は大正一〇(一九二一)年文献書院刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

《8-40》

○山岨に滴る水も霞みけり

○藤の花軒端の苔の老いにけり

Kyobashi bow 9

[やぶちゃん注:旧京橋区弓町。現在の銀座の西部の内。]

 

High field woods

[やぶちゃん注:不詳。京都府南丹市美山町に高野森という地名がある。人名かも知れない。或いは「高埜森」という待合かも知れぬ。文夫人に判らぬように、愛人などと落ち合う場所をかく記した可能性は芥川龍之介の場合、十二分に、ある。]

 

Douris and the painters of Greek vases  Edmond Pottier  Dutton & Company  New York

[やぶちゃん注:以上の英文三条は旧全集には、ない。フランス人美術史家で考古学者でもあったエドモン・フランソワ・ポール・ポティエ(Edmond François Paul Pottier 一八五五年~一九三四年:生まれはフランス国境に近いドイツのザールブリュッケン)「ドゥーリスとギリシアの装飾壺の画家」(一九一六(大正五年相当)年刊)。「Douris」(ドゥーリス)は紀元前五〇〇年頃から前四六〇年頃にアッチカで活躍した古代ギリシアの赤像式陶画家の名(赤像式(せきぞうしき)陶器(red-figure pottery)とは、古代ギリシア陶器の一様式で「赤絵式陶器」ともいう。絵の部分を明赤褐色の素地のままに残し、周囲を黒く塗り潰して、絵の内部の線を細い筆で描くことで抑揚をつけて仕上げる。この新技法は起源前五三〇年から前五二〇年頃の短期間に現われ、それまでの黒像式陶器(赤褐色の陶土の素地の図像の部分を黒い顔料でシルエット状に塗り潰し、焼成後に眼や口・髪・衣装の文様などの細部を、鋭い尖筆で線描する技法)に比べ、非常に自由で豊かな表現力を有する描法であったことから、黒像式に代わって隆盛し、パルテノン時代にかけて頂点に達した。赤像式の技法は前三二三年頃に消滅した。稀れに全体を黒く塗りつぶした素地の上に赤褐色顔料などで絵付けしたものもある。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。素描の巧みさと優れた画面構成で知られ、多くの作品を制作した。

 以上を以って「手帳8」は終わっている。]

 

2018/01/24

芥川龍之介 手帳8 (26) 《8-33/8-34》~多量の抹消俳句稿の出現部

《8-33》

【庭】木石を庭もせに見る夜寒かな

[やぶちゃん注:「【庭】」は「庭」を最初に書いて削除(或いは「木」へ変更)をしたことを示す。全体が抹消されているため、以上のような表記を採った。以下も同じなので、この注は略す。

 なお、以下の俳句群は、ご覧の通り、殆んどが抹消されている。今までの凡例を崩すのはおかしいので、抹消線を附したのであるが、五月蠅くて鑑賞出来ないと言われるのであれば、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部で鑑賞されたい。そこでは底本の新全集と同じく、抹消されたものを〔 〕で括るだけで抹消線を附していないし、字も大きく作ってある。なお、抹消線が引かれてあるからと言って、芥川龍之介が、その句を完全に捨て去って、公に、或いは、友人らへの書簡へ記したりは全くしなかったわけではないことに注意しなくてはならない。例えば、この「木石を庭もせに見る夜寒かな」は完全な相同句を大正一三(一九二四)年六月二十三日附小澤忠兵衛宛書簡(旧全集書簡番号一二〇五)、同六月二十六日附小穴隆一(一游亭)宛(「近頃」と前書した二句目。旧全集書簡番号一二〇六)に記しており、次の「秋風や甲羅をあます膳の蟹」、四句目の「明星のちろりに響けほととぎす」に至っては、大正一五(一九二六)年十二月に新潮社から刊行した作品集「梅・馬・鶯」の、芥川龍之介自身が自句から厳選した「發句」にさえ所収されているからである(後者は「明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす」と表記は異なるが相同句である)。それを、いちいちの句について確認して注し、わざわざ怠け者の似非芥川龍之介研究家の資に供するつもりは、私には、毛頭、ない。私の「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」で各自で確認して貰えれば、済むことだ。そこまで――馬鹿な俺でも――オメデタクはねえ――ってことサ――

 

秋風や甲羅をあます膳の蟹

わが庭の雪をかがるや木々の枝

明星のちろりに響けほととぎす

入日さす豐旗雲やはととぎす

日盛りや梢は曲る木の茂り

乳垂るる妻となりつも草の餠

凩や木々の根しばる岨の上

[やぶちゃん注:「岨」「そば」であるが、今私は、ここは近世以前の「そは(そわ)」で読みたいと感じている。山の崖が切り立って嶮しい箇所、絶壁の意である。]

春雨や霜に焦げたる杉の杪

[やぶちゃん注:「杪」「うら」と読みたい。「梢(こずえ)」(「木の末」の意)と同義で木の幹や枝の先、木や枝の先端。木末(こぬれ)。芥川龍之介は名作「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中でも(リンク先は私の古い電子テクスト。因みに、私の渾身の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』に、この語の注がないのは、教科書や使用した授業用テキストには語注があったからである)、

   *

 おれはやつと杉の根から、疲れ果てた體を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光つてゐる。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。何か腥(なまぐさ)い塊がおれの口へこみ上げて來る。が、苦しみは少しもない。唯胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまつた。ああ、何と云ふ靜かさだらう。この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに來ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂つてゐる。日影が、――それも次第に薄れて來る。――もう杉や竹も見えない。おれは其處に倒れた儘、深い靜かさに包まれてゐる。

   *

と出る。]

苔じめる百日紅や秋どなり

あらはるる木々の根寒し山の隈

日盛りや靑杉こぞる山の峽

夕顏や淺間が嶽を棚の下

   久米

   三兎

しらじらと菊をうつすや【屋根に沈みて朧月】絹帽子

底本では「久米」「三兎」の頭に編者による柱の○があるが、私の判断で除去した。「久米」は久米正雄のことであるから、その後の不詳の「三兎」とは、久米が「三汀」と号したことから、久米の別号とも考えられないことはない。すると、この前の句は芥川のものではなく、久米正雄の句である可能性が浮上してくることは既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で注した。二〇一〇年岩波文庫刊「芥川龍之介俳句集」では龍之介の句として採っている。しかし、後者の句は芥川龍之介の句で、先に出した作品集「梅・馬・鶯」の「發句」に、

 

  久米三汀新婚

白じらと菊を映(うつ)すや絹帽子(きぬばうし)

 

として載るものである(久米正雄の結婚は大正十二(一九二三)年十一月十七日)。そう考えると、この「久米」「三兎」(後者はよく判らぬものの)は、単に、句を贈る相手として彼の名を記しただけかも知れない。一応、注記はしておく。しかし、それにしても、この削除は本当にこうなっているのであろうか? 最初に削除していることになっている「屋根に沈みて朧月」は中七と下五である。しかし、挿入位置は中七の後である。どうもおかしい気がする。これはまず、

 

しらじらと菊をうつすや

 

と詠んで気に入らず、「菊をうつすや」の中七を削除して、

しらじらと屋根に沈みて朧月

 

としたものの、全然お面白くなく(まっこと面白くない)、「屋根に沈みて朧月」を削除した上で、改めて「菊をうつすや」を生かして、

 

しらじらと菊をうつすや絹帽子

 

としたものが、最終削除句稿だったのではないだろうか? 大方の御叱正を俟つ。

 

熊笹にのまるる馬よ

[やぶちゃん注:この上五と中七の抹消断片は旧全集には、ない。]

 

日盛や馬ものまるる笹の丈

沼べりの木々もぞろりと霞かな

《8-34》

切支丹坂は急なる若葉かな

小春日の鳥

[やぶちゃん注:この抹消断片は旧全集には、ない。]

 

薄雪をうち透かしけり枳穀垣

[やぶちゃん注:「枳穀垣」「きこくがき」。強力な棘を有する枳殻(からたち:ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata)で作った垣根。]

 

小春日や耳木兎とまる竹の枝

時雨るゝや峯はあけぼのの東山

あけぼのや軒ばの山を初時雨

からたちの打ちすかしけり春の雪

山川の瀨はあけぼのの河鹿かな

茅屋根に垂るる曇りや春どなり

庭芝も茜さしたる彼岸かな

尻立てて這うてゐるかや雉子車

[やぶちゃん注:「這う」はママ。「雉子車」(きじぐるま)は木製玩具の一種。「きじ馬」とも称する。ウィキの「雉子車」によれば、『「きじ」は「雉」と「木地」のダブルミーニングを持っていると言われる』。『九州地方独特の玩具であり、野鳥のキジを模して木材を削って造り、車輪と紐を付属させ、屋外で牽引して遊ぶ。産地は福岡県、熊本県、大分県に集中するが、佐賀県や鹿児島県でも僅かに製作される。発祥の地は阿蘇を中心とする山岳地帯とされる。東北地方を中心に見られる』「こけし」と『比較されることがあり』、「こけし」が『屋内で遊ぶ静的な玩具であるのと対照』的『に、雉子車は屋外で遊ぶ事を主眼とする動的な玩具であるという要素に、北国と南国の対比が反映されているという』とある。グーグル画像検索「雉子車」をリンクさせておく。]

 

夕鳥も小春はなかぬ【あはれさよ】軒ばかな

薄雪をうちすかしけり靑茨

夕鳥の聲もしづまる小春かな

からたちや雪うちすかす庭まはり

あけぼのや鳥立ち騷ぐ【片】村時雨

庭石に殘れる苔も小春かな

小春日や梟とまる竹の枝

小春日の塒とふらしむら笹

塒とふ鳥も小春の日あしかな

 

芥川龍之介 手帳8 (25) 《8-32》

《8-32》

○鐵齋 仿淸名家山水帖 菊 蘭竹山水三幅

[やぶちゃん注:「鐵齋」近代日本画の巨匠富岡鉄斎(天保七(一八三七)年~大正一三(一九二四)年)。

「仿淸名家山水帖」よく判らぬが、「仿」は「倣(なら)う・模倣する」の意であるから、鉄斎が中国清代の名画家の山水画を模写した画集ではあるまいか。

「菊」作品同定は出来ない。

「蘭竹山水三幅」不詳。]

 

○細君の籍を入れて貰ふ事 ⑵財産を分けて貰ふ時期のコト

○三反步 菊と生姜ばかり 東京市の芥を入れさせ(唯)その上に生ガをつくる 二反うる 坪130圓に賣 娘一人養子をし八百屋荒物屋をなす 福々なり

胃病或は酒

前は植木の手間とりをなす

一反百二三十圓 明治二十年頃

あと二反は家作とし一軒數十圓の家賃をとる

○家族制度は socialism なり 家族制度を説くもの(父、Capitalist)の矛盾せる individualism

[やぶちゃん注:「Capitalist」資本家・金持ち・資本主義者。

individualism」個人主義。]

 

○芋屋の轉宅 家を借せし方よろし

芥川龍之介 手帳8 (24) 《8-30/8-31》

《8-30》

○相愛の女結婚す その夜(雪ナリ)電報を打つ「タカサゴヤタカサゴヤ」名なし 女も夫も祝はれたと思ひ目出度がる

[やぶちゃん注:少なくともロケーションは芥川龍之介の人生最大のトラウマとなった吉田弥生との一件とは違う。破局を迎えたのは大正四(一九一五)年の一月中旬と推定されているものの、彌生が陸軍将校金田一光男と結婚したのは、同年四月末か五月初めで、雪のロケーションとは合わないからである。但し、この構想メモには彌生の影が付き纏っているようには読める。]

 

○美しい村

Proletariat の群に加はりつつ しかも Proletariat 出ならざる事を苦しむ loneliness.

[やぶちゃん注:旧全集では「美しい村」は丸括弧附きで、後の行の末に配されてある。これは芥川龍之介の草稿断片「美しい村」のメモと思われる。この原稿用紙九枚の草稿については、旧全集の同篇の末尾に『(大正十四年頃)』という編者による付記があるだけで、新全集でも新たな情報は記されていないのであるが、新全集の宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年二月二十二日に『作品の取材のため、千葉県八街(やちまた)』(現在の千葉県北部ある八街市。ここ(グーグル・マップ・データ))『に出かけ』ていることが書簡から判明しており、その取材をもとに『「美しい村」が起筆された』が未完に終わった旨の記載がある。なお、草稿小説内では八街を「淺井村」(但し、『今は村ではな』く、町とする)という設定に変えてある。なお、あるブログ記載によれば、これは八街で実際に起きた小作争議(恐らくは鈴木邦夫氏の論文「農民運動の発展と自作農創設 千葉県印旛郡八街町を事例として(PDF)に詳述されるものと思われ、その論文によれば、八街での本本格的な小作争議の開始は大正一二(一九二三)年秋とあるから、まさに当時の龍之介にとってアップ・トゥ・デイトなものであったことが判る)をモデルとしているとあるのだが、残念ながら、私が馬鹿なのか、現存草稿(原稿用紙九枚ほど)からはそうしたテーマを判読することは少なくとも私には出来ない。しかし、この一条のメモはそうしたものを感じさせるものでは、確かに、ある。]

 

○運轉手赤旗を靑旗と見あやまりカアブを半ばまはらんとす 旗ふり急に旗をふる 運轉手大聲に曰 まちがひましたー!

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の『文藝春秋』に掲載された小品集「貝殼」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 或運轉手」の素材(底本は旧全集。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

       四 或運轉手

 

 銀座四丁目。或電車の運轉手が一人、赤旗を靑旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。が、間違ひに氣づくが早いか、途方もないおほ聲に「アヤマリ」と言つた。僕はその聲を聞いた時、忽ち兵營や練兵場を感じた。僕の直覺は當たつてゐたかしら。

 

   *]

 

○銀時計と思ひニッケルをとりし賊の憤怒は大盜と思ひ小盜を捉らへし刑事の怒りに似たり

enthusiastic ニモノヲ云フ時片目ツブリ鏡ヲ覗クヤウニスル人 野中

[やぶちゃん注:実は、以上の「○美しい村」の後の条には、底本の新全集では編者による柱としての「○」がない。しかし、旧全集では以上のように「○」が配されてある。私はどう見てもこれらが「美しい村」と直連関したメモとは思えないので、底本新全集に従がわず、旧全集の形で柱の「○」を配したことをお断りしておく。

[やぶちゃん注:「enthusiastic」熱狂的。

「野中」人名らしいが、不詳。]

 

○カアネエシヨンは音樂を嫌ふ

○小穴 lover と共にあひし女と後あふ 突然赤面す 女は知らず

[やぶちゃん注:「小穴」既出既注の小穴隆一。]

 

 

《8-31》

umpire psychology 思はず間違ひ それを逆にとりかへさんとし 一方を寛にす 好きな pitcher 好きな玉には反つて判斷の strict になる

[やぶちゃん注:「寛に」「おほらかに」或いは「ゆるやかに」と訓じておく。

strict」厳格な・厳正な・寛容さがなく妥協を許さない。]

 

洋食のくひ方を苦にし neurasthenia になる 式に出て洋食を食ふ なほる 愈くひたくなる 食ふ機會なし

[やぶちゃん注:これは昭和二(一九二七)年五月発行の『新潮』に発表した「たね子の憂鬱」の中のワン・シーンへの素材メモ。一見、滑稽で皮肉な場面を想起するが、実際のそれは、まさに主人公たね子の置かれた近代人の病的な神経症的状況の象徴的一齣として採用されることとなる。当該箇所(夫と練習するプレ・シーンもあるが、そこは省略する)を抜き出してみる(底本は岩波旧全集を用いた)。

   *

 帝國ホテルの中へはひるのは勿論彼女には始めてだった。たね子は紋服を着た夫を前に狹い階段を登りながら、大谷石や煉瓦を用いた内部に何か無氣味に近いものを感じた。のみならず壁を傳はつて走る、大きい一匹の鼠さへ感じた。感じた?――それは實際「感じた」だつた。彼女は夫の袂を引き、「あら、あなた、鼠が」と言つた。が、夫はふり返ると、ちよつと當惑らしい表情を浮べ、「どこに?……氣のせゐだよ」と答へたばかりだつた。たね子は夫にかう言はれない前にも彼女の錯覺に氣づいてゐた。しかし氣づいてゐればゐるだけ益々彼女の神經にこだわらない訣には行かなかつた。

 彼等はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角隱(つのかくし)をかけた花嫁にも時々目を注いでゐた。が、それよりも氣がかりだったのは勿論皿の上の料理だつた。彼女はパンを口へ入れるのにも體中(からだぢう)の神經の震へるのを感じた。ましてナイフを落した時には途方に暮れるより外はなかつた。けれども晩餐は幸ひにも徐ろに最後に近づいて行つた。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものゝ出て來た時には食事もおしまひになつたと思へ」と云ふ夫の言葉を思ひ出した。しかしやつとひと息ついたと思ふと、今度は三鞭酒の杯を擧げて立ち上らなければならなかつた。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだつた。彼女は怯づ々々椅子を離れ、目八分に杯をさし上げたまま、いつか背骨さへ震へ出したのを感じた。

   *

文中の「三鞭酒」はこれで「シャンパン」と読んでいよう。なお、全文は「青空文庫」ので読める。

neurasthenia神経衰弱(発音を音写すると「ニューラスティニア」)。なお、現行では(少なくとも「神経衰弱」という日本語は)精神疾患(病態)名としては、最早、用いない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱とは、一八八〇年(明治十三年)に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは』、『都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから』、この『病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから』、『病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。]

 

○皆傳 免許 目錄 切紙

socialist martyr

[やぶちゃん注:「martyr」(音写すると「マータァア」)。本来は特に「キリスト教の殉教者」を指すが、そこから「信仰・主義に殉ずる人・殉難者・犠牲者・受難者」の意で広く用いる。「社会主義者の殉教志願者・受難狂」とは芥川龍之介好みの言い回しではないか。]

 

○浮島ケ原 梶原 陣中 土佐坊夜打 靜の家

[やぶちゃん注:「浮島ケ原」静岡県愛鷹山南麓で駿河湾を臨む、現在の静岡県富士市中里辺り(この附近(グーグル・マップ・データ))。南北朝から室町初期に成立したと考えられている「義経記」で、治承四 (一二八〇) 年の「富士川の戦い」(十月二十日)に勝利した頼朝に義経が対面したとされる場所であるが、史実ではなく、実際の対面場所は黄瀬川の「陣中」(現在の静岡県駿東郡清水町。この附近(グーグル・マップ・データ)と推定されている)でああったとされる。しかし、どうも後の記載とは時制が違い過ぎる。

「梶原」梶原景時は多くの軍記物で頼朝に義経を讒訴した悪玉に仕立て上げられている。「石橋山の合戦」で頼朝を逃がした彼は、頼朝の再起に逸早く降伏し、養和元(一一八一)年正月には頼朝と再び対面して、既に有力な御家人として列していた。

「土佐坊」元僧兵で鎌倉幕府御家人となった土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん 永治元(一一四一)年?~文治元(一一八五)年)。ウィキの「土佐坊昌俊によれば、『大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加した』。『頼朝と弟の源義経が対立した』文治元(一一八五)年、頼朝は遂に京にいる義経を見限って、誅すべく『御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折』り、『昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている』。『昌俊は弟の三上弥六家季ら』八十三『騎の軍勢で』同年十月九日に鎌倉を出発』同月十七日、『京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い』、『自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが』、『義経の郎党に捕らえられ、』同月二十六日、『家人と共に六条河原で梟首された』(「吾妻鏡」に拠る)。義経は襲撃翌日の』十八『日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始し』ている。なお、「吾妻鏡」によれば、『頼朝は昌俊に対し』、九『日間で上洛するように命じているが、義経の元には』十三『日に暗殺計画が伝えられており、同日』(右大臣(当時)九条兼実の「玉葉」では十六日)『に義経は後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って義経らは、昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性が高い』(なお、「平家物語」の延慶本では、昌俊らは九月二十九日に『鎌倉を出発し』、十月十日に『京に到着したことになっている)』。『また、昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが、治承・寿永の乱に従軍していた御家人を連れて京都を出発、関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者との引き離しを終えていた。さらに頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた』二十二『日には、勝長寿院に』於いて『二十四日に開かれる予定の源義朝の法要のために、各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。これらの状況から、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであった』、『との見方もある』。『なお、昌俊が頼朝から派遣された刺客であるとするのは』、『義経側の主張であって、編纂物である』「吾妻鏡」や「平家物語」が『示すような鎌倉(頼朝)側の動きを立証する同時代史料が存在しないことから、兄・頼朝との対立を避けられないと考えた義経が』、『先に頼朝追討を決意した結果、在京あるいは畿内周辺に拠点を持つ御家人が動揺し、その中にいた土佐坊昌俊・三上家季兄弟らが、頼朝への忠義から率先して義経排除を決意した、とする説もある(三上氏は近江国野洲郡の出身とされるため、昌俊兄弟の元の本拠地も同地であった可能性がある)』とある。

「靜」言わずもがな、義経の愛人静御前(しずかごぜん)。「吾妻鏡」によれば、この直後、義経が京を落ちて、一度、九州へ向かおうとすう際、静は同行しているが、この時、義経の乗った船団が嵐に遭難し、岸へ戻されてしまい、静は、一時、義経が隠れた吉野に於いて彼と別れ、京へと戻っている。しかしその途次、裏切った従者に持ち物を奪われ、山中を彷徨うううち、山僧に捕らえられて京の北条時政に引き渡され、文治二(一一八六)年三月、母の磯禅尼(いそのぜんに)とともに鎌倉に送られた。それ以降のことは、北條九代記 義經の妾白拍子靜の本文と私の力(リキ)を入れた遠大な注を、是非、参照されんことを望む。]
 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕

Kahasebi

かはせび  魚狗  天狗

      水狗  魚虎

【音立】

      魚師  翠碧鳥

唐リ 【和名曽比壒囊抄

    云少微俗川世比】

 

本綱鴗處處水涯有之大如燕喙尖而長足紅而短背毛

翠色帶碧翅毛黑色揚青可飾女人首物性能水上取魚

[やぶちゃん注:「揚」は底本は「楊」であるが、意味が通らぬので「本草綱目」で訂した。]

蓋狗虎皆獸之噬物者此鳥害魚故得其名穴居爲窠亦

巢于木其肉鹹去腸煆飮服之主治魚骨哽

翡翠 鴗之大者爾雅謂之鷸【或云雄爲翡其色多赤雌爲翠其色多青也】

【音】 字彙云似翠而赤喙者

△按鴗【俗云川世比】形小在池川捕魚翡翠【俗云山世比】形大在山

 溪捕魚世比者少微之假名相通也其穴窠也横入一

 尺許雛於其中

 

 

かはせび  魚狗  天狗

      水狗  魚虎

【音、「立」。】

      魚師  翠碧鳥〔(すいへきどり)〕

唐・リ

      【和名、「曽比」。

       「壒囊抄〔(あいなうせう)〕」に

       「少微〔(せうび)〕」、俗に

       「川世比〔(かはせび)〕」と云ふ。】

 

「本綱」、鴗は處處の水涯(すいがい)に之れ有り。大いさ、燕のごとし。喙、尖りて長く、足、紅にして短かし。背毛、翠色。碧翅を帶し、毛、黑色〔に〕青を揚げ、女人の首の物を飾るべし。性、能く水の上にて魚を取る。蓋し、狗・虎は、皆、獸の物を噬〔(くら)ふ〕者なり。此の鳥、魚を害す。故に其の名を得。穴居して窠を爲〔(つく)〕る。亦た、木にも巢〔(すつく)〕る。其の肉、鹹。腸〔(はらわた)〕を去り、煆〔(や)き〕て飮む。之れを服して、魚骨〔の〕哽〔(のどにた)つ〕を治〔するを〕主〔(つかさど)る〕。

翡翠(やませび) 鴗(かはせび)の大なる者。「爾雅」に之れを「鷸〔(いつ)〕」と謂ふ。【或いは云ふ、雄を「翡」と爲し、其の色、多く赤く、雌を「翠」と爲し、其の色、多く青なり〔と〕。】。

【音】 「字彙」に云ふ、『翠に似て赤き喙なる者なり』〔と〕。

△按ずるに、鴗(かはせび)【俗に云ふ、「川世比」。】〔は〕、形、小さく、池川に在りて、魚を捕る。翡翠(やませび)【俗に云ふ、「山世比」。】〔は〕、形、大きく、山溪に在りて魚を捕る。世比とは「少微〔(せうび)〕の假名〔(かな)〕の相通〔(さうつう)〕なり。其の穴に窠つくるや、横に入ること一尺許り、其の中に雛あり。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Aves Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目 Coraciiformes カワセミ科 Alcedinidae カワセミ亜科 Alcedininae カワセミ属カワセミ Alcedo atthis 及びその近縁種。本邦で見ることが出来るのは亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis「本草綱目」記載のそれも分布域から見て(バイカル湖・インド北部から東アジア及び東南アジアに棲息)同亜種と考えてよいウィキの「カワセミ」によれば、全長は平均十七 センチメートルほど、『スズメよりも大きいが、長いくちばし』(嘴峰長三・三~四・三センチメートル)『のため』『体はスズメほどの大きさ』である。『日本のカワセミ科のなかでは最小種』で、翼開長は平均二十五センチメートルで体重は十九~四十グラム。『くちばしが長くて、頭が大きく』、『頸、尾、足は短い。オスのくちばしは黒いが、メスは下のくちばしが赤いのでオスと区別できる』。『また、若干』、『メスよりオスの方が色鮮やかである』。『頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い』。『幼鳥は全体に黒っぽく、光沢が少ない』。『カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える』。『これを構造色と』称し、『シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理』である。『この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである』。『海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、公園の池など都市部にもあらわれる。古くは町中でも普通に見られた鳥だったが、高度経済成長期には、生活排水や工場排水で多くの川が汚れたために、都心や町中では見られなくなった。近年、水質改善が進んだ川では、東京都心部でも再び見られるようになってきている』。『川ではヤマセミ』(後注参照)『よりも下流に生息するが、一部では混在する。飛ぶときは』、『水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声』『を挙げることが多い』。『採餌するときは』、『水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。エビやカエルなども捕食する』。『ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。水中に潜るときは目からゴーグル状のもの(瞬膜)を出し水中でも的確に獲物を捕らえることが出来る。また、水中に深く潜るときは』、『いったん』、『高く飛び上がってから潜る個体も存在する。捕獲後は再び石や枝に戻って』、『えものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな獲物は足場に数回叩きつけ、骨を砕いてから呑みこむ』。『消化出来なかったものはペリット』(pellet:鳥類学用語。鳥が食べたもののうち、消化されずに口から吐き出されたものを指す)『として口から吐き出す』。『足場は特定の石や枝を使うことが多く、周囲が糞で白くなっていることが多い。ゴーグル状のものは地上にいるときでも時々見ることが出来る』。『繁殖期にはオスがメスへ獲物をプレゼントする』『「求愛給餌」がみられる。つがいになると』、『親鳥は垂直な土手に巣穴をつくる。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って』凡そ五十~九十センチメートルもある横穴方の巣を掘って作る。『穴の一番奥は』、『ふくらんでおり、ここに』三~四『個の卵を産む』。『卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけながら成長し、羽毛が生え揃うと巣立ちする。せまい巣穴の中は当然ヒナの糞で汚れるが、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっており、巣立ちのときまで羽毛が汚れないようになっている。若鳥は胸の橙色と足が』褐色味を呈する。『非繁殖期は縄張り意識が強く』、一『羽で行動する。水上を飛んだり、えさ場が見渡せる枝や石の上で休む姿がみられる』とある。まことに美しい私の好きな鳥なので、ウィキの「カワセミ」の写真(パブリック・ドメイン提供)を以下に掲げた上、グーグル画像検索「Alcedo atthisもリンクさせておく。最後に――芥川龍之介の畏友井川(恒藤)恭著「翡翠記」の私のブログでの完全電子化注完遂を言祝いで――

 

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「かはせび」同じくウィキの「カワセミ」によれば、『カワセミは「川に棲むセミ」の意で、この「セミ」は古名の「ソニ」が「ソビ」に変化し、それが転じて「セミ」となった』。その「ソニ」の「ニ」は土の意味で、ソニ(青土)からきた。また、近縁の「アカショウビン」』(カワセミ科ショウビン亜科 Halcyoninae ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda)などの「ショウビン」も、『この「ソニ」から来た。これらとは別に、室町時代から漢名を取り入れ、「ヒスイ(翡翠)」とも呼ばれるようになった』。『カワセミは、それを表す(読む)漢字が沢山ある。川蝉、翡翠、魚狗、水狗、魚虎、魚師、鴗など』『があり、川蝉はセミとは関係がなく、「カワセミ」の音を当てた漢字。魚狗、水狗、魚虎、魚師などの漢字はカワセミが巧みに魚を捕らえる様子から来た』とある。

「壒囊抄〔(あいなうせう)〕」室町時代の僧行誉作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明する。「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて七百三十七条とした「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」二十巻(編者不詳。享禄五・天文元(一五三二)年成立)があり、近世に於いて「壒囊鈔」と言った場合は後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。

「背毛、翠色。碧翅を帶し、毛、黑色〔に〕青を揚げ」原典の訓点のままに読むとこうなるが、どうもしっくり来ない。「背毛翠色帶碧翅毛黑色揚青」は「背毛、翠色にして碧帶あり、翅毛は黑色に青を揚(あ)ぐ」ではなかろうか? 「青を揚(あ)ぐ」は「青い色が浮き立って見える」の意であろう

「女人の首の物を飾るべし」女性の頭の飾り物とするのによい。

「煆〔(や)き〕て飮む」焼いて、その肉を食う。

「翡翠(やませび)」カワセミ科ヤマセミ亜科 Cerylinae ヤマセミ属ヤマセミ Megaceryle lugubrisウィキの「ヤマセミ」によれば、『アフガニスタン北東部からヒマラヤ、インドシナ半島北部、中国中部以南、日本まで分布する。生息地では、基本的に留鳥である』。『日本では、留鳥として九州以北に分布、繁殖しているが、個体数は多くない』。体長は約三十八センチメートルで翼開長は約六十七センチメートルで、『カワセミの倍、ハトほどの大きさで、日本でみられるカワセミ科の鳥では最大の種類である。頭には大きな冠羽があり、からだの背中側が白黒の細かいまだら模様になっているのが特徴。腹側は白いが、あごと胸にもまだら模様が帯のように走っている。オスとメスはよく似るが、オスはあごと胸の帯にうすい褐色が混じる』。『名のとおり』、『山地の渓流や池の周囲に生息するが、冬は平地の河川や海岸にもやってくる。単独または番い(つがい)で生活する』。『食性は動物食。採餌するときは』、『水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や甲殻類、水生昆虫などを捕食する。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。カワセミと同じように』、『捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな魚をとらえた時は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこむ』。『繁殖形態は卵生』で、『川や湖の岸辺の垂直な土手に嘴を使って巣穴を掘り、巣穴の中に』四~七個の『卵を産む』とある。グーグル画像検索「Megaceryle lugubrisをリンクさせておく。

「爾雅」著者不詳。紀元前 二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。

「鷸〔(いつ)〕」現在、一般にはこの字は鳥綱チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadriiシギ科 Scolopacidae の鴫(しぎ)類を指す。

」は「【音】」と当該漢字が欠字になっているが、「ミン」と読んでおく。中国古代の幻想地誌「山海経」の「西山経」には「其鳥多。其狀如翠而赤喙、可以禦火」(其この鳥、多くはたり。其の狀(かたち)、翠(かはせみ)のごとくして赤き喙(くちばし)、以つて火を禦ぐべし)とあり、「そこにいる鳥の多くはである。翡翠(かわせみ)のような形状で赤い嘴を持ち、(これを飼うと)火災を防ぐことが出来る、とある。類感呪術の一種であろう。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「假名」漢字から生まれた、日本独自の音節文字である片仮名と平仮名及びその表記・発音の意。

「相通〔(さうつう)〕」相い通ずること。音通。

「一尺許り」冒頭注で示した通り、もう少し深い。]

2018/01/23

芥川龍之介 手帳8 (23) 《8-27~8-29》

《8-27》

○北淸事件の時 天王寺の脚病院長の後備の二等軍醫 或商人と結托し 小さい運送船を仕立て酒保と稱し カンヅメ ビイル等をのせ天津に向ひ 太沽につけ ダルマ船四艘にて白河を天津より通州へ溯り 掠奪品を船へつむ 朝日ビイルを一本一圓二十錢 竹楊子を五十錢などに賣る(太沽の岸につけし船へかひに行く)(尤も英佛とも北京の掠奪品を牛車にてはこび 軍艦につみこむ)掠奪品は馬蹄銀 被服類 この類のもの三組大阪より來る 大成功 つかまらず 産を成す 眞鍋少將の如きはこの船に分取品を托せりと傳へらる

當時は北京通州の麥畑中に馬蹄銀充滿す 北――通間の路は銅貨にてつくりし位なり(砂利がはり)

楊村にては團匪 チリメン ドンスの綑包にて土壘をつくる 我軍それを白河に打ちこみ 橋臺をつくる(天州通州間)

[やぶちゃん注:「北淸事件」既出既注であるが再掲しておく。北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。

「脚病院長」脚気(かっけ)専門の病院の院長の謂いか。旧全集ではここを『□□病院長』と二字分として、しかも判読不能としている。

「太沽」「大沽(たいこ)」であろう。現在の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)にある地名。天津から海河に沿って南東に下って、渤海に至った河口(大沽口)地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここにはかつて、明・清が諸外国からの攻撃に備える目的で構築された砲台があった。清は義和団の乱の最中、外国列強から大沽砲台の引き渡しを求められたが、これを拒否、列強は大沽砲台を攻撃して占領したため、清朝は列強に宣戦布告するも惨敗し、その和平協定である「北京議定書」の中で、この大沽砲台を撤去する事が明記された(砲台についてはウィキの「大沽砲台」に拠った)。

「白河」後の「通州」は現在の北京市通州区(ここ(グーグル・マップ・データ))であるから、天津の北側を流れる、現在の「新潮白河」及びその上流の「潮白河」のことか、或いは、その前身の河川であろう。

「馬蹄銀」二十世紀前期まで中国に於いて用いられていた秤量貨幣の形態を取る銀貨であった「銀錠(ぎんじょう)」のこと。ウィキの「銀錠」より引く。『単位は重量単位と同じ両(「銀両」』『)であり、その英語表記よりテールtaelと呼ばれた。なお、日本では銀錠が馬の蹄の形をしていることから、馬蹄銀(ばていぎん)と呼ばれ広く用いられているが、実際には明治期の日本人が名づけたものとされ、実際には多種多様の形式の銀錠が存在し、中国においても馬蹄銀の名称は』殆んど『用いられてはいなかった』。『灰吹法の導入により』、十六『世紀中頃より南米のポトシ銀山、日本の石見銀山などで銀の産出が著しく増大し、ポトシ銀山の銀はヨーロッパを通じて、日本の銀は生糸貿易の対価として中国に多量に輸入されるようになった』。『日本では産銀は一旦』、『丁銀に鋳造され、長崎において銀錠に吹き直され』た上で、『多量に中国へ流出した』。『材質は南鐐(なんりょう)と呼ばれる純銀に近い良質の灰吹銀であり、量目は』一両(三十七グラム)から五十両(一キロ八百六十五グラム)『程度と』、『大小様々なものが存在する』とある。

「眞鍋少將」陸軍軍人で貴族院議員・男爵であった真鍋斌(あきら/さかり 嘉永四(一八五一)年~大正七(一九一八)年)。最終階級は陸軍中将。ウィキの「真鍋斌」によれば、長州藩士の長男として生まれ、明倫館で学んだ。大坂兵部省屯所に入営、明治四(一八七一)年、『陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て』、翌年、『陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省に入った。明治一〇(一八七七)年四月から十月までは西南戦争にも出征している。その後、陸軍省内の課長心得や課長や連隊長・師団参謀長『などを歴任』、明治三〇(一八九七)年七月、『陸軍少将に進級』した。明治三三(一九〇〇)年七月から十月まで義和団の乱に歩兵第九旅団長として出征したが、『その際、清国の馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり』二年後に休職となっている。『将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は』、この『馬蹄銀事件により閉ざされた』。その後、留守第五師団長を経て、明治三八(一九〇五)年に陸軍中将となったが、翌年に休職、二年後には『予備役に編入され、大正七(一九一八)年四月一日を以って退役している。旧全集では『□□少將』として姓が判読不能字とされているが、或いはこれは、旧全集元版の編者の政治的判断によって伏せられた可能性が疑われる。

「北――通間」意味不明。「北京――通州間」の意か。

「楊村」中華人民共和国鉄道部京滬(けいこ)線(北京市から上海市に至る)の北京駅から十一番目、天津西の手前三つ目の駅に「楊村」(天津市武清区)がある。か(グーグル・マップ・データ)。

「團匪」一般名詞としては、特に中国に侵略していた日本は、政府や日本に敵対する集団を「盗賊」と同じ意味の「匪賊(ひぞく)」と呼び、集団をなす匪賊をかく呼んだが、ここは義和団の異称と考えてよい。

「チリメン」「縮緬」。

「ドンス」「緞子」。繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。なお、「ドン」も「ス」も孰れも唐音である。

「綑包」「こんぽう」(現代仮名遣)で「梱包」に同じい。紙などで包んで、紐を掛けて荷造りすること。或いは、そのようにした荷物・対象物を指す。

「天州」天津は清代、一時期、「天津州」と改名されたから、天津の異称と考えてよかろう。]

 

天津居留地の防備も bariier は大豆 砂糖 反物等 殊に ridiculous なるは時計なり ボンボン時計 金側 銀側 ニツケルの時計等

[やぶちゃん注:「Ridiculous馬鹿馬鹿しい、可笑しい。]

 

○金澤高岡町

○野花潘花城

○中野圍ひ

○恩地幸四郎

[やぶちゃん注:以上の四条は旧全集には載らない。

「金澤高岡町」ここ(グーグル・マップ・データ)。室生犀星の招待で金沢(大正一三(一九二四)年五月十五日から十七日)へ行った際の知人か店の住所メモか。

「野花潘花城」不詳。

「中野圍ひ」意味不詳。

「恩地幸四郎」(明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)は東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家。竹久夢二・北原白秋・室生犀星・萩原朔太郎と交流があり、萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀で頓に知られるが、芥川龍之介とは終生、直接の接点はなかった(宮坂覺氏の旧全集の人名索引にも載らない)。]

 

《8-28》

○地震後スゴイ話をする 人にもてる 捏造 ■■

○産後廿一日目カツケになり入院 嬰兒脚氣 乳をのませず 地シン オぺラバツクを忘る 金なし ミルク買へず 乳はやれず 美術協會の池の水をのませる 後やつと精養軒より牛乳を貰ふ 夫は日本橋に燒死す

施療患者の悲慘 産氣つく

○背負ひてにげし飯くさる

○腹に水バケツに一ぱいたまる 手術十一時にすむ タンカ 看護婦四人 醫一人 やつと助かる

出の帶 金通しの丸帶七寶を繡ふ(織物のやうに)(模樣はハカマ) 證文は待合のお上 少し派手すぎる 200150圓位にしてくれと云ふ 200圓の帶出來上る 150圓にして持つて行く 女將200圓かかれるコトを知り 150圓に買ふ 藝者に話さずに置く 藝者見る 女將「200120圓なりと云ふ 藝者之を120圓に買ひ 又外の帶を買ふ 三人ともその事を云はず

[やぶちゃん注:数字は総て半角横書(横転)。以上は、大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した「貝殼」の「六 東京人」の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       六 東京人

 

 或待合のお上さんが一人、懇意な或藝者の爲に或出入りの呉服屋へ帶を一本賴んでやつた。扨その帶が出來上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百圓の帶を百五十圓におさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。

 お上さんは金を拂つた後、格別その帶を藝者にも見せずに簞笥の中にしまつて措いた。が、藝者は暫くたつてから、「お上さん、あの帶はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帶を見せ、實際は百五十圓拂つたのに藝者には値段を百二十圓に話した。それは藝者の顏色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた爲だつた。が、藝者も亦何も言はずにその帶を貰つて歸つた後、百二十圓の金を屆けることにした。

 藝者は百二十圓と聞いたものの、その帶がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帶をしめさせることにした。何、莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由來かう云ふ莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。

 

   *]

 


《8-29》

○白い布についたしみはとれぬと云ふ言葉より白髮染の trick を發見す

○鐘消えて花の香は撞(ツク)夕かな(都曲集) 元祿三年 47

[やぶちゃん注:言わずもがな、この句は松尾芭蕉の中でも私が飛びきり好きな一句である。

「都曲集」「みやこぶりしゅう」(現代仮名遣)と読む。芭蕉と同時代の俳人池西言水(いけにしごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)の元禄三(一六九〇)年の撰集。原典の表記は正確には、

 

 鐘消て花の香は撞(ツク)夕哉

  (かねきえてはなのかはつくゆふべかな)

 

である。「元祿三年 47歳」とは作句時期と芭蕉の当時の年齢であるが、「元祿三年」は「都曲集」の跋のクレジットであり、作風から見ると、現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。]

 

是だけは心得置くべし an humorous essay

○光を通す gramopho.

[やぶちゃん注:綴り不審。「gramophone」ならば「蓄音機」のこと。或いは「gramophone record」をピリオドで略したとするならば、光を透過する合成樹脂(プラスチック)性のレコードの意味かも知れない。但し、我々が知っているソノシート(Sonosheet:英語:Flexi disc)は、第二次世界大戦後の一九五八年(昭和三十三年)にフランスの「S.A.I.P.」というメーカーで開発されたもので、当時は存在しない。]

 

○猫イラズ 羊羹その他甘味を持つ どれか入れてのまんとす

○野蠻人ニ現代文明を批判せしむ Frazer

[やぶちゃん注:「Frazer」名著The Golden Bough: a Study in Magic and Religion, 1st edition(「金枝篇:呪術と宗教の研究」 一八九〇年刊)で知られるイギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(Sir James George Frazer 一八五四年~一九四一年)。

 

○三つの死 戰死 水死 狂死

[やぶちゃん注:作品としてはピンときそうで、実はぴったり三拍子揃ったものはちと難しい。しかし恐らくは死の直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表した「三つの窓」の初期構想のメモではないかと私は思う(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

○鬼ごつこをする女の兒の顏の seriousness 結婚をする時の女の顏の seriousness

[やぶちゃん注:「seriousnessは「真剣さ・真面目」。これは昭和二(一九二七)年二月発行の雑誌『苦樂』に初出する「鬼ごつこ」のメモである。短いので、以下に電子化する(底本は岩波旧全集を用いたが、底本は総ルビであるのをパラルビとした)。末尾クレジットは作品集「湖南の扇」で附されたもの)。

   *

 

 鬼ごつこ

 

 彼は或町の裏に年下の彼女と鬼ごつこをしてゐた。まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯(がす)のともる時分だつた。

 「ここまで來い。」

 彼は樂々と逃げながら、鬼になつて來る彼女を振りかへつた。彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて來た。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。

 その顏は可也(かなり)長い間、彼の心に殘つてゐた。が、年月(としつき)の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。

 それから二十年ばかりたつた後(のち)、彼は雪國の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。窓の外が暗くなるのにつれ、沾(し)めつた靴や外套の匂ひが急に身にしみる時分だつた。

 「暫くでしたね。」

 彼は卷煙草を銜(くは)へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顏へ目を注いだ。近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の兩親や兄弟のことを話してゐた。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。と同時にいつの間まにか十二歳の少年の心になつてゐた。

 彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。が、彼はその時以來、妙に眞劍な彼女の顏を一度も目(ま)のあたりに見たことはなかつた。

          (大正一五・一二・一)

   *]

 

○田舍より許嫁の女をたづねて上京す 女は人の家に假寓すと思ふ 然るに already wife despair

[やぶちゃん注:「already wife despair「既にして、妻は絶望している」。]

 

○兵士 Caféの女給の妻なるを發見す
 

芥川龍之介 手帳8 (22) 《8-26》

《8-26》

○今日寺を存在せしむるものは monks にあらず 檀徒なり 檀徒の妄をひらく事は坊主攻擊にまさる 法域を護る人々の缺點なり

Lassalle の悲劇

[やぶちゃん注:「Lassalle」ドイツの社会主義者で労働運動指導者であったフェルディナンド・ラサール(Ferdinand Lassalle 一八二五年~一八六四年)のことか。富裕なユダヤ商人の子として生まれ、ブレスラウ・ベルリン両大学で法律と哲学を学び、ヘーゲル哲学の影響を受け、さらに社会主義思想も知るようになった。 ウィーン体制の崩壊を招いた一八四八年革命にはライン地方で参加し、逮捕された。また、この頃、マルクスと知合っている。その後、哲学や法学の著作に没頭したが、一八五九年頃より、政治的活動を再開、憲法闘争を始めとして、プロシアのさまざまな政治闘争に関与し、社会主義運動を指導した。 一八六二年に「賃金鉄則」を唱える「労働者綱領」(Arbeiterprogrammを発表、一八六三年には「公開答状」を書いて労働者の組織化を目指し、「全ドイツ労働者協会」(現在の「ドイツ社会民主党」の母体の一つ)を組織し、その会長となった。彼は普通選挙の実現と国庫による生産協同組合の実現という、国家を通しての社会主義化を目指した(「夜警国家」という語があるが、これは自由主義国家に対して彼が使った異称である)。彼自身は、マルクスを財政的に支援するなど好意的であったが、マルクスらはビスマルクと密談を持つといった彼の政治スタイルや国家観に反発していた。最期は女性問題に絡んだ決闘による死亡であった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○僕等は僕等の短所は萬人に共通とし 僕等の長所は僕等のみにありとしてゐる

○天國はせざる事の後悔にみち 地獄はなせる事の後悔にみつ

lover の寫眞を持ちて死ぬ その lover の寫眞は實際以上に美しくうつりし photo なり 兩方(loversが持ちてもよし

[やぶちゃん注:よく判らぬが、以上の三条も、前のフェルディナンド・ラサール(とすればの話)のメモかも知れない。]

 

○荷車ひきに加セイシ却ツテ罵ラル 後ソノ荷車ヒキ炭俵ヲ人アツカヒス 好意を感ず

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表したアフォリズム風随想貝殼の「九 車力」の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       九 車  力

 

 僕は十一か十二の時、空き箱を積んだ荷車が一臺、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」とおほ聲に叱りつけた。僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。

 それから五六日たつた後、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。今度は積んであるのは炭俵だつた。が、僕は「勝手にしろ」と思ひ、唯道ばたに佇んでゐた。すると車の搖れる拍子に炭俵が一つ轉げ落ちた。この男はやつと楫棒を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。それは僕には何ともなかつた。が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生、いやに氣を利かしやがつて。車から下りるのはまだ早いや」と言つた。僕はそれ以來この男に、――この黑ぐろと日に燒けた車力に或親しみを感ずるやうになつた。

 

   *]

 

○イツカオツカサンと云つてゐる話

materniré の話

[やぶちゃん注:「maternitéフランス語。「母性・妊娠・産科」の意があるが、ここは「懐胎」か。しかし前条との絡みを考えると、断定は出来ない。]

芥川龍之介 手帳8 (21) 《8-24/8-25》

《8-24》

どうして車へのつたんだい のりたいから welt-anschauung 一變ス

[やぶちゃん注:「welt-anschauung」通常は、Weltanschauung で、綴りで判る通り、もともとはドイツ語。「世界観」の意。発音は「ヴェルタァーンシャァゥウン(グ)」。本語の最初の用例はイマヌエル・カントト(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)の「判断力批判」(Kritik der Urteilskraft 一七九〇年)の中で使用した用語 “De-Weltanschauung”の訳語(英:worldview/仏:Weltanschauung)であったされる。]

 

○得戀の爲自殺す

Drama の中に琵琶劇を使ふ

[やぶちゃん注:「琵琶劇」琵琶弾奏(複数奏者)を添えた近代の新歌舞伎と思われる。例えば、大正一五(一九二六)年八月に日本軍事教育会主催になる琵琶劇「噫常陸丸」(ああ、ひたちまる)が京都で公演されている。琵琶弾奏は泰山流宗家木村泰山一門。これは日露戦争に於いて、明治三七(一九〇四)年六月十五日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船三隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊所属の三隻の装甲巡洋艦によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより、撃沈破された「常陸丸事件」を舞台に再現するものであったらしい(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編集「近代歌舞伎年表京都篇」に拠る)。]

 

Jealous man の告白 hotel にゐる hotel へ他の旅客が來る Hotel の人が歡迎する それに jealousy をもつ

○醫者人にあひし時大動脈のつき場や心臟の位置を透視する氣がする

○或女自殺する前に好きな蜜豆を三杯食ふ

All love-affairs are tedious for me, even an hour with a mistress.――況ヤ married life ヲヤ

[やぶちゃん注:「あらゆる恋愛(情事)は私にとって退屈だった、優れた女性(愛人・情婦)との一時間であってさえも。」。これは明らかに侏儒言葉」の、

   *

 

       わたし

 

 わたしはどんなに愛してゐた女とでも一時間以上話してゐるのは退窟だつた。

 

   *

に他ならない。妻文さんのためにも、後の「況や、結婚生活に於いてをや」をあちらでは外したのは、よかった。]

 

○父母ノ爲に married life bit by bit drained away サレル thema

[やぶちゃん注:「bit by bit drained away サレル」「少しずつ、流出されてしまう(はかされてしまう)」。]

《8-25》

O父ガ後妻ヲムカヘルニ對シ子ノ非難スル權限 moderns do not like 世話女房 Your ideal of wife is not may ideal of thatword of son

[やぶちゃん注:「moderns do not like」「現代人は好きでない」。

Your ideal of wife is not my ideal of that」「あなたの妻の理想は、私のその理想では、ない」。]

 

○文化住宅居住者の子供一人ハシカとなる 父母他の一人と一しよにし うつしてしまふ

Naruse 氏の姉 學習院女子部卒業の後 看護婦にならんとし(修業的ニ)赤十字社へ行き 規則書を貰ひ來る 父に叱らる

[やぶちゃん注:「Naruse 氏」芥川龍之介の友人で、第四次『新思潮』の創刊に加わった、フランス文学者成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)か。ロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる。横浜市に生まれで、成瀬正恭(まさやす:「十五銀行」頭取)の長男。但し、彼に姉がいるかどうかは不詳。]

 

○××死す Oana の父母「博士になる人だつたに」と云ふ 小穴「死んでも噓をついてゐやがる」 Perhaps ××の細君もウソをつかれてゐるならん

[やぶちゃん注:Oana「小穴」芥川龍之介の盟友で画家の小穴隆一であろう。]

 

○十圓札をうけとる 札のうらにヤスケニシヨウカと書いてある

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月『改造』発表の「十圓札」の素材メモ(同作は「青空文庫」ので読める)。「ヤスケニシヨウカ」は「寿司に(でも)しようか?」の意。竹田出雲作の「義経千本桜」出てくる寿司屋の名「彌助鮨」から。花柳界などでも「寿司」の隠語として用いられた。]

 

○電車中の電燈落つ 吊革に下がれる女周圍を見まはし 車中の注意をひかんとす 醜婦なる故に誰も顧ず

[やぶちゃん注:これは大正一五(一九二六)年一月発行の『新潮』に発表した年末一日」の一シークエンスの素材(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然拔け落ちてこなごなになつた。そこには顏も身なりも惡い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまつてゐた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髮をかすめたらしかつた。彼女は妙な顏をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹(ひ)かうとする顏に違ひなかつた。が、誰(たれ)も言ひ合せたやうに全然彼女には冷淡だつた。僕はK君と話しながら、何か拍子拔けのした彼女の顏に可笑(おか)しさよりも寧ろはかなさを感じた。

   *]

○妹の友だちモデルになると云ふ 

      家小 手狹トイフ

 jialousy

姉斷る<

      萬一ノ時ノ責任

      母の思惑等

一週間餘り後兄に話す

[やぶちゃん注:「<」は底本では「家小 手狹トイフ」から「母の思惑等」までの四行の上をカバーして指示するもの。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八

 

     

 椀貸穴を以て龍宮の出張所の如く見た例はまだ幾らもある。前に擧げた信州上伊那郡松島村の龍宮塚はその一つで、同郡勝間村の布引巖と共に、やはり證文を差し入れて人々は穴の中から色々の道具を借りて居た。其でも終に返却を怠つた者の爲に、中止の不幸を見たことは同樣で、現に村の藤澤其某方に持ち傳へた古い一箇の盆は、龍宮の品であると云ふ話であつた。愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川と云ふ處の民、常に龍宮から種々の器物を借りて自用を足して居た中に、或時皆朱(かいしゆ)の椀を借りてその一箇を紛失した爲に、亦貸すことが絶えたと云ふ。利根川の流域にも多くの椀貸古傳が分布して居るが、其上流の上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧の如きは、瀧壺が龍宮に通ずると傳へて、是にも膳椀の借用を祈つたと云ふ。翌朝その望みの食具を出して置かれたと云ふ大きな岩が、今でも瀧壺の上に在る。龍宮の乙姫此水に住んで村民を守護せられる故に、膳椀を賴んでも貸して下されぬやうな祝ひ事は、神の思召に合はぬものとして中止するので、乃ち若い男女等はこの瀧に來て緣結びをも祈つたと云ふことである。

[やぶちゃん注:「信州上伊那郡松島村」既注

「同郡勝間村の布引巖」サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌
下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用終了》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)。ストリートビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』るようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える

「愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川」愛知県新城(しんしろ)市門谷(かどや)鳳来寺にある鳳来寺山はここであるが、小字などを調べたが、「瀧川」は確認出来なかった。識者の御教授を乞う。ただ、調べるうち、竹尾利夫氏の論文「奥三河の口承文芸の位相―椀貸し伝説をめぐって―」(PDF)の中に、宝永四(一七〇七)年刊の林花翁著の地誌「三河雀」の「朱椀龍宮の事」という一条を引いておられるのを見出した(「三河文献集成・近世編上」が引用元。なお、恣意的に概ね漢字を正字化し、ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   *

鳳來寺の麓滝川と云所に住る民、常に龍宮より種々の器物をかりて自用をたしぬ、有時皆朱の椀を借り來て、壱つの椀を失て返さざりしゆへ、その後は更に借す事なし[やぶちゃん注:ここに竹尾氏による『(後略)』の注記がある。]。

   *

これについて竹尾氏は、『柳田国男によれば、文献的に椀貸し伝説の確認できるものとして』、宝暦七(一七五七)『年刊の「吉蘇志略」や』、安政二(一八五四)『年の自序をもつ「利根川図誌」に所収の話を掲げるが、管見の及んだ限りでは』、この「三河雀」の記載『が、記録に見える椀貸し伝説の最も古いものかと思われる。したがって、『三河雀』等に見えるように、遅くとも近世初期には、椀貸し伝説が今日伝承されるような内容の話として成立していたものと判断される』と述べておられるのは、非常に貴重な見解である。柳田國男はこのような「椀貸伝説」の伝承の具体的な成立濫觴時制の考証や、一次資料としての提示確認をここ以外でもはなはだ怠っているからである。

「上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧」現在の群馬県沼田市利根町追貝にある著名な「吹割の滝」(正式銘は「吹割瀑」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。群馬県沼田市利根町老神温泉「吟松亭あわしま」(私はここに泊まったことがある)の「吹割の滝」の解説ページに、

   《引用開始》

吹割の滝は、その昔「竜宮」に通じていると信じられていました。そのため、村で振舞ごとがあるたび吹割の滝を通じて竜宮から膳椀を借りたそうです。お願いの手紙を滝に投げ込むと前日には頼んだ数の膳椀が岩の上にきちんと置かれていました。ところが一組だけ返し忘れてしまったことがあり、それ以来膳椀を貸してもらえなくなったそうです。今でもそのとき返し忘れた膳椀は「竜宮の椀」と呼ばれ大切に保存されています。

   《引用終了》

とある。リンク先は商業サイトながら、瀧を中心とした写真も豊富なので、ご覧あれ。]

 蓋し斯んな淋しい山奧の水溜りに迄、屢〻龍神の美しい姫が來て住まれると云ふのは、基づく所は地下水と云ふ天然現象に他ならぬ。天の神が雲風に乘つて去來したまふと同じやうに、水の神は地底の水道を辿つて何處にも現れたまふものと信じて居たのである。殊に山陰や岩の下から造り出る泉の、絶えず盡きず淸く新しいのを見ては、朝夕其流れを掬み又は田に引いて居る人々は、之を富の神、惠の神と考へずには居られなかつた筈である。椀貸傳説の終局が何れの場合にも人間の淺慮に起因する絶緣になつて居るのも、言はゞ神德に對する一種の讃歎であり、遠くは鵜戸の窟の大昔の物語に始まつて、神人の永く相伴ふこと能はざる悲しい理法を説明した古今多くの神話の一分派で、稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬのである。

[やぶちゃん注:「鵜戸の窟の大昔の物語」「鵜戸の窟」は「うどのいはや(いわや)」と読む。現在の宮崎県日南市大字宮浦にある鵜戸神宮。同社は日向灘に面した断崖の中腹の海食洞の岩窟内に本殿が鎮座する。神社としては珍しい「下り宮」の形態を採っている(これは海底の龍宮という異界へのアクセスを示すものと私は思う。祭神(後述)の母である豊玉姫はしばしば龍宮乙姫と同一視されるからである)。ウィキの「鵜戸神宮」によれば、『「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し』、主祭神の名の「鸕鷀(う)」(日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと):彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)後の引用を参照)『が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充て』たものであるという。「みやざきの神話と伝承101」の「鵜戸の窟」には鵜戸神宮の由緒として、以下のような神話を記す((アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

 その昔、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)は、兄・海幸彦から借りた釣り針をなくした。それを捜しに出掛けたワタツミノミヤ(海宮)でトヨタマヒメと出会い、結婚。ヒメは鵜戸の窟で出産することになり、急いで鵜(う)の羽の産屋がつくられた。

 ヒメはミコトに告げた。「私のお産の後、百日を過ぎるまでは、私も御子も決してのぞいて見てはいけません」

 しかし、ミコトはその百日が長く、待てなかった。見てはいけないと言われればなおさらである。ついに九十九日目に葺萱(ふきかや)の戸の間から、一割(ひとわれ)のたいまつをともして、産屋の中をのぞいてしまった。

 ミコトがそこに見たのは、ヒメの姿ではなかった。海宮では言葉で表せないほど美しいヒメが、今は十六丈(約四十八メートル)ほどの大蛇となり、八尋(約十二メートル)のワニ[やぶちゃん注:言うまでもなく、大鮫。]の上に乗り、御子に乳を与えている姿であった。

 ミコトは大変驚き、恐ろしくなった。一方、ヒメは自分の本当の姿をミコトに見られたことを恥ずかしく思い、海宮に婦ることにした。ミコトが言葉をつくして引き留めようとしたが、それもかなわなかった。

 ヒメは御子のために左の乳房を引きちぎり、窟の腹に打ちつけて帰っていった。今も残る「乳房石(おちちいわ)」がこれ。そして海宮への扉も閉じてしまい、海宮へ行くことはできなくなった。

 ヒメが自分の蛇身の姿を見られた恥ずかしい思いの炎と、わが御子への恋しいあこがれの炎、そしてミコトに愛別された情炎、この三つの炎は今も絶えることなく燃え上がっている。霧島山の御神火がそうだと伝えられる。

 その後、海宮からは海神の大郎女(おおいらつめ)のタマヨリヒメが遣わされ、御子の養育にあたった。この御子がヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコトである。地神第五の神で、人皇第一代の天皇である神武天皇の父神にあたる。

   《引用終了》

ここは私も叔父(私の母は鹿児島の出身である)に連れられて行ったことがある。海に面した非常に好きな神社である。

「稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬ」「他ならぬ」かどうかは微妙に留保するが、この比較神話学的解釈は面白いと思う。但し、「他ならぬ」と断言するのであれば、その照応性を核心から解かなければ説得力はない。]

 塚の底や窟の奧に隱れ住んで人民の便宜を助けたと云ふ靈物には、他にも色々の種類がある。加賀の椀貸穴で古狐が椀を貸して居たことはすでに述べたが、それよりもさらに意外なのは佐渡の二つ岩の團三郎貉である。二つ岩は相川の山續き、舊雜太(さわた)郡下戸(おりど)村の内で又二つ山とも謂ふ。岩の奧に穴があつて貉の大一族が其中に住み、團三郎は卽ち其頭目であつた。折々化けて町へ出で來たり人を騙して連れて行くこともあるので、島民は怖れて其邊へ近よる者も少なかつたが、彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある。一説に最初は金を貸しあまり返さぬ者があるので後に膳椀だけを用立てたが、其も不義理な者が多い所から終には何も貸さぬことになつたと云ふ。兎に角至つて富裕な貉であつた。佐渡は元來貉の珍重せられた國で、每年金山の吹革の用に貉の皮數百枚づゝを買上げたと云ふのは、彼等に取つて有り難くも無いか知らぬが、俚諺にも「江戸の狐に佐渡の貉」と言ふ位で、達者で居ても相應に幅が利いたと思われ、砂撒き貉の話なども遺つて居る。右の團三郎などは二つ岩の金山繁昌の時代に、日雇に化けて山で稼いで金を溜め、後次第に富豪となると言ふが、しかも金を貸すのに利子を取つたと云ふ話はない。越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺は後に長岡の城下へ移つたが、元の寺の裏山に天文の頃、團三郎の住んで居たと云ふ故迹がある。衆徒瑞端と云ふ者を騙したこと霹顯し、時の住職より談じ込まれて佐渡へ立退いたとも言へば、他の一説には寛文年中まで尚越後國に居たとも言ふ。龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある。團三郎二度目に惡い事をしたによつて、庄屋の野上久兵衞村民を語らひ、靑杉の葉を穴に押込んで窮命に及ぶと、彼は赤い法衣を着た和尚の形をして顯れ來たり、段々の不埒を詫びてその夜の中に佐渡へ行つてしまつた。其跡は空穴となつて彼が用いた茶釜折敷(をしき)の類の殘つていたのを、關係者これを分取して今に持傳へて居る者もあると云ふ。

[やぶちゃん注:「佐渡の二つ岩の團三郎貉」「貉」は「むじな」。であるが、ここでは狸(たぬき)の異名。この団三郎狸は私の特に偏愛する佐渡の妖怪の親玉で、昨年の三月には、この団三郎を祀った二ツ岩神社へも行った(ブログ記事参照)。私の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」・及び同書の「窪田松慶療治に行事」「百地何某狸の諷を聞事」・「井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事」などの本文と私の注を是非とも参照されたい(同書は作者不詳(但し、佐渡奉行所の役人と考えてよい)で安永七(一七七八)年成立の佐渡に特化した怪談集である)。この中の二話と同一の話柄は根岸鎭衞の「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」にも載せられている(リンク先は私の古い電子化訳注)。

「彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある」辻正幸氏のサイト「狸楽巣(りらくす)」内の「禅達貉の伝説」(この禅達は団三郎の配下の化け狸の名であるが、子分のやることは親分の指示と考えてよかろう)に山本修之助編著「佐渡の伝説」の引用があり、そこに「膳椀を貸した善達貉」という話が載る。

   *

 徳和の東光寺にいる善達貉は、禅問答で有名だが、また膳椀を貸した話もある。

 むかし、人のおおぜいが集まる時には、膳や椀がたくさん必要であった。

 そんな時、この善達貉の棲む岩穴の前で、お願いをすると翌朝はかならずお願いしただけの膳や椀を揃えてくれた。そして、使ったあとは、かならず、その岩穴へ返さなければならなかった。

 村の人たちは、長い間。その恩をうけていた。

 その後、ある時、つい膳椀を返さない者があった。

 それからは、いくらお願いしても善達貉はかしてくれなかった。

   *

この東光寺(曹洞宗)は新潟県佐渡市徳和に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田は後に「妖怪談義」(昭和三一(一九五六)年刊)に載せる「團三郎の祕密」(初出は昭和九(一九三四)年六月発行の『東北の旅』)でも団三郎の金貸しの件に触れて、その後に別の膳椀貸しの話を述べているが、散漫な記述で読むに足らない。

「吹革」これはちくま文庫版全集では「ふいご」とルビする。「鞴」である。金の精錬に欠かせない。だから、もともといなかった狸(狐は現在もいない)を幕府は佐渡に持ち込んだのである。

「砂撒き貉の話」佐渡郡赤泊村(前注の徳和の近く)にある辻堂坂を夜通ると、砂を撒くような音がし、それは「砂撒(すなま)き狢(むじな)」の仕業だ、とする話が、「国際日本文化研究センター」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに載る。柳田はやはり後の「妖怪談義」に載る「小豆洗ひ」の中でもこの話にごく僅かに触れているが、これも読むに足らない。

「越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺」現在の新潟県長岡市日赤町に現存する浄土宗の寺。ウィキの「法蔵寺(長岡市)」によれば、『「日本歴史地名大系」では』応仁二(一四六八)年『に、妙見村の会水城主である石坂与十郎が三河国赤坂宿(現在の岡崎市)の法蔵寺の僧侶である入誉白鸚を招いて六日市で開創した。一方で』、『「大日本寺院総覧」では』、享禄四(一五三一)年に『越後国古志郡出身であった入誉が石坂氏の招きに応じて』、『帰郷して開山したとしている』。『その後、蔵王堂城主により蔵王に移転し、さらに長岡城築城に伴って、元和年間中に長岡城下の上寺町に移転するが、城地の都合で現在地に再々度移転した』とあって、柳田の言う事蹟は必ずしも当てにならないことが判る。されば、「元の寺の裏山」というのも本当にあったのかどうか、怪しい。団三郎伝説のプレ話であるが、私は誰かが後代に創作した可能性が高いように思う。とすれば、団三郎伝説の原型を考察する上では、この話は百害あって一利なしである虞れさえあることを述べておく。

「天文」一五三二年から一五五五年。

「衆徒瑞端」不詳。そもそもこの本土新潟での団三郎の話、ネット検索を掛けても、柳田以外の叙述が一向に出て来ない。団三郎が佐渡に渡る以前に新潟でこんな悪事を働いていた、それが露見して佐渡へ逃げた、という基本話柄が、事実、佐渡渡島以前に確かに本土に存在していたならば、それが今ではまるで知られていないということ自体、これ、おかしなことではあるまいか? ますますこの話、私は信じ難い。柳は年号まで出して妙に詳しく書いているが、一体そのソースはどこにある(あった)のか? 団三郎ファンとしては是非とも知りたい。御存じの方は、是非、御教授下されたい。

「寛文」一六六一年~一六七三年。佐渡金山の発見と開発開始は慶長六(一六〇一)年のことである。但し、戦国時代に現在の金山の山の反対側の鶴子銀山(佐渡鉱山の中でも最古とされる)で銀の採掘がなされていた。また「今昔物語集」の巻第二十六には「能登國掘鐡者行佐渡國掘金語第十五」(能登の國の鐡(くろがね)を掘る者、佐渡の國に行きて金を掘る語(こと))という段があり、佐渡で金が採掘出来ることは十一世紀後半には知られていたことが判っている(ここはウィキの「佐渡金山その他に拠った)。

「龍昌寺」新潟県長岡市六日市町にある曹洞宗のそれか。(グーグル・マップ・データ)。そんな以下に示された具体な話も今は伝わらないようである。ますます不審である。
【2018年11月2日追記:藪野直史】退屈な日常に埋没している人間たちに見放された私でも、愛しい妖怪たちは忘れずにいて呉れた。本朝、メールを開くと、中の一つに、昨日の逢魔が時に送られてきたメールがあった。開いてみると、最後に《
団三郎狢の子孫より》とあったのだ!!! 以下、ここに関わる諸情報を当の、実に! 今も生きておられる団三郎狢の末裔の方が(これは実はおちゃらけた比喩ではないのである。以下の本文を見られたい)、確かな今に残る私の愛する「団三郎狸」の情報を寄せて下さったのだ! 以下に、メール全文を示す。

   《引用開始》

初めまして。石坂与十郎の検索で貴ホームページを拝見し、団三郎狢の伝説の情報をお探しのようでしたので連絡いたしました。

六日市地区には団三郎狢の伝説が確かに存在します。記録としては柳田氏も資料として多用している明治二三(一八九〇)年頃の「温故の栞」が上げられ、昭和一一(一九三六)年の「古志郡 六校会 郷教育資料」にも同様の内容で記載されています。

しかし、「温故の栞」には龍昌寺以下の内容は書かれていません。柳田氏はどこで採取されたのかわかりませんが、野上久兵衞家は現存します。千手観音堂を護持する旧家で武家の出身の伝承を持っています。また、団三郎狢伝承の故地には石仏がありますが、団三郎狢の住処の穴の場所は伝わっていません。しかしながら、地元には式内三宅神社の伝承に祖神が来臨した「鎮窟」が存在し「鬼の穴」として近郷に有名です。

『龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある』とありますが、「窟」と呼んでいるので、この「鎮窟」の可能性が高いと思われます。また当家は龍昌寺裏に「狢屋敷」の字名を持つ山林を所有していますが、恐らく伝説に関する故地と思われます。

地元には他にも弥三郎婆、猫又、カワウソ、カッパ等の伝説伝承が豊富ですが、未開の遺風だと勘違いして誰も関心持たないのです。地元の式内社の伝承すら興味が薄いのですから。それが表に出ない最大の理由です。

団三郎、弥三郎、甲賀三郎、伊吹弥三郎は、いずれも「三郎」を名乗る魔性の者ですが、いずれ、人間に違いありません。

製鉄と穴は「三郎」に共通で、古代の山の民(国津神)の末子相続制を表したものでしょう。

また地元の猫又の伝承は甲賀三郎のものとほぼ同一で、地下の異界往来譚となっています。山幸彦の伝承の山バージョンです。神仙思想を山の民が先行して受容したことの記憶でしょう。

団三郎狢に興味を持って頂いて有り難いです。更にご興味があれば追って資料を提供いたします。よろしくお願いいたします。

団三郎狢の子孫より

   《引用終了》

これは恐らく現在、望み得る至上の真摯な情報と見解で、読みながら、手が震えた。ここへ掲げて、深く謝意を表するものである。]

 越後の寺泊から出雲崎へかけての海岸では、春から秋のあいだの晴れやかな夕暮に、海上佐渡の二つ山の方に當つて雲にも非ず藍黑き氣立ち、樓閣城郭長屋廊下塀石垣などの皆全備して見えることがある。これを俗には二つ山の團三郎の所業と言つたさうである。相川の町などでも團三郎に連れられて彼が住む穴に入つて見た者は、中の結構が王公の邸宅の如く、家内大勢華衣美食して居るのに驚かぬ者はなかつた。ある醫者は夜中賴まれて山中の村へ往診に行き、此樣な立派な家は此邊に無い筈だがと思つて居たが、歸宅後段々考えてみて始めて二つ岩の貉の穴だつたことを知つたと云ふ話もある。或は又此穴の中の三日は浮世の三年に當ると云ふ浦島式の話もある。或は又此仙境で貰ひ受けた百文の錢は、九十九文まで遣つても一文だけ殘して置けば夜の中に又百文になつて居て、其人一生の間は盡きることが無いと云ふ話もある。主人公が貉であるばかりに特に珍しく聞えはするが、他の部分に於ては長者の福德圓滿を語り傳へた多くの昔語りと異なる所が無いので、其れではあまり變化らしくないとでも考へたものか、穴の中で見て來た事を人に語ると立處に命を失うと云ふ怖い條件を一寸添えてはあるが、しかも右申す如く既に世上の評判となつて居るのだから何にもならぬ。

[やぶちゃん注:以上の話は、概ね、先にリンクさせた私の「佐渡怪談藻鹽草」に尽きており、本土から見た佐渡に蜃気楼が見え、それが団三郎によるものだとする話柄もよく知られた話である。アカデミストの柳田國男は知られていない怪談集を一次資料として示すのを躊躇ったものかも知れぬ。尻の穴の小さい男だ。] 

2018/01/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七

 

     

 自分が徒らに話を長くする閑人で無いことは、大急行の話し振りでも御諒察が出來るであらう。何分問題が込み入つて居るので今少し他の方面から𢌞つて見ぬと趣意が立たぬ。椀貸と無言貿易との關係を窺ふ爲に、是非とも考へて置かねばならぬのは、貸主に關する各地色々の言傳へである。愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山の麓の洞穴には、昔異人此中に住んで居て村の者に膳椀を貸したと云ふ話がある。是も前日に洞の前に往き口頭または書面にて申し入れて置くと、翌朝は數の如く出してあつたと言ひ、又橫着な者が返辨を怠つてから貸さなくなつたと傳へて居る。異人と聞くと何となく白髮の老翁などを聯想するが、他の地方には越中の家具借の池のやうに、美しい女神を説くものが多いのである。例へば信州木曾の山口村の龍ケ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松の樹を生じ形狀怪奇であつた。吉蘇志略には此事を記して「土人云ふ靑龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、後或其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩と云ふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るに皆意の如し、その後黠夫あり窺い見て大いに呼ぶ、水神水に沒して復見えずと濃陽志略に見えて居る。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)で、是も同じ書に山の半腹にある戸立石と云ふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、其末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女あり此岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後終にその事絶ゆとある。九州では宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷の百椀とどろと呼ぶ谷川の潭にも、水の中から美しい女の手が出て百人前の椀を貸したと云ふ處がある。この淵も亦龍宮へ續いて居ると云ふことであつた。或時馬鹿者が椀拜借に來て、その美しい手を引張つて見てから以後、爰でも永く椀を貸さなくなり、しかも今以て其水で不淨を洗へば祟りがある。

[やぶちゃん注:「愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山」現在の愛媛県松山市北斎院町の岩子山(いわこさん)緑地附近。(グーグル・マップ・データ)。

「信州木曾の山口村の龍ケ岩」旧長野県南西部にあった旧長野県木曽郡山口村。島崎藤村の出生地である馬籠宿で知られ、古来より関係の親密であった岐阜県中津川市と県を超えた合併をし、現在は岐阜県中津川市山口である。