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2018/01/31

エウラギシカ・ギガンティアの生態映像

南極の海底にしか棲息しないゴカイ目ウロコムシ科のエウラギシカ・ギガンティア Eulagisca gigantea の生態映像!  これは凄い! 如何にも不気味なエイリアン型の数個の標本しかないが、これは、何と美しいことか!

芥川龍之介 手帳12 《12-1》

 

手帳12

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波書店の新しい「芥川龍之介全集」の第二十二巻(一九九八年刊)で始めて全集内資料として活字化されたもので(同巻の「後記」によれば、最初の紹介は一九九七年九月発行の『山梨県立文学館館報』第三十号の井上康明氏の「芥川龍之介の手帳」で、そこでは先行する「手帳1」「手帳10」も併せて紹介されている、とある)、旧全集には所載しない手帳で、僅かに、旧全集「手帳一」の最後に《12-4》が紹介されていることから、この手帳は旧全集編者によって確認されていたが、何らかの理由によって活字化出来なかったことが判る。当時の所有者の許諾が下りず、全部を確認することが出来なかったか、或いは、これが最も可能性が高いと私は思うのであるが、内容から見て、あまりに断片的な記載が多いこと(他の手帳に比して確かにそうは言える)、終りの方が当時の個人の住所録で、公開した場合、或いはプライベートな問題が生ずる可能性があった(今でいう個人情報の問題も含む)こと等から、活字化を見送ったものとも思われる。

 現在、この手帳は山梨県立文学館が所蔵しており、東京電力株式会社の大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてあるとある(と言っても、古いそれを彼がメモ書きに使用することはあるから、この書誌データによっては、単にそれ以降の使用と言うだけの上限を知るに留まる)。

 底本は無論、新全集の当該巻を使用したが、例によって恣意的に漢字を正字化して、原資料の形に近づけて活字化し、底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示したが、それが著しく困難な箇所があり(具体的には《12-3》(この記号は後述する)パートのチャート部分)、そこに関しては、新全集のその部分だけを画像として読みとって、トリミングして示すこととする(但し、それは新全集の編者によって完全に描き直されたものであるから、画像としての著作権を云々されるかもしれない。万一、そうした指摘を受けるようであれば、完全に私が手書きで書写した画像に差し替えようとは思う)。また、芥川龍之介自身の描いたデッサン(手書き地図一枚を含む)が四葉あるが、これはそのまま画像としてトリミングして当該箇所に表示する。既に、今までの手帳でもそれは行っているが、パブリック・ドメインの描かれた絵を完全に平面的に複製しただけのものには著作権は発生しないというのは文化庁の公式見解であるから、これらについては全く問題はない。

 新全集の「見開き」部分については各パートごとに《12-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は■で示した。私の注については、白兵戦の各個撃破型であるからして、叙述内容の確かさの自信はない。

 新全集の「後記」では、本「手帳12」の記載時期に就いては、大正五(一九一六)年から大正七(一九一八)年頃の閉区間の推測がなされているが(根拠は記されていない)、下限の閉時期は記載内容と「龍」脱稿等との関連から私にはやや不審である(鷺只雄氏の推定では「龍」の脱稿は大正八年四月二十四日頃である。因みに、そこでは本手帳内の記載で関わる作品で公開作としては「猿」(大正五(一九一六)年九月『新思潮』発表)、「道祖問答」(大正六(一九一七)年一月『大阪毎日新聞』)・「偸盜」(同大正六年四月及び七月『中央公論』)・「軍艦金剛航海記」(同大正六年七月『時事新報』)・「枯野抄」(大正七(一九一八)年十月『新小説』)、「龍」(大正八(一九一九)年五月『中央公論』)が、未定稿としては「BEAU(「道祖問答」の草稿。「BEAU」は「ボォウ」で、「洒落男・婦人の相手役となる男・恋人・ボーイフレンド」のこと。もとはフランス語の「美しい」の意)「東洲齋寫樂」が挙げられてある。また、そこでも言及されているが、《12-10》の曜日と時間と人名、及び『Syntax』(構文)とか『Prosody』(作詩術・韻律法)というメモは明らかに、横須賀の海軍機関学校教官(教授嘱託・英語)当時の即時的メモランダである。因みに、芥川龍之介が海軍機関学校に就任したのは大正五(一九一六)年十二月一日で、航海見学で軍艦金剛に乗艦して横須賀から山口県由宇まで行ったのが、大正六(一九一七)年六月二十日から二十四日、彼が厭で厭で仕方がなかったこの教職を退いたのは大正八(一八一九)年三月三十一日(最後の授業は三月二十八日)であった。]

 

 

《12-1》

○日本橋盡し 播州室津

[やぶちゃん注:「日本橋盡し」ありそうな書名なのだが、不詳。ただ、個人サイト「日本紀行の「室津街道を見ると、この地に「友君橋」という橋があり、この橋の名は室津の伝説的遊女の一人「友君」に因むらしく、そこには、彼女は『木曾義仲の愛妾で』あった『山吹御前』という伝承があると書かれている。しかし、芥川龍之介がこの橋を考えてメモしたのかどうかは定かではない。「日本橋盡し」という本、どなたか知らんかえ?

「播州室津」「ばんしうむろつ(ばんしゅうむろつ)」は現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ)で、播磨灘に面する港町で漁港。(グーグル・マップ・データ)。港町として約千三百年の歴史を持ち、奈良時代、行基によって五つの港が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。万葉以来の歌枕で、古くから多くの文人墨客を魅了し、井原西鶴は処女作「好色一代男」(天和二(一八六二)年刊)で遊女の発祥地と謳い上げ(「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま國々になりぬ」)、近代になっても竹久夢二(当地の旧木村旅館の女将をモデルに「室の津懐古」を描いている)・谷崎潤一郎(室津の遊女伝説をもとに「乱菊物語」を書いている)らが訪れてここを舞台とした作品を執筆している。日本紀行の「室津街道を参照されたい。]

 

 

○東都名所 永代橋儡

[やぶちゃん注:「東都名所」葛飾北斎に「東都名所一覽」はあるが、「永代橋」の絵は載らぬ。どうも下の画題らしきものが気になる。「儡」はどう見てもおかしい。どう見ても誤字だ。何の誤字かと言われりゃあ、永代橋なら佃島よ! さすれば、これ、私の好きな一枚、歌川広重の「名所江戸百景」(安政四(一八五七)年板行)の「永代橋佃しま」のことではあるまいか? (国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)だよ! これ!]

 

○江戸名所 兩國花火

[やぶちゃん注:これもねぇ、おらのとっちゃあ、広重の「名所江戸百景」の「兩國花火」なんだけどなぁ! これ(国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)よ! これ!]

 

○木曾路の山川}

       }三枚續二色

 金澤八景  }

[やぶちゃん注:「木曾路の山川」これも多分、歌川広重の同じく安政四年の三枚続きの「木曽路之山川」(雪月花之内 雪)じゃあねえかなぁ! れ!(「文化遺産オンライン」)

「金澤八景」前がそれとなりゃ、もう! 同じ広重の同じ「雪月花之内」の「月」の、「武陽金沢八勝夜景」でゲショウ!! さ!(同じく「文化遺産オンライン」)]

 

○類書東海道 中版東海道

[やぶちゃん注:「類書東海道」というのは「東海道」を題に含んだ東海道の名所を辿った厖大な類書類(小説化した滑稽本などは含まないが、名所記以外に浮世絵は含む)のことではないかと思う。

「中版東海道」これは歌川広重の浮世絵木版画の連作「東海道五十三次」の「中版」であろう。同題のものは他作家のものも一杯あり、広重のものだけでも実は三十種余りの木版画シリーズが作られ、大版・中版など、大きさやデザイン・枚数の多寡等、さまざまなものがあった。]

 

○京都名所 中ノ淀川の圖

[やぶちゃん注:う~~、これも、やっぱし、広重の「京都名所之内 淀川」のことやないかいなぁ? でお(国立国会図書館デジタルコレクションの単画像)。]

 

芥川龍之介 手帳11 《11-10~11-17》 / 手帳11~了

《11-10》

Vertical relation

chemical interest ヨリモ mechanical interest ヲ多キ點ハ Majolica モ交趾も似たり Java の文字ある故――Java 住ノ支那人 交趾燒を造る(今泉説)されど交趾なる名の起りし why は説かず Hano? Annam 地方に Pottery Majolica ニ似タルもの多し 廣州(廣東)の石灣にも似たるものあり 然らばこの Pottery は僞にして Java にて支那人

《11-11》

の造りしを眞なりと云ふは question なるべし rather Java ハ後來

[やぶちゃん注:「ノ多キ點ハ」の「ヲ」は旧全集では「ノ」。その方が読める。

Annam」安南。

rather」寧ろ。]

 

○交趾も西洋傳來ならずやと思はる

○安南燒(信樂 明石)の存在(大土瓶等)(靑 or 黃に■手等をかけるもの)も安南の産たる事を示すならん icchin(?)を用ひて線を作る乎 これも ethching と關係ある乎

[やぶちゃん注:「安南燒」(あんなんやき)はベトナムの焼物の総称。小学館「日本大百科全書」より引く。但し、占城(チャンパ)国時代(一世紀~十七世紀末)の『焼物はこれに含めない。安南焼の安南とは、唐王朝がかつてこの地を治めていたとき、安南都護府を置いた』(六七九年)『ことに始まるが、今日では正式なベトナムの国名が使われ、安南と称することはなくなった。ベトナムで本格的な焼物がつくられるようになったのは、民族自立に目覚めた李朝』期の十二世紀頃からで』、『南中国の陶技を受けて、黄釉(こうゆう)陶、青磁、緑釉陶、黄釉褐彩陶などを焼き始めた。その後』十四『世紀になると、陳王朝下で新たに元』『文化の摂取が始まり、元様式の色濃い白磁、青磁、緑釉陶を焼き』、十四『世紀後半には、元時代に景徳鎮』『窯が創始した染付とよばれる下絵付磁器をいち早く導入』、『染付を焼造して』、『みごとな製品を世に送り出し、元様式直模(ちょくも)の一期を画した。この元様式は』十五世紀から十七世紀に至るベトナム陶磁の骨格をなしている』十五世紀には赤絵も工夫されたが、十七『世紀に入ると』、『隆盛も萎』『え、粗略な作風に堕したが、この時期に日本に輸入された多くの製品は、粗笨(そほん』:見かけが大雑把で粗雑なこと『)ゆえに茶人が尊ぶところとなり、俗に絞手(しぼりで)、蜻蛉(とんぼ)手とよばれる茶碗』『や水指(みずさし)をはじめとする茶具が多く伝存している』とあるから、本邦の「信樂」や「明石」には手本とするためのそれらが伝えられて現存している(していた)ということを指しているのであろう

icchin(?)を用ひて線を作る」これは陶磁器の装飾技法の一つである「イッチン描き(筒描き)」のこと。サイト「陶磁器お役立ち情報」の「イッチン描き(筒描き)の技法」によれば、「イッチン」はチューブ型若しくはスポイト型の筒を指し、泥漿(でいしょう:粘土を水で熔いたもの)や釉薬をこの中に入れて絞り出すための道具である。『イッチン描きとは、その筒に入った泥漿を作品に盛り付ける装飾技法のことで』、『平らな器面に絞り出した泥をつけると、その部分が盛り上がって模様とな』るようになっており、『粘土を水で熔いた泥漿のほか、釉薬を』そのまま『イッチンで使うこともよくあ』るとある。『イッチン描きは材料を筒に入れることから「筒描き」、スポイトで絞り出すこともあるため「スポイト描き」・「絞り描き」とも』称し、また、『盛り上がりの部分が素麺(そうめん)のように見えることから、古唐津の作品では素麺手と呼んでいる例もあ』る、とある。イッチン盛・イッチン掛・カッパなどとも称するようだ。伝来経路は不明とされている。伊藤南山氏の伊藤南山Nanzan 京焼き制作工程(2)いっちん(絞り出し)で作業動画が見られる(You Tube)。

「これも ethching と關係ある乎」「イッチン」と「エッチン(グ)」の発音は確かに似ているが、物理的に盛り上げを主とする「イッチン」技法の装飾工程と、化学薬品等の腐食作用を利用した塑形・表面加工技法である銅版腐食技法であるエッチング(最初期のものは蠟びきした銅版に針で削って下絵を描き、それを強い酸性薬剤で腐食させて原版を作る)技法は、素人の私が見ても、全く異なるものである。etch」の語源は「鮮明に描く・銘記する・~を深く刻みつける」の意のドイツ語とされる点から見ても、私には同語源とはちょっと思えない。]

 

○漢の硝子 秦の七寶等は不明なれど六朝の晋の僄子

《11-12》

隋の綠子 唐の三彩等は From West (Persia or Arabia or Rome)ノ釉藥を用ひしならん その後は宋窯赤畫なり(彫の上に赤繪を加ふ) 彫刻象嵌等に釉藥の不十分なりしを補ふ爲也 更に明淸に至れば堅きものの上へ軟きものを加ふ 軟藥も後には不透明とし soft effect を與ふ

[やぶちゃん注:「僄子」「綠子」不詳であるが、「硝子」(ガラス質様の変異ではあるのかも知れぬが(漢代には既にガラスの生産が行われていた)、ここは当て字の「がらす」ではなく「ショウシ」(現代仮名遣)と音読みしておく。されば後の「僄子」も「ヒョウシ」、「綠子」も「リョクシ」と読んで自然であるからである)「七寶」と並び、「釉藥を用ひ」たものであろう、といっているのであるから、何らかの釉薬を用いて変化させた陶磁器の表面の特殊な様態(粗密。「僄」には「粗い」の意がある)や色彩変異(或いはその変異物質)を指す語と考えられる。

soft effect主に視覚上で軟らかな質感を見る者に与える効果。]

 

《11-13》

     {素燒(低)}

○硬(藥){     }

     {本燒(高)}

 

  {しめ燒(高)}

○軟{      }西洋流ト云ヒ得

  {樂 燒(低)}

 

○卽チ軟質陶器の西來説の一因ならん

[やぶちゃん注:以上の「○」三条は纏まった一連メモであるが、錯雑を避けるために特異的に行を空けた。それぞれ三つの「{」「}」は底本では一つの大きなそれである。]

 

○七寶

○拂菻嵌

 佛郎嵌   >七寶

 發藍嵌

[やぶちゃん注:以上の二条目の「○」(「拂菻嵌」から「發藍嵌」までの記載)は旧全集には存在しない。「>」は底本では「拂菻嵌」の下及び「發藍嵌」の下まで開いた線が伸びている。

「拂菻嵌」「佛郎嵌」「發藍嵌」これは琺瑯(ほうろう)質の微妙で多様な質感を表わす語らしい。「東罐マテリアル・テクノロジー株式会社」研究開発部長の濱田利平氏の「琺瑯の歴史について」によれば、琺瑯の起源について、

   《引用開始》

 『琺瑯』の字源をたどってみると、サンスクリット語(古代インド語)で七宝質のことを言う“フーリンカン”にさかのぼるという説があります。「琺瑯」という言葉は七宝質という意味であり、七宝とは、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)といった7種類の宝物のことです。もともとは装飾品、美術品として製作されてきたものであるといえます。最も古い琺瑯製品らしきものが見つかったのは、エーゲ海に浮かぶミコノス島で、紀元前1425年頃に製作されたと思われるものです。その後、この技術がヨーロッパ方面とアジア方面に伝播し、16世紀頃に朝鮮半島に流れ、その後日本へと渡ってきたと言われています。

[やぶちゃん注:中略。以下で一部の記号を移動した。]

 琺瑯は、不透明ガラス質の物質であり、石灰、長石、粘土・珪石・硼砂・蛍石などを混合してこれを溶融して作り、金属器物の表面に焼き付けて装飾として、腐食を防ぐものです。瀬戸引、エナメル引などとも呼ばれ、装飾品では七宝焼きがあります。

 七宝は、七つの宝、七宝ながしという意味があります。七というのは西方を表す数字であり、「西方の宝物」という意味も含まれており、私自身も初めて知ることができました。また七つの宝を集めたような美しい宝物とも辞書に書かれています。

 また、「琺瑯」の漢字は『王』偏でありますが、実はこの『王』は『玉』(ギョク)であると言われており、宝石という意味も含まれています。

   《引用終了》

また、その後に、枠で囲った記事があり、そこに『琺瑯の語源は』として、

   《引用開始》

 「琺瑯」という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

 「払菻嵌(フーリンカン)→払菻(フーリン)→発藍(ハツラン)→仏郎嵌(フーロウカン)→法郎(ホーロー)→琺瑯(ホーロー)」という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説もあります。

   《引用終了》

と出、順序は異なるが、ここにまさに芥川龍之介が記している「払菻嵌」・「発藍」嵌・「仏郎嵌」の語が登場している。なお、ここで濱田氏がこの内容を囲み記事にしているのは、Japan Enamel Association の公式サイト内にある「ほうろうのなれそめ」の内容を元にしているからであろう。そちらも引いておく。

   《引用開始》

ほうろうは漢字では「琺瑯」と書きます。覚えてしまえば簡単ですが、一見すると難しそうな字。さて、この「「琺瑯」という言葉、どこからきたのかといえば、実は定説がないのです。最も有力なのは、日本のほうろうに関する代表的な名著である森盛一氏の「琺瑯工業」という本に載っている説で「琺瑯という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわった。

「払菻嵌→払菻→発藍→仏郎嵌→法郎→琺瑯」

という解釈。教科書などにもこの説が採用されています。このほかにはビザンチン帝国から転化したのではないかという説。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。(Fu-linと前述の払菻にご注目を!)同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説があります。ただしフランク王国では七宝が盛んだったのは12世紀。時期的にはビザンチンのほうが早いといえましょう。その他諸説がありますが、何しろかの有名なイギリスのブリタニカという百科事典にも「言葉の由来そのものははっきりせず論争のまととなっています・・・」と書かれているくらい。どなたか、これぞ決定版!という説をうちたててもらえませんでしょうか。

   《引用終了》

実は以上のことを芥川は次の条で記しているのである。]

 

Rome ヨリ西 Rome に傳はる 卽 Arabia は東 Rome の傳統なり 支那は東 Rome 拂菻と云ふ 佛郎 發藍も亦然り

《11-14》

明初の佛狼機の語源も然らん 法朗 viz 琺瑯の字を生ぜし所以也 何故に Rome を拂菻と云ひしかと云ふにFrank の語の音譯ならん乎と思はるれど period 短く 土地遠く Arabia とは敵故然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり 大食窯 鬼國窯共に Arabia 七寶を意味す 卽ち Arabia

《11-15》

の支那に傳はりしは Arabia による事明らかなり。(後來語洋磁)

[やぶちゃん注:「period 短く」フランク族が建てたフランク王国は四八一年にクロビスが諸支族を統一してメロビング朝を興して建国、分裂・統一を繰り返したが、七五一年にピピンがカロリング朝を創始し、その子カール大帝の時に最盛期を迎え、西ヨーロッパ全域に版図を拡大、教皇から西ローマ帝国皇帝の帝冠を受けたものの、八四三年に三分されて、ドイツ・フランス・イタリア三国の起原となった。ヨーロッパの主要国の原型ではあるものの、王国としての存続は三百六十二年に過ぎなかった。

「然らざらん乎 されど Arabia Europe の盟主たる Frank Europe の名としたり」前条の注引用や、ネット上の記載を見るに、現在ではフランク由来とするのが定説に近いようである。

「鬼國窯」ネット記載を見ると、現在、明末から清初にかけて雲南人が京師で製作した仏郎嵌を鬼国窯と言うとあったり、或いはもっと広く中国製の七宝焼をかく言うとある。]

 

Glass

{璧(支)

{玻瑠(和)

{玻璃(和)

○皆印度を中心として東西に擴がる polish の語も玻瑠より傳はる 然らばこの glass の傳來も Arabia は一手をかせしならん

[やぶちゃん注:「璧」「へき」。古代中国で祭祀器或いは威信を示すための掲揚器として使われた玉器。ウィキの「璧」によれば、多くは軟玉から作られ、形状は円盤状で中心に円孔を有する。『表面に彫刻が施される場合もある』。『璧の起源は良渚文化』(りょうしょぶんか:長江文明の一文化で紀元前三千五百年頃から紀元前二千二百年頃に存在したとされる)『まで遡り』、『当時は琮』(そう:古代中国で祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。方柱状を成し、長軸方向に円形の穴が貫通しており、上下端は丸く円筒状になっている。方柱部の四隅には浮彫りや細線で幾何学文様・神面・獣面・巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は「天」を、方形の外周は「大地」を象徴しているとされ、琮全体はは天地の結合の象徴であると一般には考えられている)とともに『神権の象徴として扱われていた』。『良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる』。『周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定され』、また、「周礼(しゅうらい)」では、『諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している』。『璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ』、『春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた』とある。

「支」支那。中国製。

「和」本邦製。

「玻瑠」「玻璃」と同義で狭義に鉱物としては水晶だが、ここは七宝の様態の一つの謂い。で無色か白色のガラス質を指す。

「瑠璃」狭義に鉱物としてはラピスラズリだが、ここも七宝の様態の一つの謂い。青色系ガラス質を指す。

polish」研磨する。]

 

《11-16》

○鐡圍山叢談(宋)

鐵屑を集めて glass を作らんとせしに耳飾りのみを得たりと云ふ 陶器の既に進步せしに關らず glass は作り得ざりし その來りし土地は大食なりしや否や忘る

(中央 Asia の發掘を待つ外なし)

[やぶちゃん注:「鐡圍山叢談」宋の蔡絛(さいじょう)撰の随筆。蔡絛は徽宗時代(一一〇〇年~一一二五年)後期の高級官僚であったが、次代の欽宗になって流刑に処され、その流刑先で記したのが本書とされる。]

 

《11-17》

Contemporary authority ニ服スルハ危險ナリ co. au. の高さ未定なればなり 山陽と木米

[やぶちゃん注:以上の一条は旧全集にはない

co. au.」前の「Contemporary authority(現代の(陶磁器)の大家(と称する者)

)の略。ここでは後に「山陽と木米」を挙げているところから、恐らく研究者や陶磁器の目利きの骨董の好事家などではなく、名陶工とされている当時の人物のことを指しているように読める。

「山陽」不詳。頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)が陶磁器を蒐集したとも聞かんしのぅ。識者の御教授を乞う。

「木米」青木木米(もくべい 明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)は江戸時代の絵師で京焼の陶工。京生まれ。幼名は八十八。以下、ウィキの「青木木米から引く。『若くして高芙蓉』(こうふよう:篆刻家・画家で)『に書を学び』、『頭角を現』わし、二十九歳の『時、木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した』「陶説」を『読んで感銘を受けて作陶を志し』、『奥田頴川に入門』、三十歳を『境に京都・粟田口に釜を開き評判を得』た。五『年後には加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力した。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付などその作域は幅広い。中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いた。文人画系統に属する絵画にも秀作が多い』。『永樂保全、仁阿弥道八とともに京焼の幕末三名人とされる』。『木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。そのため』、『木米の耳はいつも赤く腫上がったが』、『その手法を変えることはせず』、『完治する間もないほど作陶を続けたため』、『木米は晩年、音を失くした。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号していた』という。

 以上を以って「手帳11」は終わっている。]


芥川龍之介 手帳11 《11-7~11-9》

《11-7》

Italian Pottery の上にて barren になれり(Rome 後の亂) At that time Majorca came to Italy.

[やぶちゃん注:「barren」不毛な状態。オリジナルな陶器を生み出せなくなったということであろう。

Rome 後の亂」古典的文化的な意味に於けるローマ帝国の滅亡は西ローマ帝国が滅亡した四八〇年を以ってするのが世界史上では一般的であるが、ここは陶器の問題で、「その直後にマヨリカ焼きの時代がイタリアにやってきた」と芥川龍之介は言っているから、これは形式上のローマ帝国の滅亡、一四五三年にオスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを陥落させた東ローマ帝国の滅亡を指している。]

 

Luca della Rovia? Luca Della Robbia(Italian Sculptor)ハコノMajolica ノ術ヲ傳へタリ Thus 15―16 C. の間の陶工は maître 多し こは 17C. 支那磁器の輸入と共にその模倣行はれ陶質に磁器の design

《11-8》

附しその爲 decline を得たり 卽 Majolica is a new vitality to European pottery.  Viz,  Vertical line of civilization middle point をなす

Luca Della Robbia(Italian Sculptor)」ルカ・デッラ・ロッビア(Luca della Robbia 一四〇〇年~一四八一年)はイタリアのフィレンツェ出身の「Sculptor」、彫刻家。ウィキの「ルカ・デッラ・ロッビア」によれば、『テラコッタの丸皿で知られる。ルカ以降、デッラ・ロビア家は土器芸術家の名門となり、甥のアンドレア・デッラ・ロッビア、その子ジョヴァンニ・デッラ・ロッビアを輩出した』とある。ちゃおちゃお氏のサイト「Firenze美術めぐり」の彼の人物伝によれば、彼は一四三一年に『フィレンツェ大聖堂管理組合から大聖堂の聖歌隊席の発注を受け』、これが非常に高く評価されたが、その『聖歌隊席と並んでルカの名声を確かなものにしたのは、彼が創始した彩釉テラコッタ芸術である。単にテラコッタに顔料をつけるだけでなく、像の縮みを計算に入れた上で粘土像を焼き上げ、マルツァコット(融解性の高い透明なガラス性の物質)で覆った後、さらに釉薬を重ねて、低い温度で再び焼き上げるという技術を開拓した』。『このような技法は、フィレンツェで当時目にすることができたマヨルカ陶器やイスパノ・モレスク陶器、アラブ・イスラム陶器などに似たようなものがあったが』、『彫刻に応用し、独創的なものとして芸術性を高めたのはルカの功績である』とある。芥川龍之介の叙述をこれに重ねるならば、腑に落ちる。

Thus」このように。

maître」フランス語で音写は「メート」。「親方・名匠」。所謂、職人気質の超絶技巧を持った名人の意味を含んでいると考えてよかろう。

decline」表の意味では手間賃を節約でき、複雑な意匠を押しつけてプリントして安上がりに仕上げられたから「得たり」と言っているのであろうが、この後のマヨルカ焼きの急速な衰退を考えると、実はその安易な模倣が、技術の不可逆的な低下と質の劣化をも意味していたと私は深読みしてしまう。致命的なマイナス点もそこから「得」てしまったのではなかろうか?

Majolica is a new vitality to European pottery.」(Majolica の綴りはママ)「マヨルカ焼きはヨーロッパの陶器にとって新たな活力であった。」。

Viz,」正しくは「viz.,」で「viz.」はラテン語の「videlicet(換言すれば)」の略語。なお、辞書によると、通例これで「namely」(即ち)と当て読みするらしい。

Vertical line of civilization middle point をなす」『「文明」という直線上の、まさにど真ん中の、重要な支持ポイントとしての正中点(middle point)を成す』。]

 

Militia

       >――Alchemy――磁器

 Pecuniary

[やぶちゃん注:「>」の左は底本ではそれぞれの英単語の後ろに長く延びている。

Militia」単語としては「市民兵・義勇軍・国民軍・民兵組織」であるが、ここは市民から自然発生的に生じてくる芸術的情熱・活力といったような意味ではあるまいか。それならこの図式は私には何となく腑に落ちるからである。

Alchemy」錬金術。

Pecuniary」財政的(金銭上の)問題。]

 

Majorca ノ位置ハ ambiguous ナリ Faenza? モ亦 Majolica を造る これより France Potter ヲ傳ふ 卽ち faïence より Palissy 出づ

[やぶちゃん注:「Majorca」「Majolica」の綴りの違いはママ。

ambiguous」曖昧な・不明瞭な。

Faenza」先にマヨルカ焼きの注で示した、フィレンツェの後にマヨルカ焼きの中心地となったファエンツァ(現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。ここ(グーグル・マップ・データ))のこと。

faïence」既注だが再掲する。ファイアンス焼きのこと、繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要である。

Palissy」フランス・ルネサンス期に活躍した陶工ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy 一五一〇年頃~一五九〇年)。ウィキの「ベルナール・パリッシーより引く。『ガラス工として各地を遍歴。ガラス工の需要が少なく、測量の仕事に従事した後、独力で釉陶の研究に取り組んだ。貧困の中、家具や床板まで燃料にして研究を続けたというエピソードがある』。『年ほどかかってようやく技法を完成し、「田園風土器」として人々に知られるようになった。その最大の作品は』『テュイルリー宮殿の庭園の一角に作られた』『陶製の人工洞窟であった』(現在は断片しか残っていない)。『プロテスタント(新教徒)であったため、度々弾圧を受けたが、才能を認めたアンヌ・ド・モンモランシー将軍やカトリーヌ・ド・メディシスの庇護を受けた。テュイルリー宮殿内の工房で、王室のために作品を制作した』。一五七五『年からパリで地質学、鉱物学、博物学など自然科学に関する講演会を約』十『年間続けた』。一五八〇年と一五八三年には『農学など、自然科学に関する論文集を出版している』。一五八五年の勅令で新教徒はカトリックへの改宗か国外亡命を迫られたが、従わなかった。庇護者のカトリーヌ・ド・メディシスが』一五八九年に亡くなった後』、『捕らえられ、バスティーユ牢獄で獄死した』。『独学で多くを学んだ自然主義者であり、啓蒙主義の先駆けの一人であった。しかし、ヴォルテールによってパリッシーの人物像は歪められて伝えられ、その事蹟は忘れ去られた』。明治四(一八七一)年に『中村敬宇が訳した』「西国立志編」第三篇『に伝記が掲載されたことにより、明治の日本人にはパリッシーの』事蹟『は有名だった』とある。]

 

Quality

viz 釉藥出づ

土は鐵アル故ヤケバ赤シ Phenicia 釉藥出づ 珪酸 加利 曹達等よりなる硝子(珪酸アルカリ)に鉛入る(樂藥) なほ藥 transparent Tin を加ふ 之を

《11-9》

Majoria とす(不透明なる白色) faïence ハ白い素地を用ひし故この上にもう一度透明の藥を加ふ(Palissy) 低熱にもとける故美しい色を持つ これ硝子 七寶と甚密接なり これ支那と全然反對なり 支那 hard より soft へうつる

[やぶちゃん注:「Phenicia」=Phoenicia。フェニキア。古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角でだいたい現在のレバノンの領域に相当する。

「樂藥」楽焼きの釉薬の主原料は白粉(おしろい)・白玉・珪石であるが、上に「鉛入る」とあるからこれは白粉。

transparent」透明な・ごく薄い。

Tin」錫(スズ)。

Majoria」綴りママ。

hard より soft へうつる」これは以上の釉薬の種別が生み出す見た目の硬軟感を指して言っているものと思う。]

 

2018/01/30

芥川龍之介 手帳11 《11-1~11-6》

 

芥川龍之介 手帳11

 

[やぶちゃん注:発行年・発行所ともに不明の手帳。

 現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)し、岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻はそれを底本としている。従って、底本はそれを用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《11-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。底本が読み易く整序して繋げた箇所は、原資料に合わせて、注によって復元した。判読不能字は■で示した。なお、私の注は白兵戦の各個撃破型であるからして、叙述内容の確かさの自信はない。

 新全集の「後記」では、本「手帳11」の記載推定時期に就いては言及されていない。

 なお、一読、判明することであるが、本手帖は冒頭の《11-1》を除いて、他の手帳類と異なり、全篇が陶磁器に関わる特異なメモである。思うに、これは陶磁器史を扱った洋書の内容を一部訳しつつ、本邦の解説書等からも抜書きしながら、自分の意見を添えたものかも知れない。]

 

 

《11-1》

僕は誰にでも噓をつくまいと決心したんだ

○僕はこれから噓をつくまいと思つたんだけれども人と話してゐると何時か噓をついちまふんだね 私は滅多に本當の事はしやべるまいと思つたんです けれども人と話してゐると何時かほんとの事を云つちまふんですね

[やぶちゃん注:前の「手帳10」の末尾注に示した通り、旧全集では、これは「手帳11」の最後の部分に記されてある。]

 

《11-2》

○古今東西(+)の中點にあるものを Arabian Pottery(窯工術)と爲ス

[やぶちゃん注:「古今東西(+)の中點にあるもの」意味不明。文化的時空間にあって有意な価値(過去に対しても未来に対しても普遍的に)のフラットな位置にあるもの、という意か。非常に酷似した表現が、後の《11-8》のマヨルカ焼きを語る部分で、『卽 Majolica is a new vitality to European pottery. Viz,  Vertical line of civilization middle point をなす』と出る。そちらも参照されたい。

Arabian Pottery」アラビア風の陶器の製造業。]

 

○陶 }

 七寶}3 heads

 硝子}

[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では一つの大きな「}」である。

「七寶」「しつぽう(しっぽう)」。金属などの表面にガラス質の色釉(いろぐすり)を焼きつけて模様・絵などを表わす装飾工芸。エマーユ(フランス語:émail)。

3 heads」三大代表群。]

 

原料燃料ノ地理的缺乏は窯業の發達を impossible ならしめしがその領土的 development はこれを可能にせり 且 commercial の發達も技術を教へしならん 唯その period の短かりし爲 Persian Patten より劣る

《11-3》

ならん 唯 Arabian Pattern は織物に伴ひし爲傳播したり Arabian Pattern は囘教關係より beasts 等を使はざりし爲 幾何的 pattern をなす 正倉院中の甃の如き是乎

[やぶちゃん注:「development」「発展」よりも「進行」よりも皮肉に「侵攻」ととりたい。

commercial」商業上の・工業上の。後者であろう。

beasts動物類。イスラムは偶像を嫌うので、具体的なシンボルと見えるような人を含めた動物などを意匠化しない(植物のそれは許容されて反復模様とされる)。]

 

A文化ノ傳統

Rome(東)& Paris

Rome には七寶 硝子あり 東Rome の硝子も色硝子より發達し Damube よりBohemia に入る この内地は Gothic Architecture の本場也 卽ちこの二者

《11-4》

の關係起る but 之は問題外なり

[やぶちゃん注:Damube」ダニューブ川。ドイツ南西部に発し、東流して黒海に注ぐドナウ川のこと。

Bohemia」ボヘミア(ラテン語:Bohemia:チェコ語:Čechyドイツ語:Böhmen:ベーメン)。現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広く、ポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。この中央一帯(グーグル・マップ・データ)。

Gothic Architecture」ゴシック建築。但し、ここで言っているそれは十二世紀後半に生まれた洗練されたフランスのそれとは直接の関係性を必ずしも持たない、原ゴシック様式を指すと考えないと地理的文化的にはおかしいように思われる。]

 

○隨――Persia (盛)

○唐――Arabia (盛)

Arabian Civilization の方向=From east to west

Persian Civilization の方向=From west to east

[やぶちゃん注:「唐――Arabia (盛)」の「盛」は底本では「〃」であるが、特異的に判り易く変更した。旧全集でも繰り返し記号ではなく「盛」となっているからでもある。

Civilization」文化・文明。その中でもここは特に技術的工業(科学)的側面でのそれを指していよう。]

 

《11-5》

Persian Prince married with a Chinese Princess

[やぶちゃん注:これはイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)のオペラ「トゥーランドット」Turandot 一九二六年初演)のもととなった、フランスの東洋学者フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix 一六五三年~一七一三年)が一七一〇年〜から一七一二年に出版した「千一日物語」(Les Mille et un Jours:所謂、「千一夜物語」とは全く別物なので注意)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に基づく話ではなかろうか。参照したウィキの「トゥーランドット」によれば、この異国の王族間の恋物語は『アラビア半島からペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩』「ハフト・ペイカル」(七王妃物語 一一九七年)という作品に『までさかのぼる』伝承で、『この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまった』ものの、『同じような筋書きのペルシャ語写本が』今も『残されている』という。『ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーランの国名はあるもののトゥーランドットの人名はなく、フランス人の研究者オバニアクは、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている』(一八〇一年)。『なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている』とある。私はオペラに関心もなく、これ以上、付け加える情報も持ち合わせていないので、ここまでとする。因みに、「高僧伝」などの史料によると、安息国(次条の注を参照)の王の太子と伝えられる安世高(安清)が当時の後漢に行って経典の漢訳を行ったと、ウィキの「パルティア」にはある。]

 

○大智安息國公主の碑 俗説 長安の囘寺(大秦寺)

[やぶちゃん注:「大智安息國公主の碑」「安息國」は、かつて、紀元前二四七頃から紀元後二二六年の長きに亙って、西アジアあった王国パルティア(Parthia)の漢名。都はヘカトンピュロス。セレウコス朝の衰微に乗じて、ペルシャ人で遊牧民パルニの族長であったアルサケスが建国した。ローマ帝国と対抗、ミトラダテスⅠ世の時、最盛期となり、インダス川からユーフラテス川に亙る地域を版図(はんと)としたが,ササン朝に滅ぼされた。そのパルティアの王の妃の碑、ということになる。

「長安の囘寺(大秦寺)」中国の唐代に伝来したネストリウス派キリスト教である景教の、長安に存在した寺院(教会)の固有名。ウィキの「大秦寺」によれば、但し、「大秦寺」はその後に中国各地に建立された同教の教会の一般名称でもある。六三五年にネストリウス派宣教団が長安に到着し、その三年後に景教は唐朝公認の宗教となり、朝廷から資金が援助されて、長安にこの寺が建立された(但し、この時は「波斯寺」或いは「波斯経寺」(波斯はペルシアの漢訳語)と呼ばれていた)。高宗の治世(六四九年~六八四年)になると、景教は唐王朝全域に広まり、六九八年に武則天が仏教を重んじた時期には仏教勢力から攻撃を受けて、一時は衰退したものの、続く玄宗の時代(七一二年~七五六年)には再び隆盛し、七四五年には大秦国(東ローマ帝国)から高僧佶和(ゲワルギスの漢音写)が訪れている。同年、教団の中国での名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたことから、朝廷側による当寺院の呼び名も「大秦寺」に改称されている。『これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている』。しかし、八四五年、時の『武宗は道教を保護する一方で、教団が肥大化していた仏教や、景教、明教(摩尼教)、祆教などの外来宗教に対する弾圧を行な』いこれを「会昌の廃仏」と称する)。寺院四千六百ヶ所余、招提・蘭若四万ヶ所余『が廃止され、還俗させられた僧尼は』二十六万五百人に及び、『寺の奴婢を民に編入した数』も十五万人に達したとされる。この時、『大秦景教流行中国碑も』『埋められた』。『武宗は、翌年の』八四六年に三十三歳で『崩御し、弾圧は収束する。しかし、会昌の廃仏によって、中華本土の景教は衰滅していったと考えられている』。それでも、『中原をとりまく周辺地域ではネストリウス派信仰が』、『ケレイトやウイグルなどのモンゴル高原や中央アジアの人々の間で存続していた。彼らが王朝の担い手となった元の時代には中国内で再び活性化し、華南の港湾都市に景教教会が建設された』りはした。しかし、『その後、元の滅亡やイスラム教・チベット仏教の普及により』、『東アジアにおけるネストリウス派信仰』自体が『衰え、明代の』一六二三年(または一六二五年)になって、『「大秦景教流行中国碑」が発見される』『まで、景教は中国人に完全に忘れ去られることとなった』とある。]

 

○甘肅眞州の窯(五雜俎)ニ Persian Ottery アリ

[やぶちゃん注:「甘肅眞州」不詳。こんな地名は見当たらぬ。……古くからシルクロードの要衝だった蘭州(現在の蘭州市)の誤記じゃあねえかなぁ?……

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになったという数奇な経緯を持つ書物である。]

 

唐太宗に對 Arabia の援兵を乞ふ 得ず Defeat

[やぶちゃん注:「唐太宗」唐の第二代皇帝李世民(五九八年~六四九年)の在位期間は六二六年~六四九年

Defeat」負け。敗北。サーサーン朝ペルシャは六五一年にアラブ帝国に亡ぼされている。]

 

Arabianization of Persia

Persia Arabia ニ服せられしを以て Arabian Civilization Persia に入れり

○遣唐副使に使ひ Persian 奈良に來る(聖武)

[やぶちゃん注:「使ひ」は「使(仕)へし」の意であろう。

「続日本紀」には天平八(七三六)年十一月に唐人三人と波斯(ペルシャ人)一人が聖武天皇に謁見したという記録があり、これは遣唐使が連れ帰った人物で、中国名は李密翳とある。しかも最近では「破斯清通」という、彼或いは彼の縁者である可能性がある人物が、なんと、平城京で役人(大学寮の大属(だいさかん:四等事務官)として宿直勤務に当たっていた木簡の調査で明らかになってきてもいるこちらのニュース記事を参照されたい)。]

 

《11-6》

End of    宋

Influence of

[やぶちゃん注:完全な宋の滅亡であろうから、南宋の滅びた一二七九年。本邦では弘安二年に当たる。

Influence」影響。現在の中国を支配していた民族が全く変わるわけで、その文化的影響は計り知れない。]

Arabian influence on China

○大食窯=七寶=the relation between Arabia & China

[やぶちゃん注:「大食窯」イスラム(アラブ)の窯のことであろう。

relation」関係(性)。]

 

Pottery

15 C. Spain ニアリシ Arabian Majorca or Majoria 島民ニ製陶術を教ふ

lustre を帶びし釉藥を特色とす(交趾ニ似タリ。)

[やぶちゃん注:「Majorca or Majoria」綴りが不確かなために併記したものと思われる。英語では Majorca(マジョルカ)で前者が正しい。マヨルカ島(カタルーニャ語:Mallorca:スペイン語:Mallorca:は地中海西部、スペインの西のバレアレス海に浮かぶ島。バレアレス諸島最大の島。ウィキの「マヨルカ島」によれば、『日本では以前マジョルカ島と呼ばれたが近年はフランス語の発音に近い「マヨルカ島」に統一されてきた。マリョルカ島とも表記される』。『中世からルネサンス期のマヨルカ島は地中海貿易の中継地となった。バレンシアから輸出されたムーア人様式の陶器の影響を受けてイタリア各地で作られるようになった「マヨリカ焼き」の語源はマヨルカ島であるとされることもある』とある。そこでウィキの「マヨリカ焼き」を見ると、『マヨリカ焼き(Maiolica)はイタリアの錫釉陶器でルネサンス期に発祥した。白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたものが多い。地名呼称の表記のゆらぎにより』、『マジョリカ焼、マヨルカ焼、マリョルカ焼、マジョルカ焼とも』言う。『その名称は、中世イタリア語でマヨルカ島を意味する。マヨルカ島はバレンシア地方からイタリアにムーア人様式の陶器を輸出する際の中継点だった。ムーア人の陶工はマヨルカ島を経由してシチリア島にも移住したと見られ、同様の陶器はカルタジローネからもイタリア本土に入ってきたとされている』。但し、『別の説として、スペイン語の obra de Malaga、すなわち「マラガから(輸入された)食器」が語源とする説もある』。『ルネサンス期には、「マヨリカ」』焼きは』『イタリア産のものとスペインからの輸入ものを含んでいたが、その後』、『イタリア産の錫釉陶器全般を指すようになった。スペインがメキシコを征服すると、錫釉のマヨリカ焼きは』一五四〇年『ごろからメキシコでも生産されるようになり、当初はセビリア産の陶器を真似て作っていた』。『メキシコ産マヨリカ焼きは「タラベラ焼き」として有名である(タラベラ・デ・ラ・レイナが産地として有名)』。『錫釉は不透明で真っ白な表面を生み出し、その上に絵付けしたときに鮮やかに映える。錫釉薬を全体に施して、火にかける前に金属酸化物などで絵を描く。フレスコ画のように釉薬が顔料を吸収し、間違っても後から修正できないが、鮮やかな発色を保つことができる。時には表面にもう一度釉薬をかけ(イタリアではこれを coperta と呼ぶ)、さらに光沢を強くすることもある。光沢を増すには、低温での火入れに時間をかける必要がある。窯には大量の木材が必要とされ、陶芸が盛んになるに従って、森林伐採が進んだ面もある。釉薬の原料は砂、ワインのおり、鉛、錫である』。『マヨリカ焼きに端を発した』十五『世紀の陶芸(ファイアンス焼き』faience:繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要)『と総称される)は、シチリア島経由で入ってきたイスラムの陶器の影響を受けてスズ酸化物を釉薬に加え、それまで中世ヨーロッパで行われていた鉛釉陶器の様式に革命を起こした』。『そのような古い陶器』『は「プロト・マヨリカ」などとも呼ばれる』。『それまで陶器の彩色はマンガンの紫と銅の緑ぐらいしかなかったが』、十四『世紀後半にはコバルトの青、アンチモンの黄色、酸化鉄のオレンジ色が加わった。ズグラッフィートと呼ばれる技法も生まれた。これは、白い錫釉をかけた後にそれを引っかいてその下の粘土が見える部分を作り模様などを描いたものである。ズグラッフィートはペルージャやチッタ・ディ・カステッロが本場とされていたが、モンテルーポ・フィオレンティーノやフィレンツェの窯からズグラッフィートの不良品が大量に見つかっており、そちらの方が生産量が多かったことがわかった』。十三『世紀後半以降、イタリア中部で錫釉陶器を地元で使用する以上に生産するようになり、特にフィレンツェ周辺が産地となった。フイレンツェの彫刻家の家系であるデッラ・ロッビア家もこの技法を採用するようになった(アンドレア・デッラ・ロッビアなど)。フィレンツェ自体は』十五『世紀後半には周辺の森林を伐採しつくしたために陶芸が下火になったが、周辺の小さな町に生産拠点が分散していき』十五『世紀中頃以降はファエンツァFaenza:現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。(グーグル・マップ・データ))が中心地となった』。『フィレンツェの陶器に触発され』、同時期には『アレッツォやシエーナでも独特な陶器を生産するようになった』。この十五『世紀にはイタリアのマヨリカ焼きが完成度の面で頂点に達した。ロマーニャはファエンツァの名がファイアンス焼きになったことからもわかるとおり』、十五『世紀初頭からマヨリカ焼きの生産拠点となった。ファエンツァは陶器生産が経済上重要な地位を占めるようになった唯一の大都市だった』。『ボローニャでは輸出用に鉛釉陶器が生産された』。十六『世紀になると』、『マヨリカ焼きはウルバーニア、ウルビーノ、グッビオ、ペーザロでも作られるようになった』。十六『世紀初めには istoriato と呼ばれる様式が生まれた。これは歴史上または伝説上の光景を極めて精緻に描く様式である』。その後、『マヨリカ焼きの生産は、北はパドヴァ、ヴェネツィア、トリノまで、南はシチリア島のパレルモやカルタジローネまで広ま』り、十七『世紀にはサヴォーナが生産の中心地となった』が、十八世紀になると、『マヨリカ焼きは廃れ、より安価な陶磁器が主流となった』。『マヨリカ焼きという呼称は主に』十六『世紀までのイタリアの陶器を指し、ファイアンス焼き(および「デルフト焼き」)という呼称は』十七『世紀以降のヨーロッパ各地のものを指すが、その様式は多種多様である』とある。

lustreluster に同じ。主にイギリスで用いられる。光沢。

「交趾」交趾焼(こうちやき)。中国南部で生産された陶磁器の一種。名称はベトナムの旧地方名コーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船により、本邦に齎されたことに由来する。ウィキの「交趾焼」によれば、『正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼である。総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物の』ことを指す、とある。]

 

South Kensington, Museum

[やぶちゃん注:現在のロンドンのサウス・ケンジントンにある国立科学産業博物館(National Museum of Science and Industry)に属する科学博物館である「サイエンス・ミュージアム」(Science Museum)の前身。一八五七年に設立される以前は、「ケンジントン・ミュージアム」と呼ばれ、その当時のミュージアムは、次に出る、現在、向かいにある「ヴィクトリア&アルバート博物館」の一部であった。一九〇九年に独立の施設となり、一九一三年に現在ある位置に移転している。]

 

Victria-Albert Museum ニ多數の標本アリ

[やぶちゃん注:最後の「アリ」は次の《11-7》の頭に記されていると底本の編者注があるが、流石にこれは底本のママ、ここに配した。

同じくケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(
Victoria and Albert Museum)は現代美術・各国古美術・工芸・デザインなど多岐に亙る四百万点余りの膨大なコレクションを中心にした国立博物館。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫アルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。]

 

芥川龍之介 手帳10 《10-6~10-17》及び旧全集一条 / 手帳10~了

《10-6》

O彼は彼女を戀してゐる 彼女も彼を戀してゐることを信じてゐる 少くとも彼を信用してゐることを信じてゐる for 彼は遊蕩しない 每日家へかへる 酒やビイルをとる時も一々帳場に斷る etc.

[やぶちゃん注:「帳場」とあるからにはロケーションは旅館か。]

 

Oプラクテイカルな男の戀愛觀 女は何を話してもやりこめられる程利巧だと云ふ

○その女は生活費の來る道わからず 下宿屋から一週間に一度電話をかける 「わたしだわ」と言ふ しかも僞名を用ふ 相手は茨城縣選出の代議士の弟の銀行重役 女は山口縣 兩方より戸籍謄本をとる 男のは郡がちがふと言ふ 女のは何々太郎兵衞の娘にはあれども何々太郎と言ふものなしと云ふ

○女男に金を借せと言ふ 又來りて蒲團をつくる故かせと言ふ(30) 盛裝して出行きかへらず 前例なし 翌日車屋手紙持ち來り 金を落せし故持つて來てくれと云ふ 上野の宿屋なり 行く きたなき宿にあり きけば

《10-7》

伯父の所へ行きしも伯父居らず 下宿料も拂へぬ故(勘定日)かへらなかつた。私立探偵を使ひてしらべるに一人で來たりしに相違なし 始大きい宿屋へ行きしもやすい宿屋斷られ そこより小宿屋へ送らる 女の母は向ひ合ひの下宿にあり 高商を數年前出でし男 その男の生活を保證す 女その男をきらひ別に下宿す 下宿は本郷 母女の lover に娘のことばかりきくなと云ふ あの娘は本統[やぶちゃん注:ママ。]の子にあらず 大阪の砲兵工廠に出てゐる人が或女と出來しものを夫のやしなひしなりと言ふ 又自分の情夫――高商の男と逃げし事ありと言ふ 娘になじる 娘泣いてお母さんとの關係を知らなかつたと云ふ 又 愛せぬ男と關係せぬ故後悔なしと言ふ 女の下宿に大學生來り 枕もとに立つ 女何用と云ふ 大學生用ありと言ふ 女用ならば晝來いと云ふ 大學生出て行く 女よびとめ 一しよに出て行つて上げると

《10-8》

云ふ 出て行き便所に行き またかへる 枕の上に置手紙あり 女又獨り大學生の部屋へ行き手紙をおく どちらも「只今は失禮 人に言ふな」

[やぶちゃん注:底本では見開き見出しを出さず、《10-6》から《10-8》までの総てを続けて示した上で、最後に注記で見開き位置を示すという変則表記をしているが、注記内容に従って以上のように表記した。「30」は横転ではなく、横書で正立。]

 

《10-9》

○學校にて忘れものせし人を立たせ スケツチの model とす 「オ前ナド忘レモノバカリシテ皆ガマタアノモデルカ アキタト云フダラウ」

《10-10》

○黃色く cold 光る 小ぢんまり 一人ゐ「獨房」と稱す 獨房にかざるもの欲し 壁に釘をうつ事をゆるさず 布もかけたけれどもゆるされず 畫をかかんとすき かけんとすれどもゆるさず

○壁をぬりかへた爲に結婚を申しこむ話をつける

○父の頭惡し(購買狂)

○悴(弟) 愛嬌ガアル 小學校出る 頭惡し 慶應夜學 活動好き 「ヱヲ畫イテクレ」 「スゴイナア」震災記念 喪章の代りにボエミアンネクタイを買ふ 父は日本畫にさせんとす 子は油畫 兄サンの方は墨畫ダネ

○姉 母の代理に働ク 非常に黑く ポツチヤリ 顏に光澤あり 妙に色白し 束髮を自分でゆふにも不關髮結よりもうまし 碧童に相談に來る 「兄サン」碧曰犧牲ニナレ シカシ思ヒコンダモノガアレバ云へ ソハセル

[やぶちゃん注:これは次の《10-11》に続いている。底本では続けて表記し、注でそれを示してある。

「不關」拘わらず。

「碧童」小澤碧童。後の『「兄サン」碧』は芥川龍之介が最年長(十一年上)の友であった彼を敬して呼ぶ際の「入谷の兄貴」の「兄サン」の謂いととっておく。]

 

《10-11》

 最近碧のところへ來る 碧の見によれば選擇をあやまたず 男はまた別にかけこむ

[やぶちゃん注:《10-10》からの続き。]

 

○母 眼片目スガメ 娘による事多し 一家に娘派 弟派あり 店員に百圓位拂ふもの二三人あり 不折の書をかける

[やぶちゃん注:「不折」中村不折(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。]

 

○叔父醉ひてかへる 途中女の影二あり 見れば歸りを危み 女中の見送りしなり 金をやる かへりてねこむ 家へはひるなり 金をこぼし 拾ひて寐しと言はる

○ハワイ 兄の後妻の身 來年3月女學校 日本 兄の子(父ナシ) 高等二年迄 驛夫(テンテツ夫) 日當一圓四十四踐

[やぶちゃん注:「テンテツ夫」「転轍夫」。転轍機(鉄道のレールの切り替え装置。ポイント)を操作する係。]

 

○村ノモノ等貰へト云フ 手紙を二三度出す 返事なし 岩國へ出る自動車運轉手 妻を世話せんとす それは女學校を出 女教員になる資格あり 貰はんとす 叔父に問ふ 叔父曰ハワイをたしかめよ 一切

[やぶちゃん注:以下、《10-12》に続く。底本では続けて表記し、注でそれを示してある。これは前条と繋がったメモであろう。]

 

《10-12》

をつげ 來るなら來よと云へ 甥曰來ると云つたらどうするか? 叔父曰東京を步いてゐて熊や狼が出たらどうするか 甥25

[やぶちゃん注:《10-11》からの続き。「25」は縦書正立。]

 

○將軍 賴朝 尊氏 家康

《10-13》

○父と女子と母と

 女子)

○  )→父 Strindbergian tragedy

 母 )

○父→子

[やぶちゃん注:三つの「)」は底本では大きな丸括弧一つ。旧全集では二番目の「○」のような式構造は示されておらず、「女子」「母」「→」も丸括弧もなく、ただ、『父と女子と母と。Strindbergian tragedy.』とあるだけで、後の「○父→子」も旧全集には存在しない

Strindbergian tragedy」「作家ストリンドベリ風の悲劇」。ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。]

 

○決死隊(天津の) 強弱の差アラハレ 強者弱者を輕蔑す 戰後強者弱者和す

[やぶちゃん注:既注の清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱(北清事変)の際の、最初の連合軍の正念場であった大沽砲台・天津攻略戦での日本軍のエピソードであろう。この時、日本を含む八ヶ国連合軍は、租界を攻撃していた清朝の正規軍聶士成(じょうしせい)の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒し、結果、聶士成は戦死、数日後の一九〇〇年(明治三十三年)七月十四日に連合軍は天津を占領、直隷総督裕禄(ゆうろく)は敗戦の責を取って自殺し、天津城南門上には凡そ四千名もの義和団・清朝兵の遺体があったという(ここはウィキの「義和団の乱」に拠った)。]

 

○或男の哲學――虎は虎 猫は猫 どちらもよろし

《10-14》

○革命の成功は文明の破壞となる時如何するや

○アレキサンドリアの圖書館

[やぶちゃん注:紀元前三百年頃、プトレマイオス朝のファラオであったプトレマイオスⅠ世ソテル(在位:紀元前三二三年~前二八五年)によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。ソテルは学問・文化を奨励、地中海世界の著名な学者や詩人を招いて「学園(ムセイオン)」を設立したが、その際に附属研究施設として創立された。蔵書数は 十万巻とも七十万巻ともいわれ、館長には当代の言語学・文献学の大家が就任した。紀元前四八~前四七年のアレクサンドリア戦争の際に焼け落ちたが、後、ローマの政治家マルクス・アントニウス(Marcus Antonius 紀元前八二年頃~前三〇年)がペルガモンの蔵書 二十万巻をクレオパトラに贈り、復旧された。しかし、三世紀後半頃から、次第に破壊され、ローマ皇帝テオドシウス一世治下の 三九一年、キリスト教徒の手によって破壊されてしまった。アラビア人が六四一年にこの地を占領した際には既になく、現在では、かつてあった正確な位置も不明である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○白髮をかくすので髮の形などにかまつてゐられない 三十は皺 四十は白髮

《10-15》

○母娘に聟をとり 聟に娘はすぎものと言ふ 娘死す 聟に後妻をとる 今度は聟にすぎものと言ふ

[やぶちゃん注:これは同様の話を読んだことがあるのだが、思い出せぬ。思い出し次第、追記する。]

 

○手に黑子あり 天才か 盜癖か

○睫毛ぬき 眶赤し

[やぶちゃん注:「眶」は「まぶち」などとも読み、「瞼(まぶた)」に同じい。或いはより広く目の周囲を指す語ではある。]

 

○自轉車二臺 一臺は税關まで引いて來し故泥つき 税助かる 甘栗 紅茶 絹物 税かかる 珈琲 羅紗 かからず

○盲人姿勢を正し 點字本をよむ にやりと笑ふ

《10-16》

○鳥屋の人殺し 西川の話

[やぶちゃん注:「西川」芥川の晩年の義兄、実姉ヒサの再婚相手で弁護士であった西川豊(明治一八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)であろう。滋賀県生まれで、明治大学大法科卒。ヒサとの間に一男一女をもうけた(瑠璃子と晃。瑠璃子は後に龍之介の長男比呂志の妻となった)。大正一二(一九二三)年年初に偽証教唆の罪で市ケ谷刑務所に収監され(芥川龍之介はこの時の面会をシチュエーションとした小説冬と手紙と(昭和二(一九二七)年七月発行の『中央公論』)を書いている(正確にはその「一 冬」。現行では「冬」と「手紙」の二篇に分割されてしまっており、並べて読まれることがなくなってしまった。リンク先は旧全集をもとにした本来の形である)、弁護士を失権、更に昭和二(一九二七)年一月四日、西川の家が焼けたが、直前に多額の火災保険がかけられていたことから、彼の金目当ての放火とする嫌疑がかかって、取調べられたが否認、その直後に失踪して、身の潔白をたてるために死を選ぶという遺書を残して、二日後の一月六日、千葉県山武郡土気(とけ)トンネル附近で鉄道自殺を遂げた。彼の死後、彼には高利の借金があることが判明し、火災保険・生命保険などの処理のごたごたや、残された姉一家の生活などのため、芥川龍之介は東奔西走することとなって、肉体的にも精神的にも彼を消耗させた。この騒動は彼の自死に繋がる一つの副次的素因であったとも考えられている。]

 

○古い人形 老先生 兄 妹 弟大學生 子(女) 妹と兄 妹と兄と弟 妹と兄と弟と父、妹と兄と弟と父と子と

《10-17》

O「宣教師」

利根川口 アアネスト・グレン 西洋婦人 日本日曜學校の先生など三四人を別棟に住まはしむ その女の一人 或朝 井戸端に罎を洗ふ 罎亦昇天せんとす 川に近し 川中の船 漁(鰹)ある度に太鼓を打つ 或時 各國の女三人 集まり 讃美歌をうたふ オルガン マシマロに café 造酒屋の主人 朝鮮併合前 朝鮮にあり(事業さがし) 曰グレンは好いが アアネストはいけない

[やぶちゃん注:「アアネスト」不詳。日本でホーリネス教会(キリスト教プロテスタントの教派の一つホーリネス教団の教会)を立ち上げた宣教師にアーネスト・アルバート・キルボルン(Ernest Albert Kilbourne 一八六五年~一九二八年:明治三五(一九〇二)年来日)がいるが、アーネストは普通にある名であり、軽々に比定は出来ない。

「グレン」不詳。]

 

○ここは何と言ふんです 小石川アツパアトメントと言ふんです アツパアトメントと言ふのは何ですか? さあ 西洋のデパアトメントとは違ふんですか? 何でもデパアトメントと言ふのはものを賣る所ださうです

○君 お八重は處女ぢやないんだぜ (平然と)若樣 私も處男ぢやありませんよ 處男? 處男とは何だい? 女が處女なら男は處男ぢやありませんか?

[やぶちゃん注:以上の「君 お八重は處女ぢやないんだぜ」は旧全集でこの位置にあるものの、現存する原資料に見出せないものである。また、以下に、旧全集では、

   *

○僕はこれから噓をつくまいと思つたんだけれども人と話してゐると何時か噓をついちまふんだね。――私は滅多に本當の事はしやべるまいと思つたんです、けれども人と話してゐると何時かほんとの事を云つちまふんですね。

Contemporary authority ニ服スルハ危險ナリ。co. au. の高さ未定なればなり。山陽と木米。

   *

があるが、これは新全集の再検証によって、現状では次の「手帳11」の《11-1》及び《11-17》にあることが判っている。そちらで再掲し、必要な注は附す。

 以上を以って底本の「手帳11」は終わっている。]

 

芥川龍之介 手帳10 《10-5》

《10-5》

○おおフロリアンよ フロリアンよ わたしにおいしいお菓子をたべさせてくれたフロリアンよ(結句)

[やぶちゃん注:「フロリアン」ドイツ語・フランス語圏等の男性名の Florian(フランス語異形に Florent(フローラン/フロラン)もある)であるが、これは高い確率で四条後に出る当時のドイツ映画「ゲニーネ」(Genine:後注参照)のカール・メイヤー(Carl Mayer 一八九四年~一九四四年)の原作の、自死するヒロイン・ゲニーネのエンディングに近いシーンの原作の台詞ではないかと推測され、「フロリアン」は彼女に失恋して最後にやはり命を絶って彼女の遺体に斃れ伏す男性の主人公の名(Friseurlehrling Florianと考えてよいであろう。原作を知らぬので何とも言えぬが、後で挙げるリンク先の梗概から見ても、この「お菓子」とは人間の血液であると思われる。]

 

door―Palace of Sweet(gilded)

[やぶちゃん注:大文字になっているから、「扉」に記された館か部屋の固有名の記銘か。(「金鍍金(メッキ)された」)『甘き宮殿』。]

 

O Soldi. ナポリの民謠

[やぶちゃん注:「Soldi」はイタリア語で最も普通に使われる「お金」の意の単語だが、こんな題名の民謡はない。ナポリで有名な民謡と言ったら、「オー・ソレ・ミオ」(ナポリ語で単に「私の太陽」。「'O」は冠詞であって感動詞ではない)で、その綴りを誤ったものではなかろうか?]

 

○畫の中の女 足少し惡イ

[やぶちゃん注:もしこの「畫」というのが前に出、次に出る映画「ゲニーネ」(次注参照)の「映畫」の画面の中の女であるとすれば、ヒロインのゲニーネである。同作は今回、音楽英語単独字幕途中挿入You Tube 全篇映像Robert Wiene's "GENUINE A Tale of a Vampire" (1920)を見ることが出来たのであるが、彼女を演じた女優フェルン・アンドラ(Fern Andra)の演技は、特殊な演出によって、終始、カラクリ人形のような、ギクシャクした演技をしており、その異様な歩き方は、あたかも足が少し悪いのではないか? と思わせるものではある。]

 

○獨乙のゲニイネの中の主役フロリアン

[やぶちゃん注:これは一九二〇年に製作されたドイツ映画Genine(ゲニーネ:吸血鬼のように血液飲用嗜好癖を病んでいるヒロイン(映画の中での彼女の設定自体が女優である)の女性の名)で、「フロリアン」は彼女に恋し、破滅して行く主人公の男性 Florian である。奇体な梗概はサイト「Movie Walkerを参照されたいし、全篇動画も前条に注した通り、音楽附き英語挿入字幕のYou Tube Robert Wiene's "GENUINE A Tale of a Vampire" (1920)で見ることが出来る。この映画は、かのドイツ表現主義映画を代表する、私の偏愛する幻想的怪奇映画「カリガリ博士」(Das Kabinett des Doktor Caligari:「カリガリ博士の箱」 一九二〇年)の監督ロベルト・ヴィーネ(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)と原作カール・メイヤー(既注)の同じコンビで製作されたもので、「カリガリ博士」と同じく、強烈な表現主義演出が行われている。]

 

○三好の畫――春の野邊

[やぶちゃん注:当初、山水画をよくした日本画家三好雲仙(うんぜん 文化九(一八一二)年~明治二八(一八九五)年)かとも思ったが、「春の野邊」が正確な作品名だとすると、「三好」とは戦前のモダニズムの洋画家で当時は新進気鋭であった三岸好太郎(明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九三四)年)の姓名の略ではあるまいか?(実は私も三岸好太郎を「三岸」が言い難いから「三好」と短縮して記憶しているからである) 彼は大正一三(一九二四)年の第二回春陽展で「兄及ビ彼ノ長女」などを出品して春陽会賞を主席で受賞しているが(ここはウィキの「三岸好太郎の記載)、落合道人ブログの「画家たちの第一歩を伝える『中央美術』」の中にに、『時事新報』の当時の記事「米の配達しながら絵を勉強する人----二十二才の三岸氏 昨日春陽会賞の首席を占む」を引き(太字下線やぶちゃん)、

   *

 入賞者のうち最高点の三岸好太郎氏は北海道札幌の生れで本年二十二才の青年である。目下はキリスト教青年会の家庭購買組合に雇はれ、米の配達をやりながら苦学をつづけてゐる奮闘の士である。去年は「オレンヂ持てる少女」[やぶちゃん注:前年の第一回春陽展に出品して入賞した作は「檸檬持てる少女」が正しい。]出して入選し今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。同君は語る。「私は十三の時父を失って、それから上京し大野麦風さんの弟子になりましたが、間もなくそこを出て下谷郵便局員となり小林喜一郎君と一緒に働いてゐました。今は郵便局もやめましたがやはり同君と同じ宿にゐて一緒に絵をかいてゐます。今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。

   *

とあるからである。手帳の時制的にも違和感がない。]

 

○三角の肩かけ(赤)――女

[やぶちゃん注:これも或いは三岸好太郎の絵かも知れない。彼には知られた赤い服の女性の肖像画や赤系に服を塗った作品がしばしば見られるからである。]

 

○蒙古の子供カボチヤを食ふ 顏が黃いろくなる お前は南瓜を食つたね 鉈割南瓜

○塗料の職工の組長 ニッケル時計をぬすまれる失ふ(工場で) 易者に見て貰ふ 曰盜まれたり 年三十五六と云ふ 組長その後三十五六の職工に當つける 六年間變らず 人を介して了解を求むれどもきかず 組長曰一生言ふといふ 職工易者を恨む

○叔母 習字の甲上を障子に貼る 子一晩泣く

[やぶちゃん注:「甲上」教師の最高評点である。]

2018/01/29

芥川龍之介 手帳10 旧全集冒頭~《10-4》

 

芥川龍之介 手帳10

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月五日新潮社発行の「新文章日記1925 新潮社」(扉の記載。アラビア数字は顚倒しない横書)の右開きの日記帳。

 この原資料は現在、山梨県立文学館所蔵で、底本はそれを用いた岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻の手帳「十」を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。但し、一部に原資料にない箇所(他の旧全集の手帳にあるものは除く)があり(冒頭及び終りの方)、そこは旧全集で補填した(今まで通り、その箇所の句読点は除去した)。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《10-1》というように見開きごとに通し番号を附けた。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、本「手帳10」の記載推定時期を記していないが、使用されいる日記帳の上記の発行日から、自ずと閉区間は形成される。]

 

 

京都にて友禪や震災の時 鐵の買ひつぎ(屑)をし損(5000)をし 東京に出でて型を彫りながらやり 或友染屋に入り 主人の氣に入り 幹部になる 花見の時奴さんをまつ先にをどる(二時半より) ちやんとした着物を着てゐる(羽二重友禪の長襦袢 高貴職ひげあり 尻はしよりに鉢まき)

[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。「5000」は横転表記。]

 

○主人役割をきめ 或男には席をたのみ 或粹がつた男に藝者をたのませる その藝者來ず 或一人旦那 わたしがよんで來ましようかと言ふ いけない その男の顏がつぶれる そこへやつと singer 來る すぐをどる

[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。]

 

《10-1》

○某女元祿袖の着物を着るを褒める 相手曰そんな事をしては片身わけの時に困る 若き奧さん曰わたしは片身にする着物のない爲に死に切れない 相手曰わたしは××の叔母さんの片身に鼠のお高祖頭巾を貰ふ 當時の娘は皆紫色なりしかど ちりめん故それをかぶつた云々

○上根岸百十七 碧童生

[やぶちゃん注:以上の「○」二条分は旧全集には存在しない。因みに、最初の条の「××」には底本編者により、右にママ注記がある。

「碧童」小澤碧童。]

 

《10-2》

○顏に腫物出來 醫者へ行く 醫者切るも泣く その爲に學校を休み 後出る かへる 母曰何ぼお醫者でもあんまりだとて泣く おのれも泣く その爲に學校を休み 後出る 先生出席簿をよみ 返事に驚き「ああ 出てゐるんですか」と云ふ 又「御飯粒がついてゐます」と云ふ 万創膏を少々はれる也

○母産婆の稽古に行き 二人きり故 子供學校よりかへるも母なし 且戸じまりしてある故 雨天にはシネマヘはひる 成績惡し 自習學校に一圓 家庭教師に六圓也 「どうか中學へあげたい」と云ふ 始め受持の教師に家庭教師にたのむ 受持 いけないと云ひ 他の教師にたのむ(小學校教師に家庭教師組合あり)禮は? 五六圓と答ふ一週に一時間づつ三度 先生怠ける その外につけ屆をする 先生座蒲團を持つて來いと云ふ 拵へて行く

《10-3》

○女曰 お醫者樣がさういふ事は(氣の違ふ事)月經の時にあると云ひました その女はもう月經もありとは思はれぬ 黃面なり(半年 or 二年にて癒る) その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す 母これを惡魔の同類とし追ひまはす 子供泣いて二階に上る 母も二階に上る 後にその事を話して曰 向うは泣いてゐたんですが こつちには近眼故見えなかつた 發狂中は夫も子供も憎し 且彼等の罪惡を犯す樣見ゆ 故に彼等を責む 後にその事を話して曰 それでもよくわたしを答めずに置いてくれた

[やぶちゃん注:「その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す」旧制高校は敗戦前には女子は受験出来なかった(旧制高校の廃止(新生大学への切り替え)は昭和二四(一九四九)年であったが、敗戦後からこの間で幾つかの旧制高校で女子の入学を受け入れてはいる)。]

 

○度々話せし發狂中の事故誰も聞くものなし 父(○)はトランプの獨り遊びをなし居る 突然歌をうたひ始む 「ホントニソノ通リダ」と獨語す 父曰よくそんな事を覺えてゐるね

[やぶちゃん注:「父(○)」は総て本文そのまま(ルビではない)。]

 

○二十四型の時計ナンゾトラナイ 顏ニハサウ言ツテヰル

[やぶちゃん注:「二十四型の時計」不詳。文字盤が倍の二十四時間表記になっていて、短針が一日で一回りする時計のことか? 現在も存在する。]

 

○子に 諏訪へ來て氷すべりせよ 湖水はあぶなければ裏の田畝に氷はる故そこへ來てせよ 官權もそこでやる

《10-4》

○結婚前の娘と母とのヒステリイ

○原始 オケコケ

[やぶちゃん注:「オケコケ」不詳。]

 

○祇園女御 出雲のお國 安南の最後の日本人(海外の日本人)

[やぶちゃん注:「祇園女御」(生没年不詳)平安後期の女性。出自未詳。祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子惟清の妻という説もある。白河院の下級官女として仕えていたのを見出され、院の寵愛を得る。長治二(一一〇五)年、祇園社の東南に阿弥陀堂を建てて盛大な儀式を営み、堂を邸宅とした。女御宣旨は下らなかったが、「祇園女御」と通称され、「東御方」「白河殿」とも呼ばれて権勢をふるった。長治元(一一〇四)年頃、藤原公実の娘璋子(しょうし:鳥羽天皇の后で崇徳・後白河両天皇の母待賢門院)を養女に迎え、白河法皇の養女として育んだ。天永二(一一一一)年、仁和寺内に威徳寺を建立して晩年の住居とした。「平家物語」には平清盛を、忠盛に下賜された女御の生んだ白河法皇の落胤とする説があるが、信憑性は薄い。正盛・忠盛父子が女御に取り入って(女御は永久元(一一一三)年に正盛の六波羅蜜寺で一切経供養を行っている)、白河法皇に接近し、官界へ進出したことと関係するか(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「安南の最後の日本人」阿倍 仲麻呂(文武天皇二(六九八)年~宝亀元(七七〇)年)ことか? 遣唐の留学生であった彼は、何度も帰国を試みるが、失敗し、その際に安南(ベトナム)にも漂着しており、その後、帰国を断念して唐で再度、官途に就き、七六〇年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として、ベトナムに赴き、総督を務め、七六一年から七六七年までの六年間も、ハノイの安南都護府に在任している。]

 

○神風連(福本日南)

[やぶちゃん注:「神風連」既出既注

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年はジャーナリスト・政治家・史論家。ウィキの「福本によれば、勤王家の福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれた。本名は福本誠。司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で原敬・陸羯南らとともに退校処分となった。その後、『北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年、同じ『南進論者である菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、翌明治二十二年には陸羯南らと『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという』明治二十四年には、発起人の一人となって『アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立』、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』明治三八(一九〇五)年、『招かれて』、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』、二年後の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し』て当選した。一方、同年に「元禄快挙録」の連載を『九州日報』紙上で開始している。これは『赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が』、「忠臣蔵」の『巷説・俗説を排して』、『史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の』「忠臣蔵」の『スタイル・評価を確立』したものとされる。彼には大正五(一九一六)年実業之日本社刊の「淸教徒神風連」という著作があり、芥川龍之介のこれはその本のメモランダである可能性が高いと思う。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その4) / 由井正雪~了

 

 由井正雪は、駿河の國旅籠屋梅屋庄右衞門といふものゝ方にて、七月廿五日、早天に障子を開(あけ)、東武の方を詠けるに、江戸に當(あたり)、黑雲一村(ひとむら)、眞黑に立(たち)、一天をつゝむ。しばらく有(あり)て風に吹(ふか)れ、四方へ散行(ちりゆ)けるをみて、障子、引立(ひきたて)、内へ入(いり)、水仕(みづし)の者の釜より飯を移(うつし)けるが、煙の結ぼふれ、其氣のくろく座中に滿(みち)けるを、正雪、みて、元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)三通みち、氣を鎭(しづめ)、是をみて、則(すなはち)、熊谷三郎兵衞・鵜野九郎兵衞・玉井半七・星崎岩鐵・原田次郎右衞門を召集(めしあつめ)、正雪、申けるは、

「我、忠彌を殺さずして、此謀叛、顯(あらはれ)候。東武に一村(ひとむら)の雲氣、立(たち)候を、考へみるに、忠彌、からめられ候に疑なし。後悔、今更かへるべからず。只今、討手の向ふべし。各(おのおの)、此時、臆病を働き、后(のち)の笑ひを取(とり)玉ふな。露と成(なり)煙と成(なる)も、過去遠々の因果なり。臆し給ふな。」

と諫立(いさめたて)、頭(かしら)を剃(そら)せ、身を淸め、裝束改め、香(かう)をとめ、謀叛往返(わうへん)の書通をやき捨(すて)、一通、書置、認(したため)、料紙に添(そへ)、床(とこ)に置(おき)、討手(うつて)の來(きた)るを待居(まちゐ)たり。

 正雪が討手に駒井右京進、被仰付(おほせつけらる)。

 右京進、早馬にて七月廿五日八(やつ)時分、駿河缺付(かけつけ)、御城代大久保玄番頭(げんばのかみ)、町奉行落合小平次より相談致し、旅籠町觸(ふれ)を𢌞し、旅人を押置(おしおき)、正雪人形(ひとがた)を以て改め玉ふに、梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ、駒井右京進、正雪かたへ人を遣はし、

「江戸表にて御家人を切殺(きりころし)、此地隱れ居(をり)候者、有之(これあり)。きびしく御詮儀にて候。其者、手疵(てきず)負(おひ)候間、改申(あらためまうす)。町役所出(いで)られ候樣に。」

と被申越(まうしこされ)しかば、正雪、兎(と)かく難澁して、其夜も既に明(あ)ければ、大久保玄番頭、聞へたる荒人(あらびと)なれば、大(おほき)に怒りて、

「天下に對し、大事の囚人を斯(かか)る手延(てのび)の詮義を仕(つかまつり)、萬一、取逃(とりにが)して如何可仕(いかがつかまつるべき)。併(しかし)、紀伊大納言殿御家來と申(まうす)を利不盡に搦取(からめとり)候も麁忽(そこつ)にて候。善惡、我等、罷越(まかりこし)、對面仕(つかまつる)。其上にて埒(らち)明可申(あけまうすべし)。」

と、足輕、大勢、召連(めしつれ)、梅屋方へ立越(たちこし)、申入(まうしいれ)られけるは、

「此度(このたび)、武州にて天下對し、狼籍者、有之。依之(これによつて)、度々、町役所出られ候樣に申越候へども、兎角に出(いで)られず候。尤(もつとも)不審にて候。大久保玄番頭罷越候上は、御のがれ有間敷(あるまじく)候。御出(おいで)、御對面候へ。」

と、あらゝかに申入られける。

 正雪、是を聞て、

「さらば、出(いで)て對面可仕(つかまつるべし)。」

とて、練(ねり)に桃色の裏、付(つけ)たる袷帷子(あはせかたびら)、菊水の紋所、伏縫(ふせぬひ)にしたるを着(ちやく)し、唐綾(からあや)の帶を前に結び、金龍(きんりやう)の目貫(めぬき)打(うつ)たる九寸五分の小脇差を指(さし)、杖を突(つき)、路次下駄(ろじげた)をはき、郭善坊(くわくぜんばう)とて、丈六尺餘(あまり)、面(つら)赤く、眼(まなこ)大きく、口廣(ひろき)、大力(だいりき)の入道に刀を持(もた)せ、其外、宗徒(むねと)の剛勇のもの、十人餘(あまり)も前後を圍(かこま)せ、閑(しづか)に立出(たちいで)、大久保どのに對面し、

「我等事、紀伊大納言殿家來に星崎玄正と申ものにて候。先々(まづまづ)、被仰聞(おほせられきこえ)候狼籍者の儀、家來共(ども)迄、詮義仕(つかまつり)候に、手疵負(おひ)候もの、無之(これなく)候。若(もし)疑敷(うたがはしく)思召(おぼしめし)候はゞ、爰(ここ)にて、銘々、御改め候へ。」

と申ける。

 玄番殿、被申けるは、

「天下の大法にて、手疵の事は兎も角もにて候。玄番罷越候上は御供可仕。御病氣にても、苦(くるし)からず、籠にて御出候へ。町の前後をば足輕を以て十重廿重(とへはたへ)に取かこみ申候。天上り地をくゞる神變も候はゞ存ぜず、人間の所爲(しよい)にて叶(かなふ)まじ。覺悟御究め候へ。」

と申さる。

 正雪、笑(わらひ)て、

「御尤にて候。病氣にて候へば、籠の通る程、道を御明(おあけ)下され候へ。」

とて内へ入、

「もはや、遁れぬ所にて候。各々覺悟候へ。」

とて、盃を出(いだ)し、最期の酒盛を始めける。

 郭善坊に盃をさし、

「御身、一度、出家得脱(とくだつ)の佛身也。介錯、賴入(たのみいり)候。死出(しで)の山の魁(さきがけ)仕(つかまつり)、各(おのおの)進(すすみ)候へ。」

とて、氷の如くなる小わきざしを拔(ぬき)て、左の腰突立(つきたて)、右一文字に押𢌞(おしまは)し、首、さし延(のべ)ければ、郭善坊、透(すか)さず、首、打落(うちおと)す。

 殘る者ども、

「後(おくれ)じ。」

と、肌、押脱(おしぬぎ)、腹を切(きる)も有(あり)、差違(さしちがへ)、おもひおもひに念佛題目を唱(となへ)、算(さん)を亂して重り臥す。

 此有增(あらまし)、表に扣(ひかへ)し足輕ども、聞付(ききつけ)て、

「すはや、自がいをするは。搦捕(からめとれ)。」

と、戸、押明(おしあけ)、押破(おしやぶり)、我先にと込入(こみいり)けるが、正雪、兼て扉をかすがいにて強く打〆(うちとめ)、細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)、たゝみ、ひしをさし、容易(たやすく)込入事、ならず。

 見ながら、自害をとげさせける。

 則(すなはち)、各(おのおの)首切(くびきり)、酒にて洗ひ、正雪を始め、徒黨の奴原(やつばら)、駿河阿部川原にて獄門にかけさせさらせり。

 其ころ、狂歌、

  正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり

 

[やぶちゃん注:「元享利貞(げんかうりてい)の要文(えうもん)」「元享利貞」(げんりこてい)とは「易経」で乾(けん)の卦(け)を説明する語で、「元」を「万物の始・善の長」、「亨」を「万物の長」、「利」を「万物の生育」、「貞」を「万物の成就」と解して、天の四徳として春夏秋冬・仁礼義智に配する。但し、それを「三通みち」というのはよく判らぬ。先ほど見た江戸の空の黒雲と、室内の黒い湯気と煙の中に、その印(シンボル)が三つも満ち満ちているのを幻視したとでも言うのだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「玉井半七」不詳。

「星崎岩鐵」不詳。

「原田次郎右衞門」不詳。

「香(かう)をとめ」薫じていた香を消しであろう。後で衣裳改めるので、香を焚き染めたでは、私はおかしいと思う。

「謀叛往返(わうへん)の書通」謀叛企画のために諸方との往復の書簡類。

「料紙に添(そへ)」「認(したため)」た「書置」を書いた余りの紙で包んだものか。

「駒井右京進」不詳。甲斐武田氏の旧臣に同名の者の名を見出せるから、その末裔かも知れぬ。

「八(やつ)時分」午後二時頃であろう。

「缺付(かけつけ)」「驅けつけ」。

「大久保玄番頭(げんばのかみ)」当時の駿府城代大久保忠成(在職:寛永一〇(一六三三)年~明暦二(一六五六)年)であろうか。「絵本慶安太平記」を見ると、例の大久保彦左衛門忠教(ただたか)の弟とし、この時、七十九歳とするが、本当かどうかは確認出来なかった。

「町奉行落合小平次」旗本。駿府大手組奉行(寛永一七(一六四〇)年就任)。「川崎市立博物館だより」第三十三号(PDF)で、彼へ宛てた徳川秀忠の知行宛行(あてがい)朱印状(知行地の割り当てと、その権利保障をした文書)の画像と解説が見られ、その解説の最後に正雪一党の捕縛の事実も載る。

「人形(ひとがた)」人相書き。但し、絵ではなく、特徴を述べた文書である。絵はテレビの時代劇の真っ赤な嘘である。

「梅屋庄右衞門方の、人體書(にんていがき)、正雪に究(きはま)りければ」同も文章としてはしっくりこない。意味は「梅屋庄右衞門方の人(者)、人體書(にんていが)きの通りにて、正雪に究(きは)まりければ」で判る。

「兎(と)かく難澁して」のこのこ出て行っては、抵抗も出来ず、ただ捕縛されるだけだからである。

「伏縫(ふせぬひ)」絵革と革を突き合わせて紐状に縫ったものをかく称するが、これは非常に手間の掛かるもので、江戸時代ではそのように見せた、二本の捻り糸を並べて縫いつけたものを言うようである。

「九寸五分」約二十九センチメートル。「鎧通し」の別称でもある。

「路次下駄(ろじげた)」露地下駄(この場合は歴史的仮名遣は「ろぢげた」となる)。雨天や雪の場合に露地(茶室の庭)を歩く際に履く、柾目の赤杉材に、竹の皮を撚った鼻緒を付けた下駄。

「郭善坊(くわくぜんばう)」不詳。

「六尺餘(あまり)」一メートル八十二センチメートルほど。

「星崎玄正」出まかせの名であろう。

「人間の所爲(しよい)にて」は遁るることは「叶(かなふ)まじ」。

「差違(さしちがへ)」るも有り。

「算(さん)を亂して」占いの算木を乱り散らした如く、入り乱れて。

「自がい」「自害」。

「かすがい」ママ。「鎹(かすがひ)」。木製のものを相互に繋ぎ止めるために打ち込む両端の曲がった大釘。

「細引(ほそびき)にて繩の網を張(はり)」周囲の部屋に無暗矢鱈、縦横無尽に張り渡したのである。侵入を困難にさせる賢い方法である。

「たゝみ、ひしをさし」「疊」に「菱を刺し」。忍者のアイテムでお馴染みの鉄菱(てつびし)であろう。

「見ながら、自害をとげさせける」ただただ見物するばかりで、彼らの思う通りに、自害を遂げさせてしまったのであった。

「駿河阿部川原」駿府城西近くを流れる安倍川の河原。

「正雪は元か紺屋てありけれはこくもんふりも見事なりけり」特異的に手を加えず、底本通りに示した。整序すると、

 正雪は元が紺屋(こうや/こんや)てありければ獄門振りも見事なりけり 

であるが、何を掛けているのか(「こんや」と「ごくもん」)私にはよく判らぬ。単に血染めの梟首の様か或いは、染色作業の何かと関係があるか。なお、現在も静岡県庵原郡由比町由比に「正雪紺屋」として生家が現存し、今も縁者が営んでいるとこちらにある(地図附き)。] 

 

 斯(かく)て八月十日、忠彌を始(はじめ)、謀叛の輩(ともがら)、妻子一族殘らず、武州鈴森にて磔(はりつけ)に行(おこなは)るゝ。

 忠彌、三十七歳也。

 磔に行はるゝ時、次々のもの迄も念ごろにいとま、こひ、禮を伸(のぶ)。辭世に、

 

 雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ

 

[やぶちゃん注:辞世の前後は一行空けた。

「次々のもの迄も」彼の後に処刑される同志及び妻子・母並びに連座させられた親族の一人一人にまでも。

「雲水の行衞も西の空なれはたのむ甲斐あり道しるへせよ」やはり底本のままに示した。整序すると、

 雲水(くもみづ)の行衞(ゆくへ)も西の空なればたのむ甲斐(かひ)あり道しるべせよ

別に「雲水」を音読みしてもよいが、硬い気がする。] 

 

 或説に、丸橋、召捕(めしとら)れ、品川へ引(ひか)るゝ折、忠彌は、はな馬にて、其跡より、だんだん、妻子同類引渡(ひきわたさ)るゝに、至(いたつ)て幼き童部(わらはべ)どもをば、切繩を結び、首にかけさせ、手に風車(かざぐるま)などの遊(あそび)物を持(もた)せ、穢太(ゑた)ども、肩車にのせ、母親どもの乘(のり)し馬の脇付添(つきそひ)參り候。外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまりへ、丸橋が馬の、先(まづ)のぼり參り、屆きしかども、跡の紙幟(かみのぼり)は、いまだ、糀町土橋邊やうやう見へたり。

「斯る大勢の罪人、引晒(ひきさ)らされし事も、前前(まへまへ)、なかりし。」

と見物の諸人、申けると也。

 忠彌が、品川表(おもて)にて、馬より抱卸(だきおろ)されける警固の者共禮を云(いひ)、少も臆するけしきはなかりける。

 磔柱叢取付られ、柱、おし立(たて)ける折(をり)、忠彌、高聲(かうしやう)に念佛申けるを、母、顧(かへりみ)て、頻(しきり)にむせび入(いり)、淚を流しけるを、忠彌が女房、是を見て、母の心中、押(おし)はかり、悲しくや思ひけん、母に申樣(まうすやう)、

「此世は假の宿(やどり)にて、永き來世こそ大事にて候。何事もおもひ捨(すて)玉へ。」

と目を塞き、

「御念佛、御申(おんまうし)候へ。」

とて其方(そのはう)は念佛を申(まうし)、母にも勸(すすめ)ければ、母、打(うち)うなづき、念佛を申(まうし)けるといへり。

 母子恩愛の情は、かゝる大惡人を子に持(もち)、そのあらき浮目(うきめ)に逢(あひ)ける。「子の善惡は父母の教(をしへ)による」といへば、子の父母たる人、貴賤にかぎらず、心得有(ある)べき事共(ども)也。 

 

 丸橋かかゝるしな川なりけれは安房上總まていひ捗るかな 

 

[やぶちゃん注:「はな馬」「端馬」。ここは引き回しの先頭の馬の意。

「穢太(ゑた)」差別意識から「穢多」の字を当てた、中世以降、賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制では、民衆支配の一環として非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理や、ここに見るように罪人の処刑や見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや河原などの特定の地域に居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)の注を参照されたい。

「外櫻田(そとさくらだ)」外桜田門(現在の桜田門)周辺。日比谷堀・桜田堀と外堀に挟まれた範囲で、武家屋敷が立ち並んでいた。もともとは東京湾の入江であったが、文禄年間(一五九二年~一五九六年)に江戸城西丸造営で生じた大量の残土で埋め立てられた。江戸時代を通じて諸大名の屋敷地となった。国立国会図書館解説を使用させて戴いた。この部分「外櫻田(そとさくらだ)外(そと)、馬どまり」と一応読んだが、底本は『外桜田外馬(そとさくらだそとうま)とまり』であって、これ全体が地名や位置名を指しているかも知れぬ。よく判らぬ。ただ、「のぼり參り、屆きしかども」とあることから、この場所が周囲からは有意に高い丘状になっていたことが判る。だからずっと後ろ、列の最後の幟(次注参照)が、遠望出来たのである。

「跡の紙幟(かみのぼり)」後尾に掲げられた罪状などを書いた(と思われる)市中引き回しの紙製の幟(のぼり)。

「糀町土橋」半蔵門附近か。そこなら直線でも凡そ一キロメートルは離れている。引き回しの行列の異様な長さ、また、それだけ多量の処刑者がいたことがよく判る。八月十日に一味とその親族三十五人の処刑で一件は落着したと、小学館の「日本大百科全書」にはあり、同じ記載には正雪が計画に引き入れた浪人の数は二千人と伝えられている、とある。この時、丸橋忠弥とともに鈴ヶ森刑場で処刑された江戸工作担当のメンバー(他に小塚原刑場でも処刑されている)は後に出る「丸橋忠彌」によれば、全部で『二十六人』とある。]

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その3)

 

 正雪は七月廿二日、

「駿河の久能の御城を乘取(とつとら)ん。」

とて、宗徒(むねと)の者ども、大勢、先達(さきだつ)て登(のぼ)し、其身はかごに乘(のり)、わづか供人(ともびと)二十人斗(ばかり)召連(めしつれ)、東空[やぶちゃん注:ママ。「東雲」(しののめ)の誤字か。]に東武を立(たち)、駿河へ下(くだる)とて、神奈川の宿外(しゆくはず)にて鵜野九郎兵衞を招(まねき)、

「忠彌は武勇の者なれども、其氣質、物に忍(しのび)ず、短慮未練にして、大功、とげ難し。汝、東武に忠彌を密(ひそか)に差殺(さしころ)し、後難を除(のぞく)べし。はやはや、急げ。」

と申付(まうしつく)。

 九郎兵衞、聞(きき)て、

「忠彌は四天八勇の隨一にて候。かの忠彌を、今、故(ゆゑ)なく殺(ころし)候ては味方、甚(はなはだ)疑(うたがひ)を生じ、返忠(かへりちう)のものも候わん。其上、武州にて、又、誰(たれ)か大將の人と成(なる)。此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて、先(まづ)、駿河へ御登(おのぼり)候て、今度の大望(だいまう)をとげ候へ。」

と、熊谷三郎兵衞・九郎兵衞、とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「是は紀伊大納言殿の家來由井正雪と申(まうす)者にて候が、長病(ちやうびやう)にて紀州へ罷登(かまりのぼ)り候。乘打(のりうち)御免あるべし。」

といひければ、「苦(くるし)からず。御通り候へ。」

とて相違なくかごを通ける。

 夫より、正雪は駿河の府中の旅籠町梅屋庄右衞門といふものの方へ落着(おちつき)ける。

[やぶちゃん注:「鵜野九郎兵衞」正雪門人の中でも高弟で大将格。鵜野九郎衞門。

「物に忍(しのび)ず」冷静に期を見ることが出来ず、やたらに血気に逸り、肝心なる忍耐が出来ない。

「四天八勇」仏法を守護する四天王・(天龍)八部衆に掛けた勇猛なメンバーの名数。

「返忠(かへりちう)」裏切ること。

「此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて」この度(たび)の世を覆す大事を成すを支えるに相応しき者は、かの丸橋忠也弥をおいては、他に御座らぬと存ずればとて。「は」は「取り立て」(強意)の係助詞と採り、濁音化しない。

「熊谷三郎兵衞」浪人。由比正雪の乱に参加し、加藤市右衛門とともに、京都二条城奪取計画を担当したが、乱の未然露見によって逃亡、同慶安四年七月二十九日、江戸で自殺した(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「九郎兵衞」彼の弟か。

とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、

「乘打御免」病者であるから、駕籠から降りずに、乗ったままで関所を打ち越す(通過する)ことを許す(許してもらう)こと。

「梅屋庄右衞門」この宿「梅屋」は実に徳川頼宣の定宿であった。]

 

 爰に正雪が徒黨隨一奧村八郎右衞門と云(いふ)もの有(あり)けるが、親(したし)き友に十時醉龍子(とときすいりやうし)といふ隱居あり。此者、八郎右衞門方へ來(きたり)、語(かたり)けるは、

「我、先夜【七月九日なり】、天文をみるに、一星(いつせい)、月の正東(しやうとう)に出(いで)て月中(げつちう)を直通(ぢきつう)にし、寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日戌の刻、斯(かか)る天變有けるが、肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り、其上、賊星(ぞくせい)、盛(さかん)にして、直(すぐ)に主星を犯す。不思義成(なる)事也。」[やぶちゃん注:【七月九日なり】は二行割注。]

と語(かたる)。

 奧村、密(ひそか)に正雪が事を語りければ、醉龍子、大(おほき)に驚き、奧村を禁(いましめ)て曰、

「今は天下泰平にして、萬民、堯舜(げうしゆん)の世に逢(あひ)て鎖(とざさ)ぬ御代(みよ)を樂(たのしみ)、百歳彌勒の代に及ぶ共(とも)、何者か天下を亂すべき。然るに況(いはんや)、正雪・忠彌が分ざいにて、かゝる大望、企(くはだて)候事、蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)に似たり。其上、當陽成院御在位也。公家に西八條殿おはしまし、武家には幼君御堅めとして井伊・保科(ほしな)の名將を始(はじめ)、御家は重代の御大名、雲の如く霞の如(ごとし)。昔の楠、再び生出(いきいで)るとも、容易には叶(かなふ)まじ。訴人に出(いで)て後(のち)の大難を遁れ玉へ。疾々(とくとく)。」

と進(すすめ)ければ、奧村、忽ち心を變じ、松平伊豆守殿へ訴人に出(いで)けるこそ、忠彌・正雪が謀叛は顯われける[やぶちゃん注:「わ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「奧村八郎右衞門」一般には訴人は奥村八左衛門と、その従弟奥村七郎右衛門とされる。但し、鏡川伊一郎氏のブログ「小説の孵化場」の「慶安事件と丸橋忠弥 5」その他のネット記載を見るに、この二人は実は幕府の間者であったと考えられ(八左衛門の兄奥村権之丞は当時の老中首座松平伊豆守信綱(後注参照)の家来であったからである)、のちに彼らは三百石を得て御家人となっており、鏡川氏によれば、彼らの兄奥村権之丞もこの慶安の乱未遂直後に百石加増されて千石の知行取りとなり、しかも公儀からは別に金十枚と『着物二かさねを貰っている。弟たちの密偵の成功報酬であったと思われる』と述べておられる。また、奥村八左衛門・七郎右衛門だけでなく、別に林理左衛門なる訴人もおり(同じく松平伊豆へ知人を通じて訴え出ている)、彼も実に五百石を貰っている、とある。「絵本慶安太平記」などでは丸橋が奥村に借金を願い出て、早急に融通してもらうために計画を打ち明けてしまってその謀略の内容に驚いた奥村が訴え出たと書かれているいるが、堪え性がないとは言え、丸橋の低劣軽率なる粗相とするそれは鏡川氏同様、受け入れられない。なお、変わった形での本件の公儀側への情報露見が、根岸鎭衞の「耳囊 卷之七 備前家へ出入挑燈屋の事」、及び、松浦静山の「甲子夜話卷之一 28 松平新太郎どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事」(孰れも私の電子化注。前者は訳もつけてある)に出る。短い上に面白いので、参照されたい

「十時醉龍子」不詳。この星占の老人を出す辺り、如何にも持って回った芝居染みた「ありがち」な展開で、却って作りものっぽい

「七月九日」慶安四年のそれは、グレゴリオ暦で一六五一年八月二十四日。

「寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日」「寛文十四年」は存在しない。寛文は寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日) 延宝に改元している。後の天草の乱勃発から、これは「寛永十四年丁丑」(一六四七年)の誤りであることが判る。こういう誤り自体が、このシークエンスの作話性を物語っている。因みに、以上の誤りなので注する必要もないが、延宝二年は甲寅(きのえとら)である。寛永十四年の二月八日はグレゴリオ暦で一六四七年三月四日

「戌の刻」午後八時前後。

「肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り」天草の乱は寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)に終っている。しかし、十ヶ月弱も後(同年は閏三月がある)の乱の予兆というのは、これ、今の感覚では、如何にも間が抜けているように私には思われる。

「賊星(ぞくせい)」彗星。流星。

「主星」陰陽五行説で、その日の干支の干と、他の五行の気との関係に於ける相生相剋の変化を星に置き換えた時に措定される十大主星の孰れかを指す。

「百歳」永い年月の意。

「彌勒の代」弥勒菩薩は釈迦入滅から五十六億七千万年後に地上に如来となって来臨し、衆生を救うとされる。

「分ざい」分際。

「蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)」孰れも「力のない者が自分の実力も顧みず、天下をとろうとしたり、強い者に立ち向かう無意味な行為を指す譬え。前者は、虫のカマカリが前足を振り上げて車の輪に向かおうとすることで、「蟷螂が斧を以って隆車に向かう」「蟷螂車轍に当たる」などとも言う。前漢の韓嬰(かんえい)「韓詩外伝」に基づく故事成句。後者は、蚊(か)や蜂(はち)が鉄製の牛の像(或いは本物の屈強な猛牛の角でもよい)の、その角を刺して血を吸おうとすること。

「陽成院」不審。当代の天皇は後光明天皇(ごこうみょう 寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年:反幕府的であったともされる)である(追号も後光明院)。彼の祖父で三代前の後陽成天皇(後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年:追号・後陽成院)とごっちゃにしてしまったものか。この辺りも、あってはならない誤りで、やはりこのシークエンスの作話性の証左とは言えまいか?

「西八條殿」不詳。識者の御教授を乞う。

「井伊」井伊家。当代の井伊家では、家督を譲ったものの、存命であった井伊直勝(天正一八(一五九〇)年~寛文二(一六六二)年:上野安中藩初代藩主で直勝系井伊氏初代)がいる。徳川四天王の一人井伊直政の長男で家康の信望も厚かった。

「保科」保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)会津松平家初代。信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫で第三代将軍徳川家光の異母弟。家光と第四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。

「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。]

 

 去程に、江戸中、騷動し、御老中御寄合ましまし、忠彌が討手には石谷(いしがや)將監殿、向(むかは)れける。

 此折(このをり)、忠彌、女房に向(むかひ)、申けるは、

「家は近き内、百萬石取(どり)の大名と成(なる)ならば、汝、御臺所と仰(あふ)がせ、大勢、侍女を召仕(めしつかひ)、榮華の春を迎(むかへ)、今の貧苦を忘るべし。賢者の戒に糟糠の妻は堂をくたさず、貧賤の朋(とも)をば捨(すつ)べからず、と云(いへ)り。汝、貧にして朝暮のくらしに侘(わび)ながら、老母に孝有(あり)て、我によく仕(つか)り。報恩の酬(むくふ)べき折、來(きたる)也。」

と、心よげに語(かたり)ければ、女房、泣(なき)て曰、

「貧は先(さきの)世の宿報也。然るに、御身、及(および)なき天下を望(のぞみ)、今にも此事顯(あらはれ)なば、御身は心からなれば、いか成(なる)荒き刑罪にあひ、釜に煎られ、牛裂(うしざき)に逢(あひ)給ふとも、是非もなき次第也。七十に餘(あまる)母人(ははびと)、常々まづしき渡世なれば、心に任せ給ふ御事もなくて、子故(ゆゑ)にうきめを見玉はん事、餘りにいたわしく候。急(いそぎ)て此惡事を思ひ留(とどま)り、訴人に出(いで)玉はゞ、天下に對しては大忠臣、母御(ははご)へは孝行の第一に候。今夜の内に心を飜し、善人となり給へ。」

とさまざまに勸めければ、忠彌、笑(わらひ)て、

「大丈夫といふ者は、生(いき)て公侯に封(ふうぜ)られずんば、死して五體を煎らるゝ共(とも)、悔(くい)なかるべし。」

と云(いひ)ける。

 其詞(ことば)の未終(いまだをはらざる)に、捕手(とりて)の足輕、忠彌が家をおつ取卷(とりまき)、大竹を手々(てんで)にひらき、

「火事よ、火事よ。」

と呼(よばは)る。

 忠彌、竹の割るゝ音を聞(きき)て、帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)、障子、押明(おしあけ)、緣先へいでけるを、石谷殿の組の同心、間込彌右衞門、一番に走懸(はしりかけ)、

「無手(むず)。」

と組(くむ)。

 忠彌、

「はつ。」と思ひしが、

「忠彌に組(くむ)は氣健(けなげ)也。」

と、彌右衞門が元首(もとくび)をつかみ、押付けるを、彌右衞門、忠彌を懷(いだき)、緣より下へ落(おち)けるを、二番三番の捕手ども、すかさず大勢折重り、忠彌をからめ引居(ひきすゑ)ける。

 足輕ども、大勢、家の内へ込入(こみいり)ければ、忠彌が女房、申樣(まうすやう)、

「此家の内には只(ただ)自(みづから)と老母斗(ばかり)にて、靜(しづか)に御入候へ。」

とて、連判狀の有(あり)けるを、爐に入(いれ)、燒捨(やきすて)、髮を撫付(なでつけ)、我(われ)と後へ手を𢌞し、顏色も變せず、靜に繩をかけられける。斯(かく)て、母をも禁(いまし)め、三人、獄屋へ引(ひき)たりける。

[やぶちゃん注:丸橋忠弥の妻の健気さが如何にも哀れである。

「石谷(いしがや)將監」石谷貞清(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。本事件の一ヶ月前の慶安四年六月十八日(一六五一年八月四日)に江戸北町奉行に就任していた。但し、彼が従五位下左近将監に叙任されたのは同年八月十六日である。しかし、別に後代に書かれたものであるから、これは何ら、問題はない。

「堂をくたさず」底本では「堂」を「黨」(党)の誤字(右に補正注がある)とするが、意味は「堂(家・家門を腐(くた)さず」で通るように私には思われるので、字はそのままとした。

「うきめ」「憂き目」。

「いたわしく」ママ。

「大竹を手々(てんで)にひらき」逃走を防ぐためのバリケードではなく、後に見るように、竹を折り割って、火災の際、家屋が焼けて爆ぜる音を出すためのものであろう。

「帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)」妻と就寝しようとしたところであったか。

「間込彌右衞門」不詳。「まごめやゑもん」と読んでおく。

「無手(むず)」オノマトペイアに漢字を当てたもの。上手い当て字だ。

「元首(もとくび)」頸根っこ。

「からめ」「搦め」。]

 

2018/01/28

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 駒込の一人住い

 

     駒込の一人住い

 

 十二月に入ってから居士は寄宿舎を出て、本郷区駒込追分町三十番地に移った。自分で一戸を構えたのは、この時がはじめである。これより前十月二十一日の陸羯南(くがかつなん)翁宛の手紙に、下宿を探している旨を述べ、その条件を次のように記している。

[やぶちゃん注:「本郷区駒込追分町三十番地」現在の東京都文京区向丘(むこうがおか)二丁目の、この附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「十二月」明治二四(一八九一)年十二月。

「陸羯南」(安政四(一八五七)年~明治四〇(一九〇七)年)は政治評論家で新聞人。青森の生まれ。本名は中田実。紆余曲折を経て、明治一六(一八八三)年に太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた。この頃、友人加藤恒忠(安政六年~大正一二(一九二三)年は後の外交官・政治家。彼の三男忠三郎は子規の妹リツの養子となって正岡家の祭祀を嗣いでいる)の甥正岡子規の訪問を受けている。二年後には文書局が廃止されて内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの明治二一(一八八八)年の春に依願退職、翌明治二十二年二月十一日に日刊紙『日本』を創刊、紙上で日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開した。結局、この翌明治二十五年に隣りに移り住んで来た正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規は「生涯の恩人」と泣いた、と参照したウィキの「陸羯南」にはある。肺結核のため、満四十九歳で亡くなった。

 以下の引用は底本では全体が二字下げ。歴史的仮名遣なので漢字を恣意的に正字化し、前後を一行空けた。]

 

尤(もつとも)通例の下宿屋では不都合也。なるべく離れ坐敷の貸間にて少しは廣き處(二間あれば殊に宜(よろ)し)ほしく(本箱少々有之(これあり)候故六疊の間位にてはとてもはいり不申(まうさず)候)といふむつかしき注文に御坐候。それでふと思ひつき候は、明治十六年頃御寓居の團子阪の植木屋はよほど右の注文に相應するものかと存候故御尋申上候次第に御座候。乍御面倒(ごめんどうながら)右御曾寓(さうぐう)之在り所御御聞被下度奉願上(おききなされくだされたくねがひあげたてまつり)候。勿論右の處に限る譯にはなけれども閑靜なる處にて學校より餘り遠からざる處と存(ぞんじ)候故、團子阪かまたは當時御住居の根岸近傍よろしくと存候。恐れ入候へどももし右樣の場處御坐候はば御一報被下度奉願上候。

[やぶちゃん注:「御
曾寓(さうぐう)」かねてよりのお住まい。

 

 追分町の家へはどういう順序で入るようになったか分らぬが十月中から移転の意志があったことはこれで明であるし、翌年根岸に住むようになる前兆も已にここに見えているように思う。

 居士が閑静なところに下宿を探したのは、学校の勉強のためではない。小説を草せんがためであった。しかもこの時の小説は前年来の合作小説などと違って、直(ただち)にこの一篇を提げて世に問おうとしたのである。

 居士の小説に対する興味の変遷は、二十三年中藤野古白に与えた手紙に「少小より餘が思想の變遷を見るも龍溪居士に驚かされ春廼家(はるのや)主人に驚かされ二葉亭に驚かされ篁村翁に驚かされ近頃また露伴に驚かさる」とあるのに尽きているように思う。このうち最も居士に刺激を与えたのは春酒屋主人及(および)露伴氏で、前者の影響は「竜門」「山吹の一枝」などとなって現れたが、遂に大成するに至らなかった。露伴氏の影響は春廼家主人よりも更に強く深いものがあり、それが寄宿舎を出て小説執筆を決意する原動力になったのである。晩年この当時の事を回顧した「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」の中で、居士は次のように述べている。

[やぶちゃん注:「龍溪居士」矢野龍溪。既出既注。

「春廼家主人」坪内逍遙。既出既注。

「篁村」饗庭篁村(あえばこうそん 安政二(一八五五)年~大正一一(一九二二)年)は小説家・演劇評論家。本名は饗庭與三郎、別号に「竹の屋主人」。江戸文学の継承者。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を空けた。「天王寺畔の蝸牛廬」(ネット情報によれば、明治三五(一九〇二)年九月の『ホトトギス』掲載)は原典を確認出来ないので底本のまま載せた。]

 

そこで今までは『書生気質』風の小説の外は天下に小説はないと思うて居った余の考えは一転して、遂に『風流仏』は小説の最も高尚なるものである、もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬという事になってしもうた。つまり『風流仏』の趣向も『風流仏』の文体も共に斬新であって、しかもその斬新な点が一々に頭にしみ込むほど面白く感ぜられた。『風流仏』は天下第一となり、露伴は天下第一の小説家となり了(おお)せた。さすがに瘦我慢の余も『書生気質』以後ここに至って二度驚かされたわけである。

 それからは言うまでもなく露伴崇拝となってその『対髑髏(たいどくろ)』なども最もすきな小説のであった。これより後余は少し『風流仏』に心酔して熱に浮されたような塩梅で、どうか一生のうちにただ一つ『風流仏』のような小説を作りたいという念が常に頭の中を往来して居って、今まで小説には疎(うと)くなって居たものが遽(にわか)に小説中の人間となって、自ら立騒ぎたいほどの勢いであった。そこで一つの『風流仏』的小説を書くことが殆ど余の目的となって、それがためにいろいろの参考書を集めたこともある。それがためにわざわざ三保の松原を見に往ったこともあった。

 

 居士の『風流仏』に対する心酔は尋常でなかった。「わざわざ三保の松原を見に往った」というのは、「しゃくられの記」上篇の時を指すのであろう。居士はこの決意の下に『風流仏』的小説を書くべく、駒込に家を借りて筆を執りはじめたのである。広い家の中に動く者は居士一人しかない。表には「来客を謝絶す」と貼札し、十四畳の間には置火燵を中心として、足の踏み処もない位書物を出しひろげ、寂然(せきぜん)たる裡(うち)に思(おもい)を凝(こら)したのであった。

[やぶちゃん注:「しゃくられの記」上篇は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから全文が視認出来る。]

 この駒込の一人住いについては、あまり記されたものがない。漱石氏の談話の中に「追分の奥井の部内におった時分は、一軒別棟の家を借りていたので、下宿から飯を取り寄せて食っていた」とあるのが、僅にその生活ぶりを伝えているに過ぎぬ。「大將雪隠へ這入るのに火鉢を持つて這入る。雪隠へ火鉢を持つて行つたつて當る事が出來ないぢやないかといふと、いや當り前にするときん隱しが邪魔になつていかぬから、後ろ向きになつて前に火鉢を置いて當るのぢやといふ。それで其火鉢で牛肉をぢやあぢやあ煑て食ふのだからたまらない」という逸話もこの際のものである。

[やぶちゃん注:夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。しかし、原文の「ぢやあぢやあ」を「じいじい」(底本)に変えることは表記上、私は「あってはならないことだ」と考えるということは言っておかなければならない。これが仮に宵曲の仕儀だとすれば、彼の書誌学的態度は最低である。]

 この年十二月三十一日、虚子氏に与えた手紙に「小生やむをえざる儀に立ち至り現に一小説を書きつつあるなり。その拙なること自分ながらうるさく實は冬期休暇已來來客謝絶致候得どもそれだけに仕事は出來ず、一枚かいてはやめ半枚かいては筆を抛(なげう)つこと幾度といふことをしらず」とあるから、小説の方が進行せぬうちに、二十四年は暮れてしまったものと見える。

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その2)

 

 今年慶安四年辛卯(かのとう)四月廿日、大將軍家光公御他界の折を幸と悦び、正雪、忠彌が方へ來り申けるは、

「天の與ふる時節にて候。かねがねの大望、當七月廿六日曉を限りにおもひ立申(たてまうす)べし。某(それがし)、かねて御城の堀の淺深を探置(さぐりおき)候。丹波國より金掘(かなほり)を呼寄(よびよせ)、御城の水下を掘ぬき、御城へ死間(しくわん)を入(いれ)、二の鹽焇藏(えんしやうぐら)へ火を付(つけ)、御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし。其上、福原右馬介が孫福一鬼とて、能(よく)猿(さる)遣ふ者、有(あり)。此頃、密(ひそか)に道灌山へ猿廿疋程、集(あつめ)、火を付(つく)る事を敎(をしへ)候。此猿どもを大名衆の屋敷屋敷へ忍入(しのびいら)せ、火を付(つけ)させ申べし。又、七月廿六日は天ほう日と申(まうし)て、大風の吹(ふく)日にて候。又、江戶の町々へ、二、三百人の忍びを入(いれ)、諸所より火をかけ、虛空生(こくうむしやう)に燒立(やきたて)、江戸中の用水、玉川の水上(みなかみ)、とめ、事を闕(かか)せ申べし。又、鐵炮上手にて物馴(ものなれ)たる者ども、二、三百人程、火消裝束に出立(いでたた)せ、腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮を以て、御老中其外大名登城の節、撰打(えらみうちに)打落(うちおと)し、面立(おもてだち)たる大名屋敷へ、五十人、六十人、一組に組合せ、火炮(くわはう)鳴物(なりもの)を以て人の耳目を驚(おどろか)し、前後左右より亂入(みだれいり)、散散(さんざん)に切殺(きりころし)申さすべし。駿府の御城は、我(われ)、幾度か忍行(しのびゆき)、淺間山へ登(のぼり)、とくと、懸り場・引場(ひきば)迄の事、細(こまか)に見置(みおき)たり。乘取(のつとり)候に手間(てま)入(いり)候まじ。神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候。其家士、御當家を恨(うらみ)奉るよし承る。其上、駿河大納言忠長卿、爲差(さしたる)御咎(おとがめ)にてましまさゞるを、大將軍、神君へ申させ玉ひ、安藤右京亮へ御預(おあづけ)、寬永十年十月、御腹召させ玉へば、忠長卿御一門を御つぶし、品川辻門(つじもん)に被成(なされ)しを、京童(きようわらべ)、

『此門は亞相(あしやう)忠長樣御首の獄門のかわり也。』

と沙汰いたし候。加樣に、四民、背申(そむきまうし)候は、我等の幸(さいはひ)に候。我々、後(うしろ)だて、紀伊大納言樣の御名を借(かり)申べし。賴宣公は剛勇無雙の御大將也。世、以て、恐(おそれ)奉る事、唐の項王の如し。今日の敵は明日の味方となるもの也。久能山御城、乘取候はゞ、集置(あつめおか)れし金銀を以て、諸牢人召かゝへ申べし。必(かならず)、手配、違(たがひ)玉ふな。御身(おんみ)、勇(ゆう)は萬人に勝ㇾ候(すぐれさふら)へども、短慮、なるが第一の大疵(おほきず)にて候。此事、能能(よくよく)愼み給へ。」

とて、立別(たちわかれ)けるが、又、立歸り、又、申樣、

「唯今申述(まうしのべ)候通り、愼(つつしみ)候へ。當月廿六日を成納(なしをさめ)の大吉日と定(さだめ)、一時に事を斗(はかり)申べし。能々、徒黨の方の面々へしめし合(あはせ)候へ。」

迚(とて)立別ける。是は正雪が永き冥途の別(わかれ)なる。

[やぶちゃん注:「慶安四年辛卯四月廿日」一六五一年六月八日。

「大將軍家光公御他界」同日、病気のため、徳川家光は逝去している。

「七月廿六日」グレゴリオ暦九月十日。

「を限りにおもひ立申(たてまうす)べし」を以って予てよりの行動を実行に移そうと存ずる。

「御城」江戸城。

「死間(しくわん)」「孫子」の間者(かんじゃ:スパイ)の一種。潜入させるが、自分からわざと捕らえられて、偽(にせ)の情報を自白して相手を攪乱させる間者のこと。処刑され、生きて帰れないことが前提のスパイである。但し、もう少し広義に、噓の情報を巷に流し、それと同時に、同胞のスパイにもその偽情報を本当と信じこませて流し、結果的にそれを探査する敵のスパイを誑かす間者の意もあるようだ。

「鹽焇藏(えんしやうぐら)」煙硝蔵(焔硝蔵・焰硝蔵)。鉄砲弾薬の火薬庫。江戸城の安全性を考えて、和泉新田御焔硝蔵(現在の杉並区永福の明治大学和泉キャンパス。京王線の「明大前」駅は以前は「火薬庫前」と称した)と千駄ヶ谷御焔硝蔵(新宿御苑の南東端の貼り出した附近。ここ(グーグル・マップ・データ))の二箇所に配されてあった。

「御城内、晦闇(くらやみ)に致(いたし)候べし」江戸城周辺で二つの大火災が発生すれば発生すれば、飛び火や延焼を確認し易くするために、江戸城内の灯りは当然、ごくごく制限されるからであろう。

「福原右馬介」安土桃山時代の武将で大名の福原長堯/直高(ながたか/なおたか ?~慶長五(一六〇〇)年)か。初め、豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えた。福原右馬助を称した。後に馬廻衆。慶長二(一五九七)年で十二万石を得、府内新城へ転封された。後は豊臣秀頼に仕えていたが、慶長四(一五九九)年の石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められて、当時の五大老筆頭であった徳川家康により府内領が没収され、臼杵六万石のみの領有となった。翌年の「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、敗北、後に自刃した(一説に殺害されたとも。ここはウィキの「福原長堯」に拠った)。

「孫福一鬼」不詳。

「天ほう日」不詳。「ほう」の表記も不詳。識者の御教授を乞う。

「虛空無生(こくうむしやう)」四字で一語と見た。完全に灰燼に帰して、生きているものがないような状態。

「事を闕(かか)せ」消火活動が出来ないようにさせて。

「腰差短筒(こしざしたんづつ)の鐵炮」管打式短筒銃。現在の短銃・拳銃の類。所持していることが見破られ難い。

「撰打(えらみうちに)」選り取り見取りに。

「火炮(くわはう)」通常は大筒(大砲)であるが、ここは普通の鉄砲でよかろう。しかも、この場合、嚇しだから、弾丸を入れない空砲でも構わない。

「淺間山」この浅間山は駿府城西方直近にある静岡市葵区宮ケ崎町の現在の静岡浅間(せんげん)神社の後背地、現在の賤機山(賎機山)公園であろう。確かに(グーグル・マップ・データ)からなら、駿府城はよく見下ろせる。

「懸り場」舟の寄せ場をかく言うが、この場合は城壁等でとっ懸かって最も侵入し易い箇所の意であろう。

「引場(ひきば)」退却ではなく、ある程度、攻めた後に、一時、待つか、少し後退したと見せておいて、敵を待って再度、攻めるに都合の良い箇所の謂いであろう。

「神君御閉眼の後、兩加藤の大家(たいけ)を故(ゆゑ)なく御つぶし被成(なられ)候」近世史に疎いため、この家康逝去の際にお取り潰しとなった両加藤家というのが、誰を指すのか、全く判らぬ。お恥ずかしながら、識者の御教授を乞う

「駿河大納言忠長卿」(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)は秀忠の三男で家康の孫。母は浅井(あざい)氏。父母の寵愛を一身に集め、兄家光をさしおいて世子に擬せられたが、実現しなかった。元和二(一六一六) 年、甲斐に封じられ、寛永二(二五)年さらに駿河・遠江を加増されて五十五万石を領した。翌年八月には従二位大納言に叙任したが、寛永八年五月、乱行を理由として甲州へ蟄居を命ぜられ、翌年には上州高崎へ移されて二年後の同十年、高崎の大進寺で自刃した。

「大將軍、神君へ申させ玉ひ」この辺の言い方も判らぬ。家光が家康の御霊(みたま)に申し上げなさって、その御神霊の許諾を得、蟄居を命ぜられた、というのか。そもそもが幕府転覆を画策する由井正雪が、「大」将軍とか、「神君」とかいうのは、これ、変だと素人の私でも思うのだが?

「安藤右京亮」上野高崎藩第二代藩主安藤重長(慶長五(一六〇〇)年~明暦三(一六五七)年)改易となった徳川忠長を預かって、高崎城に幽閉した。

「品川辻門(つじもん)に被成(なされ)し」後の京童の洒落も含めて、意味が判らぬ。識者の御教授を乞う

「紀伊大納言」ウィキの「慶安の変によれば、『駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力』二十『余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげた』とある。

「久能山御城」戦国時代からあった山城。現在の静岡県静岡市駿河区根古屋で、久能山東照宮がある。(グーグル・マップ・データ)。以下の正雪の謂いを見るに、ここに家康の埋蔵金伝説でもあったのであろう。

「成納(なしをさめ)」絶対の祈願成就決定(けつじょう)の謂いか。]

芥川龍之介 手帳9 (4) / 手帳9~了

酸化炭素CO.2パアセント 薔薇色になつて死ぬ(窒息)

[やぶちゃん注:「2」は縦書なので全角で示した。この体色変化はかなり有名な死体変容として有名る。ただ、芥川龍之介の謂いは、一酸化炭素が密閉空気中に二%で死に至るという意味のメモのようだが、これでは即死・瞬殺である。ガス会社の「空気中の一酸化炭素濃度と吸入時間による中毒症状」のデータによれば、

0.04%:一~二時間で前頭痛や吐き気、二時間半から三時間半後に頭痛

0.16 二十分間で頭痛・めまい・吐き気を発症して二時間で死亡

0.32 五分から十分で頭痛・眩暈に襲われて三十分間で死亡

1.28 早ければ一分、長くても三分間で死亡

(因みに、リンク先には0.04%の分量は標準的な浴室(五立方メートル)に二リットルのペットボトル一本分の一酸化炭素を混ぜたほど、とある)。この猛毒性は、ヒトの血色素であるヘモグロビンが酸素よりも一酸化炭素と親和性が強いために、結びつき易く、急速に体内が低酸素状態になることによる。なお、このバラ色に美しく変色するのは、一酸化炭素と結びついたヘモグロビン(COHb)がピンク色を呈することに起因する(酸素と結び付いたヘモグロビンはオレンジ色又は朱色)。但し、貝毒による中毒死でも同様の症状が起こるので、断定は禁物。この手の毒物や中毒症状の話は私の得意分野である。]

 

○下瀨火藥 徹甲榴彈 魚雷

[やぶちゃん注:「下瀨火藥」(しもせかやく)は大日本帝国海軍軍属(技官)下瀬雅允(まさちか 安政六(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:工学博士)が実用化したピクリン酸(Picric acid:芳香族フェノール誘導体のニトロ化合物。水溶液は強力な酸性を示し、不安定で爆発性の可燃物質)を成分とする爆薬(炸薬(さくやく:爆弾などに詰めて爆発(炸裂)させるのに用いる火薬の一種で、本来は日本海軍で用いられた用語。地雷・砲弾・魚雷などに用いられる。これらの爆発の威力は炸薬がいかに速く燃焼するかにかかっており、性能を維持・向上させるために不可欠な要素となる反面、火薬の中でも信管以外によるいかなる衝撃や加熱によっても爆発しない鈍感な性質のものが理想とされる))。ウィキの「下瀬火薬」によれば、『日露戦争当時の日本海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。なお、大日本帝国陸軍では黄色薬と呼ばれていた』。『ピクリン酸は』一七七一『年にドイツで染料として発明され、その』百『年後に爆発性が発見された。猛烈な爆薬であるが、同時に消毒液としての効果もある。しかしピクリン酸は容易に金属と化学結合して変化してしまう』ため、『鋭敏な化合物を維持する点で実用上の困難があった。下瀬雅充は弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間にワックスを注入してこの問題を解決した』。『なお、日本海軍規格の下瀬火薬/下瀬爆薬は、ほぼ純粋なピクリン酸で』あった。『爆薬として用いた場合の爆速は』秒速七千八百メートル。『日本海軍は』明治二六(一八九三)年、『この火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。これは日清戦争』(一八九四年~一八九五年)『には間に合わなかったが、日露戦争』(一九〇四年(明治三十七年)~一九〇五年)『で大いに活躍した。海軍は』『、ただでさえ』、『威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な信管(伊集院信管)を用いて榴弾』(狭義には砲弾の種類を指す。爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散するように設計されている)『として用いた。敵艦の防御甲鈑を貫通する能力は不十分だったが、破壊力の高さと化学反応性(焼夷性)の高さから、非装甲部と乗組員に大きな被害を与えた』。明治三八(一九〇五)年五月二十七日の「日本海海戦」で『ロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬であ』った。『下瀬火薬は、メリニット『(一八八五年、爆薬の研究で知られるフランスの化学者フランソワ・ウジェーヌ・テュルパン(François Eugène Turpin 一八四八年~一九二七年)の発明で、純粋なピクリン酸とされている)『のサンプルを下瀬が分析し、純粋ピクリン酸を炸薬に用いるアイディアを得て、研究の末に国産化したものとされる』。『下瀬火薬が実用化された後に、フランスが「新型火薬」を日本に売り込んできた。フランスに派遣された富岡定恭は、「新型火薬」のサンプルの微量を爪の中にすり込んで持ち帰った。この微量のサンプルを分析した結果、下瀬火薬と同様のピクリン酸であると判明したという』。『下瀬が、下瀬火薬(純粋ピクリン酸)の試作に成功した後も、当時の日本の技術レベルでは手工業的な生産しかできず、量産は困難であった』(ピクリン酸は一般にはフェノールを濃硫酸と濃硝酸でニトロ化することで製造する)。明治三一(一八九八)年一月から一年間、『下瀬雅允は、ピクリン酸製造技術の導入のため、欧米を視察した。ドイツのグリーシャム社の元技師長であるバーニッケと会い』、五『万円の代価で、ピクリン酸合成工場設計図』二十『枚余、及びピクリン酸製造技術の提供を受ける契約を結んだ。しかし、代価の』五『万円は支払われず、バーニッケは』一九〇六年四月に『契約履行を迫る書簡を送り、下瀬はこれを受けて斎藤実海軍大臣に上申を行ったが黙殺された』とある。その後、『下瀬火薬は旧式化して一線を退くが、太平洋戦争で再び使用されるようになる。トルエンを原料とするトリニトロトルエン(TNT)が石油原料を必要とするのに対して、ピクリン酸は石炭酸(フェノール)を原料としていたため、極度の石油不足状態にあった戦時中の日本でも』、『石炭から作る事のできる下瀬火薬は問題なく製造できたのである。その多くは砲弾などの強い衝撃がかかる物を避け』、『九九式手榴弾などに使用されていた』。『下瀬火薬を使用する艦砲の自爆事故(膅発』(とうはつ:砲弾(榴弾もしくは榴散弾)が砲身内で暴発する事故のこと。)が相次いだ。これはピクリン酸そのものの欠陥ではなく砲弾に火薬を充填する技術の未熟さが原因ではなかったかと推測されている』。『ピクリン酸は鉄などの重金属と反応して非常に衝撃に敏感な塩を作る性質があるため、砲弾内部の漆とワックスにごくわずかでも隙間があって砲弾本体と触れると』、『自爆の危険性は激増することになった。欧米諸国では、この欠点を解消するため、ピクリン酸をアンモニウムなどアルカリと混合して塩にした』『爆薬を開発し』ている。また、『ピクリン酸は毒性が高い物質』でもあるため、『下瀬火薬は、のちにTNTや環状ニトロアミン系高性能爆薬』『に代替されることになった』。『下瀬火薬は、経年劣化により衝撃に対して過敏になる傾向があるため、旧日本軍の不発弾の取扱には細心の注意を要する』ともある。

「徹甲榴弾」徹甲弾の弾頭に比較的少量の爆薬を搭載し、装甲や障害物に突き刺さってから炸裂する弾丸。]

 

5%(酸素あれば15%)空氣より二倍半重し 舟澤山のトンネル破壞 工夫頭七日に七尺上へ行く(水をのむ) 草鞋を食ふ 酸素21%窒素79%鐵道官吏(四人) 技師腰に酸素(ボンボイ)(壓搾酸素)前の奴炭酸瓦斯中毒にかかる(それより前に大勢蠟燭などをつけて見物に入る故)

[やぶちゃん注:アラビア数字と「%」は総て横転半角。

「炭酸瓦斯」今度は二酸化炭素中毒のメモ。二酸化炭素中毒でも死に至る。濃度が三~四%を超えると、頭痛・眩暈・吐き気などを催し、七%を超えると、呼吸不全を起こして数分で意識を失う。この状態が継続すると、麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る。無論、芥川が言うように、酸素より重いから、低い位置に横臥して睡眠しているところに、多量の二酸化炭素を流入させれば、窒息死する(ドライアイスを使ってそれを密室で行って殺害するというダサい日本の推理小説を読んだ記憶がある。作者が思い出せない。思い出したくないくらい、ダサかった)。

5%」意識喪失の数値か。

「酸素あれば15%」前注通り、楽観的数値でダメ。

「空氣より二倍半重し」温度湿度によって変わるが、密度でなら、酸素原子の原子量は約十六、炭素原子の原子量は約十二であるから、酸素分子の分子量は三十二、二酸化炭素の分子量は四十四となり、一・四倍弱で「二倍半」はおかしい空気は大方、窒素で窒素は空気よりやや軽いけれども、それでも二酸化炭素は空気の一・五倍ぐらいにしかならないから、やっぱりおかしいぞ

「舟澤山のトンネル破壞」いろいろなフレーズで検索を試みるも、全く不詳。識者の御教授を乞う。

「七日に七尺上へ行く(水をのむ)」崩落した後、七日間かけて七尺(二メートル十二センチ地表方向へ掘り進んだという意味か。

「酸素21%窒素79%」乾燥状態で酸素は二〇・九四%、窒素七八・〇八%、他にアルゴン〇・九三%、二酸化炭素〇・〇三%他。

「(ボンボイ)(壓搾酸素)」ドイツ語の「Bombe」由来の「ボンベ」の音写か。ネイティヴの発音を聴くと「ボムベ」或いは「ボンボェ」と聴こえる。但し、ドイツ語の「Bombe」は「爆弾」の意味で、本来は圧搾した気体を封入する鉄製円筒の意は、辞書にはあるものの、現代になってから添えられたようで、全く並べて一緒に『アイスクリームを詰めたメロン形の氷菓子』というとんでもない意味が記されてある(「同学社版 新修ドイツ語辞典」一九七二年(初版)の一九七七年(七版))。因みに、英語では「oxygen cylinder bottle」である。]

 

Mustard-Gas(Iprelite). lewisite. ○五六時間後より 目とのどとひふ 淚 嚏 鼻汁 咳 血へど死ぬ 八時間後皮膚障害 粟粒位の火ぶくれ(火傷の如く痛む)一錢銅貨位になる 二日乃至四日死ぬ 5%15%重症(六箇月)

[やぶちゃん注:「Mustard-Gas(Iprelite). lewisite.」近代化学兵器として知られる、2,2'-硫化ジクロロジエチル(2,2'-Dichloro Diethyl Sulfide)という化合物を主成分とした、糜爛(びらん)剤(皮膚をただれさせる薬品)に分類される毒ガス兵器。硫黄を含むことから「サルファ・マスタード」(Sulfur mustard gas)とも、また、第一次世界大戦のベルギーのウェスト=フランデレン州のイーペル(オランダ語:Ieper・フランス語:Ypres:カタカナ音写:イープル)戦線で初めて使われたことから「イペリット」(Yperiteとも呼ばれる。芥川龍之介の「Iprelite」は綴りの誤り英語でも「Ipritで全く違うウィキの「マスタードガス」より引く。『主にチオジグリコールを塩素化することによって製造される。また、二塩化硫黄とエチレンの反応によっても生成される。純粋なマスタードガスは、常温で無色・無臭であり、粘着性の液体である。不純物を含むマスタードガスは、マスタード(洋からし)、ニンニクもしくはホースラディッシュ(セイヨウワサビ)に似た臭気を持ち、これが名前の由来であるが(他にも、不純物を含んだマスタードガスは黄色や黄土色といった色がついている為に、マスタードの名が付けられたという説もあ』り、『さらに皮膚につくと傷口にマスタードをすりこまれるぐらいの痛さという説もある)』。『実戦での特徴的な点として、残留性および浸透性が高いことが挙げられる。特にゴムを浸透することが特徴的で、ゴム引き布を用いた防護衣では十分な防御が不可能である。またマスクも対応品が必要である。気化したものは空気よりもかなり重く、低所に停滞する』。『マスタードガスは遅効性であり、曝露後すぐには被曝したことには気付かないとされる。皮膚以外にも消化管や、造血器に障害を起こすことが知られていた。この造血器に対する作用を応用し、マスタードガスの誘導体であるナイトロジェンマスタード』(nitrogen mustards)『は抗癌剤(悪性リンパ腫に対して)として使用される。ナイトロジェンマスタードの抗癌剤としての研究は第二次世界大戦中に米国で行われていた。しかし、化学兵器の研究自体が軍事機密であったことから戦争終結後の』一九四六『年まで公表されなかった。一説には、この研究は試作品のナイトロジェンマスタードを用いた人体実験の際、白血病改善の著効があったためという』。『マスタードガスは人体を構成する蛋白質やDNAに対して強く作用することが知られており、蛋白質やDNAの窒素と反応し(アルキル化反応』(alkylation)『)、その構造を変性させたり、DNAのアルキル化により遺伝子を傷つけたりすることで毒性を発揮する。このため、皮膚や粘膜などを冒すほか、細胞分裂の阻害を引き起こし、さらに発ガンに関連する遺伝子を傷つければ』、『ガンを発症する恐れがあり、発癌性を持つ』と言える。『また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出やすい』。一八五九年、『ドイツの化学者アルベルト・ニーマン』(Albert Friedrich Emil Niemann 一八三四年~一八六一年)『により初めて合成』された。『彼は皮膚への毒性を報告するが』、二『年後に』本剤の『中毒が原因と思われる肺疾患により死去』している。一八六〇年には『イギリスのフレデリック・ガスリー』(Frederick Guthrie 一八三三年~一八八六年)『も合成して毒性を報告している』。一八八六年、『ドイツの研究者ヴィクトル・マイヤー』(Viktor Meyer 一八四八年~一八九七年)『が農薬開発の過程で合成法を完成』したが、『彼はその毒性に手こずり、実験を放棄』している。一九一七年七月十二日、『第一次世界大戦中にドイツ軍がカナダ軍に対して実戦で初めて使用し、約』三千五百『人の中毒者のうち』八十九『人が死亡。その後、同盟国・連合国の両陣営が実戦使用した。大戦中のドイツ・フランス・イギリス・アメリカの』四『ヶ国での生産量は』計一万一千トンにも及んだ。一九四三年十二月には『イタリア南部のバリ港にて、アメリカの貨物船「ジョン・ハーヴェイ号」がドイツ空軍の爆撃を受け、大量のマスタードガスが流出し、アメリカ軍兵士と一般市民』六百十七『名が負傷、』八十三『名が死亡し』ている。『旧日本陸軍も「きい剤」の名称で、「マスタード・ルイサイト」(後注参照)を『保有していた』。『イラン・イラク戦争時、イラク軍はイラン軍および自国のクルド人に対し、マスタードガス、サリン、タブンを使用したと』も『言われる』。

lewisite」は同じく糜爛剤毒ガス兵器として用いられる有機ヒ素化合物「ルイサイト」ウィキの「ルイサイト」によれば、ルイサイトは即効性があることから、遅効性のマスタード・ガスと組み合わせ、「マスタード・ルイサイト」として使うことがある。繊維やゴムを透過する性質があるため、通常の防護服では防ぐことが出来ない。『皮膚、気道に直接接触すると』、『直ちに痛みと刺激を感じ』、三十『分以内に皮膚』が『発赤』し、十二『時間後に水疱が生じる』。『呼吸系に吸い込むと』、『胸が焼け付くような痛みと』、『くしゃみ』・咳・『嘔吐などを伴う。また、肺浮腫を引き起こして死ぬ場合もある』。さらに、『細血管透過性を亢進する作用があるため、血管内体液量減少、血液量減少、ショック、臓器鬱血が生じ、これにより消化器症状を伴った肝、腎壊死が起こる。 眼に触れると激しい痛みを感じ、直ちに洗浄しなければ視力を失う』。『アメリカ人の化学者ウィンフォード・リー・ルイス』(Winford Lee Lewis 一八七八年~一九四三年)『にちなんで名付けられた。ルイスは』一九一八『年に』、『この化合物の合成法を説明するJulius Arthur Nieuwlandの論文を発掘』、一九二〇年代には『アメリカ軍によって実験が行われ』ている、とある。

「嚏」「くさめ」或いは「くしやみ(くしゃみ)」。]

 

Sneezing Gas,  Vormitting Gas. 三十分間戰鬪を失ふ(1000萬分の一あると)

[やぶちゃん注:「Sneezing Gas」「Sneeze」は「くしゃみをする」、「Vormitting Gas」の「vomit」は「嘔吐する」で、これらは鼻や目などを強く刺激し、くしゃみや吐き気を起こさせる毒ガス兵器のことを指す。有害な有機砒素化合物の一種であるアダムサイト(adamsite)や、同じ砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)などがある。旧日本軍では「あか剤」と呼称し、保有していた。]

 

○酸アセチリン瓦斯を熱すると攝氏2500度出す 鐵(1700度でとける)はその爲にアメリカでは一尺位迄ます それでもこもる爲

[やぶちゃん注:「酸アセチリン瓦斯」アセチレン(acetyleneは酸素と十全に混合させて完全燃焼させた場合、その炎の温度は最高摂氏三千三百三十度にも及ぶ。現在では「溶解アセチレンガス」というアセチレン・ガスが、各種可燃性ガスの中では最も高温で燃焼し、金属の溶接・溶断加工に適し、作業性や効率も高いガスだと、「太陽日酸ガス&ウェルディング株式会社」公式サイト内のこちらのページにある。

「それでもこもる爲」意味不明。]

 

Chloraceto phenome(weeping gas).  Diphenylchlorasine(sneezing gas).

[やぶちゃん注:「Chloraceto phenome」催涙剤の一種クロロアセトフェノン(chloroacetophenone)。ウィキの「クロロアセトフェノン」によれば、現在、ごく普通に『防犯グッズの催涙スプレーとして市販されて』おり、『また、世界各国の警察が暴徒鎮圧用として使用し』、『日本の警察も保有している』とある。『塩化フェナシル(phenacyl chloride)、CNガス とも呼ばれる』とある。

weeping gas」催涙ガス。

Diphenylchlorasine」先に注した砒素化合物のジフェニルクロルアルシン(Diphenylchloroarsine)の綴り違い。]

 

Phosgene(瓦斯)(肺氣腫)より染料を作る (孔雀石 green. 靑 黃)平氣で作る 死ぬ人かへり見られず European War 以來大へんに重大視さる ○酸化炭素と酸素とにて Phosgene. ○靑化加里 氷ザタウ 金の精錬に用ふ 小指ほど食ふ ○伜自殺す 親父遺書をうけとり 驚きかけつけ 喉のかわきし爲そこの水をのむ 靑化加里の水溶液の爲に死ぬ(カリウム)

[やぶちゃん注:「Phosgene(瓦斯)」炭素と酸素と塩素の化合物で「二塩化カルボニル」などとも呼ばれる非常に強い毒性を持つ気体「ホスゲン」。ウィキの「ホスゲン」により引く。『化学工業分野で重要な化合物であり』、一八一二『年に初めて合成された』。『一酸化炭素と塩素から多孔質の炭素を触媒として合成される。ポリカーボネート、ポリウレタンなどの合成樹脂の原料となる』。『有機合成分野でもホスゲンはアルコールと反応して炭酸エステルを、アミンと反応して尿素あるいはイソシアネートを、カルボン酸と反応して酸塩化物を与えるなど用途が広い』。但し、『猛毒の気体であるホスゲンは実験室レベルでは使いにくく、近年では炭酸ビス(トリクロロメチル)(通称』で『トリホスゲン)が代用試薬として用いられるようになった』。『また、フロン類(クロロフルオロカーボン、ハイドロクロロフルオロカーボン)が加熱される事でも発生するので、特に冬季など暖房器具を使用する時期には中毒事故が発生しやすかった。室内の空気に塩素を含む有機性のガス、あるいは塩素と有機性のガスが存在する場合に、放電式の空気清浄機を使用すると、中毒事故が起こる可能性がある』。『毒性が強く、化学兵器(毒ガス・窒息剤)とされている』。『第一次世界大戦では大量に使用され』、『旧日本軍では「あお剤」と呼称して』所有していた。『現在の日本では化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律の第二種指定物質・毒性物質であり、同法の規制をうける』。摂氏二十度 『では気体である。沸点は』摂氏八度『で、純粋なホスゲンは独特の青草臭であるが』、『毒ガスに使われるような低純度なもの、希薄なものは木材や藁の腐敗臭がするといわれている』。『水があると』、『加水分解を受け、二酸化炭素と塩化水素を生じる』。『高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる』。『無症状の潜伏期を経』た後、『肺水腫』(pulmonary edema:肺の実質(気管支、肺胞)に水分が染みだして溜まった状態をいう。溜まった水分により呼吸が障害され、呼吸不全に陥る)『を起こす』。『潜伏期は数時間から、場合によっては』二十四『時間以上持続する場合もある』。『肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると』、『咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が出る。肺水腫によって肺胞毛細血管への酸素運搬が阻害され、低酸素症を引き起こす。また』、『体液が肺胞に流出することによって血液濃縮を起こし、心不全に進行する』。『低濃度のホスゲンに長期曝露した場合には』、『肺に障害を与え、繊維症、機能障害を生じることがある。また、数日が経過してから感染症による肺炎を起す場合がある』。『解毒剤は存在しない。治療は主に肺水腫への対処を行うことになる。目の角膜が損傷する危険がある場合は洗浄を行う。肺炎などの感染症への予防措置を取る。防護措置としては、吸入をしないために、ガスマスクが用いられる』。『第一次世界大戦で毒ガスとして用いられた時には、拡散して低濃度になったホスゲンに長時間曝露した兵士が』二十時間から八十『時間後に突然症状が悪化して死亡する事例が多数あった。このため、曝露した場合は低濃度であっても』三『日程度の経過観察を行う必要がある』。

「孔雀石」(くじゃくいし:malachite:マラカイト)は緑色の単斜晶系の鉱物で、最も一般的な銅の二次鉱物。ウィキの「孔雀石」によれば、『孔雀石の名は微結晶の集合体の縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する。英語起源のマラカイトなど欧語表記はギリシア語(アオイ科の植物の名称)に由来する』。『孔雀石は紀元前』二千『年ごろのエジプトですでに宝石として利用されていた。当時のエジプト人はラピスラズリ(青)や紅玉髄(赤)などと組合せ、特定のシンボルを表す装身具に用いた。現在でも、美しい塊は研磨して貴石として扱われ、アクセサリーなどの宝飾にも用いられるが』、『柔らかい鉱物であることから、硬度』七『以上を定義とする宝石には合致しない』。『銅鉱石として利用されたこともあるが、現在では高品位の銅鉱石と競争できないため、ほとんど使われていない』。『孔雀石の粉末は、顔料(岩絵具)として古来から使用されている。この顔料は「岩緑青」、「マウンテングリーン」などと呼ばれる。青丹(あおに)はその古名』。『銅の炎色反応を利用した花火の発色剤としても重用される』とある。

European War」第一次世界大戦。

「靑化加里」青酸カリ。シアン化カリウム(青酸カリウム)。毒物の代名詞的存在だが、工業的に重要な無機化合物でもある。水酸化カリウムとシアン化水素の反応によって得られる、無色で潮解性のある粉末。水によく溶け、アルコールにも溶ける。水溶液は加水分解してアルカリ性を示す。猛毒で、致死量は〇・一五グラム。金・銀の冶金や鍍金(メッキ)などに利用する。

「カリウム」Kalium(ドイツ語:英語:potassium周期表第一族に属し、アルカリ金属元素の一つ。ナトリウムとともに化合物として古くから人類によって利用されてきた。]

 

○生姜や唐辛子を食ふとぽつくり死ぬ 瘦せ衰へしは(惡病)うづむ ヤセウマ――背負ひ子

○坂みちを人一人下り來る ネクタイピンの如きもの赤し 何かと思へば長きパイプの先に卷煙草の火赤きなり

○大孤山の病院の話

[やぶちゃん注:中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。「手帳6」に既出既注。]

 

○山田さんの話 寺の家で自殺

[やぶちゃん注:「山田さん」不詳。]

 

○狂 Pigmy tree. a morality. 道德的侏儒

[やぶちゃん注:「Pigmy treepygmyの誤記であろう。ここは侏儒。「侏儒の木」「矮木」はよく判らぬ。「侏儒の言葉」(生前のそれは大正一二(一九二三)年一月一日発行の『文藝春秋』から連載)の別タイトルを考えていたものか。]

 

○インクのセピア色に血を感ず 十錢 Right ink. サカサマニハイツテヰル ラデイオ

[やぶちゃん注:「サカサマニハイツテヰル ラデイオ」不詳。]

 

○丹前を着た三人の男川の對岸に來り 寫眞をとる(宿の) 我をうつされし如く無氣味なり

barbar.  Café 赤い壁 寫眞屋 溫室――川向う 崖崩れ 狆に櫛を入れる女

○岩の動くを感ず

 

○ 9yubisasi_3  の札 life-like なり

[やぶちゃん注:底本より画像を読み取って挿入した。手の矢印は底本通り(縦書)上を向けた。その手の絵札が「生きている実物の手のよう」で、気持ち悪いほどであった、ということであろう。]

 

○小穴に手紙を出さうとして宿所を忘れる

[やぶちゃん注:「小穴」小穴隆一。後も同じ。]

 

○靑池に白鯉

○大導寺信輔の半生 眞田隼太郎の半生

[やぶちゃん注:「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)の作品名(主人公名)の別案らしい。]

 

○天然を愛するは天然の怒つたり嫉妬したりせぬ爲なり

[やぶちゃん注:「侏儒の言葉」の以下の草稿と言える。

   *

 

      自  然

 

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺いたりしないからである。

 

   *

私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自然』も参照されたい。]

 

○キニイネ――解熱 ゼネガシン ブロチン――祛痰劑

[やぶちゃん注:「祛」の字の(へん)は底本では「衤」。

「キニイネ」キニーネ(オランダ語: kinine:英語:quinine(キニン))南アメリカ原産のキク亜綱アカネ目アカネ科キナノキ属アカキナノキ Cinchona pubescens の樹皮に含まれるアルカロイド。白色粉末で苦い。「日本薬局方」では「硫酸キニーネ」「塩酸キニーネ」などが収載される。原産地では経験上、古くからマラリアの治療薬として使われていたが、記録上では、一六三〇年ペルー駐在スペイン総督キンコン伯の夫人が、キナノキの樹皮でマラリアを治療した実績から、ヨーロッパに輸入されたと伝えられている。一八二〇年、フランスで製剤化に成功し以降、マラリアのほか、強力な効果を持つ解熱剤・鎮痛剤としても多用され、抗生物質の出現(一九四一年のペニシリンの治療効果の確認を最初とする)までは、熱性疾患に対する有力な治療薬の一つであった。他に子宮収縮作用及び抗不整脈作用もある。飲食物に苦味を加える食品添加物としても認可されており、しばしば劇薬と考えている人がいるが、キニーネは薬事法上、「劇薬」には指定されていない。これはストリキニーネ(strychnine:リンドウ目マチン(馬銭)科マチン属マチン Strychnos nux-vomica の種子から得られる非常に毒性の強いインドールアルカロイドの一種。強力な中枢興奮作用を示し、激しい強直性痙攣・後弓反張(体が弓形に反る)・痙笑(顔筋の痙攣により笑ったような顔になる)を起こし、最悪の場合は呼吸麻痺等によって死に至る)との混同等による誤認である。

「ゼネガシン」このような薬剤名は現在は存在しない。セネガシロップのこと。「日本薬局方」に於いては、マメ目ヒメハギ科ヒメハギ属セネガ Polygala senega 或いはヒロハセネガPolygala senega var. latifolia の根を生薬「セネガ」としている。これは去痰作用があり、セネガシロップ(現在もこの名で販売されている)として使うほか、お馴染みの「龍角散」や「改源咳止液W」などにも配合されている(ウィキの「セネガ」に拠る)。

「ブロチン」桜の皮のエキスから造られた古くからある生薬の去痰剤。痰を薄めて出し易くし、咳を鎮める。副作用の殆んどない安全な薬物である。ブロチンシロップとも称する。

「祛痰劑」「去痰劑」に同じい。「祛」は「熱・痰などの病状を取り除く・取り払う」の意。]

 

○親は子ぢやとて尋ねもするが親とてたづねる子は持たぬ

○古道具屋 螺細の硯箱よごれ不細工なり 猿面硯でも入れたくなると言へば小穴(白ズボン)「何 端溪でも似合ふ」と言ふ 鐵の兜や鳥籠もあり 誰か外にもゐる

[やぶちゃん注:思うにこれは、最後の一文から、芥川龍之介の夢記述ではないかと私は思う。

「猿面硯」は「ゑんめんけん」と読み、「圓(円)面硯」とも書く。古代の硯(すずり)の一形態で、陶質で中央に平らな陸(おか)を設け、その周囲に溝を巡らして、さらに下方に台脚をつけたものを指す。グーグル画像検索「猿面硯」をリンクさせておく。]

 

○きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ 白ナンテンの木を箸にし「私は永年癪に苦しんでゐます どうかこの癪の根をたち切つて下さい」と言ひ 蕎麥を一口でもたべる(小さい茶碗に汁をかけ) 大晦日の晩 泊雲居士(キヨシ)

[やぶちゃん注:この話、確実にどこかで(芥川龍之介とは無関係なところで)読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出し次第、追加するが、思うに、この「泊雲居士(キヨシ)」(「キヨシ」はママ。なお、これはルビではなく、丸括弧附本文である)というのは、私は俳人の西山泊雲(明治一〇(一八七七)年~昭和一九(一九四四)年)ではあるまいかと考えている。彼はウィキの「西山泊雲」によれば、兵庫県竹田村(現在の丹波市)生まれで、本名は亮三。『酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り』、『家出や自殺未遂を経験』し、『また』、『家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた』。鈴木花蓑(はなみの 明治一四(一八八一)年~昭和一八(一九四二)年:愛知生まれ。大審院書記。本名は鈴木喜一郎)と並んで『ホトトギス』の沈滞期を『代表する作家で同誌巻頭を』二十八『回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。泊月とともに丹波二泊とも呼ばれた。代表句に「土間にありて臼は王たり夜半の月」』とある。違っていたら、削除する。

「きんかくしを後ろに御不淨にしやがみ」本来の位置を逆転させることによって、異界への通路は開かれるので、この坐り方はそうした呪的意味を持っていると考えられる。しかも和式便所は穴であり、地下の国である根の国や黄泉の国へのトンネルとも採れるから、祈誓の意味もそこでまさに腑に「落ちる」のである。但し、実は非常に古くはこのしゃがみ方の方が実は正しかったようである。「きんかくし」(金隠し)の言葉は、元は「衣掛(きぬか)け」が語源であって、平安期の「おまる」にあたる携帯用便器である「樋箱(ひばこ)」では衣懸け側(神社の鳥居形のものが上に飛び出ていて、ここに衣の背部の裾を懸けた)を後ろとしていたからである。]

 

○墓場へ位牌をすててゆく 夜汽車でかへる

○カゲキ――歌劇 イナ・ブルスカヤ カルメン フアウスト アイダ トラヴイアアタ ゴドノフ(マリア) 貴族 縊死 孔雀の扇 男たち ボツクス プザノウスキイ

[やぶちゃん注:これは大正一五(一九二六)年七月の『文藝春秋』に発表した「カルメン」(リンク先は「青空文庫」版)のためのメモであるが、彼の小説「カルメン」は芥川龍之介らしき「僕」の語りで幾つかの出来事を語っているものの、多分に架空の話として創作されたものである。実は芥川龍之介自身が実際の舞台を見ているかどうかさえ、現在、確認されてはいないのである。筑摩全集類聚版脚注(以下の上演データ等も総てそれを参照した)によれば、ロシア帝室オペラ歌劇団専属オペラ団は大正八(一九一九)年の九月に来日している(破格に高額の入場料(最上級の席は十二円)を採った)。この頃、ロシア国内の革命(二月革命と十月革命は一九一七年)による混乱を避けて同劇団(芥川龍之介の小説「カルメン」では『グランド・オペラ』と出る)は国外巡演をしていた。実際の同オペラ団による「カルメン」Carmen:フランスのジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が最晩年の一八七三年から翌年にかけて作曲した四幕のオペラ)の上演は同年九月四日・九日・十四日の三日間だけで、しかも小説中にあるように、主役の「イナ・ブルスカヤ」(Ina Burskaya:生没年は確認出来なかった。ソプラノ。当時の同劇団の花形ヒロインであった)芥川の小説「カルメン」では『イイナ・ブルスカアヤ』と表記)が出演せず、代役を立てた「カルメン」は類聚版の注によれば、九月十四日の晩の「カルメン」だけ(代役は『ゾンツエーブ嬢』とある)である。宮坂覺氏の岩波新全集の最新の年譜には、「カルメン」観劇の記載自体が存在しないしかも私は思うのだが、限定されたブルスカヤの出なかった九月十四日(日曜日)の晩に彼がそれを見た可能性は、私は頗る低いと考えている。何故なら、この日は芥川龍之介が客と会うことを決めていた面会日であったこと(但し、一日中、客はなかった)や妻の弟が来訪していることが、彼の日記「我鬼窟日錄」(リンク先は私の注附き電子テクスト)によってわかり、しかもそこには、

   *

九月十四日 雨

 日曜なれど終日客なし。塚本八洲來る。

 夜に入つて風雨大に催す。

   *

と、夜になって風雨が激しかったことを記すだけだからである。その風雨に敢えて怯まずに丸の内の帝国劇場に彼が、この日の「カルメン」を見に行ったとすれば、それを日記に書かぬはずはないからである。実際、ブルスカヤでなく、『水色の目をした、鼻の高い、何なんとか云う貧相ひんそうな女優で』、『落膽し』(小説「カルメン」より)たのだったら、なおのこと、それが癪に触って書いたに違いないからである。

 いや――もう一つ、行かなったであろうと推定する理由がある。

 それは――この翌日の大正八(一九一九)年九月十五日こそが――かのファム・ファータル秀しげ子と不倫の肉体関係を持ったその日――だからである。

 敢えて言えば、芥川龍之介は前の二回(九月四日と九日)のブルスカヤの演じた「カルメン」を見ている可能性は充分ある。何故なら、宮坂年譜では同月九月一日から、九日までが空白だからである。「カルメン」では「僕」が「カルメン」を見たのを、『確か初日から五日目の晩』と言っているが、同歌劇団の初日は九月一日の「アイーダ」で、その日から四日目に第一回目の「カルメン」が上演されている(因みに、九月十日の岩野泡鳴の「十日会」で秀しげ子と逢った際に十五日の密会を約束したものと推定される。これは先の日記「我鬼窟日錄」を読んでも十日以後は「カルメン」どころじゃない、初めての不倫へ向けて精神状態が普通でなくなっているのが、一目瞭然である)。

 それにしても……秀しげ子とカルメン……嵌り過ぎと言えば――嵌り過ぎている…………

「フアウスト」Faustはフランスの作曲家シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod 一八一八年~一八九三年)の最も知られる、ゲーテの劇詩「ファウスト」(ドイツ語でも綴りは同じ)第一部に基づいて作られた同名の五幕のオペラ。来日中、九月三日・八日・十三日に三回公演している。

「アイダ」Aidaはイタリアの作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)が作曲し、一八七一年に初演された全四幕のオペラ。ファラオ時代のエジプトとエチオピアの二国に引き裂かれた男女の悲恋を描く。来日中、九月一日・六日・十一日に三回公演している。

「トラヴイアアタ」La traviata。所謂、ジュゼッペ・ヴェルディが一八五三年に発表した三幕のオペラ「椿姫」のこと。このイタリア語のオペラの原題は「堕落した女・道を踏み外した女」の意であるが、本邦では、原作の、フランスの作家「小デュマ」、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils  一八二四年~一八九五年)の小説La Dame aux camélias(「椿の花の貴婦人」)の意訳「椿姫」のタイトルで上演されることの方が多い。来日中、九月二日・七日・十二日に三回公演している。

「ゴドノフ」Борис Годунов「ボリス・ゴドゥノフ」。モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский 一八三九年~一八八一年)はが作曲した、彼の作品の中でも最も知られらた、プロローグと四幕から成るオペラ。ロシアの実在したツァーリボリス・ゴドゥノフ(一五五一年~一六〇五年)の生涯をオペラ化したもの。来日中、九月五日・十日・十五日に三回公演している。因みに、筑摩全集類聚版脚注によれば、以上の他、九月二十四日がマチネー(matinée:フランス語で「昼間興行」)で「カバレリヤ・バリアッチ」(イタリアの作曲家モルッジェーロ・レオンカヴァッロ(Ruggero Leoncavallo 一八五七年~一九一九年)のI Pagliacci(「道化師」:一八九二年に初演。全二幕)のことであろう。同じイタリアのピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 一八六三年~一九四五年)作曲の一幕物Cavalleria Rusticana(カヴァレリア・ルスティカーナ:「田舎騎士道」。一八九〇年初演)と並ぶ、ヴェリズモ・オペラ(verismo opera:一八九〇年代から二十世紀初頭にかけてのイタリア・オペラの新傾向作品。市井の人々の日常生活や残酷な暴力などの描写を多用し、音楽的には声楽技巧を廃した直接的な感情表現に重きを置いたもので、重厚なオーケストレーションを駆使することを、その特徴とする)の代表作であるから、或いは二作とも公演したものか)でお名残り公演となったとある。

「マリア」「ボリス・ゴドゥノフ」に登場するポーランド貴族の娘マリナ・ムニシュフヴナ(ポーランド語:Maryna Mniszchówna:偽(にせ)ドミトリー世(Лжедмитрий I 一五八二年~一六〇六年)はモスクワ国家のツァーリ(在位:一六〇五年~一六〇六年)。動乱時代にイヴァン四世の末子ドミトリー皇子を僭称した最初の人物)の皇妃となった)。ソプラノであるから、或いはイナ・ブルスカヤが演じたか。

「貴族 縊死 孔雀の扇」総て芥川龍之介の「カルメン」に登場する重要なキー・ワードであるが、ロシア人鉄道技師が帝国ホテルで九月十五日午前一時半(実際の最後の「カルメン」上演の翌日)に服毒自殺したというだけの記事(筑摩全集類聚脚注に拠る)から、芥川龍之介が完全にデッチ上げた創作部に相当するメモである。

「プザノウスキイ」不詳。]

 

○ダニ山 ヒル山(先頭にたからず) マムシ山 三四尺の所に二十匹

○偉大なる悲劇も lookers-on には單なる comedy なり

[やぶちゃん注:「lookers-on」傍観者・見物人。]

 

○男の Bovarism.

[やぶちゃん注:「Bovarism」自惚れ・過大なる自己評価。フランス語“bovarysme”が語源。フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert  一八二一年~一八八〇年)の代表作である長編小説「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)に因む。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が自由で華やかな世界に憧れ、不倫や借金地獄に追い詰められた末に人生そのものに絶望、服毒自殺する物語。]

 

○英雄の末年――Bismark.

[やぶちゃん注:「鉄血宰相」(Eiserner Kanzler)の異名をとったプロイセン及びドイツの政治家で貴族のオットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。プロイセン王国首相(在職:一八六二年~一八九〇年)・北ドイツ連邦首相(在職:一八六七年~一八七一年)。ドイツ帝国首相(在職:一八七一年~一八九〇年)を歴任した、ドイツ統一の中心人物であったが、新たに王位に就いたウィルヘルムⅡ世と社会主義者鎮圧法の更新を巡って衝突し、一八九〇年三月十八日に宰相を辞任した。以下、ウィキの「オットー・フォン・ビスマルクによれば、その後の『ビスマルクの失意は深く』、一八九〇年から翌年にかけては、『たびたび自殺を考えたというが、個人的威厳を重んじる念と信仰心によって思い止まったという』。『退任後もビスマルクの影響力は絶大であり、多くの人々が彼の周りに集り、彼も大臣やヴィルヘルムⅡ世をも批判した。それでも、一八九四年初頭にはヴィルヘルムⅡ世と和解している。『ビスマルクの失脚原因ともなった社会主義への敵意は退任後も一貫して強く持ち続け』、一八九三『年にはアメリカのジャーナリストの取材に対して「社会主義者はドイツ国内を徘徊するネズミであり、根絶やしにしなければならない」と述べ』、一八九四『年にハルデンに宛てた手紙の中では社会主義者を伝染病の病原菌に例えた。死を間近にした』一八九七『年にも「社会問題はかつてなら警察問題で解決できたが、いまや軍隊を用いねばならない」と述べている』。

一八九四年十一月二十七日に『妻ヨハンナに先立たれると』、『生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった。ビスマルクは妻の死に関して妹へ宛てた手紙の中で「私の残されていた物、それはヨハンナだった。(略)民が寄せてくれる過分な好意や称賛に対して私は恩知らずにも心を閉ざしてしまうようになった。私がこの』四『年間それを喜んでいたのは』、『彼女もそれを喜んでいてくれたからだった。だが』、『今ではそのような火種も徐々に私の中から消えようとしている」と書いている』。『血行障害』のために、『あまり身体を動かさなくなったことで片足が徐々に壊死していき、しばしば激痛に悩まされるようになっ』て、一八九七年の『秋以降には車椅子生活になった』。一八九八年七月三十日、『息を引き取った』。『主治医によると』、『死因は肺の充血だったという』。『息子ヘルベルトの妻によると最期の言葉は「私のヨハンナにもう一度会えますように」だったという』。『ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム』Ⅰ『世に忠実なるドイツ帝国の臣」であった』。また、「コロサイの信徒への手紙」第三章二十三節にある『「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれている。これはビスマルクが』十六『歳の頃より愛していた言葉だった』という、とある。]

 

○東雲の煤降る中や下の關

[やぶちゃん注:『驢馬』(大正一五(一九二六)年四月発行)の「近詠」欄に、

   *

 

  旅情

しののめの煤ふる中や下の關

 

   *

として載るが、しかし、

 

東雲(しののめ)の煤降る中や下の關

 

の形で、前年大正一四(一九二五)年九月一日附室生犀星宛(旧全集書簡番号一三六五・軽井沢鶴屋旅館発信)に記されており、しかも句の直前の手紙文に「御覧の通り、軽井澤の句ではない。」とある。これは情景から見て、明らかに四年前の中国行出立の折の回想句で、私は大正一〇(一九二一)年三月二十八日の門司から上海に向けて出航した際の情景と推理している。]

 

○桑ボヤに日かげ移りぬ午の鐘

[やぶちゃん注:ここにのみ出る芥川龍之介の句

「桑ボヤ」桑の葉を摘み採った後の小枝。乾かして薪(たきぎ)などにした。]

 

続きが見たい夢

本未明、二時前に久々に続きが見たい夢を見た……

私は18で、教え子のO君と一緒に京都の大学に合格している。二人で学生相手の私設の木賃宿舎に入る。私は芥川龍之介全集を始めとして本を山のように持って来ていたが、置き場がないので、部屋の中の壁際にドミノのピースのように並べ、O君は「サンダーバード2号」の見たこともないプレミアム・ポッドの中に彼の好きなエヴァンゲリオンのフィギアが満載しているという奇体なもの広げては「どうだ!」という風に微笑んだ。

六畳一間に二人でなかなかに狭い。
最初の一夜、私は廊下に近いところに雑魚寝をしている。
何か夢を見ているような気になって、ふと目が覚めると(夢の中の私が、である)、廊下と隔てる襖が少し開いていて、そこから若い女の生白い腕がさし入っており、私の蒲団からはみ出た右手の人差し指に、その女の人差し指が載っている。と見たら、ゆっくりとその女の腕は廊下の方へと引っ込んでゆく。

襖の隙間からそっと覗いてみると、そこには16、7の若い女たちが、煎餅布団を強いて、廊下に川の字になって寝ているのであった。彼らは皆、貧しい家庭から、この宿屋に女中奉公をしに来ている少女らで、それは昼のうちに見かけて知っていた。一番近い、則ち、私と指と指を重ねていたのは香代という娘であった。目を閉じてはいるものの、起きているように思えたが、私はそっと襖を閉じた。

数日経って、宿舎の中で出しているという、手書きの回覧雑誌が回って来た。
開いて見ると、中に「K女」と署名のある小説があった。
それは、一人の宿屋の奉公人の少女が、そこに泊まっている青年と恋仲になり、夕餉の買い物に出かける時、青年と踏切のところで落ち逢って宿へ戻るまで一緒に歩くという、束の間の逢引きを描いた掌品であったが、そこで最後に踏切の所で別れる際、彼女が右手の人差し指を青年に指し出し、青年がやはり自分の人差し指をそれに接するというシーンで終わっているのであった。

その途端、私は何か非常な切なさを感じ、部屋の壁と言わず、宿中の壁という壁に筆で訳のわからぬ言葉を書きまくり始め、O君を始めとする下宿学生たちがそれを必死で押し留めようとする……

   *

というところで眼が覚めてしまった。小便をしに下に降りると、妻はカウチに寝っ転がってテニスを見ていた。
また、寝床に戻って思わず『続きが見たい!』と思った(これほど切にそう思った夢は今までの60年間の夢見の中でも数回しかない)が、この数年、一度目が醒めると、私は最早、二度寝出来ない体質になってしまっており、その「夢」は叶わなかったのであった――

2018/01/27

芥川龍之介 手帳9 (3)

 

○足の非常に長い蜘蛛(胴ハ淡褐也) ハジキ飛バセシニ足ダケ一本疊の上ニ動イテヰル

[やぶちゃん注:これはまず、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目ユウレイグモ科 Pholcidae の幽霊蜘蛛類(世界で約八十属、記載種は凡そ千種で、本邦では八属十八種が確認されている)であると比定してよい。さらに、頭胸部と腹部の(これを一体で「胴」と表現しているのもユウレイグモに相応しい。頭の先が狭く、腹部との間のくびれもあるにはあるが、腹部は長円形で一定の距離で見ると、一見、棒状・桿状・胴体状に見えるからである。特に不気味に思ってよく観察しようとしなければ、なおのこと、一つの「胴」のように見える)色が淡いこと、及び屋内であることを考えると、その中でも高い確率でユウレイグモ属イエユウレイグモ Pholcus phalangioides であろうと私は思う。教員になり立ての頃、数年暮らした鎌倉岩瀬の山家のアパートには室内外に無数にいた。脚を震わせてユラユラと覚束な気に動く姿はまさに幽霊そのものであった。]

 

○宿屋で植木屋が二三人茶をのんでゐる そのそばを通る 皆默る それだけでも不快なり

○⑴猿(寫生用)雌黃を食はんとす 少し食へば下痢 多く食へば死 ⑵鷄 卵をうむ時學校中さがしまはる ⑶七面鳥は牝牡と價異る(モデル賃)牡を借りしに卵をうむ

[やぶちゃん注:美術学校か美術研究所での実話記録であろう。されば、晩年最も親しかった盟友で画家の小穴隆一の記憶かも知れぬ。彼は太平洋画会研究所出身で、かの中村不折に師事している。

「雌黃」(しおう(現代仮名遣):orpiment)は第一義的には砒素の硫化鉱物で「雄黄」「石黄」とも呼び、中世ごろまでは画材の黄色顔料として広く利用されたが、毒性があるため近現代では使用されなくなったのでこれは違う。されば、これはやはり黄色顔料として画材として用いられたガンボージ(gamboge)の別名としてのそれである。インド原産のキントラノオ目フクギ科フクギ属ガルシニア・モレラ Garcinia morella からとった黄色の樹脂である(辞書類ではキントラノオ目オトギリソウ科 Hypericaceae に属する植物であるとするが、紀井利臣著「新版 黄金テンペラ技法:イタリア古典絵画の研究と制作」(二〇一三年誠文堂新光社刊)の「題二章 工程と製作」に載る記載(グーグルブックスを使用)に従った)。黄色絵の具として日本画などで用いられ、「草雌黄」「藤黄(とうおう)」などと呼ばれ、東アジアでは数百年以上も昔から絵具として使用された歴史がある。主としてインド、中国、タイ等に自生するから採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われ、日本画にも盛んに使用された。主として水性絵具・揮発性ニス・金属ラッカーの用途がある。紀井氏の解説によれば、『有毒で、非常に辛い苛烈な味がすると言われ、古くから漢方薬として』も使用されたとあり、さらに、『水練りにして使用しますが、練る指先に傷がないように注意して下さい』とある。他のネット記載では、現在は毒性はないとするものもあるが、強い成分があることは確かで、鶏が多く食えば頓死するというのは腑に落ちる。なお、現在、通常の黄色絵具は化学顔料にとって代わられつつある。]

 

○十三人の子を産んで家出せし妻 世間――十三人も子のある癖に 妻――十三人も子を生せられただけでもやり切れない

○障子へ戸の穴より風景映る

○歷史上の人物を一人づつ書き如何に作者がその人物を愛し或は敬してゐるかを示すもの

○河童國――遺傳的義勇隊

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された、知られた怪作「河童」(リンク先は私の電子テクスト)の「四」に出る、ポスターに(斜線は改行)『遺傳的義勇隊を募る!!!/健全なる男女の河童よ!!!/惡遺傳を撲滅する爲に/不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!」』とあるのに、主人公が『僕は勿論その時にもそんなことの行はれないことをラツプに話して聞かせました。するとラツプばかりではない、ポスタアの近所にゐた河童は悉くげらげら笑ひ出しました。』『「行はれない? だつてあなたの話ではあなたがたもやはり我々のやうに行つてゐると思ひますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令孃が運轉手に惚れたりするのは何の爲だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的に惡遺傳を撲滅してゐるのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合ふ義勇隊ですね、――ああ云ふ義勇隊に比べれば、ずつと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思ひますがね。」』と返されてしまうシークエンスの内容の構想メモである。]

 

○孝子 性欲的に母を慰む

[やぶちゃん注:これは遺稿の「侏儒の言葉」の、

   *

 

       或孝行者

 

 彼は彼の母に孝行した、勿論愛撫や接吻が未亡人だつた彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

 

   *

及び、「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」の中で、「僕」が「アナトオル・フランスの對話集」と「メリメエの書簡集」を買い、

   *

 僕は二册の本を抱(かか)へ、或カッフェへはひつて行つた。それから一番奧のテエブルの前に珈琲の來るのを待つことにした。僕の向うには親子(おやこ)らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等(ら)は戀人同志(こひびとどうし)のやうに顏を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等(ら)を見てゐるうちに少くとも息子は性的(せいてき)にも母親に慰めを與へてゐることを意識してゐるのに氣づき出した。それは僕にも覺えのある親和力(しんわりよく)の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例(れい)にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陷るのを恐れ、丁度珈琲の來たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讀みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフォリズムを閃かせてゐた。それ等(ら)のアフォリズムは僕の氣もちをいつか鐵のやうに巖疊(がんじやう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱點の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飮み了つた後(のち)、「何でも來い」と云ふ氣になり、さつさとこのカッフェを後ろにして行つた。

   *

というシークエンスにも生かされている。私のブログ版の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者』も内容がダブるが、是非、参照されたい。]

 

1七面鳥 2寫眞機 3アンマ 4This キリノ box? 5本屋? 6八百屋の禁煙 7風呂 8畫の古びる話 9畫を描いてゐるうちに風景のかはる話(壁 庭木 人物)

[やぶちゃん注:「4」はよくメモの意味が判らない。「これっ切りの箱」か「この桐の箱」か。もっと謎解きがあるか?]

 

f, m, f sister ― Frühling ヲ感ズ à la Maupassant.

[やぶちゃん注:「f」はfemale、「m」はmale(孰れも英語)であろう。

Frühling」はドイツ語(音写:フリューリンク)で「春」の意。

à la Maupassant.」フランス語で「モーパッサン風に。」。]

 

○利休と太閤

[やぶちゃん注:これは面白いものが出来たであろうに。惜しい。]

 

○濱田彌兵衞 德川家康 老いたる人形

[やぶちゃん注:「濱田彌兵衞」(はまだ やひょうえ 生没年不詳)は江戸初期の朱印船の船長。長崎出身。寛永四(一六二七)年に発生した「タイオワン事件(ノイツ事件)」の実行者。二百八十八年後の大正四(一九一五)年に贈従五位されている。ウィキの「浜田弥兵衛」によれば、『寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領』(一六二四年)、『ゼーランディア城を建て』(Zeelandia:熱蘭遮城:現・安平古堡:私の「女誡扇綺譚 佐藤春夫  一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の注を参照されたい)、『この地における交易には一律』十%『の関税をかけはじめた』。寛永四年、『長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツ』(Pieter Nuyts 或いは Nuijts 一五九八年~一六五五年)『を人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功した』とある。事件については、遙かに先行する「芥川龍之介 手帳4-16~18」の「臺灣事件」の私の注を参照されたい。

「老いたる人形」意味不明。]

 

○寫首筋竹石 目遊瘦石枯槎上 心寄寒秋老翠邊 寫罷茶經踏壁眠 古爐香嫋一糸煙 新羅山人

[やぶちゃん注:「新羅山人」(?~一七五六年頃)は清代の画家で既出既注。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。以下、自己流で訓読しておく。

 

   古樹・竹石を寫す

 目は 瘦石(さうせき)枯槎(こさ)の上に遊び

 心は 寒秋の老翠(らうすゐ)の邊りに寄す

 茶經を寫すを罷(や)め 壁を踏みて眠る

 古爐(ころ)の香(か) 嫋(じやう)として一糸煙(いつしえん)

 

「枯槎」は老樹の枯れた差し出た複数の枝の謂いか。「茶經」は唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書を指すか。「壁を踏みて」超し掛けて足を上げ、壁を足の裏で踏み押さえて、の意でとった。「嫋」嫋(たお)やか。]

 

○木こり夫婦 負傷 七階より飛び下る男

error のある事卽ち humanity ない事は divinity or machinery.

[やぶちゃん注:「divinity」神性。]

 

Saint for his virtue. We for our sins. 不公平も甚し

[やぶちゃん注:「彼の持つ美徳ゆえの聖人。その罪によって在る私たち。」か。]

 

手紙をかく Psy.

[やぶちゃん注:「Psy.」は「psycho」で精神病患者の意と思われる。]

 

○アンマ アンマの妻――二等を知る話 上機嫌

[やぶちゃん注:当時の列車の二等車のことか。]

 

○障子より光まつすぐにはひる 蠅光りつつ來る

○水陸洲 税關官舍 傳家洲 英國領事館 湖南 廣東 黃興 宋教仁 支部亡國紀念會 秦力山 湖廣總督 張之洞 武昌の兩湖書院

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』に掲載され、後、生前最後の創作集の題名ともなった「湖南の扇」の構想メモ(リンク先は私の注釈附き電子テクスト)。

「水陸洲」湖南省の長沙城の西の湘江の中にある砂州である水鷺州の俗称。古くは橘洲と言い、現在、その古名が長沙市岳麓区橘洲として駅名や公園名に復活しているのが判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「傳家洲」前の橘洲の北にある砂州。岳麓区傅家洲村。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は橘洲と橋で繋がっていることが航空写真で判る。

「黃興」(一八七四年~一九一六年)は一九一一年十月十日に清の武昌(現在の湖北省武漢市武昌区。ここ(グーグル・マップ・データ))で起きた、辛亥革命の幕開けとなる兵士らの反乱事件である「武昌蜂起」を指導し、孫文ともに辛亥革命の革命家として双璧を成す人物。南京臨時政府陸軍総長兼参謀長。長沙出身。

「宋教仁」(一八八二年~一九一三年)は清末民初の政治家。武昌蜂起に参加し、湖南省都督府代表となったが、後に袁世凱と対立、革命組織を改組した「国民党」を組織し、事実上の党首として活躍したが、袁世凱のヒットマンによって上海で暗殺された。湖南省桃源県出身。

「支那亡國紀念會」日本へ亡命していた革命家章炳麟(しょうへいりん 一八六九年~一九三六年)。孫文や後に出る秦力山と親交を深めた彼が、明治三五(一九〇二)年に東京で開催しようとした、正しくは「支那亡國二百四十二年紀念會」のこと。ウィキの「章炳麟」によれば、「支那亡國」とは『南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は明崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより』、『満州王朝への復仇心の扇動を計画した。会の宣言書は章炳麟が起草したが、その内容は革命遂行を提唱するものであった。清国公使の要請により』、『明治政府は当日になって紀念会の開催を禁止したが、これ以後』、『在日留学生の多くが排満革命に靡き、革命結社が続々と結成されるようになった』とある。芥川龍之介は中国特派の旅で、上海で彼に逢って親しく対談している。「上海游記 十一 章炳麟氏」を参照されたい。

「秦力山」(しんりきざん 一八七七年~一九〇六年:本名は秦鼎彝(ていい))は湖南省長沙出身。鞏黄(きょうこう)とも称した。戊戌政変(一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター)後、一九〇〇年に唐才常の自立軍に参加し、安徽大通蜂起を起したが、失敗、日本に亡命した。『國民報』を発刊したが、病気のため、二十九の若さで亡くなった。

「湖廣總督」清の地方長官の官職で湖広省(湖北省・湖南省)の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。

「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)清末の洋務派官僚。曽国藩・李鴻章・左宗棠とともに「四大名臣」の一人に数えられる。彼は直隷(現在の河北省)南皮の出身であるが、湖広総督となっている(在任は一八八九年八月から一八九四年十一月まで)。主に武漢を拠点に富国強兵・殖産興業に努めた。

「兩湖書院」書院は各省がその省都に設立した学問所。政府から経費を割り当てて教師と学生に食費を供給した。書院の学長は師長と呼ばれ、本省人かそうでない外省人かは不問であった。武昌のここは張之洞が一八九〇年に建学したものである。]

 

the Curious Love of Precious Stones.

[やぶちゃん注:「美しい貴重な石に対する奇妙な愛」であるが、これは、次に名が出る、アメリカの鉱物学者 George Frederick Kunz(ジョージ・フレデリック・クンツ 一八五六年~一九三二年)が一九一三年(初版)に刊行した、ざっと見では、貴(稀)石や石造文化に関わる評論書らしい。私が小泉八雲の原文探しでよく使う“Internet Archive”のここで原書が読める。]

 

the Magic of Jewels & Charms (George Frederick Kunz)

[やぶちゃん注:ジョージ・フレデリック・クンツの一九一五年刊。「宝石と御守りの魔術」か。作者は前注参照。]

 

○戊戌の變 譚嗣同 詩的 畢永年 僧になる 哥老會 湘潭

[やぶちゃん注:ここもやはり「湖南の扇」の構想メモ。

「戊戌の變」先に注で出した戊戌政変。一八九八年に西太后が栄禄や袁世凱らとともに武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデター。

「譚嗣同」(たんしどう 一八六五年~一八九八年)は清末の思想家。湖南省劉陽出身。初め、科挙を志したが、日清戦争を契機として西欧思潮に接することで、古い学問を捨て、康有為・梁啓超らの説く変法自強の主張に共鳴、梁啓超を湖南時務学堂に迎えて、長沙に南学堂を建てて同志を集め、『湘報』を出すなど、革新運動に没頭した。「戊戌の新法」の際、招かれて四品卿軍機章京となって活躍したが、戊戌政変が勃発、約百日にして西太后派に敗れ、亡命の勧めを断って、北京の菜市で刑死した。所謂、「変法派」の中では最もラディカルな立場をとり、死後、日本で刊行された主著「仁学」では、あらゆる儒教倫理の破壊を主張している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「畢永年」(ひつえいねん 一八六九年~一九〇二年)は長沙出身の革命家。譚嗣同と親しく交わり、革新を目指す集団の連合の一つである「興漢會」(ここに記されている湖南のた馬福益を頭目とした「哥老會」と広東の「三合會」が連合したもの。但し、結局、互いに理解し合えず、組織としては有名無実に終わった)の結成に深く関わった人物であったが、病気のため、三十三で若死にしている。ここで、是非、気がついて貰いたいことがあるそれは「湖南の扇」の中で、芥川龍之介らしき主人公を長沙で迎える、主人公と『同期に一高から東大の醫科へはいつた留學生中の才人』の名である。彼は『譚永年(たんえいねん)』なのである。これはまさに実在した政治革新を目指して処刑された「譚」嗣同と、彼に共鳴した愛国の革命家であった、この畢「永年」の名をカップリングしたものなのである。なお、以上は劉耕毓(リュウ ゲンギュウ)氏の非常に興味深い論文『「湖南の扇」論―中国革命との関連をめぐって―』(PDFを大いに参照させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

「湘潭」現在の湖南省中東部、長沙の南の湘江上流に位置する湘潭市。唐代に湘潭県が置かれ商業都市として発展し、「米市」「薬都」と呼ばれ、また、蓮の栽培が盛んなことから「蓮郷」とも呼称され、現在は毛沢東の出身地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○曾國藩 瞿鴻機 紅牌樓 小西門外(日本人) 赭石砂岩層

[やぶちゃん注:「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家で学者。弱体化した清軍に代わる湘軍を組織して「太平天国の乱」の鎮圧に功績を挙げた。一八六八年には漢人として初めて地方官最高位である直隷総督となった。先に挙げた「四大名臣」の一人。湖南省湘郷県出身。「湖南の扇」の冒頭に彼の名は出るが、以下のメモは現行の作品自体とは関係がない。

「瞿鴻機」(くこうき 一八五〇年~一九一八年)は清末光緒年間に軍機大臣・政務大臣などを歴任した人物。湖南省長沙府善化県出身。翰林院(勅書の起草・国史編纂担当部署)編修にも就いており、詩も残しており、文化人でもあった。辛亥革命後に上海に逃れ、その後、病死した。ここは書道用品会社「トモナリ」公式サイト内の「中国墳墓」の記載を参考にさせて戴いた。ここ、写真入りで解説もしっかりしており、なかなか見応えがある。

「紅牌樓」四川省成都市武侯区に紅牌楼という街はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小西門」不詳。台南にならあるが。]

 

○フランネル(鼠+靑) 袖口よごる 背廣茶のコオル天のズボン 黒タイ 額脂うく 金齒 顏に目金の影

[やぶちゃん注:「コオル天」英語のコーデュロイ corduroyの転訛語で、フランス語の「コルド・デュ・ロア」(corde du roi:皇帝の紐)から出たとも、corded velveteen(畝(うね)織りのビロードの意)からともある。「天」は「天鵞絨(ビロード)」の略である。パイルで縦畝(たてうね)を表わした織物で、畝幅は通常二~三ミリメートルを基準とする。繊維は綿で、地組織は平織・綾織。用途は婦人子供服・背広上衣・ズボン・足袋・椅子張地など。

「目金」「めがね」。眼鏡。]

 

○はんぺん さつまあげ つみいれでごさい アンケサツ

[やぶちゃん注:「つみいれ」摘入。「つみれ」のこと。魚の擂り身を適宜に丸めて茹でた「摘み入れ蒲鉾(つみいれかまぼこ)」の略。

「アンケサツ」不詳。「サツマアゲ」をひっくり返した「揚げ薩摩」か。]

 

○時計を炬燵へのせると熱で暖まりぐるぐるまはる

2018/01/26

芥川龍之介 手帳9 (2)

 

○後藤新平の■女 新平に金をせびり甥を洋行さす

[やぶちゃん注:「後藤新平」(安政四(一八五七)年~昭和四(一九二九)年)は政治家。帰農した伊達藩士の子で当初は医師であった。児玉源太郎のもとで台湾経営に顕著な働きを見せ、明治三九(一九〇六)年には南満州鉄道初代総裁となり、二年後には逓信大臣兼鉄道院総裁・拓殖局副総裁、大正七(一九一八)年に外務大臣などを歴任、その後、大正九年から同十二年には東京市長となり、震災直後の第二次山本内閣では、内務大臣(二度目)兼帝都復興院総裁として世界最大規模の帝都復興計画にも携わった。]

 

○名刺を出す 一枚では當にならんと言ふ 五枚出す

○鴿の卵を見つけ(三つ) 鷄にかへさす 卵は蛇になる

[やぶちゃん注:「鴿」「はと」。鳩に同じい。]

 

○分量 戀愛 離惱 新思想 殘刻な等の制限を受く

[やぶちゃん注:「殘刻」ママ。]

 

○おれはあいつを殺したのにあいつの事を考へると屍體の事は考へてない 生きてる姿を考へる

○信輔 雨中の漏電の如き mental flash を欲す

[やぶちゃん注:「信輔」は芥川龍之介の自伝風小説「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月の『中央公論』に掲載)の主人公の名であるが、そこには出ない。しかし、同作は最後に芥川自身が、

   *

附記 この小説はもうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。

   *

と記している通り、同作は未完で、これを、その後のシークエンスのメモとして書いたことは明白である。しかし、もうお分かりの通り、「雨の」中の電線から「漏電」した火花の閃光のような精神の閃(ひらめ)きを「欲す」るというメモは、反故にされることはなく、遺稿となった阿呆一生」で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 

       八 火  花

 

 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の滿ちた中(うち)にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を發してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雜誌へ發表する彼の原稿を隱してゐた。彼は雨の中を步きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相變鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

 

   *

となって芥川龍之介の死後に閃光を放つこととなったのである。]

 

There is a plan that flowers only one in its life-time, though in 70 years ― the talipot-palm.

[やぶちゃん注:「七十年もの歳月を通して、その生涯でたった一度だけ花を咲かせるという生態を持つものがいる。それはタリポット椰子である。」。「talipot-palm」(タリポット椰子)は和名を単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)属コウリバヤシ Corypha umbraculifera と称する(本邦には自生しない)。ウィキの「コウリバヤシによれば、『南インド(マラバール海岸)およびスリランカが原産で』、『東南アジアから中国南部にかけて栽培されている』。『英名からタリポットヤシとも呼ばれる』。『世界で最も大きいヤシのひとつで、直径』一・三メートル、高さ二十五メートルに達する個体もあり、最大直径五メートルにも及ぶ掌状葉と、四メートルの葉柄及び百三十枚もの葉を持つ。『また、植物の中で最大の花序』(六~八メートル程度になる)『を持ち、幹の先端で形成される分岐した茎から数百万の花で成り立つ』が、『一稔性の植物で』、樹齢三十年から八十年の間に『一度だけ花を咲かせる。単一の種を含んだ黄色から緑色の直径』三~四『センチメートル程度の果実を数千個結実し』、一『年かけて実が熟した後、枯れてしまう』とある。因みに、このコウリバヤシの葉は、『歴史的に』「貝葉」(ばいよう:椰子などの植物の葉を加工し、紙の代わりに用いた筆記媒体で、東南アジア・南アジアで多く利用された。漢名「貝多羅葉(ばいたらよう)」の略称であるが、これは古代インドに於いて植物の葉が筆記媒体として用いられていたため、サンスクリットで「木の葉」の意味を持つ「パットラ」と、その素材として主に用いられたオウギヤシ(パルミラヤシとも。ヤシ科パルミラヤシ属オウギヤシ Borassus flabellifer)の葉を指す「ターラ(多羅樹)の葉」を漢訳したものであって、貝とは関係がないので注意されたい)『を作成するために用いられ、尖筆により』、『東南アジアの様々な文化』が、この葉に『書き綴られてきた』、ともある。]

 

老媼茶話拾遺 由井正雪 (その1)

 

     由井正雪

 

 慶安年中、駿河國油井と云(いふ)所に正雪(しやうせつ)といふものあり。元賤しき紺屋(こんや)の子也(なり)しが、十三の歳、高松半平と云浪人者を師として手習をならひ、隙に小瀨甫庵(おぜほあん)入道が作(つくり)し「太閤記」をみて、謀叛の志(こころざし)あり。十六の春、信濃國淺間嶽に立(たち)玉ふ水守大明神(みづもりだいみやうじん)とて楠(くすのき)が守り本尊を登りける。此(この)神主と示合(しめしあはせ)、神前の乾(いぬゐ)の角(すみ)の大杉の下をほり、石櫃(いしびつ)一箇(いつか)を埋(うみ)、其内、菊水の旗・甲(かぶと)一刎(ひとはね)・吉光(よしみつ)の九寸五分の脇差を埋(うづ)み、其後、年月、遙(はるか)に移り、東武淺草に來り、

「紀州家の牢人也。」

といふ。楠(くすのき)流の軍法を教(をしへ)、諸旗本の歷々を取(とり)、「平家物語の評判」廿四册を作り、我(わが)智を人にしらしむ。

[やぶちゃん注:本編は長いので、部分部分で注することとし、注の後は一行空けた。筆者は由井正雪とその謀叛話が非常に好きで、既に前でも記しているが、本最終巻は最後の二篇(切支丹物)を除き、総てがその関連譚である。注も既に記したものが多いが、最後なの煩を厭わず、再掲することとした。

「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年~慶安四(一六五一)年)ウィキの「由井正雪」より引く。『江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者で』、『名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある』。『出自については諸説あり、江戸幕府の公式文書では、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子としている。『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏の庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある』。『河竹黙阿弥の歌舞伎』(「樟紀流花見幕張」くすのきりゅうはなみのまくはり)き:「丸橋忠弥」「慶安太平記」の異称もある。全六幕。明治三年三月(一八七〇年四月)に東京守田座で初演)では、慶長十年に『駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門の子として生まれたと』し、『治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという』。十七『歳で江戸の親類のもとに奉公へ出』、『軍学者の楠木正辰の弟子とな』って『軍学を学び、才をみこまれてその娘と結婚』、『婿養子となった』。『「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり』、『一時は』三千『人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた』(以下、「慶安の変」の記載は略す)。『首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する』。

「慶安」一六四八年から一六五二年(慶安五年)までであるが、慶安四年年七月二十六日(グレゴリオ暦一六五一年九月十日)、由井正雪の幕府転覆計画は未然に知られてしまい、計画遂行のための駿府城の乗っ取り計画実行のために駿府に赴いていた正雪は、宿泊した駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に於いて、駿府町奉行所の捕り方に囲まれ、自決している。

「駿河國油井」現在の静岡県静岡市清水区由比。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「高松半平」ネット情報や「絵本慶安太平記」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像のここ)では、江戸を逐電してきた福島家の浪人とし、正雪が修学のために奉公した吉岡家の菩提寺清光寺(禅宗。所在不祥)の住職の親類筋に当たる人物とある。

『小瀨甫庵入道」安土桃山から江戸初期にかけての儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜ ほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)。豊臣秀吉の生涯を綴った「太閤記」(初版は寛永三(一六二六)年。全二十巻)や、織田信長の一代記「信長記(しんちょうき)」の著者として知られる(但し、「太閤記」や「信長記(信長公記)」は彼らの複数の伝記類の総称であり、同名の著作が複数ある。その中でも小瀬のそれは著名なもので、単に「太閤記」といった場合は小瀬のものが最も知られる)。

「水守大明神(みづもりだいみやうじん)」不詳。現在の浅間山の祭神としては見られない。調べてみるに稲荷神に「水守」を多く冠する。謀叛を祈念するには稲荷の妖力は頗る腑に落ちるが、以下で「楠(くすのき)」を「守り本尊」とするとあるから、もっと古い北欧神話の「ユグドラシル」(古ノルド語:世界樹)のような大樹崇拝の神か。浅間は火山神であるから、それを鎮めるための「水守」であるのかも知れぬが、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「乾(いぬゐ)」北西。

「刎(はね)」兜(かぶと)などを数えるのに用いる助数詞。「跳ね」と同語源とされるともあるが、これはもう、首を刎(は)ねるのそれであろう。

「吉光(よしみつ)」十三世紀鎌倉中期の刀工粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)。正宗と並ぶ名工で特に短刀作りの名手として知られた。

「九寸五分」二十九センチメートル弱。

「紀州家の牢人也。」

「楠(くすのき)流の軍法」楠木正成を祖とする軍略法。

「取(とり)」教授の門下に取り入れ。迎え入れ。

「平家物語の評判」小学館「日本大百科全書」によれば、新井白石が『正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀(れんじゃく)町の五間(いつま)の裏店であったこと、『平家物語評判』という書物を著したこと、などを書き残している』とあり、「慶安太平記 下巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像)にも「正雪平家物語評判記を作る事」という章がある。]

 

 或時、弟子大勢の前にて語けるは、

「我、此間、每夜、ふしぎの夢をみたり。『楠大明神也』と自(みづから)名乘(なのり)、甲冑(かつちう)を帶(おび)玉ふ人、我(わが)枕がみに立(たち)、『汝は我(わが)再身(さいしん)也、必(かならず)、疑ふ事なかれ、其印に我(わが)軍神、淺間嶽水守大明神、乾の老松(おいまつ)の下を掘(ほり)てみよ、必、印あるべし』といふ。三夜續(つづけ)て見申(みまうし)たり。如夢現泡影(によむげんぱうやう)とて、兒女子(じぢよし)だに、是をとらず。かやうの夢物語仕(つかまつり)候も、おこがましく、はぢ入申(いりまうす)。」

といふ。

 鵜野九郎兵衞、進出(すすみいで)、

「尤(もつとも)左樣に候へども、亦、夢にも神夢(しんむ)靈夢と申(まうす)事候へば、強(あながち)、はかなし、とて、捨(すつ)べからず。」

と申(まうす)。

 其後、五、六人、申合(まうしあはせ)、乾の大杉の下を深く掘(ほり)、見るに、果たして石櫃あり。弟子とも不思義におもひ、ふたをひらくに、しころなき桃形の甲一刎(はね)・眞向に銀にて正成(まさしげ)と象眼(ざうがん)を沈(しづめ)たる菊水の旗一流・九寸五分の小脇差・軍書一册、有(あり)。

 弟子ども、互に目を見合(みあはせ)、

「扨は正雪は楠が再來、必ず、疑ふべからず。」

と立歸(たちかへり)、正雪に、

「かく。」

と語(かたる。

 正雪、僞(いつはり)て淚を流し、

「此事、深くかくして玉はるべし。」

と、皆々の口を堅め、夫(それ)より密(ひそか)に「楠正雪」と、あらためける。

[やぶちゃん注:おう! モロ田舎芝居! 奸計じゃのう、楠正雪!

「如夢現泡影(によむげんぱうやう)」如何にも仏典や禅語に有りそうな文字列だが、そのまんまは見当たらないようだ。「夢現(ゆめうつつ)のごとき泡影(ほうえい:水の泡と物の影法師で、儚い対象を譬えて言う語)なり」の謂いか。或いは後半は四字熟語で「夢現泡影のごとし」と読む方がそれらしいか。

「鵜野九郎兵衞」門人として「慶安太平記」や「正雪記」に登場する。]

 

 是より聞傳(ききつたへ)て、正雪を重んじ、其名、夥しく世に弘(ひろま)り、爰(ここ)に東武弓町に四國浪人丸橋忠彌秀勝といふ者あり。生(うまれ)不敵にして、人を人ともおもわず、管鑓(くだやり)の師として、隙もなく大勢の弟子にもてなされありける。弟子どもに語(かたり)けるは、

「我父は太閤秀吉公より三代の孫也。關白秀次公、文祿四年の七月五日、人の讒言(ざんげん)に依(より)て紀州高野山にて御生害(ごしやうがい)の折節、愛妾の賤き御子(みこ)をはらむもの有(あり)。此女、四國の丸橋に逃來(にげきた)り。我祖父を儲(まうけ)、我に至り。我(わが)氏(うじ)、豐臣也。」

と語。諸人、是をきゝて誠(まこと)とす。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木枯の笠

 

     木枯の笠

 

 八月二十五日に故山を出発して東上の途中、居士は広嶋、厳嶋、尾道、岡山、小豆嶋寒懸(かんかけ)などに遊んだ。

 

   小豆嶋寒懸

 頭上の岩をめぐるや秋の雲

 

 その他数句がある。

[やぶちゃん注:「寒懸(かんかけ)」現在は寒霞渓(かんかけい)と表記するが、私が大学一年の時、卒業論文のために尾崎放哉の最期の地として小豆島を訪れた時、無償で宿を貸してくれた西光寺(放哉はこの寺の奥の院である南郷庵(みなんごあん)で没した)の住職杉本宥尚氏の娘さんたち(幸さんと文さんという名であった)は「かんかけ」と可愛らしく言っていたのを思い出す。]

 学年試験を受けずに帰った居士は、九月に追試験を受けなければならぬ。この間題については漱石氏に問合せていた模様であったが、上京後間もなく試験準備のため、大宮に赴いて万松楼(ばんしょうろう)に投じた。丁度萩の盛で、あたりは閑静でもあるし、「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」ったらしい。竹村黄塔(こうとう)、夏目漱石というような友人たちは、居士の手紙によって大宮に来り、各〻万松楼に一、二泊した。漱石氏の帰るのと同時に、居士も大宮を引上げたようである。漱石氏もこの時のことを「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」といっている。この滞在は十日ばかりで「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」り、試験はどうにか通過した。

[やぶちゃん注:「万松楼」現在の大宮公園にあった高級割烹旅館。推定であるが、附近(グーグル・マップ・データ)にあったと思われる。

「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十六日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出冊子で訂した。こんなものまであるのは、やっぱり、国立国会図書館、凄い!

「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注

「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。踊り字「〱」は正字化した。

「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」同じく「墨汁一滴」の「六月十六日」から。上記と同じもので訂した。]

 この年の「寒山落木」には

 

   十月廿四日平塚より子安に至る道に日暮て

 稻の香や闇に一すぢ野の小道

   翌廿五日大山に上りて

 野菊折る手許に低し伊豆の嶋

 

などの句がある。この旅行は文科大学の遠足会で、藤井紫影氏などは大山登りの途中ではじめて居士と言葉を交したのだという。この時居士は大学の制服を著ていたそうである。

[やぶちゃん注:「藤井紫影」後の国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)の号。淡路(兵庫県)生まれ。東京帝国大学卒業後、四高・八高の教授を経て、明治四四(一九一一)年、京都帝国大学教授となった。専攻は近世文学で「近松全集」「諺語大辞典」を編集し、著書に「江戸文学研究」等がある。大学時代から正岡子規と親交を持ち、俳句を始めた。句集に「かきね草」がある。]

 十一月上旬、居士は川越方面に遊んだ。武蔵野に試みた小行脚で、忍(おし)、熊谷、松山などの各地を歩いている。子規庵に現存する菅笠は、この旅行の際、蕨(わらび)駅あたりでもとめたもので、前に引いた「室内の什物」の中に「三日の間武藏野をさまよひて、時雨にも濡れず霰にも打たれず、空しく筆の跡を留めて發句二つ三つ書きたる菅笠なり」と記されている。

[やぶちゃん注:「忍(おし)」埼玉県北部の行田(ぎょうだ)市の中心市街地の旧地名。(グーグル・マップ・データ)。関東七名城のひとつに数えられる忍城の跡がある。

「松山」埼玉県東松山市附近。松山町の地名が残る((グーグル・マップ・データ))。

『「室内の什物」の中に』。先に示した「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」で確認されたい。そこには以上の言葉に添えて、

 

 春雨のふるき小笠や霰の句

 

の句が配されてある。]

 

 木枯やあら緒くひこむ菅の笠

 

という句は、この旅行の実感であろう。

 『筆まかせ』の終に合綴(がってつ)された「常盤豪傑譚」なるものがある。舎監たる鳴雪翁をはじめ、常盤会寄宿舎にいた人々の逸話を興味本位に記したもので、その最初に「明治二十四年十一月上旬旅行中熊谷小松屋にて書初む」と註記してあるのを見れば、旅宿の夜長にこの稿を起したのである。果して全篇のどの位を草し得たかわからぬが、滞留久しきに及んで無聊に苦しむ場合ならともかく、僅三日の行脚旅行に、昼は笠を被って歩き起りながら、夜は夜で旅宿に筆を執る。それも旅行とは全然関係のない「常盤豪傑譚」であるに至っては、その筆まめに驚かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「常盤豪傑譚」岩波文庫「筆まかせ抄」の最後に附された全目録によれば、「筆まか勢」第四編の『明治廿四十一月上旬より』としてこれ一篇のみが載る。未見。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木曾旅行

 

    房総行脚、木曾旅行

 

 明治二十四年(二十五歳)も依然常盤会寄宿舎にあった。三月中に碧梧桐氏が上京して、同じ寄宿舎にいたようなこともあるが、この時は高等中学の試験を受けるためだったので、文学的方面には格別の展開を見るに至らなかった。

[やぶちゃん注:「明治二十四年」一八九一年。

「二十五歳」無論、数えで正岡子規は慶応三年九月十七日(グレゴリオ暦一八六七年十月十四日)生まれであるから、この「三月中」は未だ満二十三歳。]

 三月二十日、居士は房総行脚の途に上っている。脳痛を医(いやさ)んがためとあるが、煙霞の癖(へき)の已みがたきものがあったのであろう。市川に菅笠をもとめ、雨に遭って蓑(みの)も買い、全くの行脚姿になった。後年の居士の歌に「旅行くと都路さかり市川の笠賣る家に笠もとめ著(き)つ」「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」などとあるのは、この旅行の際のことを詠んだのである。子規庵に長く伝わったのはこの蓑で、三十二年に書いた「室内の什物」なる文章に「十年前房總に遊びし時のかたみなり。春の旅は菜の花に曇りていつしか雨の降りいでたるに、宿り求めんには早く、傘買はんもおろかなり。いでや浮世をかくれ蓑著んとて、とある里にて購(あがな)ひたるが、著て見ればそゞろに嬉しくて、雨の中を岡の菫に寐ころびたるその蓑なり」と記されているが、買った場所は明(あきらか)でない、

[やぶちゃん注:「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」の「蓑」は諸引用を見ても「みの」で、字余りとなっている。

「室内の什物」明治三二(一九〇〇)年筆。「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」(子規没後出版)の「君が室内の什物」で画像で読める(画面操作によって単ページ・ダウン・ロード画像の生成も出来る)。]

 この行は船橋、佐倉、馬渡を経て千葉に到り、小湊、平磯、館山から那古、船形(ふながた)に詣で、保多、羅漢寺、鋸山等を歴遊、四月二日帰京した。行程九日である。帰来「かくれみの」を草して知友の回覧に供した。「かくれ蓑」「隠蓑日記」(漢文)「かくれみの句集」の三篇より成っているが、著しく目につくのは、巻頭の「かくれ蓑」の文章が西鶴張(ばり)になっていることと、俳句の作品が多くなったことである。句はなお見るべきものが少いけれども、

 

 馬の背に菅笠広し揚雲雀(あげひばり)

 菜の花の中に路あり一軒家

 鶯や山をいづれば誕生寺

 

などの如く、旅中の実感が旬になっていることに注意すべきであろう。

[やぶちゃん注:「馬渡」現在の千葉県佐倉市の南西部に位置する馬渡(まわたし)附近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。底本は「まわたり」とルビするが、現行地名が「まわたし」であるので、敢えて除去した。「隠蓑日記」の旅程を追うと、ここから「千葉」へ向かった後、そこから内陸を南進して長柄山(現在の千葉県長生郡長柄町長柄山。ここ)越え、大多喜に出ていることが判る。従って「平磯」は房総半島東端の南房総市千倉町平磯(ここ)であり、そこから内房総に移って海岸線を北上した。「羅漢寺」は現在の千葉県安房郡鋸南町の鋸山にある曹洞宗乾坤山(けんこんざん)日本寺のことであろう。ここは鋸山羅漢石像群で知られるからである。ルートこそ逆方向で独り旅ではあるのだけれど、その主なロケーション(小湊(誕生寺)・那古・保多)といい、風体(ふうてい)といい、これはまさに漱石の「こゝろ」の「先生」ととの房州行を髣髴させるではないか! ここここここ(総て私のブログ版「心」初出版。サイト一括版(後の「先生と遺書」パート)はこちら)だ。或いは漱石は、「こゝろ」のこのシーンを、心密かに正岡子規へのオマージュ或いはレクイエムとして捧げていたのではあるまいか?

「かくれ蓑」「隠蓑日記」「かくれみの句集」今までも参考に供してきた国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第八巻(少年時代創作篇)」(大正一四(一九二五)年アルス刊)で、総て画像で読める。リンク先の左コンテンツの「目次・巻号」を表示し、そこの各篇をクリックされたい。]

 向嶋木母寺(もくぼじ)内の茶店の二階を借りて、三日ほど哲学の試験勉強をやったのもこの春であった。蒟蒻版(こんにゃくばん)のノートを読むことに倦(う)むと、手帳と鉛筆とを持ってあたりを散歩する。帰ると俳句や歌を推敲する。結局ここにいる間にノートを読むこと一回半、俳句と歌を得ること二、三十、試験はどうやら無事に通過した。「もっともブッセという先生は落第点はつけないそうだから、試験がほんとうに出来たのだかどうだか分った話じゃない」と後年当時のことを回想した文中に述べている。

[やぶちゃん注:「向嶋木母寺」現在の東京都墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。本尊は地蔵菩薩及び元三(がんさん)大師。ここ

「蒟蒻版」謄写版の一種。寒天にグリセリンと膠(にかわ)を混ぜて煮て作った版に、特殊なインクで書画を書いた紙を当て、転写したものを原版として印刷したもの。寒天版。呼称は初期は蒟蒻(こんにゃく)を使ったとも、版がぶよぶよした蒟蒻状であったからとも言う。

「もつともブツセといふ先生は落第點はつけないさうだから、試験がほんとうに出來たのだかどうだか分つた話ぢない」これは宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十五日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子で訂した(「ほんとう」はママ)。この「ブッセ」はカール・ハインリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・ブッセ(Carl Heinrich August Ludwig Busse 一八六二年~一九〇七年)でドイツ出身の哲学者。お雇い外国人として明治二〇(一八八七)年から明治二五(一八九二)年まで東京帝国大学で哲学講師を務めた。後に哲学者となった西田幾多郎も教え子の一人であり、帰国の際には、当時、同大英文科第三学年に在学中夏目漱石がクラスを代表してブッセ宛に「別離の挨拶」を英文で認(したた)めている。ここは「こゝろ」のKが哲学に関心を示し出す辺りとも皮肉にリンクしているように思われて興味深い。]

 五月、高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た。中学の同窓たる碧梧桐氏の紹介によるのである。碧梧桐氏は当時受験のため上京中であったが、直接居士に話さずに手紙で紹介したと「子規を語る」の中に記されていたかと思う。虚子氏もまた俳句をしたためて送ったものと見えて、居士は碧梧桐氏の場合と同じく、返書において一々これを評している。

[やぶちゃん注:「高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た」虚子も愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)生まれである(旧松山藩士池内(いけのうち)政忠の五男)。明治二十四年当時は伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)の三年で、河東碧梧桐と同級であったことから、彼を介して正岡子規に兄事し、まさにこの年、子規より虚子の号を授かっている。二年後の明治二六(一八九三)年、碧梧桐とともに京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学した。]

 六月、学年試験を抛擲(ほうてき)して帰国の途に上った。四月七日大谷是空氏宛の手紙を見ると、房総行脚のことを述べた末に「この夏もまた同じ姿で木曾道中と出かけるつもり」云々とあるから、前々からの予定を実行に移したものであることは明である。特に木曾路を選んだ理由について、居士は何も記しておらぬけれども、『風流仏』の舞台であることも、あるいは一理由になっておりはせぬかと思われる。

[やぶちゃん注:「風流仏」既出既注であるが、再掲しておく。幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:子規と同年)作の小説。明治二二(一八八九)年『新著百種』に発表。旅先で出会った花売りの娘に恋した彫刻師珠運の悲恋を描いた露伴の出世作。]

 この旅行の日次ははっきりわからぬが、先ず軽井沢に一泊してから、木曾駅より汽車に搭(とう)ずるまでの間、途中六日を費しているらしい。猿が馬場の木いちご、木曾の桑の実、奈良井の苗代茱萸(なわしろぐみ)など、菓物(くだもの)の居士をよろこばすものも少くなかった。この時の事を記したのが「かけはしの記」で、翌二十五年になって新聞『日本』紙上に先ず現れたのがこの一篇である。文中の句は後に改刪(かいさん)を加えたらしく、「寒山落木」に存せぬのがあるけれども、「かくれみの」に比すれば慥(たしか)に数歩を進めている。

[やぶちゃん注:「日次」(ひつぎ)は毎日・日数の意であるが、ここは旅程の意。

「猿が馬場」現在の長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ:標高九百六十四メートル)附近であろう。

「木いちご」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の類。私も偏愛する木の実であるが、思いの外、種は多い。

「奈良井」中山道の旧奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。

「苗代茱萸(なわしろぐみ)」正式な種和名。バラ亜綱バラ目グミ科グミ属ナワシログミ Elaeagnus pungensウィキの「ナワシログミによれば、『別名タワラグミ、トキワグミ。 盆栽としてはカングミの名で呼ばれることが多い』。『日本の本州中南部、四国、九州、中国中南部に分布する。海岸に多いが、内陸』でも見かける。『常緑低木で、茎は立ち上がるが、先端の枝は垂れ下がり、他の木にひっかかってつる植物めいた姿になる。楕円形の葉は厚くて硬い。新しい葉の表面には一面に星状毛が生えているため、白っぽい艶消しに見えるが、成熟するとこれが無くなり、ツヤツヤした深緑になる』。『開花期は秋』で、『公園木、海岸の砂防用、庭木として植栽されている』。『果実(正確には偽果)は春に赤っぽく熟し食べられる。ナワシログミの名は、稲の苗代』(四~五月頃)『を作る頃に果実が熟すること』に由来する。『葉にはウルソ酸(ursolic acid)オレアノリン酸(oleanolic acid)、クマタケニン(kumatakenin)、ルペオール(lupeol)、β-シトステロール(β-Sitosterol)、3,7-ジメチルカエンフェロール(3,7-Dimethyl kaempferol)などの成分が含まれ』、『中国では生薬として「胡子」(こたいし)の名で』古く「本草綱目」「本草経集註」などにも記載がある。「本草綱目」は『葉の性質を「酸、平、無毒」とし、咳、喘息、喀血、出血、癰疽に効用があると』している、とある。これも私はかつてよく裏山で食べた。

「かけはしの記」「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 

 山々は萌黃(もえぎ)淺葱(あさぎ)やほとゝぎす

 馬の背や風吹きこぼす椎の花

 桑の實の木曾路出づれば穂麥かな

 

[やぶちゃん注:「萌黃淺葱」「萌黃」は黄と青の中間色で葱(ねぎ)の萌え出る色の意であり、「淺葱」(時に「葱」を「黄」と混同して「浅黄」とも書く)は薄い葱(ねぎ)の葉の色の意で、緑がかった薄い藍色であるから、ここはそれぞれ切って色を山景に配して味わうべきである。]

 松山帰省中、居士は永田村の武市雪燈(名は庫太、蟠松とも号す)の居に遊んで句会を催したりしている。碧、虚両氏が影の形に従う如く、その身辺に現れるようになったのは、この夏の帰省からである。

[やぶちゃん注:「永田村」現在の愛媛県伊予郡松前町(まさきちょう)永田か()。

「武市雪燈」子規の友人で後に政治家となった武市庫太(たけいちくらた 文久三(一八六三)年~大正一三(一九二四)年)。伊予(愛媛県)生まれ。松山中学から同志社大学を経て、この時より三年前の明治二一(一八八八)年には自由党に入り、後、愛媛県会議員や県農会初代所長などを経て、衆議院議員(当選六回)となった。]

 

2018/01/25

芥川龍之介 手帳9 (1)

 

芥川龍之介 手帳9

 

[やぶちゃん注:現在、この原資料は不明で、岩波新全集は旧全集を元としているので、底本は岩波旧全集第十二巻の「手帳(九)」に従った。なお、ここまで手帳ナンバーは新全集と同じアラビア数字を使用してきた関係上、それを使う。先の《8-1》というような通し番号は附せないので用いない。但し、今まで通り、旧全集の句読点は旧全集編者がほどこしたものであることは明白(これまでの芥川龍之介の手帳の癖及び新全集の本手帖の原資料からの活字化様態から)なので総て除去した。除去の跡は基本一字空けとしたが、私の判断で除去して詰めた箇所もある。「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では□が記されているが、ここでは「■」で示した。また、「×」があるが、これは本当に「×」であるのか、旧全集編者による伏字かは明瞭ではない。前の「手帳8」では編者の政治的判断で「×」とした箇所が存在することが新全集の再判読で判明したからである

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、メモされた内容の中で確定出来るものとして最も古い関連作品は「大導寺信輔の半生」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)で、その後は「河童」「歯車」「侏儒の言葉」と続き、「カルメン」(大正一五(一九二六)年七月『文藝春秋』)を挙げている。]

 

○庭つちに皐月の蠅のしたしさよ

○サイダアにて口を火傷す 小僧

○この寺はただ木石の夜寒かな

○印刷屋の二階 下のリンテンキ鳴る 小さい汽船中にゐる如し ねられる(大和のりのレツテル インクのレッテル 縮刷朝日)

[やぶちゃん注:「ねられる」は「ねられぬ」の誤記か誤判読であろう。]

 

○ジムバリスト航海中の作曲を送る

[やぶちゃん注:ヴァイオリニストのエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist:ロシア語名:Ефре́м Алекса́ндрович (Аро́нович) Цимбали́ст:エフレム・アレクサンドロヴィチ(アロノヴィチ)・ツィンバリスト 一八八九年~一九八五年)。指揮や作曲・編曲も手がけた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれ、指揮者であった父の楽団で八歳になる頃にはヴァイオリンを弾いていたという。十二歳でペテルブルク音楽院に入学、卒業後、ベルリンでブラームスの協奏曲を弾いてデビュー、一九〇七年にはロンドンで、一九一一年にはボストン交響楽団と共演してアメリカでもデビューし、その後はアメリカに定住した。古い時代の音楽の演奏によって、大いに人気を博した。大正一一(一九二二)年の初来日以来、四度に亙って来日した。(以上はウィキの「エフレム・ジンバリスト」に拠った)。]

 

○外にチヤルメラ吹き來る 方々へむける故 音かはる

○室外の日光は室内の光よりも百倍つよし 卽室外の一年は室内の百年に當る

[やぶちゃん注:紫外線による皮膚癌等のリスクの上昇やDNAの重大な損傷を考えれば、この芥川龍之介の言は医学的生物学的正しい感じがする。]

 

○電車にとび上らんとし 落ち 人事不省になる 住所を英語にて言ふ それより自信を生ず

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した「貝殼」の以下の章の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       十三 「いろは字引」にない言葉

 

 彼はエデインバラに留學中、電車に飛び乘らうとして轉げ落ち、人事不省になつてしまつた。が、病院へかつぎこまれる途中も譫語(うはごと)に英語をしやべつてゐた。彼の健康が恢復した後、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを話して聞かせた。彼はそれ以來別人のやうに彼の語學力に確信を持ち、とうとう名高い英語學者になつた。――これは彼の立志譚である。しかし僕に面白かつたのは彼の留守宅に住んでゐた彼の母親の言葉だつた。

 「うちの息子は學問をして日本語はすつかり知り悉してしまひましたから、今度はわざわざ西洋へ行つて『いろは字引』にない言葉を習つてゐます。」

 

   *]

 

○カツパ語の語原 たとへばBAPRR(莫迦)はBAP(莊嚴)より來るが如し 又カツパには月光も日光なり

[やぶちゃん注:「BAPRR(莫迦)」「BAP(莊嚴)」は河童世界の架空言語と考えてよいが、英語の“Bap.”“Baptist”(バプテスト派(浸礼派):幼児洗礼を認めず、成人して信仰告白をした者にのみ全身洗礼を行なうべきと主張する、聖書主義の保守派)の意があるから、それを芥川龍之介は皮肉に掛けているように私には思われる。これは昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表された「河童」を書くに当たって、「Kappa」語(実際に作中にアルファベットで示される)についての言語学的体系及び文化的言語感覚をそれなりに芥川がしっかりと考えていた証しと言える(リンク先は私の草稿附き電子テクスト。他に私は別ページ仕立ての「芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈」や、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』等、多彩な変わり種テクストを用意してある。お尋ねあれかし。]

 

○少年 禁煙 もろこしの毛を煙管につめてのむ

○樺太 ギリアアク犬 教導犬 二匹分一匹につとめる 氷の穴の中にて子をうむ 橇は他種の犬 ○黑百合あり ○氷の上を自動車にて走る シベリアとつづく 自動車を八十圓(トラツク)にて賣る 買ひ手なし ○鑵づめ三年分 ○海豹の敏感 七八町先にて人間を感ず ○ギリアアク犬五頭小樽は通り函館にてかへす 食糧人間よりかかる ○橫須賀へつき蛙をきく なつかし 東京ではなかず ○氷やけ 潮風を感ずる手

[やぶちゃん注:「ギリアアク犬」ここは所謂、シベリアからカナダ北極圏にかけてのツンドラ地帯を原産地とするシベリア犬(Siberian Husky:シベリアン・ハスキー:祖先はスピッツと同系とされる)ではなく、樺太及び千島列島で作り出された樺太犬(からふとけん: Sakhalin Husky:サハリン・ハスキー)であろう(樺太犬の剥製や写真を見るに、シベリアン・ハスキーとはかなり違う)。ウィキの「樺太犬」によれば、アイヌやニヴフ『などの北方の民族が犬ゾリ・猟犬に使っていた(いる)犬種』で、明治四三(一九一〇)年から二年、『白瀬矗を隊長とする南極探検隊に同行し』、『犬ぞり用の犬として活躍し、戦後の南極地域観測隊第一次越冬隊でも犬ぞり用の犬として採用された』『タロとジロのエピソードにより』、『有名な犬種。北海道では昭和』四十『年代くらいまで、車や機械にとって替わられるまで漁業、木材の運搬、電報配達、行商などに使役犬として働いていた。車社会の到来とともに使役犬として必要のなくなった樺太犬は他犬種と混血して雑種化したり、野に放されたものは』、時折しも、『エキノコックス症の発生とも時期が重なって』、野犬狩りに遇うなどし、一九七〇年『代頃にはほぼ絶滅してしまった』とある(涙)。以上に出たニヴフは、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族で、古くは「ギリヤーク」と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語であるニヴフ語を持っている。

「二匹分一匹につとめる」これは二匹で一頭分の仕事をこなすというのではなくて、社会性が非常に高く、分業や割当に於いて高度な調教と効率の良い実労働が可能であることを指しているように思われる。]

 

○婆曰 うちの旦那はえらい 日本語はすつかり覺えてしまつて外國へ行つて辭引きにない字を學つてゐる

[やぶちゃん注:先に注した「貝殼」の『十三 「いろは字引」にない言葉』と同内容のメモ。]

 

○釜に金魚 植ごみ

○家中にて動物園へ行く 象談出る(子供たち) 姉曰 象強し 鐵砲にも打たれぬ いざと言へば釘を足の裏へさせばよし(皆默つてゐる) (突然) 豚の尻尾は柿の蔕だね ○妹曰、あれは猪 母曰 いつか駱駝に紙をやつたね 妹曰 あれは羊だ(笑ふ) 母曰 福島中佐の馬ゐるか? 末弟 末妹曰 馬なんかゐなかつた 福島中佐つて何だ? 母曰 シベリアをぬけた人だ(ボンヤリ) ○虎談出る(男の子たち) 牛を手でころす話 いざとなればヤツと氣あひをかけ虎の口ヘ手をつつこめば殺すことを得べし 猫をこはがる少年 一つ上の姉送つてやる 中學三年にもなつていかれぬやつはない 姉 妹と思はる 中學生もトシ子トシ子と言ふ お前は子供にかへつたか おしろいなどつけてゐる(コノ間末弟虎のまねをして步く)

[やぶちゃん注:「トシ子トシ子」の後半は底本では踊り字「〱」。思うに、これは高い確率で盟友の画家小穴隆一が語った話をメモしたものではなかろうか? 私の『小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」』を読まれたい。酷似したシーンが登場するのである。

「談」二箇所とも「ばなし」と訓じておく。

「蔕」「へた」。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮し、その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 

○兄妹 レモン――父は縣會議員 兄は早稻田に入り ソシアリストとなる よびかへされる カンキンさる カンキンされし所は島なり ××部屋 ××感激ス 長崎の新聞に入り 又東京へ來り 或新聞に入る 又長崎へかへる 妹病にて死にさうなり 妹レモン食ひたいと云ふ故長崎をさがしてもなし レモンを送つてくれと東京へ手紙を出す

[やぶちゃん注:この話、二人とも長崎から上京して芥川龍之介に弟子入りした、蒲原春夫(かもはらはるお)或いは渡辺庫輔(くらすけ)辺りからの聞き書きではあるまいか。]

 

○ワクラバニワガ見出ツルナメクジリ硝子ノ箱ニカヒニケルカモ

○子セムシ 親辯士にせむとす 樂屋うちの使にせられ 喜劇などのツマ辯士に使はる 辯士は前借を重ね 素人の座主に抑へられず 逃げられればその辯士につきし客も去る 辯士仲間に組合あり (河岸人 座主も河岸人)

[やぶちゃん注:この話、何か読んだ気がするのだが、どうしても、思い出せない。思い出したら、追記する。]

 

○樂の菓子鉢を sweets 入れに使はむとす しかし郊外にすむ 日本の炊事婦煮豆などを作り それを入れる爲に樂の色よくなる(海外談)

[やぶちゃん注:「樂」楽焼。素人が趣味などとして作る、低い温度の火で焼く陶器。]

 

○向うで二人並んで顏を洗ふ(ホテル) ひとりの腰より何か落つ 他の一人の何かと思ふ 一人あわててそれをしまふ 他の一人何かと言ふ 一人出して見せる バツトの箱位の布に木綿糸にてクリストの像 上に聖書の文句あり 二人とも外交官 一人の前任地にてつくる

[やぶちゃん注:「バツト」「ゴールデンバット」日本産煙草の銘柄(Golden Bat)のこと。ウィキの「ゴールデンバット」をどうぞ。]

 

○寫眞に畫の具があるんだよと一人言ふ 一人曰領事につかまり一畫帖を出さる 畫の具なしと言へば畫の具持ち來る その畫の具シヤシンの畫の具なり 卽ち茄子を書く 向ふにも茄子あるかねと一人言ふ 一人曰あるさ

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、一部、意味が判らぬ。]

 

○服はシヤツのやうにつくれと言ふ(ハイカラ)洋服屋の作り來る洋服シヤツの如くにしてシヤツを着ては着られず

○兎屋の母 信州の溫泉へ行き 東京へ行く男に河鹿 櫻實 笹餅をとどけさす 土瓶の中に河鹿あり 男六十二匹 女二匹 女を別にしないと皆男を食ふ 河鹿は死ぬ時合掌して死す

[やぶちゃん注:「兎屋」現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。これはかなり有名な話で、日経の「Bunjin東京グルメ」の第三回、我妻ヒロタカ氏の記事「『うさぎや』~喜作最中がつむいだ"思い"~(前編)」同(後編)でどうぞ、ご賞味あれかし! なお、実は芥川龍之介の全集版の遺書の「芥川文あて」には(リンク先は私の旧全集版の方の遺書電子テクスト)、自作の出版権の下りで謎の『谷口氏』なる人物が登場するのであるが、比定候補の一人が、なんと、この店主なのである。芥川龍之介の葬儀実務も彼が取り仕切った。

「河鹿」「かじか」。無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエルBuergeria buergeri。美しい鳴き声を楽しむため、江戸時代から贈答にされた。青蛙(アオガエル科 Rhacophoridae類は性的二型で♀の方が♂よりも有意に大きい。但し、蛙で鳴くのは♂のみ。

「櫻實」「さくらんぼ」。]

 

○漆の師匠をとふ 留守 鄰にて聞けば手紙があるさうです 師匠もお上さんもるす 上りて手紙を見れば午頃まで待てと言ふ手紙なり そこへ半玉二人來る 手紙がありますよと言へば上りてよみ 笛 鼓などをいぢりて待つ

○女優募集の看板を出して女を釣る そこへ女たづねて來る 男はその女にこんな所へ來るなと言ふ そこへ刑事來り 二人ともつかまる

 

芥川龍之介 手帳8 (27) 《8-35~/8-40》 / 手帳8~了

《8-35》

○ぞろぞろと白楊(どろ)の並木も霞みけり

[やぶちゃん注:この句は抹消されていない

「白楊(どろ)」キントラノオ目ヤナギ科(ポクラ)ヤマナラシ属Populus のポプラ類であるが、本邦に自生する種はヤマナラシ属ヤマナラシ(山鳴らし:ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii)・ドロノキ(泥の木:ヤマナラシ属ドロノキ Populus suaveolens)・チョウセンヤマナラシ(Populus tremula var. davidiana)の三種で、それに対し、明治期に導入された外来種を一般には「ポプラ」と呼んでいるようである。外来種は、ウィキの「ポプラ」によれば、『外来ポプラの和名は非常にややこしく、整理された和名がない。そのため同一種でも別名や別表記が多く、学術論文ですら混乱しており、植物園などの表記にも不統一なものが多い。以下の名称も統一名称ではない』とした上で、以下の三種他を挙げてある。『Populus nigra ヨーロッパクロポプラ  別名・ヨーロッパクロヤマナラシ。ヨーロッパ原産。日本には明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた』。『Populus nigra var. italica セイヨウハコヤナギ 別名・イタリアポプラ/イタリアヤマナラシ。ヨーロッパクロポプラの改良種。直立する羽状の美しい樹形で知られ、並木に適する』。『Populus tremuloides カロリナポプラ(Carolina Poplar)別名・アメリカポプラ・アメリカヤマナラシ・カロライナハコヤナギ等。北アメリカ東部原産。イタリアポプラのように高く伸びず、樹高が低くて管理しやすく暑さに強いため、市街地の街路樹としてよく利用される』とある。後者の外来ポプラの街路樹を見馴れている我々は直ちにそれらしか想起出来しない可能性が高い。この「どろ」というルビを重く見るなら、在来種の「ヤマナラシ」或いは「ドロノキ」を指すことになるが、俳句の音数律に合わせた可能性の方が遙かに優先することを考えれば、ここは外来種のポプラでよいように思う。但し、この句が遡る中国特派の終り頃の回想吟であるとすると、俄然、中国東北部にも植生するドロノキ Populus suaveolens である可能性が高まるとは言える。]

 

○まんまろに入日かかるや野路の杉

○鶯や茜さしたる雜木山

[やぶちゃん注:この二句(抹消なし)は底本新全集にはなく(現存する本「手帳8」と仮称する原本には、ない、ということである)、旧全集に載るものである。新全集ではここより一条前で見開き《8-34》が終わっている以上、落丁の疑いは極めて低く、良心的に考えるならば、投げ込みか、貼りつけとなるが、実は、この後の以下の「この村の白楊もそろり」以下、実に、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が、旧全集では脱落していることを考えると、何か、不審な感じがする。単に落丁であるなら、新全集の編者が再検証した際に、この有意なページ落丁に気づくであろうし、それが新全集後記に記されていない以上、寧ろ、旧全集編者が、何らかの理由で(ただの凡ミスも含めて)活字化しなかった可能性が高いように私には思われる……実は、この劣化した原物は、私の家から徒歩一時間もかからぬ、私の眼と鼻の先の、藤沢市文書館に所蔵(死蔵)されているのである(劣化対策もされず、画像撮影とそのブラッシュ・アップといった最新処理が成されていない以上、「死蔵」というのが正しいと私は思う)。見たいが、アカデミストでない私には見せてくれないに決まっている。ああ、見たいなぁ……

 

○この村の白楊もそろり

[やぶちゃん注:抹消なし。前注で述べた通り、ここから、見開き《8-39》の五行目「北西川路西安樂里23  鍋島政男」までの多量な条々が旧全集では脱落している。]

 

○倉屋敷703  里見

[やぶちゃん注:「里見」不詳。晩年の知人作家なら里見弴であるが、彼はその後なら、永く鎌倉に住んでいたが、鎌倉には昔も今も「倉屋敷」などという地名は、ない。大正末から昭和初年にかけて里実がどこに住んでいたかは知らぬ。]

 

○マジメ――コツケイ

○スキイ

     >去ル原因

 危險思想

   {名ヨ慾

○怪談{金錢欲

   {作家慾

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。「慾」「欲」の違いはママ。]

 

産兒擴張

○産兒擴張? 宗教? 哲學? 工業? 商業? 家庭制度

《8-36》

曹雲西

[やぶちゃん注:「曹雲西」元代の文人画家曹知白(一二七二年~一三五五年)の号。華亭 (江蘇省)の出身。一時、官途に就いて、水利の専門家として灌漑事業などによって巨富を築き、後は豪奢な生活と文人画家らのパトロンとして数々の逸話を残した。山水画を得意とし、元代の李郭派山水画様式の典型ともされる。]

 

〇八大=逆襲

[やぶちゃん注:「八大」(命数? 名前?)が何を指すのか、これでは判らぬので、不詳であるが、芥川龍之介が好み、作品も入手していた清初の画家朱耷(しゅとう 一六二六年~一七〇五年)の号は「八大山人」で、ウィキの「八大山人」によれば、『江西省南昌に在した明朝の宗室で、洪武帝第』十七『子の寧王朱権の』九『世の孫で、石城王の一族出身。朱謀𪅀の子、朱謀垔の甥。少年の頃から詩文を詠むなど秀才であった。官吏を目指し、科挙試験を受けるため』、『民籍に降り、初頭段階を経て応試の資格を得』たが、一六四四『年に明朝そのものが瓦解したため、その夢は断たれた』。『清軍の侵攻を避けて臨川県・進賢に逃げ』、一六四八『年に出家』し、『その地の禅寺である耕香庵に入った。一説には、清朝が庶民に強制した辮髪を避けるため』、『とも言われている。そこで仏道修業に励み、数年後には宗師となった』。『仏門に入って』二十『年後、百人近い弟子を持ち、寺の外にも評判が聞こえていた』ことから、『警戒され、県令の胡亦堂の命により官舎に軟禁状態とされた』。一時は『拘禁に耐えていたが、ついには僧服を焼き捨てて』、『南昌へ』遁走したが、『仏曹界から離れ、政治力の無い一庶民となったことにより』、『警戒も解かれた』。『その後、妻を娶ったことから、清の俗である辮髪にしたものと考えられている。世間との交流を避け、数少ない飲み友達と酒を飲み、絵を描く生活を送った。画でも高い評判を得たが』、『それを売って富を蓄えるようなことはせず、知人に惜しげもなく与えたり、訪ねた寺の小僧にせがまれて渡したりする程度で、山人は貧窮の生涯を送った』。『水墨花鳥画の形式を基本とし、花卉や山水、鳥や魚などを多く題材としつつ、伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。だが、八大山人の筆を評するに、その描く鳥の足を一本のみで表したり、魚などの目を白眼で示すなど』、『時に奇異とも取れる表現を用いている点を避けることは出来ない。白眼は、阮籍の故事に倣い中国では「拒絶」を表現するものとされる。そこから汲み取れるように、その作画の中には自らの出目であり滅び去った明朝への嘆きと、その眼に侵略者と映る清朝への、屈してしまったからこそ』、『心中でより激しく沸き立つ反抗が暗に表現されている』。『晩年に近くなってからの号「八大山人」には、その由来について諸説』あり、『僧でもあった経歴から』、『仏教用語に由来を求める説がある。「六大」というあまねくものを網羅する意を』、『更に拡げ』、『「八大」としたとの内容だが、発狂』(これは以上の、僧衣を焼き捨てて遁走したことなどを初めとする奇矯な行動によるもので、例えば平凡社の「百科事典マイペディア」の記載には『狂人のような行動が多かった』と明記されてはいる。しかし、これはある意味、中国史の賢者が権力や汚穢した世俗を避け、拒絶するためによくやる「佯狂(ようきょう)」であろうと私は思う。近現代なら、一本足の鳥(実際に鳥は一脚で立つことはしばしばある)や白眼の魚を描いたからといって、それを即、狂人とする者は、まず、おるまい)『して棄教した山人が名乗るには似つかわしくないとの反論もある』。一方で、彼はこの号を署名するに、『「八」「大」「山」「人」の四文字を潰し気味に』しており、それは『一瞥して八大の二文字で「哭」や「笑」』、四『文字あわせて「哭之(これをこくす)」とも見えることから、清朝のものとなった世への厭世感』(或いは「逆襲」としての拒絶)『に苛まれ、むしろこれらの字を崩して名としたとの説もある』(下線やぶちゃん)とある。以上の彼の奇矯な生涯を考えると、この「逆襲」の意味が腑に落ちるような気も私はするから、或いは「八大」とは彼のことなのかも知れない。]

 

○畫帖

○新羅 仿古人物帖

    山水(人物)

    人物(山水)

[やぶちゃん注:「新羅」(?~一七五六年頃)は清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。

「仿古人物帖」既に述べた通り、「仿」は「倣(なら)う・模倣する」の意であるから、画家新羅が、先達の画家の描いた人物画を模写した画集の題と読める。

「山水(人物)」「人物(山水)」意味不明。妙なメモだ。「仿古人物帖」と名打った画集であるのに山水と人物が交互に描かれているというのか? 或いは山水画の中に同時に人物が描かれており、人物画の背景に必ず山水の風景が添えられているというのか?]

 

《8-37》

○北の山

○珠州久滿元祿の星辰にやとるやよひの末

[やぶちゃん注:お手上げ。ただ「珠州久滿」(「すずひさみつ」と読んでおこう)は、これで人名のように、まず、採れる。さすれば、これを切り離してみると、「元祿の星辰にやとるややよひの末」は「元祿の星辰(ほし)にやどるややよひの末」と下五が字余りながら雑排或いは芝居の台詞らしい感じになるから、或いは、珠州久滿は俳人か作劇中の登場人物か? と考えたが、しかし、この名も文句も、ネットでは一切、ヒットしない。だから、やっぱし、お手上げなのだ。]の

 

    {元祿甲申

○■■■{

    {支考序

[やぶちゃん注:三つの「{」は底本では大きな一つ。

「元祿甲申」は元禄十七年。但し、これは元禄の最後の年で、元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日) に宝永に改元されているから、事実上は二ヶ月半弱しか存在しない。「支考序」で三文字の誰かの撰集(であろうと踏んだ)という条件で探すと、あった! あった! 涼菟編の各務支考の撰集「山中集」自身が序を書いている(こちらのページのデータに拠る)。これか?

 

○ありのまま 闌更撰

[やぶちゃん注:「闌更」俳人高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。この「ありのまま」というのは正しくは「有り儘」で、彼の編した撰集。明和六(一七六九)序。因みに彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、まさに「ありのまま」を詠むことを節とした。]

 

○霞形

○浪花上人發句集

[やぶちゃん注:浪化(元禄一六(一七〇三)年~寛文一一(一六七二)年:東本願寺十四世琢如の第十五子。諱は晴研・晴寛、法名は常照。延宝五(一六七七)年に得度し、越中国の名刹井波別院瑞泉寺に入寺、元禄三(一六九〇)年には応真院と号した。向井去来の紹介により、京都嵯峨野の落柿舎で松尾芭蕉の門下に入った)の幕末に幸塚野鶴が編した「浪化上人発句集」の誤り(一般でもしばしば見られる)であろう。]

 

○去來文 寛政三

[やぶちゃん注:「去来文」「きょらいぶみ」(現代仮名遣)と読む。岸芷(がんし)編になる書簡形式の俳論書。寛政三(一七九一)年岸芷序。「愛知県立大学図書館貴重書コレクション」のこちらで画像でもPDFでも総てが見られる(但し、草書)。

 なお、以下には底本自体に一行空けがあるので二行空けた。特異点。

 

 

○生田長江 秋田雨雀 長與 中村吉藏

      小説

 小山内薰<  長田秀雄 岩野泡鳴

      飜譯

 内藤鳴雪 長田幹彦 井泉水

[やぶちゃん注:以上の一条(「○生田長江」以下「井泉水」まで)は底本では、全部、一行で繋がっている。ブログのブラウザの不具合を考えて、かく特異的に改行を施して示した。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。鳥取県生まれ。芥川龍之介の作品もよく読み、よく批評している。特に「一塊の土」(大正一三(一九二四)年一月『新潮』)を芥川龍之介が新しく一歩出た作品として高く評価しており、芥川龍之介の盟友佐藤春夫も最初に彼に師事しているから、面識はあったものと思われる。

「秋田雨雀」(明治一六(一八八三)年~昭和三七(一九六二)年)は劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)生まれ。彼の名が芥川龍之介の全著作物の中で出るのは恐らくはここだけであるから、親しくはなかったと考えてよい。

「長與」長与善郎(明治二一(一八八八)年~昭和三六(一九六一)年)は小説家・劇作家・評論家。東京生まれ。同時代作家ではあるが、白樺派でも頓に人道主義作家としられたから、芥川はあまり親しくはなかったと思われる。書簡には長与のドストエフスキイ崇拝を批判的に揶揄する記載なども見られる。

「中村吉藏」(明治一〇(一八七七)年~昭和一六(一九四一)年)は劇作家・演劇研究家。島根県生まれ。作品中に二度、名が出るが、親しくはなかったと考えて良かろう。

「小山内薰」(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年)は劇作家・演出家・批評家。「小説」「飜譯」とあるが、近現代演劇の革新に携わった以外にも、多くの小説やロシア作家の小説の翻訳なども手掛けている。ウィキの「小山内薫を参照されたい。芥川龍之介にとっては第一次『新思潮』の先輩であり、芝居好きでもあったし、主なテリトリーが演劇で異なっていた点で却って常に意識していても平気な作家であったことは疑いあるまい。

「長田秀雄」(ながたひでお 明治一八(一八八五)年~昭和二四(一九四九)年)は詩人・小説家・劇作家で演劇人(昭和一四(一九三九)年に築地小劇場が会社組織となった際の代表取締役)。東京生まれ。芥川は特に親しくはなかった模様である。

「岩野泡鳴」(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)は小説家・詩人。名東県津名郡洲本馬場町(現在の兵庫県洲本市)生まれ。ここに挙がった作家の中では唯一、芥川龍之介が親しく交わった作家である。何より、彼の文学サロン「十日会」(当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年から十二年の大震災までの時期は、万世橋の西洋料理店「ミカド」で徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らの主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。毎月一〇日に泡鳴からの案内ハガキにより会費制で開かれていた)に芥川龍之介も大正八(一九一九)年六月十日の会に参加し、当時の自然主義の平面描写論(小説は主観を交えずに事実をありのままに描くべきだとする考え方。田山花袋の命名)に対抗して岩野がぶち上げた一元描写論(小説では作者の主観を移入した人物を設定し、その視点から描写を一元的に統一すべきだとする考え方)について親しく議論をしている。因みに、恐らくはこの時の参加者の中に、後の芥川龍之介のファム・ファータルと化すことになる歌人秀しげ子がおり、龍之介は一目惚れしてしまったものと考えられる。

「内藤鳴雪」(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)は元伊予松山藩藩士で、後に明治政府の官吏となった俳人(歳下ながら、正岡子規の弟子)。詳しくは『子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 身辺に現れた人々』の私の注を参照されたい。

「長田幹彦」(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)は小説家・作詞家。先の長田秀雄の弟。芥川は兄同様、親しくはなかった。

「井泉水」荻原井泉水(明治一七(一八八四)年~昭和五一(一九七六)年)は自由律俳句の俳人。『層雲』を主宰し、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた(私は中学時代から二十代前半まで同派に属し、大学の卒論は「尾崎放哉論」であった。拙サイトには「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版正字體版)」他もある)。芥川龍之介に兄事した作家滝井孝作は『層雲』の俳人でもあったが、芥川龍之介は多少、新傾向俳句に色気はあったものの、自由律には批判的であったと思われ、また、井泉水の持つ一種の精神主義的求道的立場は芥川の嫌うところと私には思われるから、直接の接触はなかったのではないかと思う。]

 

《8-38》

○小公子 佐々木 Burnett

[やぶちゃん注:「小公子」(Little Lord Fauntleroy:「小フォントルロイ卿」)はフランシス・イライザ・ホジソン・バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett 一八四九年~一九二四年:イギリス生まれのアメリカ人作家)が一八八六年に書いた児童向け小説。「小公子」という邦題は、最初の邦訳者若松賤子(しづこ 元治元(一八六四)年~(明治二九(一八九六)年)が明治二三(一八九〇)年につけた。]

 

O久保田

[やぶちゃん注:盟友久保田万太郎か。]

 

○好色今美人 一册(永田■)

標題知らず 四册 桃林堂 序

好色またねの床 一册(■■■)

好色とし男 一册

[やぶちゃん注:「好色今美人」数多の好色本浮世草子の一種であろうが、不詳。「永田」とのセット。フレーズでもネットに掛からない。

「桃林堂」桃林堂蝶麿(とうりんどうちょうまろ 生没年未詳)江戸前期の浮世草子作者。元禄八(一六九五)年から宝永二(一七〇五)年にかけて、江戸で「好色赤烏帽子」など十数冊の好色本を残した。彼については、松尾芭蕉の門人であった天野桃隣(?~享保四(一七二〇)年:芭蕉と同じ伊賀上野の生まれで、各務支考によれば、芭蕉の従弟だとする。四十を過ぎた頃、芭蕉の援助を得て、俳諧師として独立した芭蕉が没した(元禄七(一六九四)年)後は、後ろ盾を失って次第に零落し、晩年は惨めな暮らしであったとされる)と同一人物とする説がある。

「好色またねの床」「好色亦寐の床」。五巻一冊。江戸前期の浮世絵師で版元の奥村政信(貞享三(一六八六)年~宝暦一四(一七六四)年)著・画になる浮世草子。宝永二(一七〇五)年板行。丸括弧内は三文字の判読不能字であるが、政信の三字の号には「芳月堂」「丹鳥斎」などがある

「好色とし男」作者不詳の浮世草子で元禄八(一六九五)年刊のそれか(全五巻か)。國學院大學図書館デジタルライブラリーの画像で総て(五巻分)読める。]

 

○大森山上二六一九 廣島龍太郎

[やぶちゃん注:住所・氏名ともに不詳。]

 

○丸山97  お若

[やぶちゃん注:杉本わか(生没年未詳)。長崎丸山遊廓の待合「たつみ」の、東検番の名花と謳われた芸妓照菊の本名。芥川龍之介は大正十一(一九二二)年五月十日から同月二十八日まで長崎に滞在したが、五月十八日に「たつみ」に遊んだ際に知り合った。芥川は彼女を非常に気に入り、「堂々としてゐて東京に出て來ても恥ずかしくない女」と評し、この滞在中、芥川龍之介畢生の名作「水虎晩歸圖」を銀屏風に描き、「萱草も咲いたばつてん別れかな」の句も与えている。後年、料亭「菊本(きくもと)」の女将となった。この女性。]

 

《8-39》

〇六番町3  南

○横須賀汐入124  加藤由藏(牧星)

[やぶちゃん注:「加藤由藏」(明治二三(一八九〇)年~?)は小説家。「牧星」はペン・ネーム。青森生まれ。新全集の「人名解説索引」によれば、『若年の頃から労働者となり、各地を放浪』、のちに『プロレタリア文学』系の『商業雑誌「新興芸術」などで作家として活躍』、『「富良野川辺の或村」などの小説を発表した』とある。旧全集書簡番号一二〇四(大正一三(一九一四)年(年は推定)六月二十二日附岩波茂雄宛)では、彼を岩波茂雄に紹介し、便宜取り計らいを請うている。]

 

○シナノ町鹽町の間 柳原愛子のそばのかじ

[やぶちゃん注:「シナノ町」現在の東京都新宿区信濃町(まち)。

「鹽町」旧四谷区には四谷塩町(現在の新宿区四谷本塩町及び四谷)があった。

「柳原愛子」「やなぎわらなるこ」(現代仮名遣)と読む。安政六(一八五九)年生まれで、昭和一八(一九四三)年没。明治天皇の典侍で大正天皇の生母。幕末の議奏(天皇に近侍して勅命を公卿以下に伝え、また、議事を奏上した職)柳原光愛(みつなる)の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪に当たる。]

 

○西信濃町二  佐藤春夫

[やぶちゃん注:盟友佐藤春夫。彼は大正一三(一九二四)年、西信濃町の弟秋雄方に寄寓している(十一月まで)。因みに、春夫は本名で春四月九日生まれだかららしく、彼の弟には夏樹もいる。]

 

○北四川路西安樂里23 鍋島政男

[やぶちゃん注:先に示した通り、「この村の白楊もそろり」から、ここまでが、旧全集にはない。

「北四川路」旧上海の地名。

「鍋島政男」不詳。中国特派の際に知り合った人物か。]

 

○山峽の杉冴え返る谺かな

○土用浪砂吸ひ上ぐるたまゆらや

○蒲の穗はほほけそめつつ蓮の花

○水をとる根岸の糸瓜ありやなし

○枝豆をうけとるものや澁團

[やぶちゃん注:旧全集では下五が「澁團扇」。そちらの方が腑には落ちる。]

 

○初霜の金柑のこる葉越しかな

○菜の花は雨によごれぬ育ちかな

○三月や茜さしたる萱の山

○線香を干したところへ桐一葉

○山茶花の莟こぼるる寒さかな

○丈草集 野田別天樓

[やぶちゃん注:野田別天楼(のだべってんろう 明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久郡磯上村(現在の岡山県瀬戸内市)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から、正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句した。教師で、報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり、関西俳壇で活躍、後に『雁来紅(がんらいこう)』を創刊し、主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった(以上はウィキの「野田別天楼に拠った)。「丈艸集」は彼の編になる蕉門の内藤丈草の句文集で、大正一二(一九二三)雁来紅社刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

○芭蕉研究 樋口功

[やぶちゃん注:以上の二条は旧全集には、ない。

「樋口功」(ひぐちいさお 明治一六(一八八三)年~昭和一八(一九四三)年)の、芭蕉研究書としては評価の高い「芭蕉研究」は大正一〇(一九二一)年文献書院刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]

 

《8-40》

○山岨に滴る水も霞みけり

○藤の花軒端の苔の老いにけり

Kyobashi bow 9

[やぶちゃん注:旧京橋区弓町。現在の銀座の西部の内。]

 

High field woods

[やぶちゃん注:不詳。京都府南丹市美山町に高野森という地名がある。人名かも知れない。或いは「高埜森」という待合かも知れぬ。文夫人に判らぬように、愛人などと落ち合う場所をかく記した可能性は芥川龍之介の場合、十二分に、ある。]

 

Douris and the painters of Greek vases  Edmond Pottier  Dutton & Company  New York

[やぶちゃん注:以上の英文三条は旧全集には、ない。フランス人美術史家で考古学者でもあったエドモン・フランソワ・ポール・ポティエ(Edmond François Paul Pottier 一八五五年~一九三四年:生まれはフランス国境に近いドイツのザールブリュッケン)「ドゥーリスとギリシアの装飾壺の画家」(一九一六(大正五年相当)年刊)。「Douris」(ドゥーリス)は紀元前五〇〇年頃から前四六〇年頃にアッチカで活躍した古代ギリシアの赤像式陶画家の名(赤像式(せきぞうしき)陶器(red-figure pottery)とは、古代ギリシア陶器の一様式で「赤絵式陶器」ともいう。絵の部分を明赤褐色の素地のままに残し、周囲を黒く塗り潰して、絵の内部の線を細い筆で描くことで抑揚をつけて仕上げる。この新技法は起源前五三〇年から前五二〇年頃の短期間に現われ、それまでの黒像式陶器(赤褐色の陶土の素地の図像の部分を黒い顔料でシルエット状に塗り潰し、焼成後に眼や口・髪・衣装の文様などの細部を、鋭い尖筆で線描する技法)に比べ、非常に自由で豊かな表現力を有する描法であったことから、黒像式に代わって隆盛し、パルテノン時代にかけて頂点に達した。赤像式の技法は前三二三年頃に消滅した。稀れに全体を黒く塗りつぶした素地の上に赤褐色顔料などで絵付けしたものもある。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。素描の巧みさと優れた画面構成で知られ、多くの作品を制作した。

 以上を以って「手帳8」は終わっている。]

 

2018/01/24

芥川龍之介 手帳8 (26) 《8-33/8-34》~多量の抹消俳句稿の出現部

《8-33》

【庭】木石を庭もせに見る夜寒かな

[やぶちゃん注:「【庭】」は「庭」を最初に書いて削除(或いは「木」へ変更)をしたことを示す。全体が抹消されているため、以上のような表記を採った。以下も同じなので、この注は略す。

 なお、以下の俳句群は、ご覧の通り、殆んどが抹消されている。今までの凡例を崩すのはおかしいので、抹消線を附したのであるが、五月蠅くて鑑賞出来ないと言われるのであれば、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部で鑑賞されたい。そこでは底本の新全集と同じく、抹消されたものを〔 〕で括るだけで抹消線を附していないし、字も大きく作ってある。なお、抹消線が引かれてあるからと言って、芥川龍之介が、その句を完全に捨て去って、公に、或いは、友人らへの書簡へ記したりは全くしなかったわけではないことに注意しなくてはならない。例えば、この「木石を庭もせに見る夜寒かな」は完全な相同句を大正一三(一九二四)年六月二十三日附小澤忠兵衛宛書簡(旧全集書簡番号一二〇五)、同六月二十六日附小穴隆一(一游亭)宛(「近頃」と前書した二句目。旧全集書簡番号一二〇六)に記しており、次の「秋風や甲羅をあます膳の蟹」、四句目の「明星のちろりに響けほととぎす」に至っては、大正一五(一九二六)年十二月に新潮社から刊行した作品集「梅・馬・鶯」の、芥川龍之介自身が自句から厳選した「發句」にさえ所収されているからである(後者は「明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす」と表記は異なるが相同句である)。それを、いちいちの句について確認して注し、わざわざ怠け者の似非芥川龍之介研究家の資に供するつもりは、私には、毛頭、ない。私の「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」で各自で確認して貰えれば、済むことだ。そこまで――馬鹿な俺でも――オメデタクはねえ――ってことサ――

 

秋風や甲羅をあます膳の蟹

わが庭の雪をかがるや木々の枝

明星のちろりに響けほととぎす

入日さす豐旗雲やはととぎす

日盛りや梢は曲る木の茂り

乳垂るる妻となりつも草の餠

凩や木々の根しばる岨の上

[やぶちゃん注:「岨」「そば」であるが、今私は、ここは近世以前の「そは(そわ)」で読みたいと感じている。山の崖が切り立って嶮しい箇所、絶壁の意である。]

春雨や霜に焦げたる杉の杪

[やぶちゃん注:「杪」「うら」と読みたい。「梢(こずえ)」(「木の末」の意)と同義で木の幹や枝の先、木や枝の先端。木末(こぬれ)。芥川龍之介は名作「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中でも(リンク先は私の古い電子テクスト。因みに、私の渾身の授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』に、この語の注がないのは、教科書や使用した授業用テキストには語注があったからである)、

   *

 おれはやつと杉の根から、疲れ果てた體を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光つてゐる。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。何か腥(なまぐさ)い塊がおれの口へこみ上げて來る。が、苦しみは少しもない。唯胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまつた。ああ、何と云ふ靜かさだらう。この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに來ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂つてゐる。日影が、――それも次第に薄れて來る。――もう杉や竹も見えない。おれは其處に倒れた儘、深い靜かさに包まれてゐる。

   *

と出る。]

苔じめる百日紅や秋どなり

あらはるる木々の根寒し山の隈

日盛りや靑杉こぞる山の峽

夕顏や淺間が嶽を棚の下

   久米

   三兎

しらじらと菊をうつすや【屋根に沈みて朧月】絹帽子

底本では「久米」「三兎」の頭に編者による柱の○があるが、私の判断で除去した。「久米」は久米正雄のことであるから、その後の不詳の「三兎」とは、久米が「三汀」と号したことから、久米の別号とも考えられないことはない。すると、この前の句は芥川のものではなく、久米正雄の句である可能性が浮上してくることは既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で注した。二〇一〇年岩波文庫刊「芥川龍之介俳句集」では龍之介の句として採っている。しかし、後者の句は芥川龍之介の句で、先に出した作品集「梅・馬・鶯」の「發句」に、

 

  久米三汀新婚

白じらと菊を映(うつ)すや絹帽子(きぬばうし)

 

として載るものである(久米正雄の結婚は大正十二(一九二三)年十一月十七日)。そう考えると、この「久米」「三兎」(後者はよく判らぬものの)は、単に、句を贈る相手として彼の名を記しただけかも知れない。一応、注記はしておく。しかし、それにしても、この削除は本当にこうなっているのであろうか? 最初に削除していることになっている「屋根に沈みて朧月」は中七と下五である。しかし、挿入位置は中七の後である。どうもおかしい気がする。これはまず、

 

しらじらと菊をうつすや

 

と詠んで気に入らず、「菊をうつすや」の中七を削除して、

しらじらと屋根に沈みて朧月

 

としたものの、全然お面白くなく(まっこと面白くない)、「屋根に沈みて朧月」を削除した上で、改めて「菊をうつすや」を生かして、

 

しらじらと菊をうつすや絹帽子

 

としたものが、最終削除句稿だったのではないだろうか? 大方の御叱正を俟つ。

 

熊笹にのまるる馬よ

[やぶちゃん注:この上五と中七の抹消断片は旧全集には、ない。]

 

日盛や馬ものまるる笹の丈

沼べりの木々もぞろりと霞かな

《8-34》

切支丹坂は急なる若葉かな

小春日の鳥

[やぶちゃん注:この抹消断片は旧全集には、ない。]

 

薄雪をうち透かしけり枳穀垣

[やぶちゃん注:「枳穀垣」「きこくがき」。強力な棘を有する枳殻(からたち:ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata)で作った垣根。]

 

小春日や耳木兎とまる竹の枝

時雨るゝや峯はあけぼのの東山

あけぼのや軒ばの山を初時雨

からたちの打ちすかしけり春の雪

山川の瀨はあけぼのの河鹿かな

茅屋根に垂るる曇りや春どなり

庭芝も茜さしたる彼岸かな

尻立てて這うてゐるかや雉子車

[やぶちゃん注:「這う」はママ。「雉子車」(きじぐるま)は木製玩具の一種。「きじ馬」とも称する。ウィキの「雉子車」によれば、『「きじ」は「雉」と「木地」のダブルミーニングを持っていると言われる』。『九州地方独特の玩具であり、野鳥のキジを模して木材を削って造り、車輪と紐を付属させ、屋外で牽引して遊ぶ。産地は福岡県、熊本県、大分県に集中するが、佐賀県や鹿児島県でも僅かに製作される。発祥の地は阿蘇を中心とする山岳地帯とされる。東北地方を中心に見られる』「こけし」と『比較されることがあり』、「こけし」が『屋内で遊ぶ静的な玩具であるのと対照』的『に、雉子車は屋外で遊ぶ事を主眼とする動的な玩具であるという要素に、北国と南国の対比が反映されているという』とある。グーグル画像検索「雉子車」をリンクさせておく。]

 

夕鳥も小春はなかぬ【あはれさよ】軒ばかな

薄雪をうちすかしけり靑茨

夕鳥の聲もしづまる小春かな

からたちや雪うちすかす庭まはり

あけぼのや鳥立ち騷ぐ【片】村時雨

庭石に殘れる苔も小春かな

小春日や梟とまる竹の枝

小春日の塒とふらしむら笹

塒とふ鳥も小春の日あしかな

 

芥川龍之介 手帳8 (25) 《8-32》

《8-32》

○鐵齋 仿淸名家山水帖 菊 蘭竹山水三幅

[やぶちゃん注:「鐵齋」近代日本画の巨匠富岡鉄斎(天保七(一八三七)年~大正一三(一九二四)年)。

「仿淸名家山水帖」よく判らぬが、「仿」は「倣(なら)う・模倣する」の意であるから、鉄斎が中国清代の名画家の山水画を模写した画集ではあるまいか。

「菊」作品同定は出来ない。

「蘭竹山水三幅」不詳。]

 

○細君の籍を入れて貰ふ事 ⑵財産を分けて貰ふ時期のコト

○三反步 菊と生姜ばかり 東京市の芥を入れさせ(唯)その上に生ガをつくる 二反うる 坪130圓に賣 娘一人養子をし八百屋荒物屋をなす 福々なり

胃病或は酒

前は植木の手間とりをなす

一反百二三十圓 明治二十年頃

あと二反は家作とし一軒數十圓の家賃をとる

○家族制度は socialism なり 家族制度を説くもの(父、Capitalist)の矛盾せる individualism

[やぶちゃん注:「Capitalist」資本家・金持ち・資本主義者。

individualism」個人主義。]

 

○芋屋の轉宅 家を借せし方よろし

芥川龍之介 手帳8 (24) 《8-30/8-31》

《8-30》

○相愛の女結婚す その夜(雪ナリ)電報を打つ「タカサゴヤタカサゴヤ」名なし 女も夫も祝はれたと思ひ目出度がる

[やぶちゃん注:少なくともロケーションは芥川龍之介の人生最大のトラウマとなった吉田弥生との一件とは違う。破局を迎えたのは大正四(一九一五)年の一月中旬と推定されているものの、彌生が陸軍将校金田一光男と結婚したのは、同年四月末か五月初めで、雪のロケーションとは合わないからである。但し、この構想メモには彌生の影が付き纏っているようには読める。]

 

○美しい村

Proletariat の群に加はりつつ しかも Proletariat 出ならざる事を苦しむ loneliness.

[やぶちゃん注:旧全集では「美しい村」は丸括弧附きで、後の行の末に配されてある。これは芥川龍之介の草稿断片「美しい村」のメモと思われる。この原稿用紙九枚の草稿については、旧全集の同篇の末尾に『(大正十四年頃)』という編者による付記があるだけで、新全集でも新たな情報は記されていないのであるが、新全集の宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年二月二十二日に『作品の取材のため、千葉県八街(やちまた)』(現在の千葉県北部ある八街市。ここ(グーグル・マップ・データ))『に出かけ』ていることが書簡から判明しており、その取材をもとに『「美しい村」が起筆された』が未完に終わった旨の記載がある。なお、草稿小説内では八街を「淺井村」(但し、『今は村ではな』く、町とする)という設定に変えてある。なお、あるブログ記載によれば、これは八街で実際に起きた小作争議(恐らくは鈴木邦夫氏の論文「農民運動の発展と自作農創設 千葉県印旛郡八街町を事例として(PDF)に詳述されるものと思われ、その論文によれば、八街での本本格的な小作争議の開始は大正一二(一九二三)年秋とあるから、まさに当時の龍之介にとってアップ・トゥ・デイトなものであったことが判る)をモデルとしているとあるのだが、残念ながら、私が馬鹿なのか、現存草稿(原稿用紙九枚ほど)からはそうしたテーマを判読することは少なくとも私には出来ない。しかし、この一条のメモはそうしたものを感じさせるものでは、確かに、ある。]

 

○運轉手赤旗を靑旗と見あやまりカアブを半ばまはらんとす 旗ふり急に旗をふる 運轉手大聲に曰 まちがひましたー!

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の『文藝春秋』に掲載された小品集「貝殼」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 或運轉手」の素材(底本は旧全集。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

       四 或運轉手

 

 銀座四丁目。或電車の運轉手が一人、赤旗を靑旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。が、間違ひに氣づくが早いか、途方もないおほ聲に「アヤマリ」と言つた。僕はその聲を聞いた時、忽ち兵營や練兵場を感じた。僕の直覺は當たつてゐたかしら。

 

   *]

 

○銀時計と思ひニッケルをとりし賊の憤怒は大盜と思ひ小盜を捉らへし刑事の怒りに似たり

enthusiastic ニモノヲ云フ時片目ツブリ鏡ヲ覗クヤウニスル人 野中

[やぶちゃん注:実は、以上の「○美しい村」の後の条には、底本の新全集では編者による柱としての「○」がない。しかし、旧全集では以上のように「○」が配されてある。私はどう見てもこれらが「美しい村」と直連関したメモとは思えないので、底本新全集に従がわず、旧全集の形で柱の「○」を配したことをお断りしておく。

[やぶちゃん注:「enthusiastic」熱狂的。

「野中」人名らしいが、不詳。]

 

○カアネエシヨンは音樂を嫌ふ

○小穴 lover と共にあひし女と後あふ 突然赤面す 女は知らず

[やぶちゃん注:「小穴」既出既注の小穴隆一。]

 

 

《8-31》

umpire psychology 思はず間違ひ それを逆にとりかへさんとし 一方を寛にす 好きな pitcher 好きな玉には反つて判斷の strict になる

[やぶちゃん注:「寛に」「おほらかに」或いは「ゆるやかに」と訓じておく。

strict」厳格な・厳正な・寛容さがなく妥協を許さない。]

 

洋食のくひ方を苦にし neurasthenia になる 式に出て洋食を食ふ なほる 愈くひたくなる 食ふ機會なし

[やぶちゃん注:これは昭和二(一九二七)年五月発行の『新潮』に発表した「たね子の憂鬱」の中のワン・シーンへの素材メモ。一見、滑稽で皮肉な場面を想起するが、実際のそれは、まさに主人公たね子の置かれた近代人の病的な神経症的状況の象徴的一齣として採用されることとなる。当該箇所(夫と練習するプレ・シーンもあるが、そこは省略する)を抜き出してみる(底本は岩波旧全集を用いた)。

   *

 帝國ホテルの中へはひるのは勿論彼女には始めてだった。たね子は紋服を着た夫を前に狹い階段を登りながら、大谷石や煉瓦を用いた内部に何か無氣味に近いものを感じた。のみならず壁を傳はつて走る、大きい一匹の鼠さへ感じた。感じた?――それは實際「感じた」だつた。彼女は夫の袂を引き、「あら、あなた、鼠が」と言つた。が、夫はふり返ると、ちよつと當惑らしい表情を浮べ、「どこに?……氣のせゐだよ」と答へたばかりだつた。たね子は夫にかう言はれない前にも彼女の錯覺に氣づいてゐた。しかし氣づいてゐればゐるだけ益々彼女の神經にこだわらない訣には行かなかつた。

 彼等はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角隱(つのかくし)をかけた花嫁にも時々目を注いでゐた。が、それよりも氣がかりだったのは勿論皿の上の料理だつた。彼女はパンを口へ入れるのにも體中(からだぢう)の神經の震へるのを感じた。ましてナイフを落した時には途方に暮れるより外はなかつた。けれども晩餐は幸ひにも徐ろに最後に近づいて行つた。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものゝ出て來た時には食事もおしまひになつたと思へ」と云ふ夫の言葉を思ひ出した。しかしやつとひと息ついたと思ふと、今度は三鞭酒の杯を擧げて立ち上らなければならなかつた。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだつた。彼女は怯づ々々椅子を離れ、目八分に杯をさし上げたまま、いつか背骨さへ震へ出したのを感じた。

   *

文中の「三鞭酒」はこれで「シャンパン」と読んでいよう。なお、全文は「青空文庫」ので読める。

neurasthenia神経衰弱(発音を音写すると「ニューラスティニア」)。なお、現行では(少なくとも「神経衰弱」という日本語は)精神疾患(病態)名としては、最早、用いない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱とは、一八八〇年(明治十三年)に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは』、『都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから』、この『病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから』、『病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。]

 

○皆傳 免許 目錄 切紙

socialist martyr

[やぶちゃん注:「martyr」(音写すると「マータァア」)。本来は特に「キリスト教の殉教者」を指すが、そこから「信仰・主義に殉ずる人・殉難者・犠牲者・受難者」の意で広く用いる。「社会主義者の殉教志願者・受難狂」とは芥川龍之介好みの言い回しではないか。]

 

○浮島ケ原 梶原 陣中 土佐坊夜打 靜の家

[やぶちゃん注:「浮島ケ原」静岡県愛鷹山南麓で駿河湾を臨む、現在の静岡県富士市中里辺り(この附近(グーグル・マップ・データ))。南北朝から室町初期に成立したと考えられている「義経記」で、治承四 (一二八〇) 年の「富士川の戦い」(十月二十日)に勝利した頼朝に義経が対面したとされる場所であるが、史実ではなく、実際の対面場所は黄瀬川の「陣中」(現在の静岡県駿東郡清水町。この附近(グーグル・マップ・データ)と推定されている)でああったとされる。しかし、どうも後の記載とは時制が違い過ぎる。

「梶原」梶原景時は多くの軍記物で頼朝に義経を讒訴した悪玉に仕立て上げられている。「石橋山の合戦」で頼朝を逃がした彼は、頼朝の再起に逸早く降伏し、養和元(一一八一)年正月には頼朝と再び対面して、既に有力な御家人として列していた。

「土佐坊」元僧兵で鎌倉幕府御家人となった土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん 永治元(一一四一)年?~文治元(一一八五)年)。ウィキの「土佐坊昌俊によれば、『大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加した』。『頼朝と弟の源義経が対立した』文治元(一一八五)年、頼朝は遂に京にいる義経を見限って、誅すべく『御家人達を召集したが、名乗り出る者がいなかった。その折』り、『昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えている』。『昌俊は弟の三上弥六家季ら』八十三『騎の軍勢で』同年十月九日に鎌倉を出発』同月十七日、『京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い』、『自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが』、『義経の郎党に捕らえられ、』同月二十六日、『家人と共に六条河原で梟首された』(「吾妻鏡」に拠る)。義経は襲撃翌日の』十八『日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始し』ている。なお、「吾妻鏡」によれば、『頼朝は昌俊に対し』、九『日間で上洛するように命じているが、義経の元には』十三『日に暗殺計画が伝えられており、同日』(右大臣(当時)九条兼実の「玉葉」では十六日)『に義経は後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って義経らは、昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性が高い』(なお、「平家物語」の延慶本では、昌俊らは九月二十九日に『鎌倉を出発し』、十月十日に『京に到着したことになっている)』。『また、昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが、治承・寿永の乱に従軍していた御家人を連れて京都を出発、関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者との引き離しを終えていた。さらに頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた』二十二『日には、勝長寿院に』於いて『二十四日に開かれる予定の源義朝の法要のために、各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。これらの状況から、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることであった』、『との見方もある』。『なお、昌俊が頼朝から派遣された刺客であるとするのは』、『義経側の主張であって、編纂物である』「吾妻鏡」や「平家物語」が『示すような鎌倉(頼朝)側の動きを立証する同時代史料が存在しないことから、兄・頼朝との対立を避けられないと考えた義経が』、『先に頼朝追討を決意した結果、在京あるいは畿内周辺に拠点を持つ御家人が動揺し、その中にいた土佐坊昌俊・三上家季兄弟らが、頼朝への忠義から率先して義経排除を決意した、とする説もある(三上氏は近江国野洲郡の出身とされるため、昌俊兄弟の元の本拠地も同地であった可能性がある)』とある。

「靜」言わずもがな、義経の愛人静御前(しずかごぜん)。「吾妻鏡」によれば、この直後、義経が京を落ちて、一度、九州へ向かおうとすう際、静は同行しているが、この時、義経の乗った船団が嵐に遭難し、岸へ戻されてしまい、静は、一時、義経が隠れた吉野に於いて彼と別れ、京へと戻っている。しかしその途次、裏切った従者に持ち物を奪われ、山中を彷徨うううち、山僧に捕らえられて京の北条時政に引き渡され、文治二(一一八六)年三月、母の磯禅尼(いそのぜんに)とともに鎌倉に送られた。それ以降のことは、北條九代記 義經の妾白拍子靜の本文と私の力(リキ)を入れた遠大な注を、是非、参照されんことを望む。]
 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕

Kahasebi

かはせび  魚狗  天狗

      水狗  魚虎

【音立】

      魚師  翠碧鳥

唐リ 【和名曽比壒囊抄

    云少微俗川世比】

 

本綱鴗處處水涯有之大如燕喙尖而長足紅而短背毛

翠色帶碧翅毛黑色揚青可飾女人首物性能水上取魚

[やぶちゃん注:「揚」は底本は「楊」であるが、意味が通らぬので「本草綱目」で訂した。]

蓋狗虎皆獸之噬物者此鳥害魚故得其名穴居爲窠亦

巢于木其肉鹹去腸煆飮服之主治魚骨哽

翡翠 鴗之大者爾雅謂之鷸【或云雄爲翡其色多赤雌爲翠其色多青也】

【音】 字彙云似翠而赤喙者

△按鴗【俗云川世比】形小在池川捕魚翡翠【俗云山世比】形大在山

 溪捕魚世比者少微之假名相通也其穴窠也横入一

 尺許雛於其中

 

 

かはせび  魚狗  天狗

      水狗  魚虎

【音、「立」。】

      魚師  翠碧鳥〔(すいへきどり)〕

唐・リ

      【和名、「曽比」。

       「壒囊抄〔(あいなうせう)〕」に

       「少微〔(せうび)〕」、俗に

       「川世比〔(かはせび)〕」と云ふ。】

 

「本綱」、鴗は處處の水涯(すいがい)に之れ有り。大いさ、燕のごとし。喙、尖りて長く、足、紅にして短かし。背毛、翠色。碧翅を帶し、毛、黑色〔に〕青を揚げ、女人の首の物を飾るべし。性、能く水の上にて魚を取る。蓋し、狗・虎は、皆、獸の物を噬〔(くら)ふ〕者なり。此の鳥、魚を害す。故に其の名を得。穴居して窠を爲〔(つく)〕る。亦た、木にも巢〔(すつく)〕る。其の肉、鹹。腸〔(はらわた)〕を去り、煆〔(や)き〕て飮む。之れを服して、魚骨〔の〕哽〔(のどにた)つ〕を治〔するを〕主〔(つかさど)る〕。

翡翠(やませび) 鴗(かはせび)の大なる者。「爾雅」に之れを「鷸〔(いつ)〕」と謂ふ。【或いは云ふ、雄を「翡」と爲し、其の色、多く赤く、雌を「翠」と爲し、其の色、多く青なり〔と〕。】。

【音】 「字彙」に云ふ、『翠に似て赤き喙なる者なり』〔と〕。

△按ずるに、鴗(かはせび)【俗に云ふ、「川世比」。】〔は〕、形、小さく、池川に在りて、魚を捕る。翡翠(やませび)【俗に云ふ、「山世比」。】〔は〕、形、大きく、山溪に在りて魚を捕る。世比とは「少微〔(せうび)〕の假名〔(かな)〕の相通〔(さうつう)〕なり。其の穴に窠つくるや、横に入ること一尺許り、其の中に雛あり。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Aves Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目 Coraciiformes カワセミ科 Alcedinidae カワセミ亜科 Alcedininae カワセミ属カワセミ Alcedo atthis 及びその近縁種。本邦で見ることが出来るのは亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis「本草綱目」記載のそれも分布域から見て(バイカル湖・インド北部から東アジア及び東南アジアに棲息)同亜種と考えてよいウィキの「カワセミ」によれば、全長は平均十七 センチメートルほど、『スズメよりも大きいが、長いくちばし』(嘴峰長三・三~四・三センチメートル)『のため』『体はスズメほどの大きさ』である。『日本のカワセミ科のなかでは最小種』で、翼開長は平均二十五センチメートルで体重は十九~四十グラム。『くちばしが長くて、頭が大きく』、『頸、尾、足は短い。オスのくちばしは黒いが、メスは下のくちばしが赤いのでオスと区別できる』。『また、若干』、『メスよりオスの方が色鮮やかである』。『頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い』。『幼鳥は全体に黒っぽく、光沢が少ない』。『カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える』。『これを構造色と』称し、『シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理』である。『この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである』。『海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、公園の池など都市部にもあらわれる。古くは町中でも普通に見られた鳥だったが、高度経済成長期には、生活排水や工場排水で多くの川が汚れたために、都心や町中では見られなくなった。近年、水質改善が進んだ川では、東京都心部でも再び見られるようになってきている』。『川ではヤマセミ』(後注参照)『よりも下流に生息するが、一部では混在する。飛ぶときは』、『水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声』『を挙げることが多い』。『採餌するときは』、『水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。エビやカエルなども捕食する』。『ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。水中に潜るときは目からゴーグル状のもの(瞬膜)を出し水中でも的確に獲物を捕らえることが出来る。また、水中に深く潜るときは』、『いったん』、『高く飛び上がってから潜る個体も存在する。捕獲後は再び石や枝に戻って』、『えものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな獲物は足場に数回叩きつけ、骨を砕いてから呑みこむ』。『消化出来なかったものはペリット』(pellet:鳥類学用語。鳥が食べたもののうち、消化されずに口から吐き出されたものを指す)『として口から吐き出す』。『足場は特定の石や枝を使うことが多く、周囲が糞で白くなっていることが多い。ゴーグル状のものは地上にいるときでも時々見ることが出来る』。『繁殖期にはオスがメスへ獲物をプレゼントする』『「求愛給餌」がみられる。つがいになると』、『親鳥は垂直な土手に巣穴をつくる。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って』凡そ五十~九十センチメートルもある横穴方の巣を掘って作る。『穴の一番奥は』、『ふくらんでおり、ここに』三~四『個の卵を産む』。『卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけながら成長し、羽毛が生え揃うと巣立ちする。せまい巣穴の中は当然ヒナの糞で汚れるが、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっており、巣立ちのときまで羽毛が汚れないようになっている。若鳥は胸の橙色と足が』褐色味を呈する。『非繁殖期は縄張り意識が強く』、一『羽で行動する。水上を飛んだり、えさ場が見渡せる枝や石の上で休む姿がみられる』とある。まことに美しい私の好きな鳥なので、ウィキの「カワセミ」の写真(パブリック・ドメイン提供)を以下に掲げた上、グーグル画像検索「Alcedo atthisもリンクさせておく。最後に――芥川龍之介の畏友井川(恒藤)恭著「翡翠記」の私のブログでの完全電子化注完遂を言祝いで――

 

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「かはせび」同じくウィキの「カワセミ」によれば、『カワセミは「川に棲むセミ」の意で、この「セミ」は古名の「ソニ」が「ソビ」に変化し、それが転じて「セミ」となった』。その「ソニ」の「ニ」は土の意味で、ソニ(青土)からきた。また、近縁の「アカショウビン」』(カワセミ科ショウビン亜科 Halcyoninae ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromanda)などの「ショウビン」も、『この「ソニ」から来た。これらとは別に、室町時代から漢名を取り入れ、「ヒスイ(翡翠)」とも呼ばれるようになった』。『カワセミは、それを表す(読む)漢字が沢山ある。川蝉、翡翠、魚狗、水狗、魚虎、魚師、鴗など』『があり、川蝉はセミとは関係がなく、「カワセミ」の音を当てた漢字。魚狗、水狗、魚虎、魚師などの漢字はカワセミが巧みに魚を捕らえる様子から来た』とある。

「壒囊抄〔(あいなうせう)〕」室町時代の僧行誉作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明する。「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて七百三十七条とした「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」二十巻(編者不詳。享禄五・天文元(一五三二)年成立)があり、近世に於いて「壒囊鈔」と言った場合は後者を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。

「背毛、翠色。碧翅を帶し、毛、黑色〔に〕青を揚げ」原典の訓点のままに読むとこうなるが、どうもしっくり来ない。「背毛翠色帶碧翅毛黑色揚青」は「背毛、翠色にして碧帶あり、翅毛は黑色に青を揚(あ)ぐ」ではなかろうか? 「青を揚(あ)ぐ」は「青い色が浮き立って見える」の意であろう

「女人の首の物を飾るべし」女性の頭の飾り物とするのによい。

「煆〔(や)き〕て飮む」焼いて、その肉を食う。

「翡翠(やませび)」カワセミ科ヤマセミ亜科 Cerylinae ヤマセミ属ヤマセミ Megaceryle lugubrisウィキの「ヤマセミ」によれば、『アフガニスタン北東部からヒマラヤ、インドシナ半島北部、中国中部以南、日本まで分布する。生息地では、基本的に留鳥である』。『日本では、留鳥として九州以北に分布、繁殖しているが、個体数は多くない』。体長は約三十八センチメートルで翼開長は約六十七センチメートルで、『カワセミの倍、ハトほどの大きさで、日本でみられるカワセミ科の鳥では最大の種類である。頭には大きな冠羽があり、からだの背中側が白黒の細かいまだら模様になっているのが特徴。腹側は白いが、あごと胸にもまだら模様が帯のように走っている。オスとメスはよく似るが、オスはあごと胸の帯にうすい褐色が混じる』。『名のとおり』、『山地の渓流や池の周囲に生息するが、冬は平地の河川や海岸にもやってくる。単独または番い(つがい)で生活する』。『食性は動物食。採餌するときは』、『水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や甲殻類、水生昆虫などを捕食する。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。カワセミと同じように』、『捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな魚をとらえた時は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこむ』。『繁殖形態は卵生』で、『川や湖の岸辺の垂直な土手に嘴を使って巣穴を掘り、巣穴の中に』四~七個の『卵を産む』とある。グーグル画像検索「Megaceryle lugubrisをリンクさせておく。

「爾雅」著者不詳。紀元前 二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。

「鷸〔(いつ)〕」現在、一般にはこの字は鳥綱チドリ目 Charadriiformes チドリ亜目 Charadriiシギ科 Scolopacidae の鴫(しぎ)類を指す。

」は「【音】」と当該漢字が欠字になっているが、「ミン」と読んでおく。中国古代の幻想地誌「山海経」の「西山経」には「其鳥多。其狀如翠而赤喙、可以禦火」(其この鳥、多くはたり。其の狀(かたち)、翠(かはせみ)のごとくして赤き喙(くちばし)、以つて火を禦ぐべし)とあり、「そこにいる鳥の多くはである。翡翠(かわせみ)のような形状で赤い嘴を持ち、(これを飼うと)火災を防ぐことが出来る、とある。類感呪術の一種であろう。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「假名」漢字から生まれた、日本独自の音節文字である片仮名と平仮名及びその表記・発音の意。

「相通〔(さうつう)〕」相い通ずること。音通。

「一尺許り」冒頭注で示した通り、もう少し深い。]

2018/01/23

芥川龍之介 手帳8 (23) 《8-27~8-29》

《8-27》

○北淸事件の時 天王寺の脚病院長の後備の二等軍醫 或商人と結托し 小さい運送船を仕立て酒保と稱し カンヅメ ビイル等をのせ天津に向ひ 太沽につけ ダルマ船四艘にて白河を天津より通州へ溯り 掠奪品を船へつむ 朝日ビイルを一本一圓二十錢 竹楊子を五十錢などに賣る(太沽の岸につけし船へかひに行く)(尤も英佛とも北京の掠奪品を牛車にてはこび 軍艦につみこむ)掠奪品は馬蹄銀 被服類 この類のもの三組大阪より來る 大成功 つかまらず 産を成す 眞鍋少將の如きはこの船に分取品を托せりと傳へらる

當時は北京通州の麥畑中に馬蹄銀充滿す 北――通間の路は銅貨にてつくりし位なり(砂利がはり)

楊村にては團匪 チリメン ドンスの綑包にて土壘をつくる 我軍それを白河に打ちこみ 橋臺をつくる(天州通州間)

[やぶちゃん注:「北淸事件」既出既注であるが再掲しておく。北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。

「脚病院長」脚気(かっけ)専門の病院の院長の謂いか。旧全集ではここを『□□病院長』と二字分として、しかも判読不能としている。

「太沽」「大沽(たいこ)」であろう。現在の天津市浜海新区(旧塘沽(とうこ)区)にある地名。天津から海河に沿って南東に下って、渤海に至った河口(大沽口)地域。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここにはかつて、明・清が諸外国からの攻撃に備える目的で構築された砲台があった。清は義和団の乱の最中、外国列強から大沽砲台の引き渡しを求められたが、これを拒否、列強は大沽砲台を攻撃して占領したため、清朝は列強に宣戦布告するも惨敗し、その和平協定である「北京議定書」の中で、この大沽砲台を撤去する事が明記された(砲台についてはウィキの「大沽砲台」に拠った)。

「白河」後の「通州」は現在の北京市通州区(ここ(グーグル・マップ・データ))であるから、天津の北側を流れる、現在の「新潮白河」及びその上流の「潮白河」のことか、或いは、その前身の河川であろう。

「馬蹄銀」二十世紀前期まで中国に於いて用いられていた秤量貨幣の形態を取る銀貨であった「銀錠(ぎんじょう)」のこと。ウィキの「銀錠」より引く。『単位は重量単位と同じ両(「銀両」』『)であり、その英語表記よりテールtaelと呼ばれた。なお、日本では銀錠が馬の蹄の形をしていることから、馬蹄銀(ばていぎん)と呼ばれ広く用いられているが、実際には明治期の日本人が名づけたものとされ、実際には多種多様の形式の銀錠が存在し、中国においても馬蹄銀の名称は』殆んど『用いられてはいなかった』。『灰吹法の導入により』、十六『世紀中頃より南米のポトシ銀山、日本の石見銀山などで銀の産出が著しく増大し、ポトシ銀山の銀はヨーロッパを通じて、日本の銀は生糸貿易の対価として中国に多量に輸入されるようになった』。『日本では産銀は一旦』、『丁銀に鋳造され、長崎において銀錠に吹き直され』た上で、『多量に中国へ流出した』。『材質は南鐐(なんりょう)と呼ばれる純銀に近い良質の灰吹銀であり、量目は』一両(三十七グラム)から五十両(一キロ八百六十五グラム)『程度と』、『大小様々なものが存在する』とある。

「眞鍋少將」陸軍軍人で貴族院議員・男爵であった真鍋斌(あきら/さかり 嘉永四(一八五一)年~大正七(一九一八)年)。最終階級は陸軍中将。ウィキの「真鍋斌」によれば、長州藩士の長男として生まれ、明倫館で学んだ。大坂兵部省屯所に入営、明治四(一八七一)年、『陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て』、翌年、『陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省に入った。明治一〇(一八七七)年四月から十月までは西南戦争にも出征している。その後、陸軍省内の課長心得や課長や連隊長・師団参謀長『などを歴任』、明治三〇(一八九七)年七月、『陸軍少将に進級』した。明治三三(一九〇〇)年七月から十月まで義和団の乱に歩兵第九旅団長として出征したが、『その際、清国の馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり』二年後に休職となっている。『将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は』、この『馬蹄銀事件により閉ざされた』。その後、留守第五師団長を経て、明治三八(一九〇五)年に陸軍中将となったが、翌年に休職、二年後には『予備役に編入され、大正七(一九一八)年四月一日を以って退役している。旧全集では『□□少將』として姓が判読不能字とされているが、或いはこれは、旧全集元版の編者の政治的判断によって伏せられた可能性が疑われる。

「北――通間」意味不明。「北京――通州間」の意か。

「楊村」中華人民共和国鉄道部京滬(けいこ)線(北京市から上海市に至る)の北京駅から十一番目、天津西の手前三つ目の駅に「楊村」(天津市武清区)がある。か(グーグル・マップ・データ)。

「團匪」一般名詞としては、特に中国に侵略していた日本は、政府や日本に敵対する集団を「盗賊」と同じ意味の「匪賊(ひぞく)」と呼び、集団をなす匪賊をかく呼んだが、ここは義和団の異称と考えてよい。

「チリメン」「縮緬」。

「ドンス」「緞子」。繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。なお、「ドン」も「ス」も孰れも唐音である。

「綑包」「こんぽう」(現代仮名遣)で「梱包」に同じい。紙などで包んで、紐を掛けて荷造りすること。或いは、そのようにした荷物・対象物を指す。

「天州」天津は清代、一時期、「天津州」と改名されたから、天津の異称と考えてよかろう。]

 

天津居留地の防備も bariier は大豆 砂糖 反物等 殊に ridiculous なるは時計なり ボンボン時計 金側 銀側 ニツケルの時計等

[やぶちゃん注:「Ridiculous馬鹿馬鹿しい、可笑しい。]

 

○金澤高岡町

○野花潘花城

○中野圍ひ

○恩地幸四郎

[やぶちゃん注:以上の四条は旧全集には載らない。

「金澤高岡町」ここ(グーグル・マップ・データ)。室生犀星の招待で金沢(大正一三(一九二四)年五月十五日から十七日)へ行った際の知人か店の住所メモか。

「野花潘花城」不詳。

「中野圍ひ」意味不詳。

「恩地幸四郎」(明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)は東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家。竹久夢二・北原白秋・室生犀星・萩原朔太郎と交流があり、萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀で頓に知られるが、芥川龍之介とは終生、直接の接点はなかった(宮坂覺氏の旧全集の人名索引にも載らない)。]

 

《8-28》

○地震後スゴイ話をする 人にもてる 捏造 ■■

○産後廿一日目カツケになり入院 嬰兒脚氣 乳をのませず 地シン オぺラバツクを忘る 金なし ミルク買へず 乳はやれず 美術協會の池の水をのませる 後やつと精養軒より牛乳を貰ふ 夫は日本橋に燒死す

施療患者の悲慘 産氣つく

○背負ひてにげし飯くさる

○腹に水バケツに一ぱいたまる 手術十一時にすむ タンカ 看護婦四人 醫一人 やつと助かる

出の帶 金通しの丸帶七寶を繡ふ(織物のやうに)(模樣はハカマ) 證文は待合のお上 少し派手すぎる 200150圓位にしてくれと云ふ 200圓の帶出來上る 150圓にして持つて行く 女將200圓かかれるコトを知り 150圓に買ふ 藝者に話さずに置く 藝者見る 女將「200120圓なりと云ふ 藝者之を120圓に買ひ 又外の帶を買ふ 三人ともその事を云はず

[やぶちゃん注:数字は総て半角横書(横転)。以上は、大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した「貝殼」の「六 東京人」の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       六 東京人

 

 或待合のお上さんが一人、懇意な或藝者の爲に或出入りの呉服屋へ帶を一本賴んでやつた。扨その帶が出來上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百圓の帶を百五十圓におさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。

 お上さんは金を拂つた後、格別その帶を藝者にも見せずに簞笥の中にしまつて措いた。が、藝者は暫くたつてから、「お上さん、あの帶はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帶を見せ、實際は百五十圓拂つたのに藝者には値段を百二十圓に話した。それは藝者の顏色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた爲だつた。が、藝者も亦何も言はずにその帶を貰つて歸つた後、百二十圓の金を屆けることにした。

 藝者は百二十圓と聞いたものの、その帶がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帶をしめさせることにした。何、莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由來かう云ふ莫迦々々しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。

 

   *]

 


《8-29》

○白い布についたしみはとれぬと云ふ言葉より白髮染の trick を發見す

○鐘消えて花の香は撞(ツク)夕かな(都曲集) 元祿三年 47

[やぶちゃん注:言わずもがな、この句は松尾芭蕉の中でも私が飛びきり好きな一句である。

「都曲集」「みやこぶりしゅう」(現代仮名遣)と読む。芭蕉と同時代の俳人池西言水(いけにしごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)の元禄三(一六九〇)年の撰集。原典の表記は正確には、

 

 鐘消て花の香は撞(ツク)夕哉

  (かねきえてはなのかはつくゆふべかな)

 

である。「元祿三年 47歳」とは作句時期と芭蕉の当時の年齢であるが、「元祿三年」は「都曲集」の跋のクレジットであり、作風から見ると、現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。]

 

是だけは心得置くべし an humorous essay

○光を通す gramopho.

[やぶちゃん注:綴り不審。「gramophone」ならば「蓄音機」のこと。或いは「gramophone record」をピリオドで略したとするならば、光を透過する合成樹脂(プラスチック)性のレコードの意味かも知れない。但し、我々が知っているソノシート(Sonosheet:英語:Flexi disc)は、第二次世界大戦後の一九五八年(昭和三十三年)にフランスの「S.A.I.P.」というメーカーで開発されたもので、当時は存在しない。]

 

○猫イラズ 羊羹その他甘味を持つ どれか入れてのまんとす

○野蠻人ニ現代文明を批判せしむ Frazer

[やぶちゃん注:「Frazer」名著The Golden Bough: a Study in Magic and Religion, 1st edition(「金枝篇:呪術と宗教の研究」 一八九〇年刊)で知られるイギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(Sir James George Frazer 一八五四年~一九四一年)。

 

○三つの死 戰死 水死 狂死

[やぶちゃん注:作品としてはピンときそうで、実はぴったり三拍子揃ったものはちと難しい。しかし恐らくは死の直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表した「三つの窓」の初期構想のメモではないかと私は思う(リンク先は私の古い電子テクスト)。]

 

○鬼ごつこをする女の兒の顏の seriousness 結婚をする時の女の顏の seriousness

[やぶちゃん注:「seriousnessは「真剣さ・真面目」。これは昭和二(一九二七)年二月発行の雑誌『苦樂』に初出する「鬼ごつこ」のメモである。短いので、以下に電子化する(底本は岩波旧全集を用いたが、底本は総ルビであるのをパラルビとした)。末尾クレジットは作品集「湖南の扇」で附されたもの)。

   *

 

 鬼ごつこ

 

 彼は或町の裏に年下の彼女と鬼ごつこをしてゐた。まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯(がす)のともる時分だつた。

 「ここまで來い。」

 彼は樂々と逃げながら、鬼になつて來る彼女を振りかへつた。彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて來た。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。

 その顏は可也(かなり)長い間、彼の心に殘つてゐた。が、年月(としつき)の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。

 それから二十年ばかりたつた後(のち)、彼は雪國の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。窓の外が暗くなるのにつれ、沾(し)めつた靴や外套の匂ひが急に身にしみる時分だつた。

 「暫くでしたね。」

 彼は卷煙草を銜(くは)へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顏へ目を注いだ。近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の兩親や兄弟のことを話してゐた。彼はその顏を眺めた時、妙に眞劍な顏をしてゐるなと思つた。と同時にいつの間まにか十二歳の少年の心になつてゐた。

 彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。が、彼はその時以來、妙に眞劍な彼女の顏を一度も目(ま)のあたりに見たことはなかつた。

          (大正一五・一二・一)

   *]

 

○田舍より許嫁の女をたづねて上京す 女は人の家に假寓すと思ふ 然るに already wife despair

[やぶちゃん注:「already wife despair「既にして、妻は絶望している」。]

 

○兵士 Caféの女給の妻なるを發見す
 

芥川龍之介 手帳8 (22) 《8-26》

《8-26》

○今日寺を存在せしむるものは monks にあらず 檀徒なり 檀徒の妄をひらく事は坊主攻擊にまさる 法域を護る人々の缺點なり

Lassalle の悲劇

[やぶちゃん注:「Lassalle」ドイツの社会主義者で労働運動指導者であったフェルディナンド・ラサール(Ferdinand Lassalle 一八二五年~一八六四年)のことか。富裕なユダヤ商人の子として生まれ、ブレスラウ・ベルリン両大学で法律と哲学を学び、ヘーゲル哲学の影響を受け、さらに社会主義思想も知るようになった。 ウィーン体制の崩壊を招いた一八四八年革命にはライン地方で参加し、逮捕された。また、この頃、マルクスと知合っている。その後、哲学や法学の著作に没頭したが、一八五九年頃より、政治的活動を再開、憲法闘争を始めとして、プロシアのさまざまな政治闘争に関与し、社会主義運動を指導した。 一八六二年に「賃金鉄則」を唱える「労働者綱領」(Arbeiterprogrammを発表、一八六三年には「公開答状」を書いて労働者の組織化を目指し、「全ドイツ労働者協会」(現在の「ドイツ社会民主党」の母体の一つ)を組織し、その会長となった。彼は普通選挙の実現と国庫による生産協同組合の実現という、国家を通しての社会主義化を目指した(「夜警国家」という語があるが、これは自由主義国家に対して彼が使った異称である)。彼自身は、マルクスを財政的に支援するなど好意的であったが、マルクスらはビスマルクと密談を持つといった彼の政治スタイルや国家観に反発していた。最期は女性問題に絡んだ決闘による死亡であった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○僕等は僕等の短所は萬人に共通とし 僕等の長所は僕等のみにありとしてゐる

○天國はせざる事の後悔にみち 地獄はなせる事の後悔にみつ

lover の寫眞を持ちて死ぬ その lover の寫眞は實際以上に美しくうつりし photo なり 兩方(loversが持ちてもよし

[やぶちゃん注:よく判らぬが、以上の三条も、前のフェルディナンド・ラサール(とすればの話)のメモかも知れない。]

 

○荷車ひきに加セイシ却ツテ罵ラル 後ソノ荷車ヒキ炭俵ヲ人アツカヒス 好意を感ず

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表したアフォリズム風随想貝殼の「九 車力」の素材メモ(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 

       九 車  力

 

 僕は十一か十二の時、空き箱を積んだ荷車が一臺、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」とおほ聲に叱りつけた。僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。

 それから五六日たつた後、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。今度は積んであるのは炭俵だつた。が、僕は「勝手にしろ」と思ひ、唯道ばたに佇んでゐた。すると車の搖れる拍子に炭俵が一つ轉げ落ちた。この男はやつと楫棒を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。それは僕には何ともなかつた。が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生、いやに氣を利かしやがつて。車から下りるのはまだ早いや」と言つた。僕はそれ以來この男に、――この黑ぐろと日に燒けた車力に或親しみを感ずるやうになつた。

 

   *]

 

○イツカオツカサンと云つてゐる話

materniré の話

[やぶちゃん注:「maternitéフランス語。「母性・妊娠・産科」の意があるが、ここは「懐胎」か。しかし前条との絡みを考えると、断定は出来ない。]

芥川龍之介 手帳8 (21) 《8-24/8-25》

《8-24》

どうして車へのつたんだい のりたいから welt-anschauung 一變ス

[やぶちゃん注:「welt-anschauung」通常は、Weltanschauung で、綴りで判る通り、もともとはドイツ語。「世界観」の意。発音は「ヴェルタァーンシャァゥウン(グ)」。本語の最初の用例はイマヌエル・カントト(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)の「判断力批判」(Kritik der Urteilskraft 一七九〇年)の中で使用した用語 “De-Weltanschauung”の訳語(英:worldview/仏:Weltanschauung)であったされる。]

 

○得戀の爲自殺す

Drama の中に琵琶劇を使ふ

[やぶちゃん注:「琵琶劇」琵琶弾奏(複数奏者)を添えた近代の新歌舞伎と思われる。例えば、大正一五(一九二六)年八月に日本軍事教育会主催になる琵琶劇「噫常陸丸」(ああ、ひたちまる)が京都で公演されている。琵琶弾奏は泰山流宗家木村泰山一門。これは日露戦争に於いて、明治三七(一九〇四)年六月十五日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船三隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊所属の三隻の装甲巡洋艦によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより、撃沈破された「常陸丸事件」を舞台に再現するものであったらしい(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編集「近代歌舞伎年表京都篇」に拠る)。]

 

Jealous man の告白 hotel にゐる hotel へ他の旅客が來る Hotel の人が歡迎する それに jealousy をもつ

○醫者人にあひし時大動脈のつき場や心臟の位置を透視する氣がする

○或女自殺する前に好きな蜜豆を三杯食ふ

All love-affairs are tedious for me, even an hour with a mistress.――況ヤ married life ヲヤ

[やぶちゃん注:「あらゆる恋愛(情事)は私にとって退屈だった、優れた女性(愛人・情婦)との一時間であってさえも。」。これは明らかに侏儒言葉」の、

   *

 

       わたし

 

 わたしはどんなに愛してゐた女とでも一時間以上話してゐるのは退窟だつた。

 

   *

に他ならない。妻文さんのためにも、後の「況や、結婚生活に於いてをや」をあちらでは外したのは、よかった。]

 

○父母ノ爲に married life bit by bit drained away サレル thema

[やぶちゃん注:「bit by bit drained away サレル」「少しずつ、流出されてしまう(はかされてしまう)」。]

《8-25》

O父ガ後妻ヲムカヘルニ對シ子ノ非難スル權限 moderns do not like 世話女房 Your ideal of wife is not may ideal of thatword of son

[やぶちゃん注:「moderns do not like」「現代人は好きでない」。

Your ideal of wife is not my ideal of that」「あなたの妻の理想は、私のその理想では、ない」。]

 

○文化住宅居住者の子供一人ハシカとなる 父母他の一人と一しよにし うつしてしまふ

Naruse 氏の姉 學習院女子部卒業の後 看護婦にならんとし(修業的ニ)赤十字社へ行き 規則書を貰ひ來る 父に叱らる

[やぶちゃん注:「Naruse 氏」芥川龍之介の友人で、第四次『新思潮』の創刊に加わった、フランス文学者成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)か。ロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる。横浜市に生まれで、成瀬正恭(まさやす:「十五銀行」頭取)の長男。但し、彼に姉がいるかどうかは不詳。]

 

○××死す Oana の父母「博士になる人だつたに」と云ふ 小穴「死んでも噓をついてゐやがる」 Perhaps ××の細君もウソをつかれてゐるならん

[やぶちゃん注:Oana「小穴」芥川龍之介の盟友で画家の小穴隆一であろう。]

 

○十圓札をうけとる 札のうらにヤスケニシヨウカと書いてある

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年九月『改造』発表の「十圓札」の素材メモ(同作は「青空文庫」ので読める)。「ヤスケニシヨウカ」は「寿司に(でも)しようか?」の意。竹田出雲作の「義経千本桜」出てくる寿司屋の名「彌助鮨」から。花柳界などでも「寿司」の隠語として用いられた。]

 

○電車中の電燈落つ 吊革に下がれる女周圍を見まはし 車中の注意をひかんとす 醜婦なる故に誰も顧ず

[やぶちゃん注:これは大正一五(一九二六)年一月発行の『新潮』に発表した年末一日」の一シークエンスの素材(リンク先は私の古い電子テクスト)。

   *

 すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然拔け落ちてこなごなになつた。そこには顏も身なりも惡い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまつてゐた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髮をかすめたらしかつた。彼女は妙な顏をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹(ひ)かうとする顏に違ひなかつた。が、誰(たれ)も言ひ合せたやうに全然彼女には冷淡だつた。僕はK君と話しながら、何か拍子拔けのした彼女の顏に可笑(おか)しさよりも寧ろはかなさを感じた。

   *]

○妹の友だちモデルになると云ふ 

      家小 手狹トイフ

 jialousy

姉斷る<

      萬一ノ時ノ責任

      母の思惑等

一週間餘り後兄に話す

[やぶちゃん注:「<」は底本では「家小 手狹トイフ」から「母の思惑等」までの四行の上をカバーして指示するもの。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八

 

     

 椀貸穴を以て龍宮の出張所の如く見た例はまだ幾らもある。前に擧げた信州上伊那郡松島村の龍宮塚はその一つで、同郡勝間村の布引巖と共に、やはり證文を差し入れて人々は穴の中から色々の道具を借りて居た。其でも終に返却を怠つた者の爲に、中止の不幸を見たことは同樣で、現に村の藤澤其某方に持ち傳へた古い一箇の盆は、龍宮の品であると云ふ話であつた。愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川と云ふ處の民、常に龍宮から種々の器物を借りて自用を足して居た中に、或時皆朱(かいしゆ)の椀を借りてその一箇を紛失した爲に、亦貸すことが絶えたと云ふ。利根川の流域にも多くの椀貸古傳が分布して居るが、其上流の上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧の如きは、瀧壺が龍宮に通ずると傳へて、是にも膳椀の借用を祈つたと云ふ。翌朝その望みの食具を出して置かれたと云ふ大きな岩が、今でも瀧壺の上に在る。龍宮の乙姫此水に住んで村民を守護せられる故に、膳椀を賴んでも貸して下されぬやうな祝ひ事は、神の思召に合はぬものとして中止するので、乃ち若い男女等はこの瀧に來て緣結びをも祈つたと云ふことである。

[やぶちゃん注:「信州上伊那郡松島村」既注

「同郡勝間村の布引巖」サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌
下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用終了》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)。ストリートビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』るようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える

「愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川」愛知県新城(しんしろ)市門谷(かどや)鳳来寺にある鳳来寺山はここであるが、小字などを調べたが、「瀧川」は確認出来なかった。識者の御教授を乞う。ただ、調べるうち、竹尾利夫氏の論文「奥三河の口承文芸の位相―椀貸し伝説をめぐって―」(PDF)の中に、宝永四(一七〇七)年刊の林花翁著の地誌「三河雀」の「朱椀龍宮の事」という一条を引いておられるのを見出した(「三河文献集成・近世編上」が引用元。なお、恣意的に概ね漢字を正字化し、ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   *

鳳來寺の麓滝川と云所に住る民、常に龍宮より種々の器物をかりて自用をたしぬ、有時皆朱の椀を借り來て、壱つの椀を失て返さざりしゆへ、その後は更に借す事なし[やぶちゃん注:ここに竹尾氏による『(後略)』の注記がある。]。

   *

これについて竹尾氏は、『柳田国男によれば、文献的に椀貸し伝説の確認できるものとして』、宝暦七(一七五七)『年刊の「吉蘇志略」や』、安政二(一八五四)『年の自序をもつ「利根川図誌」に所収の話を掲げるが、管見の及んだ限りでは』、この「三河雀」の記載『が、記録に見える椀貸し伝説の最も古いものかと思われる。したがって、『三河雀』等に見えるように、遅くとも近世初期には、椀貸し伝説が今日伝承されるような内容の話として成立していたものと判断される』と述べておられるのは、非常に貴重な見解である。柳田國男はこのような「椀貸伝説」の伝承の具体的な成立濫觴時制の考証や、一次資料としての提示確認をここ以外でもはなはだ怠っているからである。

「上州利根郡東村大字追貝(おつかひ)の吹割瀧」現在の群馬県沼田市利根町追貝にある著名な「吹割の滝」(正式銘は「吹割瀑」)。ここ(グーグル・マップ・データ)。群馬県沼田市利根町老神温泉「吟松亭あわしま」(私はここに泊まったことがある)の「吹割の滝」の解説ページに、

   《引用開始》

吹割の滝は、その昔「竜宮」に通じていると信じられていました。そのため、村で振舞ごとがあるたび吹割の滝を通じて竜宮から膳椀を借りたそうです。お願いの手紙を滝に投げ込むと前日には頼んだ数の膳椀が岩の上にきちんと置かれていました。ところが一組だけ返し忘れてしまったことがあり、それ以来膳椀を貸してもらえなくなったそうです。今でもそのとき返し忘れた膳椀は「竜宮の椀」と呼ばれ大切に保存されています。

   《引用終了》

とある。リンク先は商業サイトながら、瀧を中心とした写真も豊富なので、ご覧あれ。]

 蓋し斯んな淋しい山奧の水溜りに迄、屢〻龍神の美しい姫が來て住まれると云ふのは、基づく所は地下水と云ふ天然現象に他ならぬ。天の神が雲風に乘つて去來したまふと同じやうに、水の神は地底の水道を辿つて何處にも現れたまふものと信じて居たのである。殊に山陰や岩の下から造り出る泉の、絶えず盡きず淸く新しいのを見ては、朝夕其流れを掬み又は田に引いて居る人々は、之を富の神、惠の神と考へずには居られなかつた筈である。椀貸傳説の終局が何れの場合にも人間の淺慮に起因する絶緣になつて居るのも、言はゞ神德に對する一種の讃歎であり、遠くは鵜戸の窟の大昔の物語に始まつて、神人の永く相伴ふこと能はざる悲しい理法を説明した古今多くの神話の一分派で、稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬのである。

[やぶちゃん注:「鵜戸の窟の大昔の物語」「鵜戸の窟」は「うどのいはや(いわや)」と読む。現在の宮崎県日南市大字宮浦にある鵜戸神宮。同社は日向灘に面した断崖の中腹の海食洞の岩窟内に本殿が鎮座する。神社としては珍しい「下り宮」の形態を採っている(これは海底の龍宮という異界へのアクセスを示すものと私は思う。祭神(後述)の母である豊玉姫はしばしば龍宮乙姫と同一視されるからである)。ウィキの「鵜戸神宮」によれば、『「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し』、主祭神の名の「鸕鷀(う)」(日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと):彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)後の引用を参照)『が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充て』たものであるという。「みやざきの神話と伝承101」の「鵜戸の窟」には鵜戸神宮の由緒として、以下のような神話を記す((アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

 その昔、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)は、兄・海幸彦から借りた釣り針をなくした。それを捜しに出掛けたワタツミノミヤ(海宮)でトヨタマヒメと出会い、結婚。ヒメは鵜戸の窟で出産することになり、急いで鵜(う)の羽の産屋がつくられた。

 ヒメはミコトに告げた。「私のお産の後、百日を過ぎるまでは、私も御子も決してのぞいて見てはいけません」

 しかし、ミコトはその百日が長く、待てなかった。見てはいけないと言われればなおさらである。ついに九十九日目に葺萱(ふきかや)の戸の間から、一割(ひとわれ)のたいまつをともして、産屋の中をのぞいてしまった。

 ミコトがそこに見たのは、ヒメの姿ではなかった。海宮では言葉で表せないほど美しいヒメが、今は十六丈(約四十八メートル)ほどの大蛇となり、八尋(約十二メートル)のワニ[やぶちゃん注:言うまでもなく、大鮫。]の上に乗り、御子に乳を与えている姿であった。

 ミコトは大変驚き、恐ろしくなった。一方、ヒメは自分の本当の姿をミコトに見られたことを恥ずかしく思い、海宮に婦ることにした。ミコトが言葉をつくして引き留めようとしたが、それもかなわなかった。

 ヒメは御子のために左の乳房を引きちぎり、窟の腹に打ちつけて帰っていった。今も残る「乳房石(おちちいわ)」がこれ。そして海宮への扉も閉じてしまい、海宮へ行くことはできなくなった。

 ヒメが自分の蛇身の姿を見られた恥ずかしい思いの炎と、わが御子への恋しいあこがれの炎、そしてミコトに愛別された情炎、この三つの炎は今も絶えることなく燃え上がっている。霧島山の御神火がそうだと伝えられる。

 その後、海宮からは海神の大郎女(おおいらつめ)のタマヨリヒメが遣わされ、御子の養育にあたった。この御子がヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコトである。地神第五の神で、人皇第一代の天皇である神武天皇の父神にあたる。

   《引用終了》

ここは私も叔父(私の母は鹿児島の出身である)に連れられて行ったことがある。海に面した非常に好きな神社である。

「稀に舊家に遣つて居る一箇の朱の椀こそは、卽ちエヷ女が夫に薦めたと云ふ樂園の果(このみ)に他ならぬ」「他ならぬ」かどうかは微妙に留保するが、この比較神話学的解釈は面白いと思う。但し、「他ならぬ」と断言するのであれば、その照応性を核心から解かなければ説得力はない。]

 塚の底や窟の奧に隱れ住んで人民の便宜を助けたと云ふ靈物には、他にも色々の種類がある。加賀の椀貸穴で古狐が椀を貸して居たことはすでに述べたが、それよりもさらに意外なのは佐渡の二つ岩の團三郎貉である。二つ岩は相川の山續き、舊雜太(さわた)郡下戸(おりど)村の内で又二つ山とも謂ふ。岩の奧に穴があつて貉の大一族が其中に住み、團三郎は卽ち其頭目であつた。折々化けて町へ出で來たり人を騙して連れて行くこともあるので、島民は怖れて其邊へ近よる者も少なかつたが、彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある。一説に最初は金を貸しあまり返さぬ者があるので後に膳椀だけを用立てたが、其も不義理な者が多い所から終には何も貸さぬことになつたと云ふ。兎に角至つて富裕な貉であつた。佐渡は元來貉の珍重せられた國で、每年金山の吹革の用に貉の皮數百枚づゝを買上げたと云ふのは、彼等に取つて有り難くも無いか知らぬが、俚諺にも「江戸の狐に佐渡の貉」と言ふ位で、達者で居ても相應に幅が利いたと思われ、砂撒き貉の話なども遺つて居る。右の團三郎などは二つ岩の金山繁昌の時代に、日雇に化けて山で稼いで金を溜め、後次第に富豪となると言ふが、しかも金を貸すのに利子を取つたと云ふ話はない。越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺は後に長岡の城下へ移つたが、元の寺の裏山に天文の頃、團三郎の住んで居たと云ふ故迹がある。衆徒瑞端と云ふ者を騙したこと霹顯し、時の住職より談じ込まれて佐渡へ立退いたとも言へば、他の一説には寛文年中まで尚越後國に居たとも言ふ。龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある。團三郎二度目に惡い事をしたによつて、庄屋の野上久兵衞村民を語らひ、靑杉の葉を穴に押込んで窮命に及ぶと、彼は赤い法衣を着た和尚の形をして顯れ來たり、段々の不埒を詫びてその夜の中に佐渡へ行つてしまつた。其跡は空穴となつて彼が用いた茶釜折敷(をしき)の類の殘つていたのを、關係者これを分取して今に持傳へて居る者もあると云ふ。

[やぶちゃん注:「佐渡の二つ岩の團三郎貉」「貉」は「むじな」。であるが、ここでは狸(たぬき)の異名。この団三郎狸は私の特に偏愛する佐渡の妖怪の親玉で、昨年の三月には、この団三郎を祀った二ツ岩神社へも行った(ブログ記事参照)。私の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」・及び同書の「窪田松慶療治に行事」「百地何某狸の諷を聞事」・「井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事」などの本文と私の注を是非とも参照されたい(同書は作者不詳(但し、佐渡奉行所の役人と考えてよい)で安永七(一七七八)年成立の佐渡に特化した怪談集である)。この中の二話と同一の話柄は根岸鎭衞の「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」にも載せられている(リンク先は私の古い電子化訳注)。

「彼も亦曾ては大いに膳椀を貸したことがある」辻正幸氏のサイト「狸楽巣(りらくす)」内の「禅達貉の伝説」(この禅達は団三郎の配下の化け狸の名であるが、子分のやることは親分の指示と考えてよかろう)に山本修之助編著「佐渡の伝説」の引用があり、そこに「膳椀を貸した善達貉」という話が載る。

   *

 徳和の東光寺にいる善達貉は、禅問答で有名だが、また膳椀を貸した話もある。

 むかし、人のおおぜいが集まる時には、膳や椀がたくさん必要であった。

 そんな時、この善達貉の棲む岩穴の前で、お願いをすると翌朝はかならずお願いしただけの膳や椀を揃えてくれた。そして、使ったあとは、かならず、その岩穴へ返さなければならなかった。

 村の人たちは、長い間。その恩をうけていた。

 その後、ある時、つい膳椀を返さない者があった。

 それからは、いくらお願いしても善達貉はかしてくれなかった。

   *

この東光寺(曹洞宗)は新潟県佐渡市徳和に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田は後に「妖怪談義」(昭和三一(一九五六)年刊)に載せる「團三郎の祕密」(初出は昭和九(一九三四)年六月発行の『東北の旅』)でも団三郎の金貸しの件に触れて、その後に別の膳椀貸しの話を述べているが、散漫な記述で読むに足らない。

「吹革」これはちくま文庫版全集では「ふいご」とルビする。「鞴」である。金の精錬に欠かせない。だから、もともといなかった狸(狐は現在もいない)を幕府は佐渡に持ち込んだのである。

「砂撒き貉の話」佐渡郡赤泊村(前注の徳和の近く)にある辻堂坂を夜通ると、砂を撒くような音がし、それは「砂撒(すなま)き狢(むじな)」の仕業だ、とする話が、「国際日本文化研究センター」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに載る。柳田はやはり後の「妖怪談義」に載る「小豆洗ひ」の中でもこの話にごく僅かに触れているが、これも読むに足らない。

「越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺」現在の新潟県長岡市日赤町に現存する浄土宗の寺。ウィキの「法蔵寺(長岡市)」によれば、『「日本歴史地名大系」では』応仁二(一四六八)年『に、妙見村の会水城主である石坂与十郎が三河国赤坂宿(現在の岡崎市)の法蔵寺の僧侶である入誉白鸚を招いて六日市で開創した。一方で』、『「大日本寺院総覧」では』、享禄四(一五三一)年に『越後国古志郡出身であった入誉が石坂氏の招きに応じて』、『帰郷して開山したとしている』。『その後、蔵王堂城主により蔵王に移転し、さらに長岡城築城に伴って、元和年間中に長岡城下の上寺町に移転するが、城地の都合で現在地に再々度移転した』とあって、柳田の言う事蹟は必ずしも当てにならないことが判る。されば、「元の寺の裏山」というのも本当にあったのかどうか、怪しい。団三郎伝説のプレ話であるが、私は誰かが後代に創作した可能性が高いように思う。とすれば、団三郎伝説の原型を考察する上では、この話は百害あって一利なしである虞れさえあることを述べておく。

「天文」一五三二年から一五五五年。

「衆徒瑞端」不詳。そもそもこの本土新潟での団三郎の話、ネット検索を掛けても、柳田以外の叙述が一向に出て来ない。団三郎が佐渡に渡る以前に新潟でこんな悪事を働いていた、それが露見して佐渡へ逃げた、という基本話柄が、事実、佐渡渡島以前に確かに本土に存在していたならば、それが今ではまるで知られていないということ自体、これ、おかしなことではあるまいか? ますますこの話、私は信じ難い。柳は年号まで出して妙に詳しく書いているが、一体そのソースはどこにある(あった)のか? 団三郎ファンとしては是非とも知りたい。御存じの方は、是非、御教授下されたい。

「寛文」一六六一年~一六七三年。佐渡金山の発見と開発開始は慶長六(一六〇一)年のことである。但し、戦国時代に現在の金山の山の反対側の鶴子銀山(佐渡鉱山の中でも最古とされる)で銀の採掘がなされていた。また「今昔物語集」の巻第二十六には「能登國掘鐡者行佐渡國掘金語第十五」(能登の國の鐡(くろがね)を掘る者、佐渡の國に行きて金を掘る語(こと))という段があり、佐渡で金が採掘出来ることは十一世紀後半には知られていたことが判っている(ここはウィキの「佐渡金山その他に拠った)。

「龍昌寺」新潟県長岡市六日市町にある曹洞宗のそれか。(グーグル・マップ・データ)。そんな以下に示された具体な話も今は伝わらないようである。ますます不審である。
【2018年11月2日追記:藪野直史】退屈な日常に埋没している人間たちに見放された私でも、愛しい妖怪たちは忘れずにいて呉れた。本朝、メールを開くと、中の一つに、昨日の逢魔が時に送られてきたメールがあった。開いてみると、最後に《
団三郎狢の子孫より》とあったのだ!!! 以下、ここに関わる諸情報を当の、実に! 今も生きておられる団三郎狢の末裔の方が(これは実はおちゃらけた比喩ではないのである。以下の本文を見られたい)、確かな今に残る私の愛する「団三郎狸」の情報を寄せて下さったのだ! 以下に、メール全文を示す。

   《引用開始》

初めまして。石坂与十郎の検索で貴ホームページを拝見し、団三郎狢の伝説の情報をお探しのようでしたので連絡いたしました。

六日市地区には団三郎狢の伝説が確かに存在します。記録としては柳田氏も資料として多用している明治二三(一八九〇)年頃の「温故の栞」が上げられ、昭和一一(一九三六)年の「古志郡 六校会 郷教育資料」にも同様の内容で記載されています。

しかし、「温故の栞」には龍昌寺以下の内容は書かれていません。柳田氏はどこで採取されたのかわかりませんが、野上久兵衞家は現存します。千手観音堂を護持する旧家で武家の出身の伝承を持っています。また、団三郎狢伝承の故地には石仏がありますが、団三郎狢の住処の穴の場所は伝わっていません。しかしながら、地元には式内三宅神社の伝承に祖神が来臨した「鎮窟」が存在し「鬼の穴」として近郷に有名です。

『龍昌寺と云ふ寺の寺山の奧にはこの貉の居たと云ふ窟がある』とありますが、「窟」と呼んでいるので、この「鎮窟」の可能性が高いと思われます。また当家は龍昌寺裏に「狢屋敷」の字名を持つ山林を所有していますが、恐らく伝説に関する故地と思われます。

地元には他にも弥三郎婆、猫又、カワウソ、カッパ等の伝説伝承が豊富ですが、未開の遺風だと勘違いして誰も関心持たないのです。地元の式内社の伝承すら興味が薄いのですから。それが表に出ない最大の理由です。

団三郎、弥三郎、甲賀三郎、伊吹弥三郎は、いずれも「三郎」を名乗る魔性の者ですが、いずれ、人間に違いありません。

製鉄と穴は「三郎」に共通で、古代の山の民(国津神)の末子相続制を表したものでしょう。

また地元の猫又の伝承は甲賀三郎のものとほぼ同一で、地下の異界往来譚となっています。山幸彦の伝承の山バージョンです。神仙思想を山の民が先行して受容したことの記憶でしょう。

団三郎狢に興味を持って頂いて有り難いです。更にご興味があれば追って資料を提供いたします。よろしくお願いいたします。

団三郎狢の子孫より

   《引用終了》

これは恐らく現在、望み得る至上の真摯な情報と見解で、読みながら、手が震えた。ここへ掲げて、深く謝意を表するものである。]

 越後の寺泊から出雲崎へかけての海岸では、春から秋のあいだの晴れやかな夕暮に、海上佐渡の二つ山の方に當つて雲にも非ず藍黑き氣立ち、樓閣城郭長屋廊下塀石垣などの皆全備して見えることがある。これを俗には二つ山の團三郎の所業と言つたさうである。相川の町などでも團三郎に連れられて彼が住む穴に入つて見た者は、中の結構が王公の邸宅の如く、家内大勢華衣美食して居るのに驚かぬ者はなかつた。ある醫者は夜中賴まれて山中の村へ往診に行き、此樣な立派な家は此邊に無い筈だがと思つて居たが、歸宅後段々考えてみて始めて二つ岩の貉の穴だつたことを知つたと云ふ話もある。或は又此穴の中の三日は浮世の三年に當ると云ふ浦島式の話もある。或は又此仙境で貰ひ受けた百文の錢は、九十九文まで遣つても一文だけ殘して置けば夜の中に又百文になつて居て、其人一生の間は盡きることが無いと云ふ話もある。主人公が貉であるばかりに特に珍しく聞えはするが、他の部分に於ては長者の福德圓滿を語り傳へた多くの昔語りと異なる所が無いので、其れではあまり變化らしくないとでも考へたものか、穴の中で見て來た事を人に語ると立處に命を失うと云ふ怖い條件を一寸添えてはあるが、しかも右申す如く既に世上の評判となつて居るのだから何にもならぬ。

[やぶちゃん注:以上の話は、概ね、先にリンクさせた私の「佐渡怪談藻鹽草」に尽きており、本土から見た佐渡に蜃気楼が見え、それが団三郎によるものだとする話柄もよく知られた話である。アカデミストの柳田國男は知られていない怪談集を一次資料として示すのを躊躇ったものかも知れぬ。尻の穴の小さい男だ。] 

2018/01/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七

 

     

 自分が徒らに話を長くする閑人で無いことは、大急行の話し振りでも御諒察が出來るであらう。何分問題が込み入つて居るので今少し他の方面から𢌞つて見ぬと趣意が立たぬ。椀貸と無言貿易との關係を窺ふ爲に、是非とも考へて置かねばならぬのは、貸主に關する各地色々の言傳へである。愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山の麓の洞穴には、昔異人此中に住んで居て村の者に膳椀を貸したと云ふ話がある。是も前日に洞の前に往き口頭または書面にて申し入れて置くと、翌朝は數の如く出してあつたと言ひ、又橫着な者が返辨を怠つてから貸さなくなつたと傳へて居る。異人と聞くと何となく白髮の老翁などを聯想するが、他の地方には越中の家具借の池のやうに、美しい女神を説くものが多いのである。例へば信州木曾の山口村の龍ケ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松の樹を生じ形狀怪奇であつた。吉蘇志略には此事を記して「土人云ふ靑龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、後或其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩と云ふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るに皆意の如し、その後黠夫あり窺い見て大いに呼ぶ、水神水に沒して復見えずと濃陽志略に見えて居る。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)で、是も同じ書に山の半腹にある戸立石と云ふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、其末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女あり此岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後終にその事絶ゆとある。九州では宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷の百椀とどろと呼ぶ谷川の潭にも、水の中から美しい女の手が出て百人前の椀を貸したと云ふ處がある。この淵も亦龍宮へ續いて居ると云ふことであつた。或時馬鹿者が椀拜借に來て、その美しい手を引張つて見てから以後、爰でも永く椀を貸さなくなり、しかも今以て其水で不淨を洗へば祟りがある。

[やぶちゃん注:「愛媛縣溫泉郡味生(みぶ)村大字北齋院の岩子山」現在の愛媛県松山市北斎院町の岩子山(いわこさん)緑地附近。(グーグル・マップ・データ)。

「信州木曾の山口村の龍ケ岩」旧長野県南西部にあった旧長野県木曽郡山口村。島崎藤村の出生地である馬籠宿で知られ、古来より関係の親密であった岐阜県中津川市と県を超えた合併をし、現在は岐阜県中津川市山口である。附近と思われる(グーグル・マップ・データ)が、「龍ケ岩」の現在位置は不詳。識者の御教授を乞う。

「吉蘇志略」尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。

「岐阜縣稻葉郡長良村大字古津」現在の岐阜市長良古津(ふるつ)。長良川北岸に位置する。(グーグル・マップ・データ)。

「黠夫」「かつふ」と読む。悪賢い男。

「濃陽志略」先に注した松平君山が宝暦六(一七五六)年に著わした美濃国の地誌「濃州志略」の別称。

「同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)」既出既注であるが、再掲する。現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。「津保川」は同地区の南端を流れる。

「宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷」現在の宮崎県延岡市北方町の荒谷(あらだに)地区。附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「百椀とどろ」「とどろ」は「滝」のことで、「轟く」が原義か。]

 此等の話だけを粗末に見ると、故坪井先生の珍重せられたコロボツクルの少女の手を窓越しに振つてから、アイヌとの交通が絶えたと云ふ北方の言傳へと、一寸似て居るやうにも思はれるが、日本で水の神を女體とすることは古く且弘い俗信であつた上に、浦島子傳より更に以前の神話から考へても、佛教並に支那の思想の附添へから推して見ても、龍宮は寶の國如意の國、最も敬虔にして且幸運なる者が、僅かに稀に通ふことのできる國と定まつて居たので、さてこそ斯樣な此方にばかり好都合な交通が、處々の水際に於て行はるゝものと考へ得るに至つたのである。是をしも譬へば蝦夷の妻娘でもあつたかのように想像することは、恐らくは當世の新人物と雖も、尚好い感じを起さぬであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「故坪井先生」自然人類学者坪井正五郎(文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)。理学博士。ウィキの「坪井正五郎によれば、『蘭方医・坪井信道の孫として江戸に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良』)。明治一〇(一八七七)年に『大学予備門に入り』明治一九(一八八六)年、『帝国大学理科大学動物学科』を卒業すると、そのまま『帝国大学大学院に進学』、『人類学を専攻、修了後の』明治二一(一八八八)年、『帝国大学理科大学助手』となったが、翌年より三年間、『イギリスに留学』、三年後に帰国すると、『帝国大学理科大学教授』となった。『日本の人類学の先駆者であり、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている』。明治三六(一九〇三)年の第五回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した』。第五回万国学士院大会出席のために『滞在していたロシア・サンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死』した。『人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育て』、また、『柳田国男と南方熊楠を結びつけ』た人物でもある。

「コロボツクルの少女の手を窓越しに振つてから、アイヌとの交通が絶えたと云ふ北方の言傳へ」こんちゃん氏のブログ「こんどう史科医院の裏ブログ」の「錬金術ともののけ姫 第3回 借りぐらしのアリエッティ」によれば、宗谷地方の伝説とある。それによれば、『その昔』、『アイヌとコロボックルが共存していたころ、コロボックルはアイヌに姿を見せることなく、アイヌの家の窓を通して鹿肉や魚などを置き、アイヌがそれをとって同じ場所に代価となる品物を置く、という形で交易をおこなっていた。ところがあるアイヌの男がどうしてもコロボックルを見たくなり、窓から品物が差し入れられたところで、それを持つ手を思い切り引っ張った。こうして、その手の主がたちまち家の中に引きずり込まれた。男が見るとそれはとても美しい少女だった』。『コロボックルたちはこの男の背信を怒り、もはやアイヌとは一緒に住めないと北の海の彼方に去って行ってしまった』とあるではないか! これはまさに精霊族と人間との無言交流・無言貿易の神話に他ならないではいか! 柳田國男は鳥居龍蔵の無言貿易という概念を民俗学的に排除するために、それをわざと問題にしていないのだとしか、私には思えない。こういう小手先でうやむやに逸らすのは、実に糞アカデミストの常套手段でしかないと私は強く思う。

「蝦夷の妻娘でもあつたかのように想像することは、恐らくは當世の新人物と雖も、尚好い感じを起さぬであらうと思ふ」柳田國男の差別意識の底が知れる、持って回った厭な言い回しではないか。]

芥川龍之介 手帳8 (20) 《8-23》

《8-23》

○まいろや まいろや パライゾの寺にまいろや パライゾの寺とは申すれど 廣い寺とは申すれど 廣い狹いは我胸にあり(浦上)

[やぶちゃん注:歌謡研究会発行のメール・マガジン「歌謡(うた)つれづれ」の永池健二氏の「パライソの寺へ参ろうやれ― 生月島・かくれキリシタンの歌オラショ―」に(リンク先は同メルマガのサンプル・ページ。但し、配信は既に終了している)、長崎県平戸市に属する、平戸島の北西にある有人島である生月島(いきつきしま)の生月町の博物館の紹介ビデオから採集された「かくれキリシタン」の歌「ダンジク様の歌」(「生月島のオラショ 山田のオラショ一座」)の歌詞が載り、それが、この芥川龍之介のメモした歌と酷似する

   《引用開始》

 

  ウー 参ろうやな 参ろやなぁ。

  パライゾの寺にぞ 参ろやなぁ。

  パライゾの寺とは 申するやなぁ。

  広いな寺とは 申するやなぁ。

  広いな狭いは 我が胸に 在るぞやなぁ。

 

  ウー 柴田山 柴田山なぁ。

  今はな涙の 先なるやなぁ。

  先はな助かる 道で あるぞーやなぁ。

 

   《引用終了》

この歌について、永池氏は、

   《引用開始》

いま、この歌を静かに、しかし、力強く唱和する信徒の人びとの歌声をそのままお伝えできないのは、まことに残念です。しかし、この歌の言葉を見ただけでも、パライソの神への一筋の思いをこのような歌でしか表出することができなかった人びとのひそやかな歌声がその行間から聞こえてくるような気がします。

キリシタンの信徒たちは、布教時代に宣教師から習い覚えた異国の祈祷の詞章を、禁制下にあっても失うことなく口伝えに受け継いできました。生月の人びとは、それを「オラショ」や「ゴショウ」と呼んでいまも大切に伝えています。その大半は、節を伴わず口唱されるだけの唱えごととなっていますが、その中には、節を伴って歌われる「歌オラショ」と呼ばれる歌が、各地区に数曲伝えられています。上の歌は、その中でも、日本人の信徒によって作られたものと思われる珍しい日本語の歌で、生月島でも、山田地区の信徒の人びとの間でのみ伝えられている二曲の日本語の歌オラショの一つです。地元では、船で島外に逃げようとして果たせず殉教した三人の親子 ―ダンジク様― を偲び歌ったものと伝えられています。

[やぶちゃん注:中略。]

強い信仰や憧れの思いを、対象を空間的に想定して「~へ参ろう」とうたうのは、古代以来の日本の伝統的歌謡に特徴的に見られる一類型といってよいものです。生月島のダンジク様の歌は、そうした伝統的な表現類型を見事に踏まえながら、禁じられた信仰を長い弾圧の時代を通じて持ち伝えた人びとだけが表出しうる独自の表現として見事に結実させていると思います。

人びとは、その信仰心の素直な発露のままに「参ろうやな 参ろうやな」と歌いあげる。しかし、その参るべきお寺も拝所も、禁制下のキリシタンの人びとにとって、それは現世のどこにも存在しないのです。

「パライソ(天国)の寺にぞ参ろうやなぁ」という一句の表現には、そうした人びとの一筋の思いが、極限まで純化され、珠玉の結晶として歌い込まれているような気がします。

第一節の後半部の一句「広いな寺」は、分かりにくい表現です。あるいは、長い伝承の内に何か転訛があったものかもしれません。しかし、それに続く後半の一句「広いな狭いは我が胸に在るぞやなぁ」は、また、私に次のような歌を想起させます。

[やぶちゃん注:長い区切り記号を「*   *   *」に代え、アラビア数字を漢数字に変更した。]

*   *   *

 極楽浄土は一所、勉め無ければ程遠し、

  我等が心の愚かにて、近きを遠しと思ふなり

          (梁塵秘抄 一七五)

*   *   *

この世の諸々の苦しみや悩みを厭い離れて、ひたすら超越的な精神の高みに至ろうとする人びとがおのが心と描き出す精神の軌跡は、その信仰の内容にかかわらず、驚くほど同じかたちをとるものだと思わずにはいられません。

   《引用終了》

と美事な解釈をなさっておられる。芥川龍之介もまた、この永池氏と同じような深い感銘をこの歌から受けたものであろう。]

 

○さへづり草 トロンぺイタ 河童

[やぶちゃん注:「さへづり草」は明治四三(一九一〇)年に発行された見聞録。ウィキの「さへづり草」によれば、和漢の故事・地名人名の由来・俳諧俳人についての噂話・芝居の役者の伝記・動植物の名義・世間の風俗・風評及び地誌などを書き綴ったもので『著者は、俳人の加藤昶』(きよし 寛政七(一七九五)年~明治八(一八七五)年:別に藤原長房とも。号は雀庵など)で、本書は天保年間(一八三一年~一八四五年)から文久三(一八六三)年までの約三十『年間に雀庵が「見聞に任せて座右消閑にものしたるもの」を』、この明治四十三年になって『室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行』したものであるとある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認することができ、調べて見たところ、「水虎の名義」の章で、河童の本邦各地での呼称を並べた後に、『さて紅毛言(こうもうことば)にトロンペイタとよべるのみ、今其名義考ることを不得、さて漢土にて水虎(すゐこ)と書るも水にての虎と云る義にて、こゝの川太郎とその義と[やぶちゃん注:この「と」は印字が擦れているので推測。]よくあへり』とあるのを見出せた。さてもその「トロンペイタ」なのだが、そもそも本邦固有の河童の外国語などというのは、あろうはずがない(英語ではそのまま“kappa”だ。但し、“Water imp”とか、“river imp”という説明的な成語はある(“imp”は「インプ」で、悪魔の一種。ウィキの「インプ(悪魔)」によれば、体長十センチメートルほどで『大きくても』、『人間の子供』ほどしかなく、『全身が黒く、充血した目をしており、ピンと尖った耳に、ぽっこりした腹をし、鉤のある長い尻尾を持った姿をしている』とある。元来、“imp”は「挿し木」などの「枝」を『意味し、種から育ったわけでもな』いのに、『果実を実らせることから、魔術的な意味があるといわれていた。当初は、妖精に分類されていたが』、十六『世紀頃になると、学者たちによって悪魔に分類され』、『その後、頭髪がなくなり、角や蝙蝠のような翼が加えられた』とあるが、こりゃあ、河童でねえって!)。

そこでまず、「トロンペイタ」が何語で何の意味かを考えて見ることにした。語学は苦手なので、意味を考えてみる。つくづく考えて見て、まず、初めて見た「河童」の絵に、外国人は、その体のどの部分を真っ先に瞠目するかを考えて見た。皿か? ありゃ、多くの自身、宣教師の頭と同(おんな)じで、それに吃驚はすまい。何に吃驚するかって、そりゃあ、

あの河童特有の、突き出た嘴(くちばし)じゃあ、ないカイ?!

おお! そう言えば!

この「トロンペイタ」って言葉は口に突き出るように添えて吹く「トランペット」に似てやしないカイ?!

そこでネットを頼りに調べてみた。発音が似ているのはドイツ語で“Trompete”で「トロンペーテ」だが、シーボルトがいるけど、ちょっと「紅毛言」葉としっくり来ない気もするし……そこでまずは……

オランダ語は、豈に図らんや、“trompet”で「トロンペット」

でフツー過ぎて違うぞ?

よし! そいじゃ、今一つの江戸以前の紅毛語となりゃ、あれだろ!

ポルトガル語ではズバリ! “Trombeta”で、ネイティヴの発音を聴くと、これまた、「トロンベータ」だッツ!!!

それよ! それ!

「河童」の絵を見たポルトガルの宣教師か商人か船長が、

――なんだ? この「トロンベータ」(トランペット)みたような口は?!

と恐怖の声を挙げた時、未だ不勉強な日本人通辞が「河童」をポルトガル語で「トロンペイタ」と言うのだと、聞き違え、思い違いをしたんじゃなかろうか?! 久々に考証が面白かったワン!]

 

café の女ノ顏ズツト(ソノ日中)忘ル 曉方思ひ出す

Political conflict is genuine only in the broken country. See Croatia.

[やぶちゃん注:「政治的紛争は、毀れてしまった国家にあってのみ、本物(純正・正真正銘のもの)となる。クロアチアを見るがいい。」。ウィキの「クロアチアによれば、一九一八年、『第一次世界大戦の敗北』によってオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、旧オーストリア=ハンガリー『から離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加』したとある。芥川龍之介没後のこととなるが、一九二九年は『国名をユーゴスラビア王国に改名した。しかし』、『この連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく』、一九三九年には』、『この不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州』『を設定したが、批判も多かった』とある。龍之介の言葉は、その後の社会主義化や民主化・独立、クロアチア紛争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入などを射程に入れた時、まさに皮肉にも生きてくるようにも思われる。]

 

Have you a conscience. Go to theatre!  You will be welcomed as a modern prodigal son!

[やぶちゃん注:「君は良心を持っているかねぇ。そうかね、ならば、さあ、劇場に行こうぜ! 君は現代の放蕩息子として歓迎されることだろうよ!」か。]

 

○日蓮上人金を得る爲に運動す money の問題

[やぶちゃん注:日蓮のどのような行動を指しているのか、ぱっと直ぐには想起出来ない。ありそうな気はしているが、寧ろ、日蓮が、「由比ヶ浜の和賀江ノ島寄りで通行税を取って金儲けをしている」として、極楽寺の忍性を批判し、幕府に訴え出たことの方が頭に浮かんでしまって離れない。判ったら、追記する。これ、今のおぞましき創価学会ならよく判るんだけどなあ……。]

 

○父

妾→私生子(トドケ)

   >子

小間使

[やぶちゃん注:以上の条は岩波旧全集にはない。]

 

○伜父母をひきとる  materially ニトム 父母ヲひきとる 伜イカル Thema not yet matured

[やぶちゃん注:「materially」「実利的・物質主義的」の意か(遺産の分配相続のことを見越しての意か)。

Thema not yet matured」「未だ(その前に記された)テーマは熟成されていない」という自身へのメモ書きか。]

芥川龍之介 手帳8 (19) 《8-22》

《8-22》

Typhus, Malaria ノ細菌ハ antitoxin ヲ造リ 自ラ死滅ス

[やぶちゃん注:「Typhus」高熱や発疹を伴う細菌感染症の一種であるチフス(漢字表記:窒扶斯)。広義或いは古い定義では、サルモネラ菌(真正細菌プロテオバクテリア門(Proteobacteria)ガンマプロテオバクテリア綱(Gammaproteobacteria)エンテロバクター目(Enterobacteriaceae)腸内細菌科サルモネラ属 Salmonella)の一種であるチフス菌 Salmonella enterica serovar Typhi:「serovar」は「血清型」の意)の感染によって発症する「腸チフス」・同属のパラチフス菌 Salmonella enterica serovar Paratyphi A)の感染によって発症する「パラチフス」・発疹チフスリケッチア(プロテオバクテリア門アルファプロテオバクテリア綱(Alphaproteobacteria)リケッチア目(Rickettsiales)リケッチア科リケッチア属 Rickettsia  Rickettsia prowazekii)の感染によって発症する「発疹チフス」の三種の症状に対して言う(言われた)。狭義には腸チフスとパラチフスの二種に起因するチフス性疾患を指すことが多く、単に「腸チフス」のみを指すこともある(以上はウィキの「チフス」他に拠る)。

Malaria」アルベオラータ 亜界(Alveolata)アピコンプレクサ 門( Apicomplexa)胞子虫綱コクシジウム目マラリア原虫 Plasmodium spp. によって引き起こされる疾患名。熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で高熱や頭痛・吐き気などの症状を呈し、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こして死亡する。マラリアは当て漢字で「麻剌利亜」と書き、「悪い空気」という意味の古いイタリア語である“mal aria”を語源とするらしい(ドイツ語:Malaria・英語:malaria)の病原体。本邦に於いて平清盛の死因として知られる「瘧(おこり)」とは、概ねこのマラリアを指していると考えてよい。以下、参照したウィキの「マラリア」より引用する。蚊の一種群であるハマダラカ(羽斑蚊・翅斑蚊。双翅(ハエ)目長角(「糸角」或いは「カ」)カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles。ハマダラカで最も知られている種は、マラリア原虫の中でも最も悪性である熱帯熱マラリア原虫(Plasmodium falciparum)を媒介するガンビエハマダラカ Anopheles gambiae)『によって媒介され』、近年、『微細構造および分子系統解析からアルベオラータ』に分類されるようになったが、ここには既に本文にも登場してきた渦鞭毛藻類が含まれており、『近年マラリア原虫からも葉緑体の痕跡が発見された。そのため、その全てが寄生生物であるアピコンプレクサ類も祖先は渦鞭毛藻類と同じ光合成生物であったと考えられている。ヒトの病原体となるものはながらく熱帯熱マラリア原虫(P. falciparum)、三日熱マラリア原虫(P. vivax)、四日熱マラリア原虫(P. malariae)、卵形マラリア原虫(P. ovale)の』四『種類であったが、近年』、『サルマラリア原虫(P. knowlesi)が』五『種目として大きな注目を集めている。サルマラリアは顕微鏡検査では P. vivaxと区別が難しいため従来ほとんど報告例はなかったが、近年の検査技術の発達によりPCR』(ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)。DNAを増幅させる検査法)『で確実な判断ができるようになったため、多数症例が報告されるようになった。マレーシア』の『サラワク州では今日のマラリア症例の』七十%が『サルマラリアによるものであることも報告されている』。『タイでも報告例がでて』おり、『熱帯熱マラリア原虫によるマラリアは症状が重いことで知られるが、サルマラリアは』二十四『時間以下の周期で急激に原虫が増加し、他のマラリアとことなり』、『ほぼすべての赤血球に侵入するため』、『症状は重篤になることが多く』、『これらの発見から当該地域でのマラリア』・『コントロールは新たな手法による対応を迫られている』。『マラリア原虫は脊椎動物で無性生殖を、昆虫で有性生殖を行う。したがって、ヒトは終宿主ではなく』、『中間宿主である。ハマダラカで有性生殖を行なって増殖した原虫は、スポロゾイト』(sporozoite:種虫)『(胞子が殻の中で分裂して外に出たもの)として唾液腺に集まる性質を持つ。このため、この蚊に吸血される際に蚊の唾液と一緒に大量の原虫が体内に送り込まれることになる。血液中に入ると』四十五『分程度で肝細胞に取り付く。肝細胞中で』一~三『週間かけて成熟増殖し、分裂小体(メロゾイト)』(merozoite:娘虫体)『が数千個になった段階で肝細胞を破壊し』、『赤血球に侵入する。赤血球内で』八個から三十二個に『分裂すると』、『赤血球を破壊して血液中に出る。分裂小体は新たな赤血球に侵入し』、『このサイクルを繰り返す』。『マラリアを発症すると』、四十『度近くの激しい高熱に襲われるが、比較的短時間で熱は下がる。しかし、三日熱マラリアの場合』は四十八『時間おきに、四日熱マラリアの場合』では七十二『時間おきに、繰り返し』、『激しい高熱に襲われることになる(これが三日熱、四日熱と呼ばれる所以である)。卵形マラリアは三日熱マラリアとほぼ同じで』五十『時間おきに発熱する。熱帯熱マラリアの場合には周期性は薄い』。『熱帯熱マラリア以外で見られる周期性は』、『原虫が赤血球内で発育する時間が関係しており、たとえば三日熱マラリアでは』四十八『時間ごとに原虫が血中に出る』際に、『赤血球を破壊するため、それと同時に発熱が起こる。熱帯熱マラリアに周期性がないのは』、『赤血球内での発育の同調性が良くないためである』。『いずれの場合も、一旦熱が下がることから油断しやすいが、すぐに治療を始めないと』、『どんどん重篤な状態に陥ってしまう。一般的には、』三『度目の高熱を発症した時には大変危険な状態にあるといわれている』。『放置した場合、熱帯熱マラリア以外は慢性化する。慢性化すると』、『発熱の間隔が延び、血中の原虫は減少する』。『三日熱マラリアと卵形マラリアは一部の原虫が肝細胞内で休眠型となり、長期間潜伏する事がある。この原虫は何らかの原因で分裂を再開し、再発の原因となる。四日熱マラリア原虫の成熟体は、血液中に数か月~数年間潜伏し発症させることがある』。『マラリア原虫へのワクチンはないが、抗マラリア剤はいくつかある。マラリアの治療薬としてはキニーネ』(オランダ語: kinine:英語:quinine(キニン):キク亜綱アカネ目アカネ科キナノキ属アカキナノキ Cinchona pubescens の樹皮に含まれるアルカロイド)『が知られている。他にはクロロキン』(chloroquine:マラリア治療及び予防用に合成された薬剤)・メフロキン(Mefloquine:キニーネに類似の化学構造を持つ、合成された抗マラリア剤)・ファンシダール(Fansidar:抗原虫薬の商品名で二種の薬剤の合剤。本来の適応はマラリアだけであるが、近年ではエイズのトキソプラズマ脳症の治療や再発予防に使用される)・プリマキン(Primaquine:抗マラリア剤として合成されたもの)『等がある』が、『いずれも』非常に『強い副作用』(致死的なものもある)『が現れることがあり』、処方には非常に『注意が必要』である。『クロロキンは他の薬剤よりは副作用が少ないため、予防薬や治療の際最初に試す薬として使われることが多いが、クロロキンに耐性を示す原虫も存在する。通常は熱帯熱マラリア以外ではクロロキンとプリマキンを投与し、熱帯熱マラリアでは感染したと思われる地域での耐性マラリア多寡に基づいて治療を決定する。近年では、漢方薬を由来としたチンハオス系薬剤(アルテミシニン)』(Artemisinin:抗マラリア活性を有するセスキテルペンラクトン(sesquiterpene lactone:イソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素)三つからなるセスキテルペノイド(Sesquiterpenoid)で、ラクトン環を含むことからの名称)の一つ)『が副作用、薬剤耐性が少ないとされ、マラリア治療の第一選択薬として広く使用されるようになった。これによりこれまで制圧が困難であった地域でも大きな成果をあげている一方、アジア、アフリカの一部ではすでに薬剤耐性が報告されるようになってきた』。二〇一〇『年以後、アルテミシニンはグローバルファンド』(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria:「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」の略称)『の援助によって東南アジアのマラリア治療薬としてインドネシアの国境付近のような僻地であっても』、『処方されるようになってきている』。『近年は殺虫剤に耐性を持つハマダラカや、薬剤に耐性のあるマラリア原虫が現れていることが問題になっている。また地球温暖化による亜熱帯域の拡大とともにマラリアの分布域が広がることも指摘されている。流行地で生まれ育ち、度々マラリアに罹患し』、『免疫を獲得した』人の場合は、『発熱などの症状がほとんど診られないこともあるが、免疫が無ければ発症する』とある。……長々と引用したのには私の個人的な理由がある。私は同い年の友人永野広務君をマラリアで失っているからである。海外に行く機会の多い、そして近年、ハマダラカの生息が東京でも確認されている昨今、マラリアは決して対岸の火事ではないことを心に刻んでおく必要があるからである。]

antitoxin」アンチトキシン。「抗毒素」「反毒素」「抗毒薬」の意。血液中で毒素を中和する物質の総称。]

 

○梅花寨(奉天の先10里以上) 燒飯の煮エテル鍋 松 楢 山あり 愛シンカクラの出でし所 墓アリ(山麓)

[やぶちゃん注:「梅花寨」「ばいかさい」(現代仮名遣)と読んでおくが、不詳。同名の地名は調べたところ、現代中国に複数あるが、孰れも、この「奉天の先」十「里以上」には相当しなかった。奉天は現在の遼寧省瀋陽(市)であるが、そこから四十キロ以上東となると、ぎりぎりで瀋陽市内か、東方向なら遼寧省撫順市内、旧満州鉄道のルートなら同省本渓市になる。読めないながらに、後の清朝の愛新覚羅(この姓を名乗ったのは第三代皇帝順治帝(アイシンギョロ・フリン:愛新覚羅福臨:この姓は満洲(中国東北部)に存在した建州女真族(満洲民族)の姓氏で、始祖ヌルハチの祖先が最初に定住したのは現在の黒竜江省依蘭県一帯)の出身地で調べてみると、どうやら、遼寧省撫順市新賓満族自治県(グーグル・マップ・データ)の中らしいように思われる但し、ここは現在の瀋陽市の東の端から、同地区の北の西端でも五十キロメートルを越える。「以上」と言っているから、誤差範囲とは言えるが、梅花寨がそこに見つからなければ、私の推理は水の泡であるただ、非常に気になるのは、このメモ、実際に芥川龍之介がそこに行き、「燒飯」が「鍋」の中で「煮えている」料理を見、「松」「楢」の樹林帯があり、「山」が「あり」、案内者或いは案内書によってそこが「愛新覚羅」族の出身地であることを知り、その「山麓」に愛新覚羅族の先祖(?)の「墓」があるのを見たメモのようにも思えてくる点である(次に俳句まで出る!)。実は芥川龍之介の中国特派の旅は、北京以降がブラック・ボックスで(奉天を経由した)よく判っていない謎の部分なのである。

 

○梨の花カクラが門の古びかな

[やぶちゃん注:ここだけに出る芥川龍之介の句である。]

○神は自殺する能はず

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に「社交」「瑣事」とともに全四章で初出する「侏儒の言葉」(リンク先は私のオリジナル合成完全版)の「神」二章の最初のものや(リンク先は私のブログ個別詳注版)、遺稿「或阿呆の一生」(自死から凡そ二ヶ月後の昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の中の「四十二 神々の笑ひ聲」(自分の「侏儒の言葉」の回想の形で)と一致する。

   *

 

       

 

 あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。

 

       

 

 我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。

 

   *

 

     四十二 神々の笑ひ聲

 

 三十五歳の彼は春の日の當つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………

 

   *]

 

○暴行ハ相手を論破するより容易なり
 

芥川龍之介 手帳8 (18) 《8-21》

《8-21》

○河童

二十七年己卯夏四月已亥の朔壬寅四日近江國言く 蒲生河に物有り其形人の如しと 秋七月攝津の國の漁父(アマ)罟(アミ)を堀江に沈(オ)けり 物ありて罟(アミ)に入る 其の形兒(ワクゴ)の如く 魚にも非ず 人にも非ず 名づけむ所を知らず 推古天皇紀

[やぶちゃん注:「日本書紀」の推古天皇二十七年(ユリウス暦六一九年)四月と七月の記載。思うに、所謂、現在の我々の想起する人型形態を有する河童、河童らしい河童の本邦での最初期の記載(私がかく言うのは中国由来の本邦の河童とは無関係(と私は考えている)「河伯」系(それらしい系統の記載も「日本書紀」には別にある)とは全くルーツの異なるものという意味で、である)と私は考えている

   *

二七年夏四月己亥朔壬寅。近江國言。於蒲生河有物。其形如人。

(二十七年の夏四月(うづき)己亥(つちのとのゐ)朔(ついたち)、壬寅(みづのえとらのひ)、近江國、言(まう)さく、「蒲生河(かまふがは)に、物、有り、其の形、人のごとし。」と。)

秋七月。攝津國有漁父。沈罟於堀江。有物入罟。其形如兒。非魚非人。不知所名。

(秋七月、攝津國に漁父有りて、罟(あみ)を堀江に沈(お)けり。物、有りて罟に入る。其の形、兒(わかご)のごとく、魚にも非(あら)ず、人にも非ず、名づける所を知らず、と。)

「四月己亥朔壬寅」「四月己亥」は「朔」(四月一日)の干支を示し、その四月の「壬寅」は四月四日に当たり、ユリウス暦では六一九年五月二十二日(グレゴリオ暦で換算すると、五月二十五日相当となる)。

「蒲生河」は現在の滋賀県中東部を西流する日野川の旧称で、現行でも別称としてある。鈴鹿山地の綿向(わたむき)山(標高千百十メートル)を水源とし、滋賀県蒲生郡日野町及び同郡域を流れて、近江八幡市西部で琵琶湖に注ぐ。総延長約四十四キロメートル、流域面積約二百平方キロメートル。上流部の山は大部分が花崗岩からなるため、侵食・運搬・堆積作用が激しく、下流部では天井川となり、しかも上流部は局地性豪雨地帯でもあることから、古えより、水害に襲われることが多かった(解説及び別称確認は小学館「日本大百科全書」に拠った。この地図で全流域が含まれる(グーグル・マップ・データ))。

「其形人の如し」ここは水系が完全に淡水の閉鎖系であることに着目する。則ち、後の摂津の例のような、海生哺乳類の可能性は完全に排除出来るからである。しかも、ごく河口附近であったなら、記録は琵琶湖の名を出すはずであるから、これは蒲生川=日野川の中・上流域(無論、下流でも構わない)と、取り敢えず措定することは誤りではあるまい。さすれば、鈴鹿山脈の水系で、一般の市井人が見かけない(だから驚いて朝廷に報告する)、人形(ひとがた)をした=四足を持った水棲生物となれば、私は脊索動物門脊椎動物亜門両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus を見たか、捕獲したのではないかと考える。現行、日野川に同種の棲息は確認されていないが、同種は本邦では本来的に岐阜県以西の本州・四国・九州の一部に棲息する(或いはしていた)固有種であり、実際に現在も滋賀県内の琵琶湖東岸(日野川源流の綿向山はここの南南東五十五キロメートルである)北方、長浜市古橋大谷川は県内最大のオオサンショウウオの棲息地であり、「滋賀のオオサンショウウオを守る会」も存在するからである

「七月」例えば、朔日七月一日はユリウス暦六一九年八月十六日(グレゴリオ暦換算八月十九日)であるから、現在の八月中旬から九月中旬に相当する。

「攝津の國」「堀江」現在の地名で謂うなら、大阪府大阪市西区南東部の北堀江及び南堀江を指す(この中央(大阪府道29号大阪臨海線のマークのある周辺。グーグル・マップ・データ)が、ウィキの「堀江(大阪市)によれば、『堀江は大坂城下の南西端に位置し、陸地になったのが最も遅い低湿地であり開発は遅れた。石山合戦』(一五七〇年~一五八〇年)『の時期は、この地域はまだ海だったと思われ、石山本願寺を支援する毛利をはじめとする大名方と織田信長方の水軍同士の戦闘(木津川の戦い)がこの付近で行われている』とあるから、ここは古代に於いても、恐らくは、大坂湾湾奧(わんおう)最深部の入「江」或いは砂浜海岸或いは大干潟或いは原(げん)淀川河口に広がっていた大砂州か大湿地帯であったと考えてよい。

「漁父(アマ)」当然、海漁の漁師となる。

「罟(アミ)を」「沈(オ)けり」現在の定置網のような、竹木に網を固定して魚類を絡ませて捕獲するタイプのものか、或いはより進化した、四手網(よつであみ)のように四角形の袋状の網の上に餌を置いて魚を誘き寄せ、網の上に集めて引き上げるタイプの「敷(し)き網」であろう。

「兒(ワクゴ)」「若子」とも書く。本来は成年男子の美称で「若様」の意であるが(万葉語)、転じて「幼児・乳児」を指す。「わかご」。

「魚にも非ず 人にも非ず 名づけむ所を知らず」これはもう、海棲哺乳類と採ることが可能である。

 

まず、私が第一に想起するのは、

哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

の幼体である。ウィキの「ニホシカ」によれば、同種は『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』を本来の棲息域とし、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに』、古くはかなり普通に分布していたと考えられ、現在でも学術上では、『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』、『鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』とあり、さらに、『縄文時代以降の日本各地の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本近海広域に分布していたと推定されている』とあるから、当時の分布状況からは、最も難がない但し、成体は体長がで平均二メートル四十センチメートル、でも一メートル八十センチメートルもあり、体重で平均四百九十四キログラム、で百二十キログラムと、アシカ属で体長も体重も最大種であることで、当時の漁師の網など、簡単に破ってしまうから、幼体でないと都合が悪いこと、また、逆に、当たり前に広く分布していた場合、漁師が知らないのは、逆に不審ということにもなりかねないという点で完全同定するには難があるようにも思われる。ただ、一言言っておくと、彼らは耳介を有し、これはまさに「人のようで人に非ず」という感じは最も私はする気がする。総合的には私は、無理がないこの「日本書紀」の以上の奇怪生物の同定候補は本種であると考えている

 

次の候補は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

である。アザラシ科は十属十九種からなり、頭蓋骨及び四肢骨の特徴から、モンクアザラシ亜科Monachinae(主に南半球に棲息)とアザラシ亜科 Phocidate(主に北半球に棲息)に分けられており(ミナミアザラシ亜科・キタアザラシ亜科とも呼ぶようである)、熱帯域にも棲息する種がいる。日本近海で見られる種(迷走個体を除く)

アザラシ亜科のゴマフアザラシ属ワモンアザラシ Phoca hispida

同属ゴマフアザラシ Phoca largha

同属クラカケアザラシ Phoca fasciata

同属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina

アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇二年に東京都の多摩川に出現したタマちゃんはこれ)

の五種である。耳介がない点でアシカ類(次注参照)と区別される。これらは小型・中型の種がいるが、これも幼体としておけば、網には入るであろう。問題は本邦でのこれらの棲息域定説が、『流氷のあまり来ない北海道から千島列島の結氷しない地域』(ウィキの「アザラシ)とする点であるものの、まさに上に示した「タマちゃん」のように、定説に従わない個体もいるから、大坂湾の堀江まできてしまった「ホリエもん」がいたとしても、強ち、笑い飛ばすことは出来ないようにも思う。

 

今一つは所謂、「膃肭臍(おっとせい)」、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

で、同類はキタオットセイ属 Callorhinus とミナミオットセイ属 Arctocephalus に分かれ、本邦にやって来るのは北半球に棲息する前者である。アシカ科 Otariidae には冒頭に比定候補としたニホンアシカを含むアシカ類とオットセイ類が含まれ、耳介があること、四脚で体を支えて陸上を移動できること、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことで遊泳出来ることなどはアシカ科特有の特徴であるが、アシカ類(アシカ亜科 Otariinae)よりは、やや小振りで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である(ここはウィキの「オットセイ」に拠った)。なお、「膃肭臍」という漢字名は、アイヌ語で「オットセイ」を意味する「onnep」又は「onnew」(オンネップ・オンネプなどと音写する)となどに、彼らと交易のあった中国商人らにより「丸々太った」を意味する漢語「膃肭」がその発音に当て漢字され、オットセイのの生殖器(或いは腎臓ともされる)が強壮効果を持った漢方薬として「膃肭」の「臍」(へそ)と名づけられ、その漢方薬が日本に流入したことに拠るものとされている。但し、現在の中国語ではオットセイは「海狗」であるので注意されたい。現在は銚子沖の太平洋がキタオットセイ属の南限とされているが、古代の海水温は或いはもっと低かったかも知れぬし、親潮の南流も現在とは違っていたとも考えられるから、一概にはオットセイを候補から外すには当たらぬと思うし、オットセイがアシカよりも小振りであることは、当時のちゃちな網でも、より入り易いと言えるからであり、体毛が密生している点では「魚」でもなく、「人」でもない、という表現はまさにオットセイにこそしっくりくるとも思われるからでもある。]

 

○父 藝妓を妾とす 子その藝妓を愛す 父その藝妓と心中す

○武士の妻 Christ is a coward

[やぶちゃん注:「coward」臆病者・卑怯者。語源は古フランス語で、原義は「怯えた動物が尾を垂らした」さまを指す語であった。]

 

○細川忠興夫人の死 suicide 問題

[やぶちゃん注:「細川忠興」(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)は元戦国大名で、丹後国宮津城主を経、豊前小倉藩初代藩主。その「夫人」とは正室で、明智光秀の娘であった玉子、通称細川ガラシャ(永禄六(一五六三)年~慶長五(一六〇〇)年七月十七日)で知られる彼女のこと。彼女は天正一五(一五八七)年、忠興が九州征伐に従軍して不在の間に、大坂の教会を訪れ、また、侍女を通じて教理を学び続け、「ガラシャ」の洗礼名で侍女から受洗した。その後、邸内でキリシタンの信仰を深めたが、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で夫忠興が徳川方についたことから、ガラシャは豊臣方から、人質として大坂入城を強要され、大坂玉造(たまつくり)の細川邸に於いて、石田勢に囲まれる中、家臣の手で自らの命を絶っている。ウィキの「細川ガラシャによれば、夫『忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時』(慶長五(一六〇〇)年七月十六日(グレゴリオ暦八月二十四日)に忠興が徳川家康に従って上杉征伐に出陣した)『も同じように命じていた』。『この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け』、『火を点けて自刃した』。「細川家記」の編著者は彼女が詠んだ辞世として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」であったと記している、とある。但し、『一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし』、太田牛一(大永七(一五二七)年~慶長一八(一六一三)年?:安土桃山時代の武士で軍記作家。後に和泉守。尾張国安食(あじき)に生まれ、初め、僧侶であったともいうが、織田信長の弓衆となり、奉行を務めた。信長の死後は一時、加賀松任(まっとう)に居住したが、後、豊臣秀吉・秀頼に仕えた。信長・秀吉に近侍した経歴を生かし、自身の手控えをもとに「信長公記(しんちょうこうき)」「大(たい)かうさまくんきのうち」「豐國大明神(とよくにだいみょうじん)臨時御祭禮記錄」「關原御合戰雙紙」「猪隈(いのくま)物語」などを著述した。ここは小学館の「日本大百科全書」に拠った)の「関ヶ原御合戦双紙」(蓬左文庫本)では、『彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、』十『歳の男児と』八『歳の女児を刺殺した後に自害した、とある』。また安土桃山時代の公家の山科言経(ときつね)の日記「言經卿記」の『慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時』、『噂になっていたことが伺える』。『また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても』、江戸初期の三浦茂正(永禄八(一五六五)年~正保元(一六四四)年:法号の浄心で知られる。元は後北条氏に仕えた武士であったが、小田原征伐等で戦った後に故郷三浦郡に落ち延び、出家した)によって書かれた随筆「慶長見聞集」には『「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである』とある。確かに、この「suicide」(自殺)「問題」(その経緯や事実)は興味が尽きない。芥川龍之介はこれを素材として、大正一三(一九二四)年一月の『中央公論』に「糸女覺え書」を執筆している。同作は「青空文庫」ので読める。]

○支那の船の乞食の帶

[やぶちゃん注:意味不明であるが、私は妙に惹かれる。]

 

○女中來(11月) 腹に子あり 生ませる その主人の胤と疑はる 波瀾

[やぶちゃん注:「胤」「たね」。]

2018/01/21

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 六

      

 山中共古翁の椀貸古傳についての解釋は傾聽の値がある。翁の意見では、昔は村々の佛堂の中に膳椀を藏するものが多かつたらしい。それは村の共同財産で、例へば庚申待の日には庚申堂の棚の中に在る品を取り出して使ふと云ふやうに、信仰と結合して考へられて居たものが、道具が散逸して後此樣な記憶に變つて行つたのであろうと云ふ。是は古墳の土器を借りたなどゝ云ふよりは勿論事實に近さうである。長い山路の半途に在る小屋の食器なども借りられた。地方によつては岩穴の中に藏置したかも知れぬ。虛實は不定であるが、幕府時代に加州侯家では、信濃飛驒の深山を通過して、江戸と往來する間道を用意して置かれたと云ふ説がある。その道筋に當る丁場々々には社又は佛堂が建ててあつて、其中に一通りの家具調度が匿してあつたとも傳へて居る。更に今一層傳説化した話には、滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村の山奧に、天狗谷と稱して如何な高德の聖も行くを憚るやうな物凄い大岩の上に、自然と佛具類備はり常行三昧の法の如くであつたのは、多分山の神の在すところであらうと言ひ、或は泉州槇尾山(まきのをさん)の奧にも佛具岩があつて、平生佛具の音がするなどと云ふのも、元は同じやうな器具保存法から起つた話とも見えぬことは無い。只如何せん穴や岩塚から貸出したものは、必ずしも椀や御器(ごき)のみに限られては居らぬので、多くの類例を陳列して行くと、何分これでは説明の付かぬものが出て來る。

[やぶちゃん注:「滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村」現在の滋賀県犬上郡多賀町河内。
ここ(グーグル・マップ・データ)。五僧峠も確認出来る。

「泉州槇尾山(まきのをさん)」大阪府和泉市槇尾山町にある槙尾山。標高六百メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 例へば前に擧げた飛驒國府の龜塚のごときも、一説には國府山(こふのやま)の城主文書を塚の口に差し入れて色々の器物を借りて居る中に、ある時紫絲威の鎧を一領借り出して還さなかつたので、以後塚の口は永く閉じ其城も亦衰へた。その鎧は當國一宮に納めて什寶となつて居ると云ふ。更に奇拔なのは美濃加納領の某村では、穴の口に願書を入れて置くと口中療治の處方書を附與したと云ふ例もある。但し此は靈狐であつて、土地の百姓の娘と少々譯があり、療治以外にも望みの者には書を書いて與へたとて、近郷にはその狐の筆跡が相應にあつたと云ふ。

 三重縣伊賀の島ケ原驛の附近に三升出岩(さんじようだしいは)と俗に謂ふ石があつた。この石を信ずれば每日米が三升づゝ出たと云ふことで、元は此側を通行する者五穀綿麻などを供へて拜したと云ふ。栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音は、鬼怒川の絶壁の中程に岩穴があつて、其中に弘法大師の安置したと云ふ金佛の觀音がある。此穴では三十三年に一度づゝ頂上から布を下げ其布に取附いて穴の中へ入り色々の寶物を取り出す例で、是を岩拜(いははい)と名づけて居た。同縣上都賀郡上永野の百目塚は、高さ七尺の塚であつたが平地のやうになり、僅に一基の石碑を以て其址を示して居る。村の熊野神社の寶物を埋めたと言ひ傳へ、又昔は此塚に一文の錢を供へると後に必ず百倍になつたので盲目塚と云ふ。ある氣短かの慾張りが一時に數百錢を供へて見たが效驗無く、却て本錢迄亡くしたのを憤つて其塚を發かんとし、大に祟を受けたと云ふから、多分其折以後例の通り恩惠の中止を見たのであらう。

[やぶちゃん注:「三重縣伊賀の島ケ原」現在の三重県伊賀市島ヶ原。附近(グーグル・マップ・データ)。

「三升出岩」柳田が過去形を用いているのが気になったが、やはり現存しない模様で、伝承も失われたか。

「栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音」現在の栃木県塩谷郡塩谷町佐貫にある真言宗佐貫観音院。ウィキの「佐貫観音院によれば、『江戸時代までは岩戸山慈眼寺観音院であったが、明治期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺となり、現在は宇都宮市篠井町の東海寺の別院となっている。本尊は鬼怒川河畔にある聖観世音菩薩』。『寺域には高さ』六十四メートルの『観音岩と呼ばれる大岩が聳え、その窟内にある「奥の院大悲窟」には四国讃岐国多度郡郡司であった藤原富正所有の念持仏、佩刀、弘法大師(空海)作の如意輪観音と馬頭観音の』二『仏、中将姫の蓮の曼荼羅、藤原秀郷や源義家の奉納品(太刀、武具、銅鏡など)が納められていたと云われる。現在、銅版阿弥陀曼荼羅と銅鏡は宇都宮市篠井町の東海寺にて保管されているという。また、この観音岩の壁面には「大日如来坐像」が線刻されており、この磨崖仏は周囲の自然環境とともに佐貫石仏の名称で国の史跡に指定されている。観音岩下部には磨崖仏の大日如来を中央とする左右に祠がある。磨崖仏に向かって左側の祠は「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり木造の御堂が建てられている。右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞穴内の小さな石造の祠となっている。観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っており、神の使いとしてまた長寿の象徴として珍重されている』とある。(グーグル・マップ・データ)。この「岩拜」も現在、行われているか(祭事スパンが長過ぎる)どうか、疑問である。

「同縣上都賀郡上永野」現在の栃木県鹿沼市上永野。(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「ひばらさんの栃木探訪」のこちらに、「百目鬼塚」(または「百目塚」)という塚がこの地区に存在し、塚の北方に熊野神社があって、この社の宝物を埋葬したのが、この塚の起源で、『人がこの塚に銭一文を賽銭として供すれば、後日必ず百倍になって戻ってくるというので、その奇瑞にあやかろうとする遠近の人々が、多数参拝した時代があった』ということが、小林友雄著「下野伝説集 あの山この里」(昭和五一(一九七六)年栃の葉書房刊)に載っているとある。但し、同地区を探しても現在、熊野神社を見出せないのが悩ましい。]

 此話などは、今では既に落語家も言ひ古した程の平凡事であるが、しかも立戾つて或時代に大阪の商人を狂奔せしめた泉州水間寺(みづまでら)の觀音の賽錢拜借、其又前型かと思はれる隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰などを考へ合せると、借りると云ふことが貰ふよりも更に有難かつた昔の人の心持もわかつて、椀貸の不可思議は到底手輕實用向の説明だけでは片付かぬことが知れるのである。關西の方の事はもう忘れたが、東部日本で最も普通な民間信仰は、齒の痛みに神佛の前から箸や楊枝を借り、小兒の百日咳に杓子を借り、子育てに枕を借り小石を借る等で、常に願が叶へば二つにして返す故に、靈驗ある堂宮の前には同じ品が非常に多く集まるのである。所謂椀貸も或は又此樣な意味を以て其由來を尋ぬべきものでは無いであらうか。

[やぶちゃん注:「泉州水間寺(みづまでら)の觀音」大阪府貝塚市水間にある天台宗の寺院。「賽錢拜借」とは、この寺にあった、賽銭を借用して翌年には倍返しする、という特殊な習俗を指している。同寺式サイトにその「利生(りしょう)の銭」の解説がある。『利生とは、仏様が衆生に与える利益のことで、「利生の銭とは」水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しする事によって、ご利益を頂戴するもの』とある。『現在では旧初午の日にご祈祷を受けられた方に「利生銭入り餅」が授与され』るとあって、『水間寺には三重の塔があるが、これが利生の銭に因縁の話がある。或る年』、『江戸の名も知れない廻船問屋が一貫の利生の銭を借りて帰ったが、なかなか返済に来ない。とうとう』十三『年目に』、『馬の背に』十三『年間の元利を揃えて参拝した。よって』、『この銭をもってこの塔を建立したという話である。後に』、『この人は網屋という人だと判明した』とある。『この水間寺の利生の銭については』『井原西鶴の「日本永代蔵」』『にも取り上げられている』とある。西鶴のそれは「日本永代蔵」の巻頭、巻一の「一 初午(はつうま)は乘つてくる仕合(しあはせ)」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来る。

「隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰」島根県隠岐郡西ノ島町にある焼火(たくひ/たくび)神社は明治までは焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と称したが、悪名高き廃仏毀釈によって(隠岐の島前など、全国的にも島嶼部でのそれは、寺院の焼却や僧の追放、果ては殺害未遂にまで発展するほどに苛烈であった)改名された。創建や縁起はウィキの「焼火神社を参照されたいが、同ウィキによれば、嘗て山上にあった「銭守り」の壺の話が載る。これは『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された』ものであったとされ、『かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから、』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録であ』った「板兒錄」という書にも『記載されるほど』、『著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の「年中御札守員數」『という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 未発表の小説

 

     未発表の小説

 

 飄亭氏の「夜長の欠(あく)び」という文章によると、二十二年の末に常盤会寄宿舎で「銀世界」という懸賞小説の課題が出た、これに応じた者は飄亭、非風両氏のみで、鳴雪翁審査の結果、飄亭氏の勝に帰したということがある。居士は学事多忙の故を以て珍しくこの事に与らなかったが、一月帰省の際松山で筆を執って、忽に「銀世界」五篇を草した。五篇とも全く別の角度から雪を扱ったもので、いずれも半紙七枚を限度としているのは、前の懸賞小説の規定に倣ったのである。小説というほど纏ったものではないけれども、さすがに居士らしい才気のほのめいているところもある。

[やぶちゃん注:五百木飄亭の「夜中の欠び」は『ホトトギス』に明治三一(一八九八)年十月から翌年三月まで六回に亙って連載された随筆。

「二十二年の末」明治二十二年は一八八九年。子規、満二十二歳。

正岡子規の「銀世界」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇視認出来。]

 懸賞小説はただその一端の現れに過ぎぬが、そういう事によっても想像出来るほど、常盤会寄宿舎における文学熱は盛であった。「夜長の欠び」にはこれに続いて、日課として合作小説を書いたということも出ている。居士の小説草稿として伝わっているものは「竜門」及「山吹の一枝」(非風合作)の二種であるが、いずれも年代は明でない。「竜門」は『書生気質』愛読の余波を受けた作とおぼしく、筋の発展するに至らぬうちに筆を投じており、「山吹の一枝」は飄亭氏を主人公に擬した作で、非風と交〻(こもごも)執筆、十七回に及んで中断している。居士の作品としてはその特色が発揮されておらぬのみならず、小説全体の趣向も完成の域には達しておらぬけれども、常盤会寄宿舎内における文学熱が如何なるものであったかは推察するにかたくない。

[やぶちゃん注:「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」という個人ブログの子規の小説と焼芋によれば、現在では、小説「竜門」は明治二〇(一八八七)年、新海非風との合作小説「山吹の一枝」は明治二三(一八九〇)年の作であることが判明しているらしい。後者は後で宵曲が推理する年代と美事に一致している。]

 「山吹の一枝」の主人公は紀尾井三郎という名である。紀尾井を逆に読めばイオキであるし、三郎の名も顚倒すれば良三と見られぬことほない。主人公がかくの通りである上に、作者たる居士も非風もツレの格で登場する。三人三様の萩の句を短冊に書く場面があるかと思うと、上野公園の野球試合の場で、主人公の打つ球が見物の美人の胸に当るというようなところもある。舞台を多く居士の身辺に採ったのは、楽屋落の意味もあったと思われるが、それだけ当時の空気を髣髴することにもなっている。明治二十五年三月七日、飄亭氏に宛てた端書に

  ふとした事より「山吹の一枝」を引きずり出し

  読み出したところがやめられずとうとう読つく

  尽したがこんな面白いものとは思わなかった。

  目が見えるなら見せたい。

とあるのは、小説の出来栄(できばえ)よりも、この中に現れた当時の環境が、居士をして懐旧の情に堪えざらしめたものであろう。

[やぶちゃん注:書簡引用は書簡自体が口語で、歴史的仮名遣になっておらず、書簡集も所持しないので、底本のままの表記とした。]

 この小説の成ったのは何時頃か、常盤会寄宿舎内に文学熱が勃興したのは、飄亭氏上京後の話だから、二十二年五月後であることはいうまでもない。「銀世界」より後の事とすれば、どうしても二十三年以後でなければならぬ。ただ問題は三人が寄宿舎内に蟠踞(ばんきょ)していた時代の作かどうかという点にある。飄亭、非風両氏は二十三年末にそれぞれ軍隊に入営しているからである。入営後匇々の間は、そういう執筆の余裕を見出し難かったであろうし、多少の余裕を見出した後とすると、後における居士の小説執筆と抵触する虞がある。ふとした事より引きずり出して読んだという端書の文言から考えても、二十五年三月よりもよほど前に書かれていたものだろうと思われる。以上のような諸理由から、「山吹の一枝」は二十三年中――日課として合作小説を書いたという時代の産物ではないかと推察するのである。

 諷亭、非風両氏が時を同じゅうして入営したのは、この年における特筆すべき事件であった。文学排斥党からいえばむしろ慶賀すべき現象だったかも知れぬが、居士の身辺は俄に寂寞(せきばく)になったわけである。藤野古白宛の手紙に

 

  近時非風子露伴風の小説を作る、文章意匠實

  に『風流佛』を離れず、また奇といべし。そ

  の奇思涌出(ゆうしゆつ)するに至ては小生

  などの及ぶ所にあらず。然(しか)るに氏と

  五百木氏と佐伯氏と已に塵界(ぢんかい)の

  人となる悼むべきかな。

  紅葉會員已に四人を失す南塘先生の句調をか

  りてこれを評せんに

    紅葉滿山風寂々

    錦衣零落不堪秋

    (紅葉 山に滿ち 風 寂々(せきせき)

     錦衣(きんえ) 零落して秋に堪へず

  とでもいふべし

 

とあるのは、当時の感懐を洩したものであろう。周囲は明に寂しくなった。しかし居士の文学熱は毫も減退せず、更にその歩を進むるの観があった。

[やぶちゃん注:「佐伯氏」これは不詳な人物ながら、常盤会寄宿舎での第一回「もみじ会」に出たメンツの中の「佐伯蛙泡」なる人物のことであると考えて考えてよかろう。

「南塘先生」内藤鳴雪の初期の号。身辺に現れた人々を参照。]

 

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

『芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種』を、芥川龍之介『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加した。

まあ、ここにも載せとくか。

   *

芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

 

[やぶちゃん注:底本は岩波の新しい「芥川龍之介全集」第二十一巻(一九九七年刊)に『「松江印象記」草稿』として載るものを使用したが、私のポリシーに則り、漢字を概ね正字化して示した。標題も仮題でしかないので、以上のように変更した。私は現在の「松江印象記」はやめて、この両草稿に出る「行人抄」にすべきであろうという気さえしている

 私が【草稿(1)】としたものは、底本で『Ⅰ―a』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙二枚半相当のもので、同『後記』では、次の『1―b』に先行して書かれたものと推定されてある。

 私が【草稿(2)】としたものは、底本で『Ⅰ―b』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙一枚相当のものであるが、原稿用紙の『下部三字を空けて』、『一行』当たり、十七『字の形で用いて』いるとある。同『後記』では、井川恭の「翡翠記」が掲載された『松江新報』『への提出原稿に極めて近いものと考えられる。但し』、『現行本文』(これは新全集の編者がどう考えて『現行本文』と謂ったものか知らぬが、厳密には、新旧の岩波全集の妖しげな「松江印象記」(仮題)ではなく、翡翠記十四」の芥川龍之介の「日記より」を指すと、当然、考えるべきものである)『ではこの書き出しの部分は削られている』とある。

 なお、「不可思儀」の「儀」はママ。「餘りに遲鈍である」の部分は底本の行末にあり、「しかし」と直に繋がるのはおかしいので(そうなっているが、これは改行と誤解されるのを防ぐために底本編者が行った仕儀と私は採った)、恣意的に一字空けを施した。【2018年1月21日:井川著「翡翠記」ブログ完全電子化完遂を記念して追加 藪野直史】]

 

【草稿(1)】

 日本に生まれて 日本に育つた自分たちが屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記からさへも)從來自分たちの眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新しい「日本の不可思儀」に就いて 教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究が ゴンクールに依つて始められ 北齋の批評がフェノロサを待つて開かれたのも 偶 此事實の一端を洩らしてゐるものに過ぎない 自分たちが 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも その郷土に對して 屢 盲目の譏を免れないのは 不二山と椿の花と煎茶の煙とを 新しい刺戟として受入れるべく 餘りに長く 「紙と竹との家」の中に居住してゐるからである――自分の 行人抄を書くのが 必しも かう云ふ新しい不可思儀を示す爲であるとは云はない いや さう云ふ目的に役立つには 自分の感受性は 餘りに遲鈍である しかし 習慣を離れ 傳説を忘れて 周圍をあるがまゝに觀じ得る點で(たとへ それが自分の個性によつて色づけられてゐるにもせよ)或は寛大な士人の讀書慾を充す爲に幾分の意味があるかも知れない――行人抄は かう云ふ己惚れの中に胚胎した 一旅客の平凡な松江遊記である

 自分が松江へ來て 始めて見たものは 千鳥城の天主閣であつた 夏とは云ひながら 雨あがりの しめやかな日の午前である 内中原の路上に立つて 菱や蘭の茂つた靜な水の上に高い天主閣の白壁を仰いだ時には 蘆の茂みに鳴くかいつぶりの聲と共に 久しく忘れられた封建時代の記憶が あらゆるエキゾティックな思想の上に 漢詩と俳句とによつて陶冶された 愛すべき「寂(さ)び」をかけて 心さへ 遙な鬼瓦の影に暗くされたかと疑はれた 遠い櫓の下に掛けたつばくらの巢は見るよしもないが 一つ一つの石 山 つ一つの狹間は 昔ながらに 物寂びた城下の町々を見下して 白壁の一角にさした 微な日の光にも 云ふ可らざる追慕の情が喚び起される 自分は棕櫚と無花果とに圍まれた 小さな家つゞきの町を あのさびしい稻荷橋へ出るまで何度 足を止めて 所々にほのかな靑い色を浮かせた灰汁のやうな八月の空の下に この懷しい城樓の姿を眺めたかわからない

 天主閣は その名の示す如く 天主教の渡來と共に はるばる 南蠻から輸入された築城術が日本の戰術に新な變化を與ふ可く 齎し來た建築である……

 

   *

 

【草稿(2)】

       行人抄

 

 日本に生まれて日本に育つた自分達が 反て屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記によつてさへ)從來自分達の眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新なる「日本の不可思儀」を教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究がゴンクウルに依て始められ 北齋の批評がフェノロサを俟て開かれたのも 偶此事實の一端を洩してゐるものと云はなければならない 自分達が 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも屢 其郷土に對して盲目の譏を免れないのは 一つは確に 自分達が 不二山と椿の花と煎茶の匂とを 新なる刺戟として受入れる可く 餘りに長く「紙と竹との家」の中に居住してゐる

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十六」~「翡翠記」全電子化注完遂

 

    二十六

 

 雨がふりしきるので僕たちは一の床まで下りてそこの亭(ちん)の竹椽のうえにあがって行厨(べんとう)をひらいた。雨をしぶく山かぜが襦袢一枚の身に沁みて寒さが肌へ透る。

「斯う成ると常福寺入道の汗くさい襦袢もありがたいわ」と弟が首を縮(すく)めて笑った。

「寒いなあ。これでも幾らか足りに成るだろう」と言いながら僕が行厨を包んで来た風呂敷を頸から肩に巻き付けると、龍之介君それに倣(なら)うた。

 風に吹かれて白い雲はちぎれちぎれに飛んでいた。大きい水盤に一杯に張った水の面を誰かが戯れに息を吹き吹き曇らしているように湖水のうえは晴れたりくもったりした。ある時は雲の群れが山や谷間を躍り越えおどり越えて迫って来ては、すっかり山を包んでしまった。

「あの黒い杜(もり)が天倫寺の山、左りに続くのが荒隈(あらわい)の松原、それから手前にぽっちり見えるのは此間行った摩利支天(まりしてん)の丘だよ。あの辺から毛利の軍勢が繰り出して、田の畔(くろ)や藪のかげをとおって攻め寄せたんだね」

「こゝから好く見えたろうな。併しまったく景勝の地だね。天主閣から見下すのから見ると、この眺めは大分大規模だね」

「だが寒いね。いやにさむいね」と寒がらずには居れなんだ。

 スケッチなんかやっている内に雨が止み間になったので三人はびちゃびちゃぬれた草履(ぞうり)をふみながら山を下りはじめた。雨の雫を一杯に宿した草の葉末が脛(すね)にあたって痒くてたまらない。

 雲を洩れて来るうすい日の光はほそぼそと伸び繁る艸の穂先にほのかに光って、黙って山を下りて行くものの心にさびしい懐古の情をみなぎらせた。折々左手(ゆんで)の山の背の灌木の茂みのあいだから黄鶯(うぐいす)の声が湧いて静かな谷間に流れた。忘れられた人が忘れた人にむかしの恋をうったえる歌のひびきがその声のうちに籠っていた。

 弟は眼に触れる草花を折り折り山を下った。萩や桔梗や女郎花(おみなえし)やくずの花やがその手にあまるほど摘まれたころには僕たちは既にとおく麓に下りていた。常福寺に帰ると和尚さんは松江に出て留守であった。三人は本堂の広稼に裸のまゝ涼んだ。僕たちの為にわざわざ御飯を炊いて昼飯の用意がしてあったけれど、もう弁当をたべたあとなので、それならと言って梵妻(ぼんさい)さんは素麺(そうめん)の御馳走を出した。僕たちはお腹(なか)が太いので弟が代って三人分のそうめんをぞろりと呑んだ。給仕に出た女がすゝめる好意を無にしかねて龍之介君はしよう事なしに皿の南瓜(とうなす)や油揚げをたべた。

「どげだい寺は精進料理で不味(まみ)ないだけんお口に合いませんわね。そんなら此漬物なりとあがってごしなはいませ。旦那はんやつが漬物はお寺の羊羹(ようかん)だててみんな賞翫(しょうかん)しなはいますけん」とすゝめて置いてその女は土瓶を持ってお湯を注しに行った。

「なる程お寺の羊羹は美味(うまい)ぜ」と僕は年を経たらしい瓜の奈良漬の味をほめた。

「お寺の羊羹か。はゝゝゝ」とわらいながら弟は片っ端から奈良つけや沢庵をたいらげはじめた。

「南瓜(とうなす)はおてらの饅頭で油揚はお寺のカステラなんだろう」とわらって来たので誰れもおかしいのを堪えて顔を見合わせた。雨はあがって涼しい風が本堂のなかに通っていた。三人の巴陀迦尊者(はだかそんじゃ)は各自(めいめい)思い思いの行動を取りはじめた。龍之介君は仏像や仏画をスケッチして入念な顔に仕立て上げた。弟は下手な鯱鋒(しゃちほこ)立ちのけい古をはじめた。僕は睡眠不足の頭を広椽の茣蓙(ござ)のうえにころがしてすずしい午睡を貪ろうとこゝろみたが、仏縁拙なくして夢は香はしい果(み)をつかれた頭脳のなかに結ばなかった。

 四時すぎる頃三人は山門を出てぶらりぶらり帰り途をたどり始めた。粟の毬(いが)がたく山枝から覗いている山際に沿うて魚(はえ)の群れのはしり泳ぐ小川の岸を径はうねっている。その小川の浅い流れの底をのぞいては魚を捕ってやろうかなと何辺もつぶやきながら歩んだ。

 

     附  記

 朝の湖水(みずうみ)のあなたの山際に一とすじのほそい煙が白く立ちのぼるのを俥の上からながめながら、大橋を渡った僕は今停車場の一隅(いちぐう)に上りの汽車の来るのを待っている。僕の滞松の時間もあと廿分と迫った。従ってこの翡翠記も篇を終ることにする。

 

[やぶちゃん注:「天倫寺」既出既注

「荒隈(あらわい)の松原」松江市国屋町にあった荒隈城(あらわいじょう)跡。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「荒隈城」によれば、『宍道湖に突き出す丘陵端に位置し、現在丘陵の東西は佐田・松江方面共に陸地となっているが、当時は佐田水海と湿地帯が拡がっており、天然の要害をなしていた』。『白鹿城攻めに先立ち』、『毛利元就により築城されたが、宍道湖に面し』、『水運の利もあることから、白鹿城の落城後も尼子氏が降るまで出雲侵攻の拠点として機能した』。『関ヶ原の戦いの後、出雲に封じられた堀尾氏が再取立てを検討したが、石高に比して城域が広大との忠氏の意見を入れて』、『亀田山を選地し、以後』、『城郭として使用されることはなかった』とある。

「摩利支天(まりしてん)の丘」底本の後注に、『松江城下北西部の平地にある小高い山。頂上に摩利支天神社がある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「魚(はえ)」鮠(はや)のこと。オイカワ・カワムツ・アブラハヤ・ウグイ・タモロコ・モツゴなどの条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae に属する川魚の中で、細長くて流線形をした動きの素早い小魚の総称。

「滞松」「たいまつ」。松江滞在(里帰り)の意。

   *

 以上を以って井川恭の「翡翠記」の全篇が終わっている。なお、底本編者の寺本善徳氏の論文(一九九〇年刊「島根女子短期大学紀要」所載。冒頭には『資料紹介』となっているが、底本の最後の附された本「翡翠記」の追跡と考察の解説と、ほぼ同じコンセプトの内容)井川恭翡翠記と芥川龍之介「松江印象記」がPDFで閲覧出来るので是非、参照されたい。

 最後に、芥川龍之介がこの旅の間と後に友人に送った旅関連の三通、旅から帰った後に井川に送った旅の御礼及びその後の旅絡みの感懐や奇体な夢などを認(したた)めた五通の書簡を電子化して、終りとしたい。頭の数字は岩波旧全集書簡番号。注は原則、附さないが(表記注記等は別)、不審な部分や私が判らなかった箇所には特異的に書き入れた。

 まず、前者。

   *   *   *

一七二

(八月十四日附・松江発信・友人藤岡藏六(一高以来の友人で後に哲学者となった)宛・自筆絵葉書)

松江へ來てからもう十日になる大抵井川君とだべつてくらしてゐる湖水や海で泳いだりもした本は殆よまない少し胃病でよわつてゐる松江は川の多い靜な町である町はづれのハアン先生の家もさびしい井川君のうちは濠の岸にある濠には蘭や蒲が茂つでゐる中で時々かいつぶりが鳴く丁度小さな鳴子をならすやうな聲だ廿日頃に東京へかへる 匆々

    十四日牛後   芥川生

   *

一七三

(八月二十日(松江出立の前日)・松江発信・浅野三千三宛(府立三中時代の後輩で後に薬学者となった)・絵葉書)

出雲は楯縫秋鹿(アイカ)十六(ウブ)類など云ふ地名から中海にあるそりこ舟まで何となく神代めいてゐますこの大社も社殿の建築が上代の住宅の形式と一つになつてゐるので一層古事記めいた興味を感じます杵築は靑垣山をうしろに靜な海にのぞんだ神さびた所です[やぶちゃん注:「アイカ」のルビは「秋鹿」の二字に、「ウブ」は「十六」に対して附されてあると読んだ。「楯縫」(たでぬひ(たでぬい))と「秋鹿」(あいか)は明治二九(一八九六)年四月一日 の郡制の施行まで存在した旧郡名であるが、「十六(ウブ)類」は「十六島」の誤伝か誤記憶か、或いは芥川龍之介に教えた誰かが、或いは、芥川龍之介自身が勝手に「るい」という音に「類」の字を当てたものかも知れぬ。「十六島」は「うっぷるい」(現代仮名遣)と読み(所詮、当て字であろうが)、島根県出雲市の地名(現在の島根県出雲市十六島町。ここ(グーグル・マップ・データ))である。]

   *

一七五

(八月二十四日(松江から帰京した二日後・田端発信・石田幹之助宛・葉書)

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)

   ○○○○○○○

   冷巷人稀暮月明

   ○○○○○○○

   秋風蕭索滿空城

   ○○○○○○○

   關山唯有寒砧急

   ○○○○○○○

   搗破思郷萬里情

關山は一寸洒落れてみただけ天主閤も町も松江は大へんさびしい大概うちにゐますびまだつたらいらつしやい[やぶちゃん注:ここに出した漢詩は、後に示す、先行する井川書簡に、結句の頭を「擣」、「萬」を「万」とした初稿で出、そちらで訓読しておいた。]

   *   *   *

 次に井川恭宛。

一七四

(八月二十三日(帰京翌日。こういうところは芥川龍之介は非常に義理堅く礼節に則る人間である)・封筒を欠く)

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがびない かんにんしてくれ給へ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつたそれから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏[やぶちゃん注:不詳。松江発の際、たまたま同道になった井川の知人か。]が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵の人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

    波根村路

  倦馬貧村路

  冷煙七八家

  伶俜孤客意

  愁見木綿花

    眞山覽古

  山北山更寂

  山南水空𢌞

  寥々殘礎散

  細雨灑寒梅

    松江秋夕

  冷巷人稀暮月明

  秋風蕭索滿空城

  關山唯有寒砧急

  擣破思郷万里情

    蓮

  愁心盡日細々雨

  橋北橋南楊柳多

  櫂女不知行客淚

  哀吟一曲采蓮歌

[やぶちゃん注:前の二篇は既に注で紹介し、そこで訓読したから、ここでは後の二篇を訓読しておく(訓読には一部、筑摩書房全集類聚版のルビを参考にはしたが、必ずしも従ってはいない)。

 

  松江秋夕(しうせき)

冷巷(れいかう) 人 稀れに 暮月(ぼげつ) 明らかなり

秋風(しうふう) 蕭索 空城(くうじやう)に滿つ

關山(くわんざん) 唯だ有り 寒砧(かんこ)の急(きふ)なる

擣破(たうは) 思郷(しきやう) 万里の情

 

  蓮(はす)

愁心(しうしん) 日を盡くす 細々雨(さいさいう)

橋北(けうほく) 橋南 楊柳(やうりう)多し

櫂女(たうぢよ) 知らず 行客(かうかく)の淚(なみだ)

哀吟(あいぎん) 一曲 采蓮(さいれん)の歌(うた)

 

「櫂女」は小舟を漕ぎ行く女の意。]

 

君にもらつた葡萄がいくら食つても食びつくせなくつて弱つた 最後の一房を龜岡[やぶちゃん注:京都府亀岡市。京都駅の西方約十八キロメートル。]でくつた時には妙にうれしかつた 桃は横濱迄あつた 施行案内のすみへ

  葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画[やぶちゃん注:ママ。]の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた[やぶちゃん注:「北垣靜處」筑摩類聚版脚注は不詳とするが、調べてみたところ、松尾敦子氏の論文「画家、豊嶋停雲について」(『美術京都第四十六号(二〇一五年三月刊)所収。PDFで閲覧及びダウン・ロード可能)で判明した。彼は京都の日本画家である。同論文によれば、『北垣は、京都の絵画振興を標榜し、自らを含む青年画家二十名を集め』、明治三五(一九〇二)年一月に「鴨緑茶話会」という画家団体を結成している『北垣は、京都府知事、北海道長官などを歴任した男爵北垣国道の子息で』あるとある(下線やぶちゃん)。この父親はかなりの著名人で、琵琶湖疏水を作ったのも彼である。ウィキの「北垣国道」を参照されたい。]

一しよにのんだぺパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である一しょに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその青年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間際に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである[やぶちゃん注:「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:芥川龍之介より一つ年下)の誤り。岐阜県出身のピアニスト。東京音楽学校器楽科大正四(一九一五)年卒であるから、まさに芥川龍之介が逢ったのは卒業した直後である。大正一四(一九一四)年にドイツに留学し、レオニード・クロイツァーに師事し、帰国後は母校で教えた。昭和二五(一九五〇)年、北海道大学教授となり、その後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他に、国内音楽コンクール、ウィーン国際音楽コンクール及びワルシャワ国際音楽コンクールの各審査員をも務めた。また、現在の皇后美智子にもピアノを教えている。著書に「ピアノの弾き方」「ショパン名曲奏法」がある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。因みに、ここで「一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いた」とする「シヨルツ」というのは恐らく高宮の師であったパウル・ショルツ(一八九九年~一九四四年:大正二(一九一三)年から大正一一(一九二二)年まで東京音楽学校ピアノ教官)のことと思われる(ショルツの件は個人ブログ「calafMusic Life」のこちらの記載に拠った)。]

僕はこの二人の妙な人に偶然逢つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた[やぶちゃん注:「アミエル」はスイスの哲学者で詩人・批評家アンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の日記「アミエルの日記」(Tagebuch(ドイツ語(「ターゲブーフ(ホ)」)で「日記」の意。死後刊行されたもので、一八三九年から一八八一年まで四十二年に亙って記された、一万七千ページにも及ぶものである。私は学生時代に一部を読んで討死にした)。依頼していた本のそれが届いていたということ。]

皆様によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ[やぶちゃん注:「完ちやん」不詳。筑摩全集類聚版脚注で『恒藤』(井川)』『の弟か』とするのにかなり賛同する。「もう一つの手紙」は現存しない模様。]

    廿三日夜九時

   井川恭樣

   *

一七六

(八月三十一日(年は旧全集編者による推定)・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戸をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に焼けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十鏡だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の眉の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた塀があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を抜き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口ヘ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 来るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 従つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

 

   粽解いて道光和尚に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉   芥川龍之介

  井川恭樣

一七八

(九月十九日・田端発信・井川恭宛・転載(転載元を示さず))

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が三字下げである。]

 

  詩四篇

 井川君に獻ず

 

   Ⅰ 受胎

いつ受胎したか

それはしらない

たゞ知つてゐるのは

夜と風の音と

さうしてランプの火と――

熱をやんだやうになつて

ふるへながら寐床の上で

ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり

夜明けのうすい光が

窓かけのかげからしのびこんで

淚にぬれた私の顏をのぞく時には

部屋の中に私はたゞ獨り

いつも石のやうにだまつてゐた

さう云ふ夜がつゞいて

いつか胎兒のうごくのが

私にわかるやうになつてくると

時々私をさいなむ

胎盤の痛みが

日ごとに強くなつて來た

あゝ神樣

私は手をあはせて

唯かう云ふ

 

   Ⅱ 陣痛

海の潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛に

私はくるしみながら

くりかへす

「さはぐな 小供たちよ」

早く日の光をみやうと思つて

力のつゞくだけもがく小供たちを

かはゆくは思ふけれど

私だつてかたわの子はうみたくない

まして流産はしたくない

うむのなら

これこそ自分の子だと

兩手で高くさしあげて

世界にみせるやうな

子がうみたい

けれども潮のさすやうに

高まつてゆく陣痛は

何の容赦もなく

私の心をさかうとする

私は息もたえだえに

たゞくり返す

「さはぐな 小供たちよ」

 

   Ⅲ めぐりあひ

何年かたつて

私は私の子の一人に

ふと町であつた事がある

みすぼらしい着物をきて

橦木杖をついた

貧弱なこの靑年が

私の子だとは思はなかつた

しかしその靑年は

挨拶する

「おとうさまお早うございます」

私は不愛相に

一寸帽子をとつて

すぐにその靑年に背をそむけた

日の光も朝の空氣も

すべて私を嘲つてゐるやうな

不愉快な氣がしたから

 

   Ⅳ 希望

こんどこそよい子をうまうと

牝鷄のやうに私は胸をそらせて

部屋の中をあるきまはる

今迄生んだ子のみにくさも忘れて

 

こんどこそよい子を生まうと

自分の未來を祝福して

私は部屋のすみに立止まる

ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で

          一九一五 九月十九日

                  龍之介

一七九

(九月二十一日・「京都市吉田町京都帝國大學寄宿舎内 井川恭君」宛・消印九月二十二日・書簡クレジット九月二十一日夜・田端発信)

あれ以來每日平凡にくらしてゐる 學校は今季年から火木金土の午前だけしか出ない だから大分ひまだ 論文がこだはつてゐて何をしても氣になつていけない 尤も氣になつても何かしてゐるが

トーデの本でミケルアンジエロのシスチナのチャペルの畫をみて感心した 感心したでは足りない 頭から足の先までふるひ動かされたとでも云つたらいゝかもしれない あゝ行かなくつちやあ噓だと思つた 何しろ今の所画[やぶちゃん注:ママ。]ではミケロアンジエロほど僕の心を動かす人はない あればたつた一人レムブランド[やぶちゃん注:ママ。]だ レンブランドは二度目のおかみさんの肖像の Colour reproduction [やぶちゃん注:原色複製画。]を手に入れてよかつた レムブランドが落魄した時に自畫像なんかたつた三ぺンスでうつたさうだ 今はどんな複製でも三ペンスよりは高い 次いではゴヤだ ゴヤはドンナイサベラと云ふのに感心した かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の裁判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせてゐる[やぶちゃん注:「トーデ」ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七 年~一九二〇年)はドイツのルネッサンス期を研究した美術史家。芥川龍之介が読んだ当該書は不詳。]

櫻の葉が綠の中に点々[やぶちゃん注:「点」はママ。]と鮮な黃を點じたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黃色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がしたので一層いやに心細くなつた ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした

新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが)「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた[やぶちゃん注:井川が『松江新報』に載せた自分の「翡翠記」を送ったのである。芥川龍之介が感心しているのは「十六」。]

定福寺の詩は未に出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた[やぶちゃん注:「竹枝詞」(りくしし)は漢詩の一体で(楚で北方異民族の蛮俗を詠んだものを起源とすると言われる)、その土地の風俗や人情を詠じたものを指す。]

   黃河曲裡暮姻迷

   白馬津邊夜月低

   一夜春風吹客恨

   愁聽水上子規啼

[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版のルビを参考に、訓読しておく。

 

黃河 曲裡(きよくり) 暮姻(ぼえん)迷ふ

白馬 津邊(しんぺん) 夜月(やげつ)低し

一夜 春風(しゆんぷう) 客を吹きて恨む

愁聽(しうちやう) 水上(すゐじやう) 子規(しき)の啼くを

 

無論、「子規」はホトトギスのことである。]

あまりうまくない

矢代幸雄氏は美術學校の講師になつた 西洋給畫史と彫刻史の講義をやるのだから盛である そこで彫刻の本をさがしに美術學校の國書館へはいつたらたつた一册うすい本があつた しかもそれが Famous Tales of Italian Sculptors 云ふのだからふるつてゐると思ふ 尤も美術學校の先生中でABCがよめる人は矢代氏獨りなのださうだ すべての方面で隨分いろんな事がいゝ加減に行つてゐるらしい いつまでそれですんでゆくわけもなからうからその内にどうとかなるのだらうが それにしても大分呆れ返る

   わが指の爪のほそさに立つ秋のあはれはいとゞしみまさりけむ

   秋風はふきぬべからし三越の窓ことごとく白く光れる

   ふき上げの水もつめたくおつるおつる橡(マロニエ)の實のわらけちるあはれ(これは大分窮した)

   橡(マロニエ)の黃なる木ぬれにゆきかよふ風をかなしときゝつゝ行くも(同上)

どうも今日は歌をつくるやうな氣分になつてゐなさうだからやめる又かく

    廿日夜            龍

   恭君

   *   *   *

 最後に、近日中に、新全集に載る芥川龍之介の「松江印象記」(後世の仮題)の草稿を私の『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加で電子化する予定でいることを添えて、終りとする。]

2018/01/20

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十五」

 

    二十五

 

 急勾配に逆落(さかおと)しに成っている谷を瞰下(みおろ)しながら山の脊梁を伝うて城跡(しろあと)の二の床あたりまで登り着いたころわびしい山の雨がかすかな雫を仰のうえに落しはじめた。

 一の床には常福寺の和尚さんがこの春かに建てた小亭があるので、僕たちはその雅趣に富んだ小建築の茅屋根の下に雨を凌ぐことが出来た。携帯して来た弁当の包だのサイダアの瓶だのをそこへ置いたまゝ更に本丸の跡にのぼって、矢張そこにも建てて小亭の下に立って四方(よも)に眼を走らせた。

 眼の届くかぎりの天は雲に充(みち)みちて漂うていた。併しその雲はのべつにちっている一つの塊りでは無くて、広いひろい空のそれぞれの部分にさまざまの働きをいとなんでいる雲の個体の群れであった。彼れ等の中の或る者は日本海の涯に近(ひく)く垂れて沖をもの凄く暗ませていた。他の或る者は湖の南の山々の肩を掠めて瓢々と飛んで行き、又ある者は松江の市街と脚下の山とのあいだを低徊して僕たちの眼から町や城山やを隠そうとこゝろみていた。雲の群れと雲の群れとの間にいくらかの隙目(すきめ)が出来ると日の光は耀やかしくそゝぎ落ちて、それを浴びた山の傾斜が他のけしきの暗い中に一際目立って明るく鮮かな草木の緑りを匂わせた。

 巾三四間[やぶちゃん注:五・五~七・二七メートル。]、長さ廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]にも満たないと思われる山の頂の一角に「山中鹿之助銅像建設地」と書いた木杭(もくひょう)が立っている。これは常宿寺の和尚さんの発企(ほっき)でこの山のうえに建てらるる銅像の敷地らしい。

 僕は龍之介君と語り合った。好い加減な銅像なんか建てる事は止して寧ろいろいろの旧記や遺物を考証した上、その昔の城廓の形を模した建築をこの頂にこさえたらどんなものだろう?今日帝都其他の地に存在している銅像の多くは、現代並びに後世の識者の苦笑を永(とこし)えに買うために存在をつゞけている観がある。優秀な意匠と卓抜な技能との結合から生まれなかった劣悪の製作品は、白痴威(こけおど)しの銅像に過ぎない。

 殊に戦国時代だの封建時代だのの風尚(ふうしょう)[やぶちゃん注:人々の好み。その時代の人の好み。]を、元来が西洋から帰って来た銅像趣味の中に叩き込んで現し出そうとするのは、中々容易に成功しそうな努力では無い。それよりか小さい廟を建てゝ素朴な木像でも祭った方がはるかに奥床しい仕事のように考えられる。

 仮りに例えば鹿之助が三日月を拝んでいる銅像を山頂に建てたとして見る。そのときはるばる山をのぼつて来て其銅像に対した瞬間に、我われの胸のうちに縹緲(ひょうびょう)[やぶちゃん注:これは「はっきりとは分からないさま」の意。]として描かれていた勇ましくなつかしい戦国の勇士の悌(おもかげ)は、そこにある彫刻家の頭脳から型をあたえられ――そして不当に自己を古英雄代表者と主張しながら存在している、一塊の青銅のたふめに遺低(いてい)無く裏切られることであろうと思う。[やぶちゃん注:「たふめ」ママ。意味不詳。「遺低無く」意味不詳。前者は「ために」の衍字か。後者は「余すところなく、徹底的に」の意か。不学な私には判らぬ。]

 雄々しかった戦国の武士たちは山を削り谷を掘って、真山という巨きい山全体を以て、尼子の武名を幾千年の後までも伝えるべき絶好の記念物を造った。「時(たいむ[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])」は荒廃の手法の若干を夫れと和して山は自(おのず)からなる二会術品の風貌を具えるに至った。一基の銅像はあるいは俗衆の眼を惹くに足るかも知れないが、山の威厳と古城の寂びとに何等の貢献を加えることが出来よう?若し何等か後の人の為すべきものありとしたならば、其昔の武人の経営の跡を偲ぶよすがをこゝろつゝましく造りもうけることにありはしまいか?

 

[やぶちゃん注:「山中鹿之助」山中幸盛(天文一四(一五四五)年?~天正六(一五七八)年)は尼子氏の重臣で富田城主尼子義久の近習。後世の軍記物その他の記録では「鹿之介」或いは「鹿之助」と記されている場合が多いが、本人の自署は孰れも「鹿介」となっている。鹿介の名が初めて「雲陽軍実記」や「陰徳太平記」などの軍記物に登場するのは、永禄61563)年に毛利元就軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、この時、尼子軍は敗退し、以後、尼子勢は富田城に籠城して落城、尼子氏は滅亡した(既注)。落城後、出雲を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久を擁して、島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、結局、毛利の援軍と布部山(ふべやま・現在の安来(やすぎ)市)で戦って大敗、出雲奪回の夢は断たれた。しかし、その後も執拗に再興を図って、各地を転戦、織田信長を頼って、その西征に望みを繫いだ。天正五(一五七七)年、信長の部将羽柴秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加、上月(こうづき)城(現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町)に主君勝久とともに籠ったが、毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、結局、勝久は自殺して落城し、遂に降伏した。鹿介は備中松山城(現在の岡山県高梁(たかはし)市)の毛利輝元のもとに護送される途中、高梁川(たかはしがわ)の渡しで殺された。その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾心に徹したものであった(小学館の「日本大百科全書」に拠った)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十四」

 

    二十四

 

 鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)飛ぶ小川に沿うて、曼珠沙華(ひがんばな)咲く径を暫く辿って行き、流れに架けた土橋を渡ると、灌木と雑草とに蔽われた山の裾が僕たちの行方に塞(ふさが)り立っていた。

 露滋(しげ)い[やぶちゃん注:ママ。]草叢を分けながら僕は先頭に立って山をのぼり始めた。含み切れない程雨の気をふくんだ雲の塊りが日の光をぬすみながら急ぎ足して頭上の空を過ぎて行った。

 緑りさびしい秋艸(あきくさ)はのぼって行く三人を取り巻いて山一面に茂りしげっていた………萩、なでし子、女郎花(おみなえし)の花など、山蔭を吹く秋かぜに馴染んで色淡(うす)くかたち仄かに咲く艸の花が、右にも左にも前にも背後(うしろ)にも咲きみちていた。山帰来(さるとりいばら)の長い蔓にはつぶらな果(み)が鈴(すず)生って居り、蓋(さら)をかぶったどんぐりは青い葉かげに黙って隠れていた。[やぶちゃん注:太字「どんぐり」は底本では傍点「ヽ」。]

 微かに蒸れる草の葉のかおり、木の葉の芳(かお)りにまじって、短い生命(いのち)のせつなさを歌う虫の声が静かな谷から谷へひゞいて行くのを聴きながら山を蔽う艸のはなのそれ此れに眼路(めじ)を移してはかなく覚束なげな色どりを眸(ひとみ)が映したとき、稚い頃から胸に刻まれている「秋」という季節の観念ははっきりと心に喚(よ)びさまされた。

 春や夏や冬やの訪れよりも「秋が来たな」と思わせる自然の物象の暗示のなかにこそ、季節の推移の底にひそむ或るものの意味は一層切実に語られているように思われる。勿論そうした心持のうちには因襲的な分子も少からず含まれているには相違無いが、あの華麗な光と豊満な熱とにかゞやき誇っていた夏の栄えが凋落(ちょうらく)と頽廃と静寂とを交えた火炉(かろ)の中へ投げ込まれて亡びて行くと云う――不可抗の運命律の基調の年々(ねんねん)の繰返しを経験するところの心が、自分自身の存在の反省からおのずと涌いて来る不安の情(こころ)に浸りながら、鋭敏な感触の眼(まなこ)を徐(しず)かに穏かにながれて行く萬象(ばんしょう)の推移の裡(うち)に潜ませているのではあるまいか。

 繊細な軽微な刺戟が心に伝えられたとき、或る複雑な原因からして、例えば鋭く尖った針のさきを揉(も)み込んだように、その刺戟が心の深い暗い窪みを穿って、そこにながい間懶(ものう)い眠りをつゞけている人生観に剃那的の痛覚を与えることがある。

 「秋だな」と云う感じの反面にはそれに類した心の揺(うご)きがあった。瞬時撹(か)きみだされた心の底が再び沈潜の状態に復(かえ)ったとき、其処に「秋」は細微の一点の痛みの痕(あと)と成って宿っていた。

 山の襞(ひだ)を縫うて登って、山の脊梁の一部分にたどり着くと、そこから路は丹(あか)い土の肌の露出している上を次第に山の脊梁の高い部分へと導いている。ねずみ槇(まき)だの黄楊(つげ)だの筑波根(つくばね)うつぎだのと云ったような灌木が裸かな山の胸にしがみ付いて匍匐(はらば)うているあいだには、古びた毛氈(もうせん)を敷きつめたように乾からびた羊歯(しだ)の葉がぎっしり茂っていた。

 「この山は簡単(てがる)に高山(こうざん)に登ったような気のする山だね。なんだか山の相(すがた)がばかに高山染みていて」と龍之介君が微笑した。

 「麓までが近くて、わけ無くのぼれて、それでいて眺めが佳いんだからね」と僕は自分の有(も)っている物を誇るような口調で云った。

 

[やぶちゃん注:「鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)」トンボ目イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrataウィキの「ハグロトンボ」によれば、成虫の体長は五十七~六十七ミリメートル、後翅長は三十五~四十四ミリメートルほどで、『トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干大きいが、大差はない。翅が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色の金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある』とある。グーグル画像検索「Calopteryx atrataをリンクさせておく。

「山帰来(さるとりいばら)」「さるとりいばら」というルビに拠るならば、単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china となる。果実は直径七ミリメートル程の球形の液果で、秋に熟すと、赤くなる。これ(リンク先はウィキの「サルトリイバラ」の実の画像)。「山帰来」という漢字表記に拘ると、ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓)Smilax glabra を指すが、同種は本邦に植生しない(中国南部、台湾に自生する多年生草本。この塊茎は「山帰来(サンキライ)」という生薬で、「日本薬局方」にも収録されている。吹出物・肌荒れなどに効果があるとし、古くは梅毒の治療薬ともされた)から違う。同属のサルトリイバラを「山帰来」と呼称することもある、とウィキの「ドブクリョウ」にあるので、前者でとってよく、井川の誤りでもない。

「眼路(めじ)」「目路」とも書く。目で見通した範囲・視界の意。

「ねずみ槇(まき)」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ(犬槇)Podocarpus macrophyllus の異名か。ウィキの「イヌマキ」によれば、ニンギョー(山口県)・ニンギョノキ(大分県・長崎県)・ネンネンゴ(静岡県)・ヤゾーコゾー(静岡県)・サルモモ(静岡県・福井県・島根県・山口県)・サルミノ(大阪府・山口県)・サルノキンタマ(山口県)という異名が記されてあるが、別種かも知れぬ。識者の御教授を乞う。ともかくも、グーグル画像検索「Podocarpus macrophyllusをリンクさせておく。

「黄楊(つげ)」被子植物門双子葉植物綱ツゲ目ツゲ科ツゲ属 Buxus microphylla 変種ツゲ Buxus microphylla var. japonicaグーグル画像検索「Buxus microphylla var. japonicaをリンクさせておく。

「筑波根(つくばね)うつぎ」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科ツクバネウツギ属ツクバネウツギ Abelia spathulataグーグル画像検索「Abelia spathulataをリンクさせておく。]

芥川龍之介 手帳8 (17) 《8-19/8-20》

《8-19》

○元柏 上野図書館 言水 選句 海音集 言水追善集

[やぶちゃん注:この一条は旧全集にはない。

「元柏」後の「言水」(次注)から見ても俳号のように思われるが、不詳。

「言水」池西言水(いけにしごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は江戸初期、松尾芭蕉と同時代の俳人。ウィキの「池西言水によれば、『奈良に生まれる。名は則好。通称は八郎兵衛、曽祖父の千貫屋久兵衛は奈良大年寄を務めた家系で父も俳諧を嗜んだと伝えられる。別号は兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂』。十六『歳で法体して俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが延宝年間』(一六七三年~一六八一年)に大名俳人であった内藤風虎の『サロンで頭角を現し』、延宝六(一六七八)年に第一撰集「江戸新道」を編集、その後、「江戸蛇之鮓(えどじゃのすし)」「江戸弁慶」「東日記(あずまのにき)」などを編し、『岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移』って「後様姿(のちようすがた)」を『上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで西国、九州、出羽・佐渡への』『度の地方行脚を』行っている、貞享四(一六八七)年、伊藤信徳・北村湖春・斎藤如泉らと、「三月物」を編集、但馬豊岡藩主京極高住(俳号に云奴・盲月・駒角)とも『交流した』。元禄三(一六九〇)年に「都曲(みやこぶり)」を編集しているが、一方で、その頃、流行し始めていた前句付・『笠付などの雑俳にも手を染めた』とある。

「海音集」は龍之介の記す通り、京で没した翌享保八(一七二三)年に板行された方設の撰になる追福句集である。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」画像で入手出来る。]

 

○犬を賣りに來る女の話。ぺグイン鳥の話。不良少年の話。

○犬の着物をつくる店 チヨツキ ハンケチ タイ

○美人の肖像を示す 客それは己の祖母なりといふ 輕き shock

○人氣あるものは Mars の屬なり

[やぶちゃん注:この場合の「Marsは軍神の意であろう。わざわざこれを使ったところに、富国強兵へと傾斜してゆく大日本帝国全体への彼の危惧が逆に感じられるように私には思われる。]

 

Skepticism Simple error

[やぶちゃん注:「Skepticism」懐疑(論)・無神論。]

 

laughter and tears

[やぶちゃん注:笑いと涙。]

 

○スリ手の申へ入れる刃物をたのむ(ヤスリ屋へ)

《8-20》

○巡査病人の藥を落せしをひろひ その家をとどけんとしてさがす

○碧童 五錢を落せし車夫に苦しむ

[やぶちゃん注:「碧童」俳人小澤碧童(明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年)芥川の俳句の師匠で、芥川龍之介の友人の中では最も年嵩(龍之介より十一年上)であったことから「入谷(いりや)の兄貴(あにき)」と称して、敬愛していた。]

 

○女の Kawarake の話 老女 膀胱麻痺 下島先生

[やぶちゃん注:「女の Kawarake」「土器(かわらけ)」であるが、これは近世の性的な隠語で、女性が年頃になっても陰毛のないことを指した。また、そうした今で言う「パイパン」の女性自身をも指した。

「下島先生」下島勲(いさお 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。]
 

 
○農村問題 地方自治體問題

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十三」

 

    二十三

 

 松江を中心とした此地方の風景を遺憾無く観照し度いと思ったら、少くとも附近の丘陵の一つに登って、眺嘱(ちょうしょく)を縦(ほしいまま)にするのが必要である。[やぶちゃん注:「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察し、意味を明らかに知ること、或いは、美学用語としては、対象の美を直接的に直観として感じとることを指す。「眺嘱」万葉語。現行、「万葉集」では、この二字で「ながむ」と訓じている。]

 或る物に即くと云うことは観照の態度から遠ざかることを意味するし、或る物から離れると云うことは其反対を意味するものとすれば、若干の自然の景象(けいしょう)の組合せから成り立つ或る地方の風景を、夫れ自身一つの天成の芸術品として観照するためには、高きに登って眸(ひとみ)を放つことが必要であるとの断定が正当と成って来る。[やぶちゃん注:「即く」「つく」。]

 東から北から南から松江を取り巻いて立っている山の数はかなり沢山ある。東には嵩山(だけさん)に羽久羅山(はくらやま)、北には枕木山(まくらぎやま)、澄水山(しみずさん)、蛇山(じゃやま)、臥牛山(がぎゅうざん)、真山(しんやま)、朝日山(あさひさん)、南には茶臼山(ちゃうすやま)、天狗山(てんぐやま)、星上山(ほしかみやま)、京羅木山(きょうらぎさん)などを挙げることが出来る。最高の天狗山から最低の茶臼山まで二千四五百尺から五六百尺の海抜を示している丘陵であるが、何しろ平原から直ちに崛起(くっき)しているので、高さの割合には登路(とうろ)が長く且つ山頂の眺望が開闊(かいかつ)である。[やぶちゃん注:各山は最後に注する。「崛起(くっき)」山などが高く聳え立っていること。「開闊」気持ちよく、広く開けていること。「二千四五百尺」約七百二十八メートルから七百五十七・五八メートル。「五六百尺」約百五十二メートルから百八十一・八二メートル。]

 僕は之れ等の山々のいずれも少くとも一回、多きは十回くらい登った事があって、夫れぞれの山が有(も)っている性格に一種のなつかしみを感じているが、僕の好みから云うと、蛇山の頂からの眺めが一等勝れているように思われる。殊に秋も長けた十月ごろあの山の絶巓に踞(こしか)けて、涯もなく茂りつづく銀の穂芒(ほすすき)のあいだから、秋の日光(ひざし)にほのかに匂う海やみずうみや野や市街やのけしきをうっとり眺めるうつくしさ快さは、いつ迄も忘れ得ないもゝのひとつである。山の相(すがた)からから云っても僕はこの山を最も愛している。

 併し登る路の楽なこと、麓までの里程の短いこと、しかもその割合に眺めの住い点に於ては僕は嵩山と真山との二つを推奨する。そう云う理由から、東京から来た友人を所々案内したのち帰京の日が迫ったとき、僕はこの二つの山を挙げて、その孰れかに登ってみようと言い出した。

 二つの山をいろいろの点から比較したのち僕たちは真山を登臨(とうりん)の目的に選んだ。尼子(あまご)の城跡があると云う事と、登りが割合に短いと云う事との二つのこの選択を決定する最要件であった。

 大きい灰色の雲が頭上の空を蔽うて渡って行くのを仰ぎながら、如何(どう)も怪しいなと言い言い龍之介君と僕と弟と三人家を出かけた。

 西原(にしばら)から法吉(ほっき)の村へ入って川沿いの石ころ道を辿って行くと間も無く常福寺の丹瓦(あががわら)の屋根が竹薮のうえに現れた[やぶちゃん注:「薮」はママ。次の段では「藪」である。]。

 庫裏に訪れると梵妻(だいこく)さんがいつ見ても肥りたるんだ体躯(からだ)をはこんで出て来て挨拶する。そこへ「どうも井川さんの声らしいがと思った」と言いながら和尚さんが畑か藪の中からか帰って来て、「まあ少し休んでから山へあがりなされ」と勧めて呉れる儘、三人は本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ。

 それから龍之介君と僕とは肌衣一枚に成り、弟はシャツを着て来なかったので裸の体にズボン下をはいて出かけようとすると、和尚さんが「まあ是れでも引っかけてお出でや」と言って襦袢(じゅばん)を貸してやった。

 三人は寺で借りた藁草履をはいて山門の外の石段を降り細い谷川に沿う径をあゆみはじめた。

 「和尚さんの襦袢の汗臭いには少々閉口だわ」と後から踉(つ)いて来る弟がつぶやいて笑わせた。

 

[やぶちゃん注:ここで、時計が巻き戻って、再び、芥川龍之介が登場する。井川の芥川龍之介への思いが痛いほど判る作品構成となっているのである。

「嵩山(だけさん)」島根県松江市川原町にある標高三百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ。以下、既に出た山もあるが、ここでは標高は総て国土地理院地図で統一した。登山サイトの標高とはかなり有意に異なるものもあるので注意されたい)。

「羽久羅山(はくらやま)」恐らく、現在の松江市上東川津町にある和久羅山のこと。標高二四十四メートルの山。ここ。誤りかどうかは不明。何故なら、以下の名前も現行と異なるものがあるからで、古名や当時の通称名・異名である可能性も捨てきれないからである。

「枕木山(まくらぎやま)」松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌(ちくみ)にある標高四百五十三メートルの山。ここ

「澄水山(しみずさん)」松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。ここ

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市島根町大芦にある滝空山(たきそらやま)。標高四百七十五メートルの山。ここ

「臥牛山(がぎゅうざん)」現在の蛇山(東方)と同じく島根県松江市島根町大芦にある大平山(おおひらやま)。標高五百二・八メートルの山。ここ

「真山(しんやま)」松江市西持田町にある標高二百五十六・二メートルの山。ここ。「新山」とも書く。ここは本文にある通り、尼子氏と毛利氏の攻防戦の場として知られる個人サイト「中国地方の登山紀行 法師崎のやまある記」のこちらが詳しく、実際の登頂記録が写真で掲載されている。必見。なお、芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の真山での感懐を、

 

   眞山覽古

 山北山更寂

 山南水空𢌞

 寥々殘礎散

 細雨灑寒梅

    眞山覽古

  山北(さんぼく) 山(やま) 更に寂し

  山南(さんなん) 水(みづ) 空を𢌞(めぐ)る

  寥々(れうれう)として 殘礎(ざんそ) 散り

  細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ

 

という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にはしたが、從っていない部分もある)。

「朝日山(あさひさん)」松江市東長江町にある標高三百四十一・八メートルの山。ここ

「茶臼山(ちゃうすやま)」松江市山代町にある標高百七十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データだと城跡名だけなので、ここでは国土地理院地図を用いた。一切、画面を移動させず、左下の「+」ボタンだけで拡大されたい)。

「天狗山(てんぐやま)」松江市八雲町熊野にある標高六百十・四メートルの山。ここ(また、グーグル・マップ・データに戻す)。

「星上山(ほしかみやま)」松江市八雲町東岩坂にある標高四百五十八メートルの山。ここ

「京羅木山(きょうらぎさん)」星上山の東方、松江市東出雲町(まち)上意東(かみいとう)にある標高四百七十三メートルの山。ここ

「尼子」大名としての最後の当主は尼子義久(天文九(一五四〇)年~慶長一五(一六一〇)年:出雲国の戦国大名尼子晴久の次男)。永禄九(一五六六)年十一月、義久は兵糧攻めを受けていた月山富田(がっさんとだ)城の開城を決意し、毛利元就に降伏する旨を伝えた。元就は義久の身柄を安堵することを記した血判を送って開城となった。この富田城陥落によって、出雲国内で抵抗していた尼子十旗(あまごじっき:根城富田城の防衛線として出雲国内に配した主要な十の支城)の城将達も次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、取り敢えず、安芸の円明寺に幽閉した。これを以って大名としての尼子氏は滅亡したが、その後、義久は天正一七(一五八九)年、元就の孫毛利輝元によって、毛利氏の客分として遇され、安芸国志道(しじ)に居館を与えられ、慶長元(一五九六)年、長門国阿武郡嘉年(かね)にあった五穀禅寺(現在の極楽寺)に於いて剃髪、出家して「友林」と号し、十四年後、享年七十一で死去している。毛利家の意向により、甥(義久の弟倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で、尼子氏を継いでいる。尼子と言えば、私の偏愛する上田秋成の「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」だなぁ。

「西原(にしばら)」現在、松江市奥西原という地名が残るが(中央附近(グーグル・マップ・データ))、井川の叙述から考えると、その北の現在の松江市春日町((グーグル・マップ・データ))を含む広域の古い地名であろうと推察する。

「法吉(ほっき)」現在の島根県松江市法吉町(ほっきちょう)。(グーグル・マップ・データ)。真山のピークは現在の村域では、ごく僅かに東にずれるようだ。

「常福寺」松江市法吉町二五八に現存。(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。開基・開山は不詳。毛利と尼子の白鹿合戦の際、白鹿城城主で尼子の勇将であった松田左近将監満久はここの僧であった、また満久の末弟であった普門西堂は常福寺丸(この寺の後背の山)に砦を構えて奮戦したが、落城の時に自刃したとも伝えられている。寺はこの合戦によって荒廃したが、寛永一〇(一八三三)年清光院 高厳栄甫大和尚が再建した。現在の本堂は明治四〇(一九〇七)年に建てられた(データ他に拠る)とあるから、まさに芥川龍之介が訪れた時のままということになる。

「梵妻(だいこく)」は僧侶の妻のこと。大黒天が厨(くりや)に祀られたことから。「大黒」とも書く。先に紹介した井川と芥川の連句の中に、龍之介の句として、

 

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

 

があり、句の後に『この句を定福寺の老梵妻にささげんとす』という添書きもある。

「本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ」グーグル・マップ航空写真現在、北側。この真山方向を向いて開かれた板縁で彼らは裸になって涼んだのだった。

「細い谷川に沿う径をあゆみはじめた」グーグル・マップの航空写真でそのルートが判る。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十二」

 

    二十二

 

[やぶちゃん注:以下の短歌群は底本の五十四ページから始まるのであるが、五十四ページは短歌のみで、それは裏の五十三ページを透かして見ると、総て一字下げで印刷されてあることが判る。ところが、最後の六首は五十五ページに載り、その後半部は次章「二十三」本文となっているのであるが、そこでは六首総てが、行の頭、一字目から記されてあるのである。そこで、ブラウザ上での見た目の悪さも考えて、総てを一字目から表記することとした。また、短歌には表記その他に複数の不審があるが、総てそのまま示し、後の注で疑問を挙げておいた。]

 

 ほそい雨が冷たい滴を落しながら早くもすがれた庭の杏の梢に降りそゝぐ静かなあさ、久しぶりにおちついた歌をかんがえて見た。城山の杜かげの草叢にすだく虫の音は、緑りのいろの白く濁った濠の水のうえを渡ってひる間もさびしくひびいて来るのであった。

 たちまち、視界のうすれて行く境をあかるい藍色の光が礫(つぶて)をなげうつ様に過ぎ去った。眼をあげて光のゆくてを追うと、お濠の岸から岸へ翔(かけ)って行く翡翠(かわせみ)の翅(はね)のいろであることが知れた。

 

わが生(よ)哀し日の没(お)りぎわの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土蔵(くら)の扉のかな錆(さび)もさ青むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は黙(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かいな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに揺するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな帰り来そ

海をみつめて立てる男の横顔くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆうかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり真菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土蔵の鉄(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚児(おさなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けうちくとう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

みずうみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家毎に住みならはせりうきくさのはな

人いとをしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちぢく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が帰ってしまった後の、井川の中の欠落感・寂寥感を彼は美事にこの章で短歌に託して示して美事である。……さてもさても、「芥川龍之介は帰ってしまったのか」とあなた(本ブログの読者)も淋しく思われるであろう(事実、帰っちゃったんだけれども)、ところが、どっこい――なんだな、これが……♪ふふふ♪……

 まず、歴史的仮名遣の誤りを訂した上で、短歌全文を恣意的に正字化して以下に示すこととする(仮名遣を訂した箇所は太字下線とした)。

   *

 

わが生(よ)哀し日の沒(お)りぎの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土藏(くら)の扉のかな錆(さび)もさ靑むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は默(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに搖するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな歸り來そ

海をみつめて立てる男の橫顏くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり眞菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土藏の鐵(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚兒(さなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けちくう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

うみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家每に住みならはせりうきくさのはな

人いとしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

   *

 以下、私の正字正仮名版で引いて注する。

「わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かひな)かもいのちかなしき」の「浪をうちゝつ」が私には意味が判らない。私は「浪をうちつゝ」の錯字(錯記号)かと思ったのだが。「うちちつ」で意味が通るということであるから、どうか、御教授下されたい

「城山(しろやま)の木のうれに群れて暗く鳥のゆふかたまけて飛び散らひけり」「城山」は旧松江城(千鳥城の異名の方がこの一首には相応しい)跡を指す。因みに、現在は(公園となっているが)「しろやま」よりも「じょうざん」「じょうやま」と呼び慣わすことが多く、小泉八雲が好んで散歩し、愛した城山稲荷神社も「じょうざんいなりじんじゃ」である。「うれ」は「末」で草木の新しく伸びた末端、梢の意。「ゆふかたまけて」万葉語。「夕片設けて」で「夕方を待ち受けて(受けるように)」の意。

「牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ」井川が借り、芥川龍之介と一緒に滞在した内中原町の濠端の家から南方直近の、現在、島根県立図書館(ここ(グーグル・マップ・データ))がある場所には、当時、刑務所があった。猶、位置の確認は出来ないものの、井川の実家内中原町御花畑。この「御花畑」という地名は堀尾吉晴が藩主であった頃に整備されたが、武家の屋敷町であると同時に、藩主の庭園(御花畑)とされたことに由来するらしい)も、この濠沿いであったことは間違いない)もこの借家のごく近くであったと考えられ、調べて見たところ、まさに現在、この島根県立図書館(旧刑務所)の西側の通りが、「お花畑通り」と呼称されているようである。]
 

2018/01/19

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十一」

 

    二十一

 

 友は次のような松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘、彼がふるさとたる東京を指して帰って行って、その第一篇を紹介した僕は、此続篇をも公にする事を妥当と信じている。

   日記より(二)

               芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して単にそれが過去に属するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な属性を除き去つても、尚是等の物がその芸術的価値に於て、没却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は独り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺(げつせうじ)に於ける松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の増加をも決して忌憚しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山の公園に建てられた光栄ある興雲閣(こううんかく)に対しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌悪の情以外に何物も感ずることは出来ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に対しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全国の都市の多くは悉くその発達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な発達の径路に縁(よ)ると云ふ事ではない。否寧ろ先達たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特権である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屡(しばしば)外国の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電灯とを以て広告と称する下等なる装飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹の養成とである。自分はこの点に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも処々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空気とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に関しても松江はその窓と壁と露台(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天恵(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

               芥川龍之助

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の実をつづる下に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように[やぶちゃん注:「ように」はママ。]靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子(がらす[やぶちゃん注:ルビは全集版では「ガラス」に変更されている。]))板のやうな光沢のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら随所に空と家とその間に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此処に住む人間の耳に伝え[やぶちゃん注:「え」はママ。]つゝあるのである。この水を利用して、所謂水辺(すゐへん)建築を企画するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる関係に立つてゐるのである。決して調和を一松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委ぬべきものではない。

 自分は、此盂蘭盆会(うらぼんゑ)に水辺の家々にともされた切角灯籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匂にみちた黄昏(たそがれ)の川へ静な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雑な印象記を井川恭氏に獻[やぶちゃん注:正字はママ。]じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(おはり[やぶちゃん注:ママ。全集版では「をはり」。])

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

 

    二十一

 

 友は次のやうな松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘(まま)彼がふるさとたる東京を指して歸つて行つて、その第一篇を紹介した僕は、此續篇をも公にする事を妥當と信じてゐる。[やぶちゃん注:これは勿論、井川恭の筆になるもので、恣意的に底本のそれを正字正仮名に改めておいた。]

 

   日記より(二)

                   芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して單にそれが過去に屬するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な屬性を除き去つても、尚是等の物がその藝術的價値に於て、沒却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は獨り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺(てんりんじ)の禪院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の增加をも決して忌憚(きたん)しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山(じやうざん)の公園に建てられた光榮ある興雲閣に對しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌惡の情以外に何物も感ずることは出來ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に對しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全國の都市の多くは悉くその發達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な發達の徑路に緣(よ)ると云ふ事ではない。否(いな)寧ろ先達(せんだつ)たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特權である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屢(しばしば)外國の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電燈とを以て廣告と稱する下等なる裝飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹(がいじゆ)の養成とである。自分はこの點に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入(はひ)ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも處々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空氣とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に關しても、松江はその窓と壁と露臺(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天惠(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

                     芥川龍之助

 

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の實をつづる下(した)に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門(なだもん)の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子板(がらすいた[やぶちゃん注:ルビは全集版では「がらす」は「ガラス」に変更されている。])のやうな光澤のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に變るまで、水は松江を縱橫に貫流(くわんりう)して、その光と影との限りない調和を示しながら隨所に空と家とその間(あひだ)に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此處に住む人間の耳に傳へつゝあるのである。この水を利用して、所謂水邊(すゐへん)建築を企畫するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる關係に立つてゐるのである。決して調和を一(いち)松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委(ゆだ)ぬべきものではない。

 自分は、此(この)盂蘭盆會(うらぼんゑ)に水邊(すゐへん)の家々にともされた切角燈籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匀[やぶちゃん注:底本では「匂」であるが、岩波版旧全集が「匀」であり、芥川の好んだこちらを採用する。]にみちた黃昏(たそがれ)の川へ靜(しづか)な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雜な印象記を井川恭氏に獻じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(をはり)[やぶちゃん注:この一文は全集では全体が一字下げでしかもポイント落ちとなっているが、底本に従った。]

 

   *

「月照寺(げつせうじ)」島根県松江市外中原町にある浄土宗の名刹。芥川龍之介の言うように境内には松江藩主松平家の廟所があり、現在、国史跡に指定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「月照寺(松江市)」によれば、かつて『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として』寛文四(一六六四)年に、『この寺を再興』、『浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた。直政は二年後の寛文六年に『江戸で死去したが、臨終の際』、『「我百年の後命終わらば』、『此所に墳墓を築き、そこの所をば』、『葬送の地となさん」と遺した』第二代藩主綱隆(直政の長男)は、父『直政の遺命を継ぎ』、『境内に直政の廟所を営』み、その際、『山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後』、九『代藩主までの墓所となった』。『茶人藩主として著名な』第七代藩主松平治郷(はるさと:号の「不昧(ふまい)」で知られる)の『廟門は松江の名工・小林如泥』(じょでい 文化一〇(一八一三)年~宝暦三(一七五三)年:木彫・木工家で、代々、出雲松江藩主松平家大工方として仕えた。酒を好み、常に酔って泥の如しであったと伝え、不昧公よりこの「如泥」の号を賜ったという)『の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。明治二四(一八九一)年に『松江に訪れた小泉八雲は』、『この寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。また、第六代藩主宗衍(むねのぶ)の『廟所にある』『碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ』、『下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという』(これは私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)』を参照されたい)。『この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は』三十『キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり』、『「親孝行岩」として現在も信仰されている。現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある。

「天倫寺」松江市堂形町にある臨済宗の寺。宍道湖が眼下にあり、その眺望は「宍道湖十景」や「松江八景」に挙げられた絶景である。「島根県観光連盟」の「しまね観光ナビ」の同寺の解説によれば、慶長一六(一六一一)年、『松江開府の祖堀尾吉晴の創建した龍翔山瑞応寺(りゅうしょうざんずいおうじ)を、堀尾氏のあと』に『入封した京極氏が宍道湖南の地に移して円成寺とした。この跡地に松平直政が』寛永一六(一六三九)年に『信州から僧東愚を招き、神護山天倫寺(臨済宗妙心寺派)を開山、今日に至っている。なお』、『その後』、『一時、興陽山本城寺と称していたこともある。鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で、細密精巧な彫刻がほどこされ、また「高麗国東京内廻真寺(こうらいこくとうけいないかいしんじ)」の鐘銘が刻まれて国の重要文化財。もともといまの簸川郡多伎町田儀の本願寺にあったが、堀尾吉晴が陣鐘にするため徴発、城内においた。しかし』、『松平氏になってから』、『城内に梵鐘は不吉だと天倫寺に寄進されたもの』である。江戸中期の『文人画家池大雅(いけのたいが)』『はこの鐘声を賞(め)でて、当寺に逗留し、大幅』「赤壁図(せきへきのず)」の秀作を残した、とある。リンク先には地図もあるので、位置はそれで確認されたい。

「忌憚」ここは「嫌って厭(いや)がること」の意。

「興雲閣(こううんかく)」既出既注であるが、再掲しておく。旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農工銀行」明治二九(一八九六)年に制定された「農工銀行法」に基づき、各府県に設立された特殊銀行。農工業の改良発達のための貸付を目的としたが、大正一〇(一九二一)年に「勧農合併法」が制定され、漸次、日本勧業銀行に合併された。その松江支店は現在の松江市殿町(県庁の東)にある「松江センチュリービル」の位置にあった(ここ(グーグル・マップ・データ))。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治四一(一九〇八)年十月に新築されたとあり、その新築記念絵葉書で芥川龍之介が評価したハイカラな建物を見ることが出来る

「街衢(がいく)」「衢」は四方に分かれた道で、「人家などの立ち並ぶ土地・町」の意。

「井然(せいぜん)」整然に同じい。

「幽鬱(ゆううつ)」文中で注した通り、歴史的仮名遣は「いううつ」が正しい。「憂鬱」に同じいが、ここは、木が周囲が暗くなるほどに盛んに茂ることの意で、ネガティヴ一辺倒のマイナスの陰鬱の謂いではない。

「灘門」「なだもん」と読む。この「翡翠記」を井川による長歌とすれば、それの応じた相聞歌に当たるものが、実は存在する。「翡翠記」以上に読まれることが少ないと思われるものであるが、この旅で井川と芥川が交わした連句で現在、岩波新全集で「松江連句」という仮題で初めて活字化されたもので、松江を舞台として春夏秋冬を描いた壮大な二人による百韻である。私は既にやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺でそれを電子化注しているが、その中に、井川の「冬」の句として、

 

 灘門(なだもん)に人のけはひす夜を寒み

 

及び、

 

 雪あかり灘門とざす女かな

 

という二句が登場している。「灘門」については筑摩全集類聚版脚注では『「水門」か』と推理している。ここで言う「水門」とは、宍道湖には中海経由で潮水が入ってくるため、それが堀に逆流して田畑に塩害をもたらさないために作られたものを指すと思われるが(江戸末期の古地図を見ると、そのような水門が二箇所に視認は出来る)、しかしこれを句の「灘門」と解するには私は非常な無理があると考える。何故なら、これら二句は孰れも夜の景で、おまけに後者では灘門を閉じているのは女性だからである。万一、想像されるそれなりに大きな海水を閉鎖するための水路「水門」を、雪中の夜、女性が閉じに来る、という景は、一般的感覚では奇異にして不審だからであるこの「灘門」については、このやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を公開した後、そこで疑問を呈したところ、現地の方々の非常な協力を得、問題を解決することが出来た。同ページの注でも記してあるが、ここに引くと、松江では、堀や川に面した部分を持つ住居にあっては、それらの家が面している水域を「灘(なだ)」と呼称し、その水場(みずば:水仕事を行えた)への出入り口を「灘門(なだもん)」と言ったのである。以下にその写真を掲げる(なお、本写真は著作権の確認が出来ないが、本件では重要な資料であるので紹介する。万一、著作権抵触の指摘を受けた場合は公開を停止する。但し、以下の証言者の家が映っている以上、撮影者はその家の持ち主から逆に写真の取り下げを求められる可能性もあることを附記しておく)。本件への回答を下さった方(まさにこの注に相応しい女性の方である)の灘門の回想が素敵なので一部、公開する(表記の一部に手を加えた)。

Photo08

   *

(前略)灘門はね、下のほうに、十センチぐらいだったかしら? 少し隙間があるんです。水が増えてくると、そこへ降りる段段へ、それこそ「だんだん」水があがってきて、小さな魚や亀なんかが、うちのなかへ入ってくる状態になるんです。それが嬉しくて、楽しみで、大水になると日に何度もそこへいって見たものです。「○段目まであがったよー!」って親に報告するわけです。六、七段もあったでしょうか?

   *

因みに、この回想回答された方の御宅は、まさに、上の写真の中にある、とのことであった。

LIFELIKE」ここは「あたかも生き物であるかのような」という意。底本の後注では、芥川龍之介が大正三(一九一四)年四月に『心の花』に「柳川隆之介」の署名で発表した「大川の水」の一節を引いている。同箇所(前を少し増やした)をリンク先の私の電子テクストで引いておく。

   *

 海の水は、たとへば碧玉(ヂヤスパア)の色のやうに餘りに重く緑を凝らしている。と云つて潮の滿干を全く感じない上流の川の水は、云はゞ緑柱石(エメラルド)の色のやうに、餘りに輕く、餘りに薄つぺらに光りすぎる。唯淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷な青に、濁つた黄の暖みを交へて、何處となく人間化(ヒユーマナイズ)された親しさと、人間らしい意味に於て、ライフライクな、なつかしさがあるやうに思はれる。

   *

引用部の語はリンク先で私が詳注しているので参照されたい。

「アアサア、シマンズ」イギリスの詩人で文芸批評家のアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)。「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」は庄子ひとみ氏の論文「コスモポリタンのまなざし――アーサー・シモンズのヴェネツィア紀行」(PDFでダウン・ロード可能)の記載からみて、紀行文“Venice”(“Cities”一九〇三年/“Cities of Italy”一九〇七年の合本らしい)の中の一節らしい。

「松崎水亭(まつざきすゐてい)」宍道湖湖畔の当時の松江を代表する料亭。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治六(一八七三)年の創業で、現在は玉造に移って「松の湯」という温泉旅館となっている、とある。旧所在地は、その記載から、この中央附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「盂蘭盆会(うらぼんゑ)」芥川龍之介が訪れた時を旧暦に直すと、松江到着の八月五日が旧暦六月二十五日、八月二十一日が旧暦七月十一日に当り、旧暦七月十五日よりも前になる。しかし、この文章は彼がその実景を見ているように書いているから、既に当時、松江では、新暦の八月十五日に盂蘭盆会をやっていたと読むべきであろう。

「切角灯籠(きりこどうろう)」盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形になっている吊り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すか)し模様や六字名号(南無阿弥陀仏)などを書き入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある(小学館の「日本大百科全書」に拠る)。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)の私の注を参照されたい。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十」

 

    二十

 

 海から上って二人は風呂場をさして行った。

  ごえもんぷろ

「ヤッ五右衛門風呂だね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」

と龍之介君が大に無気味がる。

「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏(おどり)をするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。[やぶちゃん注:「せないでも無い」はママ。西日本方言圏の表現という気がする。]

 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸(つか)っていたが、

「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。

 湯からあがって海をながめているとおかみさんが魚づくめの夕飯の膳を持って来た。

 それをお腹(なか)におさめたあと二人は追々暗く成って行く海の面に見惚れながらいろんなことを話していた。

 たちまち闇の中に一点の光が閃いてしずかに瞬きはじめた。光が光の伴侶(つれ)を呼ぶように更にひとつの光がそれに並んで輝きを放ち始めた。三つ四つ五つと光の列は漸次(しだい)にながく成って海のはてに広がった。

「海の向うに街があって、灯(ともしび)の光を水に落しているようだね」

「光が一つひとつ浪のうえを此方へあゆんで来るような気もするし、お出で、おいでと手招きするようにも見えるね」

 二人は勝手な想像を描きながら漁り火をみつめた。

 大分つかれたので床をとらせて蚊帳の中にはいったが和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた。

 あくる朝めざめると暁の海は軽快な透明なうしおのいろをたゝえながらながい弓形(ゆみなり)の砂は夫(それ)に抱かれていた。

 朝飯をすませてから鰐走(わにばし)りのあたりまで散歩した。そこにかゝつている橋の欄干に凭れながら、浄らかに水の面の澄んでいる波根の湖水のあなたに三瓶山の秀抜な峯の容(すがた)をながめるけしきは、人の心を深く引付ける趣をそなえている。

 宿にかえるとまた浜辺へ下りてみずを泳いだ。およいでは浜にあがって日光(ひ)に照れている砂のうえに身を投げてあたゝめた。龍之介君が砂のピラミッドをきずくと、僕は砂のスフヰンクスをつくったが、スフヰンクスは自分の首の重さに耐えかねてがくりと砂の頭をうつむけた。

「年代(タイム)は斯うして一切の営みを亡ぼすのだ」と砂のくずれを指して僕はわらうた。

 龍之介君はせっせと砂を盛り上げて日本アルプスのひな形をつくりはじめた。それが出来上った時、

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」と説明したが、その群嶺も間もなく僕たちの足の下に踏みくずされた。

 それから正午(ひる)過の汽車に乗って僕たちは今市に向った。

「愛すべき波根の村よ!うつくしかった昨夕の日没よ!」とこゝろの中にさけびながら、隧道(トンネル)の中に呑まれて行こうとする汽車の窓から僕はうしろを振返ってみた。

 

[やぶちゃん注:「漁り火」日本海の夏の風物詩である烏賊釣り舟の漁火(いさりび)である。

「和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた」芥川龍之介は稀代の怪奇談蒐集家であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介の怪談採録集「椒圖志異」を参照されたい。

「鰐走(わにばし)り」底本後注に『波根』海岸の『西の奇巌「掛戸の岩」などのある岩場』とある。景色(グーグル・マップ・データの写真)。また、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖の「7.掛戸開削」も是非、参照されたいここは現在のとなっては幻の波根湖からの排水路として切り開かれた(と伝わる)ものであることが判る。『掛戸の床面は海面高度とほぼおなじで、排水のための水路がその床面に掘り下げられている』とあり、私はこれを読んで何となく「鰐走り」の名が腑に落ちた。

「波根の湖水」現在の地図ばかり見ていると、この意味が判らない。何故、私が前の注の、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖を太字にしたか? そこの「2.砂州が湾をふさぐ」を読んでいないと、この井川や芥川の目に映っている景色が判らないからである。井川が「湖水」と言っているように、当時、ここには波根湖という巨大な「潟湖」があったのである。そこの七十前の地図を見られよ!

「三瓶山」大田(おおだ)市三瓶町(さんべちょう)志学。島根県のほぼ中央にある標高千百二十六メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。掛戸からは直線で南東に十五キロメートル弱の位置にある。大山隠岐国立公園内の名峰である。

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」芥川龍之介はこの六年前の明治四二(一九〇九)年、三中の三年生(十七歳)の夏(八月八日出発で十日頃に槍ヶ岳に登攀、十二か十三日に帰宅(この頃はまだ本所)している模様)に同級生の中原・中塚・市村・山口と五人で槍ヶ岳に登っており、この時の日記も残っている(日記は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収の「槍ケ岳紀行」。なお、彼には大正九(一九二〇)年に『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」がある(「青空文庫」ので読める)が、驚くべきことに芥川龍之介は作家になってからまた槍ヶ岳に行ったと信じ込んでいる研究者(言っとくが、ただの龍之介好きの読者なんかではなく、芥川龍之介研究者を公に名乗っている奴である)がいたのには、ビックらこいた。これは、この十七の時の記憶と日記を元に彼がフェイクで作った立派な創作物、小説なのである)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十九」

 

    十九

 

 高い海ばたの崖から崖を伝って走って行った汽車が幾つかの隧道(とんねる[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])を潜り抜け、最后の黒闇(くらやみ)の中から脱け出たとき、夕ぐれの日の光に染って屋根や壁やが一斉にはなやぎ輝いている波根の漁村が海を背景(バック)にして眼のまえに現れた。

 新築の小(ささ)やかな停車場に下車して改札口の駅夫に、「水月亭(すいげつてい)という宿はどこですか?」と新聞の広告で知った旅館の所在(ありか)をたずねると、「そんな家は知りません」と突慳貪(つっけんどん)に答え返した。困ったなと二人顔を見合わせていると、今の汽車から下りて来たらしい村の人が親切に教えて呉れたので安心して歩み出した。宿は停車場から二丁ばかり行ったところに在って宿の名を記(か)いた小旗が高い竿のうえに翻っていた。

 門を入って、こちらから入るのかと訊くと、そこで洗濯をしていた此家のおかみさんが「そげでございますがな」とこたえた。新築して間も無いと見えて中庭では庭師が仕事をしていた。ぼんやりとそこに立っていると、「こちらの部屋へ上んなさい」とおかみさんが無雑作に半ば命令的な口調で指図するのにいさゝか二人とも恐縮して言い付けられた儘一番東側の藤原朝臣なにがしの不二の歌の額のかゝつている部屋にあがった。

 あがって見ると眺望(ながめ)はすてきに佳い。二人は海にのぞんだ様にこしかけたまゝ、

「佳いね!ほんとうにいゝね!今夜こゝへ来てよかった」とお互いにいそがしく言い続けた。

 眼の前の海は一湾(いちわん)の暮潮(ぼちょう)を張りみなぎらせ、高らかな浪の音は静かな夕べの底に泌みてゆるやかに響いていた。浜が右の方に尽きるところには断層の条文(すじめ)鮮かな立神(たてがみ)の巌が巨人のように肩を聳やかしてすっくと立って居り、左り手は弓形につづく白砂の浜のはてに赤瓦の屋根がいろうつくしく重なり合っている。

 二人はいそいで衣服(きもの)をぬいで椽の前の高い石垣に架けてある板の桟(はし)を下りて海に跳びこんだ。

 浪は冷たい掌(てのひら)をあげて肩を衝ち胸をうつ。すっきりとした寒冷の感覚が緊張した全身の筋肉に錐の尖(さき)のように細くとがった刺戟を伝える刹那に、身を挑らせて浪のうえに手足を浮かせると、水は弾力性に富んだ快い圧迫を体躯(からだ)の周囲(まわり)に加えながら自分の思うまゝに揺(ゆさ)ぶり弄ぼうとこゝろみる。

 恰度その折太陽は、燦爛(さんらん)たる栄光の王冠を火炎の中に抛(なげう)つように爛々と燃えながら海の涯に沈んで行った。

「あっ、うつくしい!」

「うつくしいね!」と浪のあいだから二人がうれしくて耐(たま)らないような声を叫んで、そのゆうべの「日の終焉(おわり)」の栄(さけ)を讃めたゝえた。

 裸かな二人のからだのまわりには金色や、くれないや、藍綠(らんりょく)や、紺青やの浪の文(あや)、浪の模様が肌にとおる冷めたさと共に縺(もつ)れ絡(しが)らみはるかな海の端(はて)には日の、まったく没したあとの空に呪文の象(かたち)をした雲が焔(ほのお)のかたまりのように燃えかがやいていた。

 

[やぶちゃん注:「水月亭(すいげつてい)」底本後注に『現在の「金子旅館」あたりにあったと推定されるが、不詳』とある。「金子旅館」は(グーグル・ストリートビュー)。その手前に現在、「水明館」という宿もあるのだが(ここ。グーグル・ストリートビュー)、井川は「停車場から二丁」(二百十八メートル)「ばかり行ったところに」あったとあり、後者は波根駅の現在の中央部から計測しても八十メートルしかなく、近過ぎ、確かに「金子旅館」のある位置の方が相応しい。

「藤原朝臣なにがしの不二の歌」不詳。井川が「なにがし」とするところを見ると、藤原敏行や実方ではあるまい。しかもここで、よりによって、冨士かいな!

の額のかゝつている部屋にあがった。

「立神(たてがみ)の巌」底本後注に『波根湾東側突端の切り立った岸壁』とある。景色(グーグル・マップ・データの写真)。Tombeeブログ「清治の花便りの写真群も素敵だ! これらの写真を見ると、井川の「巨人のように肩を聳やかしてすっくと立って居」るのは横方向のシミュラクラの意だということが判る。!巨神兵!

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十八」

 

    十八

 

 昼飯(ひるげ)をすましてから二人寝ころんでいると、風は海の方から山辺(やまべ)へと二階のなかを吹き通すので、涼しさをとおり越して肌寒く成った。

 しばらくしてから裸になって浜へ出てみると、海岸から三四丁のあいだは浪が底を撹(か)き拌(ま)ぜるためか水はいやに濁って、白い浪のしぶきが一倍もの凄じく見えた。浪のなかへすゝんで行ったが、逆巻いてなだれ落ちる浪の力が暴悪をきわめていて、いく度努力してみても底へ叩き込まれるばかりであった。

 からだ中流れ藻やそだの屑だらけに成って僕たちはほうほうの体で湯場に引上げた。

 なんだか此処は索漠としていて興味が薄いので、一体は一と晩泊るつもりであった予定を急に変えて、四時の汽車で石見の波根(はね)に向うことにした。龍之介君がもう一返大社へ行ってお守りを買って行くと云うので復たおなじ途を引返してお宮に行き大黒さんと蛭子(えびす)さんと二体の木像の入っている小さい筥(はこ)をもらった。

 汽車に乗ってから龍之介君はそれを雑嚢の中から取り出していじくりながら、

「おも白いな。大黒さんと蛭子さんとが孔からのぞいているぜ。恰度顔のところへ孔をあけたのはおかしいや」

「どれ、見せ給え。なる程、二人とも楽天家だな。見ていると釣り込まれて笑わずには居られなくなるぜ」

 汽車は間も無く今市についた。そこで町の中をぶらついたりして一時間ばかり待った後大田(おおだ)行の汽車に乗った。汽車がすゝみ出すとはてしない青田を渡って吹いてる風のすゞしいこと!

 今市の西南には赭色(しゃしょく)の土の肌を斑(まば)らに露わした丘陵が一帯に起き臥している。それをみつめながら龍之介君が、

「僕あこんど出雲に来て始めて山の禿なるものの趣味を理解し得たよ。なかなか佳いものだね」

という。

「そうだね。関東は土が黒いから、その点の趣は欠けるね。ここいらの土はみな明るい、暖かい色をしているだろ。そのために山の艸木のみどりが大へん引立って見えるよ」

「画(え)にも成り易いだろう」

「うん、あそこいらの丘のけしきはセザンヌの描いたものを見るようだね」

 神西湖(じんざいこ)を後にして汽車は小田(おだ)の駅についた。僕が十歳ばかりの頃姉や兄と一緒に朝松江を出発して庄原(しょうばら)まで汽船で渡り、そこから俥で大田に向った事があった。恰度秋の雨のそぼ降る日で、この辺り迄来ると夕日はさびしく海の涯に落ち、雨の中から西の方がぼうと明るく成っていた。どこ迄行ったら目指す太田の町に着くのだろうかと、おさない子供ごころにむしょうに心細く成って泣き出し度いような気持がしたことを記憶している。

 その頃のことを考えると斯うして汽車の中に安々と身を横たえながら超えて行くことの出来るように成った文化の発達の有難さが痛切に感じられた。

 

[やぶちゃん注:「三四丁」三メートル強から四メートル強。

「そだ」「粗朶・麁朶」。ここは海藻の仮根や陸からの小枝や木屑片。

の屑だらけに成って僕たちはほうほうの体で湯場に引上げた。

「一体」副詞。もともと。元来。

「石見の波根(はね)」底本の後注に、『安濃』(あの)『郡波根村』(現在の大田(おおだ)市波根町(はねちょう))((グーグル・マップ・データ))。『山陰線出雲今市―石見大田間は』まさに、この芥川龍之介松江到着の五日後の、大正四(一九一五)年七月十一日に開通したばかりで、『羽根駅は大田駅より二駅手前』である(下線太字はやぶちゃん)。島根県大田市波根町中浜。(グーグル・マップ・データ)。芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の車窓からの嘱目を、

 

   波根村路

 倦馬貧村路

 冷煙七八家

 伶俜孤客意

 愁見木綿花

    波根村路(はねそんろ)

  倦馬(けんば) 貧村の路(みち)

  冷煙(れいえん) 七八家(しちはちか)

  伶俜(れいべん) 孤客(こかく)の意(おもひ)

  愁ひ見る 木綿(もめん)の花(はな)

 

という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にした)。「伶俜」は落魄(おちぶ)れて孤独なさまを言う。なお、老婆心乍ら、以下ではこれから行く先の(まだ先の先の)地名がわんさと出てくる。井川と芥川の現在位置はもっと手前なので錯覚されないように

「大黒さんと蛭子(えびす)さんと二体の木像の入っている小さい筥」ネット画像では見当たらない。しかし、これ、是非、出雲に行ったら、探してみたい。

 

「今市」既出既注

「大田(おおだ)」島根県の中部にある現在の大田(おおだ)市。ウィキの「大田市によれば、『日本海に面して』おり、『石見地方内では石東地域(石見東部地域)に位置し、隣接する出雲市と共に県中部の中心地域となっている』。『出雲地域と石見地域の境界に位置しており、歴史的に双方の文化の中継点としての性質を持っている』こと『から、地理的に広島県や山口県との繋がりが強いといわれる石見地域の中では、例外的に出雲地域との繋がりが強い』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「神西湖(じんざいこ)」島根県出雲市の西部に位置する汽水湖。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「神西湖によれば、西南に三瓶山(さんべさん)を拝み、アシやガマに囲まれシジミがよく穫れる』。二〇〇五『年度のシジミの収穫量は約』一万七千トンにも及び、これは『全国の湖沼中』、六『位で』、『単位面積当たり』の漁獲量として見れば、『全国の湖沼中』第一『位である』とある。

「小田(おだ)の駅」島根県出雲市多伎町(たきちょう)多岐にある小田駅。(グーグル・マップ・データ)。

「庄原(しょうばら)」宍道湖の西南岸の斐川町内の庄原附近の広域呼称。附近(グーグル・マップ・データ)。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十七」

 

    十七

 

 大社の賽路(さいろ)は大鳥居からだらだらと下りに成っているので、それが社(やしろ)の尊厳をそこなう欠点であるかのように云う人もあるけれど、砂丘勝の地形を躊躇無くそのまゝ利用したところに却って土地の特殊な性格から来る風趣が自ずと現れているような気がする。

 青銅の鳥居をくぐると向って右の境内に真赤に錆びた分捕砲が巨きい口をひらいて蹲踞(うずくま)っている。

 Detestable Taiho と龍之助君がいきなり腹立たしげに叫んだ。[やぶちゃん注:「助」の右に底本編者によるママ注記がある。]

 「まったくだ」と僕も言下に同じた。

 拝殿のまえの大きい注連縄(しめなわ)の下に立って拝んだのち、社を一とめぐりした。濃い日光(ひざし)は森閑として境内に隈無くそゝいで、杉や檜の木かげを白い砂のうえに落していた。

 それからいく度か振返って弥山(みせん)の尖峰を仰ぎ見ながら稲佐(いなさ)の浜に出て行った。その内に空には雲が塞(ふさが)り涌(わ)いて、僕たちが、浜辺に辿りついたころには重苦しく曇った空の下にもの凄く暗んだ海が鞺鞳(どうとう)のひびきを立てゝたけっていた。

 浜の極るところの岩山の崕際には浮華(はで)な藍色に塗った俗悪を極めた建築が立っている。なんでも水族館か何からしい。水族館の設立そのものは大変結構な思い付きに違いないが、今少しこの神代ながらの海辺のおもむきに注意を払って欲しいと思った。

 養神館(ようじんかん)を指して行くと、そこの二階の柱や欄干も例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキで塗ってあるのに二人とも辟易した。たいくつそうに玄関に跼(こしか)けていた宿の女中は立ちあがって僕たちを二階に導いた。

 僕たちはそこに寝そべって欄干越しに海をながめた。浪は相かわらず白い牙を噛み鳴らして相搏(う)っていた。

「あのずっと向うへつゞいているのが石見潟(いわみがた)なんだよ。浜田はあの岬(はな)をまわったずっと先だ」と説明してきかせると、

「こゝまで来るとほんとうに遥々(はるばる)海の涯に来たってな気がするぜ。なんだか心ぼそくなっちゃった。日本海は暗いな」と龍之介君がしみじみとした語調で言った。

 僕はどうも青ペンキで塗った欄干が気になって耐らないので「おい君一体どうしてこんな嫌やな色に塗る気になったんだろう?」とふしぎがると、

「宿の人がよほどエキゾチシズムが好(し)きなんだろうよ。はゝゝ」

と龍之介君はわらった。

 女中の持って来たゆかたに着替えて裏の浴室に行って汐湯にはいると膚がヒリヒリとしみていたい。

「おい、解ったよ」と僕は湯の中で得意げに言をかけた。

「何だい?」

「あの欄干をあんな色に塗ったのはね、水族館の壁を塗ったペンキの余りが残っていたのを格安にゆずり受けたからなんだよ。きっとそうだよ。はゝゝは」

「成る程そうかも知れない……総ての問題は解決してみると案外あっけの無いものだからな、はゝゝ」

 

[やぶちゃん注:「賽路(さいろ)」参道。「賽」は「お参り・お礼祀(まつ)り(神から受けた幸いに対して感謝して祀る)」の意。

「大鳥居からだらだらと下りに成っている」この「下り参道」は全国の神社でも非常に珍しいものである。「遜(へりくだ)る」の意味を具現化しているというような解釈もあるようだが、ここで井川が述べている通り、「砂丘勝」(が)ちの地形によるものである。

「分捕砲」「ぶんどりほう」と読んでいるものと思う。底本後注に『出雲大社拝殿の横に置かれていた日露戦争の戦利品。第二次世界大戦時、供出した』とある。恐らく、これであろう(絵葉書販売サイトのもの)。鎌倉の鶴岡八幡宮にも古い写真を見ると、上宮へ上る階(きざはし)の右に砲弾が並んでいる。現在でも実は各地の神社には、この手のアナクロニックな戦利品の残骸が境内に飾り残されているところが、結構、ある。

Detestable Taiho」「いまいましい大砲!」。

「弥山(みせん)」前段で既出既注

「稲佐(いなさ)の浜」出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、

   《引用開始》

弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。

塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。

屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。

つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:「たけみなかたのかみ」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。

   《引用終了》

があると記す。ここで二人は海水を沸かした潮湯に入っているが、実はこれはここで行われる大社の宮司が行う神事に引っ掛けた旅亭のサーヴィスと思う。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (二)』を参照されたい。それでなくても、この浜で行われる(或いは曾て行われた)大社の宮司の神事は、ごく秘密なものなのである。

「鞺鞳(どうとう)」(因みに歴史的仮名遣では、この文字列の場合は「たうたふ」である)「鼕鼕」「鏜鏜」とも書く。波や水の流れが、勢いよく、音をたてるさま。音自体がオノマトペイアである。

「崕際」「がけぎわ」。

「浮華(はで)」派手。井川の当て漢字や当て訓は特異であるが、実に面白い。私は好きだ。

「水族館」初めは大正二年に竣工した私設の「大社教育水族館」。神聖な神の浜辺である稲佐浜に白亜の洋館風の外観を持つ施設として建てられ、オットセイなどがいたこともあったが、大時化(おおしけ)に見舞われるなどして、数年で閉鎖されたという。近畿・大社会のサイト「神話の国出雲・大社町」のこちらで写真が見られる(同水族館は存在期間が短かったため、写真はかなりレアである)。

「養神館(ようじんかん)」底本後注に『稲佐の浜にあった旅館。明治二十四』(一八九一)『年夏、ラフカディオ・ハーンは半月間ここに滞在して、海水浴を楽しんだ』とある。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』を参照されたい。前注リンク先に写真入りで出る(「養命館」は「養神館」の誤り。写真の二階の右端に看板があり、そこにはっきりと「養神館」の屋号が読める)。この写真は大正四(一九一五)年頃とあるから、まさに井川恭と芥川龍之介が休憩したその頃のものである。まさにこの写真の「二階の柱や欄干」に「例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキ」をけばけばしく着色すれば、恭と龍之介の憂鬱は完成する

「石見潟(いわみがた)」島根県浜田市から江津市にかけての遠浅の海浜の広域地名。(グーグル・マップ・データ)。歌枕で、多くは「石(いは)」に「言は」の意を掛け、また、石見潟の「浦𢌞(うらみ)」「浦見」から、同音の「恨み」に掛かる枕詞のようにも用いられる。

 つらけれど人には言はずいはみ潟うらみぞ深き心ひとつに

        詠み人知らず(「拾遺和歌集」)

 いはみ潟うらみぞふかき沖つ波よする玉藻にうづもるる身は

        詠み人知らず(「古今和歌六帖」)

 石見潟たかつの山に雲はれて領巾(ひれ)ふる峯を出づる月かげ

 後鳥羽院(「新後拾遺和歌集」)

「好(し)き」芥川龍之介は東京市京橋区入舟町(現在の中央区明石町の、私が三年前の夏、外傷性クモ膜下出血及び前頭葉一部挫滅のために入院した聖路加(ルカ)病院のあるところ)生まれのちゃっきちゃきの江戸っ子であるから、「さしすせそ」の発音が「しゃししゅしぇしょ」或いは総てが「し」に偏頗して訛るのである。]

 

2018/01/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 五

 

     

 

 また諸國の峠路には往々にして中宿と云ふものがあつた。雙方麓村から運んで來る荷物を爰に卸して、隨時に向から釆て居る荷物を運び歸り夫々名宛先へ屆ける風習が近頃まであつた。これも鳥居氏は自説に引き込まれるか知らぬが、やはり明白に勞力の節約を目的として始まつた文明的の運送契約である。その中宿の在つたと云ふ地は澤山あるが、秋田縣ではこれを易荷(かへに)と稱し、砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路、また生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠にも、このために無人の小屋が設けられて、單に下から運んで荷物を置いて還るのみらず、椀小鍋等の食器迄が一通り備へてあつた。小安村から仙臺領へ越える道にもこの中宿があつた。關東では野州日光町の人が栗山方面の山民に味噌や油を送り、彼から木地や下駄材を取るにもやは此中繼法を採用し、最近までも安全に交易が行はれて居た。甲州東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠、及び多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越などにも、共に百年前までは道半分の處にこの種の中宿があつた。信仰の力を以て相手の不正直を豫防せんとしたものか、後者には道祖神の宮があつて荷物は皆その宮の中へ入れて置き、前者も亦其地に雙方の村から祭る妙見大菩薩の二社があつて、そのために峠の名を大菩薩阪と呼んで居た。既に此の如く信仰までが彼此共通であつた位で、これを異民族間に始まつた無言貿易と同視し得ないのは分明なことである。

[やぶちゃん注:「中宿」一応、「なかやど」と訓じておく。ちくま文庫版全集でもルビはない。

「砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路」現在の秋田市上北手猿田砂子沢((グーグル・マップ・データ))の北西に上北手大杉沢という地名がある。それほど高くない丘陵を挟んではいるが、ここか。

「生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠」現在の秋田県仙北市田沢湖生保内((グーグル・マップ・データ)以下同じ)から秋田街道を、東の岩手県岩手郡雫石町橋場()への峠越え。これはかなりきつい山越えである。

「小安村」現在の秋田県湯沢市皆瀬(小安峡・小安温泉などの名が残る。から南東に宮城県栗原市へと山越えするルートか。これは相当、きつそうだ。

「栗山」栃木県日光市日向(東照宮の北方十三キロメートルほどの山中)の附近か(地図上に「日光市立栗山小中学校」の名を確認出来る)。

「東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠」山梨県北都留郡小菅村は。後に出る「大菩薩阪」(嶺・峠)はだから(山梨県甲州市塩山上萩原)、現在の甲州市の塩山の東北部からそこに抜けて、東京都の奥多摩町へと向かうルートである。

「多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越」東京都西多摩郡奥多摩町日原は。「秩父」「大宮」則ち、現在の埼玉県秩父大宮は

「妙見大菩薩」北極星を神格化した菩薩(道教の北極星信仰と結びついたもの)で、国土守護・除災厄除・招福長寿を司るとされる(仏教では実際には天部に配する)。本邦では特に眼病平癒を祈り、密教と日蓮宗に於いて祀られるケースが多いが、民間で単独で信仰されたことも多かった。]

 

 中宿に膳椀の類を備へて人の使用に任せると云ふことも例の多いことである。會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越にも近い頃まであつた。いわゆる日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた。丹後田邊の海上三里の沖にある御島、又は北海道の奧尻島のごとき、ともに食器・炊器とともに若干の米さへ殘してあつて、誰も管理する人はいなかつた。これは風波の難を避けて寄泊する船人のために存する舊慣で、丹後の方ではやはりその地に祭神不明の神社があつて、その社の中に藏置してあつたと云ふ話である。

[やぶちゃん注:「會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越」ルート

「日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた」これは当たり前ですよ、柳田先生。

「丹後田邊の海上三里の沖にある御島」「丹後田邊」は現在の舞鶴であるが、この島は不詳。識者の御教授を乞う。

「奧尻島」。]

 

 要するに通例人がいて管理すべき取引を、何かの都合で相手次第に放任して置いたとても、其㋾以て直に窮北未開民族の間に存する奇異なる土俗と同系のものと見ることは速斷である。但し今一段とその根源に遡つて、後世我々の間に行はれた人なし商ひも、最初は觸接を憎んだ異民族間の貿易方法を、學んだものだらうと云ふ假定は立ち得るかも知らぬ。しかも之を確實にする爲には別に證據材料が無くてはならぬ。府縣に散布して居る所謂椀貸傳説が、殘念ながらその證據には些ともならぬことは、是から自分がまだ言ふのである。鳥居氏がこんなあやふやな二つの材料を以て、日本にも曾て無言貿易の行われた論據とせられ、二つも材料があるからは殊に確かだと云ふ感じを、與へんとせられたのは宜しくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「些とも」「ちつとも(ちっとも)」。]

 

  家具を貸したと云ふ諸傳説において、最も著しい共通點は報酬のなかつたことである。唯一つの例外と言つた駿州大井川の楠御前でも、竹筒に二つの神酒は單に感謝の表示で、借料とは到底考へられぬのである。然らばこれ明らかに恩惠であつて對等の取引では無い。第二に注意すべきは文書を用いたと云ふ例である。小學教育の進んだ當節では、如何なる平民同士の間にも文書は授受せられるが、農人の大部分が無筆であつた前代に於ては、是は或智力の勝れた者の仲介を意味して居る。相手も亦手紙の讀めるえらい人又は神であつたと云ふことを意味して居る。語を換へて言へば、啻に今日の人の目にさう見えるのみでなく、この話を半ば信じて居た昔の田舍人に於ても、此不思議を以て信仰上の現象又は少なくとも呪術の致す所と考へて居たのである。從つて次々に尚述べるやうに、椀類の貸主に關する多くの言傳へは、無言貿易の相手方などゝは大分の距離がある。水の神と云ひ龍宮からと云ふ説明も、偶然ながら此傳説の成立ちと、其後の變化とに關する消息を漏らして居るやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「啻に」「ただに」。「唯に」と同じい。]

 

芥川龍之介 手帳8 (16) 《8-18》

《8-18》

○甲人噓をつかぬ教育をうけ、乙人噓をつく教育をうく 甲いろいろ苦しみ後安し 乙いろいろ苦しみ後安からず 同樣同情するやうにする

○特殊部落の人その輕べツサルルハ父母ノ所爲ノ下等ノ爲卜思フ 父母ヲニクミソノ家ヲ去ル 立身シソノ素性を知ラレ輕蔑サレ父母ノモトヘカヘル

[やぶちゃん注:「特殊部落」差別用語であるので以上の条は批判的に読まれたい。平凡社の「特殊部落」から引いておく(コンマを読点に代えた)。『明治後期から今日まで、被差別部落とその出身者に対して用いられてきた差別呼称。被差別部落問題への無理解と深刻な部落差別意識を根底に潜めた差別語であり』使用は『避けられるべきであるが、近代における部落問題の歴史と部落差別意識を解明する』上で、『きわめて重要な言葉である。この言葉は』明治四〇(一九〇七)年の政府が行った『全国部落調査の際に用いられたように、日露戦争後の部落改善政策の中で行政機関が使い、新聞記事などによって民衆の間にも広まったが、主として被差別部落の起源を異民族に求め、部落の人々の祖先を古代の朝鮮半島からの〈渡来人〉や律令国家の征服した〈蝦夷(えぞ)〉などとする誤った歴史認識に』基づいた、とんでもないものであった。]

 

○松南 山本梅叟の弟子

[やぶちゃん注:「松南」画家牛田松南(明治三(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)。知多郡豊浜町山田生まれ。名は円空。幼い頃に僧籍に入り、傍ら、山本梅荘に画を学んだ。仏門修業のために大阪に移ったが、還俗して金沢に長く住み、画家として一本立ちが出来るようになったことから、上京したが、戦災で負傷、それが悪化して亡くなった(ブログ「松原洋一・UAG美術家研究所」の「南画の衰退、そして近代日本画へ」に拠った)。

「山本梅叟」山本梅荘(弘化三(一八四七)年~大正一〇(一九二一)年)の号の誤り前注のリンク先から引く。碧海郡新川鶴ケ崎村(現在の愛知県碧南市新川)に生まれ、後に半田に出た。通称は倉蔵で、別号に半村・半邨・楳荘がある。書画骨董を商う養父公平から特殊な教育を受けて画術を独修、後に京都に出て、『貫名海屋に学び、さらに三谷雪えんに従って画を修めた。帰郷後、元明清の古蹟を臨模し、王石谷に私淑し、山水を最も得意とした』。明治一五(一八八二)年の『第一回内国絵画共進会で金牌を受け、南宗水墨画では梅荘に及ぶものがないといわれた。晩年には彩色の花鳥画も多く描き、大正元年には中部からはじめて文展委員となり』、同三年からは『審査員をつとめ、旧派の代表だった』とある。]

 

○口から人魂の出た話 古川先生

[やぶちゃん注:芥川龍之介は怪奇談採集が趣味であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介怪談採録椒圖志異を参照されたい。

「古川先生」不詳。]

 

○壬申の亂 民衆の力

[やぶちゃん注:考えてみると、芥川龍之介には神話古代や王朝物、中世・近世(江戸)物が数多あるが、この時期のものは、まず見当たらない。]

 

○⑴淸長ノ豆男江戸見物(3vol) 天明二 市場通笑 ⑵魂膽色遊懷男(榮花遊び出世男)(寶永正德) ⑶榮花娘 ⑷風流三代枕(5册) ⑸快談夜の殿 ⑹百鬼夜行 ⑺男色比翼鳥(6册)

[やぶちゃん注:「案上の書」(大正一三(一九二四)年六月『新小説』)及び「案頭の書」(翌月の同誌)の後半(「二」の部分)に「豆男江戸見物」「魂膽色遊懷男」の書名が出る。以上(単に分割公開したもので、未完に終わった)の二篇を合わせて、現行の全集では「案頭の書」として載せる。芥川龍之介の蔵書から江戸時代のものを二冊(「古今實物語」と「魂膽色遊懷男」)を紹介し、寸評した随筆。「青空文庫」のこちらで読める。因みに「案上」も「案頭」も「机上」の意。

「豆男江戸見物」(まめおとこえどけんぶつ:現代仮名遣。以下同じ)は「天明二」(一七八二)年板行の、「市場通笑」作・鳥居「清長」の黄表紙。ウィキの「豆男江戸見物」によれば、『山科の里の大豆(まめ)』(二字で「まめ」)『右衛門という男が、仙女から豆男に変身する秘薬をさずけられ、京都、大坂、江戸をめぐり歩き、好色的歓楽を経験する』という荒唐無稽な好色本。芥川龍之介は「魂膽色遊懷男」の原型とするが、これ自身が、元禄六(一六九三)年の西鶴の「浮世栄花一代男」、元禄八年の桃林堂蝶麿の「好色赤烏帽子」の模倣作でしかない。絵本版の一部が酔いどれ親父サイトの「浮世絵」で見られる。

「魂膽色遊懷男」(こんたんいろあそびふところおとこ)は江島其磧(きせき 寛文六(一六六六)年~享保二〇(一七三五)年)作の浮世草子。西川祐信画。宝永年間(元禄の後で一七〇四年から一七一一年まで。「正德」その次で、芥川龍之介は刊行が不確かであったから添えたのであろう)に板行された。後に改題して「色道假寢枕(しきどうかりねのまくら)」となった。五冊で一巻四話二十篇から成る。内容は先にリンクさせた「青空文庫」の芥川龍之介の「案頭の書」を参照されたい。

「榮花娘」漁柳作「潤色榮娘」(じゅんしょくえいがむすめ)。明和七(一七七〇)年成立か。豆男譚を模倣した豆女版。

「風流三代枕」作者不詳。菊川秀信画。明和二(一七六五)年序。これも豆男を主人公とした、春画集らしい。

「快談夜の殿」不詳。ちょっと新しいが、似たような名のものに、二世烏亭焉馬作で歌川国貞画になる「繪本開談夜之殿(えほんかいだんよるのとの)」(色摺半紙本三冊・文政九(一八二六)年)がある。「春画を見る・艶本を読む」展を参照されたい。但し、『亡魂となったお半が長右衛門の局部を引きちぎって暗い空へと昇り挙がる』とある通り、絵は強烈にエログロなので、自己責任で見られたい

「百鬼夜行」これやこれに類した名の図や絵巻は、複数、存在し、これだけでは具体的にどの作品を指しているのか判らない(ほど多い)。江戸時代で知られたものとしては、安永五(一七七六)年刊の烏山石燕作になる「畫圖百鬼夜行」(夜行は「やこう」とも「やぎょう」とも読む)であるが、これは妖怪を単発で描いたもので、文字通りの「百鬼夜行」図ではない。江戸に拘らなければ、室町時代の百鬼夜行絵巻などが個人的には正統な「百鬼夜行」であると考えており、それらはウィキの「百鬼夜行絵巻を見られたく、また他の作ならば、同じくウィキの「百鬼夜行などを参照されたい。因みに、私はこの手の絵巻のフリークで、近年出版のものは概ね所蔵している。ただ、前後の作品が好色本であるからには、これもその手の特殊な猥雑な「百鬼夜行」本なのかも知れぬ。私はその手の絵への興味がないので(私は猥褻な男としては人にひけをとらないが、どうもその手の春画は見ているうちに気持ちが悪くなっていけないのだ)、流石に所持していない。その手の〈好色百鬼夜行物〉を御存じの方は、是非、御教授を乞うものである。

「男色比翼鳥」(なんしょくひよくどり)東の紙子他作で奥村政信画。宝永四(一七〇七)年刊。前で紹介した、酔いどれ親父氏のサイトの「浮世絵」のこちらで全篇見られる。]

 

芥川龍之介 手帳8 (15) 《8-16/8-17》

 

《8-16》

男西洋人の少女に「Xmas の夜 stove より baby 來る」とは噓なりと云ふ 十年後男女より手紙を貰ふ I have loved you but I couldn’t say to you, because I heard from you that baby stove カラ生マレヌetc. I ハアナタノ手巾ニ initials ヲ縫ツタ but 君ハ知ラナカツタ 南洋へユク

[やぶちゃん注:何か面白いストーリーらしいが、該当作は、ない。]

 

《8-17》

○淸正と家康(佐渡守) pp154=家康と直弼

[やぶちゃん注:「淸正」加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)。

「家康(佐渡守)」家康が佐渡守であったことはない。彼は三河守である。家康の重臣本多正信(天文七(一五三八)年~元和二(一六一六)年)なら佐渡守である。以下の私の注に示す通り、原典が判明、そこでやはり第二代将軍秀忠の側近であった本多正信のことと判った。しかし「淸正」と家康の関係性はよく判らぬ。思うに、次注のリンク先を見ると、前の部分に「黑田長政」(ながまさ)のことが書かれており、芥川龍之介はそれを「きよまさ」と勘違いしてメモした可能性があるかも知れぬ

「家康と直弼」これは『女性改造』の大正一三(一九二四)年五月号に「上」を、同誌の翌六月号に前号掲載のものを改稿して後半を加筆した「僻見」(同誌で三月から連載したシリーズ。先行するのが「廣告」「齋藤茂吉」重太郎」(リンク先は私の注釈附電子テクスト。正字正仮名)、続くものが八・九月号の「木村巽斎」。これら「大久保湖州」を除いた「僻見」は「青空文庫」ので読める。但し、新字正仮名)の「三 大久保湖州」として掲載した作品のためのメモ。現行では「大久保湖州」は長いこともあって、近年の全集等では「僻見」とは独立した作品として扱われることが多く、独立したものが、やはり「青空文庫」のこちらで読める(但し、やはり新字正仮名)。則ちこれは、大久保湖州(元治二・慶応元(一八六五)年~明治三三(一九〇〇)年:滋賀出身で東京専門学校卒。国木田独歩の友人で在野の歴史研究家)が明三四(一九〇一)年に春陽堂から出版した『德川家康と井伊直弼とに關する史論を集めた』(芥川龍之介「大久保湖州」)「家康と直弼」である。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来で、当該ページリンクてお。]

 

○淀殿の天下取りの爲の祈禱 pp156=同上

[やぶちゃん注:前の家康と直弼国立国会図書館デジタルコレクションの画像当該リンクてお。則ち、そこを読むと、淀君による、大奥が徳川家と離反するように呪詛した祈禱、ということらしい。芥川龍之介「大久保湖州」にはこの話は出て来ない。]

 

○且元と佐渡守 New桐一葉

[やぶちゃん注:「且元」片桐且元(弘治二(一五五六)年~元和元(一六一五)年)は豊臣家の直参家臣で「賤ヶ岳七本槍」の一人。豊臣姓を許された人物で、「関ヶ原の戦い」以降も豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場に転じ、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。大和国竜田藩初代藩主。「家康と直弼」の後者リンク部の附近にも登場している。

「桐一葉」(きりひとは)は坪内逍遙作の歌舞伎の六幕十六場から成る演目。明治二七(一八九四)年十一月から翌年九月にかけて『早稲田文学』に連載(この時は七段十五場から成る読本(よみほん)体)、明治三七(一九〇四)年三月に東京座で初演された。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、決定稿の実演用台本は 大正六(一九一七)年六月に刊行されている。内容は「関ヶ原の戦い」の後、徳川家からの難題を切抜けようと苦慮する片桐且元と、猜疑心が強くヒステリー性の淀君を中心に、崩壊していく豊臣家の運命を描いた悲劇で、歌舞伎とシェークスピア劇の融合を試みた野心作であり、個性的な人間を描き出したことで、のちの「新歌舞伎」に道を開いた、とある。内容の展開はウィキの「桐一葉が詳しい。シナリオ好きの芥川龍之介は、或いは、逍遙のそれとは別の展開を持った、脚本(恐らくは映画)としての構想があったか?]

 

○家康女を利用するに妙を得たり

○竹流刑?

[やぶちゃん注:「竹」徳川家康の側室なら「お竹の方」(?~寛永一四(一六三七)年:法号は良雲院。甲斐武田氏の家臣市川昌永の娘と伝えられるが、出自には異説が多い。天正(一五七三年~一五九二年)の頃、家康の側室となり、天正八(一五八〇)年に浜松城で振姫(法号は正清院(しょうせいいん))を生んでいる。後、家康に従い、駿府城・江戸城に移った)が入るが、「流刑」とは無縁。不審。これも「家康と直弼」に載ってるんだろうけど、探すの、面倒くさい。悪しからず。少なくとも芥川龍之介の「大久保湖州」に「竹」という人物は出て来ない。]

○かみゆひ 女の子に枕をはづすなといふ その後その女の子を藝者にやる

○相愛するものが一しよにゐる爲に苦しむ話 mother and son

Artist, superb art を見 art ノ及ビ難キヲ知リ non artist トナル

[やぶちゃん注:「superb」他を圧倒するほどに素晴らしい。]

 

○馬の足 羊喬

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一~二月の『新潮』に発表した「馬の脚(あし)」がある。

「羊喬」不詳。少なくとも、「馬の脚」にはこんな人物は登場しない。或いは、「「馬の脚」には全く異なる構想があったものか?]

 

○祇王 祇女

[やぶちゃん注:言わずと知れた、「平家物語」に登場する白拍子の姉妹。姉の祇王が平清盛の寵愛を受け、母娘三人ともに裕福に暮らしたが、仏御前に寵を奪われて、母娘で出家して嵯峨の奥に隠棲した。やがて、仏御前も世の無常を知って尼となって庵を訪ね、ともに念仏往生を遂げたとされる(講談社の「日本人名大辞典」に拠った)。この物語は確かに、芥川龍之介が狙いそうな素材ではあるが、作品は、ない。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十六」

 

    十六

 

 古浦へ行った翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲労(つかれ)が節々に残っている四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうえに長々と伸ばしていた。

 秋は已に暦の上に立っていた。窓框(まどわく)に頤(おとがい)をもたせて茫然(ぼんやり)ながめると、透(す)きやかな水をひろひろと[やぶちゃん注:ママ。「ひろひろ」の後半は底本では踊り字「〱」である。]湛えている湖の面がものうい眼のなかに一杯に映った。十六禿(はげ)のうすい細のいろの崕(がけ)が静かな影を冴えた水の隈に涵(ひた)している上には、真山(しんやま)や蛇山(じゃやま)や澄水山(すんずさん)やが漸次(しだい)にうすく成って消えて行く峰の褶曲(しわ)を畳みながら淡い雲を交えた北の空をかぎっていた。

 みずうみの手前の岸には白い茎をそろえて水葦が風にそよぎながら立って居り、水際に沿う街道を竹籠を背負って洗足ですたすたあるいて行く若い女の横顔には、そうした山やみずうみや水の涯(ほと)りの村里やを取り巻いて揺(ただよ)うているさびしい透明な気分を一点にあつめた哀しい表情がかすかにやどっていた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんじ)と乗り降りの人の稀れな駅々を汽車はたゆたげにすぎて行った。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云って頻りに賞めていた。

 簸川(ひのかわ)の平原は僕にとってはかなり馴染のふかいところである。鼻高山(はなたかやま)だの旅伏山(たぶしやま)だの仏教山(ぶっきょうさん)だのと皆少年のころに草鞋をはいてのぼったことのある山ばかりで、どちらを向いても懐かしみをさそわぬものは無い。中にもあの長い長い一筋町の大津(おおつ)の端れにかゝつている神立橋(かんだちばし)のうえの夜風の涼しさがふと心に想い出された。折々今市(いまいち)の町からそこまですゞみに行ったもので、輝く星を隙間無く鏤(ちりば)めた暗やみの空が円くかゝつている川上の方から冷えびえと吹いて来る川風に浴衣の胸をくつろげながら父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずるのを、僕たちは橋の欄干に黙って縋(すが)りついたまゝ聴いていることもあった。父は帰らぬ人に成った。僕たちの少年の日はとおく過ぎ去った。橋脚を揺(うご)かして流れる川水はそれ以来幾寸の砂の厚さをその河床に添えたのであろう?

 汽車は平原の夷(たいら)かさをよろこぶかのように西へ西へと疾(はし)りつゞけた。今市をすぎ朝山(あさやま)をすぎると松茂る砂丘の群が海やあらくれた太古の人や創世のふかしぎやを語りがおに行手に連っている。

 汽車は終点についた。そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われるが。

 二人は新しい駅のまえの道路をぶらぶらと北へあゆみ始めた。僕は前の日磯ばたの石の角で切った蹠(あしうら)の傷の疼(いた)みによけい遅れがちであった。

「いゝね。まったく山海の景勝の地だね!感心しちゃつた」と龍之介君は行手をながめた。

 そこには鋭く尖り立った弥山(みせん)の巓(いただき)が天を劈(つんざ)く神の戟(ほこ)と空の真中に聳え、その下にたゝなわり伏す山々は深い暗い木のみどりの影を抱いて日の光を露わにあびていた。

 

[やぶちゃん注:「秋は已に暦の上に立っていた」前の章の最後のクレジットは八月十日。大正四(一九一五)年の立秋は八月九日(特異点。通常は七日か八日)であった。

「十六禿(はげ)」底本の後注に、『宍道湖北岸に赤色の地肌の露出した岩壁が十六か所点在するところから付けられた呼称』とある。あるブログ記事では実際には(少なくとも現在は)十三ヶ所しかないともあった。私は宍道湖にも杵築にも行ったことない。行ってみたいのだが。

「真山(しんやま)」「新山」とも書く。松江の市街地の北側にある標高二百五十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。城跡がある。平安末期、平忠度がここに築城したと伝えられ、永禄六(一五六三)年には、毛利軍が尼子氏の拠点白鹿城攻略ために次男吉川(きっかわ)元春をここに布陣している(現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみ)。二人は後日、この山に登っており、そのシークエンスが後の「二十三」「二十四」に出る。

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市八雲町熊野(松江市街の南約九キロ)に標高二百九十二メートルの同名の山がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、どうも位置的におかしい。後の「二十三」で、井川は松江の「北」にある山として真山・澄水山に、この蛇山を並べているからでもある。どうも松江の北方にある山の別称のように思われる――と――底本の「二十三」の注に、蛇山は現在の滝空山(たきそらやま:読みはネット記載を渉猟して発見)である旨の注記があった。島根県松江市島根町大芦にある標高四百六十六メートルの山であった。(グーグル・マップ・データ)。

「澄水山(すんずさん)」島根県松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。現行では「しんじさん」と呼んでいる。「二十三」で井川は「澄水山(しみずさん)」ともルビしている。不審。或いは方言で訛るのかも知れない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湯町(ゆまち)」これは山陰本線(宍道湖の南岸を走る)の、現在の島根県松江市玉湯町湯町にある現在の「玉造温泉駅」のこと。この駅は当時は「湯町(ゆまち)駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「宍道(しんじ)」同じく山陰本線の島根県松江市宍道町宍道にある宍道駅。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「簸川(ひのかわ)」狭義には島根県第一の長江で「肥河」とも書く。現在は斐伊(ひい)川として宍道湖に注ぐ素戔嗚命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の舞台に比定されている。ここではその宍道湖附近の河口平原(出雲平野の東部)を指していよう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「鼻高山(はなたかやま)」出雲市別所町にある標高五百三十六メートルの山。出雲大社の北東後背に当る出雲北山では一番高い。

「旅伏山(たぶしやま)」出雲市国富町にある出雲北山東端の標高四百二十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「仏教山(ぶっきょうさん)」これは出雲市斐川町(ひかわちょう)阿宮(あぐ)にある仏経山の誤り。標高三六六メートル。「出雲風土記」には「神名火山(かんなびやま)」(「神の隠れ籠れる山」の意で古代からの信仰の山の一つ)と出る山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大津(おおつ)」島根県出雲市大津町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神立橋(かんだちばし)」先の斐伊川に架かる、現在の出雲市と斐川町を結ぶ国道九号の橋。古えより、出雲では旧暦十月のことを「神在月(かみありづき)」と呼んで、全国の神々が出雲に集まり、その年のことを語り決めるという神話は頓に知られているが、その神々が談合を終えて自身の国へと帰って行く際の旅立ちがこの橋からとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「今市(いまいち)」現在の大津町の西の出雲市今市町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずる」底本の後注に、『父井川精一は雙岳と号して、地方漢詩壇で活躍した漢詩人であった』とある。また、その後に続く寺本善徳氏の解説によれば、彼は旧『津和野藩士族の出』とある。

「朝山(あさやま)」現在の出雲市朝山はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、位置的に合わないから、附近(グーグル・マップ・データ)の旧広域地名であったか。

「そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われる」島根県簸川郡大社町北荒木にあった大社線(出雲市駅から旧簸川郡大社町(現在は出雲市)の大社駅までを結んでいた)の「大社駅」((グーグル・マップ・データ)。現在同線は廃止(一九九〇年四月一日)にされて存在しない)なお、私も「杵築」がよかったと思う。

「弥山(みせん)」出雲大社の北山連峰の東直近、出雲市猪目町(いのめちょう)にある弥山。標高五百六メートル。(グーグル・マップ・データ)。「みやま」と訓じている記事もあるが、「みせん」が正しいものと思われる。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十五」

 

    十五

 

 岸に沿うて茂っている水草の叢を次へと次へと揺り靡かせながら、長いながい佐陀川(さだがわ)の川波を乱して進んで行つた汽船が、ゆかしく反りを打った橋の手前の川岸に着くと、今まで狭い船の中に窮屈な思いをして乗っていた船客はのびのびと背を延ばしながら陸(おか)にあがつた。

 船の中で一緒に成った水澄(みずみ)さんと泰(ゆう)ちゃんとが一足先に行く後から、龍之介君と僕とが「暑いなあ」と口癖に言いながら歩いて行った。桑畑や、芋畑や、戸内(なか)のうす暗いわら家やの間をさくさく砂を踏んで十丁ばかりも歩むと、漁夫の家の赤瓦の屋根のうえに日本海が見えはじめた。

「暗いねえ!海のいろが」と龍之介君がつぶやいた。

 空にはねずみ色の雲がひろがっていた。薄日の光りのもとに撫子の花が力無く首を傾(かし)げて咲いている径を足下あやうく降りて行くと、鉛色に濁った海は憤りの声を高くあげて白浪を打ちながらそこから一面に磯を荒らしていた。

 海に臨んで山蔭に建てた宿を指して行くと、太郎さんが一家の人々と来ていたお互いにかろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した。朝五時に松江を出る船で古浦に来たとのことであった。

 宿の椽にあぐらを組みながら僕たちは海をながめた。風が西から強く吹いて来る為夏分には希れな荒れだと云うことで、巨きい浪のうねりが遥かの沖から黒い腹を膨らませたり凹ませたりしながら寄せて来ては岸から二丁ばかりのところで浪の頭から見る見る白い雪頽(なだれ)と成って崩れ落ちちるかと思うと、更に岸破(がば)と身を起して互いに衝ち合う恐ろしい力にたがいに砕け、浪と渦(あわ)とのめまぐるしい塊りを汀へ向けて揉(も)みにもみ寄せていた。

「壮(さか)んだなあ」と龍之介君が言いつゞける。

「泳げるかしら?」

「なあに泳げるさ」

「じゃあ直ぐにおよごう」と衣服(きもの)を脱いで裸に成ると「少々壮快すぎるようだね」と龍之介君が弱音を吐いた。

 白い髪毛をみだした頭を狂わしげに振り立てながら海のうえをまっしぐらに寄せて来る浪を汀に立ってにらむと大分臍(ほぞ)寒い気がしたが、なあにと思って双手(もろて)をあげて入って行った。

 浪が寄せると共に底を蹴って跳びあがりながら肩まで深さのある所に来ると、身体を浮かせて浪に向って抜き手を切る。目のまえ一間ばかりのところで崩れた浪が巨きい口を開けて頭のうえに落ちかかる。右手を高くあげながら浪を潜ると、浪は僕の身体を水の凹(くぼ)みに残した儘更に勇躍して、磯ばたへ向って打寄せて行った。

 すなおに巻いて折れて進んで行く浪は度し易いがぐじゃぐじゃに砕けて雪頽(なだ)れて行く浪は中々厄介で、そのぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には、身体が水の中でぐるぐるっと旋回する。夢中にもがいて浪の面に浮きあがると潮っからい水が鼻の孔から口のなかへ流れ通して、喉の奥がひりひりといたむ。

 斯うして次第に泳いで沖に出ると浪は巨きくうねりを打っているけれど巻いたり折れたりしない。海が深い胸でいきづく鼓動にまかせて浪と共に浮きしずむ快さは一寸外に比壽(たぐい)がないような気がする。

 頭のうえには潮(うしお)の気を一杯に含んだ風が嶮しい岸の岩山を蔽う草木の緑を慕っていさんで吹いて行く身体の下には海が暗い神秘の生(いのち)をひそめてふかしぎの踊りを止み間も無くおどり続けている……大空と、海とそのあいだに真(まこと)の悦びと自由とが原始人の感じたまゝのフレシュネッスを帯びて揺(ただよ)っていることを知る。

                (八月十日)

 

[やぶちゃん注:冒頭に言っておくと、御存じの方も多かろうが、芥川龍之介は水泳が非常に得意であった。彼は正(まさ)しく河童であったのである。

「佐陀川(さだがわ)」宍道湖の北東部と日本海沿岸の恵曇(えとも:ここ(グーグル・マップ・データ))を結ぶ人工河川。全長約八・三キロメートル、川幅約三十六メートル。天明五(一七八五)年、松江藩普請奉行清原太兵衛の建議により、藩主松平治郷(はるさと)が施工、難工事の末。二年後に完成した。城下町松江を水害から守ることと(宍道湖の増水調整)、宍道湖沿岸の諸港と恵曇間の舟運を実現することを目的とし、沿岸に新田も造成された。現在、一級河川に指定されているが、舟運と排水能力はない(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」に拠る)。底本後注には『昭和初期まで小型蒸気船が往来していた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水澄(みずみ)さん」「泰(ゆう)ちゃん」不詳。井川の郷里の年長の友人や歳下の幼馴染みか。

「十丁」約一キロ九十一メートル。

「足下」「あしもと」と訓じていよう。

「太郎さん」不詳。やはり井川の年長の友人か。「かろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した」とあるところからは親族とは私には思えない。だとしても、それほど縁の近いそれではあるまい。

「古浦」現在の島根県松江市鹿島町古浦。以下に示す古浦海水浴場は、ここ(グーグル・マップ・データ)。底本後注には田山花袋の「新撰名勝地誌」(明治四五(一九一二)年博文館刊。花袋はこの手の旅行案内書風のものをかなり多量に手掛けている。但し、東京や近郊の鎌倉などのものはいいとしても(それらは所持していて読んだ)、大部の本シリーズ(全国)などを管見するに、これはもう、梗概部をちょっと監修しただけで、主要な細目部分は総て、現地の識者に丸投げしている疑いが濃厚である)の「山陰道之部」の一部が引かれてあるが、ここではその引用部分を、国立国会図書館デジタルコレクションの当該原書の当該箇所の画像を視認して、電子化し示す。頭の太字は原文では傍点「●」。原典画像を見て戴ければ判るが、ルビには複数箇所に不審があり、敢えて示さなかった箇所がある。

   *

惠曇海水浴場 朝日山(あさひざん)を背面に下れば、古浦(こうら)に至るべし。惠曇(ゑぐも)灣深く陸地に侵入して古浦江角の漁村灣頭に連り、佐陀川(さだがは)、その中央に注ぎ、西端を古浦海水浴場、東隅を江角海水浴場とす。白砂靑松の好避暑地なり。而も、地は松江を距(さ)ること二里半、佐陀川より和船の便(びん)あり。またこの地に島根縣水産試驗場を置く。[やぶちゃん注:以下、原典では「出雲風土記」原文を引くが、略す。]

   *

「二丁」二百十八メートル。

「岸破(がば)」オノマトペイアに、洒落た漢字を当て字している。

「衝ち合う」「うちあう」と当て訓しているか。

「渦(あわ)」ママ。誤字ではなく、当て訓ととっておく。雰囲気は判る。後の「ぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には」も「あわ」と読むことになる。これも雰囲気は判るし、意味としては自然である。

「臍(ほぞ)寒い」聴かない成句であるが、「臍を嚙む」を捩じって「心底」「ひどく」の意か。或いは「ほぞ」には江戸時代より、男根の隠語として用いられるから、金玉がきゅっと縮むほどに寒いの意とも採れる気が私はした。

「一間」一・八メートル。

「比壽(たぐい)」「壽」はママ(「寿」ではなく、正字で示されてある)。しかし、こんな熟語もこんな当て訓も私は知らない。小学館の「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。

「フレシュネッス」freshness。新しさ・新鮮味・清々しさ・生き生きした感覚。

「八月十日」松江着から五日後。芥川龍之介の松江滞在は正味十六日間に及んだ。]

2018/01/17

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十四」 / 芥川龍之介「日記より」(その一)

 

    十四

 

    日記より

               芥川 龍之介

 松江へ来て、先自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縦横に貫いてゐる川の水と其川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流の多い都市は独(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其処に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鉄橋を架けてしかも其醜い鉄橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波旧全集版「松江印象記」では「の」に変えられてある。]一つに数へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版画家によつて、屡々其構図に利用せられた靑銅の擬宝珠(ぎぼしゆ)を以て主要なる装飾としてゐた一事は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜悪なる鉄の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人もこれに対してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出来るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の実利主義は全国に亘(わた)つて、此大いなる中世の城楼を、何の容赦もなく破壊した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壊も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである。今日に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壊者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に伝へむとする天主閣の数は、僅に十指を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を数え[やぶちゃん注:ママ。]得る事を、松江の人々の為に心から祝したいと思ふ。さうして芦と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に与へた物は満足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない訳にはゆかなかつた。否、独(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鉄網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帯びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鋳造の材料として積重ねてあるのも見ない訳にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鋳たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壊する必要が何処にあらう。まして其目的は、芸術的価値に於て卑しかる可き区々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる為であるとすれば、かくの如き無細工な石垣の築造は、其風趣を害する点に於て、正しく当初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に対して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機会を待つて語らうと思ふ。

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

    十四

 

日記より

   芥川 龍之介

 

       一

 

 松江へ來て、先(まづ)自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縱橫に貫いてゐる川の水と其(その)川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流(かりう)の多い都市は獨(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其處に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鐵橋を架けてしかも其醜い鐵橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波全集版では「の」に変えられてある。]一つに數へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版畫家によつて、屢々(しばしば)其構圖に利用せられた靑銅の擬寶珠(ぎぼしゆ[やぶちゃん注:全集版は「ぎぼし」。])を以て主要なる裝飾としてゐた一事(いちじ)は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬寶珠を、灰色を帶びた綠の水の上に望み得た懷しさは事新しく此處に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜惡なる鐵の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡來と共に、はるばる南蠻から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人(なんびと)もこれに對してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出來るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の實利主義は全國に亙(わた)つて、此大いなる中世の城樓を、何の容赦もなく破壞した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壞も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に參與した薩長土肥(さつちやうどひ)の足輕輩(はい)に理解せらる可く、餘りに大いなる藝術の作品であるからである。今日(こんにち)に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壞者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に傳へむとする天主閣の數(かず)は、僅に十指(じつし)を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を數へ得る事を、松江の人々の爲に心から祝したいと思ふ。さうして蘆と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に與へた物は滿足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない譯にはゆかなかつた。否、獨(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鐵網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帶びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鑄造の材料として積重ねてあるのも見ない譯にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鑄(い)たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壞する必要が何處にあらう。まして其目的は、藝術的價値に於て卑しかる可き區々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島[やぶちゃん注:「ケ」は全角。以下同様。これは全集版も同じ。]の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる爲であるとすれば、かくの如き無細工(ぶざいく)な石垣の築造は、其風趣を害する點に於て、正(まさ)しく當初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁(せきたいをう)をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に對して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸(さいはひ)にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機會を待つて語らうと思ふ。

   *

「櫛形鉄橋」普通はこれは、橋脚が有意に数多く配されてあって、恰もそれが櫛のように見える(短い橋が何本も繋がって長い一本の橋のようになっているかのように見える)鉄橋を指す。芥川龍之介の憂鬱の中にあるのは、恐らくは明治三七(一九〇四)年(芥川龍之介十二歳)に木橋から鉄橋へ架け替えられてしまった、彼の幼年期の思い出の中にあった両国橋(但し、現在ある位置より二十メートルほど下流で、厳密にはそれは櫛形鉄橋ではなく、曲弦トラス三連桁橋である)への郷愁であろうと思われる。或いは龍之介はトラス構造の方を「櫛形」と言っているように私は感ずる。確かにあれは、河川の景観に骨のように蟠った怪物のように醜く、私ははなはだ厭だ。

「古日本(こにつぽん)の版画家」江戸時代の浮世絵師を指していよう。

「大橋」固有名詞。現在の島根県道二六一号母衣町雑賀町線上にある大橋川に架かる橋。「松江大橋」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この時、芥川龍之介が見た「大橋」は最早、木橋ではないので注意が必要である。大橋は明治二四(一八九一)年にまさに龍之介の嫌悪する異様なトラス橋に架け替えられ(この橋と古い木橋のそれとを比較した小泉八雲(当時はまだラフカディオ・ハーン)は『しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた』と述べている。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』を参照されたい)、その後、明治四四(一九一一)年に鋼桁橋となった際、橋上が曾ての木橋のような擬宝珠を持ったものに擬似復元されたものであるウィキの「大橋(大橋川)」の記載からの推定)。

の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄も「神橋」現在の栃木県日光市上鉢石町山内の日光東照宮への参道に架橋されている、これ(グーグル・マップ・データ)。この橋は神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用されたもので、現在も一般人に通行は出来ず、一般参詣者や観光客は少し下流にある日光橋を通行する。これ(グーグル・ストリートビュー。向うに見えるのが「神橋」で、手前の何の変哲もないつまらぬ橋が龍之介の言う「醜悪なる鉄の釣橋」の後継橋である「日光橋」)。

「千鳥城」松江城の別称。既に登場しているが、ここで注しておく。講談社の「日本の城がわかる事典」によれば、松江城は『島根県松江市殿町にあった平山城(ひらやまじろ)』で、『江戸時代初期に幕府の山陰側の拠点として築かれた』。『関ヶ原の戦いの戦功により』、『出雲・隠岐』二十四『万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして』、慶長七(一六〇七)年『に松江の亀田山に築城を開始した。松江城が完成したのは』慶長一六(一六一一)年で五『層六重の天守閣を中心に』六『基の櫓(やぐら)を構えた近世城郭である。天守の鉄砲狭間(てっぽうはざま)、軒裏の石落とし、地階には籠城用の大井戸や兵糧蔵など、実戦を想定して築城されたことが随所にみられる。堀尾氏は』三『代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが』、『嫡子がなく断絶』、寛永一五(一六三八)年に『信州松本から松平直政』『が入封し』、以後は松平氏が十代二百三十年間に亙って居城し、『明治維新まで続いた』。明治八(一八七五)年に『有志らの奔走で天守閣は解体を免れたが、それ以外は取り払われてしまった。現存する天守閣の中で、姫路城、松本城、松江城だけが』五『層の天守閣を持っている。旧態をよく残し、山陰地方における代表的な近世城郭として国史跡に指定され、天守閣は国の重要文化財に指定された。天守、石垣、土塁』、『櫓台、堀などの遺構が整備され、発掘調査などをもとに』二〇〇一年には、『南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元された』とある。

「天主閣」高さは本丸地上より約三十メートルで、天守台上からは二十二・四メートル。

「天主閣は其名を示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物である」この芥川龍之介が断言するカトリックの「天主」が起源とするという天主閣(天守閣)の呼称の由来説は、その一つに過ぎず(織田信長が最初に命名したというのも一仮説の域に過ぎない。但し、天守閣様の構造物が城に造立されるようになるのは室町末期からではある)、決して定説ではないので注意。日本の「驚く可き」文化「同化力」を賞揚しようとする龍之介の一つの方便としては上手いとは言える。

「エキゾテイツク」exotic。異国の情緒や雰囲気のあるさま。異国的の。異国風の。

「天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである」この「可(べ)く」は「べくもないような」「べきものでは到底ないほどに」、則ち、「維新にヨイショした勤皇派の薩摩・長門(長州)・土佐・肥前(佐賀)の、そうした最下級の足軽ふぜいに理解出来るようなレベルの低い(薩長土肥の足軽の方々、御免なさい)ものではない」という特殊な用法である。

「日本の騎士時代」本邦の戦国以来の武士の時代を指すが、そこを敢えて「騎士」としたのは天守閣「天主」由来説をやはりサイドから賞揚するためである。

「偶像破壊者(アイコノクラスト)」iconoclast。原義は聖像(偶像)破壊者で、八~九世紀の東ヨーロッパのカトリック教会で起こった、聖人の画像礼拝の習慣を打破しようとした人々を指し、後に広く因襲打破を唱える因襲打破主義者を指す。元はギリシャ語由来。

「松平直政」徳川家康の孫であった松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)は上総姉ヶ崎藩主・越前大野藩主・信濃松本藩主を経て、出雲松江藩初代藩主として寛永一五(一六三八)年二月十一日、出雲松江十八万六千石及び隠岐一万四千石を代理統治へ加増移封されて国持大名となった。参照したウィキの「松平直政」によれば、『直政は』松江藩『領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい』とあるが、芥川龍之介の天守閣=天主説にはあんまり都合がよくないから、黙っておいた方がいいかしら?

「昭代(せうだい)」(現代仮名遣「しょうだい」)は前の「泰平」と同義。「よく治まっていて栄えている世の中・太平の世」の意。

「区々(くく)たる」小さくて、採るに足らないつまらぬ様子を言う。

「嫁ケ島」(よめがしま。現行は「嫁ヶ島」と表記)は島根県松江市嫁島町の西約二百メートルに位置する宍道湖唯一の島。全長百十メートル、幅約三十メートル、周囲二百四十メートルの小さな島で、約千二百万年前に噴出した玄武岩の溶岩から成る無人島である。参照したウィキの「嫁ヶ島」によれば、『島には弁財天を祀る竹生島神社の祠』(慶長一六(一六一一)年に堀尾氏第二代藩主堀尾忠晴が祭った)と鳥居(明治四〇(一九〇七)年に『琵琶湖疏水設計者の田辺朔朗が寄進)があり』、『周囲には松が植わっている』。昭和一〇(一九三五)年には松江出身の前内閣総理大臣『若槻礼次郎が数本の松しかなかった島に』二十『本の松の苗を植樹し』ている。現在は(芥川龍之介が嫌悪した)『消波ブロックとして、如泥石(松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる円柱形の来待石)で島の周囲が固められている』とある。『島の名は伝説(嫁ヶ島伝説)によるが、この伝説には姑にいじめられた嫁が湖で水死した際に水神が浮き上がらせたとする伝説など』、『いくつかの悲しい伝説が残されている』。「出雲國風土記」の意宇郡(おうのこおり)の『条においては「蚊島」と表記されて』おり、『当時は周囲が約』百十メートル『と今の半分ほどの大きさで、島の中央には径』七~八センチメートルほどしかない『木が一本生え』ているだけで、磯には『貝や海草が見られたとある』。夕陽の美しい『スポットとして知られて』いる。『島に続く東側の湖底には』、『周囲より少し高くなった水中参道があるが』、『江戸時代初期までは対岸の袖師に連続した玄武岩の岬があり、松江城築造に伴う石材として掘削され岬がなくなったと伝えられていることから』、『玄武岩の掘削跡による浅瀬である可能性もある』という。『松江城創建者の堀尾吉晴が天守閣からの眺めに感動して』、『嫁ヶ島を「湖中の一勝地なり」と評したのをはじめ、水郷松江のシンボルとして文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきた』。『松江市都市計画部都市景観課職員によると、松江城から嫁ヶ島を眺める線上には高い建物を建ててはならないという不文律があるという』。『大正初期に如泥石が防波堤として置かれた際には恒藤恭が新聞紙上で「この湖の礼儀にかなわぬ無作法漢」、「』四、五『本の松が小さな祠を護り、白い砂浜のはてに青葦が波に揺れる様こそ趣があった」、「やさしい島の面影が滅びてしまった」と批判』、『芥川龍之介も、「松江印象記」のなかで宍道湖の美しい景観を壊すものとして如泥石の防波堤を批判した』と、ここにまで井川と芥川のコンビとこの龍之介の文章までもが登場しているのが、すこぶる嬉しい! 『作家の丸谷才一も嫁ヶ島越しに見る宍道湖の落日美を「純粋に審美的な風景美」と評し、山崎正和も国内でも稀な「眺めるためにだけある島」であることを指摘し、吉田兼好の言葉を借りて「田舎の人はそばに行って手で触ったり足で踏んだりしないと納得しないが、その意味において都会的センスのある島」と述べ、丸谷、山崎両者ともに松江が洗練された趣味の町である証しとして、人があまり近づかなかった当時の嫁ヶ島の在り方を高く評価した』とある。

「一幅淞波誰剪取 春潮痕似嫁時衣」歴史的仮名遣で書き下すと、

 

 一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せんしゆ)せん

 春潮(しゆんてう)の痕(あと)は似たり 嫁時(かじ)の衣(い)

 

で、これは底本の後注によれば、永坂石埭(ながさかせきたい)(後注参照)が『松江の漢詩結社』であった「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」『の求めに応じて』結社名を巧みに詠み込んで『作った七言絶句「碧雲湖棹歌」の転結句』とある。そこに起承句が示されてあるので、全体を以下に示し、自己流で訓読する。

 

  碧雲湖棹歌

 美人不見碧雲飛

 惆悵湖山入夕暉

 一幅淞波誰剪取

 春潮痕似嫁時衣

   碧雲湖棹の歌

  美人見えず 碧雲 飛ぶ

  惆悵(ちうちやう)す 湖山の夕暉(せきき)に入るるを

  一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せつしゆ)するか

  春潮の痕(こん) 似たり 嫁時(かじ)の衣(きぬ)に

 

「碧雲湖棹の歌」の「碧雲湖」とは宍道湖の雅名で、そこに「棹(さおさ)すの歌」の謂い。……「美人」は先の悲劇の伝承の入水した「嫁」であり、「惆悵す」は「恨み歎く」、「湖山」は宍道湖とそれを取り囲む山並み、「夕暉」は夕陽(ゆうひ)、「淞波」は江蘇省の太湖から、長江に流れる淞江(呉淞江)の景勝(+結社名)に掛けたもので、当地松江をそれに擬え、宍道湖の松江に寄せる「波」としたものであろうと読む。しかもそれを「一幅」の山水画に譬えた趣向だろう、そうして「淞」から「松」で、その枝を「剪」る(+結社名の掛詞)、則ち、一幅の絵として全体からそれを切り「取」ることは――いや、あまりの美しさ故に出来ぬ――というのではないか? さても――春の潮の満ち引く、その浪の白い「痕」(あと)は、あたかも、嘗てここへ花「嫁」御寮(ごりょう)として幸せな思いで参った、悲劇の彼女の嫁入りの衣裳に似ているではないか――勝手な解釈であるからして、大方の御叱正を俟つ。

「石埭翁」医師で書家・漢詩人として知られた永坂石埭(弘化二(一八四五)年~大正一三(一九二四)年八月:本名は永坂周二。芥川龍之介は前年に亡くなった彼へのオマージュとしてこれを出しているのでもあろう)。尾張国名古屋出身。森春濤・鷲津毅堂に詩を学び、春濤門下の四天王に数えられた。明治七(一八七四)年頃に上京、神田お玉ケ池の梁川星巌旧居址に居を構え、「玉池仙館」と称して医業を開業した。書に巧みで、「石埭流」の名を恣(ほしいまま)にした(以上は日外アソシエーツの「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

2018/01/16

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――

 

    十三

 

 毎日々々空が群青(ぐんじょう)色に深く晴れて雨を降らす法をまったく忘れて仕舞ったように憎らしい程澄み切った天が涯無く頭のうえに拡がっている七月の末ごろであった。東京から友人の龍之介君が手紙をよこした。

「……事故の起らない限り八月一日二日位に東京をたとうと思う。八月上旬は僕が毎年東京を出る時になっているのである」と書いて、その後に歌を七つ八つ添えてあった。

 その歌のなかに「こちごちのこゞしき山ゆ雲出でて驟雨(はやち)するとき出雲に入らむ」というのがあった。

 湖水で泳いでいると海の潮水と一緒に入って来た海月がふわりふわり泛んで居り、家の裏のお濠の水まで潮が来て朝起きて見ると鮒が四つも五つも腹を出して死にかゝつているってな案配で、「一と雨さあっと降って来たらどんなにか爽快だろう!」と空を仰いでは渇望していたころであったから、「ほんとうに龍之介君が来る日には雨をふらせてすゞしい目に遭わせてやり度いな」と思いながらその手紙をもとの如く巻いて封筒におさめた。

 やがて八月に成った。二日午後に東京を出た端書には「明三日午後三時五分東京駅発……五日午前九時八分城崎発、午后四時十九分松江着」と旅程が記してあった。

 四日の朝僕は郵便局へ行って、其日のあさ京都を出た列車に乗っている筈の友人に宛て、「アスレイジ四七フンハツニセヨヘンマツ」と云う電報を打った。夕方には城崎に下りた彼から折返し返電があって承知した旨を知らして来た。

 わざわざそんな面倒な手続を踏んで夕方に松江に着く都合にさせたのには一とかどの理由があった。第一には、すべて人は最初の印象(ファースト イムプレッション)に支配される力が強い。僕は自分の生まれた土地として此松江に対して或る程度の愛着の念を有(も)っている。だからこの未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった。

 次にはすゞしい夕ぐれに湖を西へ西へと彼を載せた舟を棹さしながらこの春品川で別れて以来溜っているたく山の聞き度いこと、話したいことを聞きもし話しもし度いと思っていた――その事自身の中にロマンチックな或るものが含まれているような気がして、ぜひ夕方でなくちゃあと云う考えを更につよくした。

 四日の晩(く)れ方にうつくしい虹が城山の杜のうえにかゝつた。

 五日の朝起きて見ると天気はがらり変って、滅茶々々の暴風雨(おおしけ)に成っていた。草木は一夜のうちに溌溂(はつらつ)とした緑りのいろを蘇らせ、お濠の水は雨の足に叩かれて爽かに鳴っていた。

 一と月近くも待ちに待った雨は斯うして勢い猛く襲って来た。久し振りに気がせいせいしたけれど、天気の奴に見事に裏切りされた様な気がしてばかに腹立たしかった。

 風も雨も終日(いちにち)しぶき続けた。

 友も舟に迎えてゆうぐれの湖を漕いで行くと云う計画は、それに伴わせてこゝろの中にゆめみていたROMANTIC NUANCEと共に痕跡(あとかた)も無く現実の面(おもて)から消え失せた。

 その夕かた、会ったら先ず「君の歌があまり利きすぎたようだぜ」と言ってやろうかなど心の内に考えながら独り雨のなかを停車場をさして友を迎えに出た。

 附言――この次には彼の松江印象記を紹介し度いと思う。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べたが、芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊した。井川恭が来訪を切に慫慂した大きな理由の一つは、芥川龍之介の吉田弥生への失恋の大きな傷手を癒さんがためでもあった。

 少し長くなるが、ここで改めて、吉田弥生との破恋について述べておく必要があろう。芥川龍之介を愛好する者にとっては彼女の名とその失恋事件は自明のことであろうが、それを語らないのは不特定多数の私の読者への注としては、如何にも不公平であるからである。

 吉田弥生は芥川龍之介の本格的な初恋の相手で、同年の幼馴染み(実家新原(にいはら)家の近所)であった。彼女の父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた。当時、東京帝国大学英吉利文学科一年であった芥川龍之介(満二十二歳)は、大正三(一九一四)年七月二十日頃から八月二十三日まで、友人らとともに千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら、海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度、この頃、縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対し、龍之介は二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家一族の猛反対に遇い、翌年二月頃に破局を迎えることとなる。反対の核心は、吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系であった)、弥生が同年齢であったこと等が、その主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があったことが大きい)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正四(一九一五)年四月二十日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。その四月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をした、ともある。鷺只雄氏は一九九二年河出書房新社刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。この失恋は芥川龍之介生涯のトラウマとなった事件であり、まさに龍之介の諸作品の核心のテーマであるエゴイズムの淵源であり、後年の龍之介の女性遍歴(不倫)の根っこも、私は、この忘れ難い失恋体験の消去不能な記憶と、それに纏わるところの親族を中核とした癒し難い強烈な人間不信にあると分析している。因みに、正に、この弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、その避暑から帰った直後の大正三(一九一四)年九月一日発行の『新思潮』に発表した「青年と死と」である(リンク先は私の古い電子テクスト。この吉田弥生についての解説もそこで私が注したものを下敷きとした)。

 さて次に、非常に長くなるが(芥川龍之介の井川宛書簡の一通当たりの分量が特異的に多いため)、以下、松江へと旅立つまでの、現存する井川宛書簡を電子化することで、ここの注に代えたいと思う。因みに、短歌の頭の「こちごちのこゞしき」とは「そこここの、ごつごつと重なり合って嶮(けわ)しい」という意である。また、「ROMANTIC NUANCE」の文字は縦書である。

 電子化する書簡は、岩波版旧全集書簡番号で一六五・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上、総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までとする。底本は無論、岩波版旧全集を使用した。頭に岩波版旧全集書簡番号を振った。踊り字「〱」は正字化した。一部、あまりに読み難いと判断して私が字空けを施した箇所がある。先え進めなくなるので、語注は一切なしとした。

   *   *   *

一六五

(六月二十九日(推定)・田端発信)

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど 試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻室  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

毎日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が横濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの[やぶちゃん注:この「の」には底本では右手にママ表記有り。]一しよに持つて行つてしまつた 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャップをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 学校へ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして 豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に封しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解繹して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣りの段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつほとぼつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉強しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉強する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな來がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカツッエンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフォーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに Novel weak としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千寓な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに組合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給へワアグネルだ」つて教へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山官學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に[やぶちゃん注:底本は「に」の右にママ注記する。]捧げて東京をしのぶよすがとする

      一

   うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも[やぶちゃん注:底本は歌の末尾にママ注記。]

      二

   あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

   庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

      三

   藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

      四

   うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

   流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

      五

   思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

   これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

   *

一六六

(七月十一日・田端発信)

手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい

今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごprosaic な用があるのだから困る

三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ

藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄[やぶちゃん注:底本、右にママ注記。]へ上つた

成瀬はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の温泉へ思索にゆくさうだ

 

但馬の何とか温泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹緲としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと樂な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい一體江戸つ子と云ふものは 旅なれないものだからね

出まかせに詩をかく[やぶちゃん注:次の冒頭の一行、底本は「ゝ」の右にママ注記をする。第二連の文句から下に「に」が脱落していると考えてよい。]

      Ⅰ

   こゝあはれはドンホアン

   紅いマントをひきかけて

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   市のおと女は窓のかげ

   戸のうしろからそつとみて

   こはやこはやとさゞめけど

   一どみそめた面ざしは

   終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭

   なりひゞくまでわすられぬ――

   こひとおそれの摩訶不思儀[やぶちゃん注:「儀」はママ。]

 

   ドミニカ法師の云ふことにや

   羊の趾爪(けづめ)犬の牙

   地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が

   紅いマントの下にゐて

   市のおと女を一人づゝ

   こひの難機(はぢき)につりよせる――

   こゝにあはれはドンホアン

   心もほそく身もほそく

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   こひとおそれの摩訶不風儀――

 

      Ⅱ

   月輪は七つ

   日輪は十一

   その光にてらされて

   のそのそとあるいてく

   きりん 白象 一角獸(ウニコール)

   地にさくのは百合と牡丹

   空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア

   山は 靑い三角形をならべ

   その下に弓なりの海

   海には 金の雲が下りて

   その中にあそぶ赤龍白龍

   岸には 綠靑の栴檀木

   その下にねころぶパン人魚セントオル

   月輪は七つ

   日輪は十一

   荒唐の國のまひるを

   のそのそとあるいてく

   東洋は日本の靑年

 

      Ⅲ

   われは今桃花心木の倚子の上に

   不可思儀の卷煙艸をくゆらす

   その匂と味とは ものうき我をかりて

   あるひは 屋根うらのランプの下に

   あるひは ノオトルダアムの石像の上に

   あるひは 若葉せるプラターヌの

   ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)

   あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と

   そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)

   あるひは へロヂアスの娘の饗宴に

   あるひはジアンダルクの火刑に

   ほしいまゝなる步みをはこばしむ

   不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは

   わがオノーレ ド バルザックの語なり

 

  井川君

   *

一六八

(七月二十一日・消印七月二十六日・書簡内クレジット/七月二十一日・田端発信)

出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出至るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚ほかかなければならない 考へてもいやになる

出雲は涼しいかね 東京の暑さは非常なものだ 大抵九十度以上になる裸でじつと橫になつてゐても汗がだらだらでる だから弱つた事も一通りではない これで二十何時間も汽車へのつてゐたら茹りはしないかなどゝ思ふ 兎に角出雲へゆく迄の間が大分暑さうだが今をはづすと一寸行く行く機會もないだらうと思ふから事故の起らない限り八月一日か二日位に東京をたたうと思ふ 八月上旬は僕が每年東京を出る時になつてゐるのである

實はしばらく手紙なかつたので或は都合が惡くなつたのかと思つて中途半ばな心配も少しした、

何にしてもかう暑くつてはやり切れないから用のすみ次第出たいと思ふ その爲に呉々も出雲の湖水の上のすゞしからむ事を祈る

   八雲たつ出雲の國ゆ雲いでて天ぎらふらむ西の曇れる

   はろかなる出雲の國ゆ天津風ふきおこすらむ領巾(ひれ)なす白雲

   そのむかし出雲乙女あ紅の領巾(ひれ)ふりふりて人や招(ま)ぎけむ

   紅の領巾ふる子さへ見えずなりて今あが船は韓國に入る

   いづちゆく天の日矛ぞ日の下に目路のかぎりを海たゝへけり

   こちごちのこゞしき山ゆ雲いでて驟雨するとき出雲に入らむ

   その上の因幡の國の白兎いまも住むらむ氣多の砂山

    七月廿一日

   井川君 案下

   *

一六九

(消印七月二十九日・自筆絵葉書)

 

Akutaigawaehagaki

 

差支へさへなければ三日に東京をたつ

五日には松江へゆけるだらう

よろしく御ねがひ申します

   *

一七〇

(八月二日・田端発信・葉書)

明三日午後三時廿分東京驛發

四日午前五時廿七分京都驛着

〃 〃 七時廿分  〃 發

〃 午前十一時卅九分城崎着(一泊)

五日午前九時八分  〃 發

〃 午後四時十九分松江着

大體右の如き豫定にてゆくべく候 匆々

   *

一七一

(八月六日 松江より・芥川道章宛・絵葉書)

松江へ安着いたしましたから御安心下さいまし

汽車の中では天氣が惡かつたおかげで少しも暑い思をしずにすみました

松江は川の多い靜な町で所々に昔の土塀がそのまゝのこつてゐます 雨の中を井川君と車で通つた時にその土塀の上に向日葵の黃色い花のさいてゐるのが見えました

井川君の家は御濠の前で外へ出ると御天主が頭の上に見えます

   *   *   *

「その後に歌を七つ八つ添えてあった」前に示した「書簡一六八」であるが、実際にはご覧の通り、短歌は全部で七首である。

「この未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった」底本の後注に、先行する『井川恭「松江美論」』(『松陽新報』(大正二(一九一三)年八月発行)に掲載)『には、次の一節がある』として引用がある。そのまま引く。

   《引用開始》

若し旅人が、日暮れて停車場につき、和多見裏から小舟をやとって、大橋の橋影黒く水に砕け、ほそ眉の月の光り銀砂をこぼす頃、大橋川を横ぎって東の水門を潜り、両岸の灯水に落ちては、夜の静けさに泣き暮れる京橋川をさかのぼって、一夜の宿を求め、

   《引用終了》

ここにはまさに当時の井川の内的なロマンティシズムが横溢しており、それを傷心の親友に見せたかった優しさが痛いほど伝わってくるではないか。

「この春品川で別れて以来」底本の後注には、『大正三年四月上旬、失恋の痛手を受けて「僕はどうすればいゝのかわからない」と言い送ってきた芥川を慰めるために上京している』(正確には「いゝのだか」。後の電子化した書簡を参照)とあるのだが、この大正三年というのはまさにこの松江訪問の前、大正四(一九一五)年四月の誤りである。最新の新全集の宮坂覺年譜には何故か記されていないが、先に示した鷺只雄年譜には、大正四年四月の条に『上旬の春休み中』、『恒藤』(井川)『恭が芥川家に滞在する』と明記されているからであり(太字下線はやぶちゃん)、ここで記されている井川宛書簡も旧全集書簡番号一五二で、それは大正四年三月九日発信のものだからである。この書簡は非常に重要なものであるから、やはり、ここで電子化しておく。田端発信で「直披」(親展)の書簡である。

   *

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたることは出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出來ない イゴイズムの愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ

僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

君はおちついて画[やぶちゃん注:ママ。「畫」ではない。]をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を淺墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

毎日不愉快な事が必起る 人と喧嘩しさうでいけない 當分は誰ともうつかり話せない そのくせさびしくつて仕方がない 馬鹿馬鹿しい程センチメンタルになる事もある どこかへ旅行でもしやうかと思ふ 何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

    三月九日            龍

   井川君

   *

こんな手紙を親友から貰ったなら、私のような男でも何としても何かしてやりたくなる。

 

「松江印象記」現在、全集類で芥川龍之介の「翡翠記」の龍之介の記載部分だけを抜いて一つに纏めたそれの標題として用いられているそれは、実はここで初めて井川が記したものであり、それはあくまでも井川が説明するために使用した、一般名詞としての松江来訪の印象記、の謂いなのである。なお、底本の後注には『因みに、ピエール・ロチの『日本印象記』は、前年大正三年十二月の刊行である』という附言がある。確かに、井川はそれを意識した可能性はあるかも知れぬ。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十二」

 

    十二

 

 いろんな作物が勢い好くそだっている中学校の農園の横を降(くだ)り奥谷(おくだに)へ出て萬寿寺の石磴(いしだん)をのぼった。

 本堂には義兄(あに)と、中学に出ている二人の子と、義兄の兄さんにあたる人とが先着していた。義兄と其兄さんにあたる人とは帷子(かたびら)のうえに絽(ろ)の羽織をきて袴をさばいて座って扇子をつかいながら話していた。誰もの顔にはかるい倦怠のこゝろもちが見えていた。[やぶちゃん注:ルビ「かたびら」の漢字は底本では「惟子」であるが、これは誤字と断じて、特異的に「帷子」に訂した。]

 本堂の中は冷いやりとしていた。こんな法会の席に来てお寺の本堂に悠(ゆっ)くり座りこむような事はかなり久し振りであった。恐らく三四年まえ東京で叔父が死んだ時、谷中の寺で寒かぜの吹く日に坊さんたちがお経をよむのを聴いたとき以来の久しさのように想われた。正面の本尊の周囲(まわり)の暗がりに光っているさまざまの金具の形象(かたち)だの眉間(びかん)にかゝげてある十六羅漢の原始的な貌(かお)だの、経文をのせた机の煤けた色だのがながい間わすれていた釈門(しゃくもん)の教の哀しさを懐かしむこゝろを喚びさました。

 お寺もいゝな………と思いながら広い畳のうえに眼の向く所をすべらせながら扇をつかいはじめた。

 この本堂の中では時間は誰の心持にも拘泥せずに出来るだけ悠揚(ゆっくり)と移ってゆくように想われた。それで僕もじきに退屈の仲間入をした。何辺(なんべん)も山門の下から真直に向うに続いている町をながめるけれど待っている俥の影らしいものは見えなんだ。

 でもその内六つになる子供を膝に載せて姉が乗って来た俥が山門の下で止った。子供は俥の上の窮屈さから解放されて愉快そうに小さい手を振りながら山門から本堂の方へあゆんで来た。

 やっと法会が始まる段取りとなった。ずんぐり肥った若い僧が大きい太鼓の縁と胴とをかわるがわる撥(ばち)で叩いて、から、から、から、どん、どどんと鳴らし始めると、今までの寺の中の静寂が四方へ散らばって仕舞って誰も顔から倦怠のいろが消え失せた。

 凸凹した頭、尖った頭、円い頭とさまざまの頭の所有者たる坊さんと小僧とが濁(だ)みた声澄んだ声を合せて経を読みはじめた。肥った若い僧も大きい太鼓を本堂の片隅に閑却した儘ほかの坊さんたちの席に加わって鐃鉢(にょうはち)と鉦(かね)とをちゃんぽんに鳴らしはじめた。

 読経が或る段落まで進んで行ったとき坊さんたちの活動は俄(にわか)に生気を加えた………坊さんたちは合唱の声を続けながら頭を畳に摺り付けて仏の容(すがた)を礼拝しては腰を延ばして起ち上った。たち上ったかと思うと菩薩や梵天の名前を一つ宛(ずつ)唱えては復た膝を折って跪(ひざまず)き頭をひれ伏して礼拝した。

 諸天諸界の隈々(くまぐま)に住みたまう仏の数が限り無いと等しく其立ったり座ったりの繰返しも果しが無かった。でもやっとそれが済むと今度はぐるりぐるり仏の前を廻りながらお経をうたいつゞけた。眇眼(びょうがん)の小僧が高く経文をさゝげながらきいろい声を張り上げて唱(うた)うのが一きわ耳についた。

 祀(まつ)られるのは此夏の始め鎌倉で亡くなったSさんの霊魂であった。Sさんはかあいそうな人であった。一年志願の兵役を果した後東京で学校にはいっている間に病気にかゝつて転地して往った先ではかなく成った。

 Sさんはすなおな性質(たち)で、ついぞ腹を立てた顔を見せたことは無かった。人の好かったSさんは彼(か)の世ではきっと上品(じょうぼん)に生れて、悦(たの)しい世界に逍遥することが出来るに相違あるまい。それから坊さん達が果しなく長い読経をつゞけても決して退屈な顔をする事などは無く、いつ迄も従容(ゆうよう)として聴いていることだろうと想われた。

 

[やぶちゃん注:「鐃鉢(にょうはち)」葬儀や法事の際に用いる打楽器。銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。

「眇眼(びょうがん)」片方の目が不自由なこと。眇目(びょうもく)。眇(すがめ)。

「従容(ゆうよう)」ルビは「しょうよう」の誤り。「悠揚」と勘違いしたものと思われる。ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十一」

 

    十一

 

 松江に帰ってから四五日目の朝であった。親類の死人の四十九日の法事に参列する為萬寿寺(まんじゅじ)をさして家(うち)を出て行った。

 未だ少し時刻が早退ぎるだろうと云うので北堀の町から左へ折れて中学校に寄って見ることにした。

 暑い白けた日光(ひざし)が裸かな赤土の上にひかって居て、正門までの坂路の両側に生えている山ざくらの並木の梢を見上げるにも何んとなく心懶(こころう)い日和であった。

 僕の頭の中には、嘗て其坂みちを毎朝登って行かねばならなんだ頃に刻み付けられた印象がぼんやり浮んだ。多くの物はその当時の悌(おもかげ)を依然として眼の前に開展していた。併しまた自然に或は人為に由(よつ)て変ったものも少くなかった。

 目立って変ったのは坂の上に記念館が出来たことであった。坂の両側に生えている山桜の並木もいちじるしく幹が太り枝葉が茂りを加えた。突当たりの芝生に蔽われた傾斜面にはふしだらに小松の群れが丈を伸ばし、坂の右側には何軒も家が建ちつづいてそこいらが賑かになった。

 ぼんやりして居る(それ故によりうつくしく思われるところの)過去の印象と、眼の前に明るい日光の下(もと)に一切を露(さら)けている現実とを心の裡に比べて見………それから嘗て此坂を登って行った自分のすがたを考え、一緒に連れて来た今三年生に成っている弟のことを考えて、過去と現在とを隔てゝいる「時(たいむ)」の長さを具体的に意識しようと試みた。[やぶちゃん注:ルビ「たいむ」の平仮名はママ。]

 けれどその意識の内容はいちじるしく不安定なものであった。例えば魔術師がはっと懸け声をして隻手(かたて)をあげる間に、過去が廻れ右をして其背中からひょっくり現在が顔をのぞけたのだと云う様な気もするし、そうかと思うと二つの「時」が渡る事の不可能なほど広い深い水の淵を距てゝ顔を見合せているんだってな気もした。

 僕たちはことことと、坂を登って行った。弟は記念館に就いて若干の説明を与えた。僕は背延びをしてその向いにある生徒控所の窓から内部を覗いて見た。がらんとした天井とがらんとした石段の床とが何よりもなつかしかった……僕の頭の中に在る過去の世界そのものが薄暗いそこの空間に拡っている様に想われたから。[やぶちゃん注:段落冒頭は底本では「僕たちはこと、ことと坂を登って行った」となっている。松江中学へ向かう坂を「ことと坂」と呼んだかどうか、ネットで検索しても出てこないから、この読点は衍字(記号)か錯字(記号)と断じ、特異的にかく移動させた。万一、『殊、「ことと坂」を』が正しいのであれば、ご連絡を戴きたい。早急に復帰させる。

 そこの石板(いしはん)の上に立ちながら汚ないテーブルの上に弁当をのせて、湯で温めた飯を掻き込んだ記憶が真っ先に心にうかんだ。冬の日の寒さにかじけた手に持つ箸の先から黒豆の煮ころばしが幾つもいくつもころころ落ちて行く形がふしぎな鮮明かさをもって記憶の中から飛び出して来た。ひそかに苦笑しながら僕はその窓の下をはなれた。[やぶちゃん注:「いしはん」(「いしばん」でなくて)はママ。]

 ひろい運動場の土の面はからりと乾燥いていて何物も眼を遮るものは無かった。それを越して向うには遥かな山や野や水やのかたちが透明な空気のなかに揺(ただよ)うていた。

 朝早く登校して、ズボンの衣嚢(かくし)に両手を突込みながら靴の尖(さき)をかろくあげて、うすい朝霧を透かして旭の光が射して来る其グラウンドのうえを一方の端から一方のはしへとあても無くあるいて行った時の屈託の無い心持を再び味わうことの為ならばもう一返この古びた校舎が与える束縛の中へ後がえりをしても好いなと思った。

 

[やぶちゃん注:「萬寿寺」現在の島根県松江市奥谷町にある臨済宗の寺院。(グーグル・マップ・データ)。

「中学校」現在の松江市奥谷町の、小泉八雲も教壇に立った旧「松江中学校」。井川が在学して頃は「島根県立第一中学校」であったが、彼が卒業した翌年の明治四〇(一九〇七)年四月に「島根県立松江中学校」と改称していた。現在の島根県立松江北高等学校。(グーグル・マップ・データ)。

「記念館」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十」

 

     

 

 細かな雨がかすれかすれに糸の緒を曳いて降る静かな日には仰向けに臥転びながらひとり書をよむ。向いの家で機を織る梭(おさ)の音(ね)が悠長にひびいて来る。平常は朝から日暮まで歌いつゞける鴬が雨のふる日はジッと黙っていて、時偶(ときたま)杜の茂みからほがらかな囀りをこゝろみる許りである。気のせいか其声が悲しく沈んでいるようにきこえる。

 仏蘭西(ふらんす)の詩人の詩集を頁の開いた所から順序なく誦(よ)んでゆく。わかるのもある。解らないのもある。そんな事には頓着しないでよんでゆく。その中からひとつ二つ訳して見ようと思う。

 

  青白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく

              スチュアル・メリル

 残(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる

 なが膝の上に青白き我額を置く

 あはれ、秋のをんなよ

 幽愁(うれひ)の時の壊(くず)ほれゆく前にこそ

 我らはかたみに恋をせめ!

 憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる

 なが指のはたらきの優さしさ!

 いまわれは悲しく王をば夢む

 さはあれ、なんぢは

 眼をあげてうたへよかし

 黄金の兜せる国王が

 妃の足下(あしもと)にひれ伏して

 命はかなくなりしてふ

 古き世の歌謡(うた)の悲しき節もて

 わがたましいを揺(ゆ)りしづめよ

 なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに

 うもれて死なばやと

 我れはねがふ

 うばひ去られし王国を

 ふたゝびわが手におめむため

 

 

  おもひ出

              アンリドレニエ

微睡(まどろむ)む池のをもてに

水葦がおのゝいてゐる

眼に見えぬ鳥の

ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに

ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ

息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく

涯も無い野のうねりの上に

月は青じろい光りをそゝぎ

風はみどりの叢(くさむら)のかをりを

艸のはなのかをりを

絶え間もなく吹きおくる

けれども夜の底には

泉の水が嘆きうたひ

慄(ふる)へる胸のなかには

古い恋ごゝろがめざめてゐる

そのよるの悲しく愛しい思ひ出は

過去の深みからうかび出て

遠い方からくちびるのうへに

恋のさゝやきが響いてくる

 

[やぶちゃん注:作者名は底本ではもっと下であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上げてある。最初の訳詩の最終行「おめむ」は「をさめむ」ための誤りのように思われるが、原文を確認出来ないのでママとした。ともかくも以上は、特異的に正字化して、原文に近づけたものを以下に示す。「アンリドレニエ」は中黒を打った。

   *

 

  靑白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく

  

              スチュアル・メリル

  

 殘(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる

 なが膝の上に靑白き我額を置く

 あはれ、秋のをんなよ

 幽愁(うれひ)の時の壞(くず)ほれゆく前にこそ

 我らはかたみに戀をせめ!

 憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる

 なが指のはたらきの優さしさ!

 いまわれは悲しく王をば夢む

 さはあれ、なんぢは

 眼をあげてうたへよかし

 黃金の兜せる國王が

 妃の足下(あしもと)にひれ伏して

 命はかなくなりしてふ

 古き世の歌謠(うた)の悲しき節もて

 わがたましいを搖(ゆ)りしづめよ

 なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに

 うもれて死なばやと

 我れはねがふ

 うばひ去られし王國を

 ふたゝびわが手におめむため

 

   *

 

  おもひ出

 

              アンリ・ド・レニエ

 

微睡(まどろむ)む池のをもてに

水葦がおのゝいてゐる

眼に見えぬ鳥の

ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに

ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ

息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく

涯も無い野のうねりの上に

月は靑じろい光りをそゝぎ

風はみどりの叢(くさむら)のかをりを

艸のはなのかをりを

絶え間もなく吹きおくる

けれども夜の底には

泉の水が嘆きうたひ

慄(ふる)へる胸のなかには

古い戀ごゝろがめざめてゐる

そのよるの悲しく愛しい思ひ出は

過去の深みからうかび出て

遠い方からくちびるのうへに

戀のさゝやきが響いてくる

 

   *

「スチュアル・メリル」アメリカ合衆国ニューヨーク州ヘンプステッド生まれのアメリカ人の詩人スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三 年~一九一五年(フランス・ヴェルサイユ))。パリでルネ・ギルなどと親交を結び、一八八六年に一度、アメリカへ帰って、コロンビア大学で律法を学んだが、詩作に耽り、一八八七年に詩集「音階」を発表、二年後には、再度、パリへ赴き、以後はそこに定住してフランス語を以って詠む詩人としての道を歩んだ。当初は高踏派やヴェルレーヌなどの影響を受け、わざとらしい調和や絢爛たるイマージュを求める傾向があったが、やがて繊細な自由詩による象徴詩に転じた(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。

「アンリドレニエ」アンリ・ド・レニエ(Henri de Régnier 一八六四 年~一九三六年)はフランスの詩人で小説家。北フランスのオンフルールに貴族の末裔として生まれた。外交官志望を断念して詩作に転じた。造形美術的な詩法を学び、マラルメの火曜会の重要メンバーとなって音楽的な詩法を会得、高踏派と象徴主義派を合わせた詩風であったが、後に新古典主義へと移った。憂愁にして豪奢な詩と評され、永井荷風が私淑していたことでも知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「九」

 

     

 

 午後に成って日が西へまわると、庭に落ちている屋根の影が次第に伸びて行って濠の水のうえに落ちるように成る。

 濠の向い岸には何百年のあいだ其処に立っているらしい古いふるいたぶの木や椎の木やが思う存分丈を伸ばして曲りくねった枝をさし交している。浅みどりの葉、茶がかったいろの葉、暗緑色の葉、それが円味を帯びた塊りとなって枝ごとに茂り拡っている。[やぶちゃん注:「丈を」は底本では「丈をを」となっているが、流石に衍字と見て、特異的に「を」を一字、除去した。]

 日光がその上にそゝぐと濃かな樹々の緑りは一斉にかゞやいて、その儘うつくしい緑りの影を濠の水の上に落す。いくら風のおだやかな日でも昼間は水の面に皺立つ漣(さざなみ)が絶えないので、樹々の影は天鷲絨(びろうど)の模様みたように柔らかくけばだって映る。

 頸のまわりだけが紅くて残りは深黒な羽に身を蔽うているかいつぶりが何時も一羽か二羽かそこいらの水の上に泛んでいる。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。次の段落のそれも同じ。]

 ながいあいだ沈黙をまもりながら水のうえにじっと浮んでいるその小さい水鳥がやがてピロ、ピロ、ピロと鈴を振るような声をふるわせて四辺(あたり)の寂莫を破るかと思うと、つと頸をすくめて頭から水の中へもぐつて行く。…………跡には水の環がそのもぐって行ったところを中心にして静かに拡がって行き、水の面(おもて)に映された樹々のみどりの影がゆらりゆらりとみだれ揺(ゆら)ぐ。

 ひろがって行った水の環のつながりが向うの岸にとゞいて、更に反動をつくつて静かに寄せかえす頃には鳥は三四間はなれたあなたの水ぎわの茅(かや)の葉のあいだに浮び出て、そこでまたピロ、ピロ、ピロと清(すず)しげに啼く。

 水のふちに下りて蹲踞(しゃが)んで水の中を覗くとそこにはさまざまの水棲の動物が各自思いのまゝの生活を展開している。

 瓢軽(ひょうきん)な水馬(みずすまし)の群れが数知れず沢山に浮んでいてひょいひょいと跳びながら水の上をすべって行くので水の面は雨がふり注ぐ様にさゝれ立って見える。短気で楽天家のまいまいつむりがくる、くる、くると目眩(めまぐる)しく回転する。暗褐色の石の蔭に沈んでいて折々つっつと水の底をはしる沙魚(ごす)の物に怖じるような陰険そうな振舞いや、分不相応に長い手にうす汚ない藻くずのくっついたのを伸ばしながらのさばり歩く老いぼれの長手蝦の図々しさや、かあいらしい鰭を振り尾を振って浮き藻のあいだを潜(くぐ)りくゞつて泳いで行く目高の罪のない活発さや…………みんなその個性の趨(おもむ)くところに従って生活の不可思議を追い求めている。

 午睡(ひるね)のゆめを貪ったのち茫然(ぼんやり)さめた頃には、日は全く西へまわり、濠の水は鏡の面の様に透徹して些かの凹凸も無く、そのうえに映る艸木(くさき)のみどりの影は珠を鏤(あつ)めて張ったように玲(ほがら)かに澄み切る。

 懶(ものう)い眼をはっきり醒ます為井戸端へ顔を洗いに来ると、少しはなれた河岸に生えている櫨(はじ)の木の水にさし出た枝のうえに一羽の翡翠(かわせみ)が棲まっていて静かに水のなかを窺っている。

 と、身を跳らして水のなかに潜り入り、たちまち復た魚を啣(くわ)えておどり出て、つうつうと暗きながら彼方の樹の茂みを指して翔(かけ)って行く。[やぶちゃん注:「啣(くわ)えて」の「啣」は実は底本では「喞」であるが、これは「かこつ」の意であって、「くわえる」の意はない。されば誤字と断じて、特異的に訂した。]

 宝石の光りの貴とさを持っている色沢(つや)うつくしい瑠璃いろの翅(つばさ)がひらりと閃(ひらめ)かせるかと思うと早や暗い樹の蔭にその鳥のかたちは隠れてしまう。うつくしい人が懐かしい眸をちらと見せてすぐと消え失せたときのように、幻影のひかりがこゝろの中をはゞたいて通り過ぎる。

 

[やぶちゃん注:「まいまいつむり」「短気で楽天家」であって「くる、くる、くると目眩(めまぐる)しく回転する」という特徴から、私はこれは松江の方言であって、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属するミズスマシ類を指していると考える。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「八」

 

      

 

   4 Nの手紙  その一

   …………………………………………

 僕の生活は只もう平穏無事です。

 兄(けい)のお言葉の通りあれ程恐ろしい響を僕の頭の中に伝えた岩元さんと云う文字でさえ幾度繰り返して見ましても今は何等の反響をも起しませぬ。

 毎日母の手料理を並べた一つ卓(つくえ)に皆して向った時はあの恐ろしい賄い征伐の喧噪も十世紀も廿世紀も昔の音として僕の耳底のどこやら一部分に少しばかり止って居る位のもの、僕の心には只幸福の穏かな波のみ打ち寄せ只静かな恵の風のみ吹いてまいります。

 然し今や独りで黙想するといった様な時間は著しく減じました。井川君、霊の船は暴風激浪を侵して突進する時には決して顛覆の憂(うれい)は無くて反って静穏な港の中で自ら沈没してしまう事は無いでしょうか―此んな事が時々思い浮べられます。然し僕は此の港内に泊って居る間に破れた部分を修繕し十分の休養を積んで再び大海の激浪中に乗り出す準備を怠らぬ様にする考です。

 此の頃の月はどうです。今晩は確か日待ちでしょう。僕は毎晩浜辺を訪れます。

 虫の鳴いて居る小路を辿って月見草の中を分けながら砂丘を上り松林の間をくゞつて渚に出ますと、其処には潮のひいたあとが黒く残って居ます。西の方には新城(しんじょう)の岬がつき出して東には大山の鼻が静に黙して横たわって居ます。遥か沖には夜釣りするかゞり火が二つ三つ宛(ずつ)群をなしてかすかにチラツイて居るのが見られます。僕は砂の上に腰をおろします。

 幾匹とも知れぬ銀の龍が背を連らね列をなして沖の方からウネウネうねって来ます。と、忽ち響く轟きと共にそこら一面に起る真っ白な涌き立つ雲の中に姿をかくして脚下を襲ってまいります。

 僕の心は此の音を耳にし此のさまを目にして居(お)る間に遠いとおい国へ導かれます。そして幾時をすごした後に静かに立ってしめった砂地を踏みしめて寂しい足跡を残しながら家路につきます。

 

   4 Nの手紙 その二

   …………………………………………

 僕の四囲は至って静かです。然し此頃何故か僕の内部は静かで無い事が多う御座ります。いたましい程醜悪な自分の姿がまざまざ目の前につき出されて居る事を感じない時はすくなう御座ります。罪の感が次第に痛切になります。自分の一度犯した罪は終に消える可きもので無いと考えてふるいおのゝく事も御座ります。

 僕は此頃自分の著しく傲慢である事を思います。自分で此れは謙遜な行為だと感じて居る時の人の傲慢ほど甚しい傲慢が世にありましょうか。

 然しかすかながらも光は胸の中にさして居る様です。生命の泉は草深くうずもれた中にかすかな音をたてゝ涌いて居るのを感じます。

…………………略…………………

 以上はA君、Ⅰ君、F君、N君の四人からよこした沢山の手紙の中からえらんだ僅かなパッセージである。

 その選び方が僕の目的に対して妥当なものであったか如何(どう)かは僕の知る所で無い。

 又この四人の友人が各自に異った個性を持っている如く、僕とかれ等との間にもいちじるしい性格の相違がある事は明らかである。たゞいろいろの場合に於て、またいろいろの物に対してA君と僕との考え方や感じ方が一致する傾向が強かったことも事実である。

 

[やぶちゃん注::前にした通り、「N」は井川(恒藤)と同じく、京都帝国大学法科大学を卒業後、教育者となり、最後は京都市立美術大学学長に就任した長崎太郎である。彼は高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)の出身である。

「岩元さん」岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)。一高のドイツ語及び哲学担当の教授。士族の長男として鹿児島県に生まれ、明治二二(一八八九)年に鹿児島高等中学造士館を卒業後、明治二十四年に第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科を卒業し、明治二十七年の東京帝国大学文科大学哲学科(ラファエル・フォン・ケーベルに師事)卒業後は、大学院に在籍しつつ、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。明治三二(一八九九)年から第一高等学校でドイツ語を教えたが、極めて採点が厳しい名物教授として知られ、安倍能成や山本有三らは、岩元の採点によって落第の憂き目を見た学生であった。学習院高等科時代の志賀直哉に家庭教師としてドイツ語を教えていたこともあったという。一高では、哲学の授業も担当し、授業の冒頭で述べ、且つ、教科書の表紙に書かれていた自身の言葉に「哲學は吾人の有限を以て宇宙を包括せんとする企圖なり」がある。著書に「哲学概論」(没後の編)がある。以上は彼のウィキに拠った。そこでも一説としてあるが、岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」にも、かの夏目『漱石の「三四郎」の広田先生のモデルとされる』とある。]

「新城(しんじょう)の岬」高知県安芸市穴内乙新城がある((グーグル・マップ・データ))が、岬ではない。困った。郷土史家の御教授を乞う。

「大山の鼻」現在の高地県安芸市下山新城にある大山岬か。(グーグル・マップ・データ)。

「A君」芥川龍之介。]

芥川龍之介 手帳8 (14) 《8-14/8-15》

《8-14》

○更くる夜を上ぬるみけり鰌汁

[やぶちゃん注:「鰌汁」「どじやうじる」。没後の「澄江堂句集」など、公に知られた表記は「更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁」である。大正一二(一九二三)年から翌年にかけての『にいはり』を初出とし、現存書簡では前年の大正十一年九月八日附真野友次郎(旧全集書簡番号一〇六九。芥川龍之介の普通人の愛読者の一人であるが、龍之介はかなり書簡のやりとりをしている)宛にまさに「泥鰌汁」ではなく、この「鰌汁」で初出する。無論、旧作の覚書とすることも出来るが、この初出時期を重視するならば、新全集の「後記」が本「手帳8」の記載推定時期を大正一三(一九二四)年から晩年にかけてと推定するその上限は絶対のものとは必ずしも言えなくなる気がする。]

 

30越した女(子供をおいて放す)兩乳はり卒倒す 旅人乳をすひすくふ(腦貧血) 旅人は弟の生まれるまでに間ありし故 乳の吸ひ方を知る 男女共春情を催す

○英語の教師 英語をやらねば出世せぬと云ふ 生徒思ふ 先生は如何

○永山が山口重春の二十四孝(錦畫)を五圓(古本屋)にかひ永見へ四十圓に賣る

[やぶちゃん注:「永山」後の「永見」(後注参照)から考えると、これは長崎県立長崎図書館初代館長として切支丹文献や対外貿易史料の収集に勤めたことで知られる永山時英(慶応三(一八六七)年~昭和一〇(一九三五)年)ではあるまいか。

「山口重春」柳斎重春(りゅうさいしげはる 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は大坂の浮世絵師。肥前国長崎鍛治町の商家山口善右衛門(屋号「大島屋」)の次男。俗称は山口甚次郎。

「二十四孝」浄瑠璃「本朝廿四孝」(時代物。五段。近松半二他に成る合作。明和三(一七六六)年、大坂竹本座で初演。「甲陽軍鑑」に取材し、中国の二十四孝の故事を配したもの)の芝居絵か。

「永見」永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛・竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた人物である(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎」、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の「真昼の銅座巡遊記」を参照した)。大正八(一九一九)年の龍之介の長崎行の際に宿を提供して以来、親しく交わった。]

 

○會社にて寫眞帖を出しその中の女を世話し話をまとめる

○豪傑

 神風連 種田少將の書生營兵司令(軍曹) 會津藩士 顏の肉を削らる 褌にて卷く 閑院宮殿下の檢閲 中隊長として blow wind 日淸戰爭前 陸軍中佐 日露役の時後備 70歳退役

《8-15》

○聯隊長を打つ 昇進を中止せしむ 上申までには及ばず

○北淸事件凱旋 廣島の宿屋 少佐(豫備)――義兄 少將――義弟 アア五郎かワレは何時ついた? コツチヘ來い コツチへ來い――ウン昨日宇品へついた ウンユキンムの爲一泊した 少將兄扱ひす

Meckel をなぐる(榊原と) 講評(圖上假設演習)の時 Meckel に叱らる German tactics は愚なりと叫び Meckel を打つ 少尉頃 停職

○貔子窩 日淸役 聯隊長ひけと云ふ 孤山より玉來る故 鞭にて聯隊長を打つ(お前の知るコトか) 岩上燒飯と梅干を食ふ 玉來る 倒る 飯をさがす

[やぶちゃん注:「○豪傑」以降、以上までは一連のものと判断する。

「神風連」明治九(一八七六)年十月二十四日に熊本市で発生した明治政府に対する士族反乱の一つである神風連(しんぷうれん)の乱。ウィキの「神風連の乱」によれば、『旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約』百七十『名によって結成された「敬神党」』(旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった勤皇党の一派)『により、廃刀令に反対して起こされた反乱』で、『この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれている、同日『深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明』(後注参照)『宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか』、『県庁役人』四『名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし』、『翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難した』後、『自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した』。『敬神党側の死者・自刃者は、計』百二十四名で、残りの約五十名は『捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約』六十名に及び、負傷者は約二百名であった。『この反乱は、秩禄処分』(明治政府が明治九(一八七六)年に実施した秩禄(華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称)給与の全廃政策。経過措置として公債が支給されたものの、支配層がほぼ無抵抗のままに既得権を失ったという点では世界史的にも稀な例とされる。ここはウィキの「秩禄処分」に拠った)『や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる』とある。

「種田少將」陸軍少将種田政明(天保八(一八三七)年~明治九(一八七六)年)。ウィキの「種田政明」より引く。旧薩摩藩士。『鹿児島城下の高麗町で生まれ』、文久二(一八六二)年、『島津久光の上洛に従い、中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した』。『戦後、薩摩藩常備隊』二『番隊長を経て』、明治四(一八七一)年、『御親兵大隊長として上京。兵部省に出仕し、兵部権大丞、兵部少丞を歴任』、翌年の『陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し』た後、明治六年に『陸軍少将となった』。『東京鎮台司令長官を経て』(明治九年、『熊本鎮台司令長官に就任。陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹』(くにもと)『と並ぶ人物であった。桐野等と異なり』、『官僚としての力量もあり』、『明治六年』の『政変で西郷等が下野した後は』、『必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあったが』、この『神風連の乱で妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ』、『殺害された』。『派手好き女好きで』、『盛んに色町に出入りし』、「花の左門様」(左門は彼の通称)と『囃されていた。また熊本においても妾である小勝と共に小間使いの女を妾とし、両手に花と喜んでいたという』。『小勝は事件後、東京の両親に「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」との電報を打ち、当時の人気ジャーナリスト仮名垣魯文が』、『その下に「代わりたいぞえ、国のため」とつけて『仮名読新聞』に載せたことから有名になった』。『傷の養生のため』、『日奈久温泉に滞在。西南戦争の際には他の』五~六『人の女性と共に熊本城に篭城した』。『小勝の打った電報は、「語簡にして意深く」と称賛された。また、下の句を作る者が続出するなど』、『流行語にもなった。川上音二郎一座が電報文を題名にした芝居を上演しており、内容はひどいものであったが、題名のおかげで客入りは良かったという』とある。

「閑院宮殿下」閑院宮載仁親王(ことひとしんのう 慶応元(一八六五)年~昭和二〇(一九四五)年)は皇族で陸軍軍人(元帥陸軍大将大勲位功一級)・日本赤十字社総裁。ウィキの「閑院宮載仁親王」によれば、伏見宮邦家親王第十六王子。『後継のいなくなった閑院宮を継ぎ』、第六代当主となり、明治三三(一九〇〇)年『以後から第二次世界大戦終了直前まで』、『皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物であ』った。『日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した』とある。

blow wind」「羽振りを利かせる」の謂いであろうが、英語に疎いけれど、英語ではこうは言わないのではないか? Influential とか great deal of influence とはあるが?

「北淸事件」北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。

「ウンユキンム」運輸勤務。

Meckel」プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人で、明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いたクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 一八四二年~一九〇六年)。参照したウィキの「クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル」によれば、明治一八(一八八五)年三月に来日、陸軍大学校教官となり、参謀将校の養成を担当した。『メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の』一『期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の』十『人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく』、『希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め』、『様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した』という。三年間、『日本に滞在した後』、明治二十一年三月にドイツへ帰国した。

「榊原」後の陸軍中将榊原昇造(さかきばら しょうぞう 安政六(一八五九)年~昭和一五(一九四〇)年)か。そもそもがここに書かれた人物の名前が記されていないので、よく判らぬ。この人物を御存じの方、是非、御連絡を乞う

German tactics」ドイツ流戦術法。

「貔子窩」「ひしか」と読む。遼寧省の遼東半島東南部、現在の大連市普蘭店区(旧皮口鎮)にある皮口街道。ここは現在、新石器時代の遺跡があることで知られる。(グーグル・マップ・データ)。

「孤山」(グーグル・マップ・データ)。]

 

○村幸の話 妻齒醫者と通ず 子供の空氣銃にて打ちし穴より覗く 二人立ち來るけはひ 雨天をわすれ火の見に上る 火事と云ふ ねぼけた事になる 妻湯に入ると云ふ 幸焚きつけんとす 妻勿體ないと云ふ 床へはひり來る

[やぶちゃん注:「村幸」芥川龍之介の輕井澤日記(リンク先は私の電子テクスト)に『村幸主人』と出る、同日記の筑摩全集類聚版脚注(第六巻)に『港区新橋にあった古本屋の主人、村田幸兵衛』とある人物のことであろう。メモが簡略に過ぎ、シチュエーションを想像しにくい。これ、妻に不倫された本人の告白らしく、何だか、異様にその映像が、気になるのである。]

芥川龍之介 手帳8 (13) 《8-13》

《8-13》

○干し草もしめつてゐるや蓮の花

[やぶちゃん注:ここにのみ出る芥川龍之介の俳句。]

 

○二對の lovers あり 一對は關係あり 一對はなし 兩親と談ずる時 前者は成功し後者は失敗す

○遺傳――狂

 重大な Case に狂の爲大事業をす Jeanne d’Arc

[やぶちゃん注:「Jeanne d’Arc」言わずと知れた「オルレアンの乙女(聖処女)」ジャンヌ・ダルク(一四一二年頃~一四三一年)。救国の神託を受けたと信じ、シャルル七世に上申していれられ、イギリス軍を破ってオルレアンの包囲を解いたが、後にイギリス軍に捕らえられ、ルーアンで異端として火刑に処せられた。凡そ五百年後の一九二〇年にやっとローマ教皇庁により聖女に列せられている。彼女の狂人説は当時からあった。]

ブログ・アクセス1050000突破記念 梅崎春生 葬式饅頭

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月号『新潮』に発表された。

 底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 「勝味」は「かちみ」で勝ち目と同じ。

 「金壺眼」とは落ちくぼんでいて丸い目のこと。

 「ワクドウ」ネットの天草方言集の中に()、ポルトガル語“wakudo”由来で、「蝦蟇(がま)」「蟇蛙(ひきがえる)」(そういえば、そこに記載されている英語の“toad”も発音が似ているように思える)の意とある。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1050000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年1月16日 藪野直史】]

 

 

   葬式饅頭

 

 寺内孝治の席が、二日前から空席になっていた。三日目の朝早く、僕が学校に行くと、校門のそばのポプラの木のかげから熊手伍一がぬっと出て来て、僕を呼びとめた。偶然にそこにいたのではなく、僕を待伏せして、ポプラのかげにかくれていたのらしい。

「おい。お前。知ってるか」

「な、なにをだい?」

 熊手に対すると、どうも僕の声はどもり勝ちになる。いじめられまいとして、虚勢を張るせいだ。

「何かあったのか」

「ワクドウが死んだぞ」

「ワクドゥが? ま、またウソをつく!」

 伍一はよくウソをつく癖があって、ウソツキ伍一と言うあだ名がついていた。ことに伍一は僕みたいな体力の弱い者にウソをつき、きりきり舞いをさせて、それを見て楽しむような傾向があった。強い者相手にウソをつくと、報復されるおそれがあるからだ。僕は強(し)いて落着き、わざとにやりと笑って言い返した。

「そうそうだまされてばかりはいないぞ」

「なに。おれがウソをついてるとでも言うのか」

白眼を剝(む)き出すようにして、伍一は詰め寄って来た。見るともう両掌が拳固になっている。僕は逃げ腰になった。向うは身軽だが、こちらはカバンを肩から下げているので、格闘になっても勝味はない。カバンを下げていなくても、先ず先ず勝味はないのだが。

「友達が死んだと言うのに、笑ってもいいのか」

「笑ってやしない」

 飛びかかって来る気配を見せたので、僕はカバンを押え、横っ飛びに飛んで逃げた。力は弱いけれど、脚は僕の方が早い。伍一はとても遅い。運動会の徒競走でも、伍一はいつもビリだ。がに股だから、がたがたして、速く走れないのだ。伍一のお父さんは石屋で、石屋と言っても石塔専門の石屋で、やはりがに股だった。伍一のがに股はお父さんに似たのだろう。

 伍一は僕を追っかけてがたがたと走ったが、途中で走るのを止め、大声で怒鳴った。

「あとからひどい目に合わせてやるからな。覚悟しておれよ」

 その日はまだ五月だと言うのに、むんむんとしてむし暑い日だった。どろりと空気が淀んでいて、校庭の木の葉はそよともそよがなかった。やがて中庭の鐘がカーンカーンと鳴り、授業の一時間目が始まった。それなのに僕らの組担任の富岡先生は、なかなか教室にやって来なかった。だから皆は騒ぎ始めた。十分間ぐらいたって、扉をがたがたと引きあけ、詰襟服を着た富岡先生が、出欠簿をきちんと脇にかかえ、ぬっと姿をあらわしたから、ぴたりとがやがや騒ぎはしずまった。富岡先生が教壇に上ったので、僕は大声で号令をかけた。

「いち。礼。に」

 いち、と言うのは、起立と言うこと。に、とは、着席のことだ。何故僕が叫ぶかと言えば、その時僕は級長だったのだ。

「今日は皆さんに悲しいお知らせをする」

 いつもなら直ぐ出欠薄を開くのに、今日は先生はそうしなかった。詰襟のカラーに指を突込み、いかにも暑そうに、それを拡げる恰好をした。

「寺内孝治君が昨夜、なくなられた」

 カラーに指を突込んだまま、先生は金壺眼(かなつぼまなこ)で皆をぐるぐると見回した。引込んだ下瞼にも、鼻の頭や顎(あご)などにも、先生はぶつぶつと汗をかいていた。出欠簿を机の上に置き、それを開いた。

「病気は盲腸炎だ。皆も用心せんけりゃならん」

 カラーから指を引抜き、先生はうつむいて出席を取り始めた。その隙(すき)に乗じて、前方の席の伍一がふり向き、僕に向って憎々しげにアカンベーをして見せた。僕は知らんふりをしていた。級長ともあろうものが、アカンベーなんかに応じるわけには行かない。

(やはりワクドゥは死んだんだな。ウソじゃなかったんだな)と僕は考えた。(伍一の親父ほ石塔屋だから、ワクドウの親父が石塔を注文に行ったんだろう。だから伍一がそれを知ったのだ)

 寺内孝治の家は魚屋で、ちょっと顔がヒキガエルに似ていて、だからワクドウと言うあだ名がついていた。僕らの地方では、ヒキガエルのことをワクドウと呼ぶのだ。ワクドウは組中で一番背が低く、いつも筒袖の着物で学校に通って来た。その筒袖の着物は、いつもぷんぷんと魚のにおいがした。寺内魚屋で製造するシべツキカマボコはうまかった。店の一番奥に掘抜井戸があり、そこらの薄晴い場所に石臼(うす)が据(す)えられ、石臼の中の魚肉を機械仕組の鉄棒が、ぐっしゃ、ぐっしゃ、とこね回す。これがこね上ると、千切って形をととのえ、ワラシべをまぶし、そのまま一箇十銭のカマボコになるのだ。もうこれからは、寺内魚屋に孝治を誘い出しに行っても、井戸と石臼の間から孝治の姿は出て来ないのだ。そして孝治も、出来上ったカマボコを聯隊(れんたい)に納めに行かなくても済むし、納めに行きたくとももう行けないのだ、と思った時、急に頭の奥が熱くなって、僕は汗を拭くふりをしながら、瞼の上から眼玉を押えていた。その時先生が僕の名を呼んだ。元気よく返事したつもりで、僕の声は甲高くかすれたらしい。先生は出欠薄から眼を上げ、不審げな視線を僕に向けた。僕は恥じて、うつむいた。

 

 しかしワクドウの死は、それほどショックを僕ら級友に与えはしなかった。ワクドウはそれほど級では派手な存在ではなかったからだ。地味で、目立たず、それに勉強もあまり出来なかった。だから僕らは午前中、いつもと余り変らぬ気持で、授業を受けた。

 お昼になった。気温はじりじりと上って、ひどく暑くなった。弁当を開くと、おかずにカマボコが入っていた。お母さんがそのカマボコをどこで買って来たのか知らない。(孝治は昨夜死んだ筈だから)僕はカマボコを嚙みながら思った。(寺内魚屋でカマボコをつくる筈がない。これは他の店のカマボコだろう。だからうまくない)

 昼飯が済むと、僕は教員室に呼ばれた。教員室はいつも煙草のにおいがこもっている。今日放課後、先生と一緒に葬式に行くから、帰らずに待っているように、とのことだった。僕はお辞儀をして、教員室を出た。葬式に行くのはこれが初めてで、葬式に行ってどういうことをするのか、ただじっとしておればいいのか、そこのところがよく判らなかった。判らないままお辞儀をしてしまったのだ。教員室を出て、咽喉が乾いたから、水道の蛇口からがぶがぶと水を飲んでいると、隣の蛇口に熊手伍一がやって来て、同じく水をごくごくと飲み始めた。こんなに暑いと、誰だって咽喉が乾く。

「おい。お前」

 飲み終ると伍一は僕に呼びかけた。

「葬式に行くんだろ。ワクドウの葬式に」

「どうして?」

「お前、今、教員室から出て来たじゃないか」

 ふしぎなことだが、伍一の顔は一瞬おどおどと、不安そうな色を浮べているようだった。でもこれは僕の勘違いで、あまり暑かったからそう見えたのかも知れない。

「先生に呼ばれたんだろ」

「そうだよ」

「葬式に行けと言われたんか」

「まだ判らんよ」

 朝からずっとつきまとっているようで、変にうるさい感じがしたから、僕はつっぱねた。

「じゃ、教員室で、何の話をしたんだい?」

「うるさいなあ。何の話だっていいじゃないか」

「ほら。やっぱり葬式だな」

 伍一は僕の腕を摑(つか)んで、ねつっこい調子でくり返した。

「葬式だ。やっぱり葬式だ。な、お前、葬式に行くんだな」

「そんなに行きたけりゃ――」

 僕は腹を立てて怒鳴った。

「お前も行けばいいじゃないか」

「誰があんなとこに行くものかい」

 伍一は僕の腕をぎゅっとねじ上げた。

「あんな線香くさいとこ、誰が行きたがるもんか」

「行きたくなけりゃ、放っとけばいいじゃないか」

 僕は伍一の手を力をこめて振り払った。

「あんまりしつこくすると、先生に言いつけてやるぞ!」

 只今教員室から出て来たばかりだから、僕のその言葉には実感があったらしい。何時もと違って、伍一は僕に飛びかからず、口惜しげに唇を嚙み、僕をにらむだけだった。その伍一を尻眼にかけて、僕は教室の方に歩いた。

 

 葬式はひどく退屈だった。

 僕は富岡先生と並んで、ござをしいた板の間に坐らせられた。ござの上には、ぎっしりと人が坐っていた。お経は長いこと続いた。永久に続くのかと思われるほど、いつまでも続いた。学校の読方の本なら、大体終りの見当がつくが、お経となるとそうは行かない。僕の前には大人が坐っているから、和尚さんの姿は見えない。だからなおのこと退屈だった。

 退屈だけならいいけれど、足が痛くてつらかった。ござがしいてあっても、もともと板の間だから、板の堅さがごりごりと脛(すね)に当る。葬式だから、あぐらをかくわけには行かない。ちゃんと正座して、膝に手を置いていなければならない。

 隣の富岡先生をぬすみ見ると、先生も青黒い顔を緊張させて、たいへんつらそうだった。子供より大人の方が、体重があるから、その分だけつらいだろう。板の間にぎっしりつまった人々の、身じろぎする度にごりごりと鳴る脛骨の音が、お経の間(あい)の手のように、あちこちで鳴った。

 つらいのは足の痛さだけでなかった。板の間は風通しが悪く、暑さがむんむんとこもり、汗がひっきりなしにしたたり落ちた。大人と違って、ハンカチなんて気の利(き)いたものを、僕は持っていない。掌で拭くより仕方がない。掌が濡れて来たら、あとは上衣の袖口だけだ。汗は拭いても拭いても吹き出した。一番噴出量の多いところは、鼻の両脇とおでこだった。おでこの汗は、油断をすると、玉になって、眼にするりと流れ入った。流れ入ると、眼玉がやけに塩辛かった。塩辛いから、それを薄めるために涙が出る。辛いから涙が出るのか、悲しいから涙が出るのか、よく判らないような気分になり始めた頃から、僕は何となく悲しくなって来たらしい。

(ワクドウよ。死んだお前もつらかろうが、生き残ったおれたちもラクではないぞ)

 気分をごまかすために、僕はそんなことを考えた。

(しかし、お前はまあいいよ。ごりごりの板の間に坐らずにすむし、もう勉強なんかしなくてもいいし、伍一などにもいじめられないし)

 実際ワクドウも、伍一からはよくいじめられた。ワクドウは顔に似ず力は弱いし、勉強は出来ないし、誰だってちょっといじめたくなるような感じの子だった。しかしワクドウは泣き虫じゃなかった。いくらいじめられても、泣かなかった。だから、なおのこといじめられるのだ。泣いてしまえば、いじめは終るので、それではいじめ甲斐がない(お前が死んだんで、いじめ相手が一人減って、伍一もきっと淋しがってるぞ)

 永々と果てしなく続いていたお経が、突然と言った感じで、ふっと終った。樹にとまって啼(な)いていたセミが、とらえてやろうと樹に近づくと、ふっと啼きやめて飛んで行く。それに似ていた。お経が終ると、あたりがちょっとざわめいて、安堵のあまりに汗がひとしきりどっと吹き出した。

 

 ワクドウは白茶けたような顔で、棺の中で死んでいた。閉じた瞼は、青みを帯びていた。僕は先生と並んで棺の前に坐り、先生がする通り頭を下げた。頭を畳にこすりつけた。すりつけたまま先生が頭を上げないので、頭をずらすようにして横眼でうかがうと、先生は突然、ううっ、と言うような声を立てた。そして先生は急いで頭を上げ、右腕を眼に当て、肩をがくがくと上下に動かした。

 先生が泣いているんだと、僕はその時初めて判った。

 先生が泣いてるのに、生徒の僕が泣かないなんて、ちょっと具合が悪いと思ったが、そう思ったせいで、もう涙が出なくなってしまった。眼をばちばちさせて催促したが、どうしても出て来なかった。余儀なく出来るだけ神妙な顔となり、ワクドウの顔ばかりを眺めていた。ワクドウの全身は白布でおおわれ、出ているのは顔だけだった。その顔だけをにらんでいることは、悲しいと言うよりも、苦痛だった。

 早く棺から離れたいと思うのに、先生はまだ泣きやまない。

 

 ずしりと重い紙袋を呉れた。

 それを持って表に出ると、もう夕方になっていた。十間ばかり歩いて、紙袋の中をのぞくと、饅頭が二つ入っている。祝日に学校で貰う饅頭より一回り大きく、平べったかった。色も紅白でなく、表に茶色の焦げ目がつき、葉っぱのような模様が浮き出ていた。僕は唾を呑んだ。夕方だから腹が減っていたのだ。

 いくら腹が減っているとは言え、また人通りが少いとは言え、街中でむしゃむしゃと食えない。葬式の帰りだし、級長がそんな行儀の悪いことは出来ない。

 カバンにしまい込もうかと思ったが、カバンは教科書や筆入れで満員で、入りきれない。

 仕方なくぶらぶらと下げてあるいた。

 ずんずん歩いて、静かな寺町に入ると、うすら夕日の射す道端で、ウソツキ伍一がひとりで淋しそうに、石蹴りをして遊んでいた。ここで伍一なんかに会うのはまずい。別の道に変えようか、と立ち止ったとたん、僕は伍一に見つけられてしまった。伍一は石蹴りを中止し、長い長い影を引きずって、僕の方に大急ぎでかけて来た。砂ぼこりがばたばたと立った。

「葬式、済んだのか」

 つぶつぶ汗の吹き出した顔の、下唇を突き出すようにして、伍一は言った。

「面白かったか」

「面白いわけがあるもんか」

 脛の痛さを思い出して、僕はとげとげしく言い返した。

「お前、待ってたのか」

「何をだ」

「おれをだよ。待伏せしていたのか」

「誰がお前なんかを待伏せするもんかい」

 道にころがった小石を、伍一は溝の方にえいとばかり蹴飛ばした。

「おや。それは何だい」

「何でもないよ」

 紙袋をうしろに僕はかくすようにした。

「貰ったんだよ。饅頭だ」

「なに。饅頭だあ?」

 伍一は僕のカバンの紐をしっかと握った。逃げ出さないためにだ。

「見せろ」

「イヤだ」

 僕はふりほどこうとしたが、伍一の握力が強かったので、失敗に終った。だから仕方なく言った。ここらで手間取ると、帰りが遅くなる。

「では、見せるだけだよ」

 僕は紙袋を出した。伍一は眼を丸くしてのぞき込み、さっきの僕と同じように、ごくりと唾を呑み込んだ。

「すごく大きいなあ。この饅頭は」

「大きいにきまってるよ。葬式饅頭だもん」

 僕は知ったかぶりをした。葬式なんて初めてだから、饅頭の大きさなんか知っているわけがない。

「小さけりゃおかしいよ」

「二つもあるじゃないか」

「あたりまえだ。葬式饅頭だもの」

「二つとも、お前が食べるのか」

 伍一は上目遣いで、じろりと僕を見た。

「二つなんて、ぜいたくだ。一つ、おれに呉れ」

「イヤだよ。おれが貰ったんだから」

「だから、呉れと言ってるんじゃないか」

 要求を拒まれると、むきになってしつこくなる癖が、伍一にはある。

「おれだって、ワクドウの友達だ」

「しかし葬式には行かなかったじゃないか」

「行かなかったから、頼んでるんじゃないか」

 カバンの紐ごと、伍一は僕の身体をがくがくとゆすぶった。

「どうしてもイヤだと言うのか」

「どうしてもイヤだ」

「なに。こんなに頼んでも、イヤだと言うか」

 伍一はいきなり紙袋をひったくろうとした。僕はそうさせまいとした。紙袋が四つの手の間でもつれ、饅頭がころころと空間に飛び出した。あわてて受止めようとしたが、遅かった。饅頭はぼとぼとっと続いて地面に落ち、砂ぼこりの中にころがった。

「あ!」

 伍一もびっくりしたらしい。烏の囁くような声を立てると、そのまま後しざりした。僕と饅頭を七三に見ながら、どもった。

「お、おれのせいじゃないぞ。おれのせいじゃないぞう」

 そのままくるりと背を向けて、伍一はがに股をすっ飛ばして逃げて行った。

 僕は全身汗だらけになって、饅頭を見おろしていた。途方もなく大切なものをこわしたような気分で見おろしていた。どうしたらいいのか。

(拾ってうちへ持って帰って、割って中の饀(あん)だけ食べようか)

  そう考えた次の瞬間、僕はひどく腹が立って、何やかやに対してむちゃくちゃに腹が立って来て、エイ、エイ、とかけ声をかけて、饅頭を次々に溝の中に蹴り込んだ。蹴り込む足の先が、しびれるような気がした。

 

 家に戻ると、帰りの遅いのを心配して、門のところにお婆さんが立って待っていた。僕は孝治の葬式の話をした。お婆さんが聞いた。

「何も貰わなかったのかい」

「いいえ」

 僕はウソをついた。

「何も貰わなかったよ」

「ほんとかね」

 お婆さんはきつい眼をした。僕はうなずいた。葬式饅頭を貰って、途中で食べてしまったのではないか、とお婆さんは疑っているのだ。その証拠にお婆さんは、晩の食事で僕が平常通り食べるかどうか(葬式饅頭を食えば、夕食の量は減るだろう)眼を光らしているようだった。

 そのお婆さんの気持は了解出来るが、どうしてあの伍一が一日中、ワクドウの葬式にばかりこだわっていたかは、今もって判らない。

 

 

ブログ1050000アクセス突破

朝方、うかうかと、井川恭の「翡翠記」の電子化などしているうちに、こんな早朝から誰かがブログを見にきて、あっと言う間に1050000アクセスを突破してしまっていた。これより記念テキストの作成にかかる。

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「七」

 

     

 

   3・Fの手紙

 暑くなったね。今が土用の最盛りだ。君には別にお変りも無いそうで結構々々、僕も例の通りぶらぶら暮して居る。実はもう君から何か便を云って寄越すだろうと待って居た。その待ちあぐんで居た処へ八月一日附けのお手紙が舞込んで来た。久しく君と話をしなかった様に思われるのでとゞろく胸を抑えながらそこにある一文字たりとも逃がすまじと息もつがずに読み耽った。繰り返してまた読んで見た。面と向って話して居る時少しも気付かなかった君のパアソナリチーの或る部分が特別に明るい色彩と輪郭とを以って僕の心に攻め寄せて来る様に思われた。そして僕が堪えがたい苦みとなって涌いて来る、日独学館に居た頃僕の君に対する態度のあまりに余所々々しく親しみに薄かった事を許して呉れ玉え。僕は充分君を尊敬もし愛しもして居た。それだのに僕の頑固なそして遊戯的皮肉な心が知らず知らず僕を駆(か)って、ともすれば君に楯突こうとする様なおそろしい振舞に出さしめるのであった。君よ併しながらかゝる振舞は要するに僕の欠点には相違ないけれど決して僕の真意では無かったのだ。僕自身はも少し物やさしい親みのある人なつこい人間であると心に思って居る。ただそれを巧く―否巧妙でなくとも好い、率直にありのまゝ表現するをなし得ない人間なのである。単に君に対する時のみではない。僕が総ての人に対する態度が斯うである。是は甚だ宜くない。是非改め度いと思っている。

   …………………略…………………

 併しながら僕が巳に大盤石の上に悠然として静座して居るものであるかの様に君が考えるならば、それは大なる誤りである。「否誤りでは無い、どうしてもそう思われる」と主張するならば君は僕の様子のシャインのみを見たものである。僕には君と類を異にした(異ってないかも知れないが)不安があり煩悶がある。その込み入り方を比較するには及ぶまい。人は到底他人を完全に理解する事は出来ないものであるから(他人のみでは無い、自分自身の理解すら覚束ないが)僕は敢て自ら落付きのない心の浪立ち騒げるものであるぞと述べるのではない。これは「事実」の爲め「相互了解」の爲一言したまでである。

   …………………略…………………

 休暇になってから早や長い日日(ひにち)が経過した。故郷も今や僕に取っては淋しい場所である。竹馬の友と云うのは名のみ、嫁をもらい人の子の親となって炎天の下に汗を流して働いて居る彼等を見る時、古い記憶を呼び起して僅かに感ずる懐しみの情も殊更丁重な挨拶をされ或は見てみぬ振をされると忽ち物悲しい淋しさに変る。道で人に出会う毎に「お早う」とか「今日は」とか挨拶をせねばならぬ、そこに田舎の――故郷の面白味もあるけれども、時とすると嫌で堪らなくなり「あゝ一そのこと誰も知る人の居ない所に住んでみたい」と思うこともある。

 毎朝起きると僕は川へ出掛けて行く。川は僕の家から一町許りある。碧玉を溶いた様な水が緩かに流れてところどころ浅瀬にかゝると岩の間と球ずれの音のようにさゞめき流れている。僕は衣物をぬいで飛び込む。一分間許りもじっと浸って居ると、気持ちの好い寒さが毛穴の一つ一つから内臓にまで伝って心のネジがキリリキリリと引しめられる様に覚える。水から上ると透明な気分が透明な空気と空と野との間に限りなく広って心は白から勇み立ってくる。

 

[やぶちゃん注:「F」、石田幹之助の手紙の三つ目。

「日独学館」富坂にあった大正二(一九一三)年に作られた日独学館学生寮か。しかし、同年に彼らは第一高等学校第一部文科を卒業しているから、寮ではなく、ドイツ語塾と考えるべきか。

「シャイン」shine。「人格上の明るい側面」の意。

「故郷」石田の故郷は現在の千葉県千葉市内。]

2018/01/15

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「六」

 

     

 

  2・Iの手紙   その一

 御手紙拝見しました。

「心残りなく見物したまえ。されど見ぬ所をば残したまえ」と、うれしき御心添有りがとうございます。はからずも自分の胸と同じ響きを君から聞く事の出来たのを嬉しく存じます。十日廿日の旅にさえ、こんな心の涌(わ)くものを、この人生の旅空で未だ見ぬものゝ尽くる日があったら其はどんなに口惜しい事でしょう。すべてを極め尽した悲みはどれ程でしょう。

 アストロノミイとかエントウイツケルングテオリイとか業々しくもこちたき科学とやらは幾多の夢を破りました。諸々(もろもろ)のウイツセンシヤフトは「未だ見ぬものゝ国」へ侵入してすべてを尽さんとしています。僕は彼女に深い深い恨みがあります。しかも一面に於いてその恨みにも増した大きな恩のあるのを悲しく思います。恩ある姉に冷たい恨みの刃を持して反抗せんとするのがこの上もなくつろうございます。彼女の手はメスを持つドクターの手にもたとえましょうか。メスの一閃は何等かの利益を持ち来す事でしょう。しかし其前提として是非一つの苦みを予想しなければなりません。僕はその苦みを甘んじて忍ぶ事もありました。又恢復を否定して迄も、その苦みを拒みたいと思う事もあります。

 慈悲ある毒手とでも云いましょうか。その手に斃(たお)れた夢や神秘や不可思議や其らに僕は深い同情を寄せます。けれども僕は彼女が「すべてを示す」事は不可能だと信じます。

  ……………略……………

 未だ見ぬ所を残しておく心はやがてこの或るものを慕う心でありましょう。この Das unsichtbare を思う心でしょう。

 ウイツセンシヤフト、其れは右の手を引てくれます。然し左の手をとってくれるものもあるように思われます。それはたゞ思われるだけです。けれども証明の要求は野暮な事だと信じます。勿論それはもはや「神」でもありますまい、「仏」でもありますまい。と云ってベルギーの詩聖がいうミステリイだとも断じますまい。たゞ一つのDas unsichtbare としておきたく思ひます。その姿の心から消えた時、僕は Act のラストシーンに臨まなければなりません。……略……[やぶちゃん注:二つ目の「Das unsichtbare」は底本では「Das v nsichtbare」であるが、こんなドイツ語はなく、単に「u」の誤字或いは底本の誤植と断じ、特異的に訂した。]

   2・Iの手紙[やぶちゃん注:三字下げはママ。]

十八日夜大阪を立ちました。嵐を分けて百五十里、もうとうに都の人となっております。

  ……………略……………

 山のたゝずまい河のささやき、其れはやがて寮の灯をかゝげて楽しく語り合いませう。二十日後が待たれます。ただあの南の国を思わせる巡礼の歌も淋しい紀州から昔ながらの大和路はたとえしもなく嬉しい旅だった事だけをお伝えします。

  ……………………………

 奈良に入りては胸はただ嬉しさに溢るゝのみ。高野の山や生駒山のすがた、大和川の白き河原など車窓の興も尽きざるに、法隆寺に古(いにしえ)の七堂伽藍を訪ねて金堂の壁画に天才が丹精の跡と相対しては様々なる思いにくれてそゞろに「友あらば」と思ひました。仁王門の柱に入った Dorian Order Entasis に古代東西交通の盛を思い、夢殿に聖徳太子を偲びて郡山から草の中を奈良西郊の寺めぐりを始めました。

  ……………………………

 奈良は野辺の名、寺の名からしてなつかしくゆかしき所。唐招提寺、西大寺、秋篠寺と順にめぐつて山陵村より法華寺に出で海龍王寺をたずねました。海龍王寺――――いかにもいゝ名だと思います。唐招提寺と海龍王寺、僕の最も気に入った二つです。生駒山の後に落つる日を送って猿沢の池畔の宿の二階に寝そべった時はもうあたりは暮れて町のともし灯がかゞやきそめる頃でした。

  ……………………………

 

[やぶちゃん注:前にした通り、「I」は後に歴史学者・東洋学者となった石田幹之助。

「アストロノミイ」Astronomie。天文学。以下が明らかにドイツ語であるから、ここもドイツ語の綴りで示した。

「エントウイツケルングテオリイ」Entwickelungs Theorie。進化論。

「業々しく」「ぎょうぎょうしく」。大げさなさま。現行では一般に「仰々しい」と書くが、「仰仰し」(歴史的仮名遣「ぎやうぎやうし」。以下の丸括弧内も同じ)は近世以降の当て字であって、室町時代の表記から見ると「業業(げふげふ)」「凝凝(ぎようぎよう)」「希有希有(げうげう)」などから生じたものと考えられているから、この石田の用法は正しい。因みに、現在の「仰山(ぎょうさん)」の「ぎょう」も同語源とされる。

「こちたき」「言(こと)痛し」の転訛した語。ここは「大袈裟である・物々しい」の意であろう。

「ウイツセンシヤフト」Wissenschaft。元は「学問」の意であるが、ここは「科学」。

Das unsichtbare」音写するなら「ダス・ウンズィヒトバーレ」。「Das」は定冠詞で「Das unsichtbare」は「不可知の対象・性質」であるから、前の「未だ見ぬものゝ国」と同義的か。底本の後注では『目に見えぬ世界』とある。

「僕は彼女に深い深い恨みがあります」「Wissenschaft」(科学)は女性名詞である。

「ベルギーの詩聖がいうミステリイ」不詳。何となく頭に浮かんだのは、世紀末のベルギーの詩人で小説家のジョルジュ・ローデンバック (Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年(フランス))だが、よく判らぬ。詩人の名と引用元を御存じの方の御教授を乞う。

Act のラストシーン」十八世紀までの西洋の殆んどの演劇は五幕物であった。五幕に分けられた。提示部としての第一幕、対立の導入による上昇展開の第二幕、クライマックス(転換点)としての第三幕、それは下降展開・逆転する第四幕、そして大団円・破局・結末の第五幕が配される。喜劇と悲劇によって構成は対称的となるものの、ここで石田が言っているのはカタストロフとしての悲劇のそれと、私は、とる。

Dorian Order Entasis」ドーリア(ドリス)式のエンタシス。ドーリア式は古代ギリシャ建築の柱の様式の一つで、先細りの太い円柱と針形の簡素な柱頭を持ち、礎盤のないことなどを特徴とする。パルテノン神殿それが典型。エンタシスは円柱につけられた微妙な脹らみを持ったそれを指し、建物に視覚的な安定感を与える。ギリシャ・ローマ・ルネサンス建築の外部の柱に用いた。日本では法隆寺金堂の柱などに見られ、「胴張り」などと呼ばれる。

「唐招提寺」(グーグル・マップ・データ)。私のような京都奈良不案内人の注などいるまい。以下は基本、石田の足跡をのみ、地図で辿ることとする。

「西大寺」(グーグル・マップ・データ)。

「秋篠寺」(グーグル・マップ・データ)。

「山陵村」「みささぎむら」と読む。明治二二(一八八九)年四月の町村制の施行により、添下郡押熊村・中山村・歌姫村・秋篠村と合併して「平城村」となった旧村名。現在の奈良市山陵附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「法華寺」(グーグル・マップ・データ)。東北直近に「海龍王寺」がある。私は海龍王寺というと、後の堀辰雄の「十月」(『婦人公論』連載の「大和路・信濃路」の中の昭和一八(一九四三)年一月号初出)を思い出す。当該部は正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅱ)で読まれたい。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 四

 

     

 

 古墳では説明のつかぬ實例は決して是のみでは無い。ある府縣ではすでに水の底からも膳椀を借りていたのである。これも椀貸淵と云ふ名は普通は用いぬが、越中でも蓑谷山の絶頂にある繩池一名家具借の池には同じ話があつた。この池の神は靈蛇であつて、每年七月十五日には美女と化して池の上に出て遊ぶ。ある時貧しき民あつて人を招くに器のないことを歎いて居ると、忽然として朱椀十人前水の上に浮び出た。それ以後村人はこれに倣うて入用の度每に就いて借りることを例として居た處、遙か後世になつてある尼三人前の器を借りて十日も返さず、終に中盆二つを損じて不足のまゝ返したので、池水鳴動して大雨氾濫し、尼は居(いへ)覆へり命を損し、此不思議も亦止んだとある。尼が神罰を受けたというのは立山又は白山の登宇呂の姥の話と同系統の古傳であつて、面白い來歷のある事であるが、枝葉にわたるから玆には略しておく。

[やぶちゃん注:「繩池」(なはがいけ(なわがいけ))は現行では「縄ケ池」と表記し、現在の富山県南砺(なんと)市北野(きたの)蓑谷入会(みのたにいりあい)に位置する(ここは旧南砺波(となみ)郡城端町(じょうはなまち)の内であった)。ミズバショウ群生地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は高校一年の春に生物部(同年年末より演劇部を兼部)の遠出で一度行ったことがある。ここの龍(蛇)女伝説はサイト「龍学」のこちらに詳しい。それによれば、かの藤原俵藤太秀郷絡みで、しかも伝承の一つは彼自身が蛇の母が生んだ子であるという驚くべき内容を持つ。椀貸なんぞより遙かに面白い。必読。

「登宇呂の姥」「とうろのうば」。「止宇呂の尼」とも。禁制を犯して立ち入ろうとした女性が石と化した老女化石譚で、類型が名も酷似して「大峰の都藍尼(とらんに)」「白山の融(とおる)の姥」として伝承されている。]

 

 次に武藏の椀箱沼と云ふのは、今の埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木の中程にある沼で、形の細長い爲か一名を宮川とも呼んで居た。これも昔は農家來客の時に、椀具の借用望み次第であつたが、爰では必ず請求の旨を書面に認めて沼の中に投げ込むことになつて居たのが、他の地方の話と異なつた點である。山梨縣では南都留郡東桂村の鹿留川に同じやうな話がある。その地を御南淵(おなんぶち)と云ふのは多分もとは女淵であろう。村民必要に臨み膳椀何人前と書いてこれを附近の岩の上に置き、お賴み申しますといつて歸ると、翌朝は其數だけの品がちやんと河原に列べてある、返す時にも同じ場所に持つて行つて置けばよいのである。或時村民某面白半分に一人前だけ殘して返すと、それ以後はどう賴んでも決して貸さぬやうになつた。但し其膳は今でも寶物にして持ち傳へて居ると云ふことである。同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺の藪の中にある洞穴は、水邊では無いがやはり龍宮に通ずと云ふことで、亦村民に道具を貸して居た。是も望みの品と數とを紙に書いて穴の口に入れるのであつた。群馬縣では榛名の南の室田の長念寺の底無し井戸、是も龍宮まで拔けて居て寺の振舞の日には膳椀を貸した。入用を手紙に書いて前日に井中に落して置くと、其品々が夜の中に井の傍まで出してあつた。寺も井戸も現存しては居るが、やはり亦貸主を怒らせて夙に其慣例は絶えたと云ふ。

[やぶちゃん注:「椀箱沼」「埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木」「宮川」恐らくは埼玉県比企郡吉見町一ツ木のこの東西に膨らんだ河川風の部分か(グーグル・マップ・データ)。国土地理院図を見ると、東の細くなった南側に神社があることが判る。それで「宮川」なのかも知れぬ。

「認めて」「したためて」。

「山梨縣」「南都留郡東桂村の鹿留川」「御南淵(おなんぶち)」現在の山梨県都留市鹿留(ししどめ)のここ(グーグル・マップ・データ)。山梨日日新聞社・YBS山梨放送の「冨士NET」の「おな淵」を参照されたい。それによれば、淵の水深は約⁵メートルで、高さ約六メートルの滝もがある(リンク先に写真有り)。そこには『伝説によると、この淵近くの長者の家に奉公していた「おなん」という娘がお膳(ぜん)を壊し、淵に身を投げた。その後、村で人寄せがあるときなどの前日、紙に「お膳を十膳お貸しください」と書いて淵に浮かべておくと、翌朝お膳が浮かんでいた。ある時、借りたお膳を』五『膳しか返さなかったので、その後は貸してくれなくなったという。借りたとされるお膳が豊鏡寺(夏狩)に』一『膳残る』とあり、「膳は今でも寶物にして持ち傳へて居る」というのと一致する。また、柳田國男の「おなん」=「女」の短絡説とは伝承は違う(この短絡、柳田らしくないじゃないか!)。豊鏡寺は不詳であるが、「おなん淵」から西南西八百五十メートルほどの、都留市桂町(ここ(グーグル・マップ・データ))に曹洞宗の寶鏡寺があり、夏狩はその北直近の地名であるから、この寺の誤りではないかと思われる(夏狩地区には豊鏡寺という寺はないようであるから)。この一膳、機会があれば見てみたい気がする。

「同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺」原座の山梨県西八代(にしやつしろ)郡市川三郷町(いちかわみさとちょう)鴨狩津向(かもがりつむぎ)にある、曹洞宗の高前寺の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」のこちらに『西八代郡六郷町』(合併前の旧町名)『鴨狩津向の高前寺の下の洞穴は、ウボ穴といい、人寄りがあって多数の膳椀が必要の時、淵か川に行って頼むと、翌朝それだけの数が岸の岩の上においてある。用済の器具はよく洗ってお礼を言って岩に置くといつのまにかしまわれる。しかし、心のよくない者が返すときにその数をごまかしたり、壊して返したのでそれからは頼んでも貸さなくなったという。ここで貸してくれる器は竜宮皿といわれて竜宮がかしてくれるものだといわれた』とある。

「榛名の南の室田の長念寺」群馬県高崎市下室田町の長年寺の誤りと思われるここ(グーグル・マップ・データ)。この寺には「底無し井戸」はないが、榛名湖に繋がる或いは龍神が棲むとする井戸がある。個人ブログ「Tigerdreamの上州まったり紀行」の「木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-」を参照されたい。室田に別の「長念寺」があって「底無し井戸」もあるというのであれば、御教授願いたい。]

 

 近頃迄の學者には、此樣な變則の例を提出すると、それは訛傳だ眞似損ひだと、自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つたが、鳥居氏は我々同樣に新しい人だから、必ずもつと穩健な解答をせられるに相異ない。然らば右に列擧するが如き所謂椀貸傳説は果して如何なる方面から、日本の無言貿易土俗を説明するのであらうか。無言貿易の問題に付ては、自分は只グリイルソンの無言貿易論一册を讀んで見たゞけであるから深い事は知らぬが、何でも山野曠原を隔てゝ鄰り住む二種の民族が、互に相手と接觸することを好まず、交易に供したいと思ふ品物のみを一定の地に留めて置いて、迭る迭る出て來ては望みの交換品を持還る風習を言ふのである。日本で人無し商ひなどゝ稱して、主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた。鳥居氏は是も亦無言貿易であるやうに説かれたが、其ではあまりに定義が廣くなりはせぬか。土佐で自分等の目撃したのは路傍に草鞋とか餅、果物の類を臺の上に列べ、脇に棒を立てゝ錢筒を吊し、其下には三文または五文の錢の畫が描いてあつた。中央部の如く街道の茶店が發達せず、僅かの小賣のために人の手を掛けては居られず、幸ひ相手が貧人ながら信心の爲の旅行者であれば、其正直を賴りに右の如き人無し商ひをした迄で、本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「近頃迄の學者には」「自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つた」柳田國男先生、そのまま、あなたに鏡返し致します

「鳥居氏」「一」の冒頭に出した鳥居龍蔵を指す。

「グリイルソンの無言貿易論」イギリスの法律家で人類学者でもあったフィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン(Philip James Hamilton Grierson 一八五一年~一九二七年)が一九〇三年に刊行したThe Silent Trade(「沈黙交易」)。「一」の私の「無言貿易」の引用注も参照されたい。

「迭る迭る」「かはるがはる」。「迭」(音「テツ」。「交替に」の意。現代では「更迭」でしかお目にかからない)で「送」ではないので注意。

「主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた」あの……僕の地域やその周囲の農家では、沢山、今もやってんですけど……。

「本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ」これは確かに柳田國男先生に激しく同感する。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 三

 

     

 椀貸傳説の存在する地方には、往々にして借りて置いて終に返さなかつたのが是だと言つて、その一人前だけを持傳へて居る舊家がある。その物を見ると何れも模樣などの附いた立派な塗物であると云ふ。さうでなくても貸したのは多くは木具(きぐ)であつたと云ふが、德島縣だけには茶碗や皿を貸したことになつて居て、事に由ると其が素燒の氣味の良くない品であつたのかと思はれぬことも無い。飛驒の學者なども、昔は墓に其人の使用した臺所道具を埋めて居た所から、斯う云うふ話が起つたのかと説いて居る。しかし我々の祖先が木製の食器を用いて居たことゝ、木具の土中にあつては早く朽ちることゝを考へて見ると少し疑はしい。其よりも更に有力なる反對の證據は、膳椀を貸したと云ふ場所が必ずしも古墳ばかりでは無いことである。現に阿波でも家具の岩屋と稱して、この口碑を伴ふものに天然の岩窟が幾つもあり、假令天然で無くても墓穴では無い岩屋の中に、この話を傳へた例は各地に存するのである。

 例へば淡路の三原郡下内膳村先山の某寺で、あたかも上州館林の文福茶釜の如く、客來のある每に椀其他の雜具を借りたと云ふのは、天の磐戸とも稱した大洞穴であつた。淸めて穴の口に返して置けば何時の間にか取入れた。今から百六十年前の寛延年間まで貸したと云ふ。駿州吉原在にも膳を貸したと云ふ處が二箇所あり、[やぶちゃん注:底本は句点だが、ちくま文庫版で特異的に読点に訂した。]その一つは傳法村膳棚と云ふ畑地の中の小さな石塚、今一つは石阪と呼ぶ地の石の穴であると、山中共古翁は話された。美濃では稻葉郡古津村の坊洞、一名を椀貸し洞とも謂ふ村の後の山の下にある岩穴である。また一箇所は武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)の半腹に在る洞、この二つは後に水の神の話をする時に詳しく言ふ。越後では北蒲原郡加治山の一峰要害山と稱する山の半腹に在る窟で、其名を藏間屋(くらまや)と呼び、是は九十年前の文政年間まで貸していたさうである。ちやうど葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃には、まだ盛に實行して居たことになるのである。此岩窟は每年正月の元朝に震動し、山下の民其響の強弱によつて年の豐凶を卜したと云ふ説もあつて、頗る村の信仰生活と交渉して居る。能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである。

[やぶちゃん注:「淡路の三原郡下内膳村先山」現在の兵庫県洲本(すもと)市(淡路島の中央部)下内膳(しもないぜん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、この地区では両墓制(墓石のある「参り墓」と実際の遺体を埋葬する「捨て墓」の二つを有する墓制)が現在でも受け継がれているから、或いは、この「捨て墓」がこの「洞窟」なのではないかとも私には思われる

「某寺」同地区で大きな寺院は真言宗盛光寺であるが、柳田がわざわざ伏せた以上、軽々にこことは名指せないし、そのような「大洞穴」が境内にあるという資料もないから、或いは廃寺となった寺なのかも知れぬ。柳田が書いた当時で既に荒廃が著しく、存続が望めなかった有様なら、彼は「某寺」と言いそうな気もする。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「天の磐戸」確認出来ない。

「寛延年間」一七四八年から一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「駿州吉原」現在の静岡県富士市吉原。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「傳法村膳棚」現在の静岡県富士市伝法の内か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「石塚」「石阪」柳田先生、同伝法の字中村には伊勢塚古墳が現存しますぜ(ここ(グーグル・マップ・データ))! それに「いせづか」や「いしざか」は「いしづか」と発音も似てますぜ! これも偶然ですかねえ? 古墳だったとしたら、自然の「石の穴」じゃあ、ありませんぜ。さても、そもそもが柳田國男がこれを書いた頃には古墳時代以前の遺跡は殆んど学術的に精査されておらず、古墳なのに、ただの自然の洞窟や穴だと思われていたものが私は非常に多かったと思っている。されば、柳田が頻りに古墳でない場所の椀貸伝説を力説するこれらも、今は古墳やそれ以前の繩文や彌生の集落・住居・墳墓跡であった可能性が私は頗る高くなると踏んでいるのである。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「稻葉郡古津村」現在の岐阜市長良古津(ながらふるつ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。字坊ヶ洞が地名としては現存し、「坊ヶ洞山峰」「坊ヶ洞林道」の呼称もある。しかし、「村の後の山の下にある岩穴」の紹介は見当たらぬ。不思議。崩落して潰れてしまったのか?

「武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)」現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。

「北蒲原郡加治山の一峰要害山」現在の新潟県新発田市東宮内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藏間屋(くらまや)」不詳。

「文政年間」一八一八年から一八三一年。第十一代将軍徳川家斉の治世。

「葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃」葛飾北斎(宝暦一〇(一七六〇)年?~嘉永二(一八四九)年)の「北齋漫畫」は初編の序文によれば、文化九(一八一二)年秋頃に下絵が描かれており、文政より少し前であるから、正確な謂いではある。この謂いは、この要害山の蔵間屋の椀貸の絵を北斎が「北斎漫画」中に描いていることを意味するわけだが、私は所持していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像「山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 絵本の世界」(カラー。但し、全編ではない)で見られるが、如何せん、目次や検索が出来ないので、暫く見て、諦めた。発見したら、リンクを張る。悪しからず。【2020年8月12日追記】前者の国立国会図書館デジタルコレクションの画像で発見した。「第十編」の右頁右上にある「楠(くす)の椀借(わんかり)」である(モノクロ)。生憎、後者には「第十編」がなかったが、探してみたところ、matta 氏のブログ「街の散歩…ひとりごと」の「楠の椀借(わんかり)...『北斎漫画』十編」に大画像のカラー版を見出せた。ただ、気になるのは、これは要害山のそれではないのではないか、という疑問である。要害山の蔵馬屋を「楠の椀借」と呼んだという記載を見出せないからである。

「能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである」私は思うにこれは、私も何度か行ったことがある、現在の富山県氷見市大境にある「大境洞窟住居跡」のことではないかと考えているここ(グーグル・マップ・データ)。北直近に石川県の県境がある(因みに、この県境の鼻は「百海」と言って私の父の秘密の釣り場で、私もよく連れて行って貰った。人生で腐るほど鉄砲鱚を釣り上げたのもここだった)。そうして、その間の海岸の海水浴場の名を御覧な、「灘浦海水浴場」だろ? ということは、この洞窟のある大境は嘗て「灘の南村」と呼ばれてたんではないかい? 柳田國男さんよ!)。大境洞窟住居跡(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、六つの文化層を持つ繩文中期から中世にかけての永い時間をドライヴしてきた複合遺跡である。ウィキの「大境洞窟住居跡」によれば、『この住居跡は、氷見市大境漁港の近くにある白山神社裏手の洞窟内にあり』、大正七(一九一八)年に『社殿を改築しようとしたところ、骨や土器が出土した。その後、東京大学人類学研究室の柴田常恵らによって詳しい調査が行われ、縄文時代から中世にかけての土器、陶磁器や人骨、獣の骨が出土した。この時に実施された調査は、日本初の洞窟遺跡の発掘調査であるとともに、本格的な層位学的発掘調査の嚆矢となるものであった』(下線やぶちゃん)とある。柳田國男さんよ、これだとしたら、確かに元は自然の作った海食洞ではあろうが、これ、立派な人工の古代遺跡なんだぜ。天然自然の人の入らない穴ぼことは訳がちゃうんだ! まあ、許したろ。なんたって、この「隱れ里」は『東京日日新聞』大正七年二月から三月の連載だからな。鬼の首捕ったように、ここでこの洞窟を椀貸伝説の人工無抵触の自然洞窟として挙げてるあんたは、あんな辺鄙な糞ド田舎に、そんな繩文から中世に至る長大な時間軸を保持した洞窟文化があったなんて、これっぽっちも実は思ってなかったんじゃあないか? 正直に言いな! それがあんたの鄙を無意識に馬鹿にした中央アカデミズム的浅薄さだとは、これ、思わんかね?

いやいや! 癌はそんな根の浅い所にはない! この際だから、怒りついでに言っておこう!

あんたは《自分が民俗学の研究対象として採り挙げた対象を考古学者や歴史学者に横取りされるのが不快だった、されるんじゃないかといつも怖れていた》だけなんじゃないか?

寧ろ、《本来ならば学際的であるべき民俗学を、自分の学術領分として折口信夫と結託して勝手に線引きしてしまい、自分をアカデミックな数少ない新進の学問たる民俗学の「学者」として保身したかった》んじゃないのか?

そういうところをこそ、南方熊楠は痛烈に批判したんだよ。

《「伝承」を何より第一基本原理とし、自分の勝手で杜撰な解釈(思いつき)を伝家の宝刀のように思い込み、都合の悪いデータや性的な内容(こちらはお上を憚って)には、極力、目を瞑って見えないことにし、しかも、他の学問領域の科学的手法を積極的に自己の手法に組み入れようとはしないという、悪しきアカデミズムの領分・親分意識》

それが、日本の民俗学を、今のような鬼っこのような奇妙なものにしてしまったのではないか?

これだけはどっかで言っておかねばならない私の柳田國男への疑義なのである。

 同じ越中の西礪波郡西五位村大鳥倉には、少しばかり奇な一例がある。この村の山の上にも、近郷の民に器物を用立てたと云ふ深い洞穴があつて、その山の名をトカリ山あるいはカタカリ山またモトヾリ山ともいつた。かつて或農夫拜借の道具の立派なるに心を取られ、返却を怠つて居た者があつた。此家に生れた一人息子十五歳になる迄足立たず、夫婦之を悲しんで居ると、其年の秋の取入時に米俵を力にして始めて立つたので、悦びの餘りに更に一俵を負はせて見たら、其まゝすたすたと此山の方へ步み去り、跡を追ふも及ばず、終に洞穴の奧深く入つてしまつた。あつけに取られて立つて居ると、中では話の聲がする。一人が貸物は取つて來たかと問ふと、漸く元だけは取つて來たと答へた。これが元取山の名の起りである云々。

[やぶちゃん注:「西礪波郡西五位村大鳥倉」「モトヾリ」山現在の富山県高岡市福岡町(まち)五位(ごい)ではなく、その南東の高岡市福岡町鳥倉(とりくら)にある元取山(もとどりやま)。標高百九十五・七メートル。(グーグル・マップ・データ)。後半の展開が息子でなく馬という設定で今一つつまらぬ(その分、悲惨ではなくなりはする)が、フジパン」公式サイト民話の部屋の「伝説にまつわる昔話にあ富山県元取山(再話・六渡邦昭氏)も参照されたい。]

 

芥川龍之介 手帳8 (12) 《8-12》

 

《8-12》

Bear 戰場ケ原 馬鈴薯一袋 友だちねがへりぶつかる故 肘にてつく 木樵にきく 曰盜なし 熊なり

[やぶちゃん注:「戰場ケ原」栃木県日光市の日光国立公園内にある高層湿原である戦場ヶ原か。ウィキの「戦場ヶ原」によれば、標高は約千三百九十メートルから千四百メートルで、広さは四百ヘクタールに及ぶ。『戦場ヶ原という地名は、山の神がこの湿原を舞台に争いを繰り広げたという伝説に由来している』とある。

「盜なし 熊なり」それは、その友人が寝返りを打ったのでも、「盗人(ぬすっと)が何かしようとしたのでもなく、熊じゃ。」の謂いか。]

 

Gon Seaside 磯臭きCemetery Ghost 出る 兵士上り行く 女あり 船長の死せし後その船長を知りし淫賣來りて徘徊するなり

[やぶちゃん注:「Gon Seaside不詳。大文字でなければ、岩礁性海岸で岩場が角張っているところ、という意味でとれるが、孰れも大文字であるから、固有名詞である。]

 

Curious tale

 夫婦にて(旗本)吉原へゆき遊び面白くなり財産を蕩盡す つひに子供二人をさし殺し 亭主の血を見ておそれ走る 途中亭主に肩を切らる 亭主死す 後妻は再緣す 娘四人 その娘の一人なり 伜一人 川村淸雄

[やぶちゃん注:Curious tale」奇妙な話。

「川村淸雄」(嘉永五(一八五二)年~昭和九(一九三四)年)は洋画家。ウィキの「川村清雄」によれば、近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。江戸麹町表二番町で『御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男として生まれ』たとあり、以下、小学館の「日本大百科全書」によると、幼少の頃に住吉内記に入門、次いで大坂で田能村直入(たのむらちょくにゅう)に師事して、南画を学んだ。江戸に戻って、明治元(一八六八)年頃から開成所で川上冬崖に洋画を習った。明治四(一八七一)年に政治・法律の研究を目的として渡米したが、洋画に転じ、フランスからイタリアへ行き、ベネチア美術学校に学んだ。明治一四(一八八一)年に帰国してからは、大蔵省印刷局に勤めた後、画塾を開き、「明治美術会」の創立に参加して会員となって同志とともに「巴(ともえ)会」を結成したが、その作風は次第に日本趣味に傾いていった、とある。]

芥川龍之介 手帳8 (11) 《8-11》

 

《8-11》

 

同窓會 菓子一圓 すし四十踐

○佐世保より昨日つきけふ來る

○ムスコ外游中よめの候補者に皆のむすめの寫眞を貰ふ

K博士を love て得なかつた人とその未亡人

〇三十年(秦明小學校の先生) 夏中休暇と共にやめ月〻30圓外に3000圓貰ふ

[やぶちゃん注:「秦明小學校」は現在の東京都中央区銀座にある中央区立泰明小学校。明治一一(一八七八)年創立。]

○夫に對する嫉妬

○アナタイツモオ若イノネ

○小石川白山御殿町

不同

[やぶちゃん注:以上の二条(「小石川白山御殿町」と「不同舍」)は旧全集にはない。恐らくは現在の東京都文京区白山四丁目の(グーグル・マップ・データ)。「不同舍」は画家小山正太郎(次条注参照)が明治二〇(一八八七)年に創設した画塾のことか。最盛期には三百人を数え、中村不折・青木繁などを輩出した。参照したウィキの「小山正太郎」によれば、彼は『人によって指導の仕方を変え、自らの作品に弟子達が影響を受けないようにするため、自筆の油彩画を見せることは殆どなかったと』いう。『「不同舎」の名は塾の近所』であった『本郷区団子坂界隈の不動坂に由来するとも言われるが、それよりも弟子たちの個性を尊重した小山の指導理念を示したものだろう』とある。但し、団子坂は白山御殿町よりやや東北にずれる。]

Kent 鉛筆――drew

[やぶちゃん注:「Kent」はケント紙(高級紙の一種。純白で紙質は硬く締っている。イギリスのケント地方で初めてつくられたので、この名がある。現在は化学パルプで作るが、ごく高級なものは木綿など天然繊維を加えることもある。図画・製図用の他、名刺などにも用いる)であろう。]

○小山正太郎

 モデル三河島田

             >la souce Vénus de Milo 髮桃割

Millet

 +チヨンチヨン=ホ惚ナリ

[やぶちゃん注:底本では「小山正太郎」と「モデル三河島田」と、「Millet」と「+チヨンチヨン=ホ惚ナリ」はそれぞれ大きな長方形の枠で囲まれている。その四角の下から長い。斜線が伸びて中央下で繫がり、「la souce Vénus de Milo 髮桃割」と下に書かれてある。

「小山正太郎」(こやましょうたろう 安政四(一八五七)年~大正五(一九一六)年)は旧越後国長岡藩の藩医の惣領で洋画家であるが、画家としてよりも教育者として知られる。

「三河島田」島田髷の型の一種の通称であろう(地名ならば福島県耶麻郡西会津町新郷大字にある)。

la souce Vénus de Milo」フランス語。ギリシャ彫刻の名品でパリのルーヴル博物館所蔵の『「ミロのヴィーナス」を源泉とするもの』という意。

Millet既出既注

「チヨンチヨン=ホ惚ナリ」意味不明。以下、一行空き。]

○天草四郎時貞の史劇 faithworldlyvanityfaith and death

[やぶちゃん注:「信仰―世俗の―虚栄―信仰と死」の意か。]

芥川龍之介 手帳8 (10) 《8-10》

《8-10》

Anarchism  Ertzbach Zenker

[やぶちゃん注:「Ertzbach」「Zenkerドイツのアナキストの名前のようには思われるものの、ドイツ語でも英語でも検索の網に掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

○踏繪 興善町 質屋 西奉行所(今の縣廳の所) 西村屋 享保13

[やぶちゃん注:まさに「踏繪」という題名の小説構想が芥川龍之介の中にあったことは大正六(一九一七)年十二月八日附の薄田淳介宛書簡(岩波版旧全集書簡番号三五九)ははっきりしている。但し、ここでは薄田(大阪毎日新聞学芸部長だった薄田泣菫)に、『題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』という記しているから、これは一見すると、内容は同じ(現在の「開化の殺人」)だが、象徴的な題名にするという意味にも採れる(しかし、「開化の殺人」の内容が比喩的に「踏繪」で通るかというと私は甚だ疑問である)のであるが、私は寧ろ、開化物と並行して、全く別に切支丹物の、踏絵をテーマとしたものを龍之介が構想しており、構想(芥川龍之介の脳内)ではそれが並行して進められていたのではないかと考えている。この「踏繪」という題名は実はもう一回だけ、翌大正七年五月十五日附の同じ薄田宛書簡(岩波版旧全集書簡番号四一三)に出るのであるが、そこでは『「踏繪」は中々出來ません元來春の季題だから初夏になつては駄目らしい』という弱音を吐いている(「踏絵」は春の季語。信徒が多かった長崎などでは、毎年正月から三月頃までの間に、奉行所が住民全員にキリストや聖母マリアの描かれた絵を踏ませたことに由来する)。ところで、先に龍之介が併置した「開化の殺人」であるが、これは同年八月十五日に『大阪毎日新聞』ではなく、『中央公論』に発表されているからして、「開化の殺人」と「踏繪」は別個な小説であることはここに明らかなのである芥川龍之介の「踏繪」(このメモから見ると、実際の踏絵をシチュエーションとするものと考えてよい。そしてそれは冷徹な心理分析小説「或日の大石藏之助」(大正六(一九一七)年九月『中央公論』)や棄教を扱った名品「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』。或いは、成らなかった「踏繪」の一部はこの作品のおぎんの心理にある程度は反映しているものとも思われる)などとはまた違った心理劇となったに違いない)……読んでみたかったなぁ……

「興善町」現在の出島近くの長崎県長崎市興善町。(グーグル・マップ・データ)。

「西奉行所(今の縣廳の所)」サイト「幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡」の長崎奉行所(西役所)跡が写真・地図・沿革解説の三拍子が揃っていてまことに良い。

「西村屋」不詳。但し、芥川龍之介が架空のメモをするはずがないから、これは宗門改などの切支丹史料から見出した実際の屋号と考えるべきである。郷土史研究家の御教授を乞う。

「享保13」一七二八年。]

芥川龍之介 手帳8 (9) 《8-9》

《8-9》

[やぶちゃん注:以下から「○6,9,4」までの条は、旧岩波版全集には載らず、新全集で初めて原資料から活字化された箇所である。最後の二つの数字列以外が総て英文であるというのは、何となく、旧全集編者のカット意志のようなものが感じられなくもない。]

 

Richard I――Edward II

[やぶちゃん注:「Richard I」リチャード一世(一一五七年~一一九九年)はプランタジネット朝(Plantagenet dynasty:初期であるのでアンジュー(Angevin)朝と呼ぶのが正しい)第二代イングランド王(在位:一一八九年~一一九九年)。ウィキの「リチャード イングランド王によれば、初代イングランド王ヘンリー二世(Henry II 一一三三年~一一八九年)の三男であったが、父・兄弟と争い、『生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから』、「獅子心王」(Richard the Lionhear:フランス語:Cœur de Lion)と『称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが』、十『年の在位中』、『イングランドに』あったのは僅か六ヶ月だけで、『その統治期間のほとんどは』、『戦争と冒険に明け暮れた』とある。

Edward II」エドワード二世(一二八四年~一三二七年)は、プランタジネット朝の第六代目に当るイングランド王(在位:一三〇七年~一三二七年)。イングランド王はリチャード一世から彼の弟ジョン(John 一一六七年~一二一六年)へ、その長男エドワード一世(Edward I 一二三九年~一三〇七年)から彼の四男(兄らは早世)である彼へ継がれたが、ウィキの「エドワードイングランド王によれば、彼は『寵臣に政治を主導させ、諸侯や議会との対立を深め』、一三二六年には王妃イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France 一二九五年頃~一三五八年:その美しさから広くヨーロッパの各宮廷で「佳人イザベラ」として知られたが、その行動からは“She-Wolf of France”(「フランスのメス・オオカミ」)という蔑称も与えられた)。エドワード二世を廃位して実子エドワード三世(即位時十五歳)の摂政として愛人とともに実権を握った)『が起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年には議会から廃位されたうえ、王妃の密命で殺害され』てしまった。]

 

Sherwood Nottingham ―― shire

[やぶちゃん注:現在のイングランドのノッティンガムシャー(Nottinghamshire)の州庁所在地ノッティンガムの一地区。「shire」は「州」であるが、現行の英語では正式な呼称としては「county」で、この「shire」は主にイングランドの州名の語尾として用いる。中世イングランドの伝説上の弓の名手で義賊とされるロビン・フッド(Robin Hood)が隠れ住んだ森として知られる「シャーウッドの森」(Sherwood Forest)がある(ノッティンガムの北約三十キロメートル位置にあって王室林(royal forest)・国立自然保護区(National Nature Reserve)でもある)。]

 

Talisman

[やぶちゃん注:護符・お守り。或いは、不思議な力のあるものを指す語。]

 

Yeoman

[やぶちゃん注:ヨーマン。自作農・小地主・昔の自由民・王家や貴族に仕えた高位の従者・事務係下士官などの意がある。]

 

little John

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの相棒の名前であろう。]

 

friar Tuck

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの仲間。「friar」(フライァー)はカトリックの托鉢修道士のことであるが、彼は「タック坊主」「タック神父」などと邦訳されているようである。]

 

Maid Marian

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの恋人。「少女/乙女マリアン」などと邦訳されている。]

 

12.07

6,9,4

[やぶちゃん注:数字列の意味、不詳。]

 

○南京町の入り口 山手警察の一町先 クレサント・クラブ 元フランホテル

[やぶちゃん注:「南京町」「山手」とあるから現在の横浜中華街である。「クレサント・クラブ」は「Crescent club」(三日月俱楽部)で、これはドイツ人フランツ・メッガー(Franz Metzger 一八八四年(Essen)~昭和三五(一九六〇)年(鎌倉))が大正一五(一九二六)年頃に山下町九十二番附近(グーグル・マップ・データ))に開いたフランス料理店の名である。横浜開港資料館公式サイトによれば、フランツは志願兵としてドイツ海軍海兵隊に入隊、中国の青島(チンタオ)に配属されたが、一九一四年の第一次大戦勃発で青島に侵攻して来た日本軍の捕虜となり、広島の似島(にのしま)収容所に収容され、戦後に解放されて東京に行き、日本に残る道を選んだという(こうした選択をした仲間には洋菓子で有名な「ユーハイム」、銀座でドイツ・レストランを開いたケテル、デリカテッセン店で知られる「ローマイヤ」らがいたという)。クレッセント・クラブ(Crescent Club)はしかし、昭和四(一九二九)年の大不況下で潰れたという。本「手帳8」の記載推定時期の上限は大正一三(一九二四)年とするが、ここから、少なくとも、この部分のメモは、もう少し後(大正十四~十五年以降)に書かれたものである可能性が高いことが判ってくる。

「山手警察」現在の横浜市中区山下町二百三のここ(グーグル・マップ・データ)にある神奈川県加賀町警察署。九十二番はここからの距離としても正しい。

「フランホテル」不詳。横浜郷土史研究家の御教授を乞う。]

2018/01/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 「しゃくられの記」三篇

 

     「しゃくられの記」三篇

 

 この年の六月二十四日、居士は高等中学の卒業試験を了(お)え、その結果を見るに先(さきだ)って、七月一日出発、帰省の途に就いた。[やぶちゃん注:「先って」とは、卒業試験の結果を待たずにの意である。以下、漱石の葉書は前後を一行空けた。宵曲は読み易くするために読点を打っており、日附と結語の位置も逆になっていて、おかしい。見た目の臨場感を出すため、岩波の旧「漱石全集」に載る通りに、書き換えた。明治二三(一八九〇)年七月五日『牛込區喜久井町一』より『松山市湊町四丁目正岡常規』宛葉書(但し、原本からではなく、「筆まか勢」からの転載)である。]

 

 早速御注進

 先生及第乃公及第山川落第赤沼落第米山未定 頓首敬白

    七月五日夜

 

という漱石氏の葉書は、居士より早く松山に着いていたのである。

[やぶちゃん注:底本では「乃公」は「だいこう」で一人称。男が仲間や目下の者とざっくばらんに話す際に用い、「僕」なんぞよりぞんざいな語。「山川」不詳。岩波旧漱石全集の注には「赤沼」は赤沼金三郎とする。彼は一高の自治寮の自治組織の中心的人物で、野球もともにした子規の友人である。「米山」保三郎。既出既注。]

 この帰省の際は三並良、小川尚義両氏と行を共にした。江尻に泊り、大垣に泊り、大阪神戸間に少しく彽徊して、九日故山に帰着するまでの顚末は、「しゃくられの記」上篇に記されている。この記事は大阪中ノ嶋の旅亭に筆を起し、待つ山に帰って後完成したらしいが、場所を異にするに従って文体を変えたのが居士の趣向であろう。江尻の条を「羽衣」の謡もどきにしたのと、大垣、大阪間を松山言葉の言文一致にしたのが殊に奇である。「しゃくられの記」なる題名の由来は大垣の宿にある。小川氏が養老の滝を見んことを主張して、どうも養老が引張るように思われてならぬというのを、それは養老の滝から糸をお前の身体につけ、手でしゃくっているのだろうと居士が評した、その言葉が同行者の間に盛に用いられたのを、直に採って題名としたのであった。

[やぶちゃん注:「三並良」既出既注

「小川尚義」(明治二(一八六九)年~昭和二二(一九四七)年:正岡子規より二歳歳下)は後の言語学者(台湾諸語研究者)・辞書編纂者で台北帝国大学名誉教授となった人物。ウィキの「小川尚義によれば、長男(第四子)の小川太郎は、戦後の同和教育の第一人者で『全国部落問題研究協議会会長も務め、日本作文の会にも関わった』とある。

「しゃくられの記」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像全文が視認出来る。]

 八月十八日、居士は松山から久万山(くまやま)、古巌屋(ふるいわや)に遊んだ。同行者は藤野古白をはじめ、皆親戚の年少者である。かつて明治十四年にここに遊んだのが、居士としては最初の旅行であり、当時の同行者は皆自分より年長であった。十年後に至り、年少者を率いて再達したことは、居士としても感慨に堪えなかったであろう。

 

 脱帽溪頭居石看

 危巖如劍欲衝天

 山靈能記吾顏否

 屈指曾遊己十年

  渓頭に帽を脱ぎ 石に据(すは)りて看る

  危巖 劍の天を衝(つ)かんと欲するがごとく

  山靈 能く吾が顔を記(き)するや否や

  指を屈すれば 曾て遊びしより 已に十年

 

の詩がある。この時の事を記したのが「しゃくられの記」中篇である。

[やぶちゃん注:「久万山(くまやま)」既出既注

「古巌屋(ふるいわや)」愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬にある古岩屋。岩峰が連なる名所で国の名勝に指定されている。現在、四国カルスト県立自然公園内に含まれている。]

 八月二十六日、松山を発して東上、先ず大阪に大谷是空、太田柴洲の二友を訪ねた。コレラの噂は久万山行の中にもちょっと出て来るが、大阪は殊に猖獗(しょうけつ)であったらしく、居士はここに止らず、大津の旅店に投じた。翌日義仲寺に芭蕉の墓を弔い、国分村に幻住庵の址をたずねなどしている。二十九日の夜は日暮から小舟を僦(やと)って湖に浮び、月明に乗じて辛崎まで赴いた。

 

 見あぐるや湖水の上の月一つ

 月一つ瀨田から膳所へ流けり

 

という句はその際の作である。「寒山落木」に「湖やともし火消えて月一つ」「明月は瀨田から膳所へ流れけり」とあるのは、後に改刪(かいさん)したものであろう。月は高く澄み、山々あh烟(けぶ)るが如き湖水の中を、しずかに舟を漕がしむる清興は、居士の一生を通じて前にも後にもない経験のようである。

[やぶちゃん注:「大谷是空」既出既注

「太田柴洲」既出既注

 八月三十日、大津の宿を去って、三井寺観音堂前の考槃亭(こうはんてい)に移り、滞留数日に及んだ。居士後年の句に「鮒鮨や考槃亭を仮の宿」とあるのは、この時のことを詠んだものである。松山出発以来のことを記した「しゃくられの記」下篇の冒頭に「ことしは上京の道すがら近江の月をながめんとてかくは早くたびだちけるなり」とあるから、琵琶湖畔に月を見ることは最初からの予定だったのであろう。ただ月に乗じて辛崎に遊んだ後は、附近に筇(つえ)を曳いたらしくもないし、考槃亭に宿を定めてからの消息は「しゃくられの記」を読んでもはっきりわからない。

[やぶちゃん注:「考槃亭(こうはんてい)」三井寺の門前にあった旅宿の屋号。]

 居士が帰省もしくは上京の途中を利用して各所に悠遊を試みるようになったのは、喀血後著しく目につく傾向である。それには保養の意味も含まれていることと思うが、往復と在郷中とを併せて三篇の「しゃくられの記」を産むようなことは、この年はじめて見るといわなければならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(3) 三 獸類の頸骨

 

     三 獸類の頸骨

 

Kirikeikotu

[麒麟の頸骨]

Kujirakubi

[鯨の顎骨]

[やぶちゃん注:孰れも底本国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。それが判るように、後者の画像にはキャプションを残した。後者にはご覧の通り、頸骨のキャプションと指示線がある。]

 

 誰も知つて居る通り、獸類の中には駱駝の如く頸の長いものもあれば、猪の如く頸の短いものもある。尚甚だしい例を引けば、アフリカに産する麒麟は、全身が三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチメートル強。]もあるが、頸だけでも六尺[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]は十分にある。また鯨・海豚(いるか)の類になると全く魚の如くで、頭と胴との間に別に頸と名づけて區別すべき部分はない。然るに奇妙なことには、これらの動物を解剖して見ると、頸の長い短いに拘らず、頸の骨は必ず七個ある。人間でも猿でも、牛・馬でも、犬・猫でも、頸の骨數は皆七個と定まつて居る。獸類では他の脊椎動物と同じく、頭の後から尾の先まで、數多の脊椎骨と稱する短い骨が恰も珠數の如くに連なつて、身體の中軸を造つて居るが、胸の邊ではこの脊椎の兩側に皆肋骨が附いてある。その第一番の肋骨の附著して居る脊椎より前に位する脊椎が卽ち頸の骨であるが、頸の長短に拘らず七個あるから、一個づゝの頸骨の形は種類によつて大に違ひ、麒麟の如き頸の長い獸では各々長さが一尺[やぶちゃん注:三十・三センチメートル。]程もあつて火吹竹の如く、鯨などのやうな頸のない動物では短い間に七個押し合つて入つて居るから、各々薄く扁平で、恰も煎餅の通りである。

 斯く獸類の顯の骨は必ず七個に限ることは、生活上何か必要があるかと考へるに、少しもさやうなことはない。現に鯨の中でも或る種類では七枚の頸の骨は癒着して一塊となり、僅に境界の線が見えるだけで、働きの上からいへば、全く一個の骨となつて居る。他の動物でも七個では困るといふ理由もない代りに、また七個でなければ頸が十分に働かれぬといふ譯もなく、六個でも八個でも乃至十個でも、生活の上には少しも差支へはないやうである。然るに實際に於ては斯くの如く頸の長短に拘らず、頸の骨が必ず七個あることは、若し動物各種が全く別々に造られ、そのまゝ少しも變化せずに今日まで生存し來つたものとしたならば、たゞ奇妙といふだけで、毫もその理由を了解することが出來ぬ。

 之に反して若しこれらの動物は皆同一の先祖より進化し降つたもので、その共同の先祖が七個の頸骨を有して居たと假定したならば、頸骨の七つあるといふ性質は、遺傳によつて總べての子孫に傳はり、生活法の異なるに隨つて自然淘汰の結果、各々適宜に長くも短くもなつたものと考へて、一通り理窟が解る。若しさうとしたならば、斯かる點は恰も家の紋の如きもので、現在の職業は互に如何に異なつても、一家一門の中は皆紋だけは同じである通り、現今地上を走るものも、海中を游ぐものも、ともにその先祖の圓じであるといふ符號を身體構造の中に存して居る次第であるから、昔に遡つて系圖を取調べるといふやうな場合には、最も重要な參考の資料となるものである。

 

Yadokari

[寄居蟹]

[やぶちゃん注:明瞭な講談社学術文庫版を用いた。

「寄居蟹」「やどかり」。節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類。]

 

 以上の如きことは、他の動物の他の體部に就いても幾らもあることで、例へば我が國の海岸の淺い處には蝦・蟹の類に屬する寄居蟹(やどかり)といふものが澤山に居るが、その身體の全體は稍々蝦に似て、前半は頭・胸、後半は腹である。空(あ)いた介殼を搜し求めて、常に體の後半をその中に入れ、介殼を引き摺りながら、水の底を這ひ步き、敵に遇へば忽ち全身を殼の中に引き込み、大きな鋏を以て殼の口を閉じるが、試に一疋を捕へ、無理に殼より引き出して檢すれば、體の後半卽ち腹部は常に介殼の中に保護せられて居る處故、皮膚が甚だ柔くて、蟹や蝦の堅い甲とは全く違ひ、且介殼の中に都合よく嵌まるやうに螺旋狀に卷いて居る。さて蟹と蝦と寄居蟹とを比べて見るに、一は巧に走り、一は速に游ぎ、一は介殼を引き摺つて這ひ步き、運動法の異なるに隨ひ、體格にも著しい相違があるが、これらの動物を竝べて置いて、その體の後部卽ち腹と名づける處を比較して見ると、外形が違ひ働が異なるに拘らず、孰れも皆根本の構造に一致した處があり、恰も同一の模型に從つて造つたものを、更に各々生活の有樣に應じて造り直した如くに見える。先づ蝦の腹を檢するに、六個の節より成り、その先端に尾が附いてあるが、每節ともに堅い甲で蔽はれ、その裏面には左右兩側に一個づゝの橈足[やぶちゃん注:「かいあし」。]が生じてある。蟹では如何と見るに、頭胸部が非常に大きく發達し、腹部はその下へ曲り込んで隱れて居るから上からは見えぬ。俗に蟹の褌(ふんどし)といふのが卽ち蟹の腹である。蝦では腹と尾とが主なる運動の器官で、急に敵に攻められた時などは、尾を前へ強く彈ねて自身は速に後へ飛び退くが、尾と腹の内にある筋肉とはその時に働くもの故、兩方ともに十分に發達して居る。之に反して蟹では主なる運動の器官は全く胸から生じた足ばかり故、尾も腹の筋肉も退化して無くなつて居る。そのため腹は薄く小くなつて、ただ體の裏面に曲つて附著して居るに過ぎぬが、その節の數を算へて見ると、やはり蝦と同じく六つある。尤も雄では節が往々癒着して數が減じて居るが、そのやうな場合でも癒着した處には微な橫線が見えて、元來節が六つあつたことを明に示して居る。また寄居蟹の腹部は前に述べた通り、常に介殼に保護せられて居るから、皮膚が極めて柔いが、その背面には上の圖に示した如くに稍々皮膚の堅い處が六箇所だけ縱に竝んである。之は確に蝦の腹部の背面の甲に相當するもので、甚だ柔いながらも、尚元來六つの節から成り立つことの明な證據を現して居る。斯くの如くこれらの動物は腹部の形狀が實際種々に異なつてあるにも拘らず、孰れも六つの節から成るといふ點で一致して居るが、之は前の獸類の頸の骨と同樣で、皆同一の先祖から降つた子孫であると見倣せば、先づ理窟は解るが、若し初めから全く無關係の別物としたならば、蟹の褌にも寄居蟹の柔い腹にも、生活上何の必要もないのに、やはり蝦と同樣に六つの節のあることは、たゞ不思議といふばかりで少しも譯が解らぬ。

 

Makuwangani

[マッツクヮン蟹]

[やぶちゃん注:底本は画像が暗いので、講談社学術文庫版を用いた。

「マッツクヮン蟹」エビ上目十脚目異尾下目オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro。「マッカン」は八重山地方で地方名(但し、呼称由来は不詳。「ガン」は九州以南では「蟹」を意味することが多いが、沖繩方言の場合は軽々には言えない気がする。論文ヤシガニと沖縄の人々の暮らし(PDF)でも、語源由来には非常に慎重である)。沖縄本島では「アンマク」と呼ぶ。陸生甲殻類内のみならず、陸上生活をする節足動物全体から見ても最大種で、より大きく、体長は四十センチメートルを超え、脚を広げると、一メートル以上にもなり、体重も四キログラム以上にも成長する。ヤシガニは「椰子蟹」で、近代の日本では、「ヤシの木に登りヤシの実を落として食べるカニ」としてのイメージが定着しているが、実際には、ヤシガニは雑食性であってヤシの実を主食とするわけでは全くなく、たまたまヤシの実を割って食べることは確かにあるが(私も実際に映像で見たことはある)、私の幼少の頃の学習図鑑に、まことしやかに椰子の木に登って(本挿絵もそうであるが、そこまではまだいい。木登りは、事実、するからである)、さらに実を切り落とす姿が描いてあったりしたけれども、実は椰子の実を採取するためにヤシの木に登る習性は確認されておらず、あのイメージは口承と誤った噂から生じた大噓と断じてよい。食用とし、ヤシガニそのものには毒性はないが、ヤシガニは雑食性で、摂餌対象物によって毒化(細菌やウイルス汚染されたものを含む)した個体を食べた場合には中毒例がある。症状は嘔吐・吐き気・手足の痺れなどであるが、重篤な場合は死亡例もある。現在、毒化個体の有毒成分の由来対象の一つはクスノキ目ハスノハギリ科ハスノハギリ属ハスノハギリ Hernandia nymphaefolia の果実(有毒物質ポドフィロトキシン(podophyllotoxin)が単離されている)と考えられているが、それ以外にもシガテラ毒中毒(ciguatera:熱帯の海洋に棲息するプランクトンが産生する毒素に汚染された魚介類を摂取することで発生する食中毒。Gambierdiscus toxicus などのアルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する有毒渦鞭毛藻類が原因(由来)生物であることが多い。毒素は複数あるが、シガトキシン(Ciguatoxin)やマイトトキシン(maitotoxin)は知られる。なお、「シガテラ」の呼称は、かつてキューバに移住したスペイン人が同地方で「シガ」(cigua)と呼んでいた巻貝(英名:West Indian Top)、腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科ニシキウズガイ科アコヤシタダミ亜科Cittarium 属チャウダーガイCittarium pica による食中毒のことを「ciguatera」と呼んだことに由来するもので、非常に長い間、このシガテラ毒による魚介類の毒化機構は不明であったが、一九七七年に東北大学などの研究チームが渦鞭毛藻類による原因物質の究明が行われ、生体濃縮作用によって毒素を蓄積した魚介類の摂食が中毒原因であることが明らかされた。なお、シガテラ中毒とおぼしき記述は既に一七七四年のキャプテン・クックの航海記にさえみられる。ここはウィキの「シガテラ他(海産有毒生物は私の得意範囲ある)に拠った)が原因とする説も有力である。また、前肢一対二本のハサミの力は非常に強く、中・大型個体に不用意に触れて指などを挟まれると、切断される危険があるから、注意が必要である。]

 

 尚面白いことには、琉球の八重山島を始め南洋の諸島には「マックヮン」といふて陸上に住み、祁子の實を食ふ大きな蟹があるが、その形は頗る寄居蟹に似て、殆ど寸分も違はぬ程である。倂し寄居蟹と違ふて空いた介殼の中に腹部を嵌め込まず、裸出したまゝで落葉の間を這ひ步いて居るから、腹部も背面だけには堅い甲があるが、その數はやはり六枚である。而して腹部の裏を見ると、こゝには蝦の腹部にある如き足の變形したものが生じて居るが、たゞ片側にあるだけで左右對をなしては居ない。蟹や蝦では身體は眞に左右同形で、若し中央線に沿うて身體を縱に二つに切つたならば、左右兩半は全く同じ形となるやうな構造を有して居るが、寄居蟹は卷いた介殼の中に入るもの故、腹部だけは左右著しく不同形で、特に尾端には介殼の中軸を挾むための器官を備へて居る。然るに「マックヮン」は介殼の中へ腹部を插し入れぬに拘らず、腹部の構造は全く寄居蟹の通りで、たゞ僅にその背面が堅くなつて居るだけに過ぎぬのは、何故であらうか。之は如何に考へても、マックワンは昔海岸に往んで、腹部を介殼に插し入れて居た寄居蟹が次第に陸上に上り、陸上の生活に適した有樣に變化し、腹部を介殼の中に入れぬやうになつたものと思ふより仕方はない。若しマックヮンは初めからマックヮンとして他の動物と關係なく、全く別に出來たものとしたならば、腹部の裸出して居るに拘らず、何故、寄居蟹と同樣に左右不同形の構造を有するか、少しも理由を見出すことが出來ぬ。

 

原民喜「眩暈」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十月号『文藝汎論』発表。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「瞠いて」「みひらいて」と訓じていよう。

 「ブラツケー」は不詳であるが、文脈からは貝の方言名と読める。すると、個人サイト「お魚の図鑑 珍魚すくい」ページに、ホラガイ(腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis)の異名として「ブラゲー」(他に「ブラ」「ブラー」「ブラゲー」「ブラヌーン」などもある)を見出せた。これでよいとしたいところだが、気になるのは前に民喜が「法螺貝」を出してしまっていることである。「がうな貝」は一般にヤドカリの異名であるが、ここは貝と見て、小型の巻貝(腹足類)を指すと考えるなら、ここで民喜が「ブラツケー」と言ったものは「法螺貝」に似ているが、違う巻貝、もっと大きな或いはもっと高そうに見える絢爛たる巻貝を指しているかのように私には思われる(但し、本邦産で法螺貝を超える大型種は存在しない)。或いは、「稀れに見る巨大な法螺貝」を特異的に「ブラツケー」と読んでいる野かもしれぬと私は思ったりした。

 「蒟蒻」は「こんにやく(こんにゃく)」。

 「齒朶」は「しだ」。羊歯。

 「見憶」「みおぼえ」。「見覺え」。

 「饂飩」「うどん」。因みに「饂飩のマントを纏ひ」はママである。

 「覗間」「すきま」と訓じておく。

 「在處」「ありか」。

 「凭つたまゝ」「よりかかつたまま(よりかかったまま)」と訓じておく。

 「蔓り」「はびこり」。

 「雞」「にはとり」或いは単に「とり」と訓じているかも知れぬ。「鷄」に同じ。

 「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」。一目散に。

 「鸚哥」「いんこ」。小鳥のインコのこと。

【2018年1月14日 藪野直史】]

 

 

 眩暈

 

 溝の中でくらくら搖れてゐる赤い糸蚯蚓、太陽は泥に吸ひつく蛭の化けもの。

 砂がザラザラ押流され、ザラザラと睡むたい顏が溝の緣で、眼球を瞠いてゐる。

 それは彼であるが、彼ではない。

 砂はザラザラと彼の眼の前を橫切り、今は貨幣であるが、がうな貝、法螺貝、ブラツケー、見たこともない異樣な貨幣で彼の頭は混濁してゆく。

 見よ、數字が雜音とともに、この時、一齊に攻擊して來る。

 夢中で彼は求める。何かを、何ものかを、――たしかに、はつきりしたもののきれつぱしを。

 そして、彼は怪しく不自由な手つきで、空間を探る。

 電車の釣革の如きもの、ベルの如きものが彼の指に在る。その手觸りは遠い母親の乳房に似てゐる。

 と、(誰だ、そんなものを拾ふのは)と耳許で叱聲。

 彼はあわてゝ飛びのく。

 彈の破片が眼を掠め、くらくらと鋪道は蒟蒻と化し、建物が飴のやうにとろける。

 かすかに(明日の天氣豫報を申上げます)明日の、待つて呉れ。とたんに彼は目を白黑させてゐる。

(教へてあげないわよ)と女の聲。まごついてしまつた窓。

 暫くして、白い柱の嘲笑の列。

 

 いくつもいくつも太い眞白な柱は天井へ伸び、その白い柱の前に立留まつた彼は、出口を探さうとしてゐるが、この、きてれつの大ビルヂングは混沌として答へず。

 見上げる天井に水晶の三日月。

 はや足許に蔓草が茂り、蛇を潛めし太古の闇は階段の方を滑つて來る。バサバサと齒朶類は戰ぎ、鈍重な太鼓の音が陰濕と熱氣を沸きたたせば、既に彼は身動もならず悶死の姿で橫臥してゐた。

 やがて、巨龍の顎によつて、彼はカリカリと嚙碎かれてゐる。記憶を絶し、記憶を貫く、今の、昔の、彼の眼底に、ひそかに白象の妙なる姿は現じた。

 と、忽ち、外科醫の鋸が彼を強く威嚇する。不思議な裝置に依つて彼を裁くもの、實驗材料は縮まつて、悲しい啞の眼をしばたたく。その寢臺のまはりを群衆は無關心に通過してゐる。祭日めいた群衆の旗は散じ、彼は身の自由を得てゐる。

 しかし、混沌とした建物の内部にゐることに變りはない。彼は出口を求めて、再び放浪する。

 向に見憶のある噴水の池。

 明るい造花の房を音樂の蜜蜂が𢌞り、ロボットの女は默々と糸を紡いでゐる。そのあたりから、いけない豫想が微かに唸りを放つ。

 忽ち、彼の同僚の一人が裸身に饂飩のマントを纏ひ、池をめがけて突走つて來る。

 その顏は苦業に火照り、裸身は飜つて、池に投じた。くらくらと湯氣に饂飩は崩れ、その男の眼が發狂して彼を睥む。

 發散する湯氣はその言え池を消し、その男を消し、疲勞を重加された彼のみが、いつしか昇降機によつて運ばれてゐる。密林や暗雲が鐵格子扉の覗間に、時折、靑い紋條をもつ宇宙の破片も閃き、遂に眞暗な天蓋に達したと思ふ時、昇降機ははや針金の如き細き一本の煙突にすぎなかつた。

 彼の重みによつて、煙突はもろくも傾きはじめる。全身全靈の祈願と戰慄は彼を乘せた細い煙突の割目に集中され、やがて呻吟とともに身は放り落された。

 

 その足は床に達せず、いつまでもコンクリートの廊下の上を腹匍ふやうに飛んでゐる。この苦しい低空飛行がはじまるとともに、彼は飢えを覺え、食堂の在處を探してゐるのだが、群衆の往交ふ廊下は侘しい障害物である。

 ふと、この混迷の中を彼の幼友達が同じ恰好で飛んでゐるのを見つけ、彼は微かに安堵を覺えた。だが、彼の蹠(あしうら)に轉がる空氣の球をうまく操りながら進むには、妖しい一つの氣合が保たれねばならぬ。

 苦しい努力に依り、彼はゆるやかにタイルの上を流れ、テーブルの一隅に辿りついた。人々の犇めく空氣が背後で杜絶え彼の眼の中には眞白なテーブル・クロース。眼の前にある銀の匙とカツプに陰々と困憊の影はこもり、それをもし指にて觸れば、忽ち金切聲で感應するであらう。觸ることの豫想の苦惱に悶え疲れ、暗澹と彼は椅子に凭つたまゝ、妖しくゆらぐ空氣を吸ふうち、椅子はひとりでに床を進行してゆく。

 

 椅子のエスカレーターに運ばれて、彼はホールに來てゐる。

 會衆は暗闇の中に茸の如く蔓り、合唱とも囁きともつかぬものが刻々に高まりゆけば、暗黑の舞臺に突如、劍を閃かして一人の老人が舞ふ。雞の冠を頭につけ、眼は瞋恚に燃え、莊嚴な劍にて突差すところから、めらめらと焰が發して、見る間にあたりは火の海と化した。黑烟の渦と噴出する火に追跡されて彼は逸散に遁走する。

 

 曲つた柱。黑焦の階段。鉛の水槽。痙攣する窓枠を拔けて、彼は巨大な梁の上を傳ふ。

 今、凄慘な工事中の建物の橫腹が彼の頭上に聳え、赤黑い錆の鐵材と煉瓦の懸崖が目を眩ます場所にある。

 彼は墜落しさうな足許を怖れて、一心に異常な風景を描く。

 靑葉の中に閃いてゐた鮎。白い美しい網で掬はれた蝶。消えてしまつた幼年の石塊。

 その彼の骨を引裂く大速力の車輪のなかの情景の露が空中に見え隱れして、彼は危い梁の上の匍匐狀態を脱した。

 

 やがて屋上に來た。こゝでは工夫達が身を屈めて、コンクリートの床に鯖を釘で打つけてゐる。

 何のために、そんなことをするのか。困惑がこゝにも落ちてゐるといふのか。

 困惑する彼の眼に、一匹の鯖は近寄り、一本のネクタイと化せば、次いで彼の全視野は雜貨商品の群に依つて滿たされた。

 蜥蜴の靴下。彫刻の馬。鸚哥の女。猫の帽子。苺の指環。金魚の菓子。火打石。

 それらの虹も疲勞の渦で灰色となり、すべては存在しないに等しい。ゆるくゆるく灰色ばかりが彼の眼蓋をすぎてゆき、やがて罫線の麗しい白い紙があり、彼は靜かに氣をとりなほした。

 彼はペンを執つて、事務のつづきを始める。ペンの音が紙の上を空滑りしてゐて、間もなく數字は葡萄の粒々となる。

 すると、いつもの天井の方からするすると一すぢの綱を傳つて、一人の兇漢が彼の背後に近寄る。

 わあつと、呻き聲とともに、彼は兇漢のまはりを泳いでゐる。

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」

 

     

 

  1・Aの手紙   その二

 其後君の返事を待っていたが来ないから之をかくり

  …………略…………

 江尻の海岸は眼界が余り広くない。右に長くさし出た三保の半島、左にたゝなわる愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)その間には伊豆の山々が曇った日はかすかな鼠色に、晴れた日にはさえた桔梗(ききょう)色に長く連っているために、殆水平線と云うものは見られないと云っていゝ。唯塩分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云いようの無い美しい青藍色をたゝえるのがうれしい。

 設備も鎌倉や鵠沼に比べると不完全だが靴をはいて泳ぐような人を見かけないのが取柄だろう。

 泳ぐのにつかれると濡れた体を熱い砂の上にふせてうとうとゝねむりながら懶(ものう)い海のつぶやきをきく。ダンヌンチオの Triumph of Death Giorgio Ippolita が海水浴をする美しい描写があった。藻のかおりと髪のかおりとの中に伊大利(いたりー)の海が鈍い銀色に光る官能的なあのパッセイジはこうして砂の上に寝て海の声をきいているとしみじみと心によびかえされる。

 海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁った緑色(りょくしょく)につぶつぶと不平らしい泡をたてゝあるが、遠い所は濃いエメラルド、グリインからインヂアン、ブリユウに至るあらゆるうつくしい語調をつくって南の空をめぐる太陽の下に、はればれと笑っている。ゴルキイの Malva 第一行に the sea is laughing とかいてある。丁度その様に海が笑っているのである。

 日が傾いて砂の上に落ちたものゝ形が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかえってくる。

 玉蜀黍(とうもろこし)の畑で行水をつかい、夕飯(ゆうめし)をすましてから散歩にゆく。清水(しみず)の町へゆく事もある。龍華寺(りょうげじ)鐡舟寺へゆく事もある。豆の葉の黄色くなった畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちているのに気がつく。蛙(かわず)がなく。「種豆南山下、草長豆苗稀」と云うような田園詩の気分をなつかしく思う。

 ……………略……………

  1・Aの手紙  その三

 ……………略……………

 木曽は大へん蚤の沢山いる所だった。福島へ泊った晩なぞは体中がまっ赤にふくれ上ってまんじりとも出来なかった。これから木曽へゆく旅客は是非蚤よけを持ってゆく必要がある。矢張福島で横浜商業の生徒と相宿になった。体格のいゝ立派な青年だったが驚く可く寝言を言う。夜中にいきなり「冗談云ってら、そんな事があるもんか」とか何とか云われた時には思わずふき出しちまったものだ。

 ……………略……………

 かけはしだの寝覚めの床だのに低徊してからやっと名古屋へ行った。……僕たちは伊東屋呉服店の木賊色(とくさいろ)と褪紅色(たいこうしょく)との NUANCE を持った食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た。偕楽亭の草花の鉢をならべたヴエランダであいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯(ひ)の海をあるく名古屋人を大勢見た。そうしてその中のどいつをみても皆いやな奴であった。某々(ぼうぼう)の会社からの紹介状や名刺を出して参観を頼んだ。帳簿や書類の間から黄疸やみのような顔を出す書記や給仕や職工に大勢遇った。そうしてそのどいつをとってみてもみないやな奴ばかりだった。

 至るところで旅烏の身に与えた不快な印象を負っていたるところの工場で参観を拒絶されて僕たちはとうとう中京と呼称する尊敬すべき名古屋を御免蒙った。僕は名古屋と甲府ほど嫌な都会を見た事がない。尤も名古屋に蚤のいないだけは木曽より有難ったけれど。

 

[やぶちゃん注:「1・Aの手紙  その三」は底本では「1Aの手紙  その三」となっているが、前後と照応させて、特異的に中黒点を打った。また、「鵠沼」には「くがぬま」のルビがあるが、採用しない(無論、「くげぬま」だからである)。更に、Giorgio」は実は底本では「Ciorgio」となっているのであるが、これも綴りの誤り(後の原書簡参照)であるので、特異的に訂した。最初の略のリーダ数が少ないのはママ。

 まず、最初の方の「1・Aの手紙  その二」の書簡抜粋は、岩波旧全集書簡番号一〇〇の大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持ったものである。以下に全文を示す。

   *

其後君の返事を待つてゐたが來ないから之をかく

大學の手續は分つたかね

結婚問題は片づいたかね

本は屆いたらうか

以上用事 之から僕の生活をしらせる

朝六時頃起きて床をあげ部屋の掃除をする

朝飯 飯は大抵少し糠くさい それから机を西向の窓の下にうつして本をよむ 窓の外は桑畑 幅の廉い綠色の葉に蕗が眞珠のやうに光つて其間にうなだれた夾竹桃の赤い花を蜂が唸りながらふるはせてゆく 土のにほひ 八月の日光 十時頃机を東の庭にむいた座敷へうつす もう簾一面に當つてゐた日が椽に落ちて座敷には微涼が芭蕉の葉のほのかなにほひと共にうごいてゐる 白つちやけた砂まじりの庭の土に山茶花 枇杷 棕櫚竹が短い影をおとす 蟬の壁 晝飯をくつてから一時間 午睡をするか新聞をよむかする 新聞は國民で三重吉の桑の實を每日おもしろくよんでゐる

一時うつと手拭を腰にさげて一高の夏帽子をかぶつて海水浴へ行く 浴場は江尻の海岸で寺から約半里ある 途は可成あつい 桑の葉黍の葉の綠、胡麻の花のうす紅 埃に白けた月見艸がしほれ乍ら路ばたにさいてゐる 不二見橋と云ふのを渡る 欄干の下を碧い水がみがいた硝子板の如く光り乍ら流れる 半町ほど隔てた港橋の向ふには漁船の檣が林立して其上に晝の月が消えさうに白く浮んでゐる 橋の袂の氷店の赤い緣をとつた旗の下をすぎると低い茅茸瓦屋根の狹い町になる 理髮店 梨や西瓜を商ふ靑物店 機屋 荒物屋 それらの家々の間には玉蜀黍の葉がそよぎ黃色い向日葵の花がさしのぞく 町はづれの松原を二三町行くと煉瓦燒場の低い板葺 美普教會の尖つた塔が江尻に近づいた事を知らせる 路ばたの甘藷畑、砂糖畑の向ふに靑い海が的爍と光るのも見える 輕便鑄道(清水靜岡間)の線路を一つ橫ぎると江尻で魚屋の壁にはられたすゝびた江戸役者の似顏繪も宿驛らしいなつかしさを感ぜしめる[やぶちゃん注:「美普教會」「みふきょうかい」(現代仮名遣)。日本美普教会(The Methodist Protestant Church)のこと。メソジストの流れにあった日本の教派であるが、米国メソヂスト教会からは正式には後の昭和五(一八三〇)年に分離している。但し、昭和一七(一九四二)年に日本基督教団の部制解消によって消滅し、この教派は現存しない。詳しくはウィキの「日本美普教会」を参照されたい。但し、これは大正二(一九一三)年の記載であるから、龍之介は「メソジスト(派)の教会堂」の意で使っている。]

江尻停車場の後をだらだらと海へ下る 錢道院の管理の下に營業する海水茶屋が三四軒葭津張を海へ張り出して旗をたてたり提灯を吊つたりして客をよんでゐる 無料休憩所へはいて[やぶちゃん注:ママ。]着物をぬぐ

江尻の海岸は眼界が餘り廣くない 右に長くさし出た三保の半島 左にたゝなはる愛鷹の連嶺 その間には伊豆の山々が曇つた日はかすかな鼠色に晴れた日にはさえた桔梗色に長く連つてゐるために殆水平線と云ふものは見られないと云つていゝ 唯鹽分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云ひやうのない美しい靑藍色をたゝへるのがうれしい

設備も鎌倉や鵠沼に比ると不完全だが靴をはいて泳ぐやうな人を見かけないのが取柄だらう

泳ぐのにつかれると濡れた體を熱い砂の上にふせてうとうととねむりながら懶い海のつぶやきをきく D’annunzio Triumph of Death Giorgio Ippolita が海水浴をする美しい描寫があつた 藻のかほりと髮のかほりとの中に伊大利の海が鈍い銀色に光る官能的なあの PASSAGE はかうして砂の上に寐て海の聲をきいてゐるとしみじみと心によびかへされる

海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁つた綠色につぶつぶと不平らしい泡をたてゝゐるが遠い所は濃い EMERALD GREEN から INDIAN BLUE に至るあらゆるうつくしい諧調をつくつて南の空をめぐる太陽の下にはればれと笑つてゐる Gorky Malva 第一行にthe sea is laughing”とかいてある丁度その樣に海が笑つてゐるのである

日が傾いて砂の上に落ちるものの影が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかへつてくる

玉蜀黍の畑で行水をつかひ夕飯をすましてから散步にゆく 龍華寺錢舟寺へゆく事もある 淸水の町へゆく事もある 豆の葉の黃色くなつた畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちてゐるのに氣がつく 蛙がなく

〝種豆南山下 草長豆苗稀″と云ふやうな田園詩の氣分をなつかしく思ふ[やぶちゃん注:終りのクオーテーション・マーク「″」は底本では左下にある。]

鴟尾の一つかけた寺の門の上に月をみながらかへつて來て蚊帳をつる 寐る その間に近所の小供や寺のおかみさんと話しをする事もある 小栗栖君の不二見一村に於ける人望は大したものである 八木君も中々信用がある 僕に至つては到底あんなに評判がよくなりさうもない

戸田君の逸話も寺のおかみさんからきいた 行水を使ふときにみそのおしろいをつけるのださうだ 冗談ぢやあない いくらやさ形だつて二十三になる男がおしろいなんぞつける奴があるもんですかと云ふとまああんたいくら田舍者だつとつてもみそのおしろいぐらいはしつとりますわね ほんとうですよあんたと極力主張する この分では僕もあとで何とか云はれさうだ 餘程素朴質素な生活をしなくつちやあ小栗栖八木兩君に封しても申譯が立たないやうな氣がする

毎日鹽からい田舍料理と鹽からい海水をのむので甘い物が戀しくて仕方がない 尤も東京からデセールや甘納豆やバナヽケークなどを持つて來た事は來たがそれも一週間たゝないうちに食つてしまつた 此近所の菓子は實にまづい 仕方がないから淸水迄ミルクセーキをのみにゆく事にしてる

蛙がどこにでも澤山ゐる 蛇の顏に HUMANITY があると云つたのは Walter Pater だが僕には蛙の方が更にHUMANITY がある樣な氣がする 東京近在にはゐないが黑白染分けの小さな蛙が行水を使ふ時なぞ鼻のさきへ來てすはつてゐると何だか口をきゝさうで氣味が惡い 一寸佐藤修平のひまごのやうな氣もする

BÖCKLIN に「魚の王」と云ふ繪がある 人の顏と魚の顏とを一緒にしたやうな醜怪な動物の肖像だが蛙をみると僕は必この魚の王を思ひ出す

もう一週間もしたら鶴沼へうつるかもしれない さようなら

    八月十五日

   *

この年の七月一日、芥川龍之介は第一高等学校一部乙類(文科)を卒業(全二十六名中、成績は二番であった。一番は、何を隠そう、この筆者井川恭であった)している(既に無試験によって東京帝国大学文科大学英吉利文学科への入学が決まっていた。井川は京都帝国大学法科へと別れ別れとなった。また原書簡冒頭から既にこの時、恒藤家への養子婿入りの話がほぼ終わっていたことも明らかになる。なお、この当時、大学初年で既に婚約が決まっているというのは必ずしも特異なケースではない)。以下、あくまで「翡翠記」の本文に対して注を附す(そうしないと、私の偏愛するベックリンの注まですることになってエンドレスになるからである)。

 芥川龍之介はこの大正二(一九一三)年八月(大学の入学は九月)の六日(新宿の自宅発で当日着)から同月二十二日(自宅着)まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村の臨済宗新定院(現在の清水市清水区北矢部町に現存。ここ(グーグル・マップ・データ))に滞在している。この書簡は、そこから京都に既に移っていた井川へ宛てたものである。

「江尻」この中央の南北の海岸線(当時はもっと内陸にあったものと推定される)の広域地名と思われる。北の現在の内陸に「江尻町」があり、反対の南の内陸位置に「不二見小学校」がある。

「愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)」静岡県東部、富士山南隣に位置する火山愛鷹山(あしたかやま)。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰を指し、「愛鷹山塊」或いは龍之介の言うように「愛鷹連峰」とも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靴をはいて泳ぐ」女性やハイカラを気取った男子が足や蹠(あうら)を傷つけるのを嫌ってゴムやズック製の靴を履いていたものか。そうでなくても日本の当時の上流階級の海水浴客は、上下ともかなりロングな海水着を着て、身体を隠して泳いだ。それは、かの夏目漱石の名作「こゝろ」の冒頭(現行の「先生と私」の第二章。リンク先は私の初出版注釈「心」)で、

   *

大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。

   *

でよく判る。この「先生」と学生「私」の鎌倉海岸でも邂逅については、私は明治四一(一九〇八)年の八月に比定している。詳細は私の『「こゝろ」マニアックス』の後半の作品内時系列の推理部分を参照されたい。

「ダンヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。

Triumph of Death」ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説Il Trionfo della Morte(「死の勝利」)。私は読んでいないので、「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を引く。快楽主義者である主人公ジョルジョ・アウリスパがイッポリタという女性との恋愛に惑溺し、次第に自分の感覚までも疑い始め、最後には死のみが女の情熱に勝利し得ると悟って、イッポリタを海岸に誘い出し、彼女を抱いて海に沈むという物語。しかし、小説の筋立ては必ずしも統一のとれたものではなく、寧ろ、美文による音楽的詩的効果に力点がおかれている。作者は自著の膨大な小説群を「百合のロマンス」「柘榴(ざくろ)のロマンス」「薔薇のロマンス」という種類に書き分け、この「死の勝利」は「薔薇のロマンス」三部作の最後の作品としている。全般にニーチェの超人思想の影響が色濃く表われている。

「パッセイジ」原文はご覧の通り、英文。「経緯」や「推移」だが、作品を音楽に比喩しての「楽節」の意の方がしっくるくるように私は思う。

「ゴルキイ」原文は英語(ラテン文字転写)。社会主義リアリズムの創始者とされるロシアの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年:本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネーム「ゴーリキー」(Го́рький:旧綴り:Горькій)はロシア語で「苦い」の意。

Malva」「マールワ」(女性名)。一八九七年にゴーリキーが発表した短篇。井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、歌劇「夢見るゲルゲ」でツェムリンスキーが素材検討した本作についての梗概が載るので引用させて戴く。

   《引用開始》

妻と息子のもとを去って海岸にやってきて、網元の見張り役として働くワシーリイは、奔放に生きる若い女性マールワを自分の情婦として扱っている。そこに、息子のヤコヴが現れ、やはり漁師として働き始める。マールワはヤコヴにまとわりつき、一方でワシーリイから心を離したような態度を取ったり、逆にあらためて誘惑したりするので、ワシーリイは気が気でない。やがてヤコヴもマールワに魅了されてしまい、ワシーリイから彼女を奪う決意をする。そこに、漁師として長く働いており、村から来たワシーリイを嫌っているセリョージカがつけこむ。彼はマールワにはたらきかけて、ヤコヴがワシーリイと対決するように唆させる。ふたりはセリョージカとマールワの計略に嵌って喧嘩を始め、ヤコヴがワシーリイを殴り倒す。失意のワシーリイが村へ帰る決意をする一方で、ヤコヴは意気揚々とマールワに求愛するが、マールワはヤコヴを軽くあしらう。ワシーリイはセリョージカに真相を知らされて怒りに震えるが、どうすることもできない。セリョージカはワシーリイの後釜におさまり、マールワは今度はセリョージカの情婦となる。

   《引用終了》

「第一行に the sea is laughing とかいてある」やはり先に引いた井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、「ゴーリキイ全集」第二巻(袋一平訳・昭和六(一九三一)年改造社刊)の邦訳が載る(井上氏によれば引用に際して表記を現代語に改めた由の注がある)ので、やはり引用部だけを引用させて戴く。原論文の傍点「ヽ」は太字に代えた。字配はママ。

   《引用開始》

海が――笑っていた。

 熱風の軽い息使いの下で身震いしていて、眩くばかりにキラキラと陽を反射しているさざなみをいちめんに湛えながら、青空に向って、幾百千の白銀の微笑をほほえんでいるのだ。その海と空との間の深い空間には、砂浜の坂になっている岸辺に、一つまた一つと続けざまに駆け上る、陽気な波の拍手の音がただよっている。その音と、さざなみのために幾千倍となって照り反されている太陽の輝きとが、生命の歓喜でいっぱいな不断の運動の中に諧調的に溶け合っている。太陽は、輝いているということで幸福であるし、海は、太陽の大喜びな光を反射しているということで幸福を感じているらしい。

   《引用終了》

「龍華寺(りょうげじ)」静岡県静岡市清水区村松にある日蓮宗龍華寺。「りゅうげじ」が正しい(公式サイトで確認済)。東海の名刹と謳われ、富士山の眺望の素晴らしさから、多くの人に親しまれ、「滝口入道」を書いた、ニーチェや日蓮に傾倒した国家主義者作家高山樗牛(明治三五(一九〇二)年十二月二十四日)の墓もここにある。ここ(グーグル・マップ・データ。北北西直近に次の鉄舟寺も確認出来る)。若き日の龍之介は樗牛を愛読していた。本時の訪問を含め、芥川龍之介の随筆「樗牛の事」(大正八(一九一九)年『人文』初出)に詳しい。「青空文庫」の新字新仮名版でここで読める。実は、芥川龍之介にはこの寺の住職夫婦をモデルとしたと思われる小説草稿「絹帽子」が存在する。これは大正五(一九一六)年に下書きが書かれたものを、五年後の大正十年、中国特派の直前に、特別に(他の原稿執筆は旅行の準備のために総て断っていたらしい)『中央公論』のために完成を目論んだ(新全集の「後記」に、当該草稿原稿の末尾に『中央公論』の編者によって書かれた経緯が記されてあり、それによって以上の事実が判明している)が、何故か不明であるが(恐らくは、芥川龍之介自身が原稿の一部に納得のいかない箇所があったものと思われ、龍之介自身が掲載を取りやめるように指示したのではないか)、発表されていない。旧全集に載り、新全集ではそれに、書き換えたものと思しい部分的な第二草稿も紹介されている。草稿と言っても、第一草稿は断片ではなく、全体の結構ははっきりととられており、それなりに「一つの完成作として読むことが可能な草稿」である。初期草稿はまさに署名が「柳川龍之介」となっており、それを抹消して「芥川龍之介」としてある旨も新全集「後記」記されている。これは、近いうちに電子化したいと思っている。

「鐡舟寺」龍華寺と同じ村松にある臨済宗鉄舟寺。ウィキの「鉄舟寺によれば、『飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた』。永禄一三(一五七〇)年、『武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり』、『新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる』。『江戸時代には朱印寺領として』二百『石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった』。『その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い』とあるから、龍之介の目当てはそれであろう。

「種豆南山下、草長豆苗稀」陶淵明の「歸園田居 五首」(田園の居に歸る)の「其三」の冒頭の二句。

   *

 

種豆南山下

草盛豆苗稀

晨興理荒穢

帶月荷鋤歸

道狹草木長

夕露沾我衣

衣霑不足惜

但使願無違

 豆を種(う)う 南山の下(もと)

 草 盛んにして 豆苗(たうみやう)稀れなり

 晨(あした)に興(お)き 荒穢(かうゑ)を理(ととの)へ

 月と帶(とも)に 鋤(すき)を荷(にな)ひて歸る

 道 狹くして 草木(さうもく)長じ

 夕露 我が衣を霑(ぬ)らす

 衣の霑(ぬ)るるは惜むに足らざれど

 但(た)だ 願ひをして違(たが)ふことを無からしめよ

 

   *

「1・Aの手紙  その三」この書簡は岩波旧全集には所収されていない(或いは新全集には含まれているかも知れぬが、確認出来ない)。問題は、この書簡が書かれた時期であるが、内容から見て、これは前の書簡よりも前、大正元(一九一二)年八月の夏季休業中、同月十六日から友人(中塚癸已男(明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年:「きしお」と読むか)と思われる。鷺只雄年譜(「年表読本 芥川龍之介」一九九二年河出書房新社刊)には『一高に合格した友人(未詳)二人で』とあり、彼は二浪してこの年に一高に合格しているからである。彼とは槍ヶ岳にも一緒に登攀している府立一中時代からの古い友人で、後に山一證券調査部に勤務した)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出た時のものである。新全集の宮坂覺年譜によれば、同八月十七日には御嶽山に登攀、翌十八日頃には名古屋に到着した模様で、二十日には名古屋を発ち、帰宅(新宿)している。

「偕楽亭」不詳。古い資料を見る限り、名士の歓迎会や相当な人数の祝賀会などが、ここで行われているから、名古屋市内にあったかなり大きな、有名な料亭かレストラン(「ヴエランダ」「あいすくりいむ」)と推定されはする。]

 

2018/01/13

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」

 

     

 

 ある日戸棚の中に蔵(しま)って置いた行李を出してそのなかの物を検べた。

 いろいろの日記だの、記録だの、スケッチブックだのと一緒に古い手紙がたく山入っていた。尤も用事の手紙は其用事が結了した後は存在の価値を失ったものと認めて引裂いてしまうて、残っているのは純粋な書信とも云う可きものばかりであった。

 その手紙の中には高等学校にいたころ出来た友人からの便りも大分あった。向(むこう)が陵(おか)の自治寮で起臥(おきぶし)を共にした友人の中でその後も書信を往復している四人の手紙がかなり沢山積っていた。A君、Ⅰ君、F君、N君と呼ぶことにする。[やぶちゃん注:「向(むこう)が陵(おか)」旧制第一高等学校の別名。「向陵(こうりょう)」とも称した。東京都文京区向丘にあったことに由来し、「旧制第一高等学校寮歌」の第一番は「向が陵の自治の城、サタンの征矢はうがちえで、アデンの堅城ものならず、こもる千餘の大丈夫は、むかし武勇のほまれある、スパルタ武士の名を凌ぐ。」である。]

 Aは東京の大学の英文科にいる。[やぶちゃん注:これが芥川龍之介である。]

 Ⅰはおなじ大学の史学科、Fは哲学科にいる。[やぶちゃん注:「I」は後に歴史学者・東洋学者となった石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)。千葉市出身。底本後注には『石田静之助』とあるが誤植である。「F」は後の哲学者藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)。愛媛県出身。ドイツ留学後、甲南高等学校教授。孰れも芥川龍之介とも友人。]

 Nだけは京都の大学の法科に籍を置いている。[やぶちゃん注:長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当った。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当り、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。]

 この四人はみなかっきりと互いに異った性格を有(も)っている。[やぶちゃん注:太字は傍点「ヽ」。]

 Aは芸術を生活の中心として生きている。生れは東京である。

 Ⅰは驚嘆すべき記憶力の所有者でその生命は学問の研究に存している。生れはやはり東京である。

 Fは一切の努力の方向を道徳に向って集注せしめようと努めている人間である。伊予の生れである。

 Nは信仰の人である。彼は多くの事柄をキリストに結びつけて考える癖がある。土佐の人である。

 僕がこの四人に対する関係も亦彼らが友人であると云う点に於いて共通している外はそれぞれ小さからぬ差異がある。

 僕は彼等が二三年前に寄越した古い手紙をして彼れらの個性を語らしめたいと思い付いた。

 

  1・Aの手紙   その一

 上野の音楽会の切符を三枚もらったから君と僕と僕の弟と三人できゝに行った。楽堂の一番高い処にすわってまっていると合唱がはじまった。非常に調子はずれな合唱である。誰かゞ、あれは学習院の生徒のだからあゝまずいんだと云った。そのうち妙な女が出て来た。桃色のジュボンをはいて緑色のリボンをつけている。其女が「私は井上の家内であります」と云った。はゝあ俳優の井上の細君だなと思っていると、女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云うかと思うと妙な手つきをして体操みたいな事をやりはじめた。よくみると女のうしろの台の上に小さな女の子が二人礫(つぶて)[やぶちゃん注:これは「磔(はりつけ)」の誤り。本章最後に附した注の原書簡本文を参照。]のように両手をひらいて立っている。それが手を動かすにつれて眠るらしい。そのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行って一緒に成って妙な手つきをしている。何故だか知らないが、「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云って実は九尾(くび)の狐なんだ」と考えたから、君にどうしたらいゝだろうと相談した。其答が甚だ奇抜である。「狐と云うものは元来臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわっと云えばにげるにきまっている」と云うのである。そこで其通りに実行した。すると果して女は白い南京鼠程な狐になってストーブの下へきえてしまった。[やぶちゃん注:「南京鼠」(なんきんねずみ)はハツカネズミの飼養白変種。愛玩用及び実験用。]

 それで目がさめた。近来に無い愚劣な夢である。

   ………略………

 イエーツを送った。義曲(ぎきょく)[やぶちゃん注:「戯曲」の誤り。同前。]は少ししらべている事があるので送れない。

 僕は郵便制度に迷信的な不安を持っている。其上F君からの便りが途中で紛失してから一層物騒になった。本がついたら面倒でもしらせてくれ給え。聊(いささか)心配になる。

 此間ベルグソンの「笑」をよんだ。理屈が割合にやさしかったのでよくわかった。よくわかったから面白かった。

 面倒くさいな。書くより逢って話しをした方が遥に埒があく。僕は君に話す事が沢山ある。一日しやべってもつきない程沢山ある。

[やぶちゃん注:柱の「1・Aの手紙   その一」は一字下げであるが、後の同様の柱が二字下げであるので、それに合わせておいた。さて、この手紙は大正四(一九一五)年(この年次は推定。後で問題にする)十二月二十一日田端から井川恭宛で旧全集書簡番号一九二(転載掲載。恐らくは恒藤の著作から)である。以下、全文を引く。

   *

獨乙語の試驗一つすまして休みになつた

毎日如例 漫然とくらしてゐる 昨日は成瀬のうちへ行つて 久米と三人 暖爐のまはりに椅子をならべて一日話しをした 久米のかいてゐる戲曲の慷概[やぶちゃん注:「慷」はママ。「梗」の誤字。]もきいた 成瀨もやがて小説をかくと云ふ事であつた 無能なら僕は無能なるまゝに此休みも漫然と本をよんでくらさうと思ふ

 

上野の音樂會の切符を三枚もらつたから君と僕と僕の弟と三人できゝに行つた樂堂の一番高い所にすはつてまつてゐると合唱がはじまつた非常に調子はづれな合唱である誰かゞあれは學習院の生徒の合唱だからあゝまずいんだと云つた そのうちに妙な女が出て來た桃色のジュポンをはいて綠色のリボンをつけてゐる 其女が「私は井上の家内であります」といつた はゝあ俳優井上の細君だなと思つてゐると女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云ふかと思ふと妙な手つきをして體操みたいな事をやりはじめた よくみると女のうしろの臺の上に小さな女の子が二人 磔のやうに兩手をひらいて立つてゐる それが女の手を動かすにつれて眠るらしいそのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行つて一緒になつて妙な手つきをしてゐる何故だかしらないが「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云つて實は九尾の狐なんだ」と考へたから君にどうしたらいいだらうと相談した 其答が甚奇拔である「狐と云ふものは元來臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわつと云へばにげるにきまつてゐる」と云ふのであるそこで其通りに實行した すると果して女は白い南京鼠程な狐になつてストーブの下へきえてしまつたそれで目がさめた 近來にない愚劣な夢である

東京の大學ぢやあローレンス先生の御機嫌をよくとらなくつちやあ駄目ださうだ「さうだ」と云ふが之は皆先輩が「だ」と云ふのを君に傳へる爲に「さうだ」と謙遜したんだから確な事實として駄目なのである一體先輩たちが此樣な不合理な事の行はるゝのを默過するのみならず後輩をして其顰に習ふべく勸告するに至つては言語道斷であると思ふ 卒業論文はキーツ以後に下つては及第しないワイルドをかいて一番びりで卒業した人の如きは僥倖の大なるものである其上古代英語中世英語を學ばざるものは駄目で研究室に出入してチョーサアやスペンサーの質問をローレンスにしないものは駄目である英文の助手に井手と云ふ文學士がゐるが机の上ヘワイルドをのせておいたらローレンスが來て眉をひそめながら「不肖ながら自分は未こんなものに頭をわずらはされる程愚にかへつてはゐないつもりだ」ときめつけたそこで井手君は爾來ワイルドは悉机のひき出しにおさめて よまないふりをしてゐると云ふ話しである もう少し尊王攘夷をやらなくつちやあ駄目だと思ふが下手に動くと却つてひどい目にあふからこまる

山宮さんの如きは此點に於ては成功者で字の形までローレンスをまねて得意になつてゐる

松浦さんの講義も少し座談めいてゐる 夏目さんの文學論や文學評論をよむたびに當時の聽講生を羨まずにはゐられないどうしてかう譯のわからない世間だらうと思ふ

 

イエーツを送つた 戲曲は少ししらべてゐる事があるので送れない

僕は郵便制度に迷信的な不安を持つてゐる其上藤岡君からの便りが途中で紛失してから一層物騷になつた 本がついたら面倒でもしらせてくれ給へ聊心配になる

 

此間ベルグソンの「笑」をよんだ 理屈が割合にやさしかつたのでよくわかつた よくわかつたから面白かつた 面倒くさいな かくよりあつて話しをした方が遙に埒があく僕は君に話す事が澤山ある一日しやべつてゐてもつきない程澤山ある

 

城下良平さんが遊びに來たから筆をすてる皆さまの健在を折る

    十二月廿一日午後

   恭   君 梧下

   *

さて、の旧全集に推定年次は誤りである。何故なら、これでは、この手紙が芥川龍之介の松江訪問に後に出されたことになってしまうからである。新全集の宮坂覺氏の年譜を閲するに、新全集では恐らく前年、則ち、大正三(一九一四)年に正しく移されているように思われる(私は新字体で気持ちの悪い新全集の書簡巻は所持しない)。この推定年次の誤りは底本の編者も気づいており、やはり大正三年十二月説を注で主張している。

「イエーツを送った」大正三年の三月の井川と書簡のやり取り(旧全集書簡番号一二三・一二五)によって芥川龍之介が井川に『新思潮』でアイルランド文学号を出す関係から、ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)のThe Secret Rose(「神秘の薔薇」一八九七年)を借りていることが判るので、それを返送したことを指しているようである。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「三」

 

     

 

 あさ日が向いの岸の高い樹々の梢を漏れて、濠の水のうえに落ちて来る。夙くめざめた人が棹をさして徐(しず)かに濠のうえに船をすべらせて往った後には、水がゆんらゆら何時までも揺(うご)いていて、そのうえに落ちる日の光りの反射をこちらの家の椽に向っている壁や天井に投げあげる。反射された光りは天井に沿い壁を伝って彩(あや)も無くめまぐるしく乱れ騒ぐ。

 弟が靴を穿きゲートルの釦(ぼたん)をはせて出て行ったあとには、母が洗いものをしたり家の掃除をしたりする。それがすむと円いめがねをかけて一しきり聖書をよんでいる。それもすませると今度は押入からつぎ布(き)れや針箱を出して縫物をはじめる。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

 僕はとなりの部屋で気の向いた書(ほん)をよむが、じきに飽いて散歩に出かける。家の前を一寸曲がって櫨(はじ)の木の生えている川沿いに行く。[やぶちゃん注:「櫨(はじ)」のルビはママ。双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum のこと。或いは、松江では「はぜ」を「はじ」と呼ぶのかも知れぬ。]

 明るい耀やかしい朝の日光が一杯にそゝいで作物の緑りを鮮かに浮き立たせている畑のなかで、家庭学院の少年たちがよく畑(はた)を打っている。きのう今日は周囲の杉垣を長い鋏で苅り込んでいた。[やぶちゃん注:「家庭学院」底本の後注に『松江城下西側稲荷橋の近くにあった少年厚生施設』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。稲荷橋西詰めの角の辺り。]

 彼れ等のいずれもがそれ夫(そ)れその生涯に附きまとう何らかの暗い影を持っている為にそこの建物に収容されているのであろうが、活発なあさの日の光りの躍動と元気好げな早朝の労働とは、そう云ったようなくらい影を痕も無く消して、同じ年配(としごろ)の少年たちの誰れもが享け得る幸福を平等に彼れ等のうえにもやどらせているように思われた。[やぶちゃん注:「それ夫(そ)れ」のルビはママ。]

 城見畷(しろみなわて)の方をながめながら稲荷橋を渡って御城内へ入って行くと急に湿めやかな露をふくんだ草木(そうもく)の気が冷(ひ)いやりと迫って来る。片側は雑木や竹笹の密生している崖であるが、片側はどれも是も屋根庇(ひさし)の朽ちた古い家がまわりに生籬(いけがき)をめぐらして離ればなれに立っている。その薄暗い玄関の戸口から出て、傾きかゝつている門をくぐり、苔蒸した石段を踏んで、どんなさびしいすがたの人が下りて来るだろうかとうつかり想像がはたらき始める。[やぶちゃん注:昔、芥川龍之介の俳句研究で非常にお世話なった「松江一中20WEB同窓会・別館」(サイトリンクの一番下に私のサイトが紹介されている(但し、旧リンク))の塩見?城見?を参照されたい。現在の松江市北堀町の中央附近(グーグル・マップ・データ。小泉八雲旧居に近い)の呼称である。]

 血の気の褪せた青白い顔に過ぎ去った時代の俤(おもかげ)をただよわせ、細く切れた眼のふかい暗いひとみの中に荒廃の底に沈んで行く一切の古いものの悲しみを湛えている様な肩のやせた女のかたちが影のように目の前をとおりすぎる……そうした幻影を苦も無く裏切って現(うつつ)の人があらわれる事をないしょで怖れながら独り歩みを早めて行く。

 高い高い松の木と椎の木とが抱き合いながら路の上に蔽いかぶさるように生えている下をとおってギリギリ井戸のあたり迄来ると今まで自分が爽かな夏の朝の涼しさにひたひたに浸りながら歩んで居たんだと云うことを、俄かにそして泌(し)みじみと意識する。[やぶちゃん注:「ギリギリ井戸」底本の後注によれば、城内の『馬洗池の向かいにあった井戸』とあるから、附近にあった井戸と思われる(グーグル・マップ・データ)。]

 稲荷橋を渡ってからめがね橋に来るまでの城の裏手の道、灌木と荊棘(いばら)に蔽われている城の石垣、その下に浮き藻を揺(ただよ)わせてあおぐろく淀んでいる濠の水――廃滅と静寂とがつめたい頬を摺り合せてそれ等のものゝ間に「過ぎし世」の悲しみをなげき歌うている。[やぶちゃん注:「めがね橋」松江城の東にある北惣門橋のこと((グーグル・マップ・データ))。ここはかつて石造アーチ橋であった(現在は木製の平板な橋に架け替えられてしまっている)。]

 螺旋形(らせんけい)の馬車道だのペンキ塗の興雲閣(こううんかく)だのが、城跡や、城跡の持っている情趣やと没交渉の存在の権利を不当に要求している城山の表側の方へは帰ってから未だ一度も歩みをすゝめたことがない。[やぶちゃん注:「興雲閣」旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。(グーグル・マップ・データ)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二」

 

     

 

 お花畑の町はさびしい町である。[やぶちゃん注:「お花畑」底本の後注に『松江城(千鳥城)西麓の内堀に沿った町の名。井川芥川を迎えるために、松江市中原町一六七の堀端の一軒屋を借りた。この借屋は、前年』、かの作家『志賀直哉が三月滞在していた家で、「濠端の住まひ」』(大正一三(一九二四)年十月執筆。大正十四年一月号『不二』初出。所持する岩波書店「志賀直哉全集」に拠る)『の舞台ともなった家である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 くらいお濠の水を隔てゝ城山の杜(もり)と対(むか)い合っている小(ささ)やかな家のうちに僕は母や弟とこのあけ暮れをすごしている。

 幼かった頃、おさない心に取ってはロマンスと一種の恐怖との宿り所であった城山は、今でもそうした感じの痕跡の或るものを心に刻みつけている。

 透徹した朝の静かさの好きな僕は早くから起きて庭へ下りる。紫陽花の花がうつゝない空色の葩(はなびら)を簇(むらが)り咲いている井戸端で顔をあろうたのち庭先の石段を二つ三つ下りて蹲踞(しゃが)んだ儘じっと濠のうえを眺める。[やぶちゃん注:「簇」は底本では「竹」(かんむり)ではなく(くさかんむり)であるが、ブラウザでは表記出来ないので、一般的に知られている漢字で示した。]

 鈍い緑りいろに澱んだ水の面からほの白いあさ靄が慄(ふる)えながら立ちのぼって、向いの岸のさゝ藪や水草やのかたちを曖昧にする。考えるとも無く暁け方に見た夢のなかの事件の発展をねぼけ気に頭の中に思いうかべてうっとりしている瞬間に、向いの杜の蔭深く夜を明かした鶯がはやくからすゞしい声でほゝうほけきょと啼く。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

 毎日聴き馴れた声だけれど朝は復(また)新たな音(ね)にきこえると云ったように樹や笹やみず艸や濠の水やが恍惚(うっとり)と聞きとれる。

 石段の両側から無花果(いちぢく)の木と桑の木とが枝を交していて、毎あさ定(きま)りて蜘蛛が、そこに蹲踞む僕の頭のうえあたりに網を張っている。ほそい繊(しなや)かな糸を巧みな均整の角度に張り渡してつくった手際をほこるように、すべての糸の輳(あつま)る中心に八つの肢(あし)をそろえながら逆さにとまってそのふしぎな虫は黒に黄のだんだらの模様のある腹を杜のこずえから落ちて来る朝の光にさらしている。

 頸を延ばして濠の上の方をながめると両岸の樹木の連なりが次第に狭(せば)まっている端(はて)に稲荷橋の際の松の木が見えて、その梢につゞいて白鹿(しらが)山のなかの一つの峯が鋭くとがった尖端を軟かな藍いろにうるむ暁の空に突き立てゝいる。[やぶちゃん注:「稲荷橋」(グーグル・マップ・データ)の中央上部で松江城内に繋がっている橋。「白鹿(しらが)山」松江市法吉町にある標高百四十五メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。]

 心がしばらくの間一切の濁った内容を振り捨てゝ、生まれたまゝの明るさに透きとおる、物と心とが溶け合うと云う純一無雑のふかしぎの世界の光りがちらと現われて、じきに限り無く遠いところへ消えて行ってしまう。

 石段をのぼり庭を五六歩来て板椽に立ちあがり「おいもう起きろ」と蚊帳のなかの弟を呼びにおこすと、「はあん」とねむそうな声で返事をするが、それからよっぽど経たなければ起きて来ない。[やぶちゃん注:「板椽」「いたえん」。]

 やっと起きて来たかと思うと僕が読みさしておいた新聞を腹這いに成って読みはじめる。講談の愛読者で毎朝欠かさずに眠い眼をこすりこすり読む。それと午后中学のグラウンドへ行ってベースの稽古をやる事とだけはまったく熱心なもので誰にも頼まれないでも欠かしたことはない。

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 始動 / 「一」

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」



Akutagawaragyouikawaga

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷手を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しをつけた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(従って「松江印象記」という題名は芥川龍之介自身によるものではないと考えるべきである)。この芥川龍之介の書いた部分は、実は私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』(正字正仮名版)として電子化している。ちなみに、この時が「芥川龍之介」という筆者名を用いた最初であり、この折りの水の町松江の印象は芥川の決定的な文学的原風景として残ることとなったと言ってよい。本篇はその芥川龍之介の文章も含めた井川恭著「翡翠記」の全篇の電子化プロジェクトである。「翡翠記」は最後まで読んで戴くと判るのであるが、これ、全体が、実は、井川恭の親愛なる無二の友芥川龍之介への、非常に繊細にして幽遠なオマージュの形式を採っている作品である。なお、題名の「翡翠」は作中、井川が見かける、松江の濠を翔る翡翠(かわせみ:鳥綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)を指すのでルビを振っていない点、以下の底本などでも読みを一切問題としていない点から考えても、「かはせみ(歴史的仮名遣)」(現代仮名遣:かわせみ)ではなく、「ひすいき」と読んでいると採る。「ひすい」はそれでも第一義が鳥のカワセミの雌雄を指すから、何ら、音読みして問題ないからである。

 芥川龍之介の畏友井川(恒藤)恭(いがわ(つねとう)きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年:井川は旧姓。婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江に、旧津和野藩士士族の出であった島根県庁の官吏で郡長も勤めた井川精一(漢詩人でもあり、号を雙岳と称した)の第五子次男として生まれた。後に法哲学者で法学博士となった。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べている)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。なお、私は先日(二〇一八年一月二日)、恒藤の「友人芥川の追憶」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』(「芥川龍之介追悼号」:芥川龍之介自死(昭和二年七月二十四日)直近の翌々月号)初出)も電子化している

 底本は一九九二年寺本喜徳編島根国語国文会刊によって復刻された井川恭著「翡翠記」を底本とした。但し、これは新仮名遣・漢字新字体表記・編者によるパラルビ化が施されたものである。私のポリシーから言うと、歴史的仮名遣で漢字は正字としたいところであるが、原本を持たないから、底本に従った。但し、癪なので、編集権への抵触を避けるためにも、ルビは私が必要と判断したもののみに限った。踊り字「〱」は正字化した。一部にストイックにオリジナル注を附した。

 芥川龍之介の書いた部分は、先に示した通り、私の作成した正字正仮名版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』があるので、そちらも、こちらと合わせて併読されんことを強くお薦めする。

 なお、冒頭に掲げたスケッチは、底本の見開きの著者と書名の下に、編者によって恒藤恭「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)より転載された、井川恭がこの旅(大正四(一九一五)年八月)の途中の出雲海岸で描いた「裸形の芥川龍之介」のスケッチ画である。一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したが、本図は彩色されてある。その解説書(産經新聞社刊)四十九頁にあるものを以下に掲げる。同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である。



Ragyounoakutagawaryunosuke



 【2018年1月13日始動 藪野直史】]
 

 

  翡翠記

               井川 恭


     

 一年振りにふらりと松江に帰って来た。

 あらゆる身の周囲の物たちは、それぞれに遠慮無く自己の存在を主張して、僕のあたらしい生活のうちに一角の領域をつくり始めた。

 わけも無く十日あまり経ってしまった。そのあいだに僕の心は、此旧くて新らしい環境に対してぴったりと調子を合せながら思うところへ動いて行く工夫を重ねて、いつかしら巧みな成功を贏(か)ち待ていた。

 この環境には到るところに豊富な「時間」が充ちていた。他(ほか)に贅沢を為る途を知らない僕の心は、このゆたかな賚賜(たまもの)を思いの儘に使って奢侈(おごり)をこゝろみる方法を考えついた。

 人口が無暗に膨張し、生産が止め度も無く過剰と成って、労力も貨物(かぶつ)も次第に低い価値(あたい)に見積られる傾向の在る今の世の中では、伸縮の融通の利かない時間と云うものゝ価値は殊に高かる可き筈である。斯(こ)う考えて見ると「時間の賛沢」に金箔が附いて大変ありがたいものを授りでもしたように愚かな心が得意に成った……「日長うして太古の如し」と歌った昔の人は疾(と)うからそんな奢りに馴れていたのだに。

 斯うした奢りに思いあがった心がいつしか周囲の物にしっくりと調子が合うように成った気楽さに自己表現を求めはじめた――斯うしてこの一篇はうまれ出したのである。

 だから時間と云うものを分秒の微に圧搾して出来得るだけ充実した収穫をおさめたいと考えるような人たちは決してこの記録を読んでいたゞかないが好い。と――斯うおろかな心が僭越にもつぶやいている。[やぶちゃん注:太字「しっくり」は底本では傍点「・」。以下で違った傍点が用いられるので注意。

 でも、そうは云うものの自分だって現実に対する執着からまったく脱離したと云うわけでは無い。むしろ反対に現実を強く緊(し)っかりと把握し度い為に、時間の観念の強迫から逃れ出ようとあせっているのであると――斯うその後から愚かな心が弁解がましいことを附け加え度がる。[やぶちゃん注:「度がる」「たがる」。]

 かの夏艸(ぐさ)は茂り度いだけ茂る。この記録は、かき度いだけ記(か)くと――再びそれに続けておろかな心は我儘な言い草を言う。

 こんな事を呟く愚かな心は現在の境遇に置かれる前一と月ばかりの間と云うものは、或る事情からして重い且つ苦しい圧迫の下(もと)に喘いで渇ける者が水を求めるように 「時間」の欠乏のことばかり考えていた。

 その事情とは多くの人には経験があるであろうが、他でも無い試験というものであった。やがてその圧迫は取り除かれたが、根がおろかな心のことであるから、忽ち嚮(さき)の「時間」の不足になやんだ境遇を忘れてしまって贅沢な真似を為はじめた。しかもいろいろの勝手な理屈をそれに附け加えて安心しようと努めて居る……愚かなこゝろよ! 

芥川龍之介 手帳8 (8) 《8-8》

《8-8》

Une femme throws a bag onto the net-shelf. Delicat.

[やぶちゃん注:「Une femme」のみフランス語。「一人の女性が(列車の)網棚にバッグを抛り投げる。繊細。」の意。]

 

○棚梨の莟靑める餘寒かな

[やぶちゃん注:ここにのみ載る芥川龍之介の俳句。]

 

○地堺に針金張れる餘寒かな

[やぶちゃん注:ここにのみ載る芥川龍之介の俳句。]

 

○朝日二十の箱の中に螢を入れ穴をあけて送る(空氣を入れる)

[やぶちゃん注:「朝日二十」二十本入りの煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年に「敷島」・「大和」・「山桜」とともに口付紙巻き煙草の銘柄の一つとして販売開始された。広く国民に親しまれた銘柄で、夏目漱石が愛用していたことでも知られる。]

 

Millet 大作――前の川――100圓――私設鐵道の株 賣らず

やぶちゃん注:「種蒔く人」(Le Semeur 一八五〇年が最初で複数あり)「晩鐘」(L'Angélus 一八五七年~一八五九年)「落穂拾い」(Les Glaneuses 一八五七年)などで知られるフランスのバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet 一八一四年~一八七五年)。

「前の川」不詳。ミレーの作では水辺というと、Enfants paysans à un étang d'oie(「鵞鳥の池の百姓の子供たち」)があるが、あれは川じゃない、池じゃて。]

 

○鷄卵湯――甘し

[やぶちゃん注:卵湯(たまごゆ:玉子湯)のことであろう。鶏卵を掻き混ぜて砂糖を加え、熱湯を注ぎかけた飲み物である。]

 

○茶菓子代り――

[やぶちゃん注:旧全集ではここは前とセットで『鷄卵湯。甘し。茶菓子代り。』となっている。卵湯の性質から見ると、新全集の分離(独立項)の方が正しいように思われる。]

 

study

Doctor ―― studio 式窓 疊 天井なくして屋根 矢板石 小刀

[やぶちゃん注:「studio 式窓」当時の写真スタジオにような非常に大きな窓であろう。昔の写真館では人口光やストロボがなく、自然光を使うしかなかったことから、画家のアトリエと同じように北側窓で安定した自然光が降り注ぐようにした傾斜式になっている窓などが採用された。]

 

○遊走腎 紐のゆるめるもの 腫物かと思ふ

[やぶちゃん注:「遊走腎」(ゆうそうじん)は内臓下垂症の一種。腎臓は呼吸・体位により正常人でも生理的に二~五センチメートルの範囲内で上下に移動するが、この範囲を超えて移動する場合を指す。一般に右腎に著明で、二十~四十歳の体形的に痩せた女性に多くく見られるとされる。腎臓又は腰部の鈍痛時に仙痛・頻尿・排尿痛などの膀胱の症状や悪心(おしん)などの消化器的症状の他、種々の神経症状をも訴え、血尿・膿尿などが見られることもある。症状が軽い場合は腹帯や肥満療法で軽快することが多いが、症状が著しい場合や、合併症を伴うケースでは腎固定術を行うことがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紐のゆるめるもの」遊走腎の症状を言っているようだが、よく判らない。]

 

○瓣膜病の故障 肺動脈瘤 大動脈瓣

[やぶちゃん注:「瓣膜病の故障」心臓弁膜症(心臓にある四つの弁(僧帽弁・大動脈弁・肺動脈弁・三尖弁)が炎症や外傷などによって血流を妨げられて心臓の活動に様々な支障を来たすもの)のことを言っていよう。狭窄症(弁が癒合して狭くなり、弁が開く際に血流が妨げられる症状)と閉鎖不全症(弁が閉鎖する際に不完全に閉鎖するため、血液の逆流現象が起きる症状)の二種がある。主に多く見られるのは僧帽弁と大動脈弁のそれぞれの症例で、二つ以上の弁に障害ある場合は連合弁膜症と称する。

「肺動脈瘤」動脈瘤のなかでは非常に稀れで症例報告も少ないが、この瘤破裂は致死的とされる。

「大動脈瓣」大動脈弁は心臓の左心室(模式図では向かって右下)から大動脈への血液の流出路にある弁で、左心室が収縮すると同時に開いて血液を上方の大動脈へ送り出し、左心室が拡張すると同時に閉じて、血液の逆流を防止する。三つの弁尖(べんせん)から成る。]

芥川龍之介 手帳8 (7) 《8-7》

《8-7》

○大工 屍體カイボウ(背高き爲) 洋服や何かこしらへ解剖代の金を使つてしまふ 靴出來る時金なし 靴屋曰「この靴持つて行き所なし 實費にひきとつてくれ」實費もなし

[やぶちゃん注:これは明らかに旧全集冒頭パートにあった、

   *

○大工六百圓に體をうる その金にて洋服靴をつくる 靴出來し時金なし(のんでしまふ)靴は十二文甲高故外にはきてなし 靴屋原料代にてよしと云ふ それもなし 靴屋へきえきし去る

   *

と同じ内容の記事である。しかし、表記通り、別メモ見えるから、芥川はこれを「溫泉だより」(リンク先参照)に採用するに際して、再度、草稿メモとして記したものかも知れない。]

 

○松山――京都へ出て(17 or 8) 日本畫の肖像がきのもとへ弟子入りす 東京へ出る前東京に木なしと思ひむやみに木をスケツチす 東京へ來る 汽車 水兵辨當を買つてくれる 東京へ來る 木あり

○鷄 惡しき卵をうむものは頑健 善き卵をうむのは餌と氣候とにも死すの變にも死す

○母 私生子あり 母の兄弟肺病にて全部死に一人殘る その一人東京にあり(父は隣村にあり 美男 否認す)母傭れ仕事にて生く 娘小學校にあり 「父なし」とからかはる 學校(村はづれの)からかへる時隣村へかへる男あり それを「アレガ父ナリと云ふ(母娘に説明して云ふ アレハ聟ナリシモ働キナキ故オヒ出シタト 日頃コレヲキキシ故云フナリ)男フリカヘツテ娘ヲミル15)ソノ母子ノ家正月元日の夜夜番にあたる(夜番トハ四戸ヅツ拍子木マハリ來ル)(女ハ雪袴)「オラヤンノ所ハ元日ノ夜ダ」安代(二人前ハタラク ヌヒ物ウマシ)sexual ノ發達早シ 村人and 教員藤村詩集ノヌキ書キヲ教フ

[やぶちゃん注:「藤村詩集」は島崎藤村の詩集で明治三七(一九〇四)年刊。「若菜集」 (明治三〇(一八九七)年刊。以下同じ)・「一葉舟」(明治三十一年)・「夏草」(同前)・「落梅集」明治三十四年)の合本。巻頭に『遂に新しき詩歌の時は來りぬ』に始まる序文を付してあり、明治浪漫主義の最初の開花を鮮かに誇示したとされる詩集。伝統の詩語や韻律を生かしながらも、近代的自我を基底とした官能解放・恋愛賛歌・唯美的芸術賛美の感情を詠い、生活的現実的な詩風へと変っていく過程も合本化によって観察出来る。本詩集刊行以後、藤村は詩から散文へと移ることとなる(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

芥川龍之介 手帳8 (6) 《8-6》

《8-6》

○見舞人醫師をとらへてきく(hypocrisy――家族をつる爲)

○院長病人も知らず荅ふ 責任者の荅は無責任

○偶然爲になりし失策のみ明かす(doctor hypocrisy

[やぶちゃん注:「hypocrisy」偽善・偽善的行為。語源はギリシャ語の「計算ずくの行為・演技」の意から。

「家族をつる爲」意味不詳。

「荅」は「答」に同じい。

「偶然爲になりし」意味不詳。]

 

○ヂフテリア――一二週間 9度(4、5日)。今晩注射すると翌朝なほる

anaphylaxis1000ニ3人)前に同じ馬の血淸をさしてゐる時(esp. や前に血淸をささざるも)起す過敏性 注射後10 or 5分に脈ふへ 呼吸促迫 Zyanose(血色紫になる)夢中になり2 or 3 時間に死す 手當無効 異性蛋白中毒を起す(故に10年以内に注射せしや否やを問ふ)

inflenza ヂフテリアの血淸 antitoxin を起す but 疲れて死す それでも highest authority として何か云はざるを得ざる事あり

[やぶちゃん注:1000」を含め、総てのアラビア数字は皆、縦書の中に横書(縦表記で二ケタ以上は右から左へ表記)してある。以下、特に記さないものはそう理解されたい。これから察するに、ここまでの旧全集版の「手帳」に記されている、横転した半角数字は実は縦書横組みであった可能性が大となったと私は思っている。

「ヂフテリア」
diphtheria」。ジフテリア菌の感染によって起こる主として呼吸器粘膜が冒される感染症。小児に多く、心筋や末梢神経が冒されて重篤に陥ることもあるが、予防接種の普及で減少した。

anaphylaxis」英語。「アナフィラキシー」。人や他の哺乳類に認められる、急性で全身性の比較的重いアレルギー反応の一種。ギリシャ語の「ana」(「反抗して」の意)と「phylaxis」(「防御」の意)」を語源とする。場合によっては、ほんの僅かなアレルゲン(allergen:免疫システムの IgE 抗体(Immunoglobulin E:免疫グロブリンの略。私の母はALSであったが、最初に大量投与を試みたのはこれであった。点滴一本二十万円程であったと記憶する)とは哺乳類にのみ存在する糖タンパク質であり、免疫グロブリンの一種である。が関与する抗原性物質)が生死に関わるアナフィラキシー・ショック(anaphylactic shock)を引き起こすケースがある。アレルゲンの経口摂取や皮膚への接触・特定薬品の注射・薬物や特定物質(蕎麦粉・花粉等)の吸引及び有毒生物(ハチ・クラゲなどの動物や、特定或いは有毒物質を含む植物の棘など)の刺傷(毒液注入)などにより惹き起される。

「馬の血淸」抗血清(ポリクローナル抗体(polyclonal antibody:動物血清から調製した抗体は同じ抗原に対して複数のB細胞が応答するために抗原との反応性が異なる免疫グロブリンの混合物となっていることから「ポリ」と呼ぶ。通常は単一のクローン細胞群が作る一種類の抗体であるモノクローナル抗体(monoclonal antibody)よりも高い反応性を有する)を含む血清。抗血清は多くの疾病患者に対して受動免疫を伝達させるために使用される)の一種。ウィキの「抗血清によれば、「血清療法」とは、馬などの動物に『毒素を無毒化・弱毒化した上で注射し、毒素に対する抗体を作らせ』、『この抗体を含む血清を、病気の治療や予防に用いる方法である。例えば、ニホンマムシやハブの毒素に対する抗体を、馬に作らせる。マムシ等による咬傷の際、この血清を患者に投与して治療する』のがそれである。しかし、馬血清は基本的にヒトにとって異物であることに変わりはないので、投与の際には、先のアナフィラキシー・ショックと遅延型アレルギー反応に対する、十分な注意が必要である、とある。そこには、一九二五年(大正十四年相当。本「手帳8」の記載推定時期は大正一三(一九二四)年から晩年にかけてと推測されている)に、アラスカでジフテリアが猛威を振るった載、犬橇で血清を届けた話は有名、とある。ウィキの「バルト(犬)によれば、『バルト(英語:Balto)は、アメリカの伝説的なイヌぞりチームのリーダー犬』で、一九二五年の『冬、アラスカ北端のノーム市にジフテリアが発生し、血清を市に運ぶ必要があった。しかし』、『低気圧の接近のため風速』四十メートル『の猛吹雪がアメリカからアラスカの陸路を断っていた。救助隊は』二百『頭のイヌぞりチームを作って』十六頭一チームで百キロをリレーする方法で、全行程一千百キロメートルもの距離を『輸送し、市民を伝染の危機から救った。困難を極めたこの行程の、最も困難であり、最も長距離の区間を走りぬいたのは』、『リーダー犬トーゴーのチームであったが、そのチームから血清を受け継ぎ、最後の区間を輸送したチームのリーダー犬がシベリアン・ハスキー(犬種、アラスカン・マラミュートという説もある)のバルトである。その功績を称え、現在ニューヨークのセントラルパークにバルトの銅像がある』とある。

「さしてゐる時」以前に注射している場合。

esp. especially。特別な(ケース)。ここは「特異体質」の意か。

Zyanose」チアノーゼ(ドイツ語)。血液中の酸素が減少して二酸化炭素が増加、皮膚や粘膜が青紫色を帯びる症状。唇・爪・四肢の先などで目立つ。呼吸困難や心臓障害を直接の原因として発症する。]

原民喜「弟へ」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一九(一九四四)年二月号『三田文學』に発表されたものである。原民喜三十八歳の時の作品。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「弟」は原家七男(民喜は五男。六男六郎は四つで夭折している)の十一年下の敏であろう。

 冒頭前書で「なにしろ中學生相手の僕のことだから」と出るが、原民喜は妻貞恵が昭和一四(一九三九)年九月に発病(糖尿病と結核)しており、小説で食えないので、昭和一七(一九四二)年一月より千葉県立船橋中学校(現在の千葉県船橋市東船橋にある県立船橋高等学校)に英語教師として週三回通勤を始めていた。但し、本篇が発表された翌月には退職している(同年夏頃に朝日映画社嘱託となる。九月、貞恵、逝去)。

 「燕」の「大神宮下の驛」京成電鉄の千葉県船橋市宮本にある「大神宮下(だいじんぐうした)駅」。(グーグル・マップ・データ)。一キロメートルほど西北西に現在の千葉県立船橋高等学校がある。

 「貝殼」の「八千代橋」は大神宮下駅の東直近の海老川に架かる橋。(グーグル・マップ・データ)。

 「牛」の「宮本」は(グーグル・マップ・データ)。「怺へたまま」は「こらへたまま」。堪(こら)えたままで。

 「津田沼」の「菠蔆草」は「はうれんさう(ほうれんそう)」のこと。「生き」は名詞。生きざま。生活のさま。

【2018年1月13日 藪野直史】]

 

 

 弟へ

 

 僕は近頃「無心なるもの」と題して短文をノオトに書溜めてゐる。これは通勤の道すがら、目に觸れた微笑ましいものを、何氣なく書綴つたものにすぎないのだが、それがだんだん溜つてゆくといふことも何となく僕にはたのしいことなのだ。今日はそのうちから、三つ四つ君にお目にかけよう。なにしろ中學生相手の僕のことだから、文章も中學生じみてゐるかもしれないが、まあ笑つて讀んでくれ給へ。

 

 

  

 

 大神宮下の驛では、電車が着くホームの軒に、燕の巢がある。軒とすれすれのところに電車の屋根は停まるのに、燕はあやふく身を飜へして巢に戾る。それにしても、巢の中の仔は電車の雜音でおちおち睡れないであらう。國民學校の生徒を引率した先生が、珍しげに軒の巢を見上げてゐた。あまり天氣は良くないが、平穩な遠足の歸りなのだらう。燕は線路を飛越え、人家の陰へ消えてしまつた。

 

  貝殼

 

 八千代橋の手前の貝殼に埋れたやうな露次は、どこよりも早く夏の光線が訪れる。どの軒下も大概貝殼が積重ねてあり、それは道路の方にも溢れ、奧では盛んに貝を剝いでゐるので、刻々に殖えて行く白い殼で、やがてそこいらは埋沒してしまひさうだ。空の辨當箱を示し、貝を賣つてくれないかと男に尋ねると、あまりいい顏もせず默つて貝を剝いでくれる。それが出來る迄暫く軒下にたたずんでゐると、地面の白い光線がくらくらして、ふと側に子供が立つてゐる。よごれた繪本を展げて、眩しげにこちらを見てゐるのだが、その展げた繪本は南洋の椰子の樹の日の丸の繪で、その中から子供は拔け出して來たやうにもおもへる。

 

  

 

 暑い暑い宮本町の坂。夏の朝、牛はゆつくりゆつくり、このだらだら坂を二つ越えて行く。途中の家畜病院の空地に牛や馬が繋がれてゐるところまでやつて來ると、步いてゐた牛ほもーおと鳴く。繋がれてゐる牛の方は何とも應へない。ある日休暇の兵隊が二三人づれで、繫がれてゐる牛の側に立寄つた。そして一人がそろつと牛の耳を撫でてみた。

 坂を下つて來る牛もつらさうだ。よく見ると牛の鼻のまはりには四五匹の蠅が黑くくつついてゐる。牛はそれをじつと怺へたまま步いてゐるのだ。

 

  

 

 ある朝、坂の下の方から猫の啼聲がだんだん近づいて來た。と思ふうちに後から自轉車がやつて來た。後に函らしい風呂敷包が括り附けてあり、啼聲はその中からするのだ。ところで、自轉車に乘つてゐる人の後姿は、妙に忙しげで、どうも早く片づけてしまひたいといふ風なのだが、哀れな泣聲はなかなか歇まない。自轉車がもう遠ざかつてしまつても、まだその泣聲はまだつづいてゐる。あの坂の向ふは茫々とした畑となつてゐるのだ。

 

  津田沼

 

 上野行に乘替へるため一番線ホームに行くと、そこら一杯に葱・菠蔆草・大根の束をちらかし黑い大きな風呂敷包の山の中に坐り込んで、辨當を披いてゐるもの、襤褸ぎれを綴り合はせて足袋を拵へてゐるもの、女行商人の生きの姿はとりどりであつたが――それも今は既に見られない風景となつた。嘗て、このホームから向のホームを見てゐたら、國民服を着た靑年と若い娘が睦じげに佇んでゐた。その娘の姿は婦人雜誌などのよく出來た繪にありさうな、凛とした姿で、靑空を背景に、並んで立つてゐる男の胸のあたりをたのもしげに見上げてゐるのであつた。

 

  木の葉

 

 烈風が歇んだ野の道を、二三人の子供がパラパラと駈出して來た。背の低い羽織を裏返しに着てゐる、何か興奮してゐると思つたら眼には靑い木の葉をくり拔いて嵌めてゐるのだつた。

 

 

芥川龍之介 手帳8 (5) 《8-5》

《8-5》

○研究所の二階 モデル倒る 皆近よる R 近よるにたへず 外へ寶丹をかひに行く かへりに階下の事務所に女畫師を見る 「水はないか」と云ふ 女畫師さう云ふ時は逆にぶら下げれば好いと云ふ 嫉妬なるべし 後 池の端のカツフエに人の妻となりしモデルとあふ 面やつれ 肉體を知り居る事 不快なり

[やぶちゃん注:この話は芥川龍之介の草稿断片、旧全集第十二巻の「斷片」(編者によるパート名)の「Ⅸ」に「或畫學生の手紙」という編者に仮題された以下に生かされてはいる。

   *

 わたしはこの手紙を上げるのを可也躊躇してゐました。が、きのふの出來事以來、急に勇氣を生じました。

 きのふの午後、わたしはパイプを啣へたまま、研究所の二階を駈け下りて來ました。するとあなたは階段の下に年の若い事務員と話してゐました。わたしはパイプを離しながら、かう事務員に聲をかけました。

 「君、モデルが腦貧血を起したから、水を持つて行つてやつてくれ給へ。」

 あのモデルは美人です。動物的な感じはするものの、兎に角世間並みの美人です。これはいつかあなたとも「美しい牝(めす)と云ふ感じですね」などと常談を言つたことがありました。わたしは格別あのモデルに氣のあつた訣(わけ)ではありません。しかし誰も騷いでゐる外にどうしてやると云ふものもありませんから、寶丹(はうたん)でも買つて來てやらうと思つたのです。あなたはわたしにその話を聞くと、妙にはげしくかう言ひました。

 「寶丹(はうたん)など入りはしない、逆(さか)さにしてゆす振(ぶ)つてやれば好いのに。」

 わたしは正直に白狀すれば、あなたの言葉の残酷なのに多少の不快を感じました。しかし研究所を出るが早いか、忽ち愉快な興奮が湧き上つて來ました。この手紙を上げるのは未だにその興奮を感じてゐるからです。

 わたしはあなたを愛してゐます。どうかこの手紙に返事をして下さい。

   *

しかし、これが元となった決定稿や完成作品のシチュエーションなどは存在しない。この草稿断片は旧全集の後記によれば、「斷片」の「Ⅰ」から「Ⅻ」までが大正一三(一九二四)年から昭和二(一九二七)年までのの逆編年構成であるとあるから、先の「溫泉だより」のメモなどから見て大正一四(一九二五)年四月以降のメモと考えてよい。

「寶丹」(はうたん(ほうたん))は江戸末期に売り出された、赤褐色の湿潤性粉末の気つけ薬。現在の東京都台東区上野にある「守田治兵衛商店」が文久二(一八六二)年に売り出したもので、現在も同商店から販売されている(こちら)。但し、現在は胃腸薬(第三類医薬品)としてである。

「池の端」現在の東京都台東区の西部の池之端(いけのはた)。旧下谷区。南部の一丁目が不忍池に面している。]

 

○靑年伊豫がすりの仕立て下しをきて湯に行く 肌に紺色のこる

[やぶちゃん注:「伊豫がすり」伊予絣。現在の愛媛県で織られる木綿絣(もめんがすり)の総称。松山市周辺が主産地で、「道後絣」の別名がある。一八〇〇年頃(同年は寛政十二~十一年相当)「鍵谷かな」が、久留米絣にヒントを得て考案したとされる。明治後期に最盛期を迎え、夜具地・農作業衣などのほか、着尺地(きじゃくじ:大人の着物を一枚仕立てるための反物のこと。通常は幅三十六センチメートル、長さ十一・四メートルほどで、これを「一反」と呼ぶ)にも用いられた。かつては桐・鶴・亀などの絵絣(えがすり)を特色としたが、今日では十字絣,井桁(いげた)絣などの単純な総絣が殆んどである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

芥川龍之介 手帳8 (4) 《8-4(続き)》

 

○活辯(東京に活動はやらざりし内)長岡へゆく 新派ホトトギスのfilm 每晩來る客 年增の女 樂屋へ通し物が來る(すぐ行くと估券を下げ且連中一同がまき上げる 便宜上始數囘はとりまきをつれて行く もう自分の手の内と思ふ時のり出す)のり出せし時酒肴出づ 活辯がくどかんとする時女からかみをあけ佛壇を指さし「今まで汝を呼びしは亡夫に似し故なり 佛の向養」と云ふ

[やぶちゃん注:「活辯」活動弁士の俗称。活動写真、則ち、無声映画(サイレント映画)の上映中に、その内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者。しかし、この構想設定メモはそもそもが複数の矛盾が存在する。何故なら、東京に映画館がなく、活動写真が一般興行されていない時期に、新潟長岡で活動写真(後注参照)を興行しているという設定はヘン(そんな活動写真黎明期には活動弁士なる職業者は日本には数えるほどしかいなかったはず)。しかも、そういう活動写真黎明期という設定なのに、明治三十年代に隆盛した新派(後注参照)が演じた、明治三十一年発表の徳富蘆花の「不如帰」(後注参照)を活動写真(film)に撮ったものを上映しているというのは、設定自体が異様にヘン「芥川龍之介! 一つ、弁解してもらおうじゃあ、ねぇか!」。

「新派」日本の近代演劇の一派。同明治二一(一八八八)年十二月、角藤定憲(すどうさだのり)が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして不平士族の窮状を訴えた「壮士芝居」を始めたが、新派内に於いてはこれを以ってその発祥と見做している。三年後の明治二十四年三月には川上音二郎が堺で「改良演劇」を謳った一座を興して「書生芝居」を始めて以降、伊井蓉峰の済美館・山口定雄一座・福井茂兵衛一座などの新演劇が各地で興り、日清戦争を題材とした戦争劇で基礎を築いた。その後、離合集散を繰り返すうちに際物(きわもの)性を脱皮し、小説の脚色上演で演技面でも新境地を開いた。大正末期から昭和初期にかけて衰えたが、敗戦後、分立していた劇団が大同団結し、「劇団新派」となり、現代に続く。当世の庶民の哀歓や情緒を情感豊かに描いた演目が多い。

「東京に活動はやらざりし内」ウィキの「活動写真によれば、明治三〇(一八九七)年二月十五日、フランスから帰国した稲畑勝太郎が「シネマトグラフ」の映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映したのが日本初の「映画興行」とされ、翌三月六日には東京市の「新居商会」によって神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打って「ヴァイタスコープ」による興行が行われている。日本の国産第一号の活動写真の公開は明治三二(一八九九)年六月二十日の東京歌舞伎座で、「芸者の手踊り」という題名のドキュメンタリー映画であった。劇映画の第一号は「稲妻強盗」という作品(日本初の拳銃強盗犯として死刑に処せられた清水定吉(明治二〇(一八八七)年九月処刑。享年五十一)の事件をモチーフにした駒田好洋の「日本率先活動写真会」の製作・興行)で、同年九月に製作されている。「やらざりし」という語を厳密にとるなら、明治二十九年以前となる。

「ホトトギス」徳富蘆花の小説「不如歸」(筆者は後年は「ふじょき」と読んだが、現行は「ほととぎす」の読みが広く行われている模様である)。明治三一(一八九八)年から翌年にかけて『国民新聞』に掲載された。調べてみると、明治三六(一九〇三)年四月に本郷座で藤沢浅二郎が「不如帰」を初めて脚色上演しているから、前注の事実とは異なることになる。則ち、明治三十六年では既に活動写真は盛んに興行されているからである。

「通し物」差し入れの料理であろう。

券」「沽券」とも書く。対面・品位。本来の「沽券」とは江戸時代の土地・建物などの売渡証文のことで、江戸の町屋敷の所有者としての町人にとってのステイタス・シンボルであったことから、近世末期から近代にかけて「人の値打ち」「プライド」の意で使われるようになったものと推測される。

「向養」ママ。旧全集は「供養」。回向と供養を芥川龍之介が混同して誤表記したものであろう。

2018/01/12

私は

私は私を他者に説明するのが厭になつたのです――

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芥川龍之介 手帳8 (3) 冒頭パート(Ⅲ)及び《8-1~4》

○夫人(30歳)嘗資産家に嫁し離緣になり後僧に嫁す(眞言宗)僧は五十近し 好人物 書畫を愛す 性的に利かず 夫人曰二年間一度も安らず 夫人の妹(20―21歳)東京の女學校にゐる と四つ違ひ 同じ小學校にあり 夫人の兄 温泉場へ M をつれゆき怪まざりしは上京中の妹を M と一しよにすべく M の人物を知りたい爲一しよに行つてゐた 夫人曰 M と夫人との間をつづける爲には妹の夫となれ 且夫不能の爲別居したし 故に M と妹と一しよになれば二人を東京にすませ おのれも一しよになる M 曰そんな事は恐しくないか 夫人やや本心にかへる M 又曰結婚すべくんばもう一度見たし(小學時代に見し時は美しかりしも) 夫人と M と妹をよびよせる M 結婚する氣にならず 妹は一しよになつてもよいと思ふ 妹再東京へかへる その時船へのるのに W の別莊へ一晩とまる方よろし(W は夫人の友人の別莊なり) 夫人妹と別莊にとまらんとす そは夫人 M ととまる事を欲せしなり されど別莊番の娘藝者にて 母のもとへ來る この女 M を先生と稱す 別莊番の妻亦娘を M ととりもたうなどと云ふ それ故 M は夫人をそこへともなひたくなし 又 M に云はせれば妹來る事夫人との關係上困る故とうとう來る事を斷る M その境涯に安んぜず 夫人に大島を拵へてもらひ上京す 二ケ年後には既に夫人の兄大本教信者となり その爲夫人と妹と大本教となる 而して夫人の夫の僧も大本教となる その結果本堂の本尊と大本教の神と二つ並べて禮拜し始む ○妹結婚されなくなりしは業なりとし 夫人及夫人の兄妹の體を大本教の神に捧げよと云ひ 遂に王仁三郎に獻じ 夫人亦王仁三郎のもとに走る(眞言宗との關係もあり) 大本の神をまつりし爲村をおはる ○detail 溫泉場滯在中 M Art を思ひ且その atmosphere にたへず 上京するにつき basket etc. を買ふ 夫人皆買つてくれる 立つ時下着の大島を男物にしたて直し M にきせる(金)頸にかける金鎖は舊式故 帶へまく時計にすれば半分となる その拵へ直し方をたのみ 半は M にくれると云ふ ○M 湯島天神下(封筒を走らす宿)へかへる その後二年間に M の妹上京す M の妹の友だちあり こは郷里同じにて M と一しよになりたがり娘の親及 M の妹も贊成す この女上京し大學病院の看護婦となる 又宿の女將の姪に女歌人(畫もかく)あり M 病氣にてねるとこの連中見舞に來る 但し妹は郷里にかへる 琅の妹出現(琅の汽車中



《8-1》
[やぶちゃん注:ここから、新全集の原資料パートに底本を変更し、漢字は旧全集と校合して正字化した。

すすめらる)結婚問題、當時 M 身神つかれ 夫人に云ひしに人參の廣告を見舞狀に封じてよこす 宿の女房の夫は移民會社の船員 女房は荒物屋兼髮結をやりをる 故に M とも關係あり 亭主の鯉口の外套を着て步く 亭主好人物にて亞米利加へ行きし時一弗の watch を買つてくれる 質に入れると二圓かす



《8-2》


護婦になりし女性 M を見舞ふ(果物 菓子 藥) 怜悧なり M しばしば一しよにならんかと思ふ されど琅々の妹の問題あり その後その女看護婦として進級し 後病死す 死ぬまで M を忘れず

M
の支那旅行中郷里の妹より手紙をよこす M は東京の家に wife と妹(白木屋に入り裁縫にて身を立つ)と子供とをおきし故 heimat より來りしに驚く その手紙に「病氣になり郷里へかへる ×(看護婦)も死ねり」と云ふ

閏秀歌人(畫)は橫濱にあり 中流の娘 池上秀畝の門なり その同門の弟子と折合はず 
M Art と同感し M に畫を見せ批評を請ふ



《8-3》


又歌をみせ批評をこふ(露骨な歌) 繪の具の材料など
M に使用せしむ この人亦肺病なり 通知來る 生前畫を約す M 行けば一家寺にあり M 畫をさげてゆく 兩親よろこぶ 娘の三脚畫の具等皆貰ふ 畫の具は他の日本畫家に賣る

夫人の妹東京にて電報をうく 妹の友だちも皆結婚問題なりと云ふ hesitation but desire to return and 幼な友だち同志相見る

男あり(農) 夫人を口どきし事あり その男などの口よ
M と夫人との關係公にならんとす



《8-4》

M
と夫人と溫泉場にゆきしは(M の數年前に云ひしは)夫人が友だちの所へ遊びに行く事とし 友だちの方が萬事好いやうにしてくれる云〻

M の上京後 M love が他にうつりし後 M の從弟(M に似る)に夫人云ひよる 出來ず 結婚後も M は夫人に逢ふ 夫人は舊好をあたためたき氣あり

○琅々と水木との話

○おちね婆さん(寶屋)の詩

[やぶちゃん注:このメモ、作品構想メモにしては異様に細部が細かく、展開も恐ろしく複雑で、しかも「大本教」(明治二五(一八九二)年に「出口(でぐち)なお」を教祖として出口王仁三郎(おにさぶろう)が組織した神道系新宗教。「なお」の「お筆先」による「艮(うしとら)の金神(こんじん)の世直し」を唱え、「みろくの世」(神の国)の到来を説いた。大正一〇(一九二一)年(このメモの数年前か)に不敬罪と新聞紙法違反で弾圧を受けている)「池上秀畝」(しゅうほ 明治七(一八七四)年~昭和一九(一九四四)年:日本画家といった実在する固有名詞が出る(こういった当時実在した問題とされた新興宗教団体や現存の著名者を小説中にもろに出すのはあまり龍之介らしくない)ことなどから見て、私は誰かの語った話に惹かれて、走り書きしたものではなかろうかと考えている。これらを素材としたと思われる芥川龍之介の小説も私は思い浮かばぬ。なお、温泉場が頻りに出る辺りは、前条までの、芥川龍之介が大正一四(一九二五)年四月十日から五月三日まで滞在した修善寺との連関も私は考えている(そこでの聞き書きの可能性、という意味で、ということである)。イニシャル「M」は縦である。

atmosphere」芸術的(芸術への渇望の)昂揚気分の謂いであろう。

「鯉口」(こいくち)は、和服で水仕事などをする際、着物が汚れるのを防ぐために上に着る、袖口の小さい筒袖の上っ張り。

「一弗」一ドル。

「琅の妹出現(琅の汽車中すすめらる)」「琅」が不明。固有名詞であるが、名前なのかも判らず、しかも突如出るから、人物関係が判らぬ。丸括弧内の意味も判らぬ。或いは誤判読で後もそれで表示してしまったのではないかと私は疑っている。しかし、正しくどんな字だったのかも推定できない。現存する原資料がこの「すすめらる」の前まで欠損しているのも非常に気になる。実は「琅の汽車中」と「すすめらる」は繋がった一文ではないのかも知れない気さえしてくるのである。

「結婚問題、」読点は新全集のママ。

「身神」ママ。

「琅々」ママ。旧全集は「々」がない。
 
「白木屋」当時東京日本橋にあった現在の東急百貨店の前身ともいえる老舗百貨店。白木屋デパート。

heimat」不詳。私は「(小さな)村」の意の「hamlet」の誤記か誤判読ではないかと思ったが、新全集でもそう判読している。

hesitation but desire to return and躊躇しているけれども帰ることを強く欲し。

「おちね婆さん(寶屋)の詩」不詳。これは前の長い話とは無関係かも知れぬ。

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 魔女 / 「死と夢」~了

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「魔女」は昭和一三(一九三八)年十月号『文藝汎論』に発表された。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「活人畫」は「くわつじんぐわ(かつじんが)」と読み、布などに描いた背景の前で、扮装した人がポーズをとって、一幅の人物画のように見せる芸能を指す。明治から大正にかけて余興などで行われ、古今東西の名画や歴史上の有名人などが題材とされた。「翳して」は「かざして」と読む。「かなめ垣」(かなめがき)は若葉が紅色を帯びて美しい要黐(かなめもち:バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra)で作った垣根のこと。「簷忍」は「のきしのぶ」と読む。「つりしのぶ」のこと。「黔んだ」は「くろずんだ」と読む。

 なお、本篇には主人公(姉からは「順ちやん」と呼ばれている)の姉が登場するが、因みに原民喜には二人の姉がおり、孰れからも民喜は非常に可愛がられた。長姉の操は十四年上で大正一三(一九二四)年に亡くなっており、次姉のツル(民喜より八つ年上)は大正七(一九一八)年(民喜十三歳)の時に亡くなっている。この二人の思い出が本篇に強く作用していることは間違いない。

 以上を以って原民喜作品群「死と夢」は終わるが、発表年次は順列となっておらず、公開する場合を考えて、原民喜が並べ替えている(ブログ・カテゴリ「原民喜」の公開順を参照)。同作品群十篇を発表年次で並べ替えると

「行列」(昭和一一(一九三六)年九月号『三田文學』)・「幻燈」・「玻璃」・「迷路」・「暗室」・「魔女」・「曠野」・「湖水」・「溺沒」・「冬草」(最後の「溺沒」と「冬草」の二篇は『三田文學』(昭和一四(一九三九)年九月号)への同時発表)

となる。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 魔女

 

 私は姉や姉の友達七八人に連れられて、人喰人種を見に行くのだつた。恰度、夕方のことで街は筒のやうに暗かつた。うまくすると、人喰人種が夕食を食つてゐるところが見せて貰へるかもしれない、と一人の女學生は云つた。昔の女學生は庇髮のやうな髮を結つてゐて、丈が高かつた。そして長い袴を穿いてゐて、氣高い顏をして步いた。私は人喰人種が今夜は何を食ふのかしらと思つた。人喰人種はきつと寒がつて、裸體の上に赤い毛布をくるくる卷いて、宿直の屋の疊に六七人蹲つてゐるやうな氣もした。

 そのうちに石疊の狹い露次へ來ると、旅館が二三軒並んでゐた。姉達は一軒一軒旅館の玄關で、人喰人種は來てゐないかと訊ねて步いた。どうも人喰人種が泊つてゐる宿屋はもつとさきらしかつた。もう一つ裏側にある路へ這入ると、今度はたしかにそれらしい旅館だつた。皆は眞暗な玄關の土間に立つて、一人が聲をかけた。すると眞暗な障子がするりと開いて、婆さんが現れた。「人喰人種が泊つてゐるのはこちらで御座いますか」と一人が訊ねた。婆さんは頷いた。それで私は何だか吻とした。「人喰人種が御飯食べるところ見せて下さいませんか」とまた一人が口をきいた。婆さんは何を思つてか、ぢつと默り込んでしまつた。それで、もう一人が同じことを嘆願した。「駄目です!」急に婆さんは口惜しさうな聲で呶鳴つた。皆はびつくりして、そのまま往來へ飛出した。それからだんだん急ぎ足になつて、とうとう走り出した。

 

 私は門口の處で、石に蹴躓いて膝頭を擦剝いた。膝坊主は火がついたやうにヒリヒリ痛んだ。見ると、膝頭には土がくつついてゐて雲母の破片がキラキラ光つてゐるので、私の眼さきは曇つてチラチラ慄へ出した。家に歸ると、もう辛抱が出來なくて、おいおい泣いた。すると、緣側で活花をしてゐた姉は靜かに鋏を置いて、私の傷を調べ出した。姉は私を疊の上に寢轉がして、「眼を閉ぢてゐなさい」と命令した。私が素直に眼を閉ぢると、姉は私の額の上に何か輕いものを置いた。靑々した木の葉の匂ひがするので、一寸眼を開けてみると、やはり額の上に置かれてゐるのは木の葉らしかつた。「まだ、眼をあけてはいけません」と姉はおごそかに云つた。

 私は眼を閉ぢた儘、どういふことが次に起るのだらうかと、少し面白くなつて來た。暫く何の物音もせず、靑靑した木の葉の匂ひが鼻さきを掠めてゐた。やがて姉がそつと立上る氣配がして、疊の上を靜かに步いて行く跫音がした。姉は簞笥の前で立止まつたらしく、微かに簞笥の環が搖れる音がした。間もなく、すーつと抽匣を拔く音がしたので、成程繃帶を持つて來るのだな、と私は思つた。そこから姉が私の側へ歸つて來るまでには隨分時間がかかつた。とうとう私は、何時、姉が、どういふ風に私の膝頭に槻帶を卷いてくれたのか、わからなかつた。姉はパチパチと植木鋏を使ひながら、「もう眼をあけてもいいよ」と云つた。

 

 私は父の大切にしてゐた萬年筆を踏んで壞してしまつた。生憎、見てゐる人がなかつたので、それが却つていけなかつた。壞れた萬年筆が父親の顏のやうに思へて、もう私は怖くてその方を見ることも出來なかつた。私はびくびくしながら緣側の方へ行つた。すると、何も知らない姉が、「もう、お風呂よ」と云つて、私を捉へた。それから私の帶をほどいて、私を裸にさせた。姉は私に手拭を渡した。それから姉は湯を汲んで、私の背中にざぶざぶ掛けた。

 磨硝子の窓に靑葉を照す陽光が搖れてゐて、風呂場は明るかつたが、私は窓の外に蓑蟲がゐることや、漆喰に黑い苔が生えてゐるのを見ると、何だか地獄に陷ちてゐるやうな氣がした。やがて、姉も頤のあたりまで湯に浸つて、私の顏と姉の顏は對ひ合つた。私は天井を見上げると、太い竹で組んだ天井は煤けて怕さうだつた。その時、私は姉が何か訊ねるやうな眼をしたので、「地獄極樂」と口走つた。すると、姉は一寸呆れたやうな顏をして、私の眼の中を視凝めた。それから姉の眼は、私の惱みの種を見つけて摘み出さうとする眼に變つてゐた。

 

 私は姉に連れられて街を步いてゐた。公會堂で活人畫や何かがあるのを見に行くのだつた。打水をされた路はピカピカ光つて、時々泥が裾の方に跳上つた。どの店舖も日覆を圓く脹らまして、奧の方はひつそりして薄暗かつた。屋敷の塀の續いてゐる日蔭へ來ると、ポプラが風車のやうに葉を飜してゐた。氣持のいい微風が路の角や電柱の橫から吹いて來ることもあつたが、斜上から差して來る陽はかなり蒸暑かつた。姉は白いパラソルを翳して步いてゐた。靑い木蔭へ來ると、パラソルも顏も靑く染められた。

 私は稍ひだるい氣持になり、少しぼんやりして來た。その時、一匹の大きな揚羽蝶がかなめ垣から飛出して來て、姉のパラソルの上を橫切つて消えた。暫くすると、またその揚羽蝶はふわふわと漾つて來て、姉のパラソルのまはりを飛んでゐた。それから間もなく揚羽状の姿は何處かへ見えなくなつたが、私は別に氣にも留めず步いてゐた。ところが、ふと、氣がつくと、姉の白いパラソルには何時の間にか、さつきの揚羽蝶が刺繡にされて、くついてゐるのだつた。私はびつくりして聲を放てなかつた。刺繡の蝶はまだパタパタと片方の翅を動かして、そこから今にも飛出さうとしてゐるのだつた。

 

 私が夏の午後、小學校から歸つてゐる途中のことだつた。電車道を越えると、路は片蔭になつてゐて、靜かな家が並んでゐた。妙に靜かな時刻で、家のうちの時計の振子の音が外でも聞えるのだつた。私はその時、屋根の方から誰かが呼んでゐるやうな氣がした。すると、聲はまた確か「順ちやん」と云つてゐた。見上げると、二階の障子が半分開いて、蔭から姉の顏が覗いてゐた。私は無言のまま暫く立留まつてその家を見た。ベンガラを塗つた格子のある中位の家で、二階の軒には簷忍と風鈴が吊つてあつた。そこへ姉は嫁入してゐたのかしら、と私は久し振りに見る姉の顏が妙に透徹つてゐるやうに思つた。すると、姉は默つて障子の奧へ引込んでしまつた。私はそれから間もなく自分の家へ戾つた。

 ところが、家へ戾ると、私の父は、「今、これから姉さんを停車場へ出迎へに行くのだから、お前も一緒に來い」と急きたてるのだつた。私はカバンを家に置いて、そのまま父の後に從いて出掛けた。急ぐと、太陽が後からギラギラ照りつけて大變暑かつたが、驛へ來ると、そこは風があつて涼しかつた。絽の羽織を着た女の人と、父と私と三人はホームに出た。やがて汽車が着くと、中から姉が出て來た。姉は透徹つた顏をしてゐて大變疲れてゐるやうな容子だつた。それから皆は俥に乘つた。姉の俥が先頭に街を走つた。俥は私の家の方へ行かないで、小學校へ行く路の方へ折れた。そして、さつき私が驚いて見上げた家の前で俥は留まつてしまつた。

 

 私は姉の入院してゐる病院に見舞に行つた。姉はベットに寢た儘、だるさうな容子で暫く私を相手に話してゐたが、枕頭の藥壜を取つて、唇に含んだ。「少し睡いから、これを飮んで睡むらう」さう云つてゐるうちに、もう姉はすやすやと小さな鼾をたてはじめた。私は椅子に腰掛けた儘することもなかつた。窓の外には侘しい病院の庭があつて、常盤木の黔んだ姿が見えるはかりだつた。壁に懸つてゐる額や、小さな人形や植木鉢のほか、目に留まるものもなかつた。白い侘しい時間だつた。

 ふと、ベットの方で姉の起上る氣配がした。見ると、姉は蒲團の上に坐り直つて、頻りに兩手を上の方へ伸しながら、何か綱のやうなものでも把まうとしてゐる恰好だつた。その眼は虛ろに大きく開かれて、何にも見えないのではないかと怪しまれた。姉は同じやうな動作を續けながら、次第に身體の重みを失つてゆくらしかつた。突然、姉は宙を浮上ると、天井の處に姉の身體はあつた。と思ふと、ベツトの下の方で姉の得意げに笑ふ聲がした。それから姉は額の裏や、植木鉢の下や、電球の中に、自在に身を潛めて、暫く飛𢌞つた。その間私は凝と椅子に縛り附けられてゐるやうな氣持だつた。やがて、ベツトの方で姉のうめき聲が聞えた。見ると姉はぐつたり疲れたやうに蒲團の中に埋れてゐた。

 

 私は午睡から覺めて、ぼんやりと玄關のところへ行つた。西の方の空にはまだ雲の峰が出てゐて、表の道路は白つぽく乾いてゐた。さうして往來を通る人も殆んどなかつた。無性に誰か私は人が現れないかと待つた。すると、近所の氷屋のおかみさんがバケツを提げて通つた。あのバケツの中にはけむりの立つ氷を入れてゐるのかと思ふと、一寸をかしくなつた。おかみさんは、しかし、すぐに視野から消えて、往來は再びもとの靜寂にかへつた。

 暫くして、何か異樣な影が路傍に落ちて來た。が、それは今、人力車が通るのだつた。その人力車の上には、つい先日死んだ姉がちやんと乘つてゐて、頻りにこちらの家の方を氣にしてゐる容子だつた。俥はそのまま家の前を通り過ぎた。私は早速下駄を穿いて門口に出てみた。すると、俥の姿はもう見えなく、往來はひつそりとして、砂がギラギラ光つてゐるばかりだつた。

 

 私はサーカスの綱渡りの女に姉がなつてゐるのを見た。姉が死んだ頃から算へると、もう二十年も經つてゐた筈だが、綱渡りをしてゐる女は恰度死んだ姉の齡頃であつた。何時か姉は内證で私の家の前を俥に乘つて通り過ぎたのは、こんな所に身を潛めるためだつたのだらうか、――さう思ふと、今、衆目に晒されてゐる姉の身の上が氣の毒でもあり、腹立たしかつた。子供の時の私は姉に魔術を懸けられて、いろんな不思議な目に遇はされたが、私ももう成長してゐるので、さう簡單な暗示には陷るまいと思つた。しかし、どうもけしからんのはその女が現に死んだ姉なのだから、これは大變いけないことにちがひなかつた。私は樂隊の音につれて、今、綱を渡つて來る姉の眼をぢつと遠方の客席から視凝めてゐると、姉もどうやら私に氣が着いたらしい。しかし、私は腹に力を入れて、猶も視線をはづすまいと努めた。が、どういふものか、私のすぐ眼の前に小さな塵がくるくるくるくる𢌞り出した。樂隊の音が急に高まり、姉の眼に悶絶の色が浮んだと見たのは一瞬であつた。もう客席は總立ちになつて、墜落した姉の樣子を見ようとしてゐた。

 私はその後、負傷した姉を病院に見舞つた。けれども彼女はけげん相に私の顏を眺めてゐるばかりで、一向私に氣がつかないらしかつた。私は先日姉が綱から墜ちた時のことを話して、姉の記憶を甦らさうとした。すると、姉は突然私を睥みつけて、「出て行け、この馬鹿野郎!」と口ぎたなく罵り出した。私は姉が負傷のため精神に異狀を呈したのだらうと察し、そのまま其處を立去つた。

 

 私はその後、暫く姉と邂逅ふこともなかつた。しかし、姉は魔法使だから何時何處に現れて來るかわからないと思つてゐた。そのうちに、私の生活は段々行詰つて來て、私の精神は衰弱して行くばかりだつた。ある蒸暑い夏の深夜、私はふらふらと寢床を匍ひ出すと、緣側の天井の太い橫木に自分の帶を吊した。さうして蹈臺の上に立つてゐると、何處かで車井戸を汲上げてゐる音がした。どうもその物音がをかしいので、暫く耳を傾けてゐると、蹈臺のすぐ下で、ほほほほと笑聲が洩れて來た。

 何時の間にか私は死ぬることを忘れてしまつて、秋になると、高い山へ登つて行つた。山の宿で一泊する積りで、早くから寢間に這入つてゐたが、不思議と目が冴えて來た。何かぷつりと雨戸に突當る音がしたので、私は雨戸を開けてみた。月明を含んだ一めんの霧だつた。恰度、眞上の方の雲が裂けて、どうやら月が現れ始めるところだつた。私は下駄を穿いて外に出てみた。頭をあげて月の方を見てゐると、よはど速い雲脚なのだらう、月の面輪は絶えず光を變へてゆく。そして、氣がつくと、向うの杉の木立の中をちらちら何か眞白なものが跣足で走り𢌞つてゐるのだつた。

 

 私は見知らぬ地方の靑葉の景色をたつぷり眺めて、最後にケーブルカーに乘つて、火口湖があるところまで行つた。火口湖のほとりに小さな四阿があつて、そこで私は腰を下してゐた。氣がついてみると、そんなところに休んでゐるのは私一人であつた。湖水の靜かな波の音と小鳥の聲が聞えるばかりで、あたりはひつそりしてゐた。外輪山は薄い雨雲につつまれてゐて、雨に濡れた靑葉に混つて、躑躅の花も咲いてゐた。そのうちに私が眺めてゐる山も湖水もみんなうつとりと大氣の中に溶けて行き、しまひにはもうなにもなくなつてゆくのかとおもへた。ただ、向うの森の澤山の小鳥の囀りのなかから、一羽だけ注意を惹く鳥の音があつた。その小鳥の聲は何か無意識に私の心を支配しさうだつた。やつぱし居たな、と私は森の方を彈んで苦笑ひした。

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 冬草

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 冬草

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「冬草」は昭和一四(一九三九)年九月号『三田文學』に発表されたもので、前の「溺沒」と同号での発表である。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「溫袍」は「どてら」と読み、例の綿を厚く入れた広袖の着物で防寒や寝具に用いるそれを指し、「湯沸」は「ゆわかし」、「萵苣」は「ちさ」或いは「ちしや(ちしゃ)」でレタスのことである。「獵虎」は「らつこ(らっこ)」と読み、例の海棲哺乳類である。嘗ては毛皮が盛んに利用された。「拂いた」は「たたいた」と訓じていよう。「沓石」は「くついし」で「沓脱石(くつぬぎいし)」の略であるが、あまり良い用法ではない。何故なら「沓石」は通常、礎石の上に置いて柱や縁の束柱(つかばしら)の下に据える根石(ねいし)を指す語であるからである。「護謨」は「ゴム」と、「禿びて」は「ちびて」(「先がすり減って」の意)と読む。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 冬草

 

 座敷の廊下の玻璃戸越しに山茶花が白く渦卷いてゐた。秋彦は自分の跫音で廊下の輕く軋むのを聽きながら胸は頻りと波打つた。茫とした溫かい、いきれが頰の下に蠢いてゐて、山茶花の白い花辨が眼に惱しかつた。

 秋彦は行つて父に挨拶しなさいと母から云はれた。しかし秋彦は父に逢ふのが、まだ何となく氣恥しかつた。さつき彼がうとうとしてゐた隙に、突然、父は歸つて來たのだつた。

 父は歸つて來ると、座敷の方へ引籠つて、人を避けて、まだ家族の者の他は逢つてゐなかつた。秋彦はとにかく大變なことになつたと思つた。廿年も前に彼は父の葬式が行はれたのを憶えてゐる。父の死骸が棺桶に收められ、燒かれた骨を拾つたことまで、こまごまと憶ひ出されるのだつたが、それらが今は却つて夢であつたのかしらと怪しまれた。そして、現に今、頻りと淚を出して嬉しがつてゐる母を見ると、どうしても秋彦は父の生還を信じない譯には行かなかつた。

 

 障子の際に屛風が立てられてゐて、奧には確かに人の居る氣配が感じられた。思ひきつて、障子を開けると秋彦は子供のやうにぎこちない姿で疊の上に蹲つた。それから眼を上げて父の方を覗ふと、その人は侘しげな姿で微かに頷いた。「秋彦です」と彼は改まつて、膝の上に掌を置いた。けれども父は耳が遠くなつてゐるのか、ぼんやりした眼ざしでゐる。何處か拔殼のやうに見えるのは、年齡の所爲でもあらうか。よく視ると、父は黃八丈の溫袍を着て厚い藁蒲團の上に半身を起した儘、膝の方は羽根蒲團に埋もれ、肩はすつぽりと毛布を掛けられてゐるのだつた。そして、側の大きな桐火鉢では石綿のなかに赤い火が燒つてゐて、銀の湯沸が忙しげに沸騰してゐた。

 秋彦は父が容易ならぬ處から歸つて來たのを感じた。何處からどうして還つて來られたのか、それを父の口から訊くのはいけないことのやうに思へた。それに、父の容態はやはり良くなささうだつた。

 次第に淚で視野が濁つて來たので、秋彦はそつと立上つて、そのまま障子の外に出た。すると、さきほどから聲を潛めてゐた感動が身裡に盛上つて來て、今はわーツと哭きたくなつた。

 家のうちは急に取込んで、女中や姉妹達が忙しさうに立働いた。緣側には土藏から持出された來客用の火鉢や座蒲團が並べられてゐた。姉は白いエプロンの袖をちよこちよこ動かして火鉢から敷島の吸殼を拾ひ取つて庭先に捨ててゐる。と思ふと、玄關の方の電話口のベルが鳴り出して、應對に出た母の聲は普段より浮々してゐる。

 

 秋彦は緣側から下駄を突掛けて、土藏の裏の方へ行つた。やはり、ひとりになつて暫く氣持を落着けたかつた。土藏の裏は小さな野菜畑になつてゐて萵苣や春菊が乏しい綠を貯へてゐた。隣境の黑い板塀を越えて、午後の陽が一めんに白壁を照らしてゐた。秋彦は薪小屋の空俵の上に身を凭掛けた。そこにも陽は一杯溢れてゐた。足許のすぐ側の枯れた薔薇の木に、陽は金色に煙つてゐた。――さうだ、花を作らう、秋彦はふと獨白した。

 秋彦が幼かつた頃には、このあたりは一めんの花壇だつたのだ。罌粟や矢車草や石竹の咲亂れた姿が髣髴と眼の前に甦つて來た。すると、秋彦の胸はわくわくと波打つて、たうとう淚を流し始めた。淚は幼げな心に貫かれて、もうこれからは大丈夫だ、もうこれからは大丈夫だ、と繰返し繰返し同じ言葉が浮んだ。瞼を閉ぢて、顏を日の光の方へ向けると明るい光の矢が秋彦をめがけて降灑いだ。秋彦はその光に取縋つて一心に祈るやうな氣持がした。淚が閉ぢてゐる瞼からまた新しく溢れ出るのだつた。

 やがて、誰かの近づく跫音がして、秋彦はふと我に返つた。見ると、さつき緣側で火鉢を掃除してゐた姉が、父の着て歸つた外套を物乾竿に乾さうとしてゐるのだつた。襟の處に獵虎の毛皮の附いた、昔、秋彦が見慣れてゐた外套を、姉は重たさうに抱へて背伸して竿に掛けると、パタパタと面白さうに兩手で裾の方を拂いた。外套の塵が日に透いて、地面の雜草の上に舞つた。すると、冬の日の埋葬の途上でみた靑い草がかすかに秋彦の頭を掠めた。凍てついた灰色の路に靑々と殘つてゐる草が少年の哀傷に似て思ひ出される。

 ふと姉は秋彦の方を振向いて、にこやかな顏をした。秋彦はなぜか暗澹とした面持になつてゐた。姉はこちらへ步み寄つて來て、袂から紙片を差出すと、またちよつと笑つた。「すぐにこの電報を打つて來て頂だい」さう云ふ姉は小さな子供をあやすやうに浮々した表情をした。

 受取つた紙片を讀んでみると、それは遊學中の兄へ宛てた、父の生還を知らす電文であつた。秋彦は急にいそいそした氣持で立上ると、玄關の方へ𢌞つた。何氣なく見ると沓石のところに父の黑靴が揃へてあつた。それも昔、よく父が穿いてゐた靴で、もう近頃はあまり見掛けない型だつた。秋彦は壞しげに暫く熟視した。すると、さういふ品物にまでまだ子供らしい愛着が殘つてゐるのだつた。それから秋彦は傍に置いてある櫻のステツキを手に執つてみた。片手でそのステツキを突きながら、片手で秋彦の手を引き氏神神社の石段を父が昇り降りしたのが、たつたこの間のやうに思へた。柄の端に羊の首を型どつてある銀の飾りもたしか見憶えがあつた。

 さうして暫く玄關ばなに腰を下して、ぼんやりしてゐると、やはり父を喪つた當座、よく彼は表の方から父が俥に乘つて歸つて來さうな氣がして、ぼんやりと腰を下してゐたことなど憶ひ出した。その頃、すぐに歸つて來てくれたなら、どんなによかつただらう。秋彦はふとまた眼頭が熱くなるやうな氣がした。それから電報のことを思ひ出すと、急いで表の方へ出た。

 

 外は何も彼も急に美しくなつてゐた。街の果てにある靑い山脈もはつきり見え、家々の軒の上を電線が遠くまで伸びてゐる。それに、いくらか中高に盛上つた地面が護謨のやうに彈力があつて、柔かな陽光が秋彦の背に緩く流れて來た。

 秋彦は果物屋の前まで來ると、うつとりとして店頭を眺めた。薄い紙に包まれたネーブルや綺麗に磨かれた林檎などが、ずつと盛上つてゐる薄暗い奧に、小さな女の子をねんねこに背負つたおかみさんが甲斐々々しく、紙を疊んでゐた。おかみさんの脇の壁に天狗の面が掛けてあるのを、何だか昔見たことのあるやうな感じで、秋彦は暫く無心に見入つてゐた。

 それからまた思ひ出したやうに步き出したが、今度は硝子張の印判屋の前で立留まつた。車が通る度にその硝子窓はよく搖れたが、内ではいが栗頭の男がせつせと小刀を使つてゐた。小刀のさきに浮いて來る粉を唇で吹拂ふのがいかにも娯しさうなのだつた。

 

 秋彦は滿ち足りたやうな氣持で、郵便局へ這入つて行つた。窓口で賴信紙を貰つて、隅の方で秋彦は紙を展べ背を屈めた。挨まみれのインク壺にペンを突込んだが、ペンが禿びてゐて、文字が思ふやうに書けなかつた。秋彦は何だか少し焦々して來たが、この時になつて、彼はふと自分の妻へも電報を打つてやらねばならないと氣づいた。それで、もう一枚紙を貰つた。見ると、その賴信紙は黃色く古びてゐて、靑い罫は今にも消えさうになつてゐる。ふと、疲勞のやうなものが彼をとりまいた。秋彦は容易ならぬ矛盾に躓かされてゐるのを知つた。考てみれば、兄が東京にゐたのは、もうずつと以前のことで、現に自分にさへ妻がありながら、まだ兄が遊學中の筈はなかつた。

 冷やりとした氣持で、秋彦はさつき姉から渡された紙片を見つめた。それを見てゐると心臟は奇異に高鳴り、今にも破裂しさうになつた。秋彦は途方に暮れながら妙に急き立てられ、窓口のところで切手を買つた。それから二枚の切手をがつかりした眼つきで眺めた。切手の中の細かい模樣などを殊更熟視すると一層困惑は募つた。彼はもう自分のしてゐることが信じられなく、ふわふわと夢遊病者のやうな氣持であつた。

 重苦しい嗟嘆とともに彼は、窓口のところで元氣よくスタンプを押してゐる空色の上衣を着た娘の姿をちよつと眺めた。すると、その時、何處からともなく「秋彦さん」といふ聲がしたので、彼ははつとしてまた娘の方を振向いた。もとよりその娘が彼の名を呼んだのではなささうだつた。――とにかく、ひどく疲れてしまつた、と秋彦は暗然としてひとりごちた。

 

 秋彦の心臟は再び異常に高鳴り出した。直ぐに家の方へ引返すのが恐しくなつて、秋彦は郵便局から四五間さきの橋の方へ步いて行つた。暫く氣持を落着けなければいけなかつた。秋彦は袂から姉の渡した紙片を引出して確かめようとしたが、何時の間にかこなごなに引裂かれてゐた。紙片は愕然とした秋彦の指を滑つて橋の上から花辨のやうに水に散つて行つた。流れてゆく紙片を暫く見送つてゐたが、次第に秋彦は自分の不幸を感じて來たた。そして、今初めて氣づいたことがあつた。それをはつきり考へるのさへ怕く、それと氣づくと、もうそのことは爭へない事實ではあつた。秋彦は顏色を變へながら、今はもう遠くへ流れて行つた紙片の行方を追ひ、ガタガタと顫へ出した。さつき彼に電報を賴んだあの姉も、既に十幾年も前に死んでゐた筈だつた。父が死んだ四年目にたしか彼女は亡くなつてゐたのだ。それを思ふと、全身が闇に沒してゆくやうな感じで、しかし、さつき見た姉の姿が奇妙に懷しくもなるのであつた。もう今は茫として夢のやうにしか浮ばないが、姉の半襟についてゐた小さな刺繡の花がピカピカと光つた。

 

 秋彦は欄杆に凭れて身を支へてゐた。これから步いて家へ歸る元氣もなささうだつた。家へ戾れば、僅かの間に、何も彼も變りはててゐるやうな氣がした。御伽噺にでもありさうな、奇怪な身の上を訝りながら、秋彦はぢつと川の面を見下してゐたが、彼のすぐ側を絶えず車や人が往來するのであつた。その橋とあまり隔たらないところに鐵橋があつて、もうさつきから電車が四五臺も通つて行つた。秋彦は段々空腹を覺え寒くなつて來た。

 

 日は何時の間にか翳り、往來には暮色が下りて來た。暗い店頭などでは早くも灯が點けられてゐて、燒芋屋の前には子供達が群がつてゐた。

 秋彦が自分の家の門を潛ると、玄關の方はとつぷり暗くなつてゐた。跫音をきいて衝立の蔭から誰かがそつと覗いた。その顏が暗闇に靑く呆けてゐるのに秋彦は驚かされたが、そのまま上つて行くと、どうやらそれは母であつた。奇妙なことに母は何に昂奮してゐるのか、頻りにそはそはした樣子をしてゐた。秋彦は母が落着かない譯をぼんやり怪しみながら奧の間へ這入つて行つた。ふと秋彦は母もこの三年ほど前に死んでゐることを憶ひ出した。秋彦は慄然として、それから無性に淚が流れだした。それでは、やはり今迄のことはみんな夢であつたのかと疑ひながら、淚はとめどなく頰を傳つてゆく。すると、影の呆けた母がやつて來て、「暗いぢやありませんか」と云ひながら電燈を點けてくれた。部屋はパツと明るくなつたが、秋彦は母の方を正視することが出來なかつた。

「もう一度行つて、お父さんに挨拶して來なさい。容態が惡くて今夜がもう危いのです」と母は聲を潛めて秋に語つた。

 

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 溺沒

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「溺沒」(できぼつ:おぼれて沈むこと・溺れて死ぬこと)は昭和一四(一九三九)年九月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「眥」は「まなじり」、「滾らせて」は「たぎらせて」、「拉がれて」は「ひしがれて」、「覘つて」は「うかがつて」と読む。

 この終章は私には、あたかも、原民喜の十二年後の自死の瞬間を感じさせて、慄然とせざるを得ない。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 溺沒

 

 錯亂は昂進し、河の堤に積上げてある礫の山がガラガラと崩れる。

 雷鳴を學んだ空の下、猛夫は礫ともに崖を轉び墜ちると、石と砂と靑い水が彼の顏を押流し、電柱の閃めき、夾竹桃、黑焦の杭が遙かなる空間を滑走する。

 游泳者の群の風にちぎられる聲が耳朶を打ち、今、斷末魔の眥に、白い巨大な網のやうな梯子が、おごそかな天空を搖れうごき、そこに生死不明の兄の姿が浮び出す。

 兄は、するすると身輕に梯子を傳つて來て、猛夫の片腕を握り締める。その昔、ふるさとの河で、彼の溺死を救つてくれた異腹の兄は、今、猛夫の片腕に兇暴な力を振ひだす。

 片腕は痺れて、既に、軌道の側に轉つてゐる死骸の一部と化したのか。

 胴の上、赤と綠のシグナルが瞬く闇に、涼風の窓を列らねた省線が走り、その女の靴の踵が、轢死した彼の上を通過してゐる。

 洋裁を習つて、二人の妹を養はねばならぬと、その女の踵。

 ガラガラとミシンは囘轉し、女の踵は猛夫の額を蹈み、蹈む。ああ、それも、これも、背き去らねばなら衰運の兒のさだめか。再び、彼の頭上を省線は橫切り、無用の頭蓋を粉碎してしまふ。

 

 既に、その魂魄は粉碎されてゐたのであらうか。

 ぐつたりと身を眞晝の部屋に橫へて、決行の時機を待つばかりであつた。絆は切斷された、と、自らに云ひきかせた。生きてゆく目的も、意志も喪はれてゐた。すべてが、君は無用の男だと、暗に、――それは殆ど不明瞭ながら、人の言語の端に、表情の裏に潛まつてゐるのを、彼は夙に感知した。

 窓を閉切つた、その部屋の屋根では、今も樹木が搖れてゐる。

 樹木、――少年時代にはそれが靜謐の心靈のやうに思へてゐたものだが、――樹木もまた狂亂の樹液を滾らせてゐるのか。栗の花、樟の若葉――一週間前、公園の靑葉は猛烈な叫びを放つて彼に迫つて來た。

 靑葉の焰にとりまかれながら、誰かを撲りつけてしまひたい衝動に驅られた。誰を、何のために、――理由のない怒りは不燃燒のまま、身裡に疼くばかりだつた。突貫だ、突貫だと叫びながら彼は坂を登つて行つた。太陽がギラギラ、樹木は爆發し、雲は雪よりも白かつた。なにものも心を滿たすものは無いのか。猛夫はくらくら燃える靑空に見入つた。と、眞晝の淡い月輪のかなたに、巨大な透明な梯子が浮上つた。

 梯子は夢にみる神の死骸のやうに空を緩く搖れて移動した。

 突然、猛夫の一方の瞳にチラリと奇異な痛みが襲つた。戰慄とともに涙が頰を傳はつた。眼の痛みによつて流されてゐるのか、號泣してゐるのかわからない氣持で、夕刻から酒場を飮み步いた。

 だらだらと淚が流れた。

 記憶にない三日間――否、數年間かもしれない――が過ぎた。ふと、眼科病院の控室のソフアで猛夫は意識を恢復してゐた。手も足も負傷はしてゐなかつたが、何ごとかを叫んだり、破壞したり、狂亂の限りを盡してゐたやうに思へた。眼帶をして、巷に出ると、眼は心配するほどの病氣でもなかつたが、顏は罪劫に拉がれてゐた。

 郷里の父に電報で送金を顧み、夜遲くアパートへ戾つて來た。敷ぱなしの夜具の上に、先日封を披いて讀捨てたままの、女からの手紙があつた。(あなたは來春御卒業なさればもう何不自由ない身分ではありませんか、私はまだ後に二人も妹がありまして、それを私の細腕で養つてゆかねばならないのです)――婉曲な拒絶。しかし、誰が誰に求愛なぞしてゐたのだつたか。このためにではない、と猛夫はこなごなに手紙を引裂いてしまつた。それから、夜具の中に石のやうに重い頭を埋めてゐた。

 

 頭は泣いたり、怒つたりして、夢はまだ微かに光を求めてゐた。

 夢は中學生の感傷に還つて、ふるさとの河邊をさまよつた。月見草の咲く堤に橫臥して、暗い世を嘆いて淚した。淚することにまだ慰籍はあつた。兄の出奔の記憶も生々しかつた頃で、猛夫は切に上京を夢みた。宇宙の核心を頭の中に捉へること、その鍵を、子供の時から想像してゐた。その鍵を得たならば、その時はじめて一切は充足するであらう。間もなく上京して學問をして行つたならば、その鍵は捉めるであらうと。川波のさざめき、舵の音、かぐはしの太陽、つばくらめ――今、いぎたなく睡り呆けてゐる眼に淚はひたぶるだ。

 忽ち河は汎濫し、水が狂奔する。水は其黑な怒りを湛へた牛。川床を轉がりゆく礫は猛夫。

 夕ぐれの窓では、出奔決行直前の紙のやうに白い兄の顏がある。父親と衝突して半年も監禁されてゐた兄は、夕闇の中に脱出の隙を覘つてゐる。

 ひらりと灰白いものが、窓から滑り落ちる、兄の白い脛が小走りに闇を消えて行く。一錢も持たなくて出奔した兄は――もう歸つて來ない。夕闇は宙をさまよつて移動する。

 

 猛夫は郊外の叢にゐる。友達と二人で冷酒をあふつてゐる。叢は火藥の臭ひがし、夕闇は鼻さきに漾ふ。街の方の空にはもう燈がともつてゐる。

 突然、兇惡な力が地下の闇から跳ね返つて來る。猛夫はそいつに彈かれて、だ、だ、だ、と走りだす。置き去りにされた友が後から何か喚いてゐる。

 いきせききらせて、アスフアルトの路はまつしくらに續く。街が、燈が、人が、前後左右から犇いて來る。そのうちに彼はどたんと誰かと衝突する。相手は彼に組附いて來る。舖道に投出された二人は組附いて離れぬ。群衆に取圍まれ、血みどろの格鬪が囘轉してゐる。この譯のわからぬ無我夢中の格鬪は次第にだらだらと間のびして來る。

 

 それからまた叫喚の中をつ走つてゐる。いくつも、いくつも同じやうな夜の街が怒號する。猛夫はへとへとになり、ふらふらと步みだす。終に街は盡きて、向うに河が見えて來る。それは故郷の夜の河に似て、心を鎭める。

 ふと、猛夫は孤獨な父親のことを想ひ出す。兄の失踪以來、氣の衰へて、猛夫には無性に優しい父親。祖母とともに家計を節約しながら、彼には莫大の學資を送つて來た。哀しい父は今も薄暗い電燈の下で算盤を彈いてゐるのだらうか。絆は堅く猛夫を締めつけ、放蕩の、愚行の負債は重く押しつけて來る。いつかは、いつかはすべてを償はねはなるまい。しかし、いつ、いつの日にか果して其の力は湧くのか。

 暫くすると、家の窓が見えて來る。窓には明るい電燈がつき、物干臺には襁褓が飜つてゐる。三人目の妻を迎へて若返つた父親が、今度生れた弟を抱いて、ふと窓から首を出す。

 忽ち猛夫を載せた地面はぐらぐら墜落してゆく。だらだらと淚が流れ、何處に自分がゐるのかまるでわからなくなる。

 額のすぐ上に星。無限の韻律が靜かに漾つて來る。碎かれた心を抱いて、物干臺に寢そべる暑中休暇の銀河なのか。さうしてゐるとまた胸の底に、眞黑な、不逞な、悲しい思考が宿る。一つの思考と睥み合つてゐると、彼の眼は靑く凍てつく。

 すると、かすかに絹ずれの音がして、白いベールをした女が現れて來る。その女は、倒れてゐる猛夫を宥め起し、彼を家まで送つてくれるといふのだ。猛夫は遠かに素直な氣持になり、默つて後から從いてゆく。街燈が霧に煙り、深夜の靴音は冴えて朧だ。曲角のところで、ふと、女は消え失せてしまふ。

 

 嵐は來た。今度こそ、今度こそだと、咆哮して嚙みつく嵐。嵐にむかつて、咆哮してゐる、もう一つの嵐。

 彼は風雨の中をずぶ濡れになつて走つてゐる。向うに旅館の燈が靑葉の動亂を射、水溜りは飛沫をあげてゐる。

 そこの玄關に駈けつけると、彼はほとほと倒れさうになる。廊下にゐた女中が彼の姿を認め、靑ざめて奧に引込む。やがて怯えきつた番頭の顏がやつて來る。番頭はおづおづと彼を奧へ案内してくれる。

 突當りの鏡で、ふと彼は自分の顏を覗く。血まみれだ、ひどい負傷だ。もう、助かるまい。

 

 かくて、脂汗の、夢現の數十時間が過ぎて行つた。

 ふと、戸の隙間から、部厚な封書が抛り込まれてゐるのに氣づいた。はじめ、猛夫は父親からの送金かと思つて、急いで封を切つた。卷紙に認められてゐるのは繼母の筆であつた。憂鬱な眼で紙をぐるぐる開いてゆくと終りに今度生れた赤ん坊の寫眞が挿んであつた。

(これでよろし)と猛夫は呟いて、手紙を捨てた。(さて、それから)と、猛夫はぐるぐる室内を步きだして眺めた。金になりさうなものは、殘つてゐる學生服だけだつた。(よし、こいつだ)と、無造作に風呂敷に包んだ。

 夕ぐれであつた。それはまるで夢のつづきに似てゐたが、夢はどの興奮もなかつた。質屋で服を金に替へ、彼は省線に乘つた。ある驛で降りた。驛前の居酒屋で長い間何かを待つた。

 誰かやつて來たやうであつた。そこで彼は立上つた。

 彼は酒屋を出て、蹈切の方へ步いて行つた。今、電車は杜絶えて、あたりは森としてゐた。やがて微かに軌道が唸りはじめた。響はすぐに增して來た。光と礫の洪水の中に、異腹の兄に似た白い顏がさまよつてゐた。

 

2018/01/11

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 湖水

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「湖水」は昭和一四(一九三九)年三月号『文藝汎論』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 一部の段落末に簡単な注を附した。【2018年1月11日 藪野直史】]

 

 

 湖水

 

 湖水めぐりの汽船は蟻のやうな遊覽客を滿載したまま、薄ら陽の洩れる棧橋に碇泊してゐた。

 白地に赤く『湖水めぐり』と染められた旗が寒い風に吹かれて慄へてゐる。水の中に浸された杉の丸太が、靑い波に搖られ、綱が鋭く杭を引張つてゐる。棧橋の建物から透いて見える向の道路は、黑い牛の牽く荷車や、黃色の襷をかけた團體客の姿などが、いびつに縮まつてちらちらする。

 今、幽靈のやうな顏をした靑年が切符に鋏を入れてもらふと、棧橋を渡つて、汽船の側までやつて來た。彼は甲板の上の群衆をおどおどと目で測つてゐたが、とても割込めさうな席のないのを覺ると、また切符賣場の方へのこのこと後戾りして行つた。

「これを一等に直して下さい」

「どうぞ、お乘りになつてからお拂ひ下さい」と女事務員は素氣なく應へた。そこで、彼は再びのこのこと棧橋を歩いて行き、甲板に登つた。その歩調がまるで夢遊病者のやうにおぼつかなかつた。もう彼には切符の問題が氣になつてゐるのであつた。もし、二等の切符で一等へ乘つてゐて、咎められたらどうしようか。お乘りになつてからお拂ひ下さいと、確かに女事務員はさつき彼の耳に云つたのは云つたのだが……。何だか氣疎い氣分の儘、一等室の扉を押して入ると、其處もまた恐しく滿員であつた。

 彼は窓近くのテーブルに、それでも、一脚椅子が剩つてゐるのを見つけると、吻としたやうに腰を下した。すると、一等室に陣どつてゐた船客達は、突然迷ひ込んで來た、この不吉さうな男に對つて、一勢にけげんな眸を向けた。彼は玻璃越しに見える靑い水に眼をやり、ともかく、氣持を落着けようとした。絶えず、力のない咳が出て、眼は熱のために潤んでゐた。彼は淡紅色に染まつたハンケチを鼻にあて、靴の踵で床を突張つてゐた。周圍のざはめきのなかから、

「もう、あいつは長いことないよ」といふ聲が聞えた。その聲を夢現に聞きながら、彼はぼんやりと岸の方を見とれてゐた。[やぶちゃん注:「剩つてゐる」「あまつてゐる(あまっている」。「剩」は「餘」と同義。]

 棧橋から續く、なだらかな岸の石崖は拗ずんでゐて、松の姿も落着いて見える。その石崖に繫がれてゐる一艘の船は、今頻りと船底から魚を取出して、笊に入れてゐるのだ。手づかみにされる魚は大きく跳ねて、笊の中に滑り込んで行く。さながら、それが彼には夢のなかの情景のやうに思へて來た。すると、彼のすぐ側へ一人の中年輩の女がやつて來て、何か不滿さうにもぢもぢしてゐた。

「あ、椅子が無くなりましたね、や、ここにまだありますぜ」と、黑い背廣服の胡麻塩髮の男が、早速中央の柱の側から一脚の椅子を持出して、その女に勸めた。

 ふと見ると、中央のテーブルには一升壜が四五本、白い風呂敷で包まれた嵩張つた折が二包み置いてあつた。狹い一等室であつたが、其處を占領してゐるのは、幾家族かで寄合つた一團體であることが、彼にもわかつて來た。どうやら、これから酒盛が始まるらしい形勢だつた。とんでもない場所に迷ひ込んだ彼は、いよいよ侘しげに窓の外の方へ顏を背けた。そのうちに、詰襟を着た船長が機關室の方から現れて來た。

「皆さん、間もなく船も出帆致しますが、追つて名所舊跡の御説明も申上げますから、どうか長閑なる春の一日を、心ゆくままに御淸遊下さい」と朗詠詞で挨拶をし、案内書を配つて步いた。彼が船長に切符のことを話しかけると、「いや、その後で代金は頂きます」と云つて、その儘、隅の方の棚からレコードのケースを取出した。蓄音器が行進曲を奏でだすと、船はカタカタと搖れて動き出した。

 船室は既に賑ひに滿ち、人聲で溢れた。機關室の方から、エプロンをした少女の姿が現れると、「ねいさん、お茶を御馳走しておくれよ」と誰かが號んだ。少女は大きなお盆に靑塗の藥罐を持つて來て、テーブル每にお茶を注いで步いた。しかし、隅つこの窓際にゐる陀しげな男だけは無視した。そして少女は横關室の方へ引返す時、「まあ、おいしさうな御馳走だこと、涎が零れさうになるわ」と感嘆して獨白した。その言葉に釣られて、彼が向うを振向くと、成程既にさつきの包みは開かれ、赤や白や綠の何とも見分けのつかぬ賑やかな食物が分配されようとしてゐた。

 

 陸が遠ざかつて、汽船は今、湖水のまんなか邊を走つてゐた。遙か對岸に見える山々はうつすらと熟睡んでゐて、水の色も淡くおぼつかなかつた。汽船の曳いてゆく水脈は鉛色に搖れ、その上の空氣は冷々と曇つてゐる。鷗に似た白い鳥がいくつもいくつも緩く水の上を掠めてゐた。その鳥の翼は熱に浮されたもののやうに、高く舞上つては儚い姿で波に戾つて行つた。さながら、彼は今や自分の斷末魔が、あそこで暈いてゐるやうに思へた。だが、その鳥は水にも空にも安心しきつて、甘えて振舞ふてゐるのかもしれない。[やぶちゃん注:「熟睡んで」「まどろむ」と訓じているとしか思えないが、「まどろむ」のは「熟睡」ではなく、うとうとするのであって、漢字では「微睡む」である。「ねむりこんで」と当て読みすることも出来るが、それでは上で修飾している「うつすらと」に反するから、原民喜自身の誤りと言わざるを得ない。「暈いて」もどうもピンとこない。「くらめいて」と読むしかないが、意味が通らない。前の鳥の動きからは「霹く」(はためく)とか「閃く」(ひらめく)が浮かぶが、誤字としては如何にもである。特に「閃」は「ひらめいて」の読みで後で正しく使っているから、あり得ない。]

「船長さん、浪花節のレコードはありませんか」と、彼の前のテーブルにゐる若い男が大聲で云つた。その若い優男は赤のネクタイを締め、もういくらか酩酊したらしい肩で、隣の茶の服を着た男の肩に凭掛つてゐた。間もなく、船室の隅の方から、世にも混濁した聲で浪花節の一ふしが軋みながら低迷して來た。優男の後にゐた小肥の女がくりくりと眼を輝しながら浪花節大會の噂を始め出すと、男達はぐにやぐにやの姿勢になり、浪花節の一節を繰返し繰返し唸つた。[やぶちゃん注:「優男」「やさをとこ」。]

 エプロン姿の少女が再び機關室の方から、重さうに何か抱へて現れた。少女は大きな罐のやうなものをテーブルの上に置くと、

「皆さんに申上げます。ここの湖水で獲れました貝から眞殊が出るので御座います。御遊覽の記念に一ついかがで御座いませう。大きいのでも小さいのでも出て來るまでは御試しになつて、代金は二圓頂きます」と説明し出した。するともう室内の客は殆どそのテーブルに吸寄せられて、物珍しさうに見物するのだつた。

「何だ、何だ、それで、大きいのでも、小さいのでも、とにかく、貝を剝いで出て來るまでは、いくら剝いでもいいのだらう」と、丈の高い角刈の男が聲高く少女を問ひつめる。

「左樣で御座います」

「それならば、一體、剝いでも剝いでもいくら剝いでも萬が一、出て來なかつた場合にはどうしてくれるのだい」

 さうかと思ふと、そのテーブルを白眼視して近寄らなかつた二三の年寄連中は、「あんな、人工養殖の眞殊なんかつまらない」と眞珠の話を始めた。

 

 影のやうな男は相變らず窓の外に見入つてゐる。今、雲の切間から靑空の深みが現れ、水がはてしない相を湛へた。汽船の吐く煤煙が遠のいて消えてゆく彼方に、木の葉位の舟が搖れてゐた。その舟には緋の袴を穿いた女の姿が小さく見え、袴が燃える火のやうに思へた。やがて、その火はぽつちりと消えた。と、また、彼の見てゐるすぐ眼の前を矢のやうな速さで舟が走つて來た。舟には緋の袴を穿いた振分髮の女が眩しい謎の眼ざしで立つてゐる。次いでまた一艘の舟が汽船とすれすれに現れた。その舟はのろのろと波に搖られながら、侘しい船頭の姿が段々遠ざかつて行つた。

 その時、汽笛が鳴り、船の速度が緩んで來た。

「さて、皆さん、間もなくゼビへ着きます。停船時間は十五分であります。ゼビの堰を御覽になつて下さればいい譯で、堰は堰ですから格別御説明申上げる程のこともありません」と船長が喋つてゐる間に、船は岸に橫づけになつた。船客はぞろぞろ堤防の方へ渡つて行つた。そこにはまだ櫻が咲殘つてゐて、茶店も二三軒ある。何の紀念碑か靑い石の肌に麗かな陽があたつてゐる。その紀念碑を背景にして、もうカメラを弄つてゐる連中もある。一等船客の後へ從いて、彼もぼつねんと堰堤の路を步いて行つた。そこは湖水の咽喉口にあたり、一旦喰止められた水が、その堰を潛ると、急流となつて落されて行くのだつた。堰は鐵とコンクリートの嚴しい裝置で水の上に長々と橫はつてゐた。人々は堰の背骨の上に佇み、靑く渦卷く水と、蹴落されて咆哮する水を、ぽかんとして見較べるのであつた。[やぶちゃん注:「弄つてゐる」「いぢつてゐる」。]

 早目に彼が船室の方へ引返して行くと、船長ははじめて切符の直りの金を受取つてくれた。「下の方の部屋も空いて居りますよ」と船長はこの病弱さうな靑年に教へた。見ると、さつきまで張つてあつた階段の入口の綱が今は取外されてゐた。そこで彼は階下の部屋へ降りて行つた。少し汚れた白い覆の掛つてゐるソフアが窓に添つて据附けてあり、低い天井の下はがらんとして陀しく、誂向の病室のやうであつた。彼はソフアに長々と脚を伸し、窓に凭掛つて、疲れた體を休めた。もう頭の上の方では、戾つて來た船客達がゴトゴトと床を蹈鳴らしてゐた。船は動き出した。[やぶちゃん注:「直り」「なほり(なおり)」。劇場や寄席その他に於いて、より上等な席に移ることを言う語。「誂向」「あつらへむき」。]

 水面に近い窓から遙かに上を見上げると、空が少し顫へてゐた。今、彼の見るものは、みんな微熱を帶びて顫へ出すのであつた。船の近づいて行く方角に、靑い優しい岸があつた。圓味のある丘が花鬘をかざし、怨嗟の眼ざしで水に映つてゐる。それは遠い昔の亡靈に似てゐた。と思ふと、すぐ窓の下に走る水が、さつと二つに割れ、湖底の方から石の階段や甍が閃いて現れた。昔、水底に陷沒した衢は今もまだ殷賑を極め、石疊の上をぞろぞろと人の往交ふ光景が見えた。だが、走る水は忽ち姿を變じ、人骨の破片や、魚の骨が白々と浮沈しながら從いて來た。[やぶちゃん注:「花鬘」これは「けまん」であろう。釣り環(わ)で長押(なげし)や梁に懸ける仏堂の荘厳(しょうごん)具の一つ。「衢」「ちまた」。]

 そのうちにも、靑い優しい向岸の姿は段々大きく近づいて來た。背後に鬱蒼たる山を控へてゐる白い岸を遊山客がひききりなしに蠢いてゐる。船は間もなくダビ寺の棧橋に停まつた。「今度の停船時間は三十分であります」と、船長が頻りに繰返し、船の煙突は濁つた煙を吐き出してゐる。彼も船底の部屋からふらふらと立上ると、人混のなかに紛れて步いて行つた。

 太陽が眞上から照らし、ダビ寺の山門を潛れば、石の多い山徑がうねつてゐた。その徑に人々は一杯溢れ、紅白の花や、艷々した葉が渦卷いてゐる。彼は苦しい呼吸を續けながら、漸く山徑を登り、とある空地のベンチに腰を下した。すると、耳の中がじーんとして、氣が遠くなるやうであつた。今、下に見える山門の甃石に大きな牛車が這入つて來た。烏帽子に直垂を着た男達が一杯牛車のまはりを取圍み、押合へしあひしてゐる。車の金具が燦爛と輝き、旌がひらひら飜つてゐる。と思ふと、彼のゐるベンチのすぐ脇を、一人の老人が音もなく通り過ぎた。茶色の頭巾を被り、澄んだ眼をしてゐるその人はたしか彼の記憶にある人ではあつたが、誰ともわからなかつた。すると、今度はまがふこともない一等船客の連中が現れた。古代模樣の着物を着てゐる娘を左右から押すやうにして、二人の若者が蹣跚と步いて來る。その後を桃色のシヨールをした小肥の女が何か云ひながらつけて來るのだ。[やぶちゃん注:「甃石」「しきいし」(敷石)と訓じていよう。「牛車」「ぎつしや」。「烏帽子」「えぼし」。「直垂」「ひたたれ」。上衣と袴からなる武家の衣服。「燦爛」「さんらん」。光り輝くように華やかで美しいさま。「旌」「はた」。幟旗(のぼりばた)。古来、朝廷での儀式祭礼の具として用いた。「蹣跚」「まんさん」。よろめくように歩くさま。]

 そこで彼はベンチを捨てて、麓の方へ降りて行つた。茶店や土産店の並んでゐる路は、こゝは浮れた人々の浮れた振舞ばかりであつた。手拭で踊りながらやつて來る老婆や、それに釣込まれて歌ふ老人の姿など、昔から見なれた繪の中の有樣のやうで、ぼんやりしてゐる間に三十分は過ぎてしまつた。

 そして、彼は再び船底の部屋のソフアに身を橫へた。更に氣分は重苦しく、體は熱のために震へた。船はダビ寺の岸を離れて、次第に湖水の中央へ向つてゐる。それが今、彼には長い長い旅のやうに思はれた。見ると、窓の外の水の果てに、煙突の林立した空が現れた。煤煙で汚れた空の一部が、確かあの邊に工場などあるらしいのではあつたが、それも何か不思議な過去のやうであつた。

 

 彼が孤獨の部屋を領してゐると、上にゐた乘客が到頭やつて來た。はじめ、赤ネクタイの優男とその連れの若者がふらふらの足つきで階段を降りて來て、侘しい船室を物色してゐたが、直ぐにソフアの上にごろりと橫になつてしまうた。彼等は少し辛らさうに足をパタンパタンやりながら浪花節を唸つてゐたが、間もなく赤ネクタイの方が頭を兩掌で抱へて睡むり込まうとすると、連れの男が小聲で何か絶えず話しかけるので、赤ネクタイの男はいよいよ足をパタつかせる。そのうちに古代模樣の着物を着た娘が階段から船底を覗くと、大變嬉しさうに男達の側へやつて來て、べちやくちや喋り出した。

 次いで桃色のシヨールを卷いた小肥の女が現れた。

「まあ、こんなところへ逃込んでずるいわ」と、その女は二人の男の眞中へ割込んで坐つた。すると、今度は桃色のシヨールの相棒らしい、更に元氣さうな女がやつて來た。

「なるほどこんなところがあつたのね、上の皆をここへ呼んで來ませう」と、その女は上の船室へ引戾すと、誰彼を誘つてやつて來た。[やぶちゃん注:「引戾すと」はママ。「「引き返すと」或いは「戾ると」でないとおかしい。]

「どれどれ、ほう、ここもまたよろしい」と胡麻塩鬚の親爺は呟いた。何時の間にか船底の部屋は團體客で一杯になつてしまつた。彼等は上の室から折詰や德利を運び、又改めて騷ぎ出すのだつた。すると、船長までが遂にこの船底の室へ訪れて來た。

 船底の部屋は人いきれで澱み、人聲も睡むさうになつた。船長は汚れた窓の外を差覗きながら、慣れた口調で説明しだした。

「あの向うに見えまする松原はダバの松原と申しまして、昔、戰爭があつたところです。松原の上の山もやはり戰場の跡で御座います」

 今も船長が指差す方角の岸には槍や兜がキラキラと霞の中に光り、五月人形のやうな武士達が屯してゐた。と思ふと、松原の上の山腹からワーと鯨波の聲が揚つて、騎士の一隊がなだれ落ちた。影のやうな男は船長の説明を夢現に聞きながら、妖しい戰爭に見とれてゐた。[やぶちゃん注:「屯」「たむろ」。「鯨波の聲」「ときのこゑ」と読みたい。]

「なるほどいいこと云ふなあ」と、その時、側の靑年が呟いたので、彼ははつとした。今迄何を船長が話してゐたのか、彼には不明瞭になつた。

「さて、間もなくワビに着きます。停船時間は十五分で御座いますから隨時御參拜を願ひます。ワビの御堂も去る年の颱風で吹飛ばされ、今はコンクリート建になつてをります。ここにも哀傷きはまりない昔物語があります」と、船長が話してゐるうちに、船はワビの岸へ橫づけになつた。舷から見ると、漁師の家らしいものがちらほら見える侘しい村落で、岸には蒲の穗が白く枯れたまゝ並んでゐた。[やぶちゃん注:「舷」「ふなばた」と訓じたい。]

 船客達は我勝に岸へ渡つて行つた。群衆に遲れて、彼も後から步いて行つた。見ると、もう多くの人々の足並がひどく亂れてゐるのだつた。賑やかに蹣跚けながら從いて行く、ひよつとこや、しどろもどろに男に絡みついてゐる、おかめなど、人々は狹い路に溢れて、ワビの御堂の方へ押流されて行つた。御堂の境内には年齡を經た松や石碑もあつたが、もう大概の人々は何が何だか、いゝ加減に見て步くばかりだつた。コンクリートの御堂をぞろぞろ一𢌞りしてみると、みんな納得してぞろぞろ船へ戾つて行つた。船は岸に添つて暫く航行を續けたが、やがて、ガガへ着いた。[やぶちゃん注:「蹣跚け」「よろけ」。]

「ガガで御座います。こゝは松で有名ですが、惜しいことにもう昔のは遠の昔に枯れました」と船長が云つた。

「さあ降りませう」と桃色のショールは胡麻鹽賀の腕を引張つた。

「えい、松が何ぢやい」と、もう親爺は面倒臭氣に腰を上げようとしない。

「ま、ま、ま、ま行つて見ておきませう」と角刈の男に誘はれると、不承不承立上つた。影に似た男もここが最後の停船場ときいて、人々の後から從いて行くのだつた。松はぽつんと路傍にあつた。「松もいいが櫻もいいな」と嘆じる男もあれば數珠を取出して松を拜む老婆もある。「なるほど、なるほど」と、別に感銘もなさゝうに人人は船へ引返して來た。

 船底の室は騷音に滿ちた。女達が多分ワビの御堂の境内で買つたのだらう、ピピピピと鳴る狂笛を今、口にあてゝ、男達の面前で吹鳴らす。男達が煩さがれば煩さがるだけ、女連中はしっこく吹鳴らす。ピピピピピと頰を脹らかして、頤を突出した、ふてぶてしい姿は、何だか却つて子供らしくもなるのであつた。[やぶちゃん注:「煩さがれば」「うるさがれば」。]

 ピピピピと鳴り喚く笛にのぼせてしまつたのか、向うの隅でじつと苦しさうに顏を顰めてゐた親爺が、ソフアの上に蹣跚けながら吐瀉を始めた。その橫には、これももう意氣消沈した大年增が圓くなつて身を縮めてゐた。しかし、元氣な女達は笛を吹いては、花あられをパリパリ貪り、はてしもない有樣であつた。

 船長は平然として、また窓の外の説明を始めた。

「向うに見える山の一帶は千年前賑はつた場所であります。あの白堊の建物はホテルです。この邊一帶は再び面目を一新し、やがては公園となり、今に豪華を誇る日も遠くありません」

 すると一の水上飛行機が汽船の間近を通り過ぎた。が、向うに見える山の一帶は今靜かにうつとりと過去の睡りをつづけてゐるのだつた。船長は説明を終ると吻として、風呂敷包を抱へてやつて來た。[やぶちゃん注:「吻として」「ほつとして」。]

「今日の遊覽の紀念で御座います。タオル、ハンカチーフなど取揃へてあります。お値段は普通の店より格安になつてをります」と、船長はテーブルの上に店を展げた。日はもう斜に傾いて窓に眩しく差込んで來る。何時の間にか、眞珠を賣つてゐた少女も、ここへやつて來て、箒で床を掃除し出した。掃除が濟むと少女はぽかんとしてソフアに腰を下した。船長も喋り草臥れてソフアに掛けてゐる。角刈の男は何時までも元氣で、少女の肩へ手を掛けながら、船長に對つて、

「これは私の妹ですから、よろしくお願ひします」と無駄口をきいてゐる。[やぶちゃん注:「對つて」「むかつて」。]

 ……すつかり物憂い氣持で、さまざまな情景を見せつけられてゐた影のやうな男には、しかし、今はもうこの船客達がみんな誰も彼も因果の殘骸のやうに思へた。それは遠い日の記憶に𢌞る人々とどこか似かよふところもあつたが、みんな、もう千年も昔から生き殘つてゐるのかもしれない。

「しかし、船長さん、人間の命をあづかつてゐるからには、やほり責任は重大ですな」と、角刈は續けてゐる。

 さうだ、ここの湖水も一たび怒れば船も人も吞んでしまふにちがひない。すると、今、遠く水銀色に光る水の面に、ちらりと奇怪な翳が宿つた。急に底冷えのする風が窓から侵入すると、船はくらりと一搖れした。次いで耳を擘く叫喚が汽船を目がけて押寄せて來る。汽船はキリキリと激浪に揉まれ、メリメリと窓枠が崩れた。ざざざと波が一同の顏を押流す。影のやうな男はその波の中に捲込まれて消えて行つた。

 

 それから船は最初の港へ無事で戾つたが、影のやうな男の姿は見失はれてゐた。

 

芥川龍之介 手帳8 (2) 冒頭パート(Ⅱ)

 

○ランプ來る 始 三分心 一圓五十踐。(年代不明) ○明治二三年時代。百兩のムジン飛び切り 凡そ七八兩が通例 七八兩にて良馬あり ○明治十二三年。大工の手間五匁。(八錢六リン六毛)(食事さきもち) ○同時代 娼妓五匁 酒一合八リン 散らし(一時間三味線をひき騷ぎゆく事)四錢 洗馬に石鹸來るは二十年頃 華魁の夷講 身錢を切つて客をよぶ 客なければ友だちをよぶ 年季をますも恐れず

[やぶちゃん注:「三分心」九ミリメートルのランプの芯であろう。

「明治二三年時代」明治二、三年頃の謂いであろう。当時は未だ旧暦を使用していた(明治五年まで。新暦への改暦は明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)に布告され、翌月に実施された。則ち、旧暦明治五年十二月二日(グレゴリオ暦十二月三十一日)を以って天保暦が廃止された。このため、明治五年の十二月は二日間のみとなり、この年の一年は三百二十二日となった。師走の期間がほとんどなく、年中行事に支障を来したという。明治六年一月一日が正しく西暦一八七三年一月一日となった)から、一八六八年末から一八七一年年初に相当。

「ムジン」無尽講(参加した全会員が毎回幾ばくかの金を拠出して資金を積み立てていき、各会員は条件に沿って全期間の内の一回積立金を取る。全員が積立金を受け取った時点で一旦終了となる、古くから日本にあった名目上の相互扶助システム)のことか。ウィキの「無尽」によれば、『明治時代には、大規模で営業を目的とした無尽業者が発生していった。中には会社組織として営業無尽をするものが多く現れるようになったものの、これらの事業者には脆弱な経営、詐欺的経営や利用者に不利な契約をさせる者も多かったが、当時は、これを規制する法令がなかったため、業界団体無尽集会所などを中心に規制する法律の制定が求められるようになり』、大正四(一九一五)年になって、やっと、旧『無尽業法が制定され、免許制となり、悪質業者は排除されていった』とある。

「兩」現行の通貨単位「円」は明治四年五月十日(一八七一年六月二十七日)に制定された新貨条例で定められたもので、この明治二、三年頃はまだ最高金額単位が両だったのである。

「飛び切り」無尽講の最高額の謂いか。

「明治十二三年」一八七九~一八八〇年。

「洗馬」「せば」で現在の長野県中央部の塩尻市の一地区である、中山道の宿駅であった旧洗馬村のことであろう。芥川龍之介の盟友であった画家小穴隆一(明治二七(一八九四)年生まれで龍之介より二歳歳下)はここの旧家の出身である。彼からの採話と考えてよい。因みに、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で彼の著作「二つの繪」「鯨のお詣り」を完全電子化注している。

「石鹸」ウィキの「石鹸」によれば、『最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門である。堤磯右衛門石鹸製造所は』明治六(一八七三)年三月、『横浜三吉町四丁目』(現:南区万世町付近)『で日本最初の石鹸製造所を創業、同年』七月に『洗濯石鹸』を、『翌年には化粧石鹸の製造に成功した』。明治十(一八七七)年の第一回『内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。その後、香港・上海へも輸出され、明治』十『年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えた』。明治二三(一八九〇)年、『時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で第』一『位になったが、全国的な不況のなかで経営規模を縮小し』、『翌年』、『創業者の磯右衛門が死去』すると、その二年後の明治二十六年には『廃業した。彼の門下が花王、資生堂などで製造を続けた』とある。『銭湯では明治』十『年代から使用され始め、洗濯石鹸のことを「洗い石鹸」、洗面石鹸のことを「顔石鹸」と称していた、ともある。

「二十年」一八八七年。

「華魁」「おいらん」。花魁。

「夷講」ここは遊廓行事としてのそれ。正月二十日(見世(みせ)によっては他の日に行ったところもあるらしい)に、商売繁盛を祈願して夷棚を飾り、親戚や知人を呼んで宴席を設けた(十月にもあった)が、ここはその日に花魁が馴染み客に行ったそれであろう。]

 

○河童。――明治二三年、洗馬に二十人程入れる小屋をかけ(地藏裏のあき地)赤胡蘿に長毛をつけ 水にうかし時々うかし河童と稱す 豚一匹外に見せ物とす 大人小人の見料を拂ふ(覗きは三文と云ふ言葉あり)

[やぶちゃん注:「明治二三年」ここも明治二、三年頃の謂いであろう。

「洗馬」前条参照。やはり、これは洗馬出身の友人小穴隆一からの採話であると断じてよかろう。

「赤胡蘿」「あかこら」。人参のことではないかと思われる。「胡蘿蔔」(こらふ)はニンジンの漢名であり、元は西域(「胡」国)から渡来した「蘿蔔」(大根(ダイコン))の意で「赤」はその色を添えたのであろう。]

 

○小兒の言葉 鬼の齒よりおれの齒の方が先へはえろ ○御天陽 御天陽 御手紙あげるで戸をあけておくんなさんし(雨天に云ふ) ○女の中に男が一人もの 女をかばふはへぼ男

[やぶちゃん注:「御天陽」「おてんたう(さま)」或いは「おてんと(さま)」と読むのであろう。]

 

○せせらぎ――せんげ せんぎ or せぎ

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」に「せんぎ」があり、『方言』とし、『灌漑用水などの小さい流れ』とあって、長野県諏訪・静岡県田方郡及び「せんげ」として長野県松本・静岡県下田を採取地として挙げる。なお、大正一一(一九二二)年七月発行の『中央公論』に掲載された「庭」の「中」で(リンク先は私の古い電子テクスト。太字は芥川龍之介の原文では傍点「ヽ」)、

   *

 それから二三日たつた後、三男は蕗の多い築山の陰に、土を掘つてゐる兄を發見した。次男は息を切らせながら、不自由さうに鍬を揮(ふる)つてゐた。その姿は何處か滑稽な中に、眞劍な意氣組みもあるものだつた。「あに樣、何をしてゐるだ?」――三男は卷煙草を啣(くは)へたなり、後から兄へ聲をかけた。「おれか?」――次男は眩(まぶ)しさうに弟を見上げた。「こけへ今せんげ(小流れ)を造らつと思ふ。」「せんげを造つて何しるだ?」「庭をもとのやうにしつと思ふだ。」――三男はにやにや笑つたぎり、何ともその先は尋ねなかつた。

 次男は每日鍬を持つては、熱心にせんげを造り續けた。が、病に弱つた彼には、それだけでも容易な仕事ではなかつた。彼は第一に疲れ易かつた。その上慣れない仕事だけに、豆を拵(こしら)へたり、生爪を剝いだり、何かと不自由も起り勝ちだつた。彼は時時鍬を捨てると、死んだやうに其處へ橫になつた。彼のまはりには何時になつても、庭をこめた陽炎(かげろふ)の中に、花や若葉が煙つてゐた。しかし靜かな何分かの後、彼は又蹌踉(よろよろ)と立ち上ると、執拗に鍬を使ひ出すのだつた。

 しかし庭は幾日たつても、捗捗(はかばか)しい變化を示さなかつた。池には不相變草が茂り、植込みにも雜木が枝を張つてゐた。殊に果樹の花の散つた後は、前よりも荒れたかと思ふ位だつた。のみならず一家の老若(ろうにやく)も、次男の仕事には同情がなかつた。山氣(やまぎ)に富んだ三男は、米相場や蠶(かひこ)に沒頭してゐた。三男の妻は次男の病に、女らしい嫌惡を感じてゐた。母も、――母は彼の體の爲に、土いぢりの過ぎるのを惧(おそ)れてゐた。次男はそれでも剛情に、人間と自然とへ背を向けながら、少しづつ庭を造り變へて行つた。

 その内に或雨上りの朝、彼は庭へ出かけて見ると、蕗の垂れかかつたせんげの緣に、石を並べてゐる廉一を見つけた。「叔父さん。」――廉一は嬉しさうに彼を見上げた。「おれにも今日から手傳はせておくりや。」「うん、手傳つてくりや。」次男もこの時は久しぶりに、晴れ晴れした微笑を浮べてゐた。それ以來廉一は、外へも出ずにせつせと叔父の手傳ひをし出した。――次男は又甥を慰める爲に、木かげに息を入れる時には、海とか東京とか鐵道とか、廉一の知らない話をして聞かせた。廉一は青梅を嚙じりながら、まるで催眠術にでもかかつたやうに、ぢつとその話に聞き入つてゐた。

   *

と出る。なお、この登場人物の「廉一」は小穴隆一がモデルともされる。]

 

○雨乞鳥 簑笠きこきいとナク(夏)

[やぶちゃん注:「雨乞鳥」鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン(翡翠)亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromandaウィキの「アカショウビンの「伝承」が興味深い。『和歌山県では本種を方言名でミズヒョロと呼ぶ』。『中辺路町誌に「ミズヒョロと呼ぶ鳥」との記事があり、内容は以下の通りである』。『「果無山脈など奥地に赤く美しい鳥が雨』模様になる時だけ、『ひょろひょろと澄んだ声で鳴く。この鳥は元は娘で、母子二人、この山の峰伝いで茶屋をしていた。母が病気になり、苦しんで娘に水を汲んでくるように頼んだ。娘は小桶を持って谷に下ったが、綺麗な赤い服を着た自分の姿が水面に映っているのに見とれてしまった。気がついて水を汲んで戻ったときには母はすでに事切れていた。娘は嘆き悲しんで』、『いつしか』、『赤い鳥に生まれ変わった。だから普段は静かに山の中に隠れ、雨模様になると』、『ひょろひょろと鳴き渡る」』という。また、別な資料の伝説では、もう少し詳細が描かれており、話の題は「みずひょうろう」で、『母子がすんでいたのはこの話では美山村の上初湯川(かみうぶゆかわ)で、娘は素直に母の言葉を聞かない子だった。そのため』、『明日をも知れぬ状態の母はどうしても水が飲みたくて『赤い着物を着せてあげる』から汲んできて欲しいと願う。娘は大喜びで着替えて井戸に向かい、しかし井戸に映った姿に見とれ、結局汲んで戻ったものの』、『母はすでに死んでいた。娘は自分を恥じて泣き、とうとう井戸に飛び込んだ。そこに白い毛の神様が出てきて『お前のように言うことを聞かない子は鳥にでもなってしまえ』と言うと、娘は赤い鳥に変わり、今もこの地方の山奥で『ミズヒョロ、ミズヒョロ』と鳴いている、という』。『龍神村』にもこの『鳥の伝説』があり、それは『上記二つの話をさらに簡素にしたようなものである。ただし』、『夏に日照りが続くほど高いところで鳴き、雨が続くと里に下りてくること、その泣き声が哀調を帯びていて母を助けられなかった嘆きのようだとある』。『龍神村ではまた単にミズヒョロが鳴くと雨が降るとの言い伝えもあったらしい。さらに上記の伝承との関連かミズヒョロは『水欲しい、水欲しい』と鳴いているとも伝えられ、あるいは子供に川に洗濯にやらせたとき、あまり遅いと『そんなことをしているとミズヒョロになるぞ』と脅したとも言う』(下線やぶちゃん)とあり、龍神村という名といい、雨・水との強い連関性が窺える。You Tube kenomisawa で鳴き声が聴ける。私には「キョロロロロ……」と聴こえる。

「簑笠きこきい」「簑笠」を「着(き)て来(こ)」、「来(き)い」な、雨が降るぞ、の謂いか?]

 

○易者前世に着物を一枚かりたりと云ふ 女着物を寺にをさめに行く 途中乞食にあひその着物をやる 乞食驚く

○大工六百圓に體をうる その金にて洋服靴をつくる 靴出來し時金なし(のんでしまふ)靴は十二文甲高故外にはきてなし 靴屋原料代にてよしと云ふ それもなし 靴屋へきえきし去る

[やぶちゃん注:後の条は、大正一四(一九二五)年六月発行の『女性』初出の「溫泉だより」の素材である。時代背景は明治三十年代(一八九七年~一九〇六年)で主人公の名は萩野半之丞という大工である。題名の温泉は伏せてあるが、芥川龍之介が同年四月に滞在した修善寺温泉で、萩野半之丞もこの町の山寄りに住んでいたと初めに出る。メモ絡みの当該箇所のみを岩波旧全集より引く(冒頭の「……」は私が省略したことを示す。読みは一部に限った)。

   *

……「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の體を賣つたのは。しかし體を賣つたと云っても、何も昔風に一生奉公の約束をした訣ではありません。唯何年かたつて死んだ後(のち)、死體の解剖を許す代りに五百圓の金を貰つたのです。いや、五百圓の金を貰つたのではない、二百圓は死後に受けとることにし、差し當りは契約書と引き換へに三百圓だけ貰つたのです。ではその死後に受けとる二百圓は一體誰(たれ)の手へ渡るのかと言ふと、何なんでも契約書の文面によれば、「遺族又は本人の指定したるもの」に支拂ふことになつてゐました。實際又さうでもしなければ、殘金二百圓云々は空文に了る外はなかつたのでせう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さへ一人もなかつたのですから。

 當時の三百圓は大金だつたでせう。少くとも田舍大工の半之丞には大金だつたのに違ひありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買つたり、背廣を拵へたり、「靑ペン」のお松と「お」の字町へ行つたり、たちまち豪奢を極め出しました。「靑ペン」と言うのは亞鉛(とたん)屋根に靑ペンキを塗つた達磨茶屋(だるまぢやや)[やぶちゃん注:売春宿。売春婦のこともかく称する。寝ては起き、寝ては起きするところからの蔑称。]です。當時は今ほど東京風にならず、軒(のき)には絲瓜(へちま)なども下つてゐたさうですから、女も皆田舍じみてゐたことでせう。が、お松は「靑ペン」でも兎に角第一の美人になつてゐました。尤もどの位(くらゐ)の美人だつたか、それはわたしにはわかりません。唯鮨屋に鰻屋を兼ねた「お」の字亭のお上の話によれば、色の淺黑い、髮の毛の縮れた、小がらな女だつたと言ふことです。

[やぶちゃん注:中略。「半之丞」ではなく、「靑ペン」の話が一段落分挟まっている。]

 半之丞の豪奢を極きわめたのは精々一月か半月だつたでせう。何しろ背廣は着て步いてゐても、靴の出來上つて來た時にはもうその代(だい)も拂へなかつたさうです。下(しも)の話もほんとうかどうか、それはわたしには保證出來ません。しかしわたしの髮を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元價(もとね)に買つておくんなさい。これが誰(たれ)にでも穿ける靴ならば、わたしもこんなことを言ひたくはありません。が、棟梁、お前さんの靴は仁王樣におうさまの草鞋(わらぢ)も同じなんだから」と頭を下さげて賴んだと言ふことです。けれども勿論半之丞は元價にも買ふことは、出來なかつたのでせう。この町の人人には誰(だれ)に聞いて見ても、半之丞の靴をはいてゐるのは一度も見かけなかつたと言つてゐますから。

   *

全文は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名である。なお、この小品の内容が完全に事実に即しており、その時に聞き書きしたメモが確かにこれであったとするならば、この条は、大正一四(一九二五)年四月十日から五月三日まで滞在した修善寺で記録されたと仮定することは可能である。序でに言えば、次に蕎麦の薬味を記しているが、修善寺は蕎麦の名所である。]

 

○ソバの藥味 大根おろし 胡椒 蜜柑の皮 燒味噌

甲子夜話卷之四 23 奥州に掘得たる古鈴

 

4-23 奥州に掘得たる古鈴

 

Suzu

[やぶちゃん注:図のキャプションなどを活字化し、注しておく。

・上図

鈴上に、「片面」。鈴左に「大如圖八文目九分三厘」。頭は「大いさ、圖の如し重さ」と読む。

図は鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」。同左下に「孫」の(へん)の「系」。

上部は本文にある通り、他に「壽延長」の文字が配されているとならば、上部左右にそれらの孰れかの一部(恐らくは「壽」と「長」か)が見えているはずであるが、恐らくは見にくくなるだけなので省略したものであろう

「八文目九分三厘」(「文目」は「匁」(一匁=三・七五グラム)と同じ(は三十三・四八七五グラム。現在の一円玉三十三枚或いは百円玉七枚弱だから、かなり大きな鈴であることが判る。

・下図

鈴上に、「底」。鈴下に一行目「地古銅ト見ユ」二行目「上金ノ燒ツケナルベシ金色存ス」三行目「内ノ鳴丸」。鈴中央上部に「福」。鈴右下に歪んだ「子」、同左下に「孫」の(へん)の「系」。

図は上部右に「子」。同左に上部が少し切れた「孫」。下部右に「榮」、同左下に上部が少し切れた「盛」。

反時計回りに読むと、本文に出る通り、「子孫盛榮」(子孫繁栄の意)と読める。

「鳴丸」は「めいぐわん(めいがん)」或いは「なりだま」「ならしだま」と訓じているかも知れぬ。]

 

近藤重藏【號、正齋】嘗て話て曰。奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村と云あり。其處に八幡社あり。其社地より一小鈴を掘出す。其鈴に八字を刻す。福壽延長子孫盛榮の文也。傳言ふ。彼地は往昔金商橘次信高なる者の宅址にして、義經の遮那王と申せしとき、鞍間より隨從して陸奧に下り、秀衡のもとに入れしとき、先づ此地に置き、尋で秀衡に寄託すと云。此鈴は其宅趾の邊を過しとき得たりとなり。想ふに橘次が舊物なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「近藤重藏【號、正齋】」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は幕臣で探検家。ウィキの「近藤重蔵」他によれば、間宮林蔵・平山行蔵(こうぞう)とともに「文政の三蔵」と呼ばれた。明和八(一七七一)年、御先手組与力『近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ』、八『歳で四書五経を諳んじ』、十七『歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯』に六十余種千五百余巻もの『著作を残している』。』父隠居後の寛政二(一七九〇)年、『御先手組与力として出仕』、『火付盗賊改方としても勤』めた。寛政(一七九四)年には、『松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格』している。寛政七(一七九五)年には長崎奉行手付出役となり、二年後の寛政九年に江戸へ帰参した後も『支払勘定方、関東郡代付出役と栄進』した。翌寛政十年、『幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱』に任命され、四回に亙って『蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に』あったロシアの標柱を抜き去り、『「大日本恵土呂府」の木柱を立て』た。『松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させ』たが、享和三(一八〇三)年、『譴責により小普請方』に下った(理由不詳)。しかし、文化四(一八〇七)年に『ロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い』、『再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り』を果たし、『その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索』した。『江戸に帰国後、将軍・家斉に謁見を許され』、その際に『札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた』。文化五(一八〇八)年には『江戸城紅葉山文庫の書物奉行とな』ったが、『自信過剰で豪胆な性格が見咎められ』、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷』となった。『この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた』、『重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた』という。文政四(一八二一)年、『小普請入差控を命』ぜられ、『江戸滝ノ川村に閉居』した。ところが、文政九(一八二六)年、長男の近藤富蔵が『屋敷の敷地争いから町民』七『名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に』お預けとなってしまう。その三年後の文政十二年に逝去し(享年五十九歳)、死後三十一年も経過した万延元(一八六〇)年になってやっと赦免されている。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年であるから、この執筆時は恐らく存命で、不遇を託っていたものと思われ、字背に静山の彼への追懐が偲ばれるように私には思われる。

「話て曰」「はなしていはく」。

「奧州栗原郡仙臺領に金成(カンナリ)村」宮城県旧栗原郡金成町で、現在の栗原市金成。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八幡社」現在、その栗原市金成地区にある金田(かねだ)八幡神社と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「宮城県神社庁」公式サイト内のこちらによれば、平城天皇の大同二(八〇七)年に『坂上田村麻呂が再び奥州に下向し、ここにら金神金山彦神を祀った。これが、八幡宮の地主神である。(太田南畝「一話一言」所収、金田八幡記録)』天喜四(一〇五六)年八月、『陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が金田城の鬼門鎮護のため』、『勧請したと伝えられ、金田荘の総鎮守として崇敬された。その後』、寛治(一〇八七年~一〇九四年)の頃に、『藤原清衡がこれを再興したと伝えられる。当社の社家は日枝神社と同様に、従五位下清原業隆でその子孫十二代を経て紀伊守祐隆が』天授二(一三七六)年に『羽黒派修験道に入り』、『紀伊守宥義と称し、その四世から清浄院と改め代々別当をつとめた』とある(下線やぶちゃん)。

「福壽延長」幸福で長命であること。

「文」「ぶん」。文字。

「傳言ふ」「いひつたふ」。

「金商」鉱物の金を商うこと。

「橘次信高」「きつじのぶかた」。所謂、「金売吉次(かねうりきちじ)」の名で知られる平安末期の商人。ウィキの「金売吉次」によれば、吉次信高・橘次末春とも称される。「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに登場する伝説的人物で、『奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三條の橘次と云(いひ)し金商人」、「源平盛衰記」では「五條の橘次末春と云(いふ)金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」として出る。「平治物語」によれば、『義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある』という。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では』『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では吉次の方から話を持ちかけるシチュエーションをとる。『吉次は義経と共に奥州へ向か』い、『下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず』全く以って『不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている』から、『吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない』。従って『現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ』、『殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲』となり、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。

「義經の遮那王と申せしとき」源義経(平治元(一一五九)年~文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)の「牛若丸」は彼の幼名で、義経は十一歳の時、鞍馬寺(現在の京都市左京区)へ預けられたが、その稚児名を「遮那王(しゃなおう)」と称した。

「鞍間」鞍馬寺。

「入れし」「はひられし」と訓じておく。

「尋で」「ついで」。次いで。

「過し」「よぎりし」。本文を見るに、どうも近藤がこの鈴を持っているように読めるから、附図もあり、細かな記載から見ても、これは彼がそこを「通り過ぎた」際に発掘したものと読んでおく。本来、社地なのだから、神社に渡す(奉納する)べきものではある。いけませんよ、近藤さん!

2018/01/10

甲子夜話卷之四 22 川柳點

 

4-22 川柳點

川柳と云る點者あり。輕浮鄙猥の事ながら、十七字の内に、自在に含蓄したることを言おゝせたる手際は、其徒の右に出るものは非るべし。恐多もあれど、餘りに事態を言協たると思へば、

 

 あんかうを寺につるして大さはぎ

 

浮薄の極にはあれど、かゝる口先眞似もならぬことなるべし。曩日白川侯首輔たりしとき、

 

 爲になる伴頭いとこ同士にて

 

侯頻りに節儉の令を下されし頃、

 

 あの人の奢は駕籠の棒計

 

『柳樽』と云書、數卷刻布す。世人の翫も宜なり。

■やぶちゃんの呟き

 川柳句の前後を一行空けた。

「川柳點」「點」は本文に出る「點者(てんじや(てんじゃ)」で、点者とは連歌・俳諧・狂歌・雑排・川柳(後述)などに於いて、その出来を評して点をつけ、その優劣を判定する者を指し、彼ら葉その際に「点料」という報酬を受け、それを生業(なりわい)とする者たちを指す。「川柳」は柄井川柳(からいせんりゅう 享保三(一七一八)年~寛政二(一七九〇)年)で、江戸中期の前句付けの点者。川柳(発句ではなく、前句付けから五七五の付句(連歌・俳諧の付合(つけあい)に於いて前句に付ける五七五の句)のみが独立した、基本、十七文字(字余り・字足らず・破調も有り)で無季の短詩。切れ字の制約もなく、滑稽・諷刺を旨とし、口語の詩として流行した)の創始者で、その名(号)がそのままその滑稽詩の名となった。本名は正道、通称を八右衛門と称した。ウィキの「柄井川柳」によれば、『柄井家は代々』、『江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で』宝暦五(一七五五)年に『家を継いで名主となった』。当初は『談林派俳諧の点者であったと』もされる』『が定かではない』。宝暦七年八月二十五日(一七五七年十月七日)に『前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合』(まんくあわせ」享保期(一七一六年~一七三六年)以後、特に江戸で盛行した雑俳の興行形態の名称。呼称は一回の興行で一万句前後もの応募句があったことによる。また、その興行の度(たび)に勝句(高点句)を印刷し、入選者に配った刷り物をもかく呼んだ)『を興行している』。『これ以降』、月三回、五の『つく日に句合を興行している』。宝暦十二年十月十五日(一七六二年十一月三十日)の句合せでは総句一万句を『超し、その流行ぶりがうかがえる』。『新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め』、『江戸における前句付作者にこのまれた』。明和二(一七六五)年七月、『呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された』川柳の句集「誹風柳多留」(第一編。柄井川柳が前句附興行の「万句合」で選んだ句の中から、呉陵軒可有が掲載作を選考、柄井川柳が編纂に携わった。コンビのそれになるものは二十四編までで特に評価が高い。同題でその後も幕末までほぼ毎年刊行された)『は、川柳評前句付の流行に拍車をかけた。後、前付句が独立して川柳と呼ばれるようになった』。辞世の句は、

 

 木枯らしや跡で芽をふけ川柳

 

『であったと伝えられている』。『なお、川柳の号は』十六『世(尾藤川柳)まで受け継がれ』た。『柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地』が東京都台東区蔵前四丁目とされ、現在、『「川柳発祥の地」の碑が』建つ、とある。

「輕浮」「けいふ」。軽佻浮薄。考えや行動などが軽はずみで、気分が浮(う)わついているさま。

「鄙猥」「ひわい」。「卑猥」に同じ。下品で猥(みだ)らなさま。

「言おゝせたる」「いひおおせたる(いいおおせたる)」。謂い遂(おお)せる。言い尽くす。如何にも上手く的確に表現している。

「徒」「と」。同好の輩(やから)。

「非る」「あらざる」。

「恐多もあれど」「おそれおほくもあれど(おそれおおくもあれど)」。内容が(諷刺に過ぎたり、下品であるからして、)失礼極まりない面は確かにあるのであるが。

「事態」詠んだ対象や状況。

「言協たる」「いひかなひたる(いいかないたる)」。謂い適った。確かに言い得て妙な表現ではある。

「あんかうを寺につるして大さはぎ」魚の「鮟鱇」ではあるが、それを殺生禁断の寺で吊し切りにするというのではなく、「安康」(天下太平で無事なこと・安泰)に引っ掛けて、例の豊臣秀頼が家康の勧めによって京都の方広寺大仏を再建した際、同じく鋳造した鐘の銘文中に「国家安康」の字句が、家康の名を分断していて徳川氏を呪詛していると非難、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させたあの事件の「鐘」を吊るすに掛けたものであろう。或いはそこから更に、大言壮語するくせに臆病な武者を嘲って言う「鮟鱇武者」「鮟鱇侍(ざむらい)」も秘かに利かせて、近世武士階級をも風刺しているのかも知れない。

「極」「きはみ(きわみ)」。

「曩日」「さきのひ」。「先の日」で過ぎし日の意。

「白川侯」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。

「首輔」は将軍補佐の意であろう。定信は天明七(一七八七)年に老中上座となり、翌天明八年に将軍輔佐を兼ねた。その後、「尊号一件」(朝廷と幕府との間に発生した閑院宮典仁(すけひと)親王への尊号贈与に関する紛議事件)を主因として寛政五(一七九三)年七月二十三日を将軍輔佐を辞任している。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、定信の辞任から十八年も過ぎており、柄井川柳の死後三十一年が経過している。静山は他の記事で定信を相応に評価しているにも拘わらず、ここでは柄井川柳の批評精神をも実に素直に評価している点であることに注意したい。

「爲になる伴頭いとこ同士にて」「伴頭」番頭。営業活動や家政全般を取り仕切った店(国政)の万事を預かった老中首座及び将軍補佐職の定信に掛けた。「いとこ同士」とは、定信が第八代将軍側吉宗の次男田安家初代徳川宗武の子であり、彼の主君であった第十一代将軍徳川家斉の実父が吉宗の四男で一橋徳川家初代当主宗尹の四男徳川治済であったことを指すのであろう。正しくは「いとこ」ではなく「はとこ」であるが、これは不敬を咎められた際の逃げ道であろう。

「侯頻りに節儉の令を下されし頃」定信の敢行した寛政の改革は緊縮財政と風紀取締りによって経済・文化が停滞した。

「あの人の奢は駕籠の棒計」「あのひとのおごりはかごのぼうばかり」。寛政の改革の大号令で節約を旨とした結果、大々名の駕籠も質素を強いられ、精々、見ても判らぬ大名駕籠の棒に良材を使うしかなかったという皮肉であろう。

「柳樽」先に注した「誹風柳多留」。

「云書」「いふ書」物。

「刻布」板行。

「翫も」「もてあそぶも」。

「宜なり」「うべなり」。尤もなことであった。

 

芥川龍之介 手帳8 (1) 冒頭パート(Ⅰ)

芥川龍之介 手帳8

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年の大阪毎日新聞社発行の手帳。

 現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻の「後記」によれば、『破損の度合いが激しく、判読不可能な箇所が多い。原資料は月日が印刷されているが、一月一〇日までの頁が欠損している』ことから、新全集は欠損部の冒頭部分を同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を『底本とし』、それよりも後の部分は『原資料を底本とした』とする。但し、『破損個所、判読不能の箇所は』旧全集『により補訂した』とある。また、一部に有意な旧全集に欠けている箇所があり、逆に現存原資料にはないのに旧全集には載る部分もある。私の電子化では、そこは孰れも本文でその事実を逐次示すこととする。

 従って、底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。但し、旧全集の句読点は旧全集編者がほどこしたものであることは明白(これまでの芥川龍之介の手帳の癖及び新全集の本手帖の原資料からの活字化様態から)なので総て除去した。除去の跡は基本一字空けとしたが、私の判断で除去して詰めた箇所もある。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示したが、ブラウザの関係上、非常に困難な箇所は、旧全集の当該箇所を画像でトリミングして示した上、注記で電子化することとした(例えば冒頭の条)。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《8-1》というように見開きごとに通し番号を附けた。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 新全集の「後記」では、本「手帳8」の記載推定時期は大正一三(一九二四)年から晩年にかけて記されたものと推測している。]

 

Tetyou81

○叔父目惡くなる 祖父さんの罰と云はる 佛壇をとざして位牌を見ざらんとす

[やぶちゃん注:第一条は当初、ワードでやってみたが、どうしてもブログ・ブラウザでは不具合が生ずるため、旧全集のページをトリミングして示した(万一、岩波旧全集編者から不当引用の申し立てがあった場合は、除去し、総てをオリジナル画像で作り直す)。第二条は或いは前条と同じ「叔父」の可能性があるので、並べて示した。第一条は画像の通り(冒頭注で述べた通り、句読点は除去した)、頭に、

 

○叔母(妹)

 

とあり、その下に、罫線が引かれて、それが左右に分かれ、右に、

 

姉(20

 

左に、

 

妹(18

 

とあって、そこからそれぞれ中央に向かって斜線が引かれて繋がり、その下に、

 

似た夢を見る

 

とあって、その下が系図方に左右に分かれ、右手に、

 

魚三匹 雨戸をたたき「つれ合ひなくてさびしき故さがしてやつてくれ」と云ふ

 

と記され、左には、

 

一人廊に立つ 月明 池光る 水漣立つ 手燭をつけて子供たちをよびにゆく 返事せず ひとり見る 漣光魚となる その魚をよく見れば鮒なり(默してかたらず)

 

とある。一方、冒頭の「叔母」の「叔」の左手から横罫線が伸びて、

 

叔父(食客)(池に面せし座敷)夢中の廊下に近き部屋に臥す

 

の「叔」の字の右手へと系図風に連結している。]

 

○直江津(信州より)へ學校中ゆく(12の時) 沖に大船あり 小舟にて通ふ 外の學校の生徒も來る 外の學校の先生抱きて外の船にのす 驚と恐と愉快 おのれの學校の先生うけとりに來る あやまつて曰 うちの生徒にそつくりです

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月発行の『文藝春秋』に掲載されたアフォリズム風の小品集貝殼(リンク先は私の古い電子テクスト)の「三 或女の話」で以下のように作品化されている(底本は旧全集。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

       三 或女の話

 

 わたしは丁度十二の時に修學旅行に直江津へ行きました。(わたしの小學校は信州のXと云ふ町にあるのです。)その時始めて海と云ふものを見ました。それから又汽船と云ふものを見ました。汽船へ乘るには棧橋からはしけに乘らなければなりません。私達のゐた棧橋にはやはり修學旅行に來たらしい、どこか外の小學校の生徒も大勢わいわい言つてゐました。その外の小學校の生徒がはしけへ乘らうとした時です。黑い詰襟の洋服を着た二十四五の先生が一人、(いえ、わたしの學校の先生ではありません。)いきなりわたしを抱き上げてはしけへ乘せてしまひました。それは勿論間違ひだつたのです。その先生は暫くたつてから、わたしの學校の先生がわたしを受けとりにやつて來た時、何度もかう言つてあやまつてゐました。――「どうもうちの生徒にそつくりだもんですから。」

 その先生がわたしを抱き上げてはしけへ乘せた時の心もちですか? わたしはずゐぶん驚きましたし、怖いやうにも思ひましたけれども、その外にまだ何となく嬉しい氣もしたやうに覺えてゐます。

 

   *]

 

○山鳥の尾羽根の節十二以上になると化ける 尾より火をひく 薄明を放つ

○松の枝は水音をきくと下る

○テツビンの底の煤に火うつる時は風ありと知るべし

○役者見物中の女とちぎる 女と後あひし時狸女に化け首をのばす 役者切る 後女にあふ 狸の化けしを見知る されど仲絶えたり

○草刈の名人 他人は草の多き所に刈る おのれは路傍にても小草あれば刈り集む 鎌は朝とげば刄先を使ひ 次に中をつかひ 次に元をつかふ 常人は全體一度に使ふ。

○祖父傾城を買ひ(東京)かへりてその時習ひし歌を祖母に教ふ 祖母祖父歿後もその唄を愛唱す「この度諏訪の戰に松本身内の富江樣大砲かためにおはしますその日の出で立ち花やかにいさみ進みし働きは天つ晴勇士と見えにける敵の大玉(オホダマ)身にうけて是非もなや惜しき命を豐橋に(スハの先の地名)草葉の露と消えぬとも末世末代名はのこる」(大津繪)

[やぶちゃん注:「オホダマ」はルビ。ここに出る「唄」は大正一一(一九二二)年七月発行の『中央公論』に掲載された、私の非常に偏愛する旧家の没落と一族の衰亡を描いた名篇庭」の「中」で(リンク先は私の古い電子テクスト)、

   *

 その内に又春になつた。庭には生(を)ひ伸びた草木の中に、乏しい桃や杏が花咲き、どんより水光(みずびか)りをさせた池にも、洗心亭の影が映り出した。しかし次男は不相變、たつた一人佛間に閉ぢこもつたぎり、晝でも大抵はうとうとしてゐた。すると或日彼の耳には、かすかな三味線の音が傳はつて來た。と同時に唄の聲も、とぎれとぎれに聞え始めた。「この度諏訪の戰ひに、松本身内(みうち)の吉江(よしえ)樣、大砲固(おほづつかた)めにおはします。……」次男は橫になつた儘、心もち首を擡(もた)げて見た。と、唄も三味線も、茶の間にゐる母に違ひなかつた。「その日の出で立ち花やかに、勇み進みし働きは、天(あ)つ晴(ぱれ)勇士と見えにける。……」母は孫にでも聞かせてゐるのか、大津繪の替へ唄を唄ひ續けた。しかしそれは傳法肌の隱居が、何處かの花魁(おいらん)に習つたと云ふ、二三十年以前の流行唄(はやりうた)だつた。「敵の大玉(おほだま)身に受けて、是非もなや、惜しき命を豐橋に、草葉の露と消えぬとも、末世末代名は殘る。……」次男は無精髭の伸びた顏に、何時か妙な眼を輝かせてゐた。

   *

と丸ごと使われている。「大津繪」は俗曲の大津絵節の略称で、現在の滋賀県大津市がまだ宿場町であった頃に遊里柴屋町の妓女たちが歌いだしたのが初めとされる、滋賀の民謡の一種。同地の土産として売られていた災厄除けの一枚絵の「大津絵」の画題を綴り合わせた内容が元歌であるが、江戸後期に全国的に流行して多くの替歌が作られ、現在でも唄い継がれている。古くは「大津の名物二上り」と称した。筑摩全集類聚版脚注には、「諏訪の戰ひ」とは、幕末の元治元(一八六四)年『十一月二十日、諏訪市和田峠で、水戸浪士武田耕雲斎一党の上洛を和田・松本両藩が防いだ戦い』で、『松本藩の死者の中に』この『吉江衛門太郎』『の名があり、その墓は和田峠近くの字慈雲寺にある』とある。]

 

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 曠野

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「曠野」(「あらの」と訓じておく)は昭和一四(一九三九)年二月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 一部の段落末に簡単な注を附した。【2018年1月10日 藪野直史】] 

 

 曠野

 

 頭の上の空は眞靑だつたが足許には霧が這ひ𢌞つてゐる。あんまり風もないのに霧は霧だけの流れに隨つてゐるらしかつた。唯彦のまはりには見渡す限り丈高い草が波打つてゐる。草には初めてみるやうな珍しい花が咲いてゐて、根元では鈴蟲が靜かに啼いてゐたが、彼の跫音が近づいても啼き歇むやうなことはなかつた。極彩色の小さな蝶が留まつてゐる枝のすぐ隣には靑い蜘蛛が糸を垂れて、透明な糸に纏る幽かな光を娯しんでゐる。

 一羽の鷓鴣が唯彦の姿を珍しがつてか、暫く後から、ひよこひよこ從いて來る。唯彦はちよつと鷓鴣を手籠めにしてしまひたいやうな誘惑や、もしかするとこの鳥は死んだ妹の絹子ではあるまいかしらといふ憐愍を抱きながら振返つて後を見たいのを怺へてゐた。惜しいことに、彼の眼の前にある、とりどりの花は何といふ名稱を持つてゐるのか唯彦には解らなかつた。それなのに彼は自分の今步いてゐる場所を描寫でもするやうな心構へでゐ

た。振返ると淋しい微笑が泛んだ。[やぶちゃん注:「鷓鴣」「しやこ(しゃこ)」と読み、広義にはキジ目キジ科Phasianidae の鳥のうちでウズラ(ウズラ属ウズラ Coturnix japonica)より一回り大きく、尾が短く、茶褐色の地味な色彩をしたものの一般的な呼称である。狭義にはキジ科シャコ属Francolinusに含まれる四十一種を指すものの、このシャコ類は殆んど本邦に棲息しないから、ここはウズラの成鳥或いは大型個体を想起してよいと私は思っている。「怺へて」「こらへて」堪(こら)えて。]

 急に唯彦は鷓鴣を摑へてやらうと後を振向いた。と、その時にはもう鷓鴣の姿は無かつた。唯彦は足許に落ちてゐた濡れた靑い小石にふいと視線が留まつた。それだつて鳥だよ、絹子だ、君自身だ、と譯のわからない言葉に躓かされてしまつた。唯彦は屈んでその靑い小石に指をあててみた。濡れてゐるのに生溫かつた。美しい白い縞まであつた。指でまはりの土を拂つて掌にのせると、小石は急にドド…………と濁つたオルガンのやうな音をたて始める。中學時代、彼の家にあつた、ぼろぼろのオルガンと、それを片手で彈かうとする苛々した氣分がすぐに憶ひ出された。彼は小石を思ひきり遠くへ放つた。ドド…………と小石の音は唸つて遠ざかつてゐたが、突然ガチヤンと硝子の壞れる音がした。何處にも家らしいものはないので唯彦はけげんな顏をした。それよりも長い間、ものを放つたりしたことのない自分が久し振りに右の肩の筋肉が使へた方が珍しかつた。中學の時、野球で右手を挫いて以來、右手は使へなくなつてゐた。何だか晴々した氣分と同時に、やはり自分はもう死んでゐるのだな、と今更のやうに淋しく怖かつた。誰かが向うから現れて、硝子を壞したのを叱つてくれればいいと思へる。もしかそこに美しい可憐な少女が現れて咎めて呉れるのなら猶更いい。すれば、彼はもう生前のやうにそんなことを照れくさく感じないで、素直な快活な笑顏で迎へよう。しかし、ふと彼は自分がもう卅を越してゐるのを思ふと、却つて照れてしまつた。頰もそげ、眼も窪み、四肢さへよろよろとして、まだ十七歳の夢が少し殘つてゐた。[やぶちゃん注:「すれば」はママ。無論、「そうすれば」のごく口語的な用法。「自分がもう卅を越してゐる」発表当時の原民喜も三十三歳である。但し、私は後の注で原民喜の事蹟を参考に出したりはするものの、主人公唯彦はあくまで原民喜の想像した架空の人物であり、作者の事蹟と一致するものではない。]

 …………何のもの音もなく白兎がひよいと叢から現れた。眼がルビー色で、頻りに頰のあたりの鬚を細かく動かせて、彼を物色してゐるらしい姿だ。今度こそ捕へてしまへ、と唯彦は兩手を擴げて飛掛つた。兎はたんと土を蹴ると同時に叢へ消えた。

 暫く呆氣にとらはれて、唯彦は兎の消えた方角を見送つた。兎の足跡は砂の上に微かな記號を綴つてゐる。彼はその記號を追つて叢の方へ分け入つてみたくなつた。思つたよりも近くに兎の穴はあつた。唯彦は微かに胸のさはめきを感じた。屈んで覗き込まうとする刹那になつて、何か冷やりとする感觸が怖くなつた。穴の上からぶら下つた破れた蜘蛛の巢が耳朶に觸れる。と、穴の奧から褐色の鎌切が飛出して、唯彦の頤を衝いた。兎の穴にしては多少變だなと思ひはじめると、暗い視野の底にたしかに玻璃のやうな空間が浮び上つて來る。愈々眼を凝して瞬くと、その小さな空間には何か焦點の呆けた物の象が蠢いてゐるのだつた。そのうちに玻璃の表に懸つてゐる白い霞の覆ひが拭はれて、鮮かに小さな空間が定著されかけたかとみると、一度ぐらりと搖れて、今度はすべての象がそれぞれの位置に置かれた。

 端書ほどの大きさの廣間だが、そこに坐つてゐる人物は隨つて豆粒よりも小さかつたが、それがお寺の廣間で、唯彦の親爺や、親類が集つてゐることは直ぐにわかつた。桑田堅一も居る。彼は風邪をひいて居るのか頻りに袂から鼻紙を出して、洟をとつた。彼と唯彦が最後に逢つたのは何時のことだつたのか、はつきり憶ひ出せない、そんな風な慣れきつた間柄だつたので、桑田堅一が居ることは異樣ではなかつた。が、今、堅一の前に唯彦の親爺が近寄つて行くと、親爺は頭を疊に下げて、ちよつと空氣を掬ふやうな、ものなれたお叩儀をした。すると、堅一の頰は急に瞬間硬ばつて、それから硬直を解かうとするやうに微笑が現れた。唯彦はをかしかつた。が、何よりもいぢらしいのは、凡ての人物があんまり小さすぎる癖にそれが刻み出す動きが一つ一つ手にとる如く見えることだつた。[やぶちゃん注:「お叩儀」「おじぎ」と訓じているものと思われる。本作品群では「お叩頭」では出て来たが、これは初出の当て字。]

 黑い法衣の僧が、二人、つづいて錦を纏つた僧が現れ、太鼓が打たれ始めた。太鼓の前に、七つ八つの子供が駈けつけて行つた。それは叔父の息子に違ひない。子供はしかし僧の脇に來たものの、目的を失つてまた遠くへ駈け去つた。拍子木が打たれ、御經が僧の掌に執られた。愈々、唯彦の四十九日の法會は始まるらしかつた。ところがこの端書大の一切の光景は忽ち輪郭が濁り、色彩が亂されてしまつた。唯彦は自分の眼に淚が浮んでゐるのを知つた。今迄くすくす笑ひながら眺めてゐたのに、つい、うつかり泣いて居たのだつた。唯彦は何だか忌々しく、もう向うにある世界を覗かうとは思はなかつた。勝手にするがいい、と彼は掌に一握りの砂を搔き集めて、その小さな鏡をめあてにパラパラと投げつけた。何だか井戸の底に砂を投げた音が憶ひ出される。井戸の底には妹と彼の顏が映つてゐた、砂を投げつけると、彼等は崩れた。ところが一度映つた妹の顏は、その後妹を失つてから、唯彦が絶望のはて、少し空想が高ぶると、忽ち井戸の底に自在に再生することが出來るやうだつた。

 唯彦は再びもとの徑にひきかへした。霧は地面を低迷し、樹木らしいものも、山らしいものもない、ただ繚亂たる草花の原野だつた。そして、空の色は碧かつたが、ここでは時間が停止してゐるやうに日輪の運行が見出せなかつた。何時からこんな場所へ來てゐるのか、唯彦は次第に心細くなつた。まづ秩序だてて自分の足どりを憶ひ出さうとしても、すべては朧氣に色褪せてゐた。彼は頻りに糸口をつかまへようとあせり始めた。

 …………桑の葉に夜の雨が降り注ぐのを聽きながら、ぼんやりしてゐたのは隨分昔のことだつた。桑の木があつたのは唯彦の家が町はづれにあつた小學生の頃だつた。それが極く最近になつてから憶ひ出され、ぼんやりして夜の雨を身近かに甦らすと、屋根も畑もびしよ濡れの闇に、突然、だだだ……と遠方の海が立上つて襲つて來る。海は陸を一舐めにして、唯彦を海底へ引摺り込んでしまふ。さう云ふ風な空想に耽り出したのは、唯彦の餘命がもう朧氣ながら凡そ計算出來たからだつた。

 空想は海の底の藻屑と化した唯彦の怨靈の行方を追ふ。(そして昔、父親が屋島土産に買つて來た平家蟹の顏を思ひ出す。)海底へ塡り込んだ唯彦は魚類の游泳や藻草の搖曳に心を慰めながらも、やはり地上のことにも興味があつて、時々、覗き穴から陸の方を眺めると、そこでは何と澤山のドラマが演じられてゐることだらうか。さて愈々この地球も衰微してしまつて、もう間もなく滅亡する時期になると、海底の怨靈どもは會議を開き、どうせこんな地球なんか罌粟粒位のものなのだ、我々は始めからこんな地球なぞ選んで生れて來た譯ではなかつた、卽刻他の天體へ移住しようではないか、と云ふ怨靈や、まあ待ち給へ、どうで何處へ行つたつて滅びるものは滅びる、我々も今迄のめのめと死にながらへてはゐたが、ここで潔く、一切合切滅亡にまかせようではないか、滅びるのも亦なかなか壯嚴ではないか、と云ふ説も出る。…………この海底に關する突飛な死後の物語は、何時からともなしに唯彦の心を占めたのだが、もしかすると、最初のきつかけは三度目の喀血の時孕んだのかもしれなかつた。既に二年前の初秋の星月夜だつた。薄暗い路傍で突然くらくらと闇に突き陷されて、再び氣づいた時には彼は擔架で運ばれてゐた。すると、頭上の星空が實に美しく、彼のゐる地球は宇宙の藻屑と化してゐた。彼は水底の魚のやうにあぷあぷと眼を星空に据ゑてゐた。はるか彼方へ泳ぎ去らうとする念願が既にその頃から宿つてゐた。[やぶちゃん注:「どうで」副詞。孰れにせよ。「どうせ」の古めかしい言い方。]

 そして、唯彦が今泳ぎ着いて來た地帶は、はたして他の天體なのだらうか。それにしては何處か見憶えのある風景だつた。生れた地方以外にあまり旅行もしなかつた彼だが、それでも死期が豫想され出すと、頻りに見知らぬ國の風景が慕はれ、旅への誘ひが抑へきれなくなつた。それで、よく繪葉書や寫眞を集めて、頭のなかで他國の山河を沍り步いた。自分の墓所をあれこれと選ばうとして遍歷してゐるものの姿や、さては沙羅雙樹の下の寢釋迦の像が描かれた。たとへ繪葉書にしても、地球には何といふ立派な靑山があるのだつたらう。なだらかな山脈に圍まれた小さな湖水、大海の崖に建つ白亞の燈臺、森や丘を縫つてうねうねと續く優しい徑、さうした景色はごつちやになつて唯彦の頭に絡みつき、一つの景色が他の景色を孕み、産みおとされた景色は忽ちまた夢のやうに茫漠たるものの中に吞込まれて行く。そして、漠然とした大きな世界が、そこで彼が瞑目し、さまよひ步くであらう高原が、どうかすると白晝でも描かれるのであつた。

 けれども、唯彦は自ら好んで死を手繰り寄せたのではなかつた。それどころか、死ぬる際まで、生きる手段を考へては居たのだ。あの最後の日も、彼は家でラヂオを聽いてゐた。スペインの内亂のニユースが途中で搔き消されてしまふと、後は白い矢のやうなものが頻りに彼の身に降り注いだ。今度こそ駄目なのか、と彼は床に運ばれて少し樂になつた時考へた。彼は憂鬱の氷結した眼を凍と細め、今から何分間生命が保つのか、それをぢつと見守らなければならなかつた。[やぶちゃん注:「スペインの内亂」第二共和政期のスペインで勃発した軍事クーデターによるスペイン内戦は一九三六年七月に始まり、スペイン第二共和政の最後の大統領マヌエル・アサーニャ・ディアス(Manuel Azaña Díaz 一八八〇年~一九四〇年)率いる左派の人民戦線政府(共和国派)と、スペイン陸軍軍人フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde 一八九二年~一九七五年)を中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争い、反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦したが、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持して直接参戦に拡大した。本作は昭和一四(一九三九)年二月であるが、その前月にはフランコはバルセロナを占領し、翌月一九三九年三月にはマドリードも陥落、三月三十一日、スペイン全土が反乱軍に制圧され、四月一日、フランコは内戦の終結と勝利を宣言している(ここはウィキの「スペイン内戦他を参照した)。あまり知られていないと思うので言い添えておくと、原民喜は慶応義塾大学在一、二年の頃、一時、左翼運動へ関心を高め、「解放運動犠牲者救援会」(昭和三(一九二八)年四月に結成された解放運動家の救援活動を行う支援団体であったが、翌年にはコミンテルンの指導の下に設立された「国際赤色救援会(モップル)」に加盟してその日本支部となって「日本赤色救援会」に改称、数年のうちに壊滅させられた)に所属し、昭和五(一九三〇)年には広島地区救援オルグにもなっているが、組織の衰弱化と崩壊に伴って、自然に運動から離れている。それでも結婚翌年の昭和九(一九三四)年五月には『昼寝て夜起きるという奇妙な生活を続けた』(青土社全集年譜。以下、引用は同じ)結果、『特高警察の嫌疑を受け、夫婦で検挙された』りしている(但し、『一晩の拘留で帰され』ている)。本作品群「死と夢」は最古の作品が先に電子化した「行列」(昭和一一(一九三六)年九月発表)で、しかも民喜は長い時間をかけて執筆・推敲する傾向が強いから、本作は「スペインの内亂」とは、内乱の悲惨な終決ではなく、寧ろ、内乱勃発の初期(昭和一一(一九三六)年から翌年辺り)をイメージした方がよいと私は思っている。但し、無論、その頃には原民喜は既に左派運動自体とは全く縁を切っていた。しかし、彼の内実の思想傾向がどうであったかは、定かではない。というより、本作はその点に於いて、確かに彼の名実の感懐を印してはいると言えよう。

 しかし、ニュースが中途で聽けなくなるまでは、彼の現世に對する欲望は持ち續けられてゐた。世界の情勢を研究した上で、相場をして、金儲をして、その金で出版屋を始めて、それから自分も著述をする。このお伽噺に似た計企も以前は病勢を防ぐ一つの役割をして居た。相場はしかし思ふやうにならなかつた。創作も十年前には頻りに不自由な左手でペンを走らせたものだが、最近ではまるで白紙狀態だつた。

 十七歳の秋、彼は教師と喧嘩をして中學を退學した。翌年、病魔は最初彼を訪れたのだが、彼の詩はたまたま中央の雜誌に掲載された。その頃から點火された文學に對する野望は、その後まるで形に現はれなかつたが、死ぬるまで、燻りながら彼を苦しめ續けて居たのだつた。彼は藥代で書籍を求めては讀み破つた。結核もしかし、二十代ではまだ若さによつて克服されて居た。何度も死に面しながらも、彼は放縱に振舞つて、病氣を虐待して居た。その間に、彼より遲れて病魔に襲はれた彼の年上の友はあつ氣なく死んでしまつた。その友が死ぬる前の年に、唯彦は相手と口論して地面に叩き伏せられたことがある。彼を叩き伏せた男の靜かな死顏も唯彦は憶えてゐる。

 唯彦から若さを奪ひとり、急に魂を萎縮させたのは、その次に來る妹の死であつた。絹子は彼の唯一のよき理解者であつたのだが、結婚もしないうちに死んでしまつた。その頃、彼と彼の父は郊外の畑中の家に移つて暮してゐたが、靜かな環境と妹の死とは彼をすつかり沈滯させてしまつた。彼はもう三十を越してゐた。二十代の自棄くその元氣を顧ると、それが止むを得なかつたことにしろ、或るにがにがしい氣分にされた。外部からも自分からも欺かれてゐたのだ。彼は家の裏に花畑を作つて、草花を植ゑほじめた。はじめはやるせない氣分を紛らすための侘のすさびであつたのだが、不自由な左手で土を掘つたりする時、土から湧き出して來る土の生々しいにほひは彼に忿懣の情を呼び起すのだつた。彼はよろよろとした手つきで、そこはかとない怒りを土に振りまいた。その姿は多少凄味をさへ感じさせた。そして疲れはてて立上ると、眼は眩しい靑空に昏みさうになるのだつた。さうした過勞が祟つて、三度目の喀血となつた。それから死に到るまでにはまだ二年の歳月がある。[やぶちゃん注:「自棄くそ」「やけくそ」。「顧ると」「かへりみると」。「忿懣」「ふんまん」。憤懣。憤(いきどお)り悶(もだ)えること。腹が立って苛々(いらいら)すること。]

 …………しかし、この、たどたどしい、朧な經歴も、今、唯彦のぼんやりとした囘想のうちに浮んで來たのだが、彼自身が囘想してゐるといふよりも、誰か外部の人間に依つて記述されてゐるやうな氣がした。誰が私のことを小説などにしてゐるのだ、と唯彦はふと遠方の空を眺めた。そこには眞白い星が二つ三つ微かに瞬いてゐる。

 不意と森の事を憶ひ出した。さては、あの男が今私のことをごたごた書いてゐるのだな、唯彦は急にをかしくなつた。勝手にするがいい、と唯彦は胸のうちで呟いた。遲かれ速かれ君だつて死ぬるのだ。さう云つて彼はまのあたりに森の姿を尋ねるやうに立留まつた。見ると草原は依然として同じやうな眺めではあつたが、光線が大分薄暗くなつてゐて、次第に霧の冷たさが足に感じられた。そして、耳を澄ませば、さつきまで啼いてゐた蟲の聲は杜絶えてゐる。氣がつくと、丈高い草の花辨はみんなうなだれ、どの葉もどの莖も萎れかかつてゐるのだつた。

「もし、もし」

 その時耳許ではつきり聲が聞えた。唯彦ははつとして底冷えのする周圍を見𢌞した。しかし、もとより誰の姿もそこにはなかつた。彼は氣にとめまいと思つて、すたすたと步き始めた。が、また妙に重苦しい氣特につき陷された。 

 

 突然、遠くの方で、ビユーと風の唸る音がした。と思ふうちに、もう叢はさわさわと戰き始めた。嵐になるらしい空は、しかし今不思議に冴えて美しかつた。眞綿のやうな薄雲が五色の虹をおびて輕く浮んでゐる。ところが、その奧の方のもつと靑いもつと深い空のところに、嚇と其赤な牡丹の花が燃え出した。あつと思ふうちに、その花は眞黑な煙を吐き出して、形骸を失つてしまつたが、煙は忽ち唯彦の頭上まで伸び、空は濠々とした黃色なガスで覆はれた。唯彦は窒息しさうになつて、眼に淚が滲んだ。氣がつくと、彼の周圍に生えてゐる草は、みんな眞白に枯れて、それは枯木のやうに思へた。が、再びそれを注意すると、枯木はみんな骸骨になつてゐた。骸骨どもは風に搖れて、カタカタと鳴つた。その時、空が一層暗くなつて、無數の鶴が飛んで行つた。鶴の羽音が去つた時、急に靜寂が立戾つたが、もうあたりは完全に闇と化してゐた。唯彦は茫然として闇の中に蹲つた。嵐は他所へ逸れてしまつたのか、今は何もののそよぎもなかつた。空を仰がうにも星らしいものの光はなく、すべてが闇と靜寂に鎖されてゐるのだつた。唯彦は今居る場所がやはり狹い暗い墓の中らしいのを感じた。今迄身は輕ろやかに自在に空の下を散策出來たと思つてゐたのに、もはや己は闇の底に幽閉されてしまつてゐるのだらうか。[やぶちゃん注:「戰く」「わななく」。ざわざわと音を立てる。]

 暫くすると、闇に慣れた視力に、ふと何か仄かに白いものが蹲つてゐるのが見えて來た。唯彦はそれがすぐ近くにゐて、たしかに息をしてゐるらしいのを感じた。次第に唯彦は怕さに神經を尖らしながら、息を潛めた。しかし、相手はもうちやんと唯彦の存在を知つてゐるやうに、落着いてゐるらしかつた。一體、何者なのだらう、と唯彦は猶も緊張したまま蹲つてゐた。その時相手は今迄怺へてゐた言葉を放つ最初のきつかけを作るやうに、「ほう」と奇妙な聲を放つた。それで唯彦はまづ相手が人間であることがわかつて、ちよつと安心した。一聲洩したまま、相手はまた沈默したが、その聲の調子ではどうやら相手は年寄つた女らしかつた。何のために俺の身邊にやつて來て、言葉を掛けようともぢもぢしてゐるのか、唯彦は妙に腹立たしく感じ始めた。

「ほう、見える、よく見える」と相手はまた獨白をつづけてゐた。「私の眼は死ぬる前には、殆ど役立たなかつたのに、今はまるでよく見えるやうになつた」

 それから相手はまた默つてゐたが、

「あのう、そこにおいでになるのは淸水さんではありませんか」と急に彼女は唯彦の姓を呼んだ。

「あなたは誰です」唯彦はびつくりして相手を視凝めた。何時の間にか闇はさつきより薄らいでゐて、相手の輪郭は朧氣ながらも見出すことが出來た。やはり年寄の女が一人ぼんやりと彼の方を視凝めてゐるのだつた。

「淸水さんですか。やつぱしさうですか。よく似た方だと思つてゐました。それでは何時あなたはなくなられたのですか」

「あなたは誰です」と唯彦は相手が名乘らないのでまた訊ねた。

「おや、まだ云ひませんでしたか、私は森です、森の母です。二度か三度あなたは家へおいでになつたでせう」

 唯彦は彼女が怪しいものではないことを知ると微笑した。しかし、纔か生前二三度顏を遇はせただけの人に憶えられてゐることは、あんまり嬉しい氣持ではなかつた。

「あなたが去年だか、息子が家へ歸つて來た際、訪ねて下さいましたが、あの時もやはり咳などしてゐられたので、丈夫ではないらしいと後で話し合つてゐましたが、やはり駄目だつたのですか」

 唯彦は返事のしやうがなかつた。「あなたも死んでらつしやるのですか」と唯彦は訊ねてみた。すると彼女は輕く頷いた。

「ええ、私などは何と云つても、もう齡が齡ですから仕方もないことですが、あなたなぞはさぞ殘念なことでせう」唯彦は返答しなかつた。

「それに私でもまだ後に殘した子供達のことを考へると矢張り後髮を牽かれる想ひです」

 彼女はたしかに少し自分の言葉に興奮し始めた。「さうです、子供達は一體これから先どうなるのでせう。子供達の生きてゐる地球はほんに何だか無氣味なことだらけのやうです。何がどう云ふ風になつて行くのやら私のやうな無學者ではさつぱりわかりませんが、死際まで私は變な妖しい夢に脅かされました。一體どういふことになるのでせう、あなたのやうな若い方にはそれがよくお解りではありませんか」

 唯彦は森の母がそんなことを言ひ出したので、ちよつと眼を圓くした。しかし、何と云つて答へたものか彼自身にもわからなかつた。「あなたが尋ねてゐられるのは世の中のことですか」と唯彦は訊ねた。相手は靜かに頷いた。ふと唯彦は何だか理由もなくをかしくなつて、しかもドキリと刃物をつきつけられたやうだつた。彼は笑顏を作つた。

「まあそんな心配なさらなくともいいでせう」

「さうでせうか」

 唯彦は曖昧に頷いて、なはも微笑を續けてゐた。「それより僕はどうしてあなたとこんな場所で逢へたのか、その方が今心配です。僕はこれからどうなるのでせう。どこへ行つたらいいのか解つてゐるのなら教へて下さい」

 すると彼女は訝しげに四邊を見𢌞した。「私もさつきまであなたとお逢ひ出來るとは思へなかつたのです。何處となしに迷ひ步いてゐるうちに色々、不思議なことがあつて、ふと眼の前が少し明るんで來たのですが、やはりここも前と同じやうな場所なのでせうか」

「おや向うにあんなものがあつたかしら」と老女は向うを指差した。見ると、淺黃色を呈してゐる空の下に乳白色の凹みがぼつと置かれてゐるのだつた。

「どうやら河らしいですね、しかし河にしては向岸がありさうなものだが」と唯彦は首を傾けた。そこまではかなり遠方のやうにも思へたが、光線の加減でさう思へるのかもしれなかつた。

「あの邊まで行つてみませんか」と彼女はさきに立つて步き出した。茫々とした草原の路は昏かつたが、その上に展がる空は今靜かに靑い光を孕んでゐた。唯彦の前に立つて步いてゐる女は、まるで向うの白い凹みに魅せられてゐるやうに、もう一言も口をきかなかつた。ふと、菊の花のにほひが漾つた。唯彦はあたりを見𢌞したが草原の闇は默々と續いてゐた。女の草履の音が侘しく鳴つた。唯彦はぼんやりと從いて步いた。

 ほつと眼の前が少し明るくなつた。唯彦の前にゐる女は立留まつた。氣がつくともう目的地まで來てしまつてゐた。大きな眞白な河が音もなくすぐ前を流れてゐる。そこの岸には一般の渡舟が退屈さうに繫がれてゐる。二人はその渡舟のところまで步いて行つた。急にその時後からせかせか下駄の音が近づいて來た。見るとそれは唯彦も街でよく見かけたことのある人らしかつた。眼が片一方潰れてゐるので、その男は唯彦の印象にぼんやり殘されてゐた。その男はせかせかと老女にむかつて話しかけた。

「まあ、あんたはここへゐたのですか。わしも隨分ぐるぐる步いてゐましたよ。さうさう、この間あんたが死んだ時の葬式にはわしは頭がいたうて行きませんでした。ええ、さうかと思へばわしは洗濯をやりながら腦溢血で斃れてしまつて、あんなことにならうとは……………………」 

芥川龍之介 手帳7 (24) 中国旅行最後の記録 / 中国関連「手帳6・7」全注釈~完遂

 

 

○上衣(衫) 裙子 褲子 ○背心(紐かたし) 木綿 フランネル 褲子 きやらこ(洋布) フランネル 緊身 きやらこ

[やぶちゃん注:「衫」(さん)は中国では、上半身に着る単衣(ひとえ)の上着・シャツ。或いは足元まで届く長い上着を指す。

「裙子」(くんし)中国で女性が腰から下に着ける衣裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。

「褲子」(こし)は中国語で「ズボン」のこと。

「背心」ここは昔の中国服の上着の上に羽織るチョッキのことか。現代中国語では、袖無しの肌着やランニング・シャツを指す。

「フランネル」英語「Flannel」。柔らかく軽い毛織物のこと。衣類及びシーツや寝巻きに一般的に用いられる。

「きやらこ(洋布)」英語「calico」。インド産の平織りの綿布。ウィキの「キャラコ」によれば、『インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった』。『インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気を』呼び、十七『世紀以後』、『インドに進出したイギリス東インド会社は』、『この貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコと』呼ばれるようになった。『この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業したため、ドイツの経済学者であるカール・マルクスによって「職工夫の骨でインドの平原が白くなった」と形容されたほどの惨状を呈した』。『日本でも生産されている』が、『日本で「キャラコ」と呼ぶ場合はインドとは逆に』、『薄手で織り目が細かい糊付けした純白の布地を指し、主に足袋やステテコの材料となる』とある。後に再度「褲子」とあるのは、中国人穿くズボンの素材がキャラコであることをメモしたものか。

「緊身」これは恐らく、現代中国語の「緊身褲」(きんしんこ)で、伸縮性のある腰から脚までにぴったりとフィットするズボン又はタイツ状のスパッツ(spats)のことであろう。]

 

 

○短褲子 底裙子(緣レエス) 背心 緊身(底衣衫) 夾緊身(袷)(綿緊身)(冬秋)衣裳(襟あり)(寒氣に從ひ裏小 中 大毛) 裙子(襞あり)

「短褲子」半ズボン。

「底裙子」よく判らぬが、下着として穿く裙子か、或いは、洋風のスカートのことか。

「底衣衫」これは現代中文サイトの画像を見る限りでは、シャツやブラウスのような上半身に着る下着のことのようだ。

「夾緊身」これは中文サイト画像を見る限り、腰を細く締め付けるコルセット風のものを指すようである。さすれば、「袷」も意味が合うように思う。]

 

 

○靴 大部分ハ西洋靴(皮靴) 上下共紅は新妻のみ 親戚知人に慶事ある時は裙子のみ紅し 褲のみなるは娘

[やぶちゃん注:靴の話は二文目で切れて、「上下共紅は新妻のみ」以下は上着と下着の組み合わせの際の取り決めの記録。]

 

 

○鳳冠 双孖髻 辮子――娘(この髷は皆髮を分く)

[やぶちゃん注:「鳳冠」は女性が頭部に派手に装着した冠状の髪飾り。調べて見たところ、明代には九品以上の官吏の夫人は鳳冠を装着することが義務づけられていたとある。

「孖髻」は読みは音で「しけい」或いは「じけい」で、「孖」は対になってものを指す語であるから、これは恐らく中国の娘の髪型で、頭の上部左右に丸い髻(まげ)をつけるそれを指すのではなかろうか。

「辮子」現代中国音音写で「ピィェンヅゥ」でこれは辮(弁)髪の意もあるが、ここは「娘」とあるから「お下げ髪」のことであろう。さすれば、先の「孖髻」とも親和性がある語となる。]

 

 

絲褐(緞子に似たり 模樣浮き出づ)唐草色淡靑 冬

[やぶちゃん注:傍点の「◦」を下線太字に代えているので、「〔◦印は冬秋〕」は「〔傍線太字は冬秋」〕と読み替えられたい。なお、次の条の注も参照のこと。

「華絲褐」不詳。]

 

 

子 水色へ細かに葡萄(實葉)の浮ぶものあり 模樣は桃色 冬 ○熟羅(眞夏) ○大紡綢(初夏)羽二重の如し ○小紡綢(夏)細き模樣浮き出づ その模樣銀に似たり 細き茶の線 ○夏布 麻也 ○官紗(放花官紗)薄紫の放花官紗 藻と金魚の模樣(小) ○縐紗 靑磁色に木蘭花の模樣を織出す 模樣は皆織 ○絲緞 ○華絲羅 黑に波形模樣浮ぶ ○愛國布〔◦印は冬秋〕 ○緞子 縐紗 華絲褐 華絲羅 華絲緞 愛國布 紡綢――裙子 ○繭紬は主として夏 縐紗は四季共 寧綢

[やぶちゃん注:傍点の「◦」を下線太字に代えているので、「〔◦印は冬秋〕」は「〔傍線太字は冬秋」〕と読み替えられたい。但し、これは本文を読むに、実際には、その単漢字につけたマークではなく、「華絲褐」「緞子」「華絲緞」のそれぞれの服を指し、この三種は冬秋用であることを注記している

「熟羅」不詳。「羅」は薄絹のことであろう。

「大紡綢」読みは「だいぼうちゅう」(現代仮名遣)と読んでおく。不詳。但し、「紡綢」(現代中国語音写「ファンチョウ」)は細くてしなやかな平織りの織り物で、夏服に用いるという中文記載があった。

「羽二重」日本で縮緬(ちりめん)と並ぶ高級絹織物の一種。生糸を用いて織り、後に練(ねり)をかける。平滑で光沢があり、平織が多い。

「小紡綢」不詳。前のそれと何が「大」で、何が「小」なのかさえ判らぬ。

「官紗(放花官紗)」杭州・紹興一帯を特産とする薄絹の高級織物。紗(しゃ)。古代に於いて宮廷へ貢納したことから「官」がついている。「放花」は不詳。

「縐紗」「しゅうしゃ」と読んでおく。紗の一種で、非常に繊細な織りで、摺り紋を有し、頭巾や顔を覆うレースに用いたといった内容のことが中文サイトにはあった。「縐」は縮緬のことと中日辞書にあった。

「華絲緞」不詳。

「華絲羅」不詳。

「愛國布」これは西欧列強の文化侵略に対して、西洋布地を用いずに、中国産の生地を布地として用いよう、と呼びかけたそれを指すように思われる。

「繭紬」「けんちゅう」は中国で織りっ放しの薄地の絹織物を指した。練りを加えた上級品は「練紬」(れんちゅう)と呼んだ。

「寧綢」不詳乍ら、例えば、この画像の中国服は清中期のもので「果綠色寧綢繡花蝶紋旗裝」とキャプションがある(リンク先は私のピンタレスト)。]

 

 

○學校 下宿(支那人拒絶) 警察 新聞(チヤンコロ) ○講堂に日淸戰爭の戰利品をかく 教官支那にかかるものあるかと云ふ 支那人は數學的天才なし ○警察支那人集會をいぢめる ○Opium Den のシネマ辯士チヤンコロと云ふ

[やぶちゃん注:「チヤンコロ」は中国や中国人を指す軽蔑語。以下、ウィキの「ちゃんころ」より引用しつつ、私の見解を附す。『中国人(中華民族=漢民族)を指す差別的な呼び方 その語源説の一部から、満洲民族(清国人)をも含む差別的呼称とする見解もある』。『江戸時代には銭などの小さくて取るに足らないものの意味で使われたが、語源が違』い、日本語としての使用の正当性が認められるとは言えない。『語源については諸説有るが、清国奴の台湾語読み(白話字:chheng-kok-lô)が、台湾の日本統治時代に訛って日本へ伝わり広まったとする説が有力である。その他に、留学生が用いた清国人(チンクォレン)説、中国人(チュンクォレン)説などもある』。『この「ちゃんころ」という言葉は、日本が中国大陸に積極的に出兵する昭和初期から頻繁に使われるようになる。中国服のことを「チャン服」、中華料理のことを「チャン料」などと形容詞的に略して用いることもあった。当時の日本人には中国人に対する優越意識を持つ人もおり、また日本と中国が戦争状態にあったことから侮蔑的に使われることが多かったため、現在では侮蔑的な言葉』として用いてはならない芥川の叙述から、差別語として既に大正期に現地中国で用いられていたことが分かる。そしてそれが内地人である芥川には如何にも異様な響きでもって感じられたからこそ、これを叙述している点を見逃さないようにしたい

Opium Den」は一般名詞ならば、アヘン吸飲所・アヘン窟のことであるが、それでは意味が通らない。両単語の頭文字が大文字になっているので、中国の日本租界(上海の他には天津・漢口・杭州・蘇州・重慶に存在した)にあった映画館の館名であったか。既に「手帳」の中国パートは最後に近く、或いはこれはずっと以前の上海の租界での記憶等を記したものかも知れないし、メモ位置から考えると、帰路の途中の奉天や釜山での嘱目の可能性が高いとも言える。例えば、芥川龍之介の「雜信一束」の、

   *

       十九 奉天

 丁度日の暮の停車場に日本人が四五十人步いてゐるのを見た時、僕はもう少しで黃禍(くわうくわ)論に賛成してしまふ所だつた。

   *

などを読むと、その感じが強くする。奉天には「租界」はなかったものの、事実上の日本租界と呼んでよいものが形成されていたからである。上記の「雜信一束」のリンク先の私の注を参照されたい。如何せん、北京出立以降の芥川龍之介の帰路は資料が著しく少なく、よく判らない。]

 

 

○標札 金屬(金 or 銀)赤字の名 又は額中 刺繡にて字を出すもの 字と共に畫を出すもの 金額札の周圍に電燈をともすもの 人力車に六個の火をともし行く妓あり ○門(對聯)門房 中庭 房 壁紙(洋風) Bed 鏡臺 床は瓦 壁上の掛物 啖吐

[やぶちゃん注:「人力車」は日本由来のものであり、「六個の火をともし行く妓あり」というのは、日本人芸妓のようにもとれる。とすると、釜山での嘱目の可能性が高くなるか。]

 

 

○方邱 稚拙愛すべし 唐寅 山水橫卷 北畫の體を學ぶ 新羅 鳥 朱葉鮮 石濤 枯木竹 三王惲 畫册 南田の山水よし 金農 鬼 大小鬼 項易庵(聖模) 墨畫花卉 俊 石濤 花卉山水册 墨竹妙 八大山人の畫 金俊明の梅 錢杜(錢叔美)の花卉册 方若家

[やぶちゃん注:「方邱」不詳。画人の名としか思われない。或いは、明末清初の画僧であった石谿(せきけい 一六一二年~一六七四年)の誤字、或いは、岩波旧全集編者の誤判読ではあるまいか? 彼の号の中に「介邱(かいきゅう)」があるからである。俗姓は劉氏で、幼少の時に父母を失い、諸地方を遍歴し、四十歳頃に金陵(南京)報恩寺の覚浪に参禅、牛首山(ごしゅせん)幽棲寺の住持となった。明遺民として、限られた友人の周亮工や程正揆などが石谿の伝を記している。画作は康熙初年(一六六〇年代)に多く集中しており、彼の山水図は当時、高く評価されたという(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「唐寅」既出既注

「北畫」北宗画(ほくしゅうが)。中国の山水画の様式による区分で南宗画(なんしゅうが)に対するもの。日本では、かく「北画(ほくが)」とも称する。この対概念は、古くは明末の文人画家董其昌(既出既注)の提唱したものであったが、現在では彼の所説を離れ、画風・画法上から系譜的分類が行われて、華北地方の自然に密接した華北系山水画を「北宗画」と称し、江南地方の自然と関連する江南山水画を「南宗画」と規定している。

「新羅」(?~一七五六年頃)は清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。

「石濤」(一六四二年~一七〇七年)は清初に活躍した遺民画人。石濤は字(あざな)、後に僧となった際にはこれをそのまま道号としている。ウィキの「石濤」によれば、『明王室の末裔にあたる靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家の末裔として生まれ』た。『黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家に挙げられる』とある。

「三王惲」これは芥川龍之介の錯誤があるか。まず、後ろの「惲」(音「ウン」)であるがこれは、恐らくは清初の文人画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年)のことであろう。字(あざな)を寿平(じゅへい)と称したが、後に寿平が通常の名となり、現在も惲寿平の名で知られる。既出既注の惲南田(うんなんでん)のことである。次に前の「三王」であるが「清初の六大家」と称される画家たちがいるが、これは「王」姓の四人の南宗画家である王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)を数え、これに呉歴とこの惲寿平を加えた六人で別に「四王呉惲(しおうごうん)」という。芥川龍之介はこれを思い出せなかったか、或いは龍之介の錯誤ではなく、現地では四人の内の一人を外した「三王」の命数と惲寿平の四人を並べた呼称があったのかも知れぬ。

「南田」前の惲南田のこと。

「金農」(一六八七年~一七六三年)清の文人画家で書家。銭塘(浙江省杭州)出身。故郷杭州の文人の間で育って詩名を揚げ、古美術の鑑識眼にも優れた。三十歳過ぎから詩書を持って各地を遍歴し、晩年、六十歳頃から揚州に寓居してから本格的に画筆を執り、「揚州八怪」(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の代表的存在となった。南宗画の形式主義から脱した個性的画風による竹・梅・馬などを得意とし、晩年は仏画も描いた。書は収集した金石拓本をもとに独自の書風を確立した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「項易庵(聖模)」「模」は恐らく誤り。明末清初の画家項聖謨(こう せいばく 一五九七年~一六五八年)。祖父元汴(げんべん)、父徳新も画家。易庵は号。書と山水画に優れ、項氏一族の中でも最も名を知られた。

「花卉山水册」項聖謨の画集には「花卉」が六冊、他に「花卉圖屛」が三冊、「山水」を題簽に含む図冊が多数ある。例えば「山水六段」二巻や「山水圖册秋林岩壑」・「山水圖册疏林听雨」・「山水圖册亭阜詩思」・「山水圖册云山不動」。

「八大山人」(一六二六年?~一七〇五年?:本名は朱耷(しゅ とう)或いは朱統𨨗(しゅ とうかん)は明末清初の画家・書家で詩人。先の石濤は遠縁の親族に当たる。

「金俊明」(一六〇二年~一六七五年)は明末清初は文人画家。梅花を好んで描いたらしい。中文サイトで画像が見られる。

「錢杜(錢叔美)」(一七六四年~一八四五年或いは一七六三年~一八四四年)清後期の画家。叔美は字。銭塘(浙江省杭州)の裕福な家柄に生まれ、書画を愛好した。宋・元の山水画を学び、洗練された画風は纎細過ぎて迫力に欠けるが、嘉慶・道光期(一七九六年~一八五〇年)の文人画の特色を代表する画家として知られる。色彩を用いた山水にも瀟洒な趣があるとされる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「方若家」不詳。誤記か誤判読が疑われる。]

 

 

〇一籃の暑さ照りけり巴旦杏

   薄埃り立つから梅雨の風

 若竹のいつか垣穗を打ちこして

   大盃によよと酒もる

 燈臺の丁子落ちたるはなやかさ

[やぶちゃん注:この中国行中の嘱目(というか、発句は嘱目で以下の付句は想像と断じてよかろう)の連句。「發句」(私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」参照)の句「ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏」前書、及び、芥川龍之介「雜信一束」附やぶち注釈)の、

   *

       二 支那的漢口

 彩票や麻雀戲(マアヂヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。其處をひとり步きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口(ハンカオ)の夏を感じたのは、――

     ひと籃(かご)の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)

   *

に従えば、五月下旬から六月上旬の漢口での作となる。初句の表記が「ひと籃の」となっている表記違いであり、四句の付句(と思しいもの)が続くが、これらは「一籃の暑さ照りけり巴旦杏」以外は、この手帳以外には見出せないものである。既に私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で芥川龍之介の句(連句形式)として掲げている。中国の旅の終りの思い出の独り連句の諧謔と採っておく。

「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ Prunus dulcis所謂、「アーモンド」のことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂スモモが入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏」(ぼたんきょう)、「巴旦杏」(はたんきょう)という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いていると考えるのが妥当である。季語としては春となるが、ここは「暑さ」が季語。

「から梅雨」「空梅雨(からつゆ)」。

「垣穗」垣根。

「丁子」「ちやうじ(ちょうじ)」と読む。「丁子花(ばな)」「丁子頭(がしら/あたま)」のこと。灯心の燃えさしの頭にできる、チョウジ(バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum:クローブのこと)の実のような丸いかたまり。俗に、これが油の中に入ると貨財を得る吉兆だと言われた。] 

 

Like water under thin ice.

[やぶちゃん注:「薄氷を踏む思い」の意。「手帳七」掉尾。意味深長な謎の最後の言葉ではないか。……私にはちょっと判る気がしている……芥川龍之介が中国特派を望んだ理由の一つが、かつての不倫相手で、この頃には既に激しい生理的嫌悪の対象となっていた秀しげ子から逃避するためだったからである…………]

2018/01/09

芥川龍之介 手帳7 (23) 驚くべき書画骨董群

 

○王煙客 晴嵐暖翠圖(乾隆慶御印)〔卷後御題(乾隆)〕戊申淸和月畫於昆陵舟次王時敏當時年七十有七 ○郎世寧の乾隆肖像 世界空華底認眞 分明兩句辯疎親 寰中第一尊臺者 却是憂勞第一人 此予夢中自題小像舊作也 ○唐宋元畫册 王維雪溪圖其昌題(其昌畫禪室藏)李營丘(春夏山水)○名畫大觀(無上神品御筆)○趙子昂 瀟湘圖卷 王蒙 松路遷巖 陵天游 丹臺春賞 巨然 江山晩興 范寛 江山蕭寺 黃大癡 山水ト芝蘭室銘の小楷 倪瓚 山水 ○丹兵衞九鼎(衡山の賛あり)方々壺(上淸方文)李龍眠 五馬圖 黃魯道題(toute realiste) 燕文貴 秋山蕭寺 倪 陸の賛(狩野派と似たり)○唐宋元畫册、煙客老親家題董玄宰爲 ○林泉淸集 王蒙 紙本 其昌ノ賛

[やぶちゃん字注:先と同様、「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によって、ここに記された書画を芥川は北京西単霊境胡同にあった陳宝陦の家で見ていることが分かった。秦剛氏によれば、そこで芥川が観た作品として、ここに記された『李公麟「五馬図」』『王時敏「晴嵐暖翠図」』を挙げているからである。前のメモとの間に、万里の長城・大同・雲崗石窟の記事が挟まっていることからは、芥川は陳宝陦の家を二度目の訪問しているのかも知れぬ(推定とするのは、原手帳に当たることが出来ないからで、原手帳は破損が激しいことから、或いは保存時にページがばらけてしまったものを、その状態で活字に起した可能性、則ち、陳宝陦の家には一度しか訪ねていないが、その一連のメモがたまたま分離されてしまったに過ぎぬという可能性を排除出来ないからである)。

「王煙客 晴嵐暖翠圖」王煙客は明末清初の画家王時敏(一五九二年~一六八〇年)の号。婁東(ろうとう:現在の江蘇省太倉)の出身。「清初六大家」の最長老。董其昌の薫陶を受けて宋元画を習い、主に黄公望の画風を研究し、平明な山水画風を完成した。同郷の王鑑とともに清代呉派文人画の基礎を確立し、他方、名画を多数収集して後進をも指導したことから、画壇に大きな勢力をもった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「慶御印」の「慶」は賞讃したの意であろう。

「〔卷後御題(乾隆)〕戊申淸和月畫於昆陵舟次王時敏常時年七十有七」乾隆帝(高宗)の当時は一世一元制で「戊申」は乾隆五十三年で西暦一七八八年であるから、既に王時敏が亡くなって百八年後のこととなる。或いは数えで王時敏が七十七歳だったのは一六七〇年で、清の康熙帝の九年となる。仮に康熙の「戊申」だとすると、一六六八年であり、近くはある。「淸和月畫於昆陵舟次」が画題か。「淸和月」の「淸和」は空が晴れて和やかなことであるが、別に「淸和月」で旧暦四月の異名であり、「昆陵」は西方の青海辺りにあると考えられた黄河の水源とされた伝説的霊山の崑崙山の異名で、「舟次」は舟を停泊することであるから、これは「四月、崑崙山の麓の黄河の源流に舟を留めて「畫」(えが)くという、幻想の山水画ででもあったものか。大方の御叱正を俟つ。当該画は見つからなかった。

「郎世寧の乾隆肖像」「郎世寧」は既出既注。最も知られた郎世寧=ジュゼッペ・カスティリオーネの描いた乾隆帝の肖像画は「乾隆帝朝服像」。これ

「世界空華底認眞 分明兩句辯疎親 寰中第一尊臺者 却是憂勞第一人 此予夢中自題小像舊作也」乾隆帝の肖像画に添えられた郎世寧の添書きか。無理矢理、訓読してみると、「世界は空華にして底を眞に認む 分明なる兩句は辯じても疎親たり 寰中(くわんちゆう)第一尊臺者 却つて是れ憂勞第一の人 此れ予が夢中に自(おのづか)ら題したる小像の舊作なり」か。

「唐宋元畫册」不詳。唐・宋・元代の歴代名画集の類いではあろう。

「王維雪溪圖其昌題(其昌畫禪室藏)」これはかの盛唐の詩人で画もよくした王維の「雪溪圖」(これ。中文サイト画像)に明代の文人画家で書家でもあった董其昌(とう きしょう一五五五年~一六三六年:南宗画を理論的様式的に最も優れたものとした画人として知られる)が讃して題したものであろう。「畫禪室」は董其昌の号の一つ。

「李營丘」「李營丘」は五代から北宋初期の山水画家李成(九一九年~九六七年頃)の別称。

「名畫大觀(無上神品御筆)」書名も筆者も不詳。

「趙子昂 瀟湘圖卷」「趙子昂」は既出既注。彼の「瀟湘圖卷」は不詳であるが、瀟湘(しょうしょう)八景は中国の山水画の伝統的な画題で、この題は他の画家の画題にも認められる。瀟湘は湖南省長沙一帯の地域で、洞庭湖と、そこに流入する瀟水と湘江の合流するあたりを「瀟湘」と称し、古えより風光明媚な水郷地帯として知られる。北宋時代の高級官僚宋迪はこの地に赴任した際、この景色を山水図として画いて後、この画題が流行し、やがては日本にも及び、八景の命数も流行した。

「王蒙 松路遷巖」「王蒙」は既出既注。画は不詳。

「陵天游 丹臺春賞」「陵天游」は元末明初の画家陸広。「丹臺春賞」はこれ(ウィキ・コモンズの画像)。

「巨然 江山晩興」「巨然」(きょねん 生没年不詳)五代から宋初(十世紀初め)の画僧。鍾陵(江西省)或いは江寧(南京)の出身とも。僧としては南京の開元寺・汴京(べんけい:開封)の開宝寺などに歴住した。董源(とうげん)の山水画風を受け継ぎ、後には「董・巨」と並称された。やや粗放な筆墨法によって江南の自然を平明に描いたが、伝記類には董・巨が入り交っており、確実な現存遺品はない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)とある。

「范寛 江山蕭寺」「范寛」(はんかん 生没年不詳)は北宋初期の山水画家。華原(陝西省耀県)の人。天聖年間(一〇二三年~一〇三一年)には未だ在世していたことが確認されている。当時「真」と呼ばれた写実に最も留意し、山林に分け入って自然を徹底的に観察して、独自の山水画を創出、巨大な峰巒(ほうらん)が威圧感をもって迫る感じは、ともに北宋を代表する李成の平遠山水と対照的である。「渓山行旅図」(台北故宮博物院)のみが現存唯一の真跡とされる(平凡社「世界大百科事典」に拠る)とある。

「黃大癡 山水ト芝蘭室銘の小楷」「黃大癡」(こうたいぎ)は元朝末期の水墨画家黄公望(一二六九年~一三五四年)の号。倪瓚(後注参照)・呉鎮・王蒙と並び「元末四大家」と賞され、その中でも、最も広い画風を持ち、後代に与えた影響も一番大きいとされる。「山水」画と、それに「芝蘭室」という「銘」が「小楷」(字体が小さく端正である楷書)で添えられているという意味であろうか。「芝蘭室」は号らしいが、調べても見当たらない。但し、これは故事成句の「芝蘭(しらん)の室(しつ)に入るがごとし」に基づくことは判る。これは「芳香を放つ芝蘭(霊芝と蘭)が置いてある部屋に入ると、いつの間にか、そのよい香りが身に染みつく」という原義から、「立派な人と交際すれば、よい影響を受ける」という意味を持つ。

「倪瓚」(げいさん 一三〇一年~一三七四年)は元末の画家。「元末四大家」の一人に挙げられる。終生、仕官しなかった在野の画人である。

「丹兵衞九鼎」「丹兵衞」は不詳であるが、九鼎(きゅうてい)は古代中国における王権を象徴する三本足の金属製祭器としての鼎(かなえ)。ウィキの「によれば、『伝説によれば夏の始祖禹王が九州(中国全土)に命じて集めさせた青銅をもって鋳造したものという(史記・封禅書)。夏最後の王、桀王が殷の湯王に滅ぼされたのちは殷室に、帝辛(紂王)が武王に滅ぼされてからは周室の所有となった。周の成王即位の折、周公旦は九鼎を雒邑(洛陽)に移し、ここを新都と定めたという(墨子・耕註)。「鼎を定む」(奠都すること)の成句はこの故事に由来する』。『九鼎は周王朝』三十七『代にわたって保持され、それをもつものがすなわち天子とされた。周が秦に滅ぼされたとき、秦はこれを持ち帰ろうとしたが、混乱のさなか泗水の底に沈んで失われたという。秦朝は新たに玉璽を刻し、これを帝権の象徴とした』とある。「九」は夏の聖王禹(う)が、九つの州から金を貢上させてこれを創り、天子の象徴として夏・殷・周三代に伝えたという伝承に基づく。

「衡山」明代中期の文人画家文徴明の号。既出既注

「方々壺(上淸方文)」不詳。前が鼎だったから、これは方形の壺か。「上淸方文」はよく判らぬが、明末清初の詩人に方文(一六一二年~一六六九年)がいるから、彼がその壺の上部に文を彫琢しているの意味かも知れない。

「李龍眠 五馬圖」北宋の画家李公麟(りこうりん 一〇四九年~一一〇六年)のことであろう。彼の号はウィキには「龍眠居士」とあるからである(邦文ウィキでは「龍民居士」。以下の引用はそちらから)。現在の安徽省六安市出身で、官僚を務めるかたわら、『考古学者として銅器など骨董品の年代確定でも活躍した。退官後の晩年は画の制作に専念した』。「五馬圖」は判らぬが、彼は非常に好んで馬を描いている。グーグル画像検索「李公麟 馬を見られたい。

「黃魯道題」不詳。「黃魯道」は名前ではなく画「題」のようだ。

toute realiste」はフランス語で「非常に写実的」の意。

「燕文貴 秋山蕭寺」「燕文貴」(生没年未詳)北宋前期の宮廷画家。呉興(浙江省)の人。「江海の微賤」と称されるように、江南出身の元兵士で、太宗の治世に、高益の推挙で画院祗候となった。画風は当時の山水画を主導した華北と、出身地華南の折衷様式であったと考えられ、それは後の宮廷山水画様式の方向を示唆するものであったという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「秋山蕭寺」は中文サイトで見られる。

「倪」先の倪瓚。

「陸」単にこう書くからには、先の陵天游であろう。

「煙客老親家題董玄宰爲」「董玄宰」は先の董其昌の字(あざな)。「煙客老親家」が画題(意味不明)で、その「題」を「董其昌」が「爲」(な)しているという意味か。よく判らぬ。

「林泉淸集」明末清初の画家林泉淸(一六三三年~一七〇四年)の画集か。中文サイトで一部が見られる。]

2018/01/08

芥川龍之介 手帳7 (22) 大同・雲崗石窟

 

○大同 土ヤネの Hotel. 廣キ庭 三犬 黃先生(ホワンセンシヨン) 英日語ニ通ズト云フ 鳩とぶ 滿目泥色 星明朗 天の河斑々 東花棧 瓦の床 南京虫 蚊なし

[やぶちゃん注:「(ホワンセンシヨン)」はルビではなく、本文。「黃先生」“huáng xiānshēng(ホアン シィエンシヲン)。

「大同」現在の山西省北部に位置する大同市で、省都の太原市に次ぐ山西省第二の都市である。北京の西二百キロメートル以上。

「黃先生」不詳。

「東花棧」不詳。後の叙述から大同の旅館の名か。]

 

○土 石 grey. 草疎 水稀 ゲンゲ風の花――香草(シヤンツアオ) 馬糞ニ甲虫ムラガル 稀ニタンポポ 所々の神道碑 植樹 ○臺頭(右) 念佛(左)(門は鼠色レンガ) 門前傾面大樹アリ 楊柳(ヤンリユ)ナリト云フ

[やぶちゃん注:「(シヤンツアオ)」はルビではなく、本文。「香草」“xiāngcǎo”(シィアンツァオ)。セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum。中華料理や東南アジア料理で用いられる、あれ。学名で判る通り、コリアンダーのこと。花は確かに遠目にはゲンゲマ(マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicusに似るが、全くの別種である。

「神道碑」(しんどうひ)は中国の文章の種類の一つで、墓前に立てた石碑に刻して、墓主を記念する文章。通常は散文で書く伝記部分である「序」と韻文で頌する「銘」とから成る。「神道」とは墓の南東方のこととも、墓穴に通ずる羨道(えんどう)のこととも言われるが、孰れにしても石碑は実際には墓前に立てられる。唐制では碑を立てることの出来るのは五品以上の官に限られ、それ以下の者は同様の文章を「墓碣銘(ぼけつめい)」又は「墓表」と呼び、区別する(以上は平凡社の「世界大百科事典」に拠る)。

「(ヤンリユ)」はルビで、「楊柳」“yángliŭ”(ヤンリォゥ)。本邦では専ら、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix のシダレヤナギ Salix babylonica を指すが、大陸では多様な種が植生する。]

 

○戲臺 門前の石獅上をむく 石佛古寺(群靑へ金) 雲崗堡第六學區區立國民學校の札 右に鐘樓 左に鼓樓 門 堂ノ屋瓦靑 佛籟洞 棺(3) 藁 馬糞 入口のアアチの女 庫裡ノ壁中央マデ黃ニヌリ靑ニテ花ヲ描ク「山西獨特ダヨ」 ○穴の中に鳩あり 麥ひき場となり石臼あるあり 民家ノ一部トナルアリ 犬盛ニ吠ユ 碧霞觀アリ 煉瓦の門を二つ三つくぐる 石をつみし塀 枯茨をのせる ○山は皆頂平なり 畑は粟多し 「地しばり」の黃花

[やぶちゃん注:「戲臺」中国で劇場の舞台を指す。唐代では各種の芸能の演ぜられた戯場は大寺院の境内や周辺に集中したが、宋代になると、都市の盛り場に常設され、中には数千人を入れる大規模なものもあって,「勾欄(こうらん)」と呼ばれた。方形の舞台を欄干で囲んで観客席と仕切った。また、元代には地方巡業の一座が廟に戯台を設けたり、空地に小屋掛けしたりしており、この様式は現在までも続いている(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「石佛古寺」雲崗石窟(うんこうせっくつ)のこと。(グーグル・マップ・データ)。山西省大同の西十五キロメートルの、武州川の北岸の断崖に造られた北魏の石窟寺院。全長は約一キロメートルにも及び、敦煌石窟、竜門石窟とともに「三大石窟」と称され、大同石仏として知られる。大小五十三窟があり、東方・中央・西方石窟群の三箇所に分かれる。開削は四六〇年、沙門統(しゃもんとう)曇曜(どんよう)が時の皇帝文成帝に石窟五所を営みたいと奏上したのに始まり、この最初期の五窟(西方石窟群に含まれる)が完成したのは四六五年頃で、これを「曇曜五窟」と呼称する。それぞれの石窟内部に十数メートルもある本尊像が立ち並ぶさまは壮観で、これを取り巻く仏・菩薩・天人などの群像は、いずれも素朴で力強い作風を示し、遊牧部族だった北魏の拓跋(たくばつ)族のたくましいエネルギーを感じさせる。太武帝の時代に厳しい仏教弾圧を経験した直後だけに、仏教を永遠不滅なものにしたいという願いがここに凝集したかのようである。文成帝が崩ずると、十三歳の献文帝が立ち、ついで五歳の孝文帝が即位するが、政治の実権は文成の皇后、馮太后(ふうたいごう)の手に握られていた。彼女は熱烈な仏教信者で、側近の元老たちも仏教に熱心であったことから、北魏の仏教は繁栄した。雲崗石窟の造営も活発を極め、石窟の造営は東方から西方部分へと広がっていった。涼州出身の僧である曇曜は四八〇年代まで、二十年余も沙門統の地位にあって活躍したが、彼の率いる北涼系の工人集団が、石窟の造営、仏像の制作などの主流を占めていたものと考えられている。雲崗の仏像様式が西方の影響を強く受けていることは、シバやビシュヌ神のようなインドの神々、牛や金翅鳥(ガルーダ)にのる多面多臂(たひ)像の存在によって明らかであるが、釈尊の生涯を描いた仏伝図、その前生の物語である本生(ほんしょう)図をはじめ、盧遮那仏(るしゃなぶつ)。阿弥陀仏・多宝仏・弥勒菩薩・観音菩薩・維摩(ゆいま)や文珠など、造像の種類も豊富である。創建当初は極彩色に輝いていたが、今日残る彩色は近世の補修である。以上は小学館の「日本大百科全書」に拠った。芥川龍之介は北京滞在中の六月二十五日から七月九日の間に雲崗石窟を見学している。この雲崗石窟は六月二十四日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている

「雲崗堡第六學區區立國民學校」不詳。

「佛籟洞」雲崗石窟東方石窟群の中の第八窟。私も見たが、「棺」の記憶はない。に画像がある。

「山西獨特ダヨ」案内してくれた人物の解説の記録。

「碧霞觀」これは道教の女神で泰山信仰で最も人気のある女神碧霞元君(へきかげんくん)を祀る道観であろう。別名を「天仙聖母碧霞玄君」「泰山老母」「泰山玉女」「天仙娘々(てんせんにゃんにゃん)」などとも称し、出世・結婚・豊作など、広範な祈願成就の対象とされる。参照したウィキの「碧霞元君によれば、『特に華北地方では、西王母を凌ぎ、女神としてはもっとも信仰を集めている』。『そのルーツは、泰山の守護神・東岳大帝の娘・玉女大仙あるいは、後漢の明帝の時代の石守道という人の娘・玉葉との二説が有力』で、また、『泰山の碧霞宮に奉られて、泰山三郎(炳霊公)や泰山四郎の姉か妹に』当たるとされる。『他にも観世音菩薩の生まれ変わりなど』、『複数の説が存在する』。『碧霞元君は、どんなに信心薄い者の願いでも聞いてくれ』、『神々の中でも、もっとも優しい女神であるとされ』ている。『その神格も商売繁盛・子宝祈願・夫婦円満・病気治療の祈願や人々にお告げをもたらしてくれるなど、非常に幅広いご利益があるとされ』、現在でも『多くの信仰を集めている、とある。

「地しばり」キク亜綱キク目キク科タンポポ亜科ニガナ(苦菜)属イワニガナ Ixeris stolonifera の別名。地面を這うように伸びて広がる根の様子が、地面を縛っているように見えることに由来する。]

芥川龍之介 手帳7 (21) 「洛陽へゆく汽車は……」

 

○洛陽へゆく汽車は正東西に走る故に南面のみよごれる 西洋へ出る筈

[やぶちゃん注:「西洋へ出る筈」意味不明。]

 

芥川龍之介 手帳7 (20) 万里の長城・張家口

 

○轎を下り川を渡る 路は石磊々 居庸關 民家の土壁 石のアアチの浮彫を半かくす(象にのれる人) 支那同行二人 〇五柱頭山洞(隧道)の右に彈琴峽 藻の花あり 岩上に廟 栗鼠 蜥蜴 「請勿揳折」の札 門に「居庸外關」の字あり 子供の荷もち バツタ 虫聲 松葉 百合ノ花 花なきヒアフギ 燕 山はgreen and brown. Wallgrey. 瓦かけ狼籍 ○Edelweisz (Edelwise) みゆき草 Alpenヘ登る人が持ち歸る草 ○山に石灰にて白き線をひきあるは造林の爲なり

[やぶちゃん注:「居庸關」(きょようかん)は北京市昌平区にある「万里の長城」上に設けられた関所兼要塞。「天下第一雄関」とも呼ばれ、難攻不落の九塞に数えられた。北京市街から北西約五十キロメートルの、八達嶺長城へ向かう途中の峡谷にある。(グーグル・マップ・データ)。

「五柱頭山洞」「彈琴峽」居庸関の西北八・五キロメートルほどの位置にある、北京市延慶県の「八達嶺長城」附近の長城の景勝名。「彈琴峽」は峡谷で、そこを流れる川の音が琴を弾くようである、と伝えられたことからの美称。

Edelweisz (Edelwise)」ドイツ語表記は正しくは“Edelweiß”。中国産はキク亜綱キク目キク科ウスユキソウ属(中文分類名・菊目菊科火絨草屬)Leontopodium sp. で、エーデルワイス(ウスユキソウ)Leontopodium alpinumの亜種と思われる。

「請勿揳折」「請勿」は「~しないで下さい」という禁止の丁寧な言い回し。「揳折」はよく判らぬが「揳」は「叩く・打つ」の意味だから、以下の、木製の門扉が老朽化しているため、「打ったり叩いたりしないで下さい」というのであろうか?

brown」褐色。

Wall」この場合は「万里の長城」の「城壁」の意であろう。

「ヒアフギ「単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ(檜扇)Iris domestica。「Alpen」アルペン(ドイツ語)。英語の「Alps」(アルプス」)に当たる。]

 

○張家Kalgan. 車の右に陰山山脈見ゆ 山頂低し 西洋人福音書をくばる 蒙古の天晴れ 支那の天黑し 豪雨すぎし後と見えて路川の如し 柳 風強し 馬

[やぶちゃん注:「Kalgan」カルガンは「Zhangjiakou(張家口)の旧称。ウィキの「張家口市」によれば、河北省北西部に位置して内モンゴル自治区と境界を接する現在の張家口市は、『古くはモンゴル語で万里の長城の「門」をあらわすハルhālga またはカルガ kālga(その元の形はkaghalga)から、カルガン(Kalgan)の名でも知られていた。『北京の北門』とも呼ばれ』る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陰山山脈」中国北部の内モンゴル自治区(一部は河北省)にある山脈。ウィキの「陰山山脈によれば、『黄河屈曲部北端の北側に、黄河に沿って東西に走る。南側に急峻な断層崖があり北斜面は緩い傾動地塊である。北側はゴビ砂漠に続く山脈でハンギン後旗狼山から始まり、東西』千二百キロメートル、南北の幅は五十から百キロメートルに及ぶ。山脈の平均標高は千五百~二千三百メートル。『最高峰は、狼山西部にある呼和巴什格』(フーへバシゲ)山で標高二千三百六十四メートル。]

芥川龍之介 手帳7 (19) 明十三陵

 

○途中 南口ホテル 机の上に造花のバラ 外に驢馬 川原を渡る 村 男女とも分らぬ子供耳環にて女と知る クリスチヤンは耳環をせぬ 羊 黑羊 馬にのりし滿洲夫人 仔馬從ふ page 一人

[やぶちゃん注:「南口ホテル」前に途中とあるから、芥川龍之介が泊まっていたホテルではないようだ。北京駅の「南口」の「ホテル」という意味なら、この辺りとなる(グーグル・マップ・データ)。

「川原」北京駅東側を曲がる「通惠河」の河原か。【2018年1月12日:取消線附加及び追記】私の勝手な推測注を読んだ北京在住の教え子からの確かな情報を掲げる。

   《引用開始》

「南口ホテル」……やはりわかりません。わかりませんが、北京駅の近くのホテルではないような気がします。そもそも北京城内から十三陵[やぶちゃん注:次の次の条が明らかに明の十三陵のメモとなっている。]まで、龍之介はどのような交通手段で向かったのでしょうか。鉄道でしょうか……。もし、彼が宿を置いた東単牌楼近辺(私の推理が正しければ、です)から北京駅に向かい、そこから汽車に乗るなら、北京駅の南口ホテル(あったとすれば、です)に立ち寄るかしら。立ち寄ったかもしれないし、そうでないかもしれない。その頃の北京駅は、正陽門楼閣と箭楼の中間地点の東側にありました。今も鉄道博物館としてその外観は残されています。古写真の印象からの想像でしかありませんが、駅は西側にコンコースがありました。南口というのはなかったような気がします。また、東単はそこから北東の方角です。北東から来た龍之介が、わざわざ南に回り込むだろうか……。たしかに汽車を待つ間、南側のホテルで一服するかもしれまん。しかし、わかりません。

「川原を渡る」……これは北京城の周辺の河、お濠の水ではない気がします。十三陵へ向かう途中の郊外の浅い流れではないか。北京城の周辺なら、城門の前に濠にかかる橋がありましたから……。

「村」……十三陵へ向かう途上の景物ではないか。北京の城壁周辺の集落を、村とは呼ばないような気がするのです。

   《引用終了》

どれも明らかに腑に落ちた。この条は既に十三陵見学のアプローチのメモであったと考えてよいようである。

page」は「召使い」の意。]

 

○石牌樓 大理石 丹碧かすかにのこる 端方の碑あり 赤壁の家 驢二匹土にころがる 柳幹より芽をふく 子供多し 轎休む 曇天 白光ある雲山端にあり

[やぶちゃん注:「石牌樓」現在の北京の天安門広場と毛沢東紀念堂の南の、正陽門外にある前門大街にあった前門五牌楼か。北京駅と南口のホテルに寄り、そこから西に移動したとすると、無理がない位置ではある(北京駅からは二・五キロほどしかない)。場所はここ(グーグル・マップ・データ)。但し、一九五八年に都市改造のために取り壊されて存在しない。【2018年1月12日:取消線附加及び追記】私の勝手な推測注を読んだ北京在住の教え子からの確かな情報を掲げる。

   《引用開始》

「石牌楼」……正陽門南の大きな牌楼は石ではありません。古写真を見ても、大理石ではありません。ここで感じた違和感が出発点です。石の牌楼で思い出されるのは、明十三陵にある中国最大の石造牌楼です。龍之介はこのことを言ったのではないでしょうか。[やぶちゃん注:合わせて明十三陵の石造牌楼の写真を送って呉れたが、ネット上のもので著作権侵害となるので、カットした。]

   《引用終了》

どれも前条同様、これで明らかに腑に落ちた。やはりこの条も既にして十三陵へのアプローチのメモであったと考えてよい。

「轎」(きょう(現代仮名遣))は中国で用いられた、一人座席型になった駕籠。両側に附いた棒の前後を担ぎ手(通常は二人。四人持ちのものもある)が背に載せて運ぶもの。]

 

○秣陵殿前古松摧 殿中驢馬三頭 埃の臭 蝙蝠の糞 屋上草長ず ○陵前カシハ多し 松檜もあり 陵のトンネル 漆喰をぬる 成祖父皇帝之陵は紅斑大理石の碑 燕とぶ無數

[やぶちゃん注:「秣陵」不詳。皇帝の墳墓か?

「成祖父皇帝」「成祖」は明の第三代皇帝永楽帝(姓は、諱は棣(てい)、廟号は太宗であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された)であるが、「父皇帝」というのが気になる。文字通りなら、永楽帝の父で明の始祖初代皇帝朱元璋(しゅ げんしょう)となるのだが、彼の陵墓は南京玄武区紫金山南麓の明孝陵であるからおかしい。ここはやはり永楽帝のことか。彼の墓なら、北京市昌平区天寿山南麓にある(長陵。徐皇后の合葬で明十三陵の一つ。ここ(グーグル・マップ・データ))。【2018年1月12日:追記】私の勝手な推測注を読んだ北京在住の教え子からの確かな情報を掲げる。

   《引用開始》

「秣陵」……先生ご指摘の通り、どう考えても皇帝陵という意味でしょう。清代の納蘭性徳が十三陵を歌った詩に「秣陵懐古」というのがありますから。

「成祖父皇帝之陵は紅斑大理石の碑」……「成祖父皇帝」という言い方は、「父たる成祖永楽帝の墓」という意味ではないかしら。十三陵の筆頭であり、最古である永楽帝の墓――他の皇帝から見れば父祖に当たり、とりわけ西隣に眠る仁宗から見れば父に当たります。それをこう呼んだものではないでしょうか。[やぶちゃん注:合わせて永楽帝墓の碑石の写真を送って呉れたが、ネット上のもので著作権侵害となるので、カットした。]

   《引用終了》

取り敢えず、ここでは私のいい加減な推測は結果としては当たっていた。ほっとした。]

 

芥川龍之介 手帳7 (18) 陳宝陦邸で見た驚くべき書画群

 

○徽宗臨古張僧※ 毛延壽 浩 顧愷 王維 曹弗 二王 此卷始于崇寧四年八月至大觀元年十一月共得一十七景宣和殿御筆(緣に龍の模樣あり 肉筆)

[やぶちゃん注:「※1」={(へん)「淫」-「氵」}+{(つくり)「缶」}。但し、これは「繇」の字の誤記か、岩波旧全集編者の誤判読。これは張僧繇で、先に出た初唐の画家閻立本がその画風を学んだとする、梁の張僧繇(ちょうそうよう)なる画家のことである。南朝梁の画家で呉県(江蘇省蘇州)の人。顧愷之(こがいし)・陸探微と並ぶ大家で諸大寺の壁画に腕を揮った。画法は西域から伝来した超絶技巧の立体画法を用いたという。

「徽宗」(きそう 一〇八二年~一一三五年)北宋の第八代皇帝。書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人とされるが、政治的には無能で、人民は悪政に苦しんだ。「臨古」は画題らしい(次条の私の注及びそのリンク先を参照)。

「毛延壽」前漢時代の画家。人物画を良くし、第十代皇帝元帝は女色を好んだが、後宮の女官を引見することが出来ないことから、画工らに彼女たちの像を描かせ、それによって召すべき女を選んだという。そこで女官たちは画工に賄賂を送って、ことさらに美しく描いて貰った。毛延寿もその時の画家の一人であったが、かの美人として知られた王昭君はをそれを毛に贈らなかったため、美しく描かれず、その結果として、彼女は匈奴の王呼韓邪単于(こかんやぜんう)に貢物の女として送られてしまった。元帝は送るに際して王昭君の備忘を見て驚愕し、不審を抱いて調べさせたところ、画工らの不正が暴露され、毛も捕えられて重刑に処せられた、といったことが、金井紫雲「東洋畫題綜覽」(昭和一六(一九四一)年~昭和一八年刊)に記されてある。

浩」(けいこう 生没年不詳)は唐末から五代後梁の山水画家。中原の混乱を避け、太行山中の行谷(河南省林州)に隠れ住んだといわれる。華北山水画隆盛の基礎を作り上げた人物とされている。

「顧愷」顧愷之(こ がいし 三四四年?~四〇五年?)は東晋の画家。無錫(現在の江蘇省)の出身。桓温及び殷仲堪の参軍となり、安帝の時代に散騎常侍となる。「画聖」とよばれ、謝安からは「史上最高の画家」と評された。

「王維」言わずと知れた盛唐の高級官僚で「詩仏」と呼ばれた詩人であるが、画家・書家・音楽家としても勝れていた。

「曹弗」(生没年未詳:曹不興とも。三国時代の呉の伝説的な名画家。Chincho氏のブログ「雲子春秋」の曹不興の龍を参照されたい。

「二王」東晋の書家として有名な王羲之(おうぎし)とその子の王献之の二人を指す語。

「崇寧四年」一一〇五年。北宋の徽宗の治世。

「大觀元年」一一〇七年。崇寧の後。

「宣和殿」北宋代に皇宮にあった収蔵建物(三棟)。

 なお、次の条の私の注も必ず参照されたい

 

○郎世寧百駿圖 雍正六年歳次戊申仲春臣郎世寧恭畫

[やぶちゃん注:「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京によって、この前二項目に記された書画を芥川は北京西単霊境胡同にあった陳宝陦の家で見ていることが分かった。秦剛氏によれば、陳宝陦は淸朝の遺臣で『溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をすっかり瞠目させた』とあり、そこで芥川が観た作品として『宋徽宗「臨古図」』『郎世寧「百駿図」』を挙げている。秦剛氏はそこで『陳宝陦宅で芥川が鑑賞した書画はやがて散逸し、その多くが所在不明となっている。北京城内の胡同にある一軒の居宅で、これほど多くの名品を一斉に眼にすることは、もはや不可能である。その意味では、芥川龍之介は相当恵まれた旅行者だったとも言える』と添えておられる。更に、どうも芥川の陳宝陦宅訪問は二度あったように思われる。後注参照。

「郎世寧」(ろうせいねい)はイタリア生まれのイエズス会の宣教師で画家でもあったジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione 一六八八年~一七六六年)の中国名ウィキの「ジュゼッペ・カスティリオーネによれば、清の宮廷画家として、康熙・雍正・乾隆の三帝に仕えて『西洋画の技法を中国へ伝え、美術や建築に影響を与えた。絵画作品では乾隆帝大閲図、ジュンガル討伐戦の情景画、香妃肖像画などが有名である。バロック様式を取り入れた離宮である円明園西洋楼を設計した』。『カスティリオーネはミラノに生まれた。ボローニャ派の伝統に従ったプロの画家としての訓練を積み、アンドレア・ポッツォに直接学んだわけではないが、その影響を受けていた』。一七〇七年に『ジェノヴァのイエズス会の会士となったが、司祭ではなく』、『修士であり、中国で画家として働く任務を与えられた』。一七〇九年にはポルトガルの『コインブラ』(Coimbra『に移り、そこでも画家として活躍したらしいが、作品は残っていない』。一七一五年に『中国へわたった』。『康熙帝の崩御後、雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができた。乾隆帝にはまだ皇子だったころから仕えており、とくに重用された』。『雍正帝と乾隆帝は円明園の大々的な拡張を行い、カスティリオーネはその設計に参加し』ている。『北京で没し、侍郎の官位を贈られ』ている。『康熙年間の作品は残っておらず、雍正元年に描かれた静物画「聚瑞図」が現存する作品でもっとも古い。雍正年間には有名な』ここに出る「百駿圖」()『をはじめとして多くの馬の絵も描かれた。乾隆年間はもっとも多産であり、乾隆元年に乾隆帝・皇后・』十一『人の貴妃を描いた「心写治平」(クリーブランド美術館蔵)、乾隆帝の外征や外国の帰順などの歴史的場面を描いた作品などがある』。『カスティリオーネは西洋画と中国の伝統的な絵画を折衷させた独特の様式を発達させた。当時の中国人の趣味に合わせて、肖像画は常に正面から描き、陰影はつけなかった。また絹や宣紙に膠状の顔料で絵を描く必要があった』。『カスティリオーネは西洋から清にわたった画家としてもっとも優れていたが、乾隆帝の宮廷にはカスティリオーネ以外にもジャン=ドニ・アティレら』四『人の西洋人が働いており、また』、『西洋人に学んだ中国人画家もいた』から、『カスティリオーネの名前を冠していても、実際にはこれらの画家との共同製作も少なくないことに注意しなければならない』とある。

「雍正六年歳次戊申」一七二八年。]

芥川龍之介 手帳7 (17) 辜鴻銘

 

○辜鴻銘 王風起華夏 喜氣滿乾坤

[やぶちゃん注:「辜鴻銘」(一八五七年~一九二八年)清末から民国初期の学者。中国の伝統文化と合わせて西洋の言語及び文化に精通し、同時に東洋文化とその精神を西洋人知識人に称揚した。イギリス海峡植民地(現マレーシア)のペナンに生まれた(父は福建省出身のゴム農園管理人、母はポルトガル人)。一八六七年にゴム農園のオーナーと共に渡英、一八七〇年にはドイツに留学、一八七七年に英国に戻って、エジンバラ大学で西洋文学を専攻した。一八七七年の卒業後、再びドイツのライプチヒ大学で土木工学、次いでフランスのパリ大学で法学を学ぶ。一八八〇年にペナンに帰郷するが、ここで学識の外交官馬建忠に感化を受け、中国文化に目覚めた。一八八五年には清に赴き、秘書や上海黄浦江浚渫局局長を経て、一九〇八年の宣統帝即位後、外交部侍郎に任命された。一九一〇年には上海南洋公学(現・上海交通大学)の監督となったが、一九一一年の辛亥革命により、公職を去った。その後、一九一五年に北京大学教授に任命されてイギリス文学を講義した(一九二三年の蔡元培学長の免職に抗議して辞任。大正一三(一九二四)年と、翌年の二度、来日して講演活動を行い、帰国した翌年に北京で死去した。英語以外にもドイツ語・フランス語・イタリア語・ギリシア語・ラテン語・日本語・マレー語を話すことが出来、芥川の他にも、モームやタゴールといった高名な文人達が、彼を訪問している。「生在南洋、学在西洋、婚在東洋、仕在北洋」や「気平一生楽」、「男の心に通ずる道は食道、女の心に通ずる道は陰道」等、名言迷言の多い人物でもある(以上は主にウィキの「辜鴻銘」を参照した)。北京日記抄 二 辜鴻銘先生を参照。

「王風起華夏 喜氣滿乾坤」「王風 華夏(くわか)に起こり 喜氣 乾坤に滿つ」と訓じておく。「王風」とは君子たる正しき人物が支配する気配の謂いであろう。「華夏」とは漢民族の間にある自民族中心主義である中華思想に於いて中国のことを美化して表現するための歴史民俗的用語。「乾坤」は天地。]

 

芥川龍之介 手帳7 (16) 京劇女優の名のメモ

 

○劉少々(□報主筆)(法源寺)「思君五十未成家 無限風流罪在花」劉喜奎「五十成家無結果 無限風流罪在我」 張勳 袁克文 金少梅

[やぶちゃん注:「劉少々(□報主筆)」「□」は判読不能字。まず「々」は中国にはない記号であるから、「劉少少」が正しいそこでこれで検索を掛けてみたところ、「梅蘭芳」を扱った中文作品(穆儒丐著「梅蘭芳:穆如丐孤本小説」)の中に『亞細亞日報』の主筆として劉少少の名を見出せた「亞細亞」は省略してメモしても、判らなくなる字ではないから「亞報」と芥川龍之介は略記したと考えればよかろう。今まで放置されてきた本手帳の不明字が明らかとなったと言ってよいであろう。

「法源寺」既出既注。これは或いは亜細亜日報社の近くに同寺があったことを指すか。

「思君五十未成家 無限風流罪在花」「君を思ふて五十にして 未だ家を成さず 無限の風流 罪は花に在り」とでも訓ずるか。何を引き写したものか不明。京劇の台詞か?

「劉喜奎」(一八九四年~一九六四年)女優が京劇の舞台へ上がれるようになった初期の頃、京劇の大家と共演出来た女優の名。『「華風(ホワフォン)」八木章のブログ』のドキュメンタリ・京劇第六話「鳳還巣・坤伶」によれば、『民国初期の頃に民国大統領袁世凱は、京劇舞台での男女共演を禁じる法令を廃止し、多くの著名な劇団がこの動きに呼応したため、梨園界での大きな流れを作り出した。また、女性解放思想の普及に伴い、女性が京劇舞台へ上っただけでなく、これまで男性に独占されていた京劇鑑賞も女性に解放されるようになった』。『しかしこの時代の梨園界はまだまだ非常に保守的だったため、女性俳優が舞台へ上がることができたのは古い伝統ある芝居小屋ではなく、ランクの低い郊外にある劇場に限られていた』。そんな中で、例外だったのが劉喜奎であった。『彼女が演じた「独占花魁」は梨園界で一世風靡したのである。劉喜奎は歴代の中国政治舞台のトップたちにも愛され、民国総理段棋瑞の姪っ子に襲われるという事件も起きている』。『梨園界で一世風靡した劉喜奎は、その後河北省地方にいたある普通の男性と結婚して京劇の舞台から姿を消していった』が(女優として活躍した時期は短い)、それから三十『数年後、彼女が再び姿を現した時には役者ではなく、中国戯曲学校の十大教授の一人としてであった』とある。芥川龍之介が中国特派員として北京に着いたのは、大正一〇(一九二一)年六月(十一日で七月十日までの一ヶ月間も滞在し、彼は友人に書簡で「此處なら二三年住んでも好い」「北京にあること三日、すでに北京に惚れ込み候」と記すほど、気に入っていた)であるから、当時の彼女は未だ十六歳であった張雯氏の論文「近代中国の女優─日本近代の女優と比較して」(PDF論文集の中に含まれている)によれば、彼女『の祖父は道光年間の進士で、江西省の官僚であったらしい。父親はもともと天津の兵器工場で働いていたが、劉喜奎が七歳の時に他界し、それからは母親と頼り合っての暮らしが始まった』。彼女の『家柄はもともと平民のものではないが』、『伝統的経済秩序とともに破綻して、年々困窮を増しつつあった家庭に生まれた喜奎は』、『生計のために八歳の時に梨園へ入れられた』(下線やぶちゃん)のであるが、『それは母子にとってやむを得ない選択であった。中国の伝統演劇では、基礎的な修業が非常に大事なこととされ、五、六歳から修業を始めるのが普通であった。小さい子供には、もちろん自分の意思はなく』、『したがって、女優としての「誇り」もなかった』とある。

「五十成家無結果 無限風流罪在我」「五十にして家を成せども 結ぶこと無くして果つ 無限の風流 罪は我れに在り」と訓じておく。明らかに前の句の対であるが、出所もそうだが、何故、これらがかく、女優「劉喜奎」の名を挟んで分断して記載されているのかが、まるで判らぬ

「張勳」中国史では同名異人が複数いるが、これは恐らく清末民初の軍人で政治家で、革命後も清朝に忠節を尽した張勲(一八五四年~一九二三年)のことであろう。袁世凱死後の一九一七年七月一日、混迷する新政府の動きを見て、すでに退位していた先帝の溥儀を担ぎ、再び即位させて帝政の復古を宣言、いわゆる「張勲復辟(ふくへき)事件」に発展した。ウィキの「張勲初)によれば、しかし、これは『国内各種勢力や世論から激しい反感を買った。しかも、かつて督軍団』(安徽派督軍による「十三省連合会」のこと)『の首領と目されていた張勲であったにもかかわらず、督軍団の督軍たちからも支持は得られ』ず、わずか二日後の七月三日、『段祺瑞』(だんきずい)『は素早く張勲打倒を宣言、日本の支援も受けて天津で「討逆軍」を組織した。段の軍勢は』五『万人余りの規模であり、張には対抗する術』もなく『壊滅し、ドイツの庇護により張はオランダ公使館に逃げ込んでいる。こうして張勲復辟は、僅か』十二『日であっけなく失敗に終わった』。翌年十月、『張勲は特赦を受けたものの、もはや何の実権も無かった』一九二一年には『熱河林墾督弁に任命されたが、実際には赴任して』おらず、その二年後、天津で病没した。

「袁克文」(一八八九年~一九三一年)は北洋軍閥の総帥袁世凱の次男。詩人・書家で、文物の収集家として知られた。

「金少梅」京劇女優。詳細不祥。]

芥川龍之介 手帳7 (15) 京劇観賞

 

○斷密洞(隋唐演義) 瘋僧掃秦 潞安州 淸宋靈(説岳金傳) 落馬湖 連環套(施公案) 摘星樓

[やぶちゃん注:「斷密洞」京劇の題名にこの名があるから、「隋唐演義」(清初の褚人獲(ちょじんかく)によって書かれた通俗歴史小説。全二十巻百回。「隋唐志伝」「隋煬帝艶史」「隋史遺文」などを下敷きとして、唐宋の伝奇小説や筆記及び民間の伝承文芸から素材を集めて作られた。隋の文帝が陳を滅亡させたところから始まり、「安史の乱」の後、唐の玄宗が長安に戻るところで終わっている。雑多で思想的統一性のなさが指摘されるが、隋末反乱の場面で描かれる秦瓊・単雄信・程咬金・羅成といった瓦崗寨の人物が個性的に描かれている。ここはウィキの「隋唐演義」に拠る)に基づくそれか。以下も京劇の題名であるから、これは芥川龍之介がそれらを観劇したことを意味するものと思われる。

「瘋僧掃秦」「ほうそうそうしん」(現代仮名遣)と読んでおく。これも京劇の演目。ここで映像が見られる。中文サイトに解説が数多あるが、中国語は読めぬので、悪しからず。

「潞安州」これも京劇。千田大介氏のサイト「電脳瓦崗寨(でんのうがこうさい)」のこちらのページによれば、金国王『完顔阿骨打は北宋侵略を決意、練兵場での武芸比べの結果、王子の兀術が元帥に選ばれ、兵を率いて潞安州に攻め掛かる。潞安州総鎮の陸登は敵わず城内に撤退するとともに、両狼関総鎮韓世忠に救援を求める。韓世忠は趙徳勝を使者に派遣、陸登と敵を挟み撃ちにしようとする。しかし、趙徳勝は金に捕らえられ、密書を得た金軍の軍師哈密蚩は趙徳勝に扮して城に潜入する。しかし、陸登はそれを見破り、哈密蚩の鼻をそいで送り返す。兀術は激怒して城を攻撃、陥落する。陸登は自刎して果てたが、遺体は立ったままであった。兀術がその面前で遺児陸文龍の養育を誓うと、ようやく声に応じて倒れる』というストーリーで、物語は小説「説岳全伝」に見える、とある。

「淸宋靈」不詳。並びからは京劇の演目と思われるが、似たようなものを全く見出せない。岩波旧全集編者の三字ともに誤判読かも知れぬ。

「説岳金傳」前の前の注から、これは岩波旧全集編者が「説岳全傳」を誤判読したものと思われる。

「落馬湖」京劇の演目にあり。

「連環套」京劇の演目にあり。先の千田氏の「電脳瓦崗寨」のこちらのページによれば、『清代、連環套』砦(とりで)の城主、竇爾墩(とうじとん)は『黄三太と宿敵であった。大尉の梁九公が長城の外まで清帝から賜った御馬を携えて狩りに行くと聞き、竇は深夜』、『馬を盗み、黄三太の名の書かれた書き付けを遺し、黄を陥れようと図った。そのとき』、『三太は既に死んでおり、官府は黄の子、天覇を配した。黄天覇は用心棒に姿を変えて、連環套を訪ね竇に会ってみると、果たしてその仕業であった。黄は本名を明かして竇を挑発し、馬を賭けて翌日試合を行うことを約した。竇は二本の鈎』(かぎ)『の使い手だったが、黄の友人の朱光祖は夜山砦に忍び込んで双鈎を盗み、また黄の刀を机の上に刺して、竇を殺す意志の無いことを示した。翌日、竇は恩を感じて、御馬を差し出し、黄に従って自首した』とあり、小説「施公案」(次注参照)からと記しておられる。

「施公案」清朝後期に犯罪とその裁判をもとにした公案小説集(一種の探偵・推理小説の類)。ネットを検索すると、有名な清の裁判官施公をモデルとしたものらしい。

「摘星樓」京劇の演目にあり。]

 

芥川龍之介 手帳7 (14) 北京逍遙 (京師第二監獄(推定))

○民國八年建 八萬元(經費) 759300. Pick-pocket (40) 罰は三日の斷食 數珠をつまぐるもの 小説をよむもの 眠るもの

[やぶちゃん注:「民國八年」一九一九年。日本は大正八年。

759300」数字の意味は不詳。

Pick-pocketスリ。これは軽犯罪者矯正施設の描写か。北京在住の教え子から、徳勝門外にあった監獄訪問の際のメモではないかという情報提供があった。芥川龍之介の「雜信一束」に、

   *

       十五 監獄

 京師(けいし)第二監獄を參觀。無期徒刑の囚人が一人、玩具(おもちや)の人力車を拵へてゐた。

   *

とあるそれである。徳勝門は紫禁城の西北直線で約三キロメートルの位置であるから、行動範囲内ではある。残念ながら、北京での芥川龍之介の滞在先がよく判らない。]

芥川龍之介 手帳7 (13) 紫禁城(Ⅳ) 浴德堂

 

○浴德堂 煥章殿の奧 黃瓦 赤柱 白大理石 臺の上に銅爐 鉢の柘榴 浴德堂(藍へ金) 雕梁 堂は石階の上 浴室は白煉瓦 天井穹窿 天井頂は硝子 後に井戸 大理椽 花園 葡萄棚 兵士(カーキ)

[やぶちゃん注:「浴德堂 煥章殿」紫禁城の西南ブロックの、武英殿(明朝を滅ぼした李自成が即位した場所。また、清朝の順治帝の摂政ドルゴンが首都を盛京から北京へ遷都する詔書を発布したところで、明代には紫禁城を居城とした明朝歴代皇帝の斎戒や大臣接見の場となり、清代には御用絵師のアトリエとなった)を中心とした地区に立つ二つの建物。「浴徳堂」は浴室(湯浴び場かサウナかも不詳)であるが、現在でも謎めいた建物であるようだ。『人民中国』の歴史学者阿南・ヴァージニア・史代氏の「木と石と水が語る北京」の知られざる紫禁城の浴堂(日本語)を読まれたい。

「雕梁」「梁」に彫琢が施されていることを言っていよう。

「大理椽」「椽」は通常は垂木を指すが、芥川龍之介はこの字を「緣」(縁側)の意で専ら用いるから、ここは大理石で出来た張り出しのテラスのことではなかろうか。]

芥川龍之介 手帳7 (12) 紫禁城(Ⅲ) 諸画(続き)

 

○集義殿 南田の牡丹 ※維城 泉林雨景のみ 臣何とか繪中よし 王蒙――長松飛瀑圖 僞? 李公麟 十六應眞 俗

[やぶちゃん字注:「※」=「金」+「義」。

「集義殿」やはり紫禁城東南部の文華殿を中心としたブロックにある。

「南田」で既出既注。

「※維城」不詳。読みも不詳。

「繪中よし」意味不明。『「繪」、「中」〻(なかなか)良し』の意か。

「王蒙」(一三〇八年~一三八五年)は元末の画家。黄公望・呉鎮・倪瓚(げいさん)らと並ぶ「元末四大家」の一人。ウィキの「画家によれば、『呉興(現浙江省)の出身。元初期を代表する文人である趙孟頫の外孫であり、王蒙の父の王国器も黄公望や倪瓚とも親交があるほどの文人であるという名家の生まれである。王蒙は、祖父趙孟頫の影響を強く受けたが、また黄公望にも師事した。さらには、唐時代の王維、宋時代の巨然らの影響も受けて緻密ながら』、『壮大な山水画を描いたという。このため、王蒙は南宋画の大成者の一人とまで称された。元末期には、官についたといわれる。後に国が乱れて各地で騒乱が発生すると、騒乱から避難するために官を辞して杭州北部の黄鶴山に隠棲し』、一三四一年には『黄鶴山樵と号している。絵画だけでなく』、『詩作にも優れた才能を発揮した。明初期に洪武帝の招聘を受けて州知事にまで昇進したが』、「胡藍(こらん)の獄」(明初期の一三八〇年、宰相胡惟庸(いよう)の造反計画を契機として発生した粛清事件)に『連座して獄死した』とある。

「長松飛瀑圖」現在、台湾の國立故宮博物院蔵。中文サイトで画像が見られる。但し、芥川龍之介は偽作かと付記している。

「李公麟」(りこうりん 一〇四九年~一一〇六年)は北宋の画家。ウィキの「李公麟」によれば、『現在の安徽省六安市出身。字は伯時。号は龍民居士。科挙を受験し』一〇七〇年に『進士となる。官僚を務めるかたわら、考古学者として銅器など骨董品の年代確定でも活躍した。退官後の晩年は画の制作に専念した』。『東京国立博物館に、李公麟の作と伝えられる「瀟湘臥遊図巻」が所蔵されている(実際は同郷の別人が描いたものとされる)』とある。

「十六應眞」十六羅漢の図像。但し、道教の影響を強く受けたもので、このタイトルで多くの作がある。中文サイト李公麟のその全図が見られるが、芥川龍之介が「俗」と一蹴しているのが判る気がする。]

芥川龍之介 手帳7 (11) 紫禁城(Ⅱ) 諸画

 

○大乙觀泉 王家 萬壑松風 文伯仁(明) 墨竹 張※(明) 煙江疊嶂圖 王原祈 職靑圖 立本(僧) 桐陰玩鶴圖(石田)ノ木の色つよすぎる 芙蓉秋鴨圖 王維烈(明) 沈周藍瑛僞筆 仇英遊子昂 南田の山水 俗

 

[やぶちゃん字注:「※」=「音」+「也」。芥川龍之介が訪れた当時(一九二一年)は、未だ溥儀が内廷で暮らしており、紫禁城は、外朝の一部であった「文華殿」と「武英殿」だけが「古物陳列所」として開放され、民国政府の所有する文物を展示していた、と「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」にあり、『そこの見学には筆記用具の持ち込みが禁じられていたため、芥川は見学後に記憶に頼って、眼にした古代書画を手帳に書きとめた』とある。されば、以下の誤記らしきものも大いに納得がゆくのである。

「大乙觀泉」不詳。但し、「大乙」は恐らく「だいいつ」でこれは、商朝の初代の王であった天乙(てんいつ 紀元前一六〇〇年頃:名は履。殷墟出土の甲骨文占卜には「大乙」で、名は「唐」・「成」と見える)、恐らくは夏の暴君で妖妃妺嬉(ばっき)に耽溺した桀王を追放し、夏を滅ぼした「湯王(とうおう)」と言った方が通りがよいかも知れない(私はそれで覚えているし、漢文の授業でも「湯王」と板書した)。ウィキの「大乙」によれば、『それまでの勢力を制圧し』、『中原の覇権を得て、亳に王都を築営した。殷の建国者として実在の可能性が高い』。『天乙は夏の最後の桀を追放し』、『夏を滅ぼした』。『桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした』。『天乙は夏の禹、周の文王、武王と並び聖王として後世に崇められている。徳は高く』、『鳥や獣にまで及ぶと言われた』とある聖王のことかとは思う。

「萬壑松風 文伯仁」文伯仁(一五〇二年~一五七五年:明代の画家。先の文徴明の猶子。水は王蒙を倣い、その筆力は清勁で「巌巒鬱茂」を以って称せられた)が一五五一年に描いた「四萬山水圖」(四幅)の一幅が「萬壑松風」(ばんがくしょうふう)。現在、この 四幅は東京国立博物館蔵で同博物館のサイトのこちらで画像が見られる。

「張※(明)」人物どころか読みも不詳。

「江疊嶂圖 王原祈」「王原祈」は清初期の著名な画家で、彼も詩・書・画に巧みで「三絶」と称された。「江疊嶂圖」(「こうじょうしょうず」(現代仮名遣)と読んでおく。「嶂」は峰の意)は霞んだ大河と重畳してそそり立つ岩峰を配した山水画の題として頻繁に汎用される作品名である。王原祈のそれは不詳。

「職靑圖 立本(僧)」「立本」は初唐の画家で「歴代帝王図巻」で知られる、第二代太宗(李世民)に仕えた閻立本(えん りっぽん ?~咸亨四(六七三)年)。ウィキの「閻立本」によれば、『貴族ではあるが』、『宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人』。『閻一族は貴族階級であり、匠学の名家として代々宮廷の装飾を担った。宮廷装飾というのは画に限らず、宮中での冠服から車輿の設計、土木事業にまでわたっている。父の閻毗』(えんび)『は隋の煬帝に仕え、兄の閻立徳も立本と同じく太宗に仕え、橋梁の構築で偉功があった』。『立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書』・『博陵県公』・『を経て、『中書令(宰相)にまで昇っ』た。『殊に画に才能が発揮され』、六二六年には、『太宗に命ぜられて「秦府十八学士図」を画き、褚亮が賛を書いた。その他に「王会(職貢)図」・「歩輦図」・「功臣二十四人図」などを画いたと伝えられる。「歴代帝王図巻」(ボストン美術館蔵)は前漢の昭帝から隋の煬帝までの歴代』十三『人の皇帝を画いた図巻として著名だが、北宋時代の模写であろうとされる』(下線やぶちゃん)。『この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である。この伝統的画法に対して当時、西域画派が台頭し始め、尉遅乙僧(ウッチ・オッソウ)などが新風を吹き込んだ。閻立本の伝統的画法は薛稷らが継承した』とある。但し、他の辞典や中文サイトの解説等を参照しても、彼が僧侶だったという記載はないから、この「(僧)」という芥川龍之介のメモは誤りと思われる。他の記載を見ると、彼は梁の張繇(ちょうそうよう)なる画家の画風を学んだとあり、或いは中国語で書かれた解説を見た龍之介が、「立本」という名が僧名っぽいことなどから、彼を画僧だと勘違いしたものかも知れぬ。また彼の絵に「職靑圖」というのは見当たらない。しかし、彼の模本に先に示した「王會圖」(=「職貢圖」:古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意。梁時代の梁職貢図(原本は消失)が有名で、閻立本が模写したものもそれ)があり、これをメモで間違えて、「職貢圖」としてしまったものを、岩波旧全集編者が「貢」を「靑」と誤読した可能性が疑われる。立本のそれは現在、台湾国立故宮博物院が蔵している。中文の「職貢圖―Wikiwand」のここで見られる(一部か)。

「桐陰玩鶴圖(石田)」「石田」(せきでん)は明中期の文人にして画家であった沈周(しんしゅう 一四二七年~一五〇九年:文人画の一派である「呉派」を興し、南宋文人画中興の祖と呼ばれる。詩・書・画ともに優れ、「三絶」と評される。弟子に先に出た唐寅・文徴明などがおり、後の呉派文人画に大きな影響を与えた)の号。芥川龍之介「秋山圖」(大正一〇(一九二一)年一月『改造』初出)にも、

   *

 所がその後(ご)元宰(げんさい)先生に會ふと、先生は翁(をう)に張氏の家には、大癡(たいち)の秋山圖があるばかりか、沈石田(しんせきでん)の雨夜止宿圖(うやししゆくづ)や自寿圖(じじゆづ)のやうな傑作も、殘つてゐると云ふことを告げました。

   *

と出る(引用は岩波旧全集に拠った。読みは一部に留めた)。彼の「桐陰玩鶴圖」は中文サイトのこちらで軸装されたものを見ることが出来る。

「芙蓉秋鴨圖 王維烈」「王維烈」は明代の、西暦で十六世紀から十七世紀の蘇州の画家。「芙蓉秋鴨圖」は「芙蓉水鴨圖」の誤りと思われる。

「沈周藍瑛」「藍瑛」(らんえい 一五八五年~一六六四年)明末清初の浙派(せっぱ)の画家。銭塘(浙江省杭州)の出身。「浙派の殿将」と称され、主に杭州で売画を生業(なりわい)としていた職業画家と考えられているが、早くに董其昌(とうきしょう:明末の文人画家・書家で当時の文人画の大成者)らに重んじられて杭州の文人とも親しく、西湖の詩社の一員であったと推測されるなど、文人画家的性格が強い。主に山水を得意とし、同時代の呉派の慣習にならって唐・宋・元の南北両宗にわたる画家を模したとされるが、形態性や画面構成などは個性的な様式を示し、浙派の影響を指摘出来る。子の藍孟、孟の子の藍深・藍濤が家法を継承したほか、劉度・蘇宜ら多くの追随者を出した。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)が、先の沈石田の作品を模写(贋作)したものと思われる。

「仇英趙子昂」これは二人の画家の名。「仇英」(きゅうえい ?~一五五二年?)明中期に蘇州で活動した画家。字(あざな)は実父(じっぽ)、号は十洲、江蘇省太倉の人。唐宋の画風を学んで、独自の画風を創始した。山水・人物・花鳥孰れにもに長じ、特に美人画は明代第一とされる。先に出た沈周・文徴明・唐寅とともに「明四大家」と称される。四大家のうち、唯一の職業画家であったが、文徴明らとの交流によって文人的教養も身につけていた。初め、周臣に師事してその伝統受容の態度を学び、後に数多の古画をみずから臨摹(りんも:模写法の一つ。「臨」は原物を傍らに置いて、その形勢を写すやり方で「臨写」とも称する。「摹」は原物の上に薄紙を置き、透写(すきうつ)しをする方法を指す。古書画の研究や習学の第一段階として重要視された手法)して伝統把握を確かなものとし、一家を成した。厳しい修練に支えられた的確な技巧を有し、殊に中間色を多用した婉麗(えんれい:しとやかで美しいこと)な色彩処理によって豪奢な絵画世界を築き上げ、明代絵画史の一つの頂点を極めるとともに、文徴明以後の呉派文人画の変容に大きな影響を与えた。「趙子昂」(ちょうすごう)は宋末元初の政治家で書画家でもあった趙孟頫(もうふ 一二五四年~一三二二年)の字。呉興(浙江省)の出身。南宋の孝宗の実父であった趙子偁(ししょう)の五代の孫に当たる。同時代の書画人として知られる趙孟堅とは従兄弟の間柄。初め、宋に仕えて地方官をしていたが、宋の滅亡後は家郷で閑居していたが、一二八六年、元の世祖フビライに召されて大都(現在の北京)に赴き、翌年、奉訓大夫・兵部郎中に任ぜられた(以上は孰れも主に平凡社の「世界大百科事典」に拠った)。

「南田」惲寿平(うんじゅへい 一六三三年~一六九〇年)は清代前期の画家。南田は号。詩・書・画共に優れて「三絶」と称せられた。山水画の名手。芥川龍之介は彼の画風を好み(但し、この時見た山水画には「俗」とあるから期待はずれであったようだ)、先の「秋山図」にも彼を登場させており、江南游記 七 西湖(二)でも西湖の実景を見て(龍之介は期待していたはずの西湖に実景には実は失望した)、彼の画境に近いという逆説的手法を用いて描写している。

   *

 私が西湖を攻擊してゐる内に、畫舫は跨虹橋(ここうけう)をくぐりながら、やはり西湖十景の内の、曲院の風荷(ふうか)あたりへさしかかつた。この邊は煉瓦建も見えなければ、白壁を圍んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き殘つてゐる。左に見える趙堤の木蔭に、靑靑と苔蒸した玉帶橋が、ぼんやりと水に映つてゐるのも、南田(なんでん)の畫境に近いかも知れない。私は此處へ船が來た時、村田君の誤解を招かないやうに、私の西湖論へ增補を施した。

 「但し西湖はつまらんと云つても、全部つまらん次第ぢやないがね。」

   *]

2018/01/07

芥川龍之介 手帳7 (10) 紫禁城(Ⅰ)

 

○古木寒泉圖 文衡山 山水 李世偉 山水 雛一柱(淸) 震澤烟樹 唐寅(明) 本仁殿

[やぶちゃん注:芥川龍之介は実は北京日記抄 五 名勝では最後に、

   *

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天(やてん)よりも庬大なる夢魔のみ。

   *

とだけしか記していない。ある意味、意外なエンディングである。

「古木寒泉圖 文衡山」明代中期に活躍した文人画家文徴明(一四七〇年~一五五九年:詩・書・画に巧みで「三絶」と称され、取り分け、画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに「明代四大家」に数えられている。徴明は字で後に徴仲と改めている。衡山・衡山居士などと号し、「文衡山」と呼ばれることも多い)の描いた「古木寒泉圖」。中文個人ブログ「每日頭條で圧倒的な画像(部分拡大も有り)で見られる

「李世偉」不詳。

「雛一柱」人名(雅号)と思われるが、不詳。

「震澤烟樹 唐寅」「唐寅」(とういん 一四七〇年~一五二三年:明代に活躍した文人。書画に巧みで祝允明・文徴明・徐禎卿と並んで「呉中の四才」と呼ばれた。後年、仏教に心を寄せたことから「六如」と号した)の描いた「震澤烟樹圖」。現在、台北故宮博物館蔵。(中文「百度百科」の画像)。

「本仁殿」紫禁城の東南部の中央にある文華殿(明代には皇太子が暮らし、「内閣」が置かれ、清代には乾隆帝によって編纂された「四庫全書」が収められ、儒教の講義が行われた)の東側に建つ。現在は陶磁館となっている。]

芥川龍之介 手帳7 (9) 謝文節公祠

 

○謝文節公祠 (黑へ金)黑煉瓦の門 外右四區警察署第一半日學校 綠色の扉にこの札かかる その右の壁に刻字石をはめし壁 女一人婆一人縫物をしてゐる所をすぐれば庭なり 庭中央 天水壺 ○薇香堂 堂 疎檜 蘭 堂は朱柱 黑煉瓦積み 堂中疊山の像 紙錫がぶらさがる 硝子張の燈籠四つ下る 柱聯二三 埃滿堂

[やぶちゃん注:「謝文節公祠」「謝文節」(一二二六年~一二八九年)は本名謝枋得(しゃぼうとく)、南宋の文人政治家。元との戦いに敗れて捕らえられ、南宋滅亡後は山中に隠棲していたが、捕らえられ、北京に護送された。その才能を惜しんだフビライ・ハンから慫慂を受けるも節を屈せず、遂に絶食して餓死し果てた。「文章軌範」全七巻の撰者として知られる。「文章軌範」は科挙試の受験生のために韓愈・柳宗元・欧陽修・蘇軾といった唐宋の作家を中心に六十九編の名文を集成したものである。彼を祀ったここは、北京在住の教え子の探査により、現在の宣武区の法源寺の裏手(北)の、中央(グーグル・マップ・データ)にあるものと推定される。

「外右四區」地図(私がアップした民国二五(一九三六)年の北京全図の画像)の北京城の西南、黄色に塗られた向かって左下の地区に「外四區」と書かれてある。「右」なのは君子南面によるもの。

「薇」はシダ綱ゼンマイ科ゼンマイOsmunda japonica又は同属の仲間を指す。「史記」列伝の冒頭を飾る「伯夷叔斉 第一」によれば、周の武王は父を亡くした直後、暴虐無比な圧政を続ける殷の紂王を伐つために挙兵したが、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟がそれを止めて、父の葬儀もせず喪の明けぬうちに戦をする者は不孝者であり、暴虐の君主とは言え、臣下の身でそれを弑する者は不忠者であると諫めた。武王は攻略を敢行、美事、殷を滅ぼすが、兄弟の言の全きことに心打たれ、招聘するも、伯夷と叔齊は、不義不忠の王の粟(=禄)を食(は)むを潔しとせず、として拒否し、首陽山に隠れ住んで「薇」――ゼンマイやワラビの類――を採って食い、「采薇歌」(以下示す)を作って、遂には餓死して死んだ。この堂の名は、謝文節の自死の志を伯夷叔斉に擬えたものである。

 

 采薇歌

登彼西山兮

采其薇矣

以暴易暴兮

不知其非矣

神農虞夏

忽焉沒兮

吾適安歸矣

吁嗟徂兮

命之衰矣

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

 采薇の歌

彼の西山に登りて

其の薇を采る

暴を以て暴に易へ

其の非を知らず

神農(しんのう) 虞(ぐ) 夏(か)

忽焉として沒しぬ

吾れ 適(まさ)に安くにか歸せん

吁嗟(ああ) 徂(ゆ)かん

命の衰へたるかな

 

○やぶちゃんの現代語訳

 

 ぜんまい採り

あの西の方 首陽山に登って

そこのぜんまいを採って暮らす

暴力を暴力でねじ伏せて

それが人の道を踏み外していることを知らぬ者よ

あらたかな天地開闢の炎帝神農氏――聖王堯から位を譲られた尊王虞――尊王虞改め舜から禅譲を受けた夏改め賢王禹――

みんな あっというまに はい さようなら

私は 一体 何処(いづこ)へ行けばいいのか? 一体 何処へ去ればよい? いや それはもうあそこしか ない……

ああ さあ 行こう 私の運命も遂に窮まったのだ……

 

「疊山」謝文節の号。

「紙錫」飾りとして貼る錫(Sn)の薄い箔を紙に貼付したもの。]

 

甲子夜話卷之四 21 大女の手痕

 

Syukon

4-21 大女の手痕

文化丁卯、大女の手痕を人より示す。これ段成式、謝在杭の書にも見ゆ。一奇なり。その女、生國下總國小金村百姓新七の娘にて、品川本宿南二丁目鶴屋の内に在り。名は蔦野、年二十三、長ケ頂上迄五尺八寸五分。

■やぶちゃんの呟き

「文化丁卯」文化四年。一八〇七年。

「段成式」(八〇三年?~八六三年?)は唐の詩人で博学を以って知られた文人政治家。憲宗・穆宗期の宰相であった段文昌の子。父の功により、校書郎に任じられ、尚書郎・吉州(今の江西省吉安)刺史・太常少卿を歴任した。ここで静山が言っているのは恐らくは彼の著作中、最も知られる随筆集「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(二十巻・続集十巻)のことであろう。私は全訳本を所持するが、類似記事を探すのが面倒なので調べていない。悪しからず。

「謝在杭」謝肇淛(しゃちょうせい 一五六七年~一六二四年)は明朝の文人政治家。在杭は字(あざな)。南京刑部主事・兵部郎中・工部屯田司員外郎を経て、広西按察使に任ぜれた。官位は広西右布政使に至った。ここで静山が言っているのは恐らくは彼の著作中、最も知られる随筆集「五雑組」(全十六巻)ではないかと思われる。

「下總國小金村」下総国葛飾郡(現在の千葉県松戸市大谷口付近)の旧小金(こがね)城のあった辺りか。(グーグル・マップ・データ)。

「品川本宿南二丁目」目黒川河口附近。こ(グーグル・マップ・データ)。

「蔦野」「つたの」であろう。

「長ケ」「たけ」。無論、背丈。

「五尺八寸五分」約一メートル七十七センチメートル。

譚海 卷之二 牛をつかふ飼付等の事

 

牛をつかふ飼付等の事

○牛をつかふに左へやらんとする時は、チヤイと云ふ、右へやらんとすれば、ヒヤウセと云(いひ)、止(とめ)んとおもふ時はヲウと云(いふ)。牛は夏の間はあそばせておく也。秋に入(いる)月のころはじめて遣ふに、はじめは手にのらず、それを手に入(いる)るには、棒を以て牛のひたひを兩人してをさへてなつくる也。その時やゝもすれば、人をはね返す、はなはだ力有(あり)、剛力(がうりき)のものならではあやうし、又あるゝ牛は角(つの)をきる也。めうしは角斷(たち)易(やす)し、刀にて角を切るは内は空濶にしてやすくきらるゝ也。とれたる跡はわづかに一寸程心(しん)有(あり)、それがかたまる間は綿にて包みおく也。又のびる事なし。雄牛は角斷がたし、骨よりつゞき生じてあれば也。をうしのあるゝものはせんかたなし。牛は角をもつてあたひを定む、角の前へ生(おひ)たるは最上也、價(あたひ)も貴(たふ)とし、左右へ生たるは其(その)次(つぎ)也、うしろへ生たるは藪くゞりとて下品也、其外さまざまある角も皆下品也。

 

[やぶちゃん注:標題の「牛をつかふ飼付」は「牛をつかふ」法及び「飼付(かひつけ)」法(「等の事」)で後者は「飼い馴らす方法」の謂いであろう。

「遣ふに」調教に入るが。

「はじめは手にのらず、それを手に入(いる)るには」最初は容易に言うことを聴かず、(てこずる。)それを言うことを聴くようにさせるには。

「ひたひ」「額」。

「兩人してをさへてなつくる也」左右からその棒で押さえてなつかせる、言うことをきくようにさせるのである。恐らくはその状態で先に出た「チヤイ」「ヒヤウセ」「ヲウ」の動作を強制調教するのであろう。

「やゝもすれば、人をはね返す、はなはだ力有(あり)、剛力のものならではあやうし」以下、文脈が標題同様に洗練されておらず、ジョイントも悪い。「ややもすれば、人を跳ね返す」ような、「甚だ力」の「有」(ある)、「剛力の者」でないと制御出来ず、非常に危険な牛がいる場合があり、「又」そのように荒れる「牛は」止むを得ず「角(つの)を」截(き)らねばならない場合も出てくる、とったニュアンスであろう。「止むを得ず」と私が入れたのは以下の通り、角が品評のポイントだからである。但し、除角(じょかく)しないと、複数飼っている場合には他の牛に危害が及び、飼っている人間にとっても危険で、現代の牧畜業では除角は当然のこととして大抵の品種で行われている。但し、闘牛用や黒毛和牛の場合はしない。後者は「繋ぎ飼い」ではなく、ある程度の面積の牧場で「放し飼い」されるケースが多く、その場合、角があった方が捕まえ易いという理由が一つあるらしい(最後の部分はQ&Aサイトの回答を参考にした)。

「めうしは角斷(たち)易(やす)し」「雄牛は角斷がたし、骨よりつゞき生じてあれば也」不審。私の知る限りでは、♂♀でこのような区別はないはずである(但し、♂♀の性質上の違いはあろう)。除角は激しく吹き飛び出すほどの出血を伴い、牛自体も激しい痛みが感じる。現代でも、予後が悪いと、牛自体の寿命を縮めるほどリスクの高い仕儀である。

「内は空濶にして」牛の角は洞角(どうかく:horn:ホーン)と称し、前頭骨の角突起(骨で出来た芯)と角鞘(蛋白質の一種であるケラチン(Keratin)とでできた鞘)から成っており、中にはスポンジ状の骨があって、その内部には血管が多く通っている。一番外側の部分は皮膚が硬くなったもので、人間の爪と同じである。因みに牛の角は前頭骨の側面から生える。「空濶」は有意な空洞になっているということであるが、これは正しい。牛の角は生すぐに成長し始め、六ヶ月齢以降は前頭洞が発生し、角内部が空洞化(角突起の含気骨化)を始めるとされている。最後の部分は森田茂・高階明日華・干場信司三氏の論文「子牛の成長に伴う角形状の変化」(PDFでダウン・ロード可能)に拠った)。

「又のびる事なし」牛の角は生涯、伸び続けるが、除角すると、後から再生することはない。

「をうしのあるゝものはせんかたなし」「雄牛の荒るるものは詮方なし」。

「あたひ」「價」。

「角の前へ生(おひ)たるは最上也、價も貴(たふ)とし、左右へ生たるは其(その)次(つぎ)也、うしろへ生たるは藪くゞりとて下品也、其外さまざまある角も皆下品也」やはり先に参考にしたQ&Aサイトの回答に、角の形や大きさが肉質を反映しているという迷信がつい最近まで信じられていたこと、今もまだ信じている人が多いかも知れない、ともあった。ただ、角の形は遺伝的な要素が大きいから、特徴的な角を見ただけで○○系統の牛だと判るともあった。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 その後の俳句

 

     その後の俳句 

 

 ここで少しこの時分までの子親居士の句を調べて見る。

 「寒山落木」の二十一年の条には、前に「七草集」から挙げたものの外に、

 萩ちる檐(のき)に掛けたる靑燈籠(あをどうろ)

 靑々と障子にうつるばせをかな

というような句がある。二十二年にはまた

 水鳥や蘆うら枯れて夕日影

   袋井

 冬枯の中に家居や村一つ

のような句があり、徐(おもむろ)にその歩を進めてはいるけれども、大体においてさのみ見るべきものがない。居士が三津浜(みつがはま)に大原其戎(おおはらきじゅう)という旧派の宗匠を訪ねたのは、明治二十年夏帰省の際、居士自身「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」と『筆まかせ』の中に記している。しかしここに「始めし」とあるのは、恐らく先輩について教を乞うの意であろう。居士の歌は十八年より早く――松山時代三並良氏に寄せた手紙の中にもあり、十六年最初の上京の事を記した「上京紀行」の中にもある――作られたものがあるし、俳句の方も「寒山落木」に十八年から句を存していることは已に述べた通りである。大原其戎は梅室門下で、居士が勝田氏の紹介でその門を敲(たた)いた時、八十近い老人であったという。次の時代に一新紀元を劃(かく)すぺき使命を持って生れた居士が、この老俳人によって何らかの暗示を受けるということは、如何なる意味からいっても先ず望みがたいとしなければならぬ。

[やぶちゃん注:「二十一年」一八八八年。

「袋井」旧山名郡袋井宿、現在の静岡県の西部の中央に位置する袋井市。この年に町制が施行されて町名は「山名郡山名町」であった。これは子規(第一高等中学校本科二年)がこの明治二二(一八八九)年の冬、汽車で東京から松山に帰省する際、袋井の駅から見えた風景を詠んだ一句とされる。

「三津浜(みつがはま)」現在の愛媛県松山市三杉町三津浜地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大原其戎(おおはらきじゅう)」(文化九(一八一二)年~明治二二(一八八九)年)は伊予松山の俳人で「四時園其戎」とも称した。ウィキの「大原其戎によれば、『伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商』(ふとものしょう:絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物などの太い糸の織物を扱う商人。江戸時代の大手の呉服商の看板にはしばしば「呉服 太物商」の表記が見られる)『で俳人』でもあった(号は其沢(きたく))。万延元(一八六〇)年、『京都に出て』、『七世桜井梅室』(我々の知っている天保の三大家(他は成田蒼虬と田川鳳朗)の一人である桜井梅室(明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)の後継者ではあるものの別人)『に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り』、『俳諧結社の明栄社を興し』、明治一三(一八八〇)年には『月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は』八百人にも『達した。上京後、俳句に興味を持った正岡子規が』、この『帰郷の際』、年下の『友人の勝田主計』(しょうだかずえ 明治二(一八六九)年~昭和二三(一九四八)年:後に大蔵官僚を経て政治家となった)『の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。この時、其戎は』既に七十五『歳であった。同年、子規の』「蟲の音を蹈(ふみ)わけ行くや野の小道」の『句が『真砂の志良辺』に掲載され、これが彼の初めて活字になった句とされている。以後、子規は「丈鬼」などの俳号で、明治二十二年に『其戎が没し、子の其然が刊行を継承した後の』明治二十三年八月まで、正岡子規は『同誌に投稿を続け』ており、『『真砂の志良辺』に掲載された子規の句は』四十四句に上ぼる、とある。

「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」「筆まか勢」の明治二十一年のパートの「哲學の發達」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(左ページ四行目から)で視認出来る。「井手眞棹」天保八(一八三七)年~明治四二(一九〇九)年は本名、正雄。真棹は号。旧松山藩士。実業家で歌人。秋山眞之・正岡子規の和歌の師。松山城下三番町で松山藩士西村清臣の長男として生まれた。嘉永三(一八五〇)年に家督を継ぐ。和歌を嗜んだ父に手ほどきを受け、後に上京して桂園派の僧性海に師事し、松山へ帰省して「蓬園吟社」を設立、松山歌壇の第一人者となった。

「三並良」「良」は「はじめ」と読む。既出既注

「上京紀行」私は不詳。]

 二十二年中の『筆まかせ』に「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」という一章がある。それによると居士比較譬喩ということについて、格段に発句の上に感じたといい、来山(らいざん)が女人形を詠んだ「折ることもたかねの花や見たばかり」以下五十余句を挙げ、普通の譬喩は剽窃(ひょうせつ)、効顰(こうひん)の毀(き)を免(まぬか)れぬが、新趣向に出たものはいちいち面白いといっている。例句の中には元禄俳人の句なども相当入っており、悉くが見るに足らぬわけではないけれども、句の価値よりも譬喩に重きを置き過ぎた嫌がある。後年居士自らこの条に註して「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」といったのは固より当然であろう。この点は二十二年から二十三年に移っても、格別の変化はなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来る。事実、子規の掲げる句はろくなものがない。個人的には、

   いもうとの追善に

 手の上にかなしく消ゆる螢かな   去來

   家を出る時

 五月雨に家ふりすてゝなめくしり  凡兆

   因果應報の心を

 おどしたる報いにくちるかゞし哉  不覺

ぐらいが目を惹いたぎりである。

「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」原文は「譬喩ハ多ク理窟ナリ。理窟ハ文學ニアラズ。余ハ文學ニアラザル所ヨリ俳句ニ入リタリ(自註)」とカタカナ表記である。]

 碧梧桐氏がはじめて子規居士の許に送って来た句稿には、明治俳句の曙光と認むべきものは何も見当らない。これに対する居士の添削にも、いまだ新しい世界を開拓すべき素地は出来ていないようである。むしろこの頃までの居士は、一たび薫染(くんせん)した旧趣味から脱却し得ぬような状態であるかに見える。ただ自己の所信の上に立って常に後進の指導を怠らぬ居士の態度は、已にこの時代に現れている。これは居士の一生を通じて終始渝(かわ)らなかったというべきであろう。

手の上にかなしく消ゆる螢かな   去來

   いもうとの追善に

 手の上にかなしく消ゆる螢かな   去來




2018/01/06

老媼茶話拾遺 諏訪越中

 

     諏訪越中

 

 奧州會津に諏訪越中と云(いふ)大力の大人あり。或春の末つかた、川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり見に、遠乘(とほのり)乍(ナガラ)、破籠(わりご)・吸筒(すひつつ)、取(とり)もたせ、供、二人三人(ふたりみたり)、召連(めしつれ)、「春風(はるかぜ)」と云(いふ)遠(とほ)がけの馬に乘(のり)、塔のへつりに至り、岩窟堂(いはやだう)の虛空藏にて酒をのみ、歸路におもむき、闇川橋(くらがはばし)を通りけるに、橋姫の宮の邊(あたり)にて、丈高(たてたかく)、したゝかなる座頭の坊、びわ箱を負(おひ)て、

「がたり、ぴしり。」

と、杖をもつて橋柱をさぐり居たり。

 越中、馬を扣(ひか)へ、

「座頭の坊、何をするぞ。」

といふ。

 座頭、聞(きき)て、

「此橋は、昔、聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し其内にて、御よしつたへうけ給り候。誠にて候哉(や)。」

といふ。

「成程、夫也。」

と云(いふ)。

 座頭、申(まうす)やう、

「吾等、先年、音に聞(きこ)へし信濃なる彼(かの)木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候。木曾の掛橋と氣色(けしき)同じ事ながら、橋の風景には歌詠(うたよむ)人もなき哉覽(やらん)。木曾の橋を西行法師の春花の盛(さかり)に通りたまいて、

 

 生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋

 

 又、源賴光中納言、平の維仲卿の御息女を戀させ玉ひ、

 

 中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ

 

 かへし、

 

 掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり

 

 此外色々の歌も侍るよしうけ給(たまはり)候。」

といふ。

 越中、聞て、

「見かけは辨慶ともいふべき人柄奉れども、心だての殊勝さは喜撰法師にもおとるまじ。」

と譽(ほめ)、夫(それ)より道連(みちづれ)をして、野寺の觀音近く成(なる)と、座頭、傍の石につまづきて、うつふしに倒(たふれ)けるが、起直(おきなほり)、腹を立(たて)、

「道端にあつて往來の障(さはり)と成(なる)。」

と、二、三十人斗(ばかり)にても動(うごかし)がたき大石の角に手を掛(かけ)、

「曳(えい)、やつ。」

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「さてさて。御座頭は大力かな。我も少し力あり。何と慰(なぐさみ)ながら、力競(ちからくらべ)せまじきか。」

といへば、座頭、聞(きく)と、

「御慰になるべくば、御相手可仕(つかまつるべし)。」

といふ。越中、

「然らば。」

とて、野寺の觀音堂の拜殿へ上り、越中、申樣(まうすやう)、

「其方(そのはう)、盲人にて角力(すまひ)はなるまじ。腕(うで)おしか天窓(あたま)はりくらか、此二のうちにせん。」

 座頭、申すは、

「然らば、しつぺい張(はり)くらべを仕(つかまつり)候はんまゝ、其天窓(あたま)を御はり候へ」

と云(いふ)。

 越中、

「しからば、請(うけ)候へ。」

とて、座頭があたまへ、したゝかにしつぺいを、はる。

 座頭、おぼへず、頭をちゞめ、面(つら)をしかめ、暫し、あたまを撫(なで)て、

「扨(さて)、強き御力かな。そなたは聞及(ききおよ)びし諏訪越中な。さらば、某(それがし)も慮外ながら一(ひと)しつぺい仕らん。請(うけ)て御覽候へ。」

とて、越中がつぶりを撫見(なでみ)、一口、笑(わらひ)、一さし指に鼻油(はなあぶら)を引(ひき)てしつぺい張(はら)んと、齒嚙(はがみ)をなし、立上(たちあが)りし面魂(つらだましひ)、さながら、鬼のごとく、扨(さて)冷(すさま)じかりしかば、越中、密(ひそか)に立(たち)て、鐙(あぶみ)をはづし、座頭がしつぺいを鐙の鼻にて受(うく)る。座頭、乘掛聲(のりかけごゑ)をかけ、

「曳(えい)、やつ。」

と、

「はつし。」

と張(はり)、鐙の、雉子(きじ)のもゝのまがりめ、二に張碎(はりくだく)。

 越中、鐙を投棄(なげす)て、馬に乘(のり)、一さんにかけて逃行(にげゆく)。

 座頭、腹を立(たて)、

「比興(ひきよう)也。何國(いづく)へ逃(にぐる)ぞ。」

と、大聲あげ、追(おひ)かけしが、忽ち、雲、起(おこり)、眞闇(まつくら)に成(なり)、大雨、降出(ふりいだ)し、雷電、稻光(いなびかり)して、大風、吹(ふく)がごとく成(なる)音して、座頭は、いづくに行(ゆき)しやらん、跡方もなく、成(なり)たり。

「定(さだめ)て天狗か化物の類ひなるべし。」

と、聽(きく)人、云傳(いひつたへ)たりと云(いへ)り。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後は一行空け、和歌は濁点を打たずに示した。さてもこの話、泉鏡花の随筆「怪力」の中で、類話(講釈物で本篇をもととしたものらしい)と並べて、本篇をそっくり、小説風に原文引用に評言を添える形で面白く紹介している(初出は明治四二(一九〇二)年六月及び七月春陽堂発行の『新小説』)。出所が「老媼茶話」であることは鏡花は記していないけれども(論文じゃない随筆なんだから全然問題ない)、本話の伝承形態が明らかにされているので、是非、一読をお薦めする。岩波の「鏡花全集」の「卷廿八」の「雜記」パートに載る。新字旧仮名であるが、「青空文庫」のこちらでも読める(しかし、どうも、鏡花の新字というのは偽物臭くていけない)。

「諏訪越中」諏訪越中守ということであるが、こちらの「諏訪家 家臣団」に諏訪越中守(生没年未詳)として『諏訪一族。一説に粟沢城主』とある。粟沢城は長野県茅野市玉川にあった戦国時代の山城であるし、そもそもが戦国時代の武将で信濃諏訪氏当主で武田信玄と息子の勝頼に仕えた諏訪頼豊(?~天正一〇(一五八二)年)の官途名が越中守であり、城郭サイトのこちらを見ると、織田軍の攻撃によって粟沢城は落城、その際に城主諏訪頼豊も討死した、とあるから同一人物であろう。しかし、ここでは場所が会津なわけで、この「諏訪越中守」「諏訪諏訪頼豊」ではないことは明白である。或いは、その生き残りの末裔ででもあったか、などと考えたくなるわけだが、そこはそれ、前に示した「怪力」で鏡花がちゃんと不審がって一つの面白い仮説を導いて呉れている。ちょっと引く(岩波の全集を底本としたが、読みは一部に留めた)。

   *

 で、主題と云ふのは、其その怪力の按摩と、大力(だいりき)無双の大將が、しつぺい張(はり)くら、をすると言いふので。講釋の方は越前國一條ケ谷(たに)朝倉左衞門尉義景十八人にんの侍大將の中(うち)に、黑坂備中守と云ふ、これは私の鄰國(りんごく)。隨筆の方は、奥州會津に諏訪越中と云ふ大力の人ありて、これは宙外(ちうぐわい)さんの猪苗代から、山道三里だから面い。

 處で、此の隨筆が出處(しゆつしよ)だとすると、何のために、奥州を越前へ移して、越中を備中にかへたらう、ソレ或ひは越中は褌(ふんどし)に響いて、強力(がうりき)の威嚴を傷つけやうかの深慮に出(で)たのかも計(はか)られぬ。――串戯(じようだん)はよして、些細な事ではあるが、おなじ事ことでも、こゝは大力が可(い)い。強力、と云ふと、九段坂(くだんざか)をエンヤラヤに聞えて響(ひゞき)が惡い。

   *

実に言葉の響きを掬すように大切にした鏡花らしいお洒落な微笑ましい解釈ではないか。なお「宙外さん」とは友人で小説家の後藤宙外(慶応二(一八六七)年~昭和一三(一九三八)年:鏡花(明治六(一八七三)年生)より六つ年上)のこと。彼の生まれは出羽国仙北郡払田村(現在の秋田県大仙市払田)であったが、明治三三(一九〇〇)年に春陽堂に入社してまさに『新小説』編集主任(鏡花の「怪力」が載ったのもこれ)となると、翌年の五月から、田園文学の実践として福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建てて、そこから月に一週間ほど上京して編集事務を勤めるという生活を明治四〇(一九〇七)年十月に鎌倉に移り住むまで続けたことから(ここはウィキの「後藤宙外」に拠った)、鏡花は数年前の彼の田園生活を思い出して、かく書いたのである。

「川の水上、白岩(しらいは)の塔のへつり」現在の福島県南会津郡下郷町白岩地区の(ここ(グーグル・マップ・データ))直ぐ直近の阿賀川沿いにある「塔のへつり」(福島県南会津郡下郷町弥五島下タ林。ここ(グーグル・マップ・データ))という景勝地。塔のへつり(とうのへつり)は、福島県南会津郡下郷町にある景勝地。ウィキの「塔のへつり」によれば、『河食地形の奇形を呈する好例として、国の天然記念物に指定されている』。『「へつり」とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことである。なお、「へつり」は「岪」』『という漢字表記があるが』、他に使用しない漢字であるため』、『かな表記が標準化している』。『福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、大川羽鳥県立自然公園の一角を占め』、『一帯は第三系凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩などが互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による侵食と風化の作用によって形成された柱状の断崖である。一帯は樹木に覆われており、新緑や紅葉の頃は一際』、美しい。全長二百メートルに『わたって、大規模な奇岩が整列している。主なものには屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩などがあり、これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、吊橋を渡している舞台岩周辺以外は』現在は『立ち入り禁止となっている』とある。

「破籠(わりご)」檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって、被(かぶ)せ蓋(ぶた)をする。現在の弁当箱に相当する。

「吸筒(すひつつ)」竹筒を用いた水筒。但し、飲料水よりは酒を入れることの方が多く、ここもそれであろう。竹を一節分、輪切りにしておいて、その一方の端に飲み口の穴を空けたもので、通常、使い捨てにした。「ささえ」「さすえ」などとも呼ばれた。

「岩窟堂(いはやだう)の虛空藏」現在、福島県耶麻郡西会津町奥川大字高陽根大出戸(いでと)に岩屋虚空蔵尊があるここ(グーグル・マップ・データ)。同町の公式サイト内の「岩屋まつり」 参拝客でにぎわうに五百年続く祭祀が村民によって続けられているという記載があるのだが、しかし、先の「塔のへつり」とは、ここは全くの方向違いで、ここは直線でもそこからは北西に五十四キロメートル以上もあり、馬の遠乗りとは言え、遠過ぎて明らかにおかしい。他に同名の場所が「塔のへつり」の手前にでもあったものと推測する。何故なら、次の「闇川橋(くらがはばし)」の私の比定位置が、「塔のへつり」の下流八~九キロメートルの位置だからである。郷土史研究家の御教授を俟つものである。

「闇川橋(くらがはばし)」既出既注であるが、再掲する。私はこの中央付近ではないかと推測した。この中央附近に架かっている会津鉄道の橋梁の名が「闇川橋梁」という名称だからである。因みに、本話当時、この「若郷湖」という湖(ダム湖)は存在しない。

「橋姫の宮」不詳。橋姫伝説は日本全国に広がっており、橋詰めにこれを祀るのはごく一般的ではあった。詳しくは私のブログ・カテゴリ「柳田國男」『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』以下、十回分をお読みあれ。

「したゝかなる」「強かなる・健かなる」で、「なかなか手ごわそうなこと・見るからに一筋繩では相手に出来そうもない偉丈夫な様子」の意。

「がたり、ぴしり」底本は「かたり、ひしり」。杖で橋柱(欄干であろう)を打つオノマトペイアと採って、濁点と半濁点を打った。因みに鏡花も「怪力」で「がたりぴしり」と記している。鏡花はこの杖の音にまず、怪異の端緒が始まるように読んでいるのが、流石!

「扣(ひか)へ」引き留め。

「聖德太子の日本六十餘州へ百八拾のはしを御掛被成(おかけならされ)し」不学にしてこのような伝承は私は聴いたことがない。

「木曾の掛橋を通り申(まうす)に、橋枕、立申(たちまう)さず、谷より谷へかけわたし、鐵の鎖にて繫置申(つなぎおきまうし)候」これもなんだかおかしい。「木曾の掛橋」というのは、川に掛ける橋ではなく、断崖絶壁に支えの柱を下に斜めに打ち込み、その上に道とする木を横に打ち込み、それを連続させて上に板などを当てて通り道とした、所謂、「棧道(さんどう)」なのであって、「橋」ではないからである。ここで、この怪しい座頭の言っているのは、まさに日本三奇橋として知られる、山梨県大月市にある「猿橋」のように、谷が深いために橋脚(ここで言う「橋枕」)が立てられないため、橋脚を一切使わず、両岸から張り出した幾層かの(猿橋は四層)の組んだ木材によって橋を支えたものに、橋の固定と通行人の落下を防ぐための鎖を渡したものを言っているようにしか見えぬからである。

「生すかふ谷のこすへをくも手にてちりぬる花ふむ木曾の掛橋」整序すると、

 

 生(おひ)すがふ谷の梢(こずゑ)を蜘蛛手(くもで)にて散りぬる花蹈む木曾の掛橋

 

であるが、私は知らない。西行のものでは「山家集」所収の、

 

 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曾のかけはし底もみえねば

 さまざまに木曾のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ歸る山人

 駒なづむ木曾のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり

 

辺りが知られる。

 

「源賴光中納言」丹波国大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で知られる源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:平安中期の武将で摂津源氏の祖)が「平の維仲卿の御息女」と恋仲になったというのは、例えば、大久保龍著「少年源頼光と四天王(大江山鬼退治)」(大正一五(一九二六)年大同館書店刊)の「(八)賴光と中納言維仲の娘」に詳しい(最後にこの一首も出る。但し、そこでは初句が「ながなが」(後半は踊り字「〱」)、「はなさで」が「はなたで」となっている)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。平惟仲(これなか 天慶七(九四四)年~寛弘二(一〇〇五)年)は桓武平氏平高棟流で従四位上(贈従三位)美作介平珍材の長男。官位は従二位・中納言であった。この娘は実は養女で実際に源頼光の妻となった。元は藤原忠信の娘で「五節の弁」と同一人物ともされる。

「中中にいひもはなさて信濃なる木曾路のはしのかけたるはなそ」「中中」の後半は底本では踊り字「〱」。整序すると、

 

 なかなかに言ひも話さで信濃なる木曾路の橋の掛けたるはなぞ

 

「信濃なる木曾路の橋の掛けたる」は「危いこと」を意味すると同時に話し「かけたる」を文字通り、掛けているか。或いは繋がり「かけたる」は「缺たる」を含んで、繋がりが途絶えたことの残念さを含むものか。

「掛染し木曾路の橋も年經れは中もや絶ておちそしぬめり」整序すると、

 

 掛け染めし木曾路の橋も年(とし)經(ふ)れば中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり

 

これは分かり易い。かくして「中(なか)もや絶(たえ)て落ちぞしぬめり」は杞憂となり、この縁で「中」(仲)良くなった二人は目出度く、夫婦となったのであった。因みに、鏡花の「怪力」では、返しの女の歌のみが頼光の歌として示されている。しかもそこでは、

 

 戀染(こひそ)めし木曾路の橋も年(とし)經(へ)なば中(なか)もや絶えて落(おち)ぞしぬめり

 

となっていて、何だか、おかしい。鏡花の見た「老媼茶話」の写本がいい加減なものだったのかも知れない。

「野寺の觀音」現在の会津若松市門田町堤沢字上村にある野寺薬師堂の誤りか。「極上の会津プロジェクト協議会」(会津若松市役所観光課の組織)のこちらを見られたい。ロケーションからが問題がないが、薬師は如来だし、ここには観音堂はないと思う。

「うつふし」「打伏」。濁音化は敢えてしなかった。

「曳(えい)」「曳」の音は確かに「エイ」で、「曳(ひ)く」(引きずる・引き寄せる)の意でもあるわけだが、ここはそれを掛け声の感動詞に掛けた使用法で、甚だ面白い。

と、いふて、引越(ひきおこ)し、目より高くさし上(あげ)、谷底へなげ落(おと)す。

 越中、是をみて膽(きも)をけし、

「力競(ちからくらべ)せまじきか」「力比べをしてみてはどうであろう?」。この助動詞「まじ」は近世に頻繁に用いられた単なる推量の用法である。

「腕(うで)おし」腕相撲のことであろう。

「天窓(あたま)はりくら」頭を叩き合って有意に揺るがなかった方が勝ちという力比べか。

「しつぺい張(はり)くらべ」「竹箆(しつぺい)」による「天窓(あたま)」の「張り比べ」。竹箆(しっぺい)は本来は禅で用いる竹製の棒で、座禅する者の気の緩みを戒め、気合いを入れるために肩を打つ例の長い竹の箆(へら)のことだが、ここはまさに今も我々が用いている「しっぺ」、則ち、人差し指と中指を揃えて、それを竹箆に見立てて、手首辺りを打つ指竹箆(ゆびしっぺ)のことであろう。但し、ここでは、座頭の所作を見ると、打つのは人指し指一本で、それで脳天を打つものか。普通、「張る」というのは頭部側面を打つことを指すのだろうが、しかし、座頭が張られて「頭をちゞめ、諏訪が後で座頭のそれを鐙で受けたというのだから、ここは真っ直ぐに頭頂を打ったものと解したい。

「慮外ながら」御無礼なことであるが。

「つぶりを撫見(なでみ)」諏訪の頭を撫でるように見回し。

「一口、笑(わらひ)」ちょっと笑い。

「立上(たちあが)りし」突っ立った。

「面魂(つらだましひ)」その顔つき。

「冷(すさま)じかりしかば」凄まじいものであったので。

「密(ひそか)に立(たち)て」相手から判らぬようにそっと馬に寄り添って立ち。

「鐙(あぶみ)」馬具。鐙革(あぶみがわ)で鞍から左右一対を吊り下げ、騎乗する際に足を乗せるもの。現代は金属やプラスチックであるが、ここは木製であろう。

「鐙の鼻」鐙の前方の丸く突き出た部分。

「乘掛聲(のりかけごゑ)」ある動作をする際の気合の掛け声を言っているものと思う。

「雉子(きじ)のもゝのまがりめ」鐙自体が雉子の形に似ているから、かく言ったものか。

「比興(ひきよう)」卑怯。本来は「比興」で「卑怯」は当て字かとされる。但し、歴史的仮名遣は「ひけふ」であるから、この当て字もおかしい

「何國(いづく)」「何處」。「國」は単に「別な場所」の意であろう。]

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(2) 二 哺乳類の前肢

 

     二 哺乳類の前肢

 

 獸類の中には、犬・猫の如く單に地上を走るものもあれば、鼴鼠の如く地中を掘つて進むものもあり、蝙蝠の如く空中を飛ぶものもあれば、鯨の如くに海中を泳ぐものもある。それ故、その運動の器官も各々形狀が違ひ、犬・猫では四足ともにたゞ棒の如き形である。鼴鼠では前足は地を掘るに適するやうに短くして幅廣く、恰も鋤の如くであり、蝙蝠の前足は飛ぶために翼の如き形をなし、鯨の前足は泳ぐために鰭となつて居るが、斯く外形は働きの異なるに隨つて種々に相違して居るに拘らず、皮を剝き、肉を除いて、骨のみとして比べて見ると、實にその構造の根本的仕組の一致せるに驚かざるを得ぬ。

[やぶちゃん注:「鼴鼠」「もぐら」。]

 

Doubutunosisi

[哺乳類の前肢

イ 人  ロ 犬  ハ 鯨  ニ 蝙蝠  ホ 鼴鼠]

 

 先づ比較の基として人間の上肢を檢するに、肩と背との間には、上膊骨といふ骨が一本あり、背と手首との間には前膊の骨が二本竝んであり、手首の處には腕骨といつて豆のやうな骨が八つばかりもあり、手の甲の中には掌骨が五本竝び、その先に各々指の骨が附いて居る。我々は手を以て物を握ることが出來るのは、親指と他の四本の指とが稍々離れて相對して動くからである。猿も同じく物を握り得るもの故、骨の形狀・配置は人間と殆ど違はぬ。犬になると、たゞ步くばかり故、指も五本ともに全く竝列し、且親指だけは特に短く、足の先端まで竝んで居るのは他の四本だけである。犬・猫などは步行するときに常に前足は地に觸れて居るが、その際地面に觸れるのはたゞ指ばかりで、恰も我々が足の指先で爪立(つまだ)つときの如くである。而して我々の掌に相當する處は骨が五本とも皆長く合して一束となつて、恰も腕の續の如くに見える。次に鼴鼠の前足の骨を調べて見ると、こゝにも骨の數の揃つてあることは、犬や人間と少しも異ならず、またその配置の順序も全く同樣であるが、一々の骨の長さ・太さの割合には大きな差がある。先づ我々の上膊骨に當る骨も、前膊の骨も、皆甚だ短く、殆ど肩の中に埋もれてあるから、鼴鼠の前足は恰も手首から先だけを直に肩の處に附けたやうに見える。斯く根元の部分の短きに反し、掌骨・指骨は共に十分に發達し、その末端には太い爪が生えて居るから、土を掘るには極めて適當である。

[やぶちゃん注:「爪立(つまだ)つ」のルビは原典では『つまつ』とあるが、誤植と断じ、特異的に訂した。講談社学術文庫版も『つまだ』とルビしている。]

 蝙蝠の前足は翼の形をなして居るが、その骨の數や列び方は人間・犬・鼴鼠などと少しも違はず、たゞ各片ともに著しく細長く延びたばかりである。上膊骨・前膊骨ともに非常に長いが、その中前膊の方は二本ある骨の中一本だけが發達し、他は恰も髮の如くに細くなつて、たゞ痕跡を留めるに過ぎぬ。指の骨は實に比較にならぬ程に延びて、細い竹竿の如くになり、その間に薄い膜が張つて居るから、全く蝙蝠傘そのまゝで、非常に廣い面積を有し、空中を飛ぶのに最も有功である。蝙蝠の翼と鼴鼠の前足とでは、外形は非常に違ふが、斯く比較して見ると、蝙蝠のこの骨は鼴鼠のあの骨に相當するといふやうに、一々比べることが出來て、何方にも決して餘る骨も足らぬ骨もない。

 鯨の鰭は外形だけを見ると、少しも人間・猿の上肢にも、犬・猫・鼴鼠の前足にも、また蝙蝠の翼にも似た處はない。獸類の足には何本かの指が必ずあり、その先に爪が生えて居るのが定まりであるが、鯨の鰭には少しも指の境もなければ爪もなく、單に魚類の鰭の通りに見える。然るにその骨骼を檢すると、肩の次にはやはり上膊骨に相當する一本の骨があり、次には前膊に相當する二本の骨があり、それより先には腕骨・掌骨・指骨等に相當する多數の骨が五列をなして竝んで居るから、我々の手と一向違はぬ。たゞ種々の骨が皆太く短く、孰れも同樣の形をして、その間の相違が甚だ少く、且我々の肘・手首に相當する關節も、指の節々の間の關節も殆ど屈伸せず、たゞ鰭全體が彈力性を以て多少屈曲することが出來るばかりである。

 

Azarasinokokaku

[海豹の骨骼]

 

 海豹(あざらし)・膃肭獸(おつとせい)の類も同じく海の中に住んで居るが、これらは時々陸上にも出るもの故、身體の外形も、手足の構造も尚餘程陸獸らしい處があつて、鯨ほどには魚に似ない。例へば前足は短く扁平で、大體に於ては鰭の形をなして居るが、五本の指が判然と解り、役に立たぬながらも皆爪が立派にある。鯨の鰭と人間の手とでは鯨り相違が甚だしい故、或は比較に困難を感ずる人があるかも知れぬが、その間に膃肭獸の前足を挾んで、順を追うて比較して見ると、ここに述べた比較が誤でないことは誰にも明に解るであらう。

[やぶちゃん注:「海豹」: 哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。アザラシ科は十属十九種からなり、頭蓋骨及び四肢骨の特徴から、モンクアザラシ亜科Monachinae(主に南半球に棲息)とアザラシ亜科 Phocidate(主に北半球に棲息)に分けられている(ミナミアザラシ亜科・キタアザラシ亜科とも呼ぶようである)。日本近海で見られる種(迷走個体を除く)はアザラシ亜科のゴマフアザラシ属ワモンアザラシ Phoca hispida・同属ゴマフアザラシ Phoca largha・同属クラカケアザラシ Phoca fasciata・同属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina・アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus の五種である。耳介がない点でアシカ類(次注参照)と区別される

「膃肭獸」はママ。現在は通常「膃肭臍」と書く。鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類で、キタオットセイ属 Callorhinus とミナミオットセイ属 Arctocephalus に分かれる。アシカ科 Otariidae にはアシカ類とオットセイ類が含まれ、耳介があること、四脚で体を支えて陸上を移動できること、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことで遊泳出来ることなどはアシカ科特有の特徴であるが、アシカ類(アシカ亜科 Otariinae)よりはやや小振りで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である(ここはウィキの「オットセイに拠った)。なお、「膃肭臍」という漢字名は、アイヌ語で「オットセイ」を意味する「onnep」又は「onnew」(オンネップ・オンネプなどと音写する)となどに、彼らと交易のあった中国商人らにより「丸々太った」を意味する漢語「膃肭」がその発音に当て漢字され、オットセイのの生殖器(或いは腎臓ともされる)が強壮効果を持った漢方薬として「膃肭」の「臍」(へそ)と名づけられ、その漢方薬が日本に流入したことに拠るものとされている。但し、現在の中国語ではオットセイは「海狗」であるので注意されたい。]

 さて斯くの如く飛ぶための蝙蝠の翼も、泳ぐための鯨の鰭も、外形こそ著しく違ふが、内部の骨駱が同一の仕組になつて居るのは何故であらうかと考へて見るに、若し蝙蝠は初めより飛ぶものとして、鯨は初めより泳ぐものとして、天地開闢の時から各々別々に出來たとしたならば、少しも意味の解らぬことで、たゞ奇妙といふの外はない。飛ぶためには翼が必要であるが、その骨が人間の手の骨と同一の仕組でなければならぬといふ理窟は少しもない。また泳ぐためには鰭が必要であるが、その骨が大の前足の骨と數も竝び方も揃はねばならぬといふ理窟は少しもない。若し器械師に飛ぶ器械を造れ、泳ぐ器械を造れとたゞ命じたならば、器械師は單に各々その目的に適ふやうに造るから、目的の全く違つた器械は出來上つた後に少しも互に相似た處はない筈である。然るに實際蝙蝠の翼や鯨の鰭を見ると、恰も人の手や大の前足を器械師に渡して、之を引き延ばしたり、壓し縮めたり、削つたり、打擴げたりして、飛ぶ器械と泳ぐ器械とに造り直せと命じたかと思はれる程で、外形だけは各々その目的に適ふやうに互に著しく相異なつて居るが、根本の仕組には少しも相違がない。之はどうしてもこれらの動物が皆共同の先祖より降り、各々相異なつた方向に進化し來つたので、斯くの如く形狀が相違するに至つたものであると考へなければ、その理由を解することが出來ぬ。

[やぶちゃん注:ここに収斂(しゅうれん)進化(convergent evolution:複数の異なる系統や群の生物が、同様の生態的地位に就いた際に系統に関わらず、身体的特徴が似通った姿に進化する現象)を持ち出して進化論に反論するあなたは、実はもう基本としての進化論を認めていることになるので、墓穴を掘ることとなる。他に平行進化(parallel evolution:異なった種において、似通った方向の進化が見られる現象)を持ち出すのは、もっと致命的で、平行進化という考え方自体が、異なる系統の生物間で進化に関して同様の傾向が認められる現象を指す場合と、祖先が共通でそこから分れた系統間に平行進化が認められる現象をも、ともに指すからである。平行進化の結果が収斂である場合もあれば、ない場合もあるからである。孰れにせよ、これらの考え方は進化論を前提として、その観察的な例外のように見えるものを論理的に説明するために附則された進化論補説なのである。]

 若しこれらの動物が總べて共同の先祖より進化し降つたものと見倣さば、以上の如き事實はたゞ説明が出來るといふばかりでなく、是非斯くならなければならぬといふことも解る。先づ如何なる先祖から降つたものであるかと考へて見るに、自然淘汰の説に從へば、共通の點は共同の先祖から代々遺傳で傳はつたので、互に相異なる點は違つた外界の有樣に適するやうに變化し來つた結果と見て大抵差支がないから、鼴鼠の肩の中、鯨の鰭の中までに、上膊骨・前膊骨の存在して居る所から推せば、共同の先祖にはこれらの骨が皆具はつて、肩の關節、骨の關節なども完全に働き、指は五本あつて、節々が相應に動いたものに違ないが、獸類共通の性質を具へた上に背の關節が動き指が五本あつたとすれば、陸上の獸類と見なければならぬ。なぜといふに、魚の鰭に節がないのを見ても知れる通り、水中の游泳には鰭の途中に關節のある必要がない。たゞ撓(しな)ひさへすれば宜しいからである。鰭の中程に關節があつては、恰も腰の折れた團扇の如くで、却つて働きをなす上に妨げとなるであらう。

 犬・猫・鼴鼠・蝙蝠・膃肭獸・鯨等の共同の先祖が實際如何なる形のものであつたかは素より確には解らぬが、兎に角五本の指を具へた陸上の獸であつたと假定すれば、それより後のことは略々推察することが出來る。卽ちその子孫の中一部分は食物を海に求め、代々最も游泳に適した構造を具へたもののみが生き殘り、また他の一部分は地中に餌を求めて代々最も地を掘るに適した構造を有するものだけが生き殘るといふやうな具合に、子孫が幾組にも分れ、自然淘汰の結果、各々その生活の狀態に適したものが出來たと考へられる。素より之は推察に過ぎぬこと故、詳細の點は明には解らぬが、かやうに考へれば、初め不思議に思つた事柄も、大體に於ては滿足の出來るだけに、その理由を解することが出來る。この考を除いては到底何とも説明の仕樣はない。

 また以上説いた如くに、實際進化し來つたものとすれば、恰も共同の先祖といふ一種の既に存在して居た動物を取つて、之を自然淘汰といふ器械師に渡し、之を基として飛ぶもの、泳ぐものなどを造れと命じたと同樣であるから、外形は各々その働きに適するやうに相異なつたものが出來るが、根本の仕組は相同じからざるを得ない。斯く考へれば、實際蝙蝠の翼、鯨の鰭等に於て見る構造は、單に説明が出來るといふのみならず、この外には出來ぬものであるといふ考に達する。實際と理論の豫期する所とが斯く一致する以上は、先づその理論を正當なものと見倣し置かねばならぬ。


Penguin_2

[ペングィン]

 

 南アメリカの南部の海岸には「ペングィン」と名づける大きな海鳥が居るが、その翼は他の鳥に見る如き羽毛が全く無くして、鱗の如きもので蔽われて居る。それ故、外見も殆ど鳥の翼とは見えず、寧ろ海龜の前足の如くに見えるが、倂し鳥類の胸の兩側に生じてあるもの故、翼なることは誰にも明瞭である。さてこの翼は鳥の體の大きさに比べると甚だ小く、且羽毛がない故、全く飛ぶ役には立たぬが、水中に潛れば之を用ゐて游泳し、魚類を追い廻す有樣は、恰も飛ぶが如くである。元來、鳥類の飛翔の器官であるべき翼は、この鳥ではその作用が一轉して游泳器官となつたが、翼の表面を蔽える鱗の如きものを詳細に調べて見ると、各々やはり羽毛には相違なく、たゞその軸の根元だけが殘つた如き有樣である。之も尋常の翼を具へて飛ぶ力を有した先祖から降つたものと見倣さなければ、説明の仕樣がない。

[やぶちゃん注:「ペングィン」英語の「penguin」の発音は「péngwɪn」で、ネイティヴの発音を聴いても、現行の「ペンギン」より、この「ペングィン」の方が極めて正しく音写していることが判る。]

 一體に海鳥には飛ぶよりも寧ろ泳ぐ方が主である所から、翼の短く小くなつた種類が澤山にあつて、我が國の海岸にも海雀・海烏などといふ翼の甚だ短い鳥が幾らも居るが、これらの鳥は單に波の表面に身體を引き摺りながら飛ぶだけで、殆ど立派に飛ぶとはいへぬ程である。烏や鳩の如き善く飛ぶ鳥の發達した翼を以て、直に水中を游ぐ道具に用ゐることは出來ぬが、短く小くなつた翼は、水の中で動かせば游泳の助けにならぬこともない。而して一且游泳の器官として役に立つやうになつた上は、自然淘汰の結果、益々游泳に適する形狀に進む譯である。同一の器官でも初めは飛ぶため、後には游ぐためといふ如くに、途中で作用が變ずると、その時から淘汰の標準が變ずるから、形狀も前とは全く別の方向へ向つて變ずることになる。鯨の前足が鰭の形となつたのも、編幅の前足が翼の形となつたのも、皆この通りの往路を蹈んで進化し來つたものであらう。

[やぶちゃん注:「海雀」チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ属ウミスズメ Synthliboramphus antiquus(或いはその近縁種)。ウィキの「ウミスズメによれば、『北太平洋に分布する。おもに千島列島からアリューシャン列島、アラスカ西部などの島嶼部で繁殖するが日本でも天売島(北海道留萌支庁苫前郡羽幌町)、三貫島(岩手県釜石市)などで少数が繁殖するとみられる。冬も繁殖地周辺の海上で過ごすが南下するものもおり、北日本各地の海上で冬鳥として見られる。九州や南西諸島でも記録がある』。体長は二十五センチメートルほどで、『首が短く体は丸っこい。雌雄同色で頭は黒、首と腹は白、背中と翼は灰黒色をしている。夏羽では後頭部に白い模様が現れる』。『非繁殖期は』十『羽ほどの小さな群れで行動する。普段は沖合いの海上に浮かんで生活するが、たまに港などに現れる。潜水して魚類や甲殻類を捕食する』。『繁殖期には海岸の岩の隙間に巣を作る。普通』、一腹で二卵、ときには一卵。第一卵産卵後、二~三日後に第二卵を『産むといわれている。ヒナが孵化すると親鳥は』一~二『日のうちにヒナを巣から海へ連れ出し、以後は巣に戻らず』、『海上でヒナを育てる』。『捕食行動は魚を追いかけ時には水深』四十メートルもの深さまで潜水することが出来る。『この時に定置網や刺し網に引っ掛か』ってしまい、『脱出できずに死ぬケースが週に数羽』~『十数羽になる事もある』という、とある。

「海烏」チドリ目ウミスズメ科ウミガラス属ウミガラス Uria aalge。現生のウミスズメ類(ウミスズメ科 Alcidae)の中では大型種。ウィキの「ウミガラスによれば、『北太平洋と北大西洋、北極海に広く分布する。日本周辺では樺太の海豹島』、『海馬島』、『ハバロフスク周辺』、『北方領土の歯舞群島』『に分布し、冬期には本州の北部まで南下する』。体長は四十センチメートルで、体重も千百六十グラムあり、カナダ西海岸から日本沿岸にかけて分布する亜種』Uria inornataは『ウミスズメ科の中で最大である。背中が暗褐色で、腹は白い。冬羽では頬のあたりまで白い部分が増える。くちばしは長く、脚は尾の近くにあって、翼も尾も短く、陸上で直立歩行をする姿はペンギンを想像させる』。『大西洋に分布するウミガラスには目の後ろ側に白い線の入った個体群がいる』。『ウミガラスの外見は』同属の『ハシブトウミガラス』(ウミガラス属ハシブトウミガラス Uria lomvia)『によく似るが、背の色は黒いハシブトウミガラスより薄い印象を受ける。くちばしの先端のくびれが緩やかで、根元に白い線がない。夏羽では胸の白い羽毛が喉元に切れこまないこと、冬羽では頬まで白くなることなどで区別する』。『水中では翼で羽ばたいて泳ぎ、水深』五十メートル(最深記録は百八十メートルという)を三分間ほど『潜水できる。ただし』、『脚が体の後方にあるため、陸上を歩くのが苦手である。巧みに潜水してイカ、シシャモら稚魚、イカナゴ、カジカ、ギンポなどを捕食する。雛に給餌する場合、半分のどに入れた状態で繁殖地へ戻る』。『飛ぶ』際には、『短い翼を高速で羽ばたき、海面近くを飛ぶ』。『繁殖期には無人島や陸生の捕食者が近づけないような崖や崖の上に集団でコロニー(集団繁殖地)を作る。密度は最大で』一平方メートル当り二十羽にもなる。『多くの個体の繁殖開始年齢は』五『歳で、少なくとも』二十『年は繁殖が可能である』。『巣を作らず』、『岩や土の上に直接』一『個産卵する。卵が失われた場合』、一『度だけ産み直すことがある』。『卵は他の鳥に比べると一端が尖っており、「セイヨウナシ型」と呼ばれる。この形状は転がっても』、『その場で円を描くようにしか転がらないため、断崖から落ちにくい。平均抱卵日数は』三十三日で、ヒナは生後平均二十一日間は『繁殖地にとどまり』、『親鳥の半分くらいの大きさでまだ飛べないうちに繁殖地から飛び降り』て『巣立ちし、以後』二『ヶ月は海上で親鳥の世話を受ける』。『かつては北海道羽幌町天売島、松前町渡島小島』、『ユルリ島』、『モユルリ島』『で繁殖し、その鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれていた。しかし、漁網による混獲、観光による影響、捕食者の増加、エサ資源の減少などにより数が減少したと考えられている』。二〇一〇『年には天売島』に十九『羽が飛来し』、『数つがいが繁殖するのみであった』。二〇〇四年から二〇一〇年までの繁殖の成功は二〇〇八年の三羽のみであり、『国内の繁殖地が失われる危機にある。天売島では繁殖地の断崖にデコイや音声装置を設置し、繁殖個体群の回復の試みがおこなわれている』。『繁殖失敗の原因の一つはハシブトウミガラスやオオセグロカモメ』(チドリ目カモメ亜目カモメ科カモメ属オオセグロカモメ Larus schistisagus)『による卵や雛の捕食である。オオセグロカモメは大型のカモメで近年数を増加しており』、『漁業や人間の廃棄物を餌として利用してきたことがその原因の可能性がある。天売島では捕食者であるオオセグロカモメがウミガラスの個体数よりも多く、他の繁殖地よりもウミガラスへの捕食圧が高いことを示唆している。実際に、天売島のウミガラスは過去に繁殖していた赤岩・屏風岩・カブト岩などの開けた場所では繁殖しなくなり、捕食者の攻撃から卵や雛を守り易い狭い岩のくぼみなどで音声やデコイによって誘引されながらかろうじて繁殖をしている状況である』とある。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 二

      

 是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である。すこしづゝの異同に由つて分類をして見ると、第一に氣がつくのは讃州の大子殿の如く、その地に神樣があると云ふ點である。靜岡縣島田驛から一里の上流、笹ケ窪の楠御前と云ふのは、楠の茂つた森の中の祠であつた。此祠でも願によつて膳椀を貸したと云ふ。立派な朱の家具であつて、其が知らぬ間に宮の前の岩の上に置いてあつた。謝禮には竹の筒二つに酒を入れて社へ捧げたとあつて、僅ながら借賃を收められた珍しい例である。同縣安倍郡安東村のワンバコ樣は、熊野神社の東にある社地一坪ほどの小さな祠であつたが、やはり住民が膳椀に不足する場合に、借用の祈願すると翌朝必ず效驗があつたさうである。此地は靜岡市の郊外で、明治三十年に練兵場を設けた際、斯程の神樣を村の西谷某方の稻荷に合祀して、型なしにしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「是から先の話は何れも椀貸と云ふ名稱をもつておらぬ例である」と云うのは誤りである。彼が挙げる古墳絡みの伝承の中には、現在のその古墳周辺に「椀貸伝説」があるからである。後で述べるように、柳田國男は古墳或いはその出土品と「椀貸伝説」を古い在野の研究者が結び付けていることを嫌っているから、こんないい加減なことを言っているとしか私には思えない。以下の私の柳田への批判を参照されたい。

「笹ケ窪」現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「楠御前」不詳。現存しないか。

「同縣安倍郡安東村」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「熊野神社」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「西谷某方の稻荷」近い位置に現存する稲荷は三加番(さんかばん)稲荷神社であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、ここは現在、安東ではなく、東草深町であり、本文の謂いから見ると、「西谷某」という個人の屋敷内の稲荷へ合祀したと読めるから、ここではないと思われるものの、この神社、調べてみると、祭神が保食大神(うけもちのおおかみ)で、これは伊勢外宮に奉祀する豊受大神と同神で、食料と衣料を司る神であるから、或いは? とも思われた。郷土史研究家の御教授を乞う。]

 ワンバコサマは後の埼玉縣の例を見ても分る如く、文字に書けば多分椀箱であらう。貸すのは神樣であつたらしいが、これも讃州と同樣に塚が一つあつて、櫻の古木がある爲に櫻塚とも呼んでいたさうである。神樣が塚に據られると云ふことは近頃餘り言はぬことであるが、此種の話に限つて塚があるのは注意すべき第二の點である。例へば飛驒吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町の龜塚一名椀塚、長野縣では上伊那郡松島の龍宮塚、富山縣では射水水戸田村大字市井の甲塚、三重縣では安濃郡曾根村東浦の椀塚、德島縣阿波郡西林村の箭塚、美馬郡郡里(こほさと)村友重の双塚等、何れも似たり寄つたりの昔話を語り傳へ、人の心が不正直になつた故に、今では貸さなくなつたと云ふこと迄が同じである。

[やぶちゃん注:「飛驒吉城(よしき)郡國府村大字廣瀨町」現在の岐阜県高山市国府(こくふ)町広瀬町。ここ(グーグル・マップ・データ)。「龜塚」「椀塚」という呼称は確認出来なかったが、この地区の南東部に「こう峠口(こうとうげぐち)古墳」(ひらがなはママ)という、築造推定六世紀後期とされる全長七十二・七メートルもある(飛驒地方最大で石室の大きさでは県下最大級)前方後円墳があり、鴻ノ宮遺跡・度瀬遺跡・広瀬石橋遺跡・広瀬十王堂遺跡・作料遺跡が約一キロメートルの間に連なっているから、思うに、ここ(グーグル・マップ・データ)がそれなのではないかと私は推定する。私は「ワンバコサマ」は古墳から出土した古墳時代の土師器(はじき:弥生土器の流れを汲む素焼きの土器)・須恵器(陶質土器。青灰色で硬い)がその伝承の濫觴の一つであると思っている。実際、以下の注を見て戴くと判るが、多くの「ワンバコサマ」伝承地が、古墳或いは古墳近くであるからである(事実、次の段落で柳田國男もそういう古い説を紹介している。但し、彼はそれを疑わしく思っていることが軽くいなした言葉の端からはっきり判る。「蝸牛考」での方言周圏論や非科学的な「海上の道」論なんどで都合のいいデータだけを提示し、自身の直感は大事にする癖に、他者の意見は常に留保し眇めで見る――明治のアカデミストの正体がよく判るというもんだ)

「上伊那郡松島」現在の長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島か。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴くと判るが、同地区の北北西の箕輪町中箕輪には松島王墓古墳があり、サイト「龍学」内のこちらに「龍宮塚の椀貸穴」として出るから、ここが確実にそれである。そこに昭八(一九三三)年山村書院刊の岩崎清美「伊那の伝説」よりの引用で(一部に私が推定で読みを補った)、

   *

中箕輪村松島の北の端(はず)れに瓢形(ひさご)の古墳があって、これを王塚と称して居る、敏達天皇の皇子頼勝親王の墓だと伝えられて居るが、それは分らない。その傍(かたわら)に龍宮塚と称(よ)ぶ小さい塚があって、その蓋石(ふたいし)の下が穴になりそれが龍宮まで届いて居ると云うのである。お客のある時、龍宮へ頼んで入用の膳椀を貸して貰うので大へんに重宝がられて居た所、一度借りたお椀を毀(こわ)したままで返さなかったために、それからは如何に頼んでも貸して呉れぬようになったと云って居る。

   *

とある。「敏達天皇」(五三八年~五八五年)は欽明天皇の子で第三十代天皇。「頼勝親王」不詳。別名松島王とする。

「射水水戸田村大字市井」現在の富山県射水(いみず)市市井(いちのい)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「甲塚」(「甲」はちくま文庫版全集に『かぶと』とルビ)は確認出来ないが、調べてみると、同地区の南の端に富山県史跡指定された大塚古墳という円墳があるの中央附近と思われる。グーグル・マップ・データの航空写真)。横穴式石室で五世紀頃の造立と推定され、高さ約六メートル、直径約三十五メートルある。ある解説によれば、明治時代にはこの近くに別に五基の古墳があった(大正期までに消滅)ともあるが、円墳と「甲塚」という呼称は相性がよい

「安濃郡曾根村東浦」三重県津市安濃町曽根。ここ(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「阿波郡西林村」現在の徳島県阿波市阿波町の南西の一角。この附近(グーグル・マップ・データ)。「箭塚」(ちくま文庫版全集に『やづか』とルビ)は確認出来ないが、調べると、同阿波町北岡には北岡西及び東古墳という円墳があることが判った。サイト「古墳マップ」の北岡東古墳の方の解説によれば、直径約十五メートル、高さ約五メートルで、埋葬空間は墳丘南東側に開口する両袖型の横穴式石室で、玄室部は天井を前後から斜めに持ち送る構造(段の塚穴型)になっており、近くの北岡西古墳とともに「段の塚穴型石室」の分布の東限となっているとある。この塚は次の段落でも語られている。「箭塚」の呼称は或いは出土した副葬品に鏃があったからではなかろうか。

「美馬郡郡里(こほさと)村友重」徳島県の旧美馬(みま)郡郡里町(こおざとちょう)で、現在の美馬市美馬町の東の半分に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「双塚」というのは恐らく美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある二基の古墳、国指定史跡の「段の塚穴」のことである。この古墳は、孰れも古墳時代後期(約千四百年前)につくられたと推定されるもので、約二十五メートルの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳を「太鼓塚古墳」、西の小さい古墳を「棚塚古墳」と呼んでいると「美馬市」公式サイト内のこちらに地図入り・写真入りで、ある。二つが「双」(なら)ぶ「塚」であるから、これは間違いない。]

 たしかハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」に、佛蘭西にも塚に賴んで鍋を借りて居たと云ふ話があつたと記憶する。小人が人間の無心を聽いて名劍を鍛へてそつと出して置くと云ふのも、多くは塚の邊であつたやうである。しかも日本だけの話で見ると、いわゆる椀貸の話が古塚に伴ふのは、その塚に口が開いて居た爲であるやうにも見える。例へば阿州などでは、少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る位で、現に右に申す西林の箭塚の如きも、元祿中まで椀を貸していたと云ふにも拘らず、百餘年前の著書に「瓢形にして後部に塚穴あり」とある。郡里村の双塚も亦二つの塚穴であつて、その中に以前は二つの髑髏があつたと云ふ。其他麻植郡森藤村の塚穴、那賀郡日開野(ひがいの)村の塚穴等、食器を貸したと云ふ話が古くからあつた。そこで阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である。

[やぶちゃん注:『ハルトランドの「サイエンス・オブ・フエアリテエルズ」』イギリス・ロンドン生まれの民俗学者エドウィン・シドニー・ハートランド(Edwin Sidney Hartland 一八四八年~一九二七年)のThe science of fairy tales : an inquiry into fairy mythology(「妖精物語学――妖精神話に就いての研究」。一八九〇年)。原著ならば「Internet Archive」のこちで画像で読める(フル・テクスト版も有り)。ざっと探しては見たが、原文では私には到底、歯が立たなかった。

「阿州」阿波国。徳島県。

「少し大きな塚穴には皆この種の傳説があると云ふ人も有る」徳島ではないが、南に接する観音寺市坂本町には、まさに「椀貸塚古墳」という公式名の古墳さえ存在する。同市公式サイト内のこちらを参照。そこにはしっかり、昔話「椀貸塚伝説」の地としても知られている、とある。

「元祿」一六八八年から一七〇四年。

「百餘年前の著書」柳田にしては不親切。出典が記されていないので確認しようがない。「百餘年前」とあり、本論文は大正七(一九一八)年の作であるから、(かんせい)は天明・寛政・享和頃の作となる。出典を御存じの方、御教授を乞う。

「麻植郡森藤村」徳島県の旧麻植(おえ)郡森藤(もりとう)村で、現在の吉野川(よしのがわ)市鴨島町(かもじまちょう)森藤。ここ(グーグル・マップ・データ)。この地区にも三谷古墳・城ヶ丸古墳・向原古墳・壇古墳群がある。また、ここは銅鐸の出土地でもある。

「那賀郡日開野(ひがいの)村」現在の徳島県阿南市日開野町(ひがいのちょう)。(グーグル・マップ・データ)。この町の中央に鎮座する王子神社は数基の古墳からなる王子山古墳群がもとである。

「阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、こういう話が始まつたのではないかと云ふ人もあつて、これは一寸尤もらしく聞える一説である」前の段落の私の柳田國男を批判した注を参照のこと。私は実際に使ったか使わなかったを問題にしているのではない。古えに塚を暴いたところ、立派な須恵器などを見つけて使用していたが、罰当たりなことと考えて戻した。そうした事実を濫觴としてこの伝承が形成されたと考えることが、何故、「一寸」「尤もらしく」は「聞える」が、何とも好事家が考えそうな巷説であると(少なくともここでは)柳田は言いたい口振りではないか。如何にもインク臭いいやらしい言い回しではないか。]

 

きみ遠く去るにかも似ん……

 

雪ふかく
山裳を曳けば
きみ遠く去るにかも似ん
 
丘群に
日射し萌ゆれば
きみ來り訪ふにも似たり
 


 
(宮澤賢治文語詩未定稿より)

2018/01/05

北條九代記 卷第十一 北條兼時卒去 付 吉見孫太郎叛逆

 

      ○北條兼時卒去  吉見孫太郎叛逆

同三年六月北條越後守兼時、鎭西より鎌倉に皈り、病気に罹りて身心快らず、同九月に愈(いよいよ)重く惱出でて、鍼石灸治(しんせききうぢ)の品を變へ、藥劑療養の術を盡しけれども、定(さだま)れる業果(ごふくわ)、耆扁(ぎへん)といへども力及ぼず、遂に卒去せられけり。今年未だ三十五歳、「誠に人の世の盛(さかり)、一時に散りける事よ」と、親疎、皆、惜まぬはなし。同十一月七日龜谷(かめがやつ)より、吉見孫太郎源義世(よしよ)と云ふ者を生捕(いけど)りて、相州貞時に參らする。是はその前(さき)、三河守範賴の末葉とて、關東を徉徊(さすら)ひしが、死生不知(ししゃうふち)の溢者(あぶれもの)共を語(かたら)ひ、叛逆(ほんぎやく)を企(くはだ)て、「如何にもして天下を二度(ふたたび)源氏の世となし、家運を四海に開かばや」と思立ちて内々祕計を囘(めぐ)らし、畿内、西國までも竊(ひそか)に一味の輩(ともがら)を求め、「若、今、義兵を擧(あぐ)る程ならば、近國遠域(ゑんゐき)の源氏等、何ぞ起らざらん、然らば運に乘じて謀(はかりごと)を致さんに、平氏北條を打亡(うちほろぼ)し、世を治むるに難きことか」と、大事を輕く思ひけるは、誠に蟷螂(たうらう)の斧を揚げて、隆車(りうしや)の隧(すゐ)に當(あた)るが如く、蚍蜉(ひふ)、脚(あし)を振(ふるつ)て大木の本を搖(ゆす)るに似たり。與黨(よたう)の者共を鎌倉所々に隱置(かくしお)き、時の至るを伺ひ、相圖を定め、將軍の御館(みたち)、執權の屋形(やかた)に火を差し、その騷動の弊(ついえ)に乘り、軍(いくさ)を起さんと支度して、風荒き夜をぞ待居たる。運の盡る所、返忠(かへりちう)の者、出來て、孫太郎、忽に搦捕(からめと)られたりければ、一味同心の者共は散々(ちりぢり)に逃失(にげうせ)せて、一人も鎌倉中に足を止(とゞ)めず。斯て吉見は強く糺問せらるれども、中々、同類一人をも差申(さしまう)さず。さらば、とて、由井濱(ゆゐのはま)に引出し、頭(かうべ)を刎(は)ねてぞ梟(かけ)られける。

 

[やぶちゃん注:「北條兼時」前項参照

「吉見孫太郎」「義世」(よしみよしお ?~永仁四(一二九六)年)武蔵国吉見荘(現在の埼玉県)を本拠とする源範頼の子孫。吉見頼氏又は吉見義春の子とされる。幕府御家人として活躍したが、この時、幕府へ謀反を企て、ここでは由比ヶ浜とあるが、江ノ島の陸側正面、相模龍ノ口に於いて処刑された。孫太郎は通称。

「同三年六月」永仁三(一二九五)年六月。既に注した通り、兼時はこの永仁三年四月に鎮西探題職を辞して、鎌倉に帰還し、評定衆の一人に列せられて幕政に参与していたが、帰還から五ヶ月後に死去している。筆者は「今年未だ三十五歳」と言っているが、数えでも三十二歳で、誤り

「皈り」「かへり」「歸り」に同じい。

「業果(ごふくわ)」この場合は因果応報としての業(ごう)といった意味ではなく、フラットな命数・命運の意。

「耆扁(ぎへん)」既出既注であるが、再掲しておく。世に希な名医を指す一般名詞。元は伝説の名医「耆婆(ぎば)」と「扁鵲(へんじゃく)」のこと。前者は古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師ジーヴァカで、釈迦の弟子の一人でもあった。多くの仏弟子の病気を癒し、父王を殺した阿闍世 (あじゃせ:アジャータシャトル) 王をも信仰に入らせたとされる。後者は「韓非子」や「史記」にその事蹟を記す、古代中国漢代以前の伝説的名医の名。

「同十一月七日」「同」も「日」も誤り。翌永仁四(一二九六)年十一月二十一日(これは増淵勝一氏の訳文の割注に拠った)。

「三河守範賴」(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)は源義朝の六男。本作では前の方にさんざん出ているが、一応、ここで注しておく。三河国蒲御厨(かばのみくりや:現在の静岡県浜松市)で生まれたことから「蒲冠者(かばのかんじゃ)」と呼ばれた。幼時に公家藤原範季(藤原南家高倉流の祖で後白河法皇の近臣、順徳天皇の外祖父)の養子となる。兄頼朝が平氏追討の兵を挙げた際、頼朝のもとに馳せ参じてその部将となった。寿永二(一一八三)年に弟義経とともに源義仲を京都に討ってこれを倒し、続いて一ノ谷で平氏を破って、戦後の論功行賞で三河守となった。やがて再び、平氏追討のために中国から九州に遠征、文治元(一一八五)年四月に平氏が滅亡した後は九州の経営に当った。範頼は頼朝・義経の衝突と義経の末路を見、頼朝に対しては努めて従順な態度をとったが、それでも頼朝は範頼を疑い(一説に建久四(一一九三)年五月二十八日に冨士の巻狩の最中に曾我兄弟の仇討ちが起こり、一時、「頼朝が討たれた」という誤報が鎌倉御所へ伝えられ、悲歎する政子に対し、範頼が「後には某(それがし)が控へておりまする」と述べたことに猜疑が始まったとされるが、これはずっと後の南北朝時代に成立した歴史書「保暦間記」にしか載らぬもので、逆に政子自身の虚言或いは権力拡張を画策していた北条方の陰謀であるとする説もある)、同建久四年八月、範頼を捕らえ、伊豆修禅寺に幽閉して、その後に処刑した。なお、範頼の子孫はその後、ここに出るように吉見氏を称し、南北朝頃には能登の守護ともなっている(ここは本文を小学館の「日本大百科全書」に拠り、ウィキの「範頼も参考にした)。

「徉徊(さすら)ひ」「徉」(音「ヨウ」)は「さまよう」の意。

「死生不知(ししゃうふち)の溢者(あぶれもの)」増淵勝一氏の訳は『命知らずのならず者』。いい感じ。

「四海」国内。天下。

「蟷螂(たうらう)の斧を揚げて、隆車(りうしや)の隧(すゐ)に當(あた)る」これは三国時代の詩文家陳琳が劉備に袁紹の側につくように薦めた檄文の中に「今乃屯據敖倉、阻河爲固、欲以螳螂之斧、禦隆車之隧」と出る比喩。「蟷螂の斧を以つて、隆車の隧を禦(ふさ)がんと欲す」で「隆車」大きく立派な車、「隧」は「道」、「禦」は一般には「ふせがん」と訓ずるようだが、それでは意味が採りにくいと感じたので、敢えてかく訓読した。「蟷螂の斧」の譬え自体は「荘子」にまで遡れる。

「蚍蜉」羽蟻(はあり)。大蟻の意もあるが(増淵氏の訳はそれ)、採らない。「蚍蜉(ひふ)、大樹(たいじゅ)を動かす」とはやはり、「身のほどを弁えず、大それたことを行う」ことの譬え。韓愈の長い諷喩詩「調張籍」(張籍を調(あざけ)る)の初めに出る。

   *

李杜文章在

光焰萬丈長

不知群兒愚

那用故謗傷

蚍蜉撼大樹

可笑不自量

   *

李杜 文章在り

光焰 萬丈長し

知らず 群兒の愚かなる

那(な)にを用(も)つて故(さら)に謗傷するか

蚍蜉 大樹を撼(うご)かす 笑ふべし 自ずから量らざるを

   *

「返忠(かへりちう)」主君に背き、裏切りの行為を働くこと。「内応」「内通」とも同義であるから、自軍の機密を敵に告げたり、敵を陣営内に導くこともこれに含まれる。ここはまあ、単に「裏切り」でよろしい。

「差申(さしまう)さず」徒党した者の一人の名さえも白状しなかった。男だね! 吉見孫太郎!

「由井濱(ゆゐのはま)に引出し、頭(かうべ)を刎(は)ねてぞ梟(かけ)られける」鎌倉初期・前期には由比ヶ浜(砂丘と蘆原で現在よりも遙かに内側(鶴岡八幡宮寄り)へ入り込んでいた)が刑場として頻繁に用いられたが、中期以降は由比ヶ浜自体が三浦半島先端や西岸域からの重要な物資運搬の経路ともなって行っており、日蓮の龍ノ口の法難を見ても判る通り、あちらが処刑場としてよく用いられていた。]

 

芥川龍之介 手帳7 (8) 松筠庵(現在の楊椒山祠)

 

○松筠庵 宣武門外大街 達智橋郵便局橫町 鼠石煉瓦 楊椒山(忠愍)先生故宅(曹學閔書)これははめこみなり 中に劉石庵の碑 ※升山祠あり 祠壁の内外に碑を嵌むるもの多し 祠後更に一祠堂 升山とその妻との靈位あり 祠前瘦犬ねる ○諫草亭 ココニギボシユの鉢植多し ○庭は瓦 岩をつむ 柳 松 蔦 檜 蘭 椒山の「錢肩擔道義 辣手著文章」の碑ランプの臺となる(廊下)フシン中 入口に君子自重の小便壺 職人往來多し 祠は法源寺後街北第二號

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(「潔」-「氵」)。

「松筠庵」(しょういんあん)は現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居((グーグル・マップ・データ)。地図上では「楊椒山祠」(「祠」の「示」は新字の「礻」)とある)。楊椒山(一五一六年~一五五五年)は本名楊継盛、椒山は号。忠愍(ちゅびん)は諡(おくりな)。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し』、『厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため』、嘉靖三四(一五五五)年に『厳嵩により処刑された。年わずか』四十『歳。その後』一七八七年に『ここは楊椒山祠と改められ』た。一八九五年、『清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら』二百『人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち』、『中国近代史上有名な「公車上書」』(和議拒否を求めた上奏文)『である』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。

「曹學閔」(一七二〇年~一七八八年)は清代の学者で内閣侍読学士(皇帝の侍講)。

「劉石庵」(一七一九年~一八〇四年)は清代の文人政治家で書家。宰相統勲の長子。後、父と同様に宰相となった。経・史・諸子百家の学に詳しく、詩文を能くし、小楷と行草に長じ、書風は個性的で、濃墨を用いて高雅な情感を有する。

「※升山祠」(「※」=「石」+(「潔」-「氵」)。「※升山」で人名であるが、不詳。

「諫草亭」楊椒山祠内に現存。諫言文に掛けた亭名。同亭内には朝廷を批判した諫言文が全て碑になって刻まれている。

「ギボシユ」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ(擬宝珠)属 Hostaの総称。タイプ種は Hosta plantagineaタイプ種グーグル画像検索)。

「フシン中」「普請中」。修復(或いは復元新造)中。「職人往來多し」とあるのもそのせいか。

「君子自重の小便壺」「北京日記抄 五 名勝」にも記されてある。「君子自重」は「紳士ならば遠慮するべし」という意味であるが、こうした但し書きが貼られた上に小便壺が置かれていたとも思えないから、これは芥川の評言ととるべきであろう。

「法源寺」北京市西城区に現存する仏教寺院((グーグル・マップ・データ))。現在は中国仏学院と中国仏教図書文物館が寺院内に設置されている。ウィキの「寺(北京市によれば、唐の貞観一九(六四五)年に『創建の勅令が発せられ、武周の万歳通天元年』(六九六年)『に落成し、憫忠寺の名を賜った。高麗への遠征を行ったときに戦没した将士を祭るために建てたという。安史の乱』(七五五年~七六三年)『の時、「順天寺」と改称。後、「憫忠寺」』に戻し、『唐の末年の景福年間』(八九二年~八九三年)、『幽州節度使李匡威は寺院を再建して、憫忠閣を建立、詩賛に曰く「憫忠高閣、去天一握」』。遼の清寧三(一〇五七)年、『幽州大地震が起き、寺は地震で損壊された、また何度も全面修復が行われ』、咸雍六(一〇七〇)年に『「大憫忠寺」と改称。道宗の』太安一〇(一〇九四)年、『大規模再建が始ま』った。一二一五年、『兵火により一度は廃寺となったが、明の』正統二(一四三七)年、『住職僧相瑢が資金を募り重建し、崇福寺と改称』、『清の康熙年間に藏経閣を修復した』。雍正一二(一七三四)年、『「法源寺」と改称、宗派も律宗に改められた』とある。]

芥川龍之介 手帳7 (7) 天寧寺

 

○天寧寺の塔 赤壁 白桶 綠瓦 十三層 燕亂飛 楡 ○後魏孝文帝建立 光林寺 隋に宏業寺 唐に天王寺 金 大萬寺 元 未兵戮 明初重修 元寧寺 後ニ天寧寺 乾隆二十年の重修 ○塔は隋文帝建立十三級 二十七丈餘 三千四百餘の鐸鈴 下は蓮華臺 佛字彫の壁 塔前廢寺 佛頭瓦をおく 大明弘治十七年(大理石の蓮臺) 天井半なし

[やぶちゃん注:「天寧寺」北京広安門外にある北魏の孝文帝の時代に建てられた寺院。元末の戦火によって塔を残して亡失した(従って「未兵戮」(「未だ兵戮(へいりく)せず」か。非道な兵火に遭わなかったという意か)というのは不審。ここだけを天寧寺塔に限った謂いと見るなら正しいが、文脈上はそうは読めない。思うにこれは岩波旧全集判読者の誤読で「元末兵戮」(に逢って焼亡)という意味ではあるまいか?)。明代に復興して天寧寺と呼ばれた。芥川龍之介は「北京日記抄 五 名勝」で、

   *

 天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は綠瓦(りよくぐわ)を疊むこと十三層、屋緣(をくえん)は白く、塔壁は赤し、――と言へば綺麗らしけれど、實は荒廢見るに堪へず。寺は既に全然滅び、只(ただ)紫燕の亂飛(らんぴ)するを見るのみ。

   *

と記している。隋の文帝(楊堅(五四一年~六〇四年:隋の初代皇帝(在位:五八一年から没年まで)の創建。寺自体は南北朝の北魏(三八六年~五三四年)の四七一年の創建である(当時の寺名が「光林寺」で龍之介のメモは以後の寺名の変遷を記している。但し、中文サイトを見ると「宏業寺」は「弘業寺」とある)。八角十三層で高さ五十七・八メートル(「二十七丈」は約八十一メートルで不審)、北京で現存する最も高い塔として知られる。サイト版「北京日記抄」で教え子の撮影になる同塔の威容やある種の慄然ささえ感じさせる魅力的なレリーフが見られるので是非どうぞ。

「乾隆二十年」清代。一七五五年。

「後魏孝文帝」(四六七年~四九九年)は北朝北魏の第六代皇帝(在位は四七一年から没年まで)。

「大明弘治十七年」一五〇四年。]

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 迷路

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「迷路」は昭和一三(一九三八)年四月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した

 一部の段落末に簡単な注を附した。【2018年1月5日 藪野直史】]

 

 

 迷路

 

 淡い藍色の山脈の上には、その山脈の幅だけの空が、蜜柑色に暈どられてゐて、重苦しい雲がそのまはりを覆つて居たが、それが宗彦の眼には何かよくない徴(しるし)のやうに映つた。列車は夕闇の軌道の上を進んでをり、時刻は呆けた冬の靄を枯木に絡ませてゐた。宗彦は虛ろな顏つきで、硝子窓の外を視凝めてゐた。冷々として身も魂も地の底へ引込まれさうになるのだが、やがて目的地に着けば、今度こそ湯に浸れて憩へるのだつた。[やぶちゃん注:「暈どられて」「くまどられて」。]

 機關車は疲れたやうな吐息をつづけ、汽笛が優しい悲鳴をあげた。夕闇に包まれた山脈はなほも次々に姿を現はし、次第に輪畫がはつきりして來た。そのうちに窓の外が妙に白らんで來て、空の一隅に故郷の山が見え出した。宗彦ははつとした。しかし、眼に見えて來るのは、たしか見憶えのある地方の風景で、外はもうすつかり朝の姿なのだつた。宗彦は山の温泉へ行くつもりで、この汽車に乘つて居たのに、そして向ふへ着く時刻は夜と決まつて居たのに――すべてが不意に喰ひ違つてしまつた。

 狼狽して宗彦は周圍の人々に血走つた眼をくばつた。しかし、車内の人物は凡て前と變りなく、澱んだ電燈の下で、穩かな旅を續けて居るのだつた。と、思ふと、電燈がパツと消えて、人々の顏は却つて活々して來た。人人はてんでに網棚から荷物を取下ろし出した。宗彦は學生帽を被り、ボストンバツグを提げて昇降口の方へ出てみた。汽車は速度を緩めて、故郷の都市の一角が今眼の前を通過して居た。そのうちに昇降口には降りる人がぞろぞろ集まつて來た。列車はホームに橫づけになり、驛の白つぽい建物が前にはあつた。宗彦はふらふらとホームに降りてしまつた。

 人々の後から從いて、地下道へ降りて行つたが、宗彦はここまで來ると、またこの間のやうに改札口には誰かが出迎へに來てゐて呉れさうな氣がした。左右のコンクリートの壁に跫音が侘しく響き、疲勞した身體はまるで泳ぐやうに進んで行つた。やがて、改札口に出ると、はたして、誰かが彼の名を呼留めた。

「宗彦さんですか」相手の聲はひどく痙攣してゐたが、宗彦は吻としたやうな顏で頷いた。すると、相手は宗彦のバツグをひつたくるやうにして受取り、「早く! 早く! 早く!」と口走りながら、自動車を傭つた。しかし、宗彦はもう急いだつて仕方がないやうに思へた。「澤田まで行け! 澤田だ。大至急!」と、相手は運轉手を呶鳴りつけて、宗彦の橫に腰掛けた。何も彼もこの前と同じで、自動車の窓越しに見える橋の景色まで同じだつた。すると、まだ母は死んではゐなかつたのかしら――と、宗彦は次第に胸騷を覺え、臨終へ駈つけて行く息詰る氣分にされた。タイヤの下で唸る砂や、窓の隙間から吹込んで來る風があつた。[やぶちゃん注:「吻と」「ほつと」。]

 間もなく宗彦の家が見えて來た。見るとやはり二三人の女達が待兼ねて出迎へてゐるので、宗彦はがつかりしてしまつた。「早く、早く、早くいらつしやい!」と、うはずつた調子で女達は宗彦を奧へ導き入れた。宗彦ほ大變急いでゐるやうにして學生帽や、ボストンバツグを玄關脇に放り出したが、ふと何か躊躇を感じて、放り出したバツグの位置を直したりした。すぐ隣室の座敷からは女達の啜泣きや、人々の囁きが洩れてゐた。宗彦は廊下から𢌞つて隣室の方へ行くごく短かい距離を、今は大變困難な氣持で進んでゐた。それで、非常に急いでゐながらも暇がかかり、――これは一體どうふしたのかしらと怪しまれるのであつた。

 しかし、眼の前に座敷の光景が現れた時、忽ち一切に明瞭になつた。母は南枕でだらりと兩手を蒲團の上に投出してゐた。その兩手を左右から醫者と看護婦が握つて、鼻に酸素吸入器をあてがつてゐた。吸入器の液體を吸ふ音がすぽすぽと鳴つた。室内の光線は大變明るかつたが、立つたり坐つたりしてゐる人々の顏はみんな茫と霞んでゐた。腕組みして立つてゐた兄が、宗彦の姿を認めると、「君が戾つて來るまで注射でもたしてゐたのだ」と低い聲で云つた。

 「さうか!」と宗彦は不意に大きな聲を放ち、がくりと母の枕頭に蹲つた。母の顏色は普段と左程變つてゐなかつたが、閉ぢた瞼のあたりに灰色の暈が淺つてゐて、頻りと齒齦を開いて喘いでゐるのは、濛々とした夢のなかを今、潛つてゐるらしく、まるで嬰兒のやうに哀れであつた。しかし、宗彦はふと、一ケ月前に死んだ筈の母がまだそこにゐるのを不審に思つた。すると、母は急に寢返りして、顏を宗彦の方から背けてしまつた。宗彦ははつとして眼を瞠つた。が、周圍の人々には何の動搖も生じなかつた。遠くの廊下をドカドカと子供達が走り𢌞つたり、何か云ひ爭ふ聲が聞えた。宗彦のすぐ眞正面には他家へ嫁いだ妹が、唇を歪めて泣いてゐた。その袖に槌つて兄の小さな娘が、可愛い聲で泣いてゐた。皆はもう長い悲嘆に慣れつこになつてゐるやうな姿で、今はいささか氣も惰れてゐるやうに見えた。宗彦はそれでも醫者の側に寄つて、「注射でもててるのですか」と、訊ねないではゐられなかつた。醫者は默つて退屈さうに頷き、母の脈をぢつと數へてゐた。のろのろと時間が移つて行つた。母は宗彦の方に肩を見せた儘、絶えず苦しさうな息をついてゐた。[やぶちゃん注:「齒齦」音は「シコン」であるが、ここは意の当て訓「はぐき」でよいであろう。「惰れて」「だれて」。訓は「おこたる」であるが、ここは音と意から「気持ちが弛んで緊張感がなくなる・だらける」の意を表した当て字である。]

 そのうちに、宗彦の後にゐた叔母が「さあ、そろそろ末期の水をあげなさい」と促した。綿を纏つた箸を受取ると、宗彦は母の枕頭の方へ𢌞つて行つた。すると、母はまた寢返りを打つて顏を背けてしまつた。瀕死の病人がかうして樂々と動けるので、宗彦は次第に怕くなつた。周圍の空氣や人物まで、どうやら少しつつ奇怪に思へて來た。しかし、酸素吸入器は確實に少しつつ費されて行つた。そして、それが無くなつてしまふと、醫者は母の顏から器具を遠ざけた。間もなく母は大きな苦しさうな呼吸をし出した。「あ、大きな息が始まつたな」と、誰かが云つた時、母の赤らんだ顏は忽ち土色に變つて行つた。醫者は母の手を離し、時計を眺めた。「大きな息は一囘きりだつたな」と、また誰かが云つた。あつちでも、こつちでも新たに啜泣く聲が始つた。母はぐつたりと呼吸をとめて、今は微動だにしなかつた。

 この時になつて、宗彦には更にぞつとすることが生じた。今迄母の顏は普通の女の大きさだとばかり思つてゐたのに、氣がつくと、それは二倍も三倍も大きいのだつた。顏ばかりではなかつた、軀全體がまるで巨人のやうに脹らんで居て、胸などは高く蒲團を突上げて聳えて居た。そして母の額には嚴しい大きな皺が一杯刻まれ、土色の頰には次第に殘忍な表情が募つて行つた。宗彦は恐怖と悲哀で、そつと眼を伏せて淚ぐんだ。

 宗彦は再び視線をあげて、母の方を覗つた。すると忽ち母の顏には激しい不可解な怒りが漲つて行つた。大きな顏は今怒りではちきれさうになり、左右に投出されてゐる母の掌の指が一本づつ靜かに開かれた。母は手を差上げた。母の眼はかつと見開かれて、爛々と燃えた。母は苦しさうに巨體を上げて、床の上に立上つた。頭髮は亂れ、天井とすれすれに在つた。暫くは何か冷たい風のやうな唸りを齒間から發してゐたが、やがて宗彦の方をきつと睥み下すと、彼を指差して云つた。「こいつが、僕を疑つてるぞ!」それはまるで兇暴な男の發する聲であつた。一瞬、宗彦の耳にはビユーと鳴る風が通過した。と、座敷中に險惡な空氣が閃いて、無數の眼で威壓されてゐた。さつきまで淚を湛へてゐた人々の眼が、まるで狼のやうな怒りに燃え狂つて、ぢりぢりと宗彦の方へ迫つて來た。しかし、その時、母の威丈高な姿勢が次第に崩れそめた。母の廣い肩から、がくりと力が脱けたかと思ふと、母は兩手を宙に泳がせながら無念さうな身悶えをつづけ、暫くはまだ立上つてゐたが、やがてふらふらと床の上に倒れてしまつた。見ると、もう母には何の變化も認められなかつた、それはたつた今、呼吸をひきとつた母の姿であつた。そして氣がつくと人々はもう座を離れて、みんなてんでに働いてゐた。宗彦は悄然と立上つて次の間へ行つた。

 其處ではテーブルが持出されて、もう兄は頻りに死亡通知の電報を書いてゐたが、すぐ側のソファには義兄が橫になつて、子供の吹く喇叭を面白さうに口にあてて居た。義兄は今にも吹いて音を立ててみたいやうな顏つきで、それが餘程娯しさうだつた。宗彦は何をしていいのかわからなく、ばんやりと柱の脇に立疎んでゐた。今、外では紫色の雨が靜かに降つて、部屋のうちは非常に薄暗く、天井や疊に虛ろな黑い影がぼそぼそと這ひ𢌞つてゐた。ふと、宗彦のすぐ前に老人がよろよろと步いて來た。宗彦の父が生きてゐた頃からずつと店にゐたその人は、暫く振りに見ると、全く老衰してゐた。眼ばかりが鋭く輝き、動作は緩慢であつた。彼は宗彦の前に來ると、細い聲で、「お母さんが……」と呟いた。宗彦は急に悲しみが崩れて、今は子供のやうに泣聲をあげた。老人は老人で眼に指をあてて靜かに淚を拭つた。それから暫く宗彦を睥むやうな顏つきで見守つてゐたが、突然、眼底に變な閃きが生じたかと思ふと、老人はワハハハハと物凄い笑ひ方をした。そして、きつと宗彦を睥みつけ、またワハハハハと笑つた。「ざまあみやあがれ! 親の罰、天の罰、思ひ知れ!」と云ひざま、彼は宗彦の胸許を摑んで、ぐつと引寄せ背負投げで疊に叩きつけた。と、思ふとまた宗彦を引寄せ、繰返し繰返し背負投げを續けて行つた。[やぶちゃん注:「ソファ」はママ。]

 その時、隣の座敷から、鐘を鳴らす音がして、次いで讀經の聲が洩れて來た。すると老人は宗彦を蹴飛ばしておいて立去つてしまつた。宗彦はふらふらと立上ると、隣室へ誘はれて行き、一番後の閾のところに、ペつたりと坐つた。と思ふと、誰かがポカリと宗彦の橫面を撲つた。「もつと前へ出ろ!」と、すぐ橫に坐つてゐた兄が呶鳴つた。宗彦が二三人前の席へ割込んで行くと、見憶えのない女が彼の顏を覗き込んでくすりと笑つた。宗彦は凝と正面に眼を据ゑた。佛壇には澤山の香奠袋が重なり合つて竝べられ、蠟燭の燈が大變美しく搖れてゐた。宗彦の視線は人々の肩を越えて、そつと母の死骸の方へ漾つて行つた。母の寢床はもう部屋の一方へ片寄せられて、顏には白い覆ひが懸けてあつた。坊さんは御經を悠長な聲で讀んでゐたが、途中から止めてしまふと、吻としたやうな顏で一同にお叩頭をした。それから坊さんは紙と筆を運ばせて、立ちどころに戒名を書き、それを佛壇の前にそつと置いた。もう人々は座を立ちてんでに何か喋り合つてゐた。

 宗彦も吻として立上つたが、次の瞬間にはもう自分が何をしていいのやら解らないので迷はされた。が、恰度いい具合に妹が聲を掛けて呉れた。「暫くでした。いいことで出逢へたのならいいのですに……かう云ふことで出逢はうなどとは……」と妹は唇を歪めて泣いた。次いで伯父が宗彦の姿を認めて、一寸會釋してくれた。すると又別の人が宗彦の前に來てお叩頭をした。それから又別の人が現れた。宗彦は見憶えのない顏も多かつたが、相手はどんどん入替つて悔みを述べた。そのうちに「お面!」と云つて誰かが宗彦の頭を撲りつけた。すると後から後から皆がそれに倣つた。そして最後に、「ヤア」と云つて義兄に手を握られた。「面白いもの見せてやるから臺所へ行かう」と、義兄は宗彦の手を引いてよろよろと進んだ。大分もう酒に醉拂つてゐるやうな足どりだつた。

 臺所には皿や鉢が一杯竝べられて、人と料理でごつた返してゐたが、ふと片隅から頓狂な聲で宗彦は呼掛けられた。「まあ宗彦さん……」と、彼の家に長らく働いてゐる老婆はさう云つたまま暫く聲を吞んだ。そしてポロポロと淚を零した。淚は老婆が手にしてゐる皮を剝がれた赤蛙の肢に落ち、赤蛙はピリピリと肢を慄はせた。老婆はそれを串に刺して七輪に掛けた。火の上でも蛙はまだピクピク動いた。「なるほど、こいつはうまさうだね」と義兄が老婆に口をきいた。老婆はにつと笑つて、「それでも人數前、集めるのには苦心しましたよ」と呟いた。見ると老婆の後の箱には澤山の赤蛙がピヨンピヨン跳ね𢌞つてゐた。宗彦は何だか空恐しくなつて、そつと臺所を拔けて行つた。

 次の間の緣側では呉服屋がいろんな反物を竝べてゐて、四五人の女達が集まつて、てんでにその反物を見はからつて居た。どうやら喪服を註文してゐるらしいのだつた。「かう云ふ際だから私はついでに訪問着が欲しいわ」と妹が云つた。と、今度は姉が、「それなら私ほ今度生れて來る赤ん坊の産衣を證文しようかしら」と云つた。「さうよ、死んだ人より、生れて來る人の方がずつと大切だと思ふわ」と、眼鏡を懸けた女學生が口を挿んだ。氣がつくと、一番向ふの端に、死んだ筈の母がちやんと坐つてゐて、皆と同じやうに反物を繰展げてゐるのだつた。母はぼろぼろの普段着を纏つてゐて、眼がよく見えないものだから、何だか氣疎さうな容子で、手に展げてゐる反物にもあんまり興味を感じて居ないらしかつた。そして、娘達の話に加はるでもなしに、唯一人でぼんやりと存在して居た。しかし、母の凭掛つてゐる後の壁は雨漏りのために處々禿げて赤土を現はしてゐたが、その邊の光線はひどく朦朧としてゐた。暫くそれが氣になるので宗彦は立留まつて眺めてゐた。そのうちに母の一番近くにゐた妹が、ふいと母の方を振向くと、母の手にしてゐた呉服を何か云ひながら引手繰ると、母は默々と妹に手渡すのであつた。[やぶちゃん注:「氣疎さうな」「けうとさうな」。ここは前後から見て「気にそまない・納得がいかない」程度の謂いであろう。]

 その時、宗彦の背後から誰か子供らしい拳が來て、膜のあたりを頻りに撲り出した。宗彦はいい加減にあしらつてゐると、子供の方では圖に乘つて到頭、宗彦の身體に攀登つて來た。それで宗彦は後へ手を𢌞して押退けようとすると、子供はすかさず宗彦の耳のあたりを引搔いた。宗彦は無性に腹が立ち、全身を搖すつて、子供を振ひ落した。疊の上に倒れた子供は姉の子供だつた。甥の眼には興奮の淚が光つた。宗彦の方でも遠かに悲しくなり途方に暮れてしまつた。ところが小さな甥は猛然と跳ね起きて來た。甥は宗彦の頰に飛びついて、ガリガリと爪を立てた。甥の小さな指は血で染まつた。宗彦がぢつと怺へてゐればゐるほど、甥は益々猛り立つて來た。[やぶちゃん注:「怺へて」「こらへて」(堪(こら)へて)。]

 とうとう宗彦は湯殿へ逃げ込んで戸を立てた。が、其處には若い女中がひとり鏡に對つて、口紅を塗つてゐた。宗彦は傷けられた顏を冷水で洗つたが、何の感覺も感じられなかつた。鏡でちらと自分の顏を眺めると、顏は醜く曇つてゐて全體の輪畫がひどく歪んでゐた。宗彦の側にゐた女中は胡亂さうに彼を眺めてゐたが、彼が愚圖愚圖してゐるのに立腹したらしく、エヘンと咳拂ひをした。恰度そこへ彼を搜しに義兄がやつて來た。「あんまり搜させるものぢやないぞ、みんなもう揃つてるのにこんな所で何してたんだ」と、義兄は宗彦の片腕をぐいと摑んだ。もうひどく醉拂つてゐるらしく、義兄は大變力強くなつてゐた。そして、ぐんぐん彼を引張つて、廣間の方へ連れて行つた。[やぶちゃん注:「胡亂さうに」「うろんさうに」。「ウ」「ロン」ともに唐音。疑い怪しんでいる様子で。胡散(うさん)臭そうに。]

 廣間には大きな食卓が持出されてゐて、其處では澤山の人が飯を食つてゐた。大概の人が意氣昂然として、箸を持つてゐる手つきまで正々堂々としてゐた。あんまりいろんな顏があるので宗彦は呆氣にとらはれたが、不思議なことには、新聞の寫眞でよく見る偉い人の顏も二三ちらついてゐるのだつた。その偉い人達は鷹揚に威嚴を保ちながら酒を飮んでゐた。そして、人々が彼等を笑はせようとして何か云ふと、ぱくりと白い齒を剝いて笑ふのだつた。宗彦はそこに居る人達がみんな偉い人に思へて來た。と何時までも彼がぼんやりして居るのに業を煮やして、橫にゐた義兄が箸で彼の頰を彈いた。「食へ、何故食はうとしないのだ」と、義兄は宗彦の前の赤蛙の皿を指差した。見ると、皆はむしやむしやと、串燒にされた蛙を賞味してゐるのだつた。宗彦もそれに倣つて食ひ始めると、暫くしてまた義兄は彼を箸で小衝いた。「飮め、何故飮まうとしないのだ」宗彦の前の盃にはなみなみと液體が盛られてゐた。

 食事はだらだらと續けられて行つた。人々はぎつしりと食卓に席を占めてゐるので、宗彦には食堂車にゐるやうな氣がした。酒の醉が𢌞つたのか、身體が動搖して居るやうで、睡氣が顏中を襲つて來るのであつた。時々、隣にゐる義兄は宗彦を覺ますために箸で活を入れて呉れた。「とにかく電氣をつけるとしようぢやありませんか」と、誰かの發案の聲がした。すると、パツと部屋中が明るくなつた。もう夜になつたのかしら、と宗彦は感心した。しかし、食卓はまだなかなか賑やかであつた。宗彦は長い退屈な旅をしてゐるやうに、また睡氣がさして來た。

 その次に目が覺めた時は、大分客も減つてゐて、廣間はしーんと寂れてゐた。今夜はお通夜だな、と宗彦は思つた。眼がチラチラして、再び睡くなつた。澤山の星が一杯輝いてゐて、大變綺麗な夢をみた。それから再び眼が覺めると、廣間では大きな物凄い鼾が生じてゐた。義兄や妹が假睡してゐる姿が宗彦には大變大きく思へた。まるで彼等が山脈か何かのやうに思へた。さうして宗彦はどうも自分は何處かの山奧にゐるやうな疑ひが生じた。しかし、母はもう何處にも居ないのだ、と今更のやうに思ふと、突然、空間が破裂するやうな感覺に陷つた。そして、猛烈な嵐が耳を擘いて響いた。「居るぞ! 居るぞ!」と、鋭い唸り聲が上の方から捲起つた。見ると大きな黑い鳥が空中高く舞上つてゐて、次第に彼の頭上をめがけて近づいて來た。そして宗彦の左右にある山脈がするすると音もなく迫め寄せて來た。[やぶちゃん注:「擘いて」「つんざいて」。]

 

2018/01/04

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷁(げき)〔?〕


Geki

げき   【同】

【音逆】

 

本綱鷁似鸕鷀而色白人誤爲白鸕鷀是也雌雄相視雄

鳴上風雌鳴下風而孕口吐其子莊子所謂白相視眸

子不運而風化者也昔人以吐雛爲鸕鷀者非也善高

飛能風能水故舟首畫之

――――――――――――――――――――――

【一名鳥𪇰】 似而短項背上綠色腹背紫白色

△按舟畫龍頭鷁首者鷁是也五雜組云昔人謂其

吐而生子未必然也

 

 

げき   〔(げき)〕【同じ。】

【音、「逆〔(げき)〕」。】

 

「本綱」、鷁は鸕鷀〔(う)〕に似て、色、白し。人、誤りて「白鸕鷀〔(しろう)〕」と爲すは是れなり。雌雄、相ひ視て、雄は上風に鳴き、雌は下風に鳴きて孕む。口より、其の子を吐く。「莊子」に所謂、『白、相ひ視て、眸子〔(ばうし)〕運〔(めぐ)〕らさずして、風化す』といふ者なり。昔人、雛を吐く以つて鸕鷀〔(う)〕と爲(す)るは非なり。、善く高く飛び、風に能(た)へ、水に能(た)ふ。故に舟の首〔(かしら)〕に之れを畫〔(ゑが)〕く。

――――――――――――――――――――――

【一名、「鳥𪇰〔(てうほく)〕」。】 (げき)に似て、短き項〔(うなじ)〕、背の上、綠色。腹・背、紫白色。

△按ずるに、舟に龍頭鷁首を畫(ゑが)くは、鷁、是れなり。「五雜組」に云はく、『昔人、、其れ、吐して子を生むと謂ふこと、未だ必ずしも然らざるなり』〔と〕。

 

[やぶちゃん注:既注の通り、(=鷁)」は鷺(さぎ)に似た大形の水鳥で、船首にこの水鳥を象った飾りを付けることで知られるが、実は想像上の鳥である。因みに、「鶂鶂(げいげい)」ならば、鵞鳥(がちょう)の鳴き声を表わす(しかし、ガチョウは既に出たから使えない)。グーグル画像検索の「を見て戴くと判るが、実在する鳥の形象化とは思えない鳳凰めいた怪鳥である。大きな水鳥で白が基本となると、敢えて言うなら、白鷺で、その青ヴァージョンと言うなら青鷺がイメージはされるが、実はこの後に彼らは別項として「鷺」及び「蒼鷺」として出るから、彼らではないのである。そもそもが、良安の引用している「本草綱目」がこの「鷁(=)」を独立項とせずに、先にウに同定した「鸕鷀」の解説文の中に登場させているところからしてからが胡散臭いのである。挿絵のちょっと頰を赤らめたような可憐な(感じに私には見える)鳥だから、何とか、現生種に比定してあげたいのだけれど無理らしい。中文サイトでも一向に比定した種を挙げていないのである。お手上げだ……風波をよく越えて水を怖れず(「、善く高く飛び、風に能(た)へ、水に能(た)ふ」)、そうさ! 時空も越えて飛んでゆけ!! クロノス・バード! 何時か、幻想鳥類として学名はつけてあげるからね!

 

「鸕鷀〔(う)〕」前項の鳥綱 Avesカツオドリ目 Suliformes ウ科 Phalacrocoracidae ウ属カワウ Phalacrocorax carbo・ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus など。

「白鸕鷀〔(しろう)〕」不詳。言っとくが、鶴とか白鳥も出ちゃったしね、鷗とかも後で項立てされてるから、駄目だよ~ん。

「上風」草木の上を吹き渡る風。或いは風上。

「下風」草木の下、地面近くを吹き渡る風。或いは風下。雌雄で天然自然の上下双方向に闡明する能力を示すものであろうから、どちらかを採る必要を私は全く感じない。

「鳴きて孕む」実はこれと全く同じことが「鶴」に書かれてあった。かの白い大鳥である鶴との、本草書のこういうダブりも、如何にも胡散臭いんだ。書いてる本人が、種同定も何も、実在するのを見たことがないから、こんな変なこと(子どもを吐くとかね)を言ってケムに捲いたつもりでいるんだろうけど(大元の「荘子」は例外(後注参照)。幻獣の確信犯だもの)、そうは問屋は卸さないんだ!

「莊子」「白、相ひ視て、眸子〔(ばうし)〕運〔(めぐ)〕らさずして、風化す」「荘子」の「天運」の一節。孔子が、人にものを説くことの難しさを歎じたのに対して、老子が応じたものの一節。

   *

老子曰、「幸矣子之不遇治世之君也。夫六經、先王之陳迹也。豈其所以迹哉。今子之所言、猶迹也。夫迹、履之所出、而迹豈履哉。夫白之相視、眸子不運而風化、蟲、雄鳴於上風、雌應於下風而風化。類自爲雌雄。故風化。性不可易、命不可變、時不可止、道不可壅。苟得於道、无自而不可、失焉者、无自而可。」

(老子曰く、「幸ひなるかな、子の治世の君(くん)に遇はざるや。夫れ、六經(りくけい)は先王の陳迹(ちんせき)なり。豈に其の迹づくる所以(ゆゑん)ならんや。今、子の言ふ所も、猶ほ迹(あしあと)のごときものなり。夫(か)の迹(あしあと)は、履の出だす所なるも、迹(あしあと)は豈に履ならんや。夫れ、白(はくげき)の相ひ視るや、眸子(ばうし)、運(めぐ)らさずして風化し、蟲は、雄、上風に鳴き、雌、下風に應へて風化す。類は自(おのづか)ら雌雄を爲す。故に風化するなり。性は易(か)ふべからず、命(めい)は變(か)ふべからず、時は止(とど)むべからず、道は壅(ふさ)ぐべからず。苟(いやしく)も道を得れば、自(よ)るとして可(か)ならしまざるは无(な)く、焉(こ)れを失はば、自(よ)るとして可(か)なるは无(な)し。」)

   *

「青【一名、「鳥𪇰〔(てうほく)〕」。】」不詳。中文サイトではこの「鳥𪇰を「烏𪇰」(前は「鳥」ではなく「烏」である。実は私は鳥類の複合語で「鳥」を頭に被せるのは不審であって当初、見た時、これは「烏」ではないかと疑ったことを申し添えておく。実際、中文サイトでは「烏𪇰」とあるものを何箇所も見出した。しかし、その後、「版本化された「和漢三才圖會」を確認したところ、「鳥」とはなっていて、少しがっくりきた)、或いは「鵅」・「」・「𪈫」・「𪈚」などと同義とするものを見い出す。ある辞書では「烏𩁠(うぼく)」は、「鷺に似た鳥で首が短く、背が緑で腹や翼が紫白色の鳥と」するが、種同定は出来なかった。しかしこの記載は正直、良安のものと同じだ。どこから引いてきたのか? 何だか、ますます怪しいのだ。同定不能の「」の頸を短くして背の上を緑色にして、腹や背を紫白色するとは、幻鳥フリークの浅墓な色彩補正のようにも思えてくるではないか?!

「龍頭鷁首」読みは「りょうとうげきしゅ・りゅうとうげきしゅ・りょうとうげきす」(現代仮名遣)。船首にそれぞれ竜の頭と鷁の首とを彫刻した二隻一対の船で、中国由来であるが、本邦でも平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに好んで用いた。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになった、という数奇な経緯を持つ。

「昔人、、其れ、吐して子を生むと謂ふこと、未だ必ずしも然らざるなり」「五雜組」の「物部一」に載る(中文サイトのものを一部、字を推定して入れて翻刻した)。

   *

似雁而善高飛。昔人謂其吐而生子、未必然也。又鸕鶿亦胎生、從口吐出。此屢見諸書者、而未親見之。

   *]

 

芥川龍之介 手帳7 (6) 白雲觀~了

 

○明き地 雲溪方丈印德碑記 華俄銀行總領事卜粥を施す(北淸事件の時) 葡萄架 架李 柳芽ふく

[やぶちゃん注:「雲溪方丈印德碑記」不詳。但し、「雲溪方丈」というのは清朝の道士で白雲観の方丈(住職相当)であった高仁峒(一八四一年~一九〇七年)のことと思われる。中文の資料(PDF)を参照されたい。

「華俄銀行」これは露清銀行(ろしんぎんこう ロシア語: Русско-Китайский банкの中国語名。ロシア帝国の清王朝に於ける権益を代表するために設立されたフランスの銀行で、一八九五年十二月にパリでロシア大使館により設立されたとウィキの「露清銀行にある。

「卜粥」不詳。或いはこれ、中国にあるのかどうか知らぬが、「ぼくしよく(ぼくしょく)」と読んで、「粥卜(かゆうら)」ではなかろうか? 本邦では現在も各地の神事として行われている、粥を用いて一年の吉凶を占う「かゆうら・かいうら・よねうら」ではないか? 本邦のそれは多くは小正月に行われ、竹筒などを入れて粥を炊き、その筒の中にどれだけどのように粥が入っているかを見て、その年の天候や作物の出来を占うものである。それを「北淸事件」、則ち、清朝末期の一九〇〇年に起こった「義和団の乱」の際、この白雲観でロシアかフランスの「華俄銀行總領事」が動乱の勝敗をそれで占ったというのではなかろうか? う~ん、ちと、無理があるかなぁ……。]

 

○その内へ入れば 恬淡守一眞人羅公之塔(刺封)(楡 錢葵の花) 三重の石塔 塔前に羅眞人道行碑 康熈年間(碑は光緒十二年)

[やぶちゃん注:「恬淡守一眞人羅公之塔」白雲観の中にある清代の羅真人(?~一七二七年)という道士の墓らしい。中文サイトでその塔が見られる。確かに三層塔だ。「羅眞人道行碑」というのもリンク先に電子化されてある。

「雍正帝敕封」清の第五皇帝雍正帝(在位:一七二二年~一七三五年:同没)が勅命でこの墓を封印し「恬淡守一眞人」という諡号を下賜したということらしい。

「錢葵」アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科ゼニアオイ属 Malvaグーグル画像検索「Malvaをリンクさせておく。

「康熈年間」普通は「康熙」。清の元号で一六六二年から一七二二年。

「光緒十二年」一八八六年。先のリンク先の電子化碑文でも確認出来る。]

 

○南極殿 眞武殿 ○岳雲聳秀の石蔦掩ふ

[やぶちゃん注:これも白雲観内。「南極殿」「眞武殿」はその東路にある。

「岳雲聳秀」不詳。]

 

○友鶴亭 石 庭をめぐる戲臺 鉢の棕櫚 龍舌蘭 枇杷etc. 戲臺には□中和(黑へ金) 對する殿には綠へ黑く雲集山房 碑二三 庭は瓦じき

[やぶちゃん注:「□」は判読不能字。

「友鶴亭」中文サイトを読むと、白雲観の後背にある花園の東にあるらしい。如何にも道教らしい名前だ。

「雲集山房」同じく、その花園の中央にあるとあり、ここは所謂、道教の戒壇であるようだ。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(28) 禮拜と淨めの式(Ⅵ)

 

 他の國に於ける祖先崇拜の高級な諸〻の形式の歷史は、吾々をして、神道祭祀の公の儀式の內には、淨めの式が多少必らず入つて居るに相違ないと想像させる。事實神道の儀式の內の最も重要なるものは淨めの式である。この淨めの式を稱して御祓ひといふが、その意は惡を投げ出し、若しくは逐ひ拂ふ事である……。古代のアゼンスに於ては、これと同じ式が每年行はれた。ロオマでは四年每に行はれた。御祓ひは每年二囘――舊曆の六月と十二月とに行はれた。それはロオマの淨めの式と同樣義務的のものであり、其義務の背後にあつてその基礎となつて居た思想は、この事に關してのロオマ方を動かしたその思想と同樣なものであつた……。則ち生者の安寧が死者の意志に依ると、人々が信じて居た限り――世界に起る一切の事は、善惡各種の性質ある靈に依つて定められ――惡事は一々目に見えざる破壞の力に、更に別の權力を加へ與へるものであり、從つて公共の繁榮を危くするものである事を人々が信じて居た限り、公の淨めの必要は、世間共通の信仰箇條として行はれるのてある。只だ一人たりとも、或る社會に於て神々の意に悖つた人があれば、それが意識してであると、意ならずした事であるとを問はず、それは公共の不幸、公共の危險となる。併しすべての人々が、或は思想に依り、或は言葉に依り、或は行爲に依つて、決して神々の心を煩はした事はなかつたといふほど立派に日を送つて居るといふ事は不可能な事である――或は激越した感情に依り、或は無智に依り、或は不注意に依り、さういふ事が起る。平田は言つて居る『各人は如何に深く注意して居ても、必らず偶然知らずしてする罪を犯すものである………惡行惡言には二種ある、意識してするのと、意識せずしてするのとの二種が……。吾々には恁ういふ意識して居ないで犯した罪があると假定して置く方が却つて良いと思ふ』と。さて舊日本の人に取つて――古のギリシヤ、ロオマの市民に取つてと同樣に――宗敎なるものは、主として無數の慣習を正確に守るといふにあり、またそれ故に幾種かの祭祀の務を爲す間に、人は思ひがけなくも、目に見えざる神の意に逆らふ事を果たしてしなかつたか、それを知る事は甚だ難しいといふ事を、吾々は記憶して置かなくてはならない。從つて人々の宗敎上の純潔を保持し且つそれを確實にする方法として、時を期しての淨めの式は、必要缺くべからざる事と考へられて居たのである。

[やぶちゃん注:「アゼンズ」Athens。アテネ。この英語はフランス語「Athènesが由来らしい。

 恒文社版の平井呈一氏の訳では、ここに平田篤胤の引用元の「玉襷」の「六之卷」の原文が示されてある(平井氏のよる中略有り)。以下に恣意的に漢字を正字化して示す(仮名遣いはママ)。

   *

然(サ)るは何(イカ)に其行(オコナ)ひを慎(ツツシ)む人なりとも。自(ミヅ)から知て犯(オカ)す事こそ無(ナカ)るめれ。心に得知(エシ)らで過犯す事は。必有りとは心得べし。(中略)善(ヨカ)らぬ事と知つゝ行ふを惡といひ。知らずして善らぬ事あるを過(アヤマチ)と云ふ。然れば惡と云までの事はなくとも。誰(タレ)しの人も。過なしとは云がたし。(中略)其は己も隨分に過犯し無らむと力めて。木にも草にも心おけども。心ならずも知りて犯す罪さへ有れば。況(マシ)て得知らぬ過犯しの罪は多からむと。常に安からず思う事にしあればなり。心あらむ人よく思うべし。

   *]

 

 極古い時代から神道は嚴密に淸潔といふ事を要望した――實に、身體の不潔を以て道德上の不潔と同じ名のとなし、神々に對して許すべからざるものと考へて居たと云つて差支ない位であつた。神道は常に洗淨の宗敎であつたし、今日でも同樣である。日本人の淸潔を愛することは――日々に入浴すること、家庭の點のうち處のない狀態等に依つても解るのであるが――その宗敎に依つて維持され、恐らくそれから敎へられたものであらう。一點の汚れもとどめない淸潔といふ事が、祖先崇拜の祭典に求められて居て、――神社に於ても、祭司の一身に於ても、また家庭に於ても――純潔に關するこの規定は、自然だんだんと生存のあらゆる狀態に押し擴められて行つた。そして一定の時期に於ける淨めの式の外に、幾多の不淨拂ひの式が祭祀に要求された。記憶すべき事には、斯ういふ事が、古いギリシヤ、ロオマの文明の內にもあつて、その市民はその生活の殆どあらゆる重大な時期には、淨めの式に從はせられたのてある。則ち誕生、結婚、死亡等に際しては、淨めが必要缺くべからざるものとされて居た。戰爭に出る前にも同樣てあつた。一定の時を期して住居、土地、地方、その都會の淨めもあつた。そして日本に於けると同樣、豫め手を洗はずして宮に近づく事は決して許されなかつた。併し昔の神道はギリシヤ、ロオマの祭祀以上にそれを要望した、神道は則ち誕生のために特別な家――分娩の家、結婚完了(床入)のための特別な家――婚儀の家、竝びに死者のための特別な家――喪屋等の建立を要求した。以前婦人はその月經期間、竝びに產褥期間、別居する事を求められて居たのである。この種の古い嚴しい慣習は、一二の遠隔の地に於けると、神官の家族に於けるとの場合以外、今は殆どなくなつてしまつた、併し淨めの式竝びに聖處に近づくのを禁ずる時日及び事情等に關しては、今日なほ到る所でそれが守られて居る。身體上の純潔は、心の純潔と等しく强要され、每六箇月目に行はれる淨めの大きな式は、勿論道德上の淨めとなるのである。それはただに大きな神社に於て、竝びに氏神に於て行はれるのみならず、またすベての家庭に於ても行はれるのてある。

[やぶちゃん注:以下、原註は底本では四字下げポイント落ちである。]

註 神棚には大抵長方形の紙の箱が置かれてあるが、その內には國の大祓の式の時、伊勢の神官が用ひた棒の斷片が入つて居る。この箱は通例式の名則ち御祓といふ名を以て呼ばれて居り、伊勢の大神宮の名が記されてある。この品のあるといふ事は、家を保護するのだと考へられて居る、併しそれは六箇月の盡きた際には、新しい御祓に代へられる、何となればその祓の力は兩度の淨めの式の間だけつゞいて居るものと考へられて居るからである。伊勢の淨めの式の際に『惡魔を佛ふ』ために用ひられた幾本かの棒の斷片を、幾千といふ家庭に分配する事は、勿論高い神官の保護を、次の御祓の時までそれ等の諸家庭に擴めるといふ意味である。 

筑紫探題の始め 付鎌倉大地震 竝 賴綱入道果圓叛逆

 

      ○筑紫探題の始め 大地震 賴綱入道果圓叛逆

永仁元年三月、北條相摸守貞時が計(はから)ひとして、北條越後守兼時、去(い)ぬる正應六年正月に六波羅の南の方を辭して、鎌倉に下向せられしを、筑紫へ遣して、鎭西(ちんぜい)の探題とし、西國の成敗(せいばい)を掌(つかさど)り、異賊襲來の押(おさへ)とす。兼時が代(かはり)として、北條前〔の〕陸奥守重時の曾孫武藏守久時を六波羅の北の方として上(のぼ)せらる。又、一族の内、一人を長門(ながと)の探題とし、中國の事を司(つかさど)らしむ。同四月五日、鎌倉、大地震あり。日比(ひごろ)、空曇りて、月日の光りなく、墨色の如くなる雲覆ひ、垂(たれ)かゝるやうに見えて、殊更、恠(あやし)きは、榎島(えのしま)の地形(ちぎやう)、時々振ひて、沖の鳴る事、夥し。如何樣(いかさま)、只事にてはあるべからず、又、兵亂の先兆(ぜんてう)か、饑饉(ききん)疫癘(えきれい)の端相(ずゐさう)かと、皆人、不思議に思ひける所に、午刻(うまのこく)計(ばかり)、俄(にはか)に、大地震、震動して、海は湧き揚りて陸(くが)を浸(ひた)し、山は崩れて谷を埋み、寺門(じもん)、宮社(きうしや)を初(はじめ)て、殿中御館(みたち)、民の家々、顚倒して崩るゝ者、天は鳴り靂(はため)き、地は淘(ゆ)り動き、啼喚(なきさけ)ぶ人の聲、物の色目も見えわかず。壁、倒れ、棟、落ちて、或は微塵に打碎(うちくだ)かれ、或は眞平(まひら)に押付(おしつ)けられ、男女を云はず、凡(およそ)死する者、一萬人に及べり。親は子を先立(だ)て、妻は夫に後(おく)れて、歎悲(なげきかなし)む聲、洋々として、聞くに哀(あはれ)を催しける。未だ淘靜(ゆりしづま)るべからずとて、貴賤上下、終夜(よもすがら)用心しけれども、續(つゞい)て振ふ事もなければ、死骸を野邊に送り、寺に遣(つかは)し、葬禮を營む所もあり、崩れたる家々、引起(ひきおこ)し、作直(つくりなほ)す所もあり。鎌倉中の有樣、流石に亂後の如くなり。この比、相州貞時の管領平左衞門尉賴綱入道果圓(くわゑん)は、先年、秋田〔の〕城〔の〕介泰盛父子を訴(うつた)へける折節は、萬(よろづ)に付きて深く愼憚(つゝしみはばか)りけるを、權威、殊更に耀(かゝやき)出でて、 世の崇敬(そうきやう)する所、人の畏隨(おそれしたが)ふ事、將軍家の重寄(おもよせ)にも過ぎたるが如くなりければ、次男飯沼(いひぬま)判官、その威(ゐ)、父に劣らず、勢(いきほひ)、盛なり。時の人、「飯沼殿」と號して、門外を通る人、下馬せぬはなかりけり。判官、既に安房守に任じ、大に侈(おごり)を極め、主君貞時を侮りて、蔑(ないがしろ)にするのみならず、賴綱入道に如何なる天魔の入替りけん、又は奢(おごり)を惡(にく)みて天道神明(てんだうしんめい)、既に家運の籍(ふだ)をや削り給ひけん、あらぬ心の付きて、將軍の家を傾け、執權の門を滅(ほろぼ)し、安房守を將軍に任じ、威光を四海に輝かさばやと謀りけるを、嫡子宗綱、大に恐驚(おそれおど)きて、「是は然るべくもなき思召立にて候。今この世の中に斯樣の御企(おんくはだて)候とも、誰(たれ)か一人も味方になりて、力を助(たすく)る事の候べき。只徒(いたづら)に家門を失ひ、滅亡するより外の事、あるべからず。平(ひら)に思留(おもひとゞま)り給へ」と諫めければ、賴網入道、大に怒(いかつ)て、安房守に心を合せ、先(まづ)宗綱を打つべき支度(したく)に見えければ、宗綱、竊(ひそか)に相摸守貞時に告知(つげしら)せたり。貞時、驚き給ひ、一族を集めて内議一決し、俄に軍兵を催し、殿中に隱置(かくしお)き、賴綱父子を召されしかば、何心もなく参りけるを、軈(やが)て生捕(いけど)り、誅戮(ちうりく)せられ、その家をば闕所(けつしよ)となし、妻子は皆、追放致されけり。その有樣、偏(ひとへ)に泰盛が滅亡せしに違(たが)はざりければ、「あはれ、因果歷然の報(むくい)かな」と、いはぬ人は、なかりけり。「嫡子宗綱、この叛逆の事を主君貞時に告げたるは、忠節に似たれども、正しき父を訴へて誅せさせ、『我が世にあらん』と謀りけるは、目前に不孝の罪ありて遁(のが)るべからず」とて、佐渡國へ流されしが、程なく召返され、二度(ふたゝび)管領となりけるを、また罪有りて、上總國に流刑せらる。賴綱入道、大に侈(おごり)て、非道の企(くはだて)、天罸を蒙り、身を失ひ、家を亡(ほろぼ)しければ、世の人、惡(にく)まぬは、なかりけり。

 

[やぶちゃん注:題名の「叛逆」は「ほんぎやく」とルビする。

 

「永仁元年」一二九三年。

「北條越後守兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条宗頼(第八代執権北条時宗の異母弟)の子。弘安三(一二八〇)年、長門探題であった父の死に伴い、長門国守護となり、翌年には異国警固番役を任ぜられて播磨国に赴いている。「弘安の役」から三年後の弘安七(一二八四)年には摂津国守護と六波羅探題南方に任ぜられていた。ここにある通り、正応六年一月に探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来によって、再び、蒙古襲来の危機が高まったことから、僅か二ヶ月後の同年三月には、執権北条貞時は軍勢とともに九州に下向させている。ここで筆者ははっきりと「鎭西の探題」と記しているのであるが、当時の資料ではこの探題名称は確認されてはいない。但し、兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もあることはある。また、兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉で本篇後半の「平禅門の乱」が起って、五月三日には事件を報ずるための早馬が博多に到着して、九州の御家人達が博多に群聚し、兼時はその対応に追われた。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は「異国用心」のために、筑前国と肥前国で九州の御家人らと「狼煙(とぶひ)」(烽火。中国のそれが古代から知られるが、本邦でも歴史は古く、天智三 (六六四) 年、新羅の入寇に備えて対馬・壱岐・筑紫に置いたのを初めとする。律令制では四十里間隔に設備を設け、烽長・烽子の職掌を置く規定となっているが、延暦一八(七九九)年を以って大宰府管内以外のものは廃止されていた)の訓練を行っている。他にも軍勢の注進や兵船の調達などを行って、異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、翌永仁三年四月、兼時は鎮西探題職を辞して、再び鎌倉に帰還している(翌年には北条実政(金沢流北条氏の始祖北条実時の子)が鎮西探題に派遣された)。帰鎌後、兼時は評定衆の一人に列せられ、幕政に参与したが、帰還から五ヶ月後に死去した。享年三十二歳の若さであった(以上はウィキの「北条兼時」に拠った)。元寇襲来前後、幕府の要人の何人かは、意外な若さで亡くなっている(第八代北条時宗も三十四で没)。職掌や人格にもよるが、精神的にも肉体的にもかなりの過剰労働であったことが窺われる

「正應六年」一二九三年。この年、後の八月五日に「永仁」に改元している。

「武藏守久時」北条(赤橋)久時(文永九(一二七二)年~徳治二(一三〇七)年:六波羅探題北方・連署を務めた北条重時(北條義時三男)の嫡男である長時の嫡男義宗の嫡子)弘安三(一二八〇)年に執権北条時宗の命を受け、河内・信濃・日向・紀伊・摂津の五ヶ国を兼ねる守護となり、ここにある通り、永仁元(一二九三)年三月に六波羅探題北方に任ぜられた。四年後の永仁五年六月、探題職を辞して鎌倉に帰還し、翌年四月には評定衆の一人に列せられた。その後も引付頭・寄合衆・官途奉行などに任ぜられ、幕政の中枢に参与したが、やはり三十六の若さで死去している。なお、後に鎌倉幕府を滅ぼすこととなる足利尊氏は彼の娘婿であり、室町幕府二代将軍足利義詮及び初代鎌倉公方足利基氏は彼の孫に当たる。

「長門(ながと)の探題」ウィキの「長門探題」より引く。一般には建治二(一二七六)年に鎌倉幕府が元寇に対処するために長門国に設置した最前線防衛機関の呼称として知られるが、実はあまりよく判っていない。『長門守護の権能を受け継ぎ』、『拡大したものと考えられるが、詳細は不明』。ただ、本文に出る通り、『初代に相当するとされる北条宗頼以後、北条氏一門が任命された。史料上では、北条時直』(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)『に対してのみ「長門周防探題」の称が確認されている』。文永一一(一二七四)年十月に『元軍が九州北部方面に侵入したこと(文永の役)を契機として、鎌倉幕府は』建治二(一二七六)年に『最前線防衛の強化を企図して執権北条時宗の弟である北条宗頼を長門守護に任命し』、『長門へ派遣した。これが長門探題の始まりと考えられている。蒙古襲来という非常事態に対処するため、宗頼には他の守護よりも強大な権能を与えられていたとされるが』、『その権能の詳細は明らかでない』。『長門には長門警固番役が設置され』弘安四(一二八一)年の『元寇(弘安の役)に際し、元軍が襲来したとの伝承が残るが、確認できる時期は比較的新しい』ものであり、『長門への襲来は、史料の不足などにより詳細は不明』である。『長門守護職は周防守護職も兼ねることが多く、長門周防探題の呼称はそのためであろう。また後世には、長門探題の権能が拡大されて山陽道・山陰道全域の検断を管轄していた時期もあったため、中国探題と呼称されることもある』。元弘三年、『全国的に鎌倉幕府への反旗が上がり、九州では幕府の重要機関である鎮西探題が激しい攻撃を受けた。そのため、当時の長門探題北条時直は鎮西探題の救援に向かったが、たどり着く前に鎮西探題は滅亡してしまい、時直は豊前国柳ヶ浦で降伏することとなり、鎌倉幕府における長門探題の歴史もここに幕を閉じた。 その後の室町幕府では、将軍足利尊氏の庶子である足利直冬が一時、長門探題に任命され』ている。史料上では『「長門探題」は北条時直が知られるのみであるが、北条宗頼以後の北条一門がつとめる長門守護は、他の守護よりも強い権能を持っていたことが散見され、後世における「長門探題」の名称はそれによると考えられている。ただし、その実体はつまびらかではない』。『北条宗頼が長門守護職に補任されて、長門探題が実質的に創始される以前は、二階堂氏が長門守護職にあった。しかし二階堂氏は鎌倉に常駐していたため、現地代理人として三井氏が長門守護代を務めていた。三井氏の屋敷跡と考えられているのが、下関市安岡富任にある「三太屋敷跡」遺跡』としてある。『通常、鎌倉期の守護は鎌倉に在住したままで、現地へ赴任する例は多くなかったが、長門守護に任命された北条宗頼は、対元防衛の最前線司令官として実際に長門へ赴任する必要があった。現在、北条宗頼が駐在した守護所として、もっとも有力視されるのは、長門国衙が存在していた長府(現下関市長府)である』。『また、後に三井氏は豊浦郡室津(現・下関市豊浦町室津)へ転居していることから、地元安岡地域では三井氏は富任の屋敷を北条宗頼の居所、すなわち長門探題の拠点として北条宗頼へ譲ったとする説』『もある』とある。

「同四月五日、鎌倉、大地震あり」正応六年四月十三日(ユリウス暦一二九三年五月二十日)の誤りウィキの「鎌倉大地震」の日付は十二日であるが、これは「鎌倉大日記」(足利氏を中心とした作者不詳の年代記で南北朝末期頃に成立)に拠るもので、他の諸記録(以下参照)から見ると、十三日が正しいようである。増淵勝一氏も十三日と割注する。同ウィキのよれば(一部の記号を変えた)、『関東地方で地震が発生。建長寺を代表として多数の神社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。「鎌倉大日記」』(足利氏を中心とした作者不詳の年代記で南北朝末期頃に成立)『では、翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生』し、二万三千三十四人もの死者があった『とされている』(原本は鎌倉末期から南北朝初期にかけて書かれ、戦国初期に増補されたと推定される年表形式の「武家年代記裏書」に拠る)。『また、この震災による混乱を利用し、鎌倉幕府執権・北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱(杲円)邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後』の六月から八月にかけて全国を襲った『干魃等を重視し、同年』八月五日(ユリウス暦九月六日)に『永仁への改元を行っている』。二〇〇八年に『東京大学地震研究所では、三浦半島小網代湾の堆積物に着目、分析を進めた結果、鎌倉大地震により発生した大津波の痕跡を見いだして』おり、二〇一四年には日本政府の地震調査委員会がマグニチュード八クラスの『相模トラフ地震としている』が、二〇一五年四月には同委員会は『評価を変更し、相模トラフと分岐断層である国府津(こうづ)-松田断層帯が連動して地震が起こったとした』。『鎌倉建長寺は倒壊後に炎上、由比ヶ浜の鳥居付近では』百四十人もの『死体が転がり、幾千もの死者が出たと「親玄僧正日記」』(鎌倉後期の真言宗醍醐寺の僧(公卿久我通忠の子)の記録)『に記される。「武家年代記裏書」には大慈寺』(廃寺。十二所にあった大伽藍の寺)『が倒壊したことが記される』。歴史学者峰岸純夫氏は「中世 災害・戦乱の社会史」で、『直下型地震で極浅、震源地は相模陸地の丹沢付近かと記しており』、推定マグニチュードは七・一としている、ともある。

「榎島(えのしま)」江ノ島。個人ブログ「kurunakare.com」の「永仁元年から三年にかけての関東(鎌倉)大地震について」には(ここでも本震は十三日説を採っている)、この半年後の十月二十一日のこととして「親玄僧正日記」に『天陰(くもる)、辰のはじめ降雨、午のはじめ雷鳴、卯刻、江ノ島鳴動、二箇度。また辰のはじめ鳴動』とあるとするのを混同したか。或いは別な記録で四月十二日にも江ノ島の異変が書かれてあるのかも知れない。江ノ島は大型地震ではしばしば激しい変動を起しており、先のウィキの記載にあるような大津波(本文の後に出る「海は湧き揚りて陸(くが)を浸(ひた)し」はまさしくそれを想起させる)などが発生しているのだとすれば、それも納得は出来る。

「端相(ずゐさう)」この語には「吉兆」以外に、単に「前ぶれ・前兆・きざし」の意がある。

「午刻(うまのこく)計(ばかり)」正午頃。

「淘(ゆ)り動き」「淘」は本来は「盥や桶などに水を入れて掻き廻して米などを研ぐ・水洗いして掬うようにして選り分ける・ 水中を浚って物を掬い出す」の意であるが、ここは振動・風波によって「揺れ動く」の意。

「凡(およそ)死する者、一萬人に及べり」先の引用によれば、その倍以上である。

「洋々として」巷間に満ち溢れて。

「この比」所謂、「平禅門の(へいぜんもん)乱」(後注参照)は正応六年四月二十二日(一二九三年五月二十九日)に発生しているから、大地震の九日後である。先の「永仁元年から三年にかけての関東(鎌倉)大地震について」を見ると、十三日以降も頻繁に余震が続いているから、まさに地震に乗じた兵乱であることが判る

「管領」「かんれい」。内管領(ないかんれい/うちのかんれい)が正しく、御内頭人(みうちとうにん)とも称し、執権北条氏宗家である得宗家の執事である得宗被官の御内人の筆頭を指す。「得宗の家政を司る長」の意味であって、室町以降の役職とは異なるので注意が必要。「内管領」の呼称はこの平頼綱が初めとされる。

「平左衞門尉賴綱入道果圓(くわゑん)」北条得宗家御内頭人(内管領)平頼綱(仁治二(一二四一)年)頃~正応六年四月二十二日(一二九三年五月二十九日))。法名「果圓」(は「杲圓(こうえん)」とも(後者が正しいような感じはする)。「卷第十一 城介泰盛誅戮」で既注であるが、新たにウィキの「平頼綱」の記載から引く。『頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。頼綱は代々として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた』。弘長元(一二六一)年『頃に父盛時から侍所所司を継承し』、未だ三十歳ほどの文永九(一二七二)年『以前には得宗家の執事となっている』。年齢的には安達『泰盛と時宗の中間の世代に相当し』、建長八(一二五六)年:同年中に康元に改元)『まで執権であった北条時頼の偏諱(「頼」の字)を受けて元服したものと判断される。「吾妻鏡」には建長八年一月四日の条の『「平新左衛門三郎」を初見として』四『回登場』している。文永八(一二七一)年九月、『元寇に際して御家人に鎮西下向の命が下される中、頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていた日蓮の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状では、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。日蓮は斬首に処される所を直前で回避されているが、これは時宗の妻(堀内殿)の懐妊と、その養父である安達泰盛の進言があった事によるものとの見方もある。建治元年頃には父盛時が没しており、その跡を受けて』建治三(一二七七)年には『時宗が幕府の重要事項を決める寄合衆の一員となっている』。弘安二(一二七九)年の日蓮の『書状には「平らも城らもいかりて、此一門をさんざんとなす」とあり、本来』、『身分的には御家人より一段下である御内人の頼綱の勢力が、有力御家人であった安達泰盛らの勢力と拮抗していた事を示している。蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出すると同時に、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していく中で、得宗権力を行使する御内人の勢力は増し、その筆頭である頼綱と、得宗外戚で伝統的な外様御家人を代表する泰盛との対立が深まっていた』。弘安七(一二八四)年『正月には内管領就任が確認され、父から受け継いだ侍所所司・寄合衆・内管領を兼ねる得宗被官最上位として長崎氏一門が得宗家公文所・幕府諸機関に進出している』。同年四月、『両者を調停していた執権時宗が死去する』と、『得宗の死と同時に北条一族内で不穏な動きが生じ、六波羅探題北方の北条時村は鎌倉へ赴こうとして三河国で追い返され、探題南方の北条時国は悪行を理由に鎌倉へ召還され、頼綱によって誅殺された。時国の叔父の時光は謀反が露見したとして種々拷問を加えられて佐渡国へ流された』七月に十四歳の『貞時が執権に就任する。貞時の外祖父である泰盛は将軍権力の強化、得宗・御内人の権力を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父で内管領である頼綱との対立は更に激化する。弘安八(一二八五)年十一月、『ついに鎌倉市街で武力衝突に至り、執権貞時を奉じる頼綱の先制攻撃によって泰盛と安達一族は滅ぼされ、泰盛与党であった御家人層は一掃された。 これを霜月騒動という』。『この後』、『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』弘安一〇(一二八七)年に第七『代将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け』、『京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』。『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後にはそれまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷』(きょうじがやつ:現在の長勝寺のある名越の手前)『の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。 頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」によれば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。後、『室町時代に禅僧の義堂周信が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十年『以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』と記す。なお、ウィキの「平禅門の乱によれば、自身の暗殺への『予兆があったのか、頼綱はかつて泰盛調伏の祈祷を依頼した山門の護持僧に、「世上怖畏」として自身の身の安全を祈らせている』とある。

「秋田〔の〕城〔の〕介泰盛」安達泰盛。「卷第十一 城介泰盛誅戮」参照。

「訴(うつた)へける」頼綱は泰盛の子宗景が源姓を称した事を以って、将軍になる野心ありと執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得ている。

「崇敬(そうきやう)」読みはママ。普通は「すうけい」。崇(あが)め敬うこと。

「將軍家の重寄(おもよせ)にも過ぎたる」将軍久明親王に対する信任を超えるほど。

「次男飯沼(いひぬま)判官」飯沼資宗(文永四(一二六七)年~正応六(一二九三)年四月二十二日)。ウィキの「飯沼資宗によれば、彼は本文にある通り、「安房守」に任命されているが、御内人で国司となったケースは稀であるとある。弘安二(一二七九)年九月、『得宗領である駿河国富士郡内で「刈田狼藉」を行ったとして日蓮門徒の百姓が捕縛され』、『頼綱の命で鎌倉の侍所へ連行された、いわゆる「熱原法難」の際、当時』十三『歳(数え年)の資宗が門徒に改宗を迫って鏑矢を射たと』される。正応二(一二八九)年九月、『得宗政権による将軍すげ替えのため、将軍惟康親王が京都へ送還され』たが、『資宗は御内人としては異例の検非違使に任ぜられ』ており、十月の『新将軍久明親王を迎える』際にも彼が上洛している。『その際、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」と、流罪として送還された前将軍惟康親王の通った跡は通れぬと詠い、箱根を通らず足柄山を越えたという。入洛後は検非違使任官の挨拶回りのため、束帯姿で』四、五『百騎の武士を従えて上皇御所や摂関家、検非違使別当邸を訪れ、そのありさまを多くの貴族達が大路の傍で見物した。資宗はさらに五位の位を得て、大夫判官となり、御内人としてかつてない栄誉を極めた。直属の上司である検非違使別当は、ある法会の上卿(責任者)を急遽辞して、資宗の訪問を待ち受けている』。『この年の』三『月から鎌倉に滞在していた』「とはずがたり」の作者である後深草院二条を資宗は『邸にたびたび招いて和歌会を催している。二条は資宗を「思ったよりも情ある人」と評し、その交流の深さから周囲に仲を疑われたと思わせぶりに描いている』。正応四(一二九一)年には『鎮西の訴訟と引付衆による神社・仏寺の裁判迅速化のための監察とな』り、翌年五月には『再び上洛し、検非違使として葵祭の行列に加わった。金銀で飾り立てた資宗一行の出で立ちは、見物した正親町三条実躬』(おおぎまちさんじょうさねみ)がその日記「実躬卿記」に於いて『「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評するほどであった』という。しかし、この翌年、『鎌倉大地震での混乱の最中、鎌倉の経師ヶ谷にある頼綱邸で、頼綱の権勢を危険視した貞時の命を受けた武蔵七郎の軍勢に急襲され滅ぼされた』享年二十七。『御内人の賀茂祭り参加は資宗が最初で最後となった』とある。

「入替りけん」「いれかはりけん」。

「家運の籍(ふだ)」家運隆盛ばかりか、この世に定められてあったであろう平一族の寿命の意。

「將軍の家を傾け、執權の門を滅(ほろぼ)し、安房守を將軍に任じ、威光を四海に輝かさばやと謀りける」「保暦間記」(ほうりゃくかんき:南北朝時代に成立した歴史書)に、嫡子宗綱(次注参照)がかく、貞時に讒訴したと記す。

「嫡子宗綱」平宗綱(生没年未詳)平頼綱の嫡男。ウィキの「平宗綱によれば、『侍所所司として将軍惟康親王に侍する。侍所の別当は執権が兼任するが、執権と得宗が分離しているこの頃には得宗御内人が幕府の侍所所司となる制度となっており、その威勢は「関白のようだ」と』「とはずがたり」には記されている。『得宗政権による将軍すげ替えのため、惟康親王が都へ送還され』たが、『その際、将軍は流人に対する扱いである後ろ向きの粗末な張輿に乗せられ、居所の御簾を土足の雑人が引き落とし、将軍権威の消滅を内外に示したが、宗綱はその有様に憤慨した』という。『父頼綱は次弟の飯沼資宗を鍾愛しており、宗綱とは不仲であったと見られ』、「保暦間記」には、『宗綱は主君貞時に「父杲円(頼綱)は、次男の助宗と共に専権を振るい、いずれは助宗を将軍にしようとたくらんでいる」と讒言したという』。ともかくも、「平禅門の乱」の『合戦の前に出頭した宗綱は、自分は父とは「逆意」であると陳弁したが、佐渡国へ流された。しかし』、『のちに召還されて内管領となっている。しかし』、「保暦間記」によれば、『再び罷免され、上総国へ再配流されたという。なお』、『この宗綱罷免には同族の長崎氏が関わっており、一旦』、『宗綱配流の際に内管領となり、実権をほぼ掌握していた長崎氏に謀られての讒訴と言われ』ており、『その後』、御存じの通り、幕府滅亡まで『長崎氏の権力が得宗家内で絶大なものとなった』のであった。

「闕所(けつしよ)」土地や所領を幕府が召し上げる財産刑。

「偏(ひとへ)に」平頼綱が讒言した結果、「泰盛が滅亡せしに違(たが)はざりければ」。

「正しき父」実の父。

「我が世にあらん」自分はこの世に生き永らえよう。

「目前に不孝の罪ありて」誰の目から見ても、親に対する不幸の罪であることは明白なれば。]

 

 

明恵上人夢記 57

 

57

一、夢に云はく、神主、使者を遣はして云はく、「何(いか)にしてか只(ただ)御分別無き。此へ來(きた)らしめ給ふ事候べし哉(かな)。卽ち、早々に來るべき由を念願(おもひねが)ふ也と思ふ。」と云々。卽ち、賀茂之山寺へ入るべき由也と云々。神主は卽ち大明神也と云々。

[やぶちゃん注:クレジットがないが、見た目は、前の「56」が建保七(一二一九)年(推定)「二月十九日」とあり、次の「58」が「同二月廿七日」と始まっていることから、同年二月二十日から二十六日の孰れかの夢記述とまずは採ってよかろう。「云々」は今までの夢記述に徴すると、夢を以下の部分を忘れてしまったことを指し、また、一夜の夢で複数見た場合にもこれを以って前の夢と区別する意味を持つ場合もあるが、ここは明らかに連関したもので、前者と考えてよい。

「神主」底本編者注に、『賀茂能久。賀茂別雷神社』(かもわけいかづちじんじゃ。京都の上賀茂神社(これは通称)のこと)『の神主。嘉応元年(一一六九)の誕生。建保二年(一二一四)九月九日に神主に補された。承久の乱後鎮西に流され、貞応二年(一二二三)六月十日没。五十五歳』とある。講談社の「日本人名大辞典」によれば、彼は後鳥羽上皇の近臣であり、承久の乱では幕府軍と実戦でも戦っていた。このため、六波羅に捕らえられて太宰府に流罪となったのであった。この時、四百年続いた同神社の斎院も廃絶している。ふと思ったのだが、或いはこの事実とこの夢は関係しているのではないか? 神に奉仕すべき神聖な処女が永遠に失われた今、明恵以外に新たな神への真の潔斎した奉仕者はいないと言っているのではあるまいか?

「賀茂之山寺」現存しない賀茂別雷神社に付随した別当寺であろう。「山寺」とあるから、同神社の後背地か。さすれば、これはまさに「5に出た「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、底本注で『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』というそれではあるまいか?

「大明神」これは本地垂迹説に基づくものである。賀茂別雷神社の祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であるが、この神名は記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命によれば、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』とある。先の「56」では明恵は自身の強力な鎌倉新仏教のシンボルたる法然(浄土宗)への論難書「摧邪輪」(ざいじゃりん:邪輪(よこしまなる法説)を打ち摧(くだ)く)が重要なアイテムとして出てきている。まさに今、強力は正しい仏法の力を以って、正邪を果敢に裂き分けるべき力を持っているのは「摧邪輪」を書名とした明恵以外にはないことを、仏が垂迹して賀茂別雷命の明神として夢に現れて示現したのだ、と明恵は解釈しているのではるまいか?

□やぶちゃん現代語訳

57

 こんな夢を見た。

 

賀茂別雷神社の神主賀茂能久殿が使者を遣わしておっしゃることには、

「どうして! そのように、ただもう! 勘所の御決心をお下しになられる御覚悟がおありで無いのか! ここへ御来臨なられて「在る」ことがなんとして「在る」べきことなんで御座いますのに! そうなのですよ! いち早く、何より早々に! ここへこそ御来臨あるべきことをこそ心の底から切に思い、願(ねご)うておるということを祈念致いておるで御座る!」

と……。則ち、彼は、

「直ちに! 賀茂の山寺へあなたは入らねばならない使命がある!」

と……。

……おや? おお! かの神主は、人、ではない! 賀茂能久殿その人ではないぞ! まさしく! 即ち「大明神」そのものなのであった! と……。

 

 

甲子夜話卷之四 20 敬信夫人、婚儀の御時の事

我曾祖松英君の養女を、乘賢養子の能登守乘薀に嫁しけり。これを敬信夫人とす。林氏は此夫人の襁褓より鞠養せられし人なれば、夫人の舊事を能知りて談ぜり。夫人新に嫁せられしとき、其當日に禮儀畢りて、その舅なる乘賢【此時加判】伴ひて表に出で、親類衆に引合せ、又御先手頭、奧御右筆組頭、御同朋頭等、其事扱たりとて招れ、饗應ありしが、其席へも伴ひ引合せ、世話に成しなど會釋ありしと云。實に世風の質實なること、今の薄俗より見れば、驚く計のことなり。又その婚儀一宗の簿册數卷あり。兩家の家來、互に掛合ことは少くして、多くは皆雙方賴の御先手衆同士の掛合なり。それ故に、禮儀も手重きことにて、中々今の世の省略を專らとする類に非ず。是等にても其時俗を見るべきなり。必竟事を省んとしては、さまざまあらぬこと迄も、鄙劣に相議するやうに成り行て、いつか擧ㇾ世家來同士の談計の世風に成り堅まりしなるべし。林氏話。

■やぶちゃんの呟き

「我曾祖松英君」松浦静山の曽祖父で肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)。「松英」は「しょうえい」(現代仮名遣)で彼の法号(松英院殿)。

「敬信夫人」篤信は千本倶隆の娘を養女としており、それが彼女。「敬信」は落飾後の法名(敬信院)。彼女は享和元(一八〇一)年五 月十日に没している(吉村雅美長崎県学術文化研究費研究成果報告書 松浦静山の学問ネットワークと平戸藩―蓮乗院の日記から―(PDF)に拠る)。

「乘賢」前条で既出既注。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。

「能登守乘薀」既出既注。美濃岩村藩第三代藩主で松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。敬信夫人は彼の正室。

「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。彼の父はまさにこの松平乗薀なのである(寛政五(一七九三)年に林錦峯の養子となって林家を継いだ)。さればこそ以下の叙述も頷ける。但し、叙述から見て、彼は敬信の子ではなく、乗薀の側室(前原氏)の子のように読める。

「襁褓より」「襁褓」は「むつき」でおむつのこと。林述斎の幼時より。

「鞠養」「きくよう」(現代仮名遣)とは大切に慈しんで育てること。

「加判」老中の別称。

「其事扱たりとて」よく判らぬが、乗賢が奏者番・若年寄の時代及び老中になってより、担当し、関係した部下らであるからと、の意であろうか。

「世話に成し」これは、「その節はいろいろと世話になった」という意味にとれるが、それでは夫人を連れての挨拶としておかしく、寧ろ、この過去形の「し」は叙述時制からの林や静山の用いたものであって、寧ろ、「向後、拙者ともども、この妻も合わせてよろしくお頼み申す」ととった方が私は素直に読める。大方の御叱正を俟つ。

「世風」「せいふう」。当時の武家一般の風俗・風紀。

「計」「ばかり」。

「一宗の簿册」不詳。婚儀記録一式記録冊子の謂いか。

「掛合ことは少くして」「掛合」は「かけあふ」。よく判らないが、婚儀の式次第に於いて、家来衆らの動きや担当などは、それぞれ別個に協議談合して決めるという場面は驚くほど少なくて。

「賴の」「たのみの」。信頼している。

「御先手衆同士の掛合」それぞれの御家の警護担当者である先手組(さきてぐみ)の方々同士の打ち合わせ。

「手重き」厳重できっちりとしていること。

「類」「たぐひ」。

「時俗」「じぞく」。時の堅実なる風俗・風紀。

「必竟事を省ん」「ひつきやう、ことをはぶかん」。

「鄙劣に」「ひれつに」。卑劣。品性や行動が卑しくて下劣なさま。

「相議する」「あひぎする」。

「擧ㇾ世」「よをあげて」。

「談計」「だんばかり」。己(おの)がことしか考えぬ浅智恵の談合ばかり。

「話」「はなす」。

譚海 卷之二 江戸芝居座本市村・中村等の事

 

江戸芝居座本市村・中村等の事

○市村羽左衞門(うざゑもん)親の代迄は、竹之丞と號せしを、竹の字諱(いみな)奉りて今の名にかへたり。市村竹之丞は元來佐竹家の家老眞壁掃部之介(まかべかもんすけ)といふ人の譜代の家來筋也。此眞壁は天曆の比(ころ)、常陸大掾國香(ひたちだいじようくにか)とて平將門に討れたる人の後胤也。仍(よつ)て前年掃部之介出府せられしとき、羽左衞門由緒あるに付(つき)目見(めみ)へ致度(いたしたき)旨、眞壁へ願(ねがへ)けれ共、今は河原(かはら)ものの事ゆへいかゞとて、系圖にも其次第無ㇾ之(これなき)由挨拶有(あり)て其事(そのこと)止(やみ)たり。實は眞壁系圖にも、竹之丞事(こと)分明にある事也とぞ。又中村勘三郎先祖は、阿州蜂須賀(はちすか)家の家臣にて中村右近といへるもののよし。

 

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の「市村羽左衞門」の注に、『江戸三座』(幕府から興行特権を認められていた江戸の三大歌舞伎劇場。初め四座であったが、正徳四(一七一四)年に山村座が廃絶して以後、中村・市村・森田の三座となって明治初年まで続いた)『市村座の座頭を代々つとめた。真壁氏譜代の末流であることを申立てても、役者は河原者』(江戸時代に於ける役者を始めとして、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などを包括した蔑称。「河原乞食(こじき)」とも称した。本来は中世に村落の周縁圏外に相当する川の河原に仮住まいした人々の称で、十二世紀頃から天災・戦乱・貧困などによる流浪民・逃散民の中で、非課税地の河原に逃れた者を呼称したのが起源である。零細な農耕・行商・屠畜・皮革加工・染色・清掃・死体埋葬等に従事したが、特に滑稽を主とした猿楽の系統を引く雑芸能を生業とする者も多かった。近世に入ると、彼らの一部は独立した職業として確立されたが、大半は厳格な身分制度のもとで四民の下の制外者(にんがいもの)扱いにされて差別された。しかし、寺社の権力等を背景として種々の特権を得たグループもあり、特に諸芸能の勧進(かんじん)興行は河原で催されることが多かったことから、河原者がその興行支配権を握り、説経・浄瑠璃・傀儡等に地方の新芸能等も加わって、近世の庶民芸能の殆んどが河原者集団やその圏内で発展した。京都四条河原で行われた出雲の阿国の歌舞伎踊りはもっとも有名であるが、こうしたことから、劇場が河原を離れた後も「河原者」という呼称が芝居関係者に対する差別語として用いられ続け、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)『で四民の下とされたので、みとめられなかったというのである。中村勘三郎は中村座の座頭である』とある。ここにある歌舞伎役者の名跡のルーツがどえらい武人であったというのは、典型的貴種流離譚であり、しかもその末裔が、貴種流離譚を舞台で演じることが多いわけだから、これは嵌り過ぎと言えば嵌り過ぎである。

「市村羽左衞門親の代」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の二十年余りに亙る見聞記録で、この場合の叙述上の当代(執筆時。刊行時には以下に見る通り、没しているが、「親の代」以下の叙述から彼に比定されるの「市村羽左衞門」は九代目市村羽左衛門(享保九(一七二四)年~天明五(一七八五)年)となる。彼が父八代目羽左衛門(後述)の死去により羽座衛門を襲名したのは宝暦一二(一七六二)年で、無論、同時に市村座の座元を相続した。しかしその後、火事や先代からの借金のために天明四(一七八四)年、市村座は事実上の倒産閉場となり、控櫓(ひかえやぐら:江戸で興行権をもっていた先に示した江戸三座が、負債その他の事情から興行が出来なくなった場合,代行して興行する権利を持った興行業者を指す。中村座は都座、市村座は桐座、森田座は河原崎座と決っていた)の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎(十代目か。九代目はこの年に没している)の勧めにより、羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じ、その中で「猿まわしの猿」に扮し、「娘道成寺」の所作事を演じたが、同年八月に没している(ここはウィキの「市村羽左衛門(9代目)」その他リンク先ウィキに拠った)。さて、その九代目市村羽左衛門の「親の代」は八代目市村羽左衛門元禄一一(一六九八)年~宝暦一二(一七六二)年)ということになる。ウィキの「市村羽左衛門 (8代目によれば、『芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから』(下線やぶちゃん)、元禄一六(一七〇三)年、『父を後見人として』五『歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元とな』った(初舞台はその二年後の宝永二(一七〇五)年)。『その後、座元と役者を兼ね』、『江戸の芝居に重きをなすようになる。本文に「竹の字諱奉りて今の名にかへたり」とあるのは、元文二(一七三七)年のこと、将軍家若君竹千代(後の第十代将軍徳川家治(元文二年五月二十二日(一七三七年六月二十日)~天明六(一七八六)年の幼名)の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名したことを指す。後、寛延元(一七四八)年に名も『「羽左衛門」と改めた。以後』、『市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る』こととなったのである、とある。

「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏であろう。この譜代の家来「眞壁掃部之介」という名は、同姓同通称の名を、同藩で宝暦七(一七五七)年に発生した経済政策(藩内での銀札発行)の失敗に端を発する秋田騒動に見出せる。当該騒動の始末として宝暦六(一七五六)年十一月に同藩家老が御役追放・蟄居となっているが、その家老の名が「真壁掃部助」である。但し、先の市村羽左衛門の事蹟とは時制が全く前後して合わないから、彼ではない。しかし、少なくともこの叙述は、その家老真壁掃部助の先祖の家来が、市村羽左衛門名跡の最初の人物のルーツであったことを意味していると考えてよかろう。しかもその真壁が平国香の末裔とするのだから、話としては浄瑠璃のようにブットんで面白いことは面白い。

「天曆」九四七年から九五七年誤り(次注参照)

「常陸大掾國香」平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)は平安中期の武将。平高望の長男。常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、『宇多天皇の勅命により平姓を賜与され』て『臣籍降下し、上総介に任じられ』、『父の高望とともに昌泰元』(八九八)年に『坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾であ』ったその源護から『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶』(たすく)『に要撃された甥の平将門が』、承平五(九三五)年二月に『反撃に出た際、居館の石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』。

「平將門」「新皇」を名乗った特異点の東国の反逆児。生年未詳で「承平天慶の乱」に於いて藤原秀郷・平貞盛らによって天慶三(九四〇)年に誅伐された。

「中村勘三郎」この場合も厳密には「譚海」の「当代」を考えねばならぬから、九代目中村勘三郎(明和二(一七六五)年~天明五(一七八五)年)か、十代目(?~文化七(一八一〇)年)であろう。

「阿州蜂須賀家」阿波国の国人蜂須賀氏。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名で、彼の代になってからまず織田信長の配下に属し、歴史の表舞台に登場した。後に秀吉の与力として活躍、その子の蜂須賀家政と共に秀吉直臣となって、阿波一国を治める大名へと立身した(ウィキの「蜂須賀氏」に拠る)。

「中村右近」中村右近太夫重勝(?~慶長一九(一六一四)年)は戦国武将。阿波海部城主・大西城主。ウィキの「中村重勝」によれば、『父は尾張国中村郷の領土を持ち、海部城主をつとめた中村重友で、豊臣政権の三中老のひとりである中村一氏の末弟とされる』。『徳島藩の蜂須賀家の家臣として』五千五百『石を与えられ、父の重友に代わり』、『海部城に配置され』、慶長三(一五九八)年には『牛田氏に代わ』って『大西城主となる』。『朝鮮出兵に従軍し、大坂冬の陣では』二百『人を率いて出陣』、『本町橋の夜襲戦で戦死した』。『「東都劇場沿革誌料」等によれば』、『歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・初代中村勘三郎と同一人物とする説や、重勝の息子や孫とする説があるが』、『明確ではない』とある。]

2018/01/03

老媼茶話拾遺 菊渕大蛇

 

老媼茶話拾遺

 

 

     菊渕大蛇

 

 大猷院樣御代とかや。本多作左衞門と云(いふ)人あり。三千石を領す。大力武勇の人たりといふとぞ、大(おほい)に變りたる者也。御役義御免(おんやくぎごめん)の御願(おんねがひ)、申上けるに、御免なかりければ重(かさね)て願申出(まうしいだ)し、

「私、年寄(としより)、老衰仕(つかまつり)候へば、殿中へ罷上(まかりあが)り立居(たちゐ)不自由にて候まゝ、御免下され遊ばされましきなれば、女の手引、御免。」

にて、夫(それ)よりして、美女二人、召連(めしつれ)、登城いたしける。

 此節、將軍樣御出頭(しゆつとう)の大名衆へ、諸大名何(いづ)れも、追從(ついしやう)進物、品々贈られける間、彼(さく)作左衞門家長(おとな)の者、作左衞門へ申樣、

「時世の習ひにて、御出頭御大名方へ、折節、御勤被成候(おんつとめなされ)樣に。」

と申(まうし)ければ、作左衞門きゝて、

「其方、申分、尤(もつとも)也。」

とて、赤鰯十疋藁苞三拵(こしらへ)、一ツは松平伊豆守信綱へ持參し、久世大和守廣元へ持行(もちゆき)、殘り一は酒井讚岐守忠勝の玄關へ自ら持行(もちゆく)。

 取繼を以て、

「是式(これしき)、如何に候へども、身、不肖の某(それがし)ぞんじながら、御不音(ぶいん)仕(つかまつり)候。宜しく御執成賴入(おとりなしたのみいり)候。」

と、いかにも丁寧に謹(つつしみ)て申ける。

 取次の士、かねて、

「作左衞門、天下に隱(かくれ)なき變人也。」

と聞及(ききおよび)し間、赤鰯の藁苞を臺に居(すゑ)、主人の前へ持行(もちゆき)、

「本多作左衞門殿、御自身御持參にて、玄關に御控(おひかへ)御座候。」

よし、申ける。

 忠勝、聽て打笑(うちわらひ)、書院へ通し、對面し、

「作左衞門殿、不入(いらざる)御進物に預(あづかり)候。御志(おんこころざし)、過分にて候。」

と、のたまふ。

 作左衞門、手をつき、首(かうべ)を下げ、

「我等、天性輕薄を存不申(ぞんじまうさず)候まゝ、上樣へ御執成(とりなし)申上る人御座なく候まゝ、似合(にあひ)の御奉公仕(つかまつり)候へども、かやう小身(しやうしん)に罷在候。乏少(ばうせう)進物を致(いたし)、かやう御賴申(おたのみまうす)も如何(いかが)候得ども、此(これ)已來(いらい)、我等身上(しんしやう)の儀、宜敷(よろしく)御とりもち被成(なられ)下され候へ。賴入(たのみいり)候。」

と申す。

 忠勝も、相應、取合(とりあひ)申され、作左衞門、返されける。

 其後、作左衞門、上野(かうづけ)の内へ所替(ところがへ)仰付(おほせつけ)られ、入部(にゆうぶ)しける所に、老たる百姓を召(めし)よせ、懇(ねんごろ)に教戒しけるは、

「我、今、此所に主(ぬし)と成(なり)、我は汝等をたのみ、汝は我を賴むべし。一日片時(かたとき)も主從と成(なる)事、宿緣(しゆくえん)、淺からず。然(しかれ)ども、善惡の賞罪は天下の大法(たいはう)也。少しの罪と云(いへ)ども宥(ゆる)すべからず。少善(せうぜん)と云ども稱すべし。若(もし)、我領内、善惡によらず、民の損益と成(なる)事有(あら)ば、早速、申出(まうしいだ)すべし。」

と云付(いひつく)る。

 百姓ども、謹(つつしみ)て承り、工夫致し、しばらく有りて申けるは、

「此所上野の内にて上田地(じやうでんち)にて候。旱魃(かんばつ)のせつは、向(むかふ)の山の北岸に菊渕(きくぶち)と申(まうし)て廣大の大沼、御座候。是より所々の田地、伏樋(ふせどひ)致し、水を取候間(とりさふらふあひだ)、天下大旱魃の節も、旱魃の愁(うれひ)、是なく候ひしが、八、九年程以前、此沼、水、湧上(わきあがり)、大風雨・震動・雷電仕る事、七日、其後、大蛇、住(すみ)て、水を引(ひき)候事は扨置(さておき)、沼岸へ寄(より)候者は取喰(とりくらふ)。よつて、人畜ともに恐(おそれ)候(さふら)いて、一里四方へ參り候者、なし。旱(ひでり)の節は旱魃に逢(あひ)し、亦、菊渕の主(ぬし)、祟(たたり)して、七月七日には、かならず大風雨いたし申候。」

と、くわしく是を語る。

 作左衞門、巨細(こさい)に聞屆(ききとどけ)て、

「汝等、菊渕へ道しるべせよ。とかく我(われ)、直(ぢき)に行(ゆき)て、事の樣子をうかゞひみるべし。」

と云(いふ)。

 百姓ども、うけ給り、

「畏(かしこま)り候得ども、只今申上候通(とほり)、最早、八、九年、誰(たれ)にても行(ゆき)て沼をみ候もの、無御座候(ござなくさふらふ)。一里四方へ、大木(たいぼく)、透間(すきま)もなく生茂(おひしげり)、晝も眞闇(まつくら)にて、晝夜の分ちもなく候よしうけ給り傳(つたへ)候斗(ばかり)にて、道もしかじか存不申(ぞんじまうさず)候。爰(ここ)に九十餘の老翁、御座候。此者、道を存候。彼(かの)者を案内に御連被成(おつれなされ)候へ。」

といふ。

 作左衞門、則(すなはち)、件(くだん)の百姓を召連(めしつれ)、明日、菊渕へおもむく。

 道すがら、岩山、峨々として、山路、險阻(けはし)く、大木、幾く重(へ)ともなく生茂(おひしげり)、古木は風に倒(たふれ)、道、塞(ふさぎ)、蔦楓(つたかえで)いぶせく、やうやう、沼に近付(ちかづく)事、十町斗(ばかり)にして、彼(かの)老人、蹲踞(ひざまづき)、作左衞門に申けるは、

「私、御道しるべ仕る事、是迄にて候。是より奧へ行(ゆき)候者、二度かえり來(き)候事、無御座候(ござなくさふらふ)。御自分樣にも是迄にて御歸候へ。」

と云(いふ)。

 作左衞門、聞(きき)て、

「尤(もつとも)也。其ほう、私宅へ歸るべし。沼端(ぬまはし)へ行(ゆき)、直(ぢき)に沼主(ぬまぬし)に對面すべし。事なくば鐵砲を打放(うちはな)すべし。鐵砲の音、響(ひび)かせば、其折(そのをり)、供の者ども、來(きた)るべし。」

とて、拾兩の鐵砲、みづから肩にかけ、彼(かの)沼岸へ行(ゆく)。

 供の士ども、是非なく、

「供せん。」

といゝけるを、強く留(とどめ)て、只壱人、菊渕へ行(ゆき)みるに、聽(きく)より猶、廣大無邊の大沼にして、水色、藍(あゐ)のごとく、水底(みなそこ)の限り知るべからず。

 岸には、年舊(としふる)大杉・大松、いやが上、生茂(おひしげり)、大盤石、聳へ立(たつ)。

 所は深山(みやま)の奧なれば、鳥の鳴(なく)聲も絶(たえ)て、獸(けもの)の通(かよ)ひもなし。

 作左衞門、沼岸に突立上(つつたちあが)り、大音(だいおん)あげ、申(まうす)やう、

「武藏の國の住人、本多作左衞門橘(たちばなの)輝景、此度、當將軍樣より此地を賜(たまはり)、爰(ここ)に來(きた)れり。此(この)沼主(ぬまあるじ)、大蛇に對面せん。其(その)正體を顯はし爰に出(いで)よ。」

と呼(よばは)る。

 時に、山谷、鳴りどよみ、雨風、大(おほい)に吹荒(ふきあれ)て、水底、鳴(なり)はためく事、夥しく、一浪(ひとなみ)、ゆり出(いで)て、岸を洗(あらふ)。

 黑雲につれて、二丈斗(ばかり)、まつくろなるもの、虹の如く立上(たちあが)り、銅(あかがね)のごとくなる眼(まなこ)を見張(みはり)、口をひらき、舌をひらめかし、作左衞門に向ふ。

 作左衞門、少(すこし)も騷がすして申樣(まうすやう)、

「某(それがし)、汝を平(たひら)げんとて來(きた)るにあらず。其方、年久しく此沼に住と聞(きき)、對面の爲、來れる也。左樣のあらく冷敷(すさまじき)形(かた)ちにては、一言もまじへ難し。別に姿をかへて出(いづ)べし。我におゐて、少しも害心(がいしん)、なし。」

といふ。

 大蛇、聞受(ききうけ)たる氣色(けしき)にて、則(すなはち)、水底へ沈(しづみ)、五十四、五才斗(ばかり)なる勿體(もつたい)らしき男に變じ、上下(かみしも)・大小にて出)いで)て、作左衞門に對面す。

 作左衞門、躇据(ひざまづき)、

「扨、自由自在神變不思儀を得玉(えまた)へり。此後(こののち)は此(この)山岸に社を建(たて)、『菊渕大明神』と祝ひ、四時(しじ)、祭禮致(いたす)べし。我(わが)守護神と成(なり)、武邊長久に守らせ給へ。但(ただし)、其(その)形(かた)ち、至(いたつ)て輕少に其(その)本體を顯し、我(わが)手の中(うち)へ居(を)りたまへ。謹(つつしみ)て拜(はい)し奉らん。」

とて、手を差出(さしいだ)しければ、詞(ことば)の下より一寸斗(ばかり)の金龍と成(なり)て、作左衞門が掌の上へ蟠(わだかま)

 作左衞門、敬しておし戴(いただき)けるふりをして、大口を明(あけ)、唯(ただ)一口に嚙(かみ)くらひ、其後、又、大音上(おんじやう)、

「此沼主、出(いで)よ。對面すべし。」

と、數度、呼(よばは)るに、答へるもの、なし。

 作左衞門、相圖の鐵砲打(うち)ければ、供の者ども、我先にと駈來(はせきたる)。

 作左衞門、申樣、

「我、先刻より、沼の大蛇に對面せんと幾度か呼(よば)われども、別に變りたる事なし。汝等、又、同音に呼わるべし。」

と、皆皆、

「沼岸の大蛇に對面せん。」

と幾度(いくたび)か呼われども、別に變りたる事、なし。

「汝等、猶、又、同音に呼わるべし。」

と、皆皆、岸沼にたちならび、山谷(さんこく)、響(ひびか)し、大音聲(だいおんじやう)に呼わりけれども、何の別事(べつじ)なかりければ、

「扨は。此沼に大蛇の住(すむ)と云(いふ)は僞(いつはり)也。」

とて、杣人(そまびと)を入(いれ)、菊渕のあたり、一里餘り、生茂りたる大木を伐盡(きりつく)し、道を造り、水口(みなくち)を開(ひらき)、旱魃の節、用水に用ひけれども何の怪(あやし)みもなかりしといへり。

 彼(かの)作左衞門、御殿中へ女の手引連(つれ)られし、といふは僞りなるべし。然ども人の物語の儘、爰に記すのみ。

 

[やぶちゃん注:本話と同じ手法によって魔を封ずる(魔を喰らってしまう)類話は非常に多い。本「怪奇談集」でも幾つか電子化している。

「菊渕」底本は敢えて「渕」の字を用いており、これは原典が「淵」ではなく「渕」の字を用いているから推定して、ママとした。なお、この沼は「上野」とあるからには群馬県内と思われるが、不詳である。

「大猷院樣御代」大猷院は第三代将軍徳川家光(在職:元和九(一六二三)年~慶安四(一六五一)年)の諡号。

「本多作左衞門」不詳。家康に仕えた同姓同通称の本多重次がいるが、時代が合わない。

「家長(おとな)」作衛門の家老格の重臣。

「松平伊豆守信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主で老中(寛永一〇(一六三三)年六月に老中に任ぜられ、寛永一五(一六三八)年十一月に老中首座)。

「久世大和守廣元」不詳。或いは、「久世」で「大和守」から時代的に見て下総関宿藩主で若年寄、後に老中(寛文三(一六六三)年)となった久世広之(慶長一四(一六〇九)年~ 延宝七(一六七九)年)か。彼は寛永元(一六二四)年に将軍徳川家光の小姓となっている

「酒井讚岐守忠勝」(天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)は武蔵川越藩第二代藩主で、後に若狭小浜藩初代藩主。家光から次代の家綱時代の老中・大老。寛永元(一六二四)年十一月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となり、寛永一五(一六三八)年十一月に土井利勝とともに老中を罷免されて、大事を議する日のみの登城を命ぜられ、これが後の「大老」職の起こりとなった

「是式(これしき)、如何に候へども、身、不肖の某(それがし)ぞんじながら」謙遜の辞。自身が変わり者で礼儀を弁えぬ人間であることを明確に述べている。

「不音(ぶいん)」しかるべき挨拶や、節季の贈答などがないことを指す。

「我等、天性輕薄を存不申(ぞんじまうさず)候まゝ」拙者は、天性の自分の驚くべき軽薄さを自分自身、全く理解しておりませぬままに、この年までずうっとやって参り、といった卑称表現であろう。

「似合(にあひ)の御奉公」そうした知り合いもなき軽薄者に分相応なる御勤めを頂戴し。

「乏少(ばうせう)」如何にも贈答品として少なく、不十分であること。これは赤鰯では事実なだけに謙辞ではない。

「上野(かうづけ)の内へ所替(ところがへ)仰付(おほせつけ)られ」石高は変わらないし、農民が「此所」は「上野の内にて上田地(じやうでんち)にて候」と言っているから、不利な所替えではないようである。

「伏樋(ふせどひ)」地表面に接して蓋をした或いは地中に木製用水路を通したのであろう。

「巨細(こさい)」こと細かく詳しいこと。

「十町」一キロ九十一メートルほど。

「御自分樣にも是迄にて御歸候へ」道案内はしたものの、古老は作左衛門の命を慮って、ここで引き返すことをも薦めたのである。

「拾兩の鐵砲」銃自体の重さとしてはあり得ない軽さである(三百七十五グラムにしかならない)。「拾」の前に数字が脱字しているのではなかろうか?

「二丈」六メートル強。

「水口(みなくち)を開(ひらき)」菊渕(沼)に旱魃時のための、伏樋のようなちゃちなものではなく、本格的な緊急用水の掘削を行い、大規模な用水路と、そこからの取水口を設置したのであろう。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 文学熱と野球

 

明治二十三年――二十四年

 

[やぶちゃん注:「明治二十三年」は一八九〇年。]

 

     文学熱と野球

 

 明治二十三年(二十四歳)の新春は松山で迎え、一月末近くなって上京した。在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている。この年あたりより居士の『筆まかせ』を草すること頗る多く、かつ従前に此して長文のものが交るようになった。十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したものなどが、その最も長い部類に属するであろう。

[やぶちゃん注:「在郷中に漱石氏と文章論を往復した手紙のうつしが『筆まかせ』に載っている」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ以降の複数条で総量はかなりある。

「十九年に歿した同宿同郷の友淸水則遠氏のことを記したもの」「淸水則遠」(慶応四・明治元年(一八六八)年~明治一九(一八八六)年)は子規の江ノ島無銭旅行の同行者の一人で、松山中学では子規の一年後輩であったが、大学予備門で子規が落第したために同級生となった。栄養失調を起因とする脚気衝心で十八歳で夭折した。彼の死に、子規は一時、錯乱状態にさえなったという。「筆まか勢」のそれ、「淸水則遠氏」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の以降。後に「淸水則遠氏」という追記短章()も併せて読みたい。]

 二月十二日、常盤会寄宿舎に「もみじ会」なるものを開いた。第一回の顔触は成田四舟、若隠居(五百木飄亭)、佐伯蛙泡、あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))、新海非凡(はじめ非凡と号し、後非風と改む。この時分はまだ非凡であった)、伊藤鉄山、正岡子規の七名である。連月(れんげつ)題を課し、歌俳狂句短文戯画など、何ということなしに持寄ったものを集めて「つゞれの錦」と題する。作品として見るべきものはないけれども、居士を中心とした常盤会寄宿舎内の文学熱の一半は、ほぼこれを以て察することが出来る。

[やぶちゃん注:「成田四舟」不詳。

「若隠居(五百木飄亭)」「いおきひょうてい」。既出既注

「佐伯蛙泡」不詳。

「あはてやぬかり(河東可全(かわひがしかぜん))」既出の「河東銓」。の別称。正岡子規の友人で、河東碧梧桐の兄。

「新海非凡」「後非風と改む」「にいみひぼん」「ひふう」。既出既注

「伊藤鉄山」不詳。

「つゞれの錦」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから読める。]

 常盤会寄宿舎内における文学熱の流行を面白く思わぬ傾向は、勿論舎内の一部にあった。それは監督の鳴雪翁よりも、舎監をつとめていた佃(つくだ)一予氏などがその急先鋒で、攻撃の目標になったのは居士と諷亭、非風両氏とであったらしい。「もみじ会」などもこの三人が雪見に行った帰途、相談して起したものなのだから、攻撃の鋒先(ほこさき)の向くのも当然であったが、居士は文学者志望だから直接には攻撃しない。諷亭氏もその時已に医者の免状を所持していたから、他の修行中の者とは違うというので、甚しくは攻撃しない。最も風当りが荒かったのは、陸軍志望の非風氏であった。一方は三人を一種の道楽者として、他の舎生に悪影響を与えるものと見る。三人の側ではまた、何を俗骨がという風で冷嘲する。『筆まかせ』の中にある「寛? 厳? 中庸?」という文章は、佃氏が大学を卒業するとともに舎監をやめた際、常盤会寄宿舎に開かれた茶話会の模様を記したものであるが、両者対立の模様、それに臨む鳴雪翁の態度などが、交錯してよく現れている。

[やぶちゃん注:「寛? 厳? 中庸?」(「寛? 嚴? 中庸?」)は私の所持する岩波文庫「筆まかせ抄」には確かに第三編として明治二十三年のパートにあるが、先の国立国会図書館デジタルコレクションには漏れているので提示出来ない(文庫本で六頁余りもある)。]

 けれども当時の居士は文学に耽るといった上ころで、他の一切を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。ベースボールの如きは発病後といえども全く廃するに至らず、常盤会寄宿舎内にも二十人位の同好の士が出来たので、この年三月二十一日に上野公園博物館横の明地(あきち)で試合をやったことが『筆まかせ』に出ている。それによると居士は赤軍の捕手をつとめており、竹村黄塔(たけむらこうとう)を投手として白組の勝田(しょうだ)(主計(かずえ))佃のバッテリーに対峙しているようである。五百木(三塁)、新海(左翼)が居士と同じく赤軍に加わっているのは、文学党のために気を吐くものというべきであろう。居士が運動服にポールとバットを携えた写真を大谷是空に贈ったのはこの頃の話であるが、決して殊更にああいう恰好をしたのではない。野球選手として活躍するだけの余力を、一面にはまだ有していたのである。

[やぶちゃん注:「『筆まかせ』に出ている」確認出来なかった。

「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注。]

 喀血後一周年の五月は何事もなしに過ぎた。ただ四月初旬以来腸を害することなどもあり、筆を執ることが厭になったとあるのは、健康と関係があるのかも知れぬ。

 河東碧梧桐が松山から書を寄せて、処女作の俳句の添削を乞うたのは、この五月頃の出来事である。河東静渓並に黄塔、可全両氏の関係からいって、碧梧桐氏は早くから居士を知っているはずであったが、文学方面で接近するにはやや年齢の距離があり過ぎた。居士と碧梧桐氏とを結びつけた最初のものは、小説もなければ俳句でもない、ベースボールであったと碧梧桐氏の書いたものに見えている。ボールの投げ方や受け方をはじめ、野球の一般法則に至るまで、一応居士の手ほどきを受けたのだそうである。碧梧桐氏が居士に逢うのはその帰省中に限られていたから、そう度々機会はないわけであるが、野球の話は自然爾余(じよ)の方面に及び、文学方面において居士の示教(しきょう)を乞うようになったのであろう。これまで居士の文学仲間といえば、大体常盤会の寄宿友達ときまっていたのに、ここにほじめて年少の文学志望者を待たのであった。

[やぶちゃん注:「河東碧梧桐」(かわひがし へきごとう 明治六(一八七三)年~昭和一二(一九三六)年:本名、秉五郎(へいごろう)は後に友人高浜虚子とともに「子規門下の双璧」と謳われ、子規亡き後の俳句革新運動の後継者は碧梧桐であった。当初、小説への色気を出して俳句に重きを置いていなかった虚子は、碧梧桐の新傾向俳句による定型を破った動きに俄然、反旗を翻して「守旧派」として復帰、結局、伝統的有季定型俳句の牙城の首魁となった。碧梧桐は結社を転々とし、ルビ俳句なども提唱したが、結局、支持を得られず、昭和八(一九三三)年三月の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。

「爾余」自余。そのほか。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一

 

    隱れ里 

      

 此間理科大學の鳥居龍藏氏は、日本學會とかで亞細亞諸民族の間に行はれた無言貿易の話をせられ、今日日本の各地方に存する椀貸傳説は亦一種の無言貿易である。傳説學者は大抵の事を皆傳説にして了ふ傾きがあるが、椀貸などは實はエスノグラフイーの方の材料であると斯う言はれたさうである。其意味は十分には解らぬが、若し此傳説の語るやうな土俗が曾てあつたと言ふのならば勿論誤謬、若し又是が昔の或土俗の訛傳である痕跡であると言ふのならば、御説を須たずして恐らくは誰も否とは云ふまいと思ふ。何れにしても實例を擧げて説明をせられなかつたのは缺點である故に、自分は其御手傳のつもりで、目下集めかけて居る所謂椀貸の傳説を少しばかりこゝへ列べて見やうと思ふ。一々出處は掲げないが、皆世に有りふれた書物から忠實に拔出したものであることを最初に斷つて置く。

[やぶちゃん注:鳥居龍蔵(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。柳田は「理科大學の」と肩書を記しているが(本論文「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年二~三月の『東京日日新聞』)、鳥居は明治三八(一九〇五)年に初めて、正規教師(それまでは東京帝国大学の助手で、明治三一(一八九八)年着任)として東京帝国大学理科大学講師に任命されていた。後、大正一一(一九二二)年には東京帝国大学助教授に就任しており、「一つ目小僧その他」の発行された昭和九(一九三四)年には(大正十三年に東京帝国大学は辞職)、上智大学教授及び文学部長(昭和三(一九二八)年)であった。私には、当時、既に民俗学アカデミストの権化であった柳田のここでの口吻や表現には、端々に、学歴を持たない鳥居、その思いつき(柳田の主要な論説のそれも同様に甚だ恣意的(非科学的)な思いつきが多いと私は実は考えている)の論説に対し、あからさまな軽蔑感が感じられ、非常に不快である。

「無言貿易」沈黙交易(Silent Trade, dumb barter, depot trade)。ある共同体が別な外部とのコミュニケーションを出来る限り避けながらも、その外部から資源を得るための方法として、世界各地で用いられた交易取引法を指す。ウィキの「沈黙交易」によれば、『一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。言語が異なるもの同士の交易という解釈をされる場合があるが、サンドイッチ諸島での例のように言葉が通じる場合にも行なわれるため、要点は「沈黙」ではなく「物理的接近の忌避」とする解釈もある』。『フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスンは、世界各地の沈黙交易を研究し、人類史における平和が、市場の中立性や、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた。カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした。ピーター・バーンスタインは貿易商人たちに捕えられて奴隷にされることを避けるためと推測しており』、『商人の側としてはアフリカ人のもたらす金を何としても欲しいため、この奇妙なやり方に従うしかなかったとしている』。『日本での沈黙交易の最古の記録としては』、「日本書紀」斉明天皇六(六六〇)年三月の条に於ける『阿倍比羅夫が粛慎と戦う前に行なった行為があげられる。鳥居龍蔵は北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており』、『岡正雄は椀貸伝説やコロポックルの伝説』や「譚海」の記載されたアイヌの例や、「梁書」「唐書」の『記述にある中国の鬼市を無言交易とした』。『柳田國男は大菩薩峠や六十里越で黙市が行なわれたとし、他に』「諸国里人談」「本草記聞」の『記述にある交趾国の奇楠』(香木の沈香のこと)『交易を例としてあげた。かつて栗山や日光、大菩薩峠などの峠路にあった中宿で行なわれていた無人の交易を沈黙交易とするかどうかは、研究者の間で解釈がわかれている』。また、大正六(一九一七)年に『鳥居龍蔵が椀貸伝説を「沈黙交易」であると指摘すると』、翌年、まさにこの論文で』『柳田はこれに対して反論し、椀貸伝説は「異郷観念」の表現形態であり、竜宮伝説や隠れ里伝説に類する信仰現象であるとした。椀貸伝説の「沈黙交易」説は戦後も論争が続き』、昭和五四(一九七九)年に『栗本慎一郎は『経済人類学』において』、『椀貸し伝説は「沈黙交易」であり、さらに交易の原初的形態と指摘した。この「沈黙交易」を「交易の原初的形態」であるとする説に対しては、同年に岡正雄は「沈黙交易」は「交易の原初的形態」ではなく』、『交換の特殊型であるとし、客人歓待を前提とした「好意的贈答」の習慣であると指摘した』。新井白石が「蝦夷志」に『記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などを交換に用いた。アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などの間にも行われている。瀬川拓郎はアイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源が千島アイヌの沈黙交易にあるとし、千島アイヌの沈黙交易は疱瘡をはじめとする疫病を防ぐために行われたと論じた』とある。

「エスノグラフイー」EthnographyEthno(民族)+Graphy(記述)で「民族誌」の意。文化人類学や社会人類学に於いて、ある共同体(コミュニティ)にフィールド・ワークとして入り込んでその中での行動様式を記述し、価値観や意識大系を見出していく手法として使われてきた。現在は民族や生物集団だけでなく、発達した情報機器などの人工的包括体などにも拡張して用いられ、「フィールド情報学」などとも呼ばれている。]

 自分は鳥居氏の言はれた傳説學者の中では無い筈であるが、右の椀貸傳説なる名稱は實は近年我々の仲間だけで用い始めた語である。各地の言傳へが大同小異であつて、しかも共通の名がないのは不便なので、一二の地方に椀貸と云うて居るのを幸に、餘り好い語では無いが假にさう呼んで居るのである。そこで便宜上先づ其話から始めることにする。

 香川縣三豐郡大野原村の椀貸塚、是がその一例である。寛永年中に勸請したという八幡宮の塚穴で、近村中姫村の人々食器類をこの穴から借りて、塚の上の祠を祀るを例として居た故に、椀貸塚とも又椀貸穴とも呼んで居たが、後に借りた者が一の器を紛失してから貸さぬやうになつたとある。大野原が開墾せられ八幡を祭るに至つたのはそれよりも更に後の事で、以前は塚穴の中に大子殿(おほじどの)と云ふ神が住んで居られたなどと傳へて居る。之を椀貸と名づけたのは偶然で、現に同郡財田上村には膳塚と稱して、昔村民の請に任せ膳を出して貸したと云ふ故跡もある。

[やぶちゃん注:「香川縣三豐郡大野原村の椀貸塚」現在の香川県観音寺市大野原町大野原にある大野原八幡宮の境内(現在は同八幡宮の後背地)にある応(おう)神社の西方、この附近(中央)と推定される(グーグル・マップ・データ)。「玄松子の記録」の「神社」によれば、『椀貸塚と呼ばれる古墳の南に位置し、当社社殿は、椀貸塚の東に、東向きに鎮座する』とあり、社前の案内板の電子化を引くと(一部の字空けを詰めた)、『古来椀貸塚の東腹に鎮座し中姫村の産土神として崇敬せられたり』。『伝うる所に據れば武内宿祢の裔 紀氏 この地を開拓して住し紀氏の尊崇厚かりし社と云う』。『亦 延喜式内 於神社は当社なりと伝えたり』。『寛永年間 平田氏により郷社八幡神社の鎮座するところとなり 当社が飛地なるが故をもって 屡々八幡社と境界を争いたるが 丸亀藩の裁くところとなり 境石を建て紛争も絶えたち 而して今猶 当社の祭典維持等は数町を隔てたる中姫中央部落の人々により之を取り行われるものなり』とあり、「大野原八幡宮境内案内」の「香川県指定文化財 史跡 椀貸塚」の電子化によれば、『椀貸塚は周りに濠をめぐらした(現在は埋めている)大円墳で我が国古墳の特色を示すものである。羨門は南向きの横穴石室で巨岩(推定三五トン)をもって築いてある。石室の構築からみて、椀貸塚が最も古く玄室は巨岩を五段に積み重(つめ石を使用)天井石四枚でおおっている。玄室の高さは三つの古墳で最も高い、後期古墳と考えられる』とあって、玄室内からは鉄釘や須恵器が出土しているとあるから、この場合の「椀貸」の「椀」とはこの古墳内の須恵器であると考えてよいであろう。また、本文に出る「大子殿(おほじどの)」というのも、当初、私は王子信仰(本宮の主神からその子供の神として分かれ出でた神格を祀る習慣があり、これを「若宮(わかみや)」又は「御子神(みこがみ)」と呼んだ。後に神仏習合によっ仏教の神格の一つとして仏に扈従する少年の姿としての「童子」が「若宮」と習合されて「王子」と呼ばれるようになり、それを単独で祀る王子の社(やしろ)も「王子」と呼ばれるようになった)とも思ったのだが、「應神社」の「おう」、或いは、引用にある通り、この神社が式内社の「於(お)神社」(但し、古くは於は「お」ではなく「へ」と読んだ)と呼ばれる社格であったことからの「應神殿」「於神殿」で「おほじどの」であったのかも知れぬ。

「寛永」一六二四年から一六四五年。

「同郡財田上村」現在の香川県三豊(みとよ)市財田町(さいたちょう)財田上(さいたかみ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。同所の「膳塚」は不詳。]

 自分の郷里兵庫縣神崎郡越知谷村の南にも、山の麓に曲淵一名を椀貸淵と云ふ處があつて、淵の中央に大きな岩がある。昔は椀を借りたいと思ふ者は、前夜にこの淵に向ひ數を言つて賴んで置くと、次の朝は必ず此岩の上にその通りの椀が出してあつた。後に椀を一つ毀して返した者があつてから、絶對に貸さぬようになつたと云ひ、なおこの淵は底が龍宮に通じて居ると云ふことであつた。

[やぶちゃん注:柳田國男の郷里は飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「越知谷」(おちだに)は現在の同神崎郡福崎町越知(おち)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、辻川から越知谷は北へ二十キロメートル近く行ったところであるので、注意。「曲淵」はこの中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。夏季の川遊びの子供らの飛び込みで現在も知られる場所である。]

 福井縣の丸岡から中川村へ行く道の右側に、椀貸山と云ふ丸い形の芝山があつて、土地の人はこれを椀貸塚とも呼んで居る。越前國名蹟考に影響錄と云ふ本から抄錄した下久米田の黍塚と云ふのが若し是であるならば、この地でも慶長の頃までは申込に應じて椀家具を貸したさうである。其から更に七十年ばかり後の延寶の頃までは、此岡から出る何とか川の水に、每朝米の磨水(とぎみづ)が流れたとも言ひ傳へて居る。

[やぶちゃん注:「椀貸山」現在の福井県坂井市丸岡町坪江にある椀貸山古墳。ここ(グーグル・マップ・データ。航空写真での形状が確認出来る)。全長約四十五メートルの前方後円墳で須恵器などが出土している。一説に用明天皇の皇子であった椀子(まろこ)皇子(=当麻(たいま)皇子)の墓と伝えるのは如何にもな感じである。

「越前國名蹟考」福井藩右筆井上翼章の編になる越前地誌。文化一二(一八一五)年完成。

「影響錄」不詳。柳田國男は「妹の力」でも「越前大野郡誌」からとしてこの引用書を挙げているが、失礼ながら、この謂い方からは、当該原典は未見のように思われる。或いは散逸してしまった越前の古い地誌か?

「下久米田の黍塚」ここ(グーグル・マップ・データ)だが、先の椀貸山古墳とは南南東に七キメートル以上離れており、この柳田國男の同定は信じ難い

「慶長」一五九六年から一六一五年。

「延寶」一六七三年から一六八一年。]

 石川縣河北郡傳燈寺村字アラヤシキ小字椀貸穴と云ふ處には、口の幅二尺七寸高さ三尺ほどの橫穴が田の岸根に一つある。今では只穴の内に石が多く投げ込んであるが、昔此穴に居た古狐が椀を貸したと云ふ話が有る。岐阜縣飛驒の益田川の流域、下呂(げろ)村大字小川にも椀貸せ淵と云ふ淵があつて、播州の椀貸淵とほぼ同じ話がある。龍宮に通ずる穴と云ふのは、その淵では岩の眞中に明いて居つて、この穴に向つて借用を賴んださうである。返辨の時一人前を損じてそのまま返したために、「龍人の怒りに觸れてその後は如何に乞ふも貸さずなりしと云ふ」と、二年前に出た益田郡誌にも書いてある。

[やぶちゃん注:「石川縣河北郡傳燈寺村」現在の金沢市伝燈寺町内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳細位置は特定不能。

「二尺七寸」約八十三センチメートル。

「三尺」約九十一センチメートル。

「岐阜縣飛驒の益田川の流域、下呂(げろ)村大字小川」「益田川」(群名は「ました」であるが、河川(流域名)の名は現行では「ますだ」とも読むようである)下呂温泉周辺の飛騨川及びその支流を指すようである。さすればグーグル・マップ・データの下呂市小川附近(特に下呂に近い北西端の地区)或いはその地区へ東北から入ってくる支流の合流部であろう。何故なら、同小川地区のには「大渕公民館」があり、この地区が「大渕」(大淵)と呼ばれていることが判るからである。さらに調べると、PDFファイルの「下呂市下呂地域の民話に『竹原川と合流する大淵地域に「椀貸せ淵」の話が伝えられて』いる、とあることから、まさにこの大渕(大淵)地区がそこであることが明確となった。そこにはさらに、「椀貸せ淵」として『下呂駅より約4キロ下ったところに帯雲橋(たいうんきょう)という橋がある。帯雲橋の下に今では、泥水がたまっているところがある。ここが昔、椀などを貸したという椀貸せ淵である。深さはわからないが、この下の横の方に、穴があいており、この穴は遠く竜宮に通じているといわれている。昔は、竜宮の乙姫様の機を織る音が、かすかに聞こえていたそうである。そのころ里の人々は、お正月・お盆・お祭りなどに、お膳やお椀を借りにきていた。前日になると必要な数を頼んでおいて翌朝行くと、その数だけ入り口にちゃんと並べてあったという。里の人は喜んで、本当に不自由なしに暮らしていた。だがある年、一人の里人が借りていたお椀を割らしてしまった。さらに、割ったことを黙っていた。それ以来お椀を借りることができなくなってしまった。(参考資料『飛騨下呂』ほか)』とあった。

「益田郡誌」岐阜県益田郡(ましたぐん)編大正五(一九一六)年益田郡刊。国立国会図書館デジタルコレクションの同書画像三十三章 説」の「貸せ淵」で読める。既に述べた通り、本論文「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年二~三月である。]

 

 

2018/01/02

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(1) 序 / 一 不用の器官

 

    第九章 解剖學上の事實

 

 一個一個の動物を解剖して見ても、また多數の動物を比較解剖して見ても、動物は皆共同の先祖から進化し來つたとすれば解釋が出來るが、天地開闢の始から別々に出來た萬世不變のものとすれば、たゞ不思議といふだけで、到底理窟の解らぬやうな事項を澤山に發見する。これらは生物進化の直接の證據とはいへぬかも知れぬが、生物の進化を認めなければ、如何しても説明の出來ぬもの故、所謂事情の上の證據である。事情の證據は一つや二つでは或は誤らぬとも限らぬが、澤山にある以上は全く直接の證據と同然に確なものと見倣さなければならぬ。

 

     一 不用の器官

 

 動物の身體は悉く生活に必要な器官のみで出來て居るとは限らぬ。特に高等の動物を檢すると、體の表面に現れた處にも、内部に隱れた構造の方にも、生活上何の役にも立たぬ不用の器官が幾らもある。我々自身の身體を見ても、眉などは剃り落しても少しも差支へがない故、全く不用のもので、頭の毛も實は無くても餘り不自由を感ぜぬ。また男の乳なども僅に形があるばかりで一生涯用ゐることはない。身體の内部を解剖して見ると、かやうな不用な器官は尚澤山有る。嘗て或る解剖學者は、人間の胎兒が初めて出來るときから、成人と成り終るまでに生ずる不用の器官を數へ上げて見たが、殆ど百近くもあつた。

 

Jikakuwougokasukinniku

[ 耳殼を動かす筋肉

イ 耳殼を引き上ぐべき筋

ロ 耳殼を前へ引くべき筋

ハ 耳殼を後へ引くべき筋]

[やぶちゃん注:以上は講談社学術文庫の挿絵を用いたが、記号「イ・ロ・ハ」が「」になっているため、私が画像ソフトで変更した。「イ」の位置が原典画像では正中にあり、線も真っ直ぐであるが、この指示線は孰れも講談社学術文庫のそれを使用させて戴いたことをお断りしておく。]

 

 耳殼を動かし得る人は極めて稀であるが、耳殼を動かすべき筋肉は誰にもある。頭部の側面の皮を剝ぎ取つてその中を見ると、耳殼を前へ引く筋肉が一つ、耳殼を後へ引く筋肉が二つ、また耳殼を上へ引き上げるための比較的大きな筋肉が一つある。また耳殼自身の皮を剝いで見ると、表には大耳殼筋・小耳殼筋・耳珠筋・對耳珠筋などいふ筋肉が四つあり、裏にも尚二つばかりも筋肉がある。一體、筋肉といふものは、收縮によつて運動を起すのが役目で、如何なる運動と雖も、筋肉の收縮によらぬものはない。例へば上搏の前面の筋肉が收縮すれば背の關節が曲り、腿の前面の筋肉が收縮すれば膝の關節が伸びるが、これらの働きによつて、我々は船を漕いだり、球を蹴たりすることが出來る。然るに、耳殼の周圍竝に表面にある筋肉は、たゞ存在するといふばかりで、働くといふことは決してない。それ故、我々は耳殼を動かすべき筋肉は持ちながら、實際耳殼を動かし得る人は千人に一人もない。若し天地開闢の際に神が現今の通りの人間を造つたものとしたならば、如何なる料簡でかやうな無益の筋肉を造つたか、たゞ不可解といふより外はない。所が他の動物は如何と調べて見ると、獸類には皆これらの筋肉が發達し、また實際に働いて用をなして居る。牛・馬や犬・猫などが耳殼を動かすことは誰も常に見て知つて居ることであるが、猿類でも普通の猿や狒々(ひゝ)[やぶちゃん注:霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio。]などは多少耳殼を動かすことが出來る。たゞ猩々[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」。霊長目ヒト科オランウータン属 Pongoの類になると、人間と同樣で筋肉はありながら、耳殼を動かす力はない。元來、耳殼は外より來る音響を集めて鼓膜に達せしむるもの故、微細な音を聞くには有功なもので、我々でも微な響を聞くには手を添へて之を補ひ助けるが、また之を動かせば響の來る方角をも知ることが出來て、敵の攻めて來るのを豫知する等には甚だ調法なものである。然るに斯く或る動物には發達し、或る動物には形があるだけで何の役にも立たぬのは、何故であるか。若し人間も猿も犬も猫も總ベて同一の先祖から起つたもので、その共同の先祖には耳殼の筋肉が實際働いて居たものとしたならば、遺傳によつて之が總べての子孫に傳はり、自然淘汰の結果、耳殼を動かす必要のあるやうな生活を營む方の子孫には益々發達し、その必要のない方の子孫には漸々衰えて、終に今日見る如き形あつて働なきものが出來たと考へて、一通りの理窟は解る。生物進化の事實を認めなければ決して説明は出來ぬ。

 

Kutubikin

[屈尾筋]

[やぶちゃん注:これも指示の名称文字は私が新たに組んだ。指示線も少し伸ばした(ガタガタなのは直線をフリー・ハンドで引かねばならぬしょぼいソフトのせいなのでお許しあれ。]

 

 人間に尾があるといつたら信ぜぬ人が多いかも知れぬが、皮を剝ぎ、肉を除いて、骨骼だけにして見ると、尻の處に小さな骨が四つばかり珠數のやうに連なつて、實際尾を成して居る。解剖學上、尾骶骨と名づけるのは之であるが、肉に埋もれて居るから素より外からは解らぬ。倂し之を犬・猫の如き他の獸類の尾の骨と比較して見ると、たゞ長い短いの相違があるばかりで、餘り短い故、外に現れぬといふに過ぎぬ。尾が無くて尾の骨だけがあるのも、譯の解らぬことであるが、更に奇なことには、人體を多數に解剖すると、この尾骶骨を動かすべき筋肉を發見する。尾の骨は身體の内部にあり、且甚だ短くて何方へも動かしやうもないから、この屈尾筋といふ筋肉は、やはり耳殼の筋肉と同じく形あつて働きのないものである。人體だけのことを考へると、かやうな筋肉のあることはたゞ不思議といふばかりであるが、他の獸類には皆この筋肉が發達して、實際尾を動かして居るから、これらと比較して考へて見ると、前と同樣の結論に達せざるを得ぬ。卽ち若し人間も犬・猫も同一の先祖から起つたもので、その共同の先祖には尾があり、之を動かすべき筋肉も發達して居たとしたならば、遺傳でその形だけが人間にも殘つて居ると考へることが出來るが、人間を全く別のものとしては如何とも解釋が出來ぬ。

 馬の脊中に蠅などが來て止まると、馬はその皮膚を振ひ動かして、之を追ひ拂ふことは我々の常に見る所であるが、この働きは皮膚の直下に一面に薄く擴がれる一種の筋肉の收縮によることである。この筋肉は獸類には一般に存在するもので、現に猿などでも之を働かせて皮膚を動かすが、人間の身體を解剖して見ると、頭全體から頸・肩の方へ掛けて、やはりこの筋肉がある。倂し我々の動かし得るのは、僅に額の邊位で、その他は頭の頂上でも、後部でも、頸・肩等は尚更のこと、少しも動かすことは出來ぬ。額に皺を寄せるだけはこの筋肉の働きであるが、他の部分に於てはこの筋肉はたゞ存在するといふばかりで、少しも働きのない全然不用のものである。

Tyuuyousui

[猩々(左)  人(右)

蟲樣垂]

[やぶちゃん注:「猩々」は「しやうじやう(しょうじょう)」でオランウータン(哺乳綱 Mammalia 霊長目 Primates 直鼻亜目 Haplorhini Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae オランウータン属 Pongo で、現生種はスマトラオランウータンPongo abelii・ボルネオオランウータンPongo pygmaeusPongo tapanuliensis(二〇一七年にスマトラオランウータンのトバ湖以南の個体群が形態や分子系統解析から分割・新種記載されたもの)の三種)の別名(漢名)。]

 

 内臟の中にも不用の器官が幾つもある。人間や猩々の類には小腸と大腸との境に當る、所謂盲腸といふ部に、蟲樣垂と名づける凡そ蚯蚓程の大きさの管が附いて居るが、盲腸炎を療治するのに、腹の壁を切り開いてこの部を除き去つても、容易に平癒して少しも不都合が生ぜぬ所から見ると、この器官は確に無くても濟む無用のものであるが、たゞ實際何の役にも立たぬのみならず、柿や蜜柑の種子でもその中に紛れ込むと焮衝を起し、そのため盲腸炎などになつて死ぬる人が每年幾人かある位故、ない方が遙に好いのである。斯くの如く人間に取つては寧ろ邪魔なものであるが、他の獸類を解剖して見ると、果實や菜の葉を食ふ類ではこの部が著しく發達して、實際に消化の働きを務めて居る。兎などの腹を切り開くと、先づ第一に目立つのはこの部で、小腸よりも大腸よりも更に大きく、その中には半分消化した食物が一杯に滿ちて居るが、この部の長さが身長よりも餘程長い種類もある位故、このやうな動物では無論この器官は消化器械の主要な部である。他の動物に斯く必要な器官が、その必要のない人間や猩々の腹の中に何の働きもせず、たゞ形だけを小く存して居るのは、如何なることを意味するものであらうか。


Sigidayou

[鴫駝鳥]

[やぶちゃん注:「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目 Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科 Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。現在、中国名(漢名)でも同類は「鷸鴕屬」(「鷸」は鴫、「鴕」は「駝鳥」の意)である。現行、分類学上ではキーウィ属で一科一属とするが(五種(内一種に二亜種)。但し、種数をもっと少なくとる説もある)、実は実際にダチョウ目 Struthioniformes やダチョウ目モア科 Dinornithidae に含める説もある。「キーウィー」「キウィ」「キウイ」とも表記し、これは「キーウィー!」と口笛のような声で鳴くことから、ニュージーランドの先住民マオリ族がかく名付けていた名に由来する。お馴染みの果物の「キウイフルーツ」(双子葉植物綱 Magnoliopsidaビワモドキ亜綱 Dilleniidaeツバキ目 Thealesマタタビ科 Actinidiaceaeマタタビ属キウイフルーツ(オニマタタビ・シナサルナシ)Actinidia chinensis は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際にニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで一九五九年に命名されたものである。主に参照したウィキの「キーウィ(鳥)」によれば、本文に出るように、かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどまで減少して危機的な状況で、減衰の理由は、ヒトが食用とした過去があったこと、ヒトが持ち込んだ犬・猫などの哺乳類と共存適応が出来ず、雛を捕食されてしまったからとされている。]

 以上述べた所は皆獸類に關することであるが、他の動物にもかやうな例は非常に澤山にある。例へば鳥の翼は空中を飛ぶための器官であるが、鳥類の中には翼はあつても飛ぶ力のないものが幾らもある。アフリカ産の駝鳥なども、翼はあるが、身體の大きさに比較すれば甚だ小い故、少しも飛ぶ役には立たず、たゞ走るときに我々が腕を振る如くに動かすだけである。南洋諸島に棲む火食鳥では翼は極めて小く、外からは身體の兩側に一二本ずつ箸位の羽毛の軸が見えるばかりである。倂し善く調べて見れば、骨も筋肉も翼だけのものは具はつて居るが、その大きさは殆ど鷄の翼程もない。之が身長四尺以上もある大鳥に附いて居るのであるから、殆ど翼といふ名を附けられぬ。この點で更に甚だしいのはニュージーランド島に産する鴫駝鳥といふ鷄位の大きさの嘴の長い鳥である。この鳥は羽毛は鼠色で、晝間は穴の内に隱れ、夜になると出て來て太い足で地面を掘り、蟲を食ふて生活して居るが、その翼は外からは全く見えず、撫でて見て僅に手に觸れる位である。倂し小いながら翼の形だけは有して居る。總べてこれらの鳥は、一生涯飛ぶことのないもの故、翼はあつても全く不用なもので、若し初めから斯くの如き形に造られたものとしたならば、たゞ不思議といふより外はない。之に反して孰れも翼の發達して飛ぶ力を持つて居た先祖から降つたもので、生活上に必要がない所から、翼だけが漸々退化したものと考へたならば、かやうに痕跡ばかりが今日まで存して居ることも、一通り理會することが出來る。特にその住處の模樣を見るに、ニュージーランド島の如きは昔から狐・狸はいふに及ばず、總べて獸類といふものが居なかつた處故、夜出て步く鳥などには實に安全な處で、翼を用ゐて敵から逃げる必要は無かつた。その所へ西洋人が移住してから犬なども多く入つて來たので、飛ぶ力のないこの鳥は忽ち捕へ殺され、今では非常に稀になつて、近い中には全く種が盡きさうな樣子であるが、これらの事情から考へても、翼の發達した先祖から降つたといふ方が餘程眞實らしい。

[やぶちゃん注:「火食鳥」飛べない巨大な鳥で危険な鳥の一種ともされる、絶滅が危惧されているヒクイドリ目 Struthioniformesヒクイドリ科 Casuariidae ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuariusウィキの「ヒクイドリ」によれば、『インドネシア、ニューギニア、オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布し』、『和名は』『火を食べるわけではなく、喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたとの説が有力である』。『ヒクイドリ目の中では最大で、地球上では』二『番目に重い鳥類で、最大体重は』八十五キログラム』、『全長は』一メートル九十センチメートルにもなる』。『やや前かがみになっていることから』『体高はエミュー』(ヒクイドリ科 Casuariidae エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiae)『に及ばないが、体重は現生鳥類の中ではダチョウ』(ダチョウ目 Struthioniformes ダチョウ科 Struthionidae ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)『に次いで重』く、現生種では『アジア最大の鳥類である。頭に骨質の茶褐色のトサカがあり、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たすもの、また暑い熱帯雨林で体を冷やす役割がある』『と推測されている。毛髪状の羽毛は黒く、堅くしっかりとしており、翼の羽毛に至っては羽軸しか残存しない。顔と喉は青く、喉から垂れ下がる二本の赤色の肉垂を有し、体色は極端な性的二型は示さないが、メスの方が大きく、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしている。幼鳥は茶色の縦縞の模様をした羽毛を持つ』。『大柄な体躯に比して翼は小さく飛べないが、脚力が強く時速』五十キロメートル『程度で走ることが出来る』。三『本の指には大きく丈夫な刃物のような』十二センチメートルも『の爪があり』、『鱗に覆われた頑丈な脚をもつ。性質は用心深く臆病だが』、『意外と気性が荒い一面があ』り、『この刃物のような鉤爪は人や犬を』『刺すなどをして殺す能力』さえもあるとされる。]

 

Daijyanousiroasi

[大蛇の後足]

[やぶちゃん注:画像内の「後足」は原典に従がって右から左に私が書き換えた。]

 

 蛇には足のないのが當り前で、足が無くても蛇は運動に毫も差支えぬから、何でも餘計なことを附け加へるのを「蛇足を添える」といふが、印度・南アメリカ等の熱帶地方に産する大蛇には實際足の痕跡がある。外からは、肛門の邊の左右兩側に鱗の間に長さ一寸餘りの爪が一つづゝ見えるだけであるが、解剖して見ると體の内には腰の骨、腿の骨などまでが細いながら明に存して居る。蛇は蜥蜴や鰐などと同じく爬蟲類に屬するもので、解剖上・發生上ともこれらの動物とは極めて相類似して居るが、他の類が皆四足を持つて居るのに、蛇類だけに足がない。然も蛇類が總べて全く足を有せぬ譯ではなく、數種の大蛇には後足の痕跡が存してある。これらの點は孰れも蛇は四足を有した先祖から進化し降つたものとすれば、一應理窟も解るが、他の動物とは全く關係なしに蛇は初めから蛇として特別に造られたものとすると、少しも説明の出來ぬことである。


Mkuraebi

[盲目蝦]


 ヨーロッパ・北アメリカなどの闇黑な洞穴の水中から、之まで種々の魚類・蝦類等が發見せられたが、孰れも普通のものとは違つて盲目のものばかりである。然も全く目がない譯ではなく、魚類などでは眼球が不完全ながら形が具はつてあるが、皮膚に蔽はれて居るので物を見ることは出來ぬ。また最も面白いのは盲蝦の目で、一體、蟹や蝦の目には柄が附いてあつて、柄の根基が動くやうになつて居るが、アメリカの洞穴から採れた盲蝦では、目の柄ばかりが有つて、肝心の物を見る部分がない。このやうな例を目の前に見ては如何に動物の形狀は一定不變のものであるといふ考に慣れた人でも、最早その説を主張し續けることは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「盲目蝦」甲殻亜門 Crustacea 軟甲(エビ)綱Malacostraca 十脚(エビ)目Decapoda 抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata コエビ下目Caridea エビジャコ上科Crangonoidea エビジャコ科Crangonidae メクラエビPrionocrangon dofleini。盛んに学名の「差別」和名を変更した生物学会は何をしてる? 「めくら」はマズいんだろ!? どうするんだい? 大勢大好きヤンキー風にブラインドエビとでもするかい?! 大呆けだね。言葉狩りは実に胡散臭いと私は大真面目に思う。]

 かやうに、初、役に立つた器官が、必要が無くなつた後までその痕跡を留める例は、動物界には澤山あるが、我々人間社會を見ると、之と同樣なことが幾らもある。一つ二つ偶然思ひ出したものを擧げて見るが、金米糖を入れる桐の箱には、昔は一方に大きく開く處がある外に、必ずその反對の側の隅の處に小さな口が尚一つ造つてあつて、之を開くと金米糖が一粒づゝ出るやうになつて居た。昔の人は用も少く、氣も長かつた故、この口から一粒づゝ出して樂んで居たが、今日では大抵一摑みづゝ口ヘ入れるから、小な孔があつても誰も之を用ゐるものがない。然るに近頃に至るまで金米糖の箱には、やはり小さな口の形だけが造つてあるものが多い。然も眞に開く口ではなく、たゞ形ばかりで、爪を掛ける處などが一寸造つてあるに過ぎぬ。また人に物を贈るときに添える熨斗(のし)は、元慨熨斗鮑(のしあはび)の一片を紙で包んだものであるが、今では紙包の方が主となつて、熨斗鮑の方は往々たゞ黃色に印刷した畫で濟ませてある。これらは孰れも鴫駝鳥に翼の痕跡が殘り、大蛇の腰に後足の痕跡が殘つてあるのと同樣である。尚その他洋服の上衣の袖の外側に釦のあるのは昔シャツの如くに實際用ゐたからであるが、今は單に飾だけとなつて、何の役にも立たぬ。それ故、今日では之を附けぬ人も多い。帽子の鉢卷の結び目も、元は實際に結んだから出來たものであるが、今日では全體が造り附け故、たゞ聊か形ばかりを存して居る。また別の方面から例を取れば、英語などの文字の綴り方を見ると、實際に發音せぬ字が澤山にある。佛語では特に多いが、之も前と同樣の理窟で、今日の生活上實際に用ゐる方から考へると、發音せぬ無用な字を綴りに交ぜて書くのは全く無駄なこと故、イギリスフランスアメリカなどでは讀まぬ字は略して書こうといふ改良論が盛に行はれ、實際にも追々行はれるやうであるが、斯かる字も決して初めから讀まなかつた譯ではない。初めは皆發音したのが長い間に人が漸々略して讀まなくなつたのである。それ故、言語學上、文字の起源などを調べ、國語の變遷を研究するに當つては、最も必要なものであるが、動物の身體に見る所の不用器官は恰も之と同じく、その動物自身の生活上には何の役にも立たぬが、我々が斯かる動物の進化の筋道を調べ、如何なる先祖から降つたものであるかを推し考へようとするに當つては、最も有力な手掛りとなるものである。

[やぶちゃん注:今回から標題より「藪野直史附注」を外したのは、単に標題が長々敷しくなるのが厭だったからである。今もこれからも、私の自在勝手な注は健全である。悪しからず。]



 

本年パブリック・ドメイン記念テクスト第二弾 友人芥川の追憶 恒藤 恭

本年のパブリック・ドメイン記念テクスト第二弾として芥川龍之介の畏友恒藤恭の手になる「友人芥川の追憶」を公開した。

年賀状に就きまして

昨年、10月26日、脳腫瘍のために三女アリス(ビーグル犬)を12歳と26日で安楽死させましたが、それ以来、気分が鬱屈し、年賀状は一通も出しておりません。誠に失礼乍ら、お返事も出す方、出さぬ方の差別化もどうにも出来ず、親族も含め、一切、致さぬことと自ら決しました。それを無礼とされるは当然のことと存じますので、不快に思われた方は、爾後、年賀は御無用にてお願い致します。娘を亡くした感じの私には「迎春」の二文字をサイトと記事の頭に附すのさえも苦痛で御座いました。末尾ながら、皆様の御多幸を今年以後永年御祈念致します。

                 心朽窩主人 藪野直史


Alice


2018/01/01

南郷(みなんご)庵夢幻



    南郷庵夢幻
 
 障子に指で穴空けて靑空を拜む    唯至




 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸕鷀(しまつとり)〔ウ〕

 

U

しまつとり 鷧 水老鴉

鸕鷀

      【龢名之萬

       豆止利

       今俗云

       宇乃鳥】

ロウツウ

 

本綱鸕鷀處處水郷有之似而小色黑亦如鴉而長喙

微曲善沒水取魚日集洲渚夜巢林木久則糞毒多令木

枯也漁舟徃徃縻畜數十令其捕魚

肉【味】酸鹹冷微毒主治大腹鼓脹利水道凡魚骨哽者但

念鸕鷀不已卽下此乃厭伏之意耳最燒灰服之愈可

也其屎名蜀水花【宇乃久曾】

――――――――――――――――――――――

幼頭魚鮫 似鸕鷀而蛇頭長頂冬月羽毛落盡栖息溪

岸見人不能行卽沒入水

[やぶちゃん注:「」は底本では中の「力」のない字であるが、表示出来ない。「東洋文庫」訳が本字で表記しているのでそれに従った。]

 夫木白濱に墨の色なる島津鳥筆に及はゝ繪にかきてまし四條

 同 なるみかたうのすむ岩におふるめのめもかれすこそみまくほしけれ俊賴

△按龢名抄云大曰鸕日本紀私記志萬豆止里小曰鵜鶘【俗云宇】反

于本草之説而【鸕鷀小黑色鵜鶘大而灰白】有黑白大小之異蓋鸕

鷀全體黑惟頷下及翅裡脇邊有白色爾漁人令鸕鷀

捕魚魚未下咽時推鸕鷀喉則自出鸕鷀常馴知之而

不俟漁手而吐魚亦妙也好捕鮎初横咬鮎頭頻投水

豫殺之從首吞之𦐂𦐂振羽卽鮎潰於腹中惟尾不化

有出于者糞其鸕鷀使人濃州岐阜邊者至巧一擧放

十四雙餘國之漁人不相及其肉味有臭氣而不堪食

但割腹去膓切其餘用新刀則不臭【膓有臭氣使之不傳染也】

三才圖會云鸕鷀吐而生子多者生七八少者生五六

相連而出若絲緒焉本草陶陳二氏共云此鳥不卵生

口吐其雛如兎吐兒寇氏云有一大木上有三四十窠

旦夕視之既能交合又有碧色卵殻布地則吐雛之説

誤也

 

 

しまつとり 鷧〔(い)〕

      水老鴉〔(すいらうあ)〕

鸕鷀

      【龢名〔(わめい)〕、

       「之萬豆止利〔(しまつとり)〕」。

       今、俗に「宇乃鳥〔(うのとり)〕」

       と云ふ。】

ロウツウ

 

「本綱」、鸕鷀、處處の水郷に之れ有り。〔(げき)〕に似て小さく、色、黑し。亦、鴉(はしぶと)のごとくにして、喙、長く、微かに曲り、善く水に沒し、魚を取る。日は洲渚〔(すさ)〕に集まり、夜は林木に巢くふ。久しきときは、則ち、糞毒多く、木をして枯らしむなり。漁舟、徃徃〔(わうわう)〕、數十を縻(つな)ぎ畜(か)ひて、其れをして魚を捕らしむ。

肉【味。】酸鹹。冷。微毒。大腹鼓脹を治することを主〔(つかさど)〕り、水道を利す。凡そ、魚の骨、哽(のどにた)つ者は、但だ、密〔(みつ)〕に鸕鷀を念じ、已まざれば、卽ち、下る。此れ、乃〔(すなは)〕ち、厭-伏(まぢなひ)の意のみ。最も、〔その肉を〕燒灰にして之れを服さば、愈(いよい)よ、可なり。其の屎〔(くそ)〕を「蜀水花」【「宇乃久曾〔うのくそ)」〕】と名づく。

――――――――――――――――――――――

頭魚鮫〔(ようたうぎよかう)〕 鸕鷀に似て、蛇頭、長き項〔(うなづ)〕。冬の月、羽毛、落ち盡す。溪岸に栖み息(いこ)ふ。人を見て、行くこと能はず、卽ち、水に沒入す。

[やぶちゃん注:「」は底本では中の「力」のない字であるが、表示出来ない。「東洋文庫」訳が本字で表記しているのでそれに従った。また「長き項」は原文は前のように「長頂」であるが、どうも不自然で、「東洋文庫」訳でもこの字の右にママ注記を施し、訂正割注で『(項)』としているのが、確かに腑に落ちるので、ここでは特異的に「項」とした。

 「夫木」

    白濱に墨の色なる島津鳥

      筆に及ばゞ繪にかきてまし 四條

 「夫木」

    なるみがたうのすむ岩におふるめの

      めもかれずこそみまくほしけれ 俊賴

△按ずるに、「龢名抄〔(わみやうせう)〕」に云く、『大なるを「鸕〔ろし〕」と曰ひ【「日本紀」の私の記に云はく、「志萬豆止里」。】小なるを「鵜鶘〔(ていこ)〕」と曰ふ【俗に「宇」と云ふ。】』〔は〕「本草」の説に反〔(そむ)〕く。【鸕鷀は小にして黑色。鵜鶘は大にして灰白。】黑白大小の異、有り。蓋し、鸕鷀は、全體、黑く、惟だ頷〔(あご)〕の下及び翅の裡〔(うち)〕・脇の邊〔りに〕、白色、有るのみ。漁人、鸕鷀をして魚を捕らしむ。魚、未だ咽を下らざる時、鸕鷀の喉を推すときは、則ち、自〔(おのづか)〕ら出づ。鸕鷀、常に馴(な)れて之れを知りて[やぶちゃん注:この部分、返り点通りに従うと、「常に知りて之れを馴れて」となっておかしいので従わなかった。]漁〔人の〕手を俟〔(ま)〕たずして魚を吐くも亦、妙なり。好んで鮎(なまづ[やぶちゃん注:ママ。])を捕る。初め、横に鮎の頭を咬〔(か)み〕て頻りに水に投じ、豫(あらかじ)め、之れを殺し、首より之れを吞みて、「𦐂𦐂(はたはた)」と羽を振〔(ふる)〕へば、卽ち、鮎、腹中に潰〔(つぶ)〕る。惟だ、尾〔のみ〕、化せず〔して〕糞より出ずる者、有り。其れ、鸕鷀使〔(う〕つかひ)の人、濃州岐阜(ぎふ)の邊の者、至つて巧みなり。一擧に十四雙を放つ。餘國の漁人、相ひ及ばず。其の肉味、臭氣有りて食ふに堪へず。但し、腹を割〔(さ)〕き膓(わた)を去りて、其の餘を切るに、新〔しき〕刀を用ふるときは、則ち、臭からず【膓に臭氣有りて之れをして傳-染(うつ)さざらざればなり。】

「三才圖會」に云く、『鸕鷀、吐きて子を生ず。多き者、七、八を生ず。少き者、五、六を生ず。相ひ連〔なり〕て出づ。絲緒〔(しちよ)〕のごとし。』〔と〕。「本草」に陶・陳二氏、共に云く、『此の鳥、卵生せず、口より吐く。其れ、雛を兎の兒を吐くがごとし。』と。寇〔(こう)〕氏が云く、『一の大木、有り。上に三、四十の窠〔(す)〕、有り。旦夕、之れを視るに、既に能く交-合(つる)む。又、碧色の卵(たまご)有りて、殻(から)、地に布(し)く。』と云ふときは、則ち、雛を吐くの説、誤りなり。

 

[やぶちゃん注:まず、「本草綱目」のそれ、則ち、中国での鵜飼に用いるそれは、鳥綱 Avesカツオドリ目 Suliformes ウ科 Phalacrocoracidae ウ属カワウ Phalacrocorax carbo であるが、本邦の鵜飼に用いるそれは実は、ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus を用いている。これはウミウの方がカワウより大型であり、捕食する鮎(条鰭綱 Actinopterygiiキュウリウオ目 Osmeriformesキュウリウオ亜目 Osmeroideiキュウリウオ上科 Osmeroideaキュウリウオ科 Osmeridaeアユ亜科 Plecoglossinaeアユ属アユ Plecoglossus altivelis)も大型個体を狙うこと、中国ではウミウよりもカワウが多いことによるものである。

 

「龢名〔(わめい)〕」「龢」は「和」の正字。「龠」+音符「禾」で、「龠」は音階の調「和」すること、「禾」は実をつけた穀物の穂で、充実したさまを表わす。音楽が調和がとれ、満ち足りた様子が原義。

 「之萬豆止利〔(しまつとり)〕」「島つ鳥」。「つ」は格助詞で「所属・位置」を示し、「~の・~にある」の意。「島にすむ鳥」の意。

〔(げき)〕」は、鷺(さぎ)に似た大形の水鳥で、船首にこの水鳥を象った飾りを付けることで知られる。因みに、「鶂鶂(げいげい)」は鵞鳥(がちょう)の鳴き声を表わす。

「鴉(はしぶと)」スズメ目 Passeriformes カラス科 Corvidae カラス属ハシブトガラスCorvus macrorhynchos を指す。ここは主に体色を示すために提示したものであろう。

「沒し」潜り。

「洲渚〔(すさ)〕」渚。汀(みぎわ)。

「久しきときは」永く同一地点に巣食う時は。カワウもウミウも非常に大きなコロニー(万単位を作る(次注参照)。

「糞毒多く、木をして枯らしむなり」ウィキの「カワウ」によれば、『カワウは営巣時、生木の枝を折り取るため、コロニーでは樹木の枯死が広範囲にわたって起こることが多い。また、多量の真っ白な』糞(グアノ:guano:ケチュア語(QuechuaQuichua:かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族で、ペルー・エクアドル・ボリビア・チリ・コロンビア。アルゼンチンに居住する人々の言語)の「糞」を意味する語がスペイン語経由で英語に入ったもので、狭義には珊瑚礁等に海鳥の死骸・糞・彼らの餌の魚・卵の殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したものを指す。これはリン酸成分が濃縮したもので肥料資源として利用される)により、『コロニーや採餌場所では水質・土壌汚染、悪臭、景観の悪化など招く他、糞が植物を葉を覆って光合成を阻害し』、『植物を枯らす』とあり、ウミウの場合も真っ白になり、島嶼部を丸裸にしてしまうケースがある。

「大腹鼓脹」腹部の膨満。

「水道を利す」利尿作用がある。

「哽(のどにた)つ者は」咽喉に刺さった場合。

「密〔(みつ)〕に」一心に。

「鸕鷀を念じ、已まざれば」ウを念頭に浮かべて、不断に祈念すれば。類感呪術であるが、面白いのは「本草綱目」がこれを「厭-伏(まぢなひ)の意」味だけであって、プラグマティクには、以下の服用をすれば効果絶大である、と述べている点である。必ずしも呪術一辺倒でない点(但し、ウの肉をガシガシに焼いて炭灰にしたものという点では、未だ類感呪術ではあるが、刺さり方にもよるものの、処方としては現在でも肯定し得るものである)点には着目しておいてよかろう。

「蜀水花」川鵜の糞で、古い本草書には顔面の傷痕や斑点などを治す効果があるとされているようで、現在の漢方美容処方に使用されていることがネット情報で確認出来る。

頭魚鮫〔(ようたうぎよかう)〕」読みは推定音。種は不詳。識者の御教授を乞う。

「行くこと能はず」飛翔も出来ず、陸を歩行するのも苦手らしい。だから、水に潜るしかないというのである。これと、冬期に羽毛が総て脱落するという点が種同定のヒントにはなりそうだ。

「白濱に墨の色なる島津鳥筆に及ばゞ繪にかきてまし」整序すると、

 白濱(しらはま)に墨(すみ)の色なる島津鳥(しまつどり)筆に及ばば繪に畫きてまし

で、「夫木和歌抄」の巻二十七の雑九にある。「四條」とは「十六夜日記」の作者阿仏尼(貞応元(一二二二)年?~弘安六(一二八三)年)で、彼女の女房名である安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)をとったもの。これは「十六夜日記」に、

   *

たかしの山もこえつ。海見ゆるほどいとおもしろし。浦風あれて、松のひゞきすごく、浪いとあらし。

 

  わがためや浪もたかしの濱ならん

        袖の湊の浪はやすまで

 

いとしろき洲崎(すさき)に、くろき鳥のむれ居たるは、「う」といふとりなりけり。

 

  しら濱に墨の色なるしまつ鳥

        ふでもおよばば繪に畫きてまし

 

 濱名の橋より見わたせば、「かもめ」といふ鳥、いとおほくとびちがひて、水の底へもいる、岩のうへにも居たり。

 

  かもめ居る洲崎の岩もよそならず

        浪のかけこす袖に見なれて

   *

とで出る(前後を含めて引いた)。「たかしの山」は「高師山」で三河と遠江の間にある。

「なるみがたうのすむ岩におふるめのめもかれずこそみまくほしけれ」整序すると、

 

 鳴海潟鵜の栖む岩に生ふる藻(め)の芽も枯れずこそ見まくほしけれ

 

であろうか。「鳴海潟」は尾張国の歌枕で、潮の干満で渚の景観が大きく変化したことで知られる。同じく「夫木和歌抄」の巻二十七の雑九にある。「俊賴」は歌論書「俊頼髄脳」でしられる平安中後期の官吏で歌人の源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)。堀河院歌壇の中心的存在で白河法皇の命により「金葉和歌集」を撰進した。官吏としては不遇であった。

「龢名抄〔(わみやうせう)〕」源順の「和名類聚抄」。

「鸕〔ろし〕」私の推定読み。

『「日本紀」の私の記』「日本書紀私記」(にほんしょきしき)。平安時代に行われた「日本書紀」の講書の内容を纏めた書物である。「日本紀私記」(にほんぎしき)とも称する。「日本書紀」は、平安時代には養老五(七二一)年・弘仁三(八一二)年・承和一〇(八四三)年・元慶二(八七八)年・延喜四(九〇四)年・承平六(九三六)年・康保二(九六五)年の七回の講書「日本紀講筵」が行われたとされており、本書はこれらの講書の記録である。参照したウィキの「日本書紀私記」によれば、『種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている。甲乙丙本は水戸の彰考館に伝えられたもので、彰考館本と呼ばれる。また、丁本は六人部氏本と呼ばれる。このうちどの本がどの年代の講書の私記であるのかは明らかでないが、甲本は弘仁、丁本は承平の講書の私記であると考えられて』いる。鎌倉時代に成立した』「釈日本紀」にも『元慶や承平の私記が引用されており、本書は「日本書紀」を『解釈する上で重要な史料である』という。

「鵜鶘〔(ていこ)〕」私の推定読み。

「本草」「本草綱目」。

「反〔(そむ)〕く」逆である。「本草綱目」には「鸕」はないが、「鵜鶘」は独立項としてあり、そこでは「大如蒼鵞」とか、「似鶚而甚大灰色如蒼鵞」とあり、大きいことが特異的に記されているのを良安は言っているのであろう。

「妙なり」何とも言えず、興趣がある。

「鮎(なまづ[やぶちゃん注:ママ。])」中国語では「鮎」は確かにナマズ(条鰭綱 Actinopterygii新鰭亜綱 Neopterygii骨鰾上目 Ostariophysiナマズ目 Siluriformesナマズ科 Siluridaeナマズ属 Silurusナマズ Silurus asotus を指すが、何故ここで良安がわざわざ「ナマヅ」(原典はカタカナ)とルビを振ったのか、大いに不審である。鯰(なまず)の生態から言っても、鵜が鯰を鵜飼漁に於いて有意に捕食するとは思われないからである。因みに「東洋文庫」訳ではこのルビを排除している。

「𦐂𦐂(はたはた)」オノマトペイア。「𦐂」(音:ヨク・イキ)は翼の意。

「化せず〔して〕」消化しない(されない)で。

「糞より出ずる者、有り」「者」とあるから、そういう場合もある、の意であるから、尾も消化してしまうケースもあるということになる。

「鸕鷀使〔(う〕つかひ)」鵜飼。

「十四雙」一つの繩手で一対ということであろうから、二十八羽となる。

「氣」良安は多くの場面でこの字を「かざ」と訓じているが、「臭」に送り仮名「キ」は送られていないので、ここは「臭氣」で「しうき(しゅうき)」と読んでおくことにした。

「絲緒〔(しちよ)〕」長い糸にコマを結んだように、繋がっていることを言っているようである。

「陶」六朝時代の医師で科学者でもあっ弘景(四五六年~五三六年)。李時珍の「本草綱目」には彼の叙述が頻繁に引用される。

「陳」陳蔵器(六八一年?~七五七年?)は唐代の医学者で本草学者。浙江省の四明の生まれ。開元年間(七一三年~七四一年)に博物学的医書「本草拾遺」を編纂している。やはり「本草綱目」には彼の叙述が頻繁に引用されている。

「雛を兎の兒を吐くがごとし」南方熊楠の「十二支考」の「兎に関する民俗と伝説」(大正四(一九一五)年一月発行『太陽』初出)に、

   *

陳蔵器の説に「兎の尻に孔あり、子口より出づ、故に妊婦これを忌む、ただ欠唇のためにあらざるなり」。ただ尻に孔あるばかりでは珍しうないが、これは兎の肛門の辺に数穴あるを指さしたので、予の近処の兎狩専門の人に聞くと兎は子を生むとたちまち自分の腹の毛を搔きむしりそれで子を被う、と言った。牛が毛玉を吐く例などと比較して、この一事から子を吐くと言い出たのだろ。しかして、支那の妊婦は兎を食うて産む子は痔持ちになったり、毎度嘔(へど)吐(つ)いたり、また欠唇(いくち)に生まれつくと信じたのだろ。『埤雅』に咀嚼するものは九竅(きょう)にして胎生するに、独り兎は雌雄とも八竅にして吐生す、と見え、『博物志』には「兎、月を望んで孕(はら)み、口中より子を吐く。故にこれを兎(と)という、兎は吐なり」と出づ。雌雄ともに八竅とは鳥類同様生殖と排穢の両機が一穴に兼備され居るということで、兎の陰具は平生ちょっと外へ見えぬから言い出したらしい。王充の『論衡』に、兎の雌は雄の毫(け)を舐(な)めて孕むとある。『楚辞』に顧兎とあるは、注に、顧兎月の腹にあるを天下の兎が望み見て気を感じて孕む、と見ゆ。従って仲秋月の明暗を見て兎生まるる多少を知るなど説き出した。わが邦でも昔は兎を八竅と見たものか、従来兎を鳥類と見なし、獣肉を忌む神にも供え、また家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由。

   *

とある(引用は一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集1」に拠った)。

「寇〔(こう)〕氏」北宋の官吏で本草学者であった寇宗奭(こう そうせき 生没年未詳)。諸対象の薬性を研究し、処方する際には個々の薬性の特徴を理解すべきだと主張し、一一一六年に自らの観察と実験に基づいた薬学書「本草衍義」(原書名は「本草廣義」。全二十巻)を著している。

「一の大木、有り。上に三、四十の」鸕鷀の「窠〔(す)〕、有り」である。

「殻(から)、地に布(し)く」卵から孵化し、その卵の殻が多数、木の下の地面に散り、敷くようにあった。寇宗奭のフィールド・ワークの勝利である。]

 

 

元日パブリック・ドメイン記念テクスト 虎見邦男作「ウルトラQ バルンガ」

 
   2018年 迎春
 

今年最初の、私が満を持して作成した電子テクスト、元日パブリック・ドメイン記念テクストとして「心朽窩旧館」に、

「ウルトラQ バルンガ(虎見邦男脚本 ベタ・テクスト・データ)」HTML横書版

及び

同PDF縦書版

   *

「ウルトラQ バルンガ 虎見邦男 附 放映版校合によるやぶちゃん注」HTML横書版

及び

同PDF縦書版

の二篇四種を公開した。



――奈良丸明彦博士とサタン一号墜落事故で亡くなった御子息に捧ぐ――

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