進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(1) 序 / 一 不用の器官
第九章 解剖學上の事實
一個一個の動物を解剖して見ても、また多數の動物を比較解剖して見ても、動物は皆共同の先祖から進化し來つたとすれば解釋が出來るが、天地開闢の始から別々に出來た萬世不變のものとすれば、たゞ不思議といふだけで、到底理窟の解らぬやうな事項を澤山に發見する。これらは生物進化の直接の證據とはいへぬかも知れぬが、生物の進化を認めなければ、如何しても説明の出來ぬもの故、所謂事情の上の證據である。事情の證據は一つや二つでは或は誤らぬとも限らぬが、澤山にある以上は全く直接の證據と同然に確なものと見倣さなければならぬ。
一 不用の器官
動物の身體は悉く生活に必要な器官のみで出來て居るとは限らぬ。特に高等の動物を檢すると、體の表面に現れた處にも、内部に隱れた構造の方にも、生活上何の役にも立たぬ不用の器官が幾らもある。我々自身の身體を見ても、眉などは剃り落しても少しも差支へがない故、全く不用のもので、頭の毛も實は無くても餘り不自由を感ぜぬ。また男の乳なども僅に形があるばかりで一生涯用ゐることはない。身體の内部を解剖して見ると、かやうな不用な器官は尚澤山有る。嘗て或る解剖學者は、人間の胎兒が初めて出來るときから、成人と成り終るまでに生ずる不用の器官を數へ上げて見たが、殆ど百近くもあつた。
[ 耳殼を動かす筋肉
イ 耳殼を引き上ぐべき筋
ロ 耳殼を前へ引くべき筋
ハ 耳殼を後へ引くべき筋]
[やぶちゃん注:以上は講談社学術文庫の挿絵を用いたが、記号「イ・ロ・ハ」が「①/②・③」になっているため、私が画像ソフトで変更した。「イ」の位置が原典画像では正中にあり、線も真っ直ぐであるが、この指示線は孰れも講談社学術文庫のそれを使用させて戴いたことをお断りしておく。]
耳殼を動かし得る人は極めて稀であるが、耳殼を動かすべき筋肉は誰にもある。頭部の側面の皮を剝ぎ取つてその中を見ると、耳殼を前へ引く筋肉が一つ、耳殼を後へ引く筋肉が二つ、また耳殼を上へ引き上げるための比較的大きな筋肉が一つある。また耳殼自身の皮を剝いで見ると、表には大耳殼筋・小耳殼筋・耳珠筋・對耳珠筋などいふ筋肉が四つあり、裏にも尚二つばかりも筋肉がある。一體、筋肉といふものは、收縮によつて運動を起すのが役目で、如何なる運動と雖も、筋肉の收縮によらぬものはない。例へば上搏の前面の筋肉が收縮すれば背の關節が曲り、腿の前面の筋肉が收縮すれば膝の關節が伸びるが、これらの働きによつて、我々は船を漕いだり、球を蹴たりすることが出來る。然るに、耳殼の周圍竝に表面にある筋肉は、たゞ存在するといふばかりで、働くといふことは決してない。それ故、我々は耳殼を動かすべき筋肉は持ちながら、實際耳殼を動かし得る人は千人に一人もない。若し天地開闢の際に神が現今の通りの人間を造つたものとしたならば、如何なる料簡でかやうな無益の筋肉を造つたか、たゞ不可解といふより外はない。所が他の動物は如何と調べて見ると、獸類には皆これらの筋肉が發達し、また實際に働いて用をなして居る。牛・馬や犬・猫などが耳殼を動かすことは誰も常に見て知つて居ることであるが、猿類でも普通の猿や狒々(ひゝ)[やぶちゃん注:霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio。]などは多少耳殼を動かすことが出來る。たゞ猩々[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」。霊長目ヒト科オランウータン属 Pongo。]の類になると、人間と同樣で筋肉はありながら、耳殼を動かす力はない。元來、耳殼は外より來る音響を集めて鼓膜に達せしむるもの故、微細な音を聞くには有功なもので、我々でも微な響を聞くには手を添へて之を補ひ助けるが、また之を動かせば響の來る方角をも知ることが出來て、敵の攻めて來るのを豫知する等には甚だ調法なものである。然るに斯く或る動物には發達し、或る動物には形があるだけで何の役にも立たぬのは、何故であるか。若し人間も猿も犬も猫も總ベて同一の先祖から起つたもので、その共同の先祖には耳殼の筋肉が實際働いて居たものとしたならば、遺傳によつて之が總べての子孫に傳はり、自然淘汰の結果、耳殼を動かす必要のあるやうな生活を營む方の子孫には益々發達し、その必要のない方の子孫には漸々衰えて、終に今日見る如き形あつて働なきものが出來たと考へて、一通りの理窟は解る。生物進化の事實を認めなければ決して説明は出來ぬ。
[屈尾筋]
[やぶちゃん注:これも指示の名称文字は私が新たに組んだ。指示線も少し伸ばした(ガタガタなのは直線をフリー・ハンドで引かねばならぬしょぼいソフトのせいなのでお許しあれ。]
人間に尾があるといつたら信ぜぬ人が多いかも知れぬが、皮を剝ぎ、肉を除いて、骨骼だけにして見ると、尻の處に小さな骨が四つばかり珠數のやうに連なつて、實際尾を成して居る。解剖學上、尾骶骨と名づけるのは之であるが、肉に埋もれて居るから素より外からは解らぬ。倂し之を犬・猫の如き他の獸類の尾の骨と比較して見ると、たゞ長い短いの相違があるばかりで、餘り短い故、外に現れぬといふに過ぎぬ。尾が無くて尾の骨だけがあるのも、譯の解らぬことであるが、更に奇なことには、人體を多數に解剖すると、この尾骶骨を動かすべき筋肉を發見する。尾の骨は身體の内部にあり、且甚だ短くて何方へも動かしやうもないから、この屈尾筋といふ筋肉は、やはり耳殼の筋肉と同じく形あつて働きのないものである。人體だけのことを考へると、かやうな筋肉のあることはたゞ不思議といふばかりであるが、他の獸類には皆この筋肉が發達して、實際尾を動かして居るから、これらと比較して考へて見ると、前と同樣の結論に達せざるを得ぬ。卽ち若し人間も犬・猫も同一の先祖から起つたもので、その共同の先祖には尾があり、之を動かすべき筋肉も發達して居たとしたならば、遺傳でその形だけが人間にも殘つて居ると考へることが出來るが、人間を全く別のものとしては如何とも解釋が出來ぬ。
馬の脊中に蠅などが來て止まると、馬はその皮膚を振ひ動かして、之を追ひ拂ふことは我々の常に見る所であるが、この働きは皮膚の直下に一面に薄く擴がれる一種の筋肉の收縮によることである。この筋肉は獸類には一般に存在するもので、現に猿などでも之を働かせて皮膚を動かすが、人間の身體を解剖して見ると、頭全體から頸・肩の方へ掛けて、やはりこの筋肉がある。倂し我々の動かし得るのは、僅に額の邊位で、その他は頭の頂上でも、後部でも、頸・肩等は尚更のこと、少しも動かすことは出來ぬ。額に皺を寄せるだけはこの筋肉の働きであるが、他の部分に於てはこの筋肉はたゞ存在するといふばかりで、少しも働きのない全然不用のものである。
[猩々(左) 人(右)
蟲樣垂]
[やぶちゃん注:「猩々」は「しやうじやう(しょうじょう)」でオランウータン(哺乳綱 Mammalia 霊長目 Primates 直鼻亜目 Haplorhini Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae オランウータン属 Pongo で、現生種はスマトラオランウータンPongo
abelii・ボルネオオランウータンPongo
pygmaeus・Pongo
tapanuliensis(二〇一七年にスマトラオランウータンのトバ湖以南の個体群が形態や分子系統解析から分割・新種記載されたもの)の三種)の別名(漢名)。]
内臟の中にも不用の器官が幾つもある。人間や猩々の類には小腸と大腸との境に當る、所謂盲腸といふ部に、蟲樣垂と名づける凡そ蚯蚓程の大きさの管が附いて居るが、盲腸炎を療治するのに、腹の壁を切り開いてこの部を除き去つても、容易に平癒して少しも不都合が生ぜぬ所から見ると、この器官は確に無くても濟む無用のものであるが、たゞ實際何の役にも立たぬのみならず、柿や蜜柑の種子でもその中に紛れ込むと焮衝を起し、そのため盲腸炎などになつて死ぬる人が每年幾人かある位故、ない方が遙に好いのである。斯くの如く人間に取つては寧ろ邪魔なものであるが、他の獸類を解剖して見ると、果實や菜の葉を食ふ類ではこの部が著しく發達して、實際に消化の働きを務めて居る。兎などの腹を切り開くと、先づ第一に目立つのはこの部で、小腸よりも大腸よりも更に大きく、その中には半分消化した食物が一杯に滿ちて居るが、この部の長さが身長よりも餘程長い種類もある位故、このやうな動物では無論この器官は消化器械の主要な部である。他の動物に斯く必要な器官が、その必要のない人間や猩々の腹の中に何の働きもせず、たゞ形だけを小く存して居るのは、如何なることを意味するものであらうか。
[鴫駝鳥]
[やぶちゃん注:「鴫駝鳥」(しぎだちやう(しぎだちょう))はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱 Aves 古顎上目 Palaeognathae キーウィ目 Apterygiformes キーウィ科 Apterygidae キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。現在、中国名(漢名)でも同類は「鷸鴕屬」(「鷸」は鴫、「鴕」は「駝鳥」の意)である。現行、分類学上ではキーウィ属で一科一属とするが(五種(内一種に二亜種)。但し、種数をもっと少なくとる説もある)、実は実際にダチョウ目 Struthioniformes やダチョウ目モア科 Dinornithidae に含める説もある。「キーウィー」「キウィ」「キウイ」とも表記し、これは「キーウィー!」と口笛のような声で鳴くことから、ニュージーランドの先住民マオリ族がかく名付けていた名に由来する。お馴染みの果物の「キウイフルーツ」(双子葉植物綱 Magnoliopsidaビワモドキ亜綱 Dilleniidaeツバキ目 Thealesマタタビ科 Actinidiaceaeマタタビ属キウイフルーツ(オニマタタビ・シナサルナシ)Actinidia
chinensis は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際にニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで一九五九年に命名されたものである。主に参照したウィキの「キーウィ(鳥)」によれば、本文に出るように、かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどまで減少して危機的な状況で、減衰の理由は、ヒトが食用とした過去があったこと、ヒトが持ち込んだ犬・猫などの哺乳類と共存適応が出来ず、雛を捕食されてしまったからとされている。]
以上述べた所は皆獸類に關することであるが、他の動物にもかやうな例は非常に澤山にある。例へば鳥の翼は空中を飛ぶための器官であるが、鳥類の中には翼はあつても飛ぶ力のないものが幾らもある。アフリカ産の駝鳥なども、翼はあるが、身體の大きさに比較すれば甚だ小い故、少しも飛ぶ役には立たず、たゞ走るときに我々が腕を振る如くに動かすだけである。南洋諸島に棲む火食鳥では翼は極めて小く、外からは身體の兩側に一二本ずつ箸位の羽毛の軸が見えるばかりである。倂し善く調べて見れば、骨も筋肉も翼だけのものは具はつて居るが、その大きさは殆ど鷄の翼程もない。之が身長四尺以上もある大鳥に附いて居るのであるから、殆ど翼といふ名を附けられぬ。この點で更に甚だしいのはニュージーランド島に産する鴫駝鳥といふ鷄位の大きさの嘴の長い鳥である。この鳥は羽毛は鼠色で、晝間は穴の内に隱れ、夜になると出て來て太い足で地面を掘り、蟲を食ふて生活して居るが、その翼は外からは全く見えず、撫でて見て僅に手に觸れる位である。倂し小いながら翼の形だけは有して居る。總べてこれらの鳥は、一生涯飛ぶことのないもの故、翼はあつても全く不用なもので、若し初めから斯くの如き形に造られたものとしたならば、たゞ不思議といふより外はない。之に反して孰れも翼の發達して飛ぶ力を持つて居た先祖から降つたもので、生活上に必要がない所から、翼だけが漸々退化したものと考へたならば、かやうに痕跡ばかりが今日まで存して居ることも、一通り理會することが出來る。特にその住處の模樣を見るに、ニュージーランド島の如きは昔から狐・狸はいふに及ばず、總べて獸類といふものが居なかつた處故、夜出て步く鳥などには實に安全な處で、翼を用ゐて敵から逃げる必要は無かつた。その所へ西洋人が移住してから犬なども多く入つて來たので、飛ぶ力のないこの鳥は忽ち捕へ殺され、今では非常に稀になつて、近い中には全く種が盡きさうな樣子であるが、これらの事情から考へても、翼の發達した先祖から降つたといふ方が餘程眞實らしい。
[やぶちゃん注:「火食鳥」飛べない巨大な鳥で危険な鳥の一種ともされる、絶滅が危惧されているヒクイドリ目 Struthioniformesヒクイドリ科 Casuariidae ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius。ウィキの「ヒクイドリ」によれば、『インドネシア、ニューギニア、オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布し』、『和名は』『火を食べるわけではなく、喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたとの説が有力である』。『ヒクイドリ目の中では最大で、地球上では』二『番目に重い鳥類で、最大体重は』八十五キログラム』、『全長は』一メートル九十センチメートルにもなる』。『やや前かがみになっていることから』『体高はエミュー』(ヒクイドリ科 Casuariidae エミュー属エミュー Dromaius
novaehollandiae)『に及ばないが、体重は現生鳥類の中ではダチョウ』(ダチョウ目 Struthioniformes ダチョウ科 Struthionidae ダチョウ属ダチョウ Struthio
camelus)『に次いで重』く、現生種では『アジア最大の鳥類である。頭に骨質の茶褐色のトサカがあり、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たすもの、また暑い熱帯雨林で体を冷やす役割がある』『と推測されている。毛髪状の羽毛は黒く、堅くしっかりとしており、翼の羽毛に至っては羽軸しか残存しない。顔と喉は青く、喉から垂れ下がる二本の赤色の肉垂を有し、体色は極端な性的二型は示さないが、メスの方が大きく、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしている。幼鳥は茶色の縦縞の模様をした羽毛を持つ』。『大柄な体躯に比して翼は小さく飛べないが、脚力が強く時速』五十キロメートル『程度で走ることが出来る』。三『本の指には大きく丈夫な刃物のような』十二センチメートルも『の爪があり』、『鱗に覆われた頑丈な脚をもつ。性質は用心深く臆病だが』、『意外と気性が荒い一面があ』り、『この刃物のような鉤爪は人や犬を』『刺すなどをして殺す能力』さえもあるとされる。]
[大蛇の後足]
[やぶちゃん注:画像内の「後足」は原典に従がって右から左に私が書き換えた。]
蛇には足のないのが當り前で、足が無くても蛇は運動に毫も差支えぬから、何でも餘計なことを附け加へるのを「蛇足を添える」といふが、印度・南アメリカ等の熱帶地方に産する大蛇には實際足の痕跡がある。外からは、肛門の邊の左右兩側に鱗の間に長さ一寸餘りの爪が一つづゝ見えるだけであるが、解剖して見ると體の内には腰の骨、腿の骨などまでが細いながら明に存して居る。蛇は蜥蜴や鰐などと同じく爬蟲類に屬するもので、解剖上・發生上ともこれらの動物とは極めて相類似して居るが、他の類が皆四足を持つて居るのに、蛇類だけに足がない。然も蛇類が總べて全く足を有せぬ譯ではなく、數種の大蛇には後足の痕跡が存してある。これらの點は孰れも蛇は四足を有した先祖から進化し降つたものとすれば、一應理窟も解るが、他の動物とは全く關係なしに蛇は初めから蛇として特別に造られたものとすると、少しも説明の出來ぬことである。
[盲目蝦]
ヨーロッパ・北アメリカなどの闇黑な洞穴の水中から、之まで種々の魚類・蝦類等が發見せられたが、孰れも普通のものとは違つて盲目のものばかりである。然も全く目がない譯ではなく、魚類などでは眼球が不完全ながら形が具はつてあるが、皮膚に蔽はれて居るので物を見ることは出來ぬ。また最も面白いのは盲蝦の目で、一體、蟹や蝦の目には柄が附いてあつて、柄の根基が動くやうになつて居るが、アメリカの洞穴から採れた盲蝦では、目の柄ばかりが有つて、肝心の物を見る部分がない。このやうな例を目の前に見ては如何に動物の形狀は一定不變のものであるといふ考に慣れた人でも、最早その説を主張し續けることは出來ぬであらう。
[やぶちゃん注:「盲目蝦」甲殻亜門 Crustacea 軟甲(エビ)綱Malacostraca 十脚(エビ)目Decapoda 抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata コエビ下目Caridea エビジャコ上科Crangonoidea エビジャコ科Crangonidae メクラエビPrionocrangon
dofleini。盛んに学名の「差別」和名を変更した生物学会は何をしてる? 「めくら」はマズいんだろ!? どうするんだい? 大勢大好きヤンキー風にブラインドエビとでもするかい?! 大呆けだね。言葉狩りは実に胡散臭いと私は大真面目に思う。]
かやうに、初、役に立つた器官が、必要が無くなつた後までその痕跡を留める例は、動物界には澤山あるが、我々人間社會を見ると、之と同樣なことが幾らもある。一つ二つ偶然思ひ出したものを擧げて見るが、金米糖を入れる桐の箱には、昔は一方に大きく開く處がある外に、必ずその反對の側の隅の處に小さな口が尚一つ造つてあつて、之を開くと金米糖が一粒づゝ出るやうになつて居た。昔の人は用も少く、氣も長かつた故、この口から一粒づゝ出して樂んで居たが、今日では大抵一摑みづゝ口ヘ入れるから、小な孔があつても誰も之を用ゐるものがない。然るに近頃に至るまで金米糖の箱には、やはり小さな口の形だけが造つてあるものが多い。然も眞に開く口ではなく、たゞ形ばかりで、爪を掛ける處などが一寸造つてあるに過ぎぬ。また人に物を贈るときに添える熨斗(のし)は、元慨熨斗鮑(のしあはび)の一片を紙で包んだものであるが、今では紙包の方が主となつて、熨斗鮑の方は往々たゞ黃色に印刷した畫で濟ませてある。これらは孰れも鴫駝鳥に翼の痕跡が殘り、大蛇の腰に後足の痕跡が殘つてあるのと同樣である。尚その他洋服の上衣の袖の外側に釦のあるのは昔シャツの如くに實際用ゐたからであるが、今は單に飾だけとなつて、何の役にも立たぬ。それ故、今日では之を附けぬ人も多い。帽子の鉢卷の結び目も、元は實際に結んだから出來たものであるが、今日では全體が造り附け故、たゞ聊か形ばかりを存して居る。また別の方面から例を取れば、英語などの文字の綴り方を見ると、實際に發音せぬ字が澤山にある。佛語では特に多いが、之も前と同樣の理窟で、今日の生活上實際に用ゐる方から考へると、發音せぬ無用な字を綴りに交ぜて書くのは全く無駄なこと故、イギリス・フランス・アメリカなどでは讀まぬ字は略して書こうといふ改良論が盛に行はれ、實際にも追々行はれるやうであるが、斯かる字も決して初めから讀まなかつた譯ではない。初めは皆發音したのが長い間に人が漸々略して讀まなくなつたのである。それ故、言語學上、文字の起源などを調べ、國語の變遷を研究するに當つては、最も必要なものであるが、動物の身體に見る所の不用器官は恰も之と同じく、その動物自身の生活上には何の役にも立たぬが、我々が斯かる動物の進化の筋道を調べ、如何なる先祖から降つたものであるかを推し考へようとするに當つては、最も有力な手掛りとなるものである。
[やぶちゃん注:今回から標題より「藪野直史附注」を外したのは、単に標題が長々敷しくなるのが厭だったからである。今もこれからも、私の自在勝手な注は健全である。悪しからず。]
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