子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木曾旅行
房総行脚、木曾旅行
明治二十四年(二十五歳)も依然常盤会寄宿舎にあった。三月中に碧梧桐氏が上京して、同じ寄宿舎にいたようなこともあるが、この時は高等中学の試験を受けるためだったので、文学的方面には格別の展開を見るに至らなかった。
[やぶちゃん注:「明治二十四年」一八九一年。
「二十五歳」無論、数えで正岡子規は慶応三年九月十七日(グレゴリオ暦一八六七年十月十四日)生まれであるから、この「三月中」は未だ満二十三歳。]
三月二十日、居士は房総行脚の途に上っている。脳痛を医(いやさ)んがためとあるが、煙霞の癖(へき)の已みがたきものがあったのであろう。市川に菅笠をもとめ、雨に遭って蓑(みの)も買い、全くの行脚姿になった。後年の居士の歌に「旅行くと都路さかり市川の笠賣る家に笠もとめ著(き)つ」「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」などとあるのは、この旅行の際のことを詠んだのである。子規庵に長く伝わったのはこの蓑で、三十二年に書いた「室内の什物」なる文章に「十年前房總に遊びし時のかたみなり。春の旅は菜の花に曇りていつしか雨の降りいでたるに、宿り求めんには早く、傘買はんもおろかなり。いでや浮世をかくれ蓑著んとて、とある里にて購(あがな)ひたるが、著て見ればそゞろに嬉しくて、雨の中を岡の菫に寐ころびたるその蓑なり」と記されているが、買った場所は明(あきらか)でない、
[やぶちゃん注:「草枕旅路さぶしくふる雨に菫咲く野を行きし時の蓑」の「蓑」は諸引用を見ても「みの」で、字余りとなっている。
「室内の什物」明治三二(一九〇〇)年筆。「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」(子規没後出版)の「君が室内の什物」で画像で読める(画面操作によって単ページ・ダウン・ロード画像の生成も出来る)。]
この行は船橋、佐倉、馬渡を経て千葉に到り、小湊、平磯、館山から那古、船形(ふながた)に詣で、保多、羅漢寺、鋸山等を歴遊、四月二日帰京した。行程九日である。帰来「かくれみの」を草して知友の回覧に供した。「かくれ蓑」「隠蓑日記」(漢文)「かくれみの句集」の三篇より成っているが、著しく目につくのは、巻頭の「かくれ蓑」の文章が西鶴張(ばり)になっていることと、俳句の作品が多くなったことである。句はなお見るべきものが少いけれども、
馬の背に菅笠広し揚雲雀(あげひばり)
菜の花の中に路あり一軒家
鶯や山をいづれば誕生寺
などの如く、旅中の実感が旬になっていることに注意すべきであろう。
[やぶちゃん注:「馬渡」現在の千葉県佐倉市の南西部に位置する馬渡(まわたし)附近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。底本は「まわたり」とルビするが、現行地名が「まわたし」であるので、敢えて除去した。「隠蓑日記」の旅程を追うと、ここから「千葉」へ向かった後、そこから内陸を南進して長柄山(現在の千葉県長生郡長柄町長柄山。ここ)越え、大多喜に出ていることが判る。従って「平磯」は房総半島東端の南房総市千倉町平磯(ここ)であり、そこから内房総に移って海岸線を北上した。「羅漢寺」は現在の千葉県安房郡鋸南町の鋸山にある曹洞宗乾坤山(けんこんざん)日本寺のことであろう。ここは鋸山羅漢石像群で知られるからである。ルートこそ逆方向で独り旅ではあるのだけれど、その主なロケーション(小湊(誕生寺)・那古・保多)といい、風体(ふうてい)といい、これはまさに漱石の「こゝろ」の「先生」とKとの房州行を髣髴させるではないか! ここ・ここ・ここ(総て私のブログ版「心」初出版。サイト一括版(後の「先生と遺書」パート)はこちら)だ。或いは漱石は、「こゝろ」のこのシーンを、心密かに正岡子規へのオマージュ或いはレクイエムとして捧げていたのではあるまいか?
「かくれ蓑」「隠蓑日記」「かくれみの句集」今までも参考に供してきた国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集第八巻(少年時代創作篇)」(大正一四(一九二五)年アルス刊)で、総て画像で読める。リンク先の左コンテンツの「目次・巻号」を表示し、そこの各篇をクリックされたい。]
向嶋木母寺(もくぼじ)内の茶店の二階を借りて、三日ほど哲学の試験勉強をやったのもこの春であった。蒟蒻版(こんにゃくばん)のノートを読むことに倦(う)むと、手帳と鉛筆とを持ってあたりを散歩する。帰ると俳句や歌を推敲する。結局ここにいる間にノートを読むこと一回半、俳句と歌を得ること二、三十、試験はどうやら無事に通過した。「もっともブッセという先生は落第点はつけないそうだから、試験がほんとうに出来たのだかどうだか分った話じゃない」と後年当時のことを回想した文中に述べている。
[やぶちゃん注:「向嶋木母寺」現在の東京都墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。本尊は地蔵菩薩及び元三(がんさん)大師。ここ。
「蒟蒻版」謄写版の一種。寒天にグリセリンと膠(にかわ)を混ぜて煮て作った版に、特殊なインクで書画を書いた紙を当て、転写したものを原版として印刷したもの。寒天版。呼称は初期は蒟蒻(こんにゃく)を使ったとも、版がぶよぶよした蒟蒻状であったからとも言う。
「もつともブツセといふ先生は落第點はつけないさうだから、試験がほんとうに出來たのだかどうだか分つた話ぢない」これは宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十五日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子で訂した(「ほんとう」はママ)。この「ブッセ」はカール・ハインリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・ブッセ(Carl Heinrich August Ludwig Busse 一八六二年~一九〇七年)でドイツ出身の哲学者。お雇い外国人として明治二〇(一八八七)年から明治二五(一八九二)年まで東京帝国大学で哲学講師を務めた。後に哲学者となった西田幾多郎も教え子の一人であり、帰国の際には、当時、同大英文科第三学年に在学中夏目漱石がクラスを代表してブッセ宛に「別離の挨拶」を英文で認(したた)めている。ここは「こゝろ」のKが哲学に関心を示し出す辺りとも皮肉にリンクしているように思われて興味深い。]
五月、高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た。中学の同窓たる碧梧桐氏の紹介によるのである。碧梧桐氏は当時受験のため上京中であったが、直接居士に話さずに手紙で紹介したと「子規を語る」の中に記されていたかと思う。虚子氏もまた俳句をしたためて送ったものと見えて、居士は碧梧桐氏の場合と同じく、返書において一々これを評している。
[やぶちゃん注:「高浜虚子氏が故山からはじめて書を寄せて来た」虚子も愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)生まれである(旧松山藩士池内(いけのうち)政忠の五男)。明治二十四年当時は伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)の三年で、河東碧梧桐と同級であったことから、彼を介して正岡子規に兄事し、まさにこの年、子規より虚子の号を授かっている。二年後の明治二六(一八九三)年、碧梧桐とともに京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学した。]
六月、学年試験を抛擲(ほうてき)して帰国の途に上った。四月七日大谷是空氏宛の手紙を見ると、房総行脚のことを述べた末に「この夏もまた同じ姿で木曾道中と出かけるつもり」云々とあるから、前々からの予定を実行に移したものであることは明である。特に木曾路を選んだ理由について、居士は何も記しておらぬけれども、『風流仏』の舞台であることも、あるいは一理由になっておりはせぬかと思われる。
[やぶちゃん注:「風流仏」既出既注であるが、再掲しておく。幸田露伴(慶応三(一八六七)年~昭和二二(一九四七)年:子規と同年)作の小説。明治二二(一八八九)年『新著百種』に発表。旅先で出会った花売りの娘に恋した彫刻師珠運の悲恋を描いた露伴の出世作。]
この旅行の日次ははっきりわからぬが、先ず軽井沢に一泊してから、木曾駅より汽車に搭(とう)ずるまでの間、途中六日を費しているらしい。猿が馬場の木いちご、木曾の桑の実、奈良井の苗代茱萸(なわしろぐみ)など、菓物(くだもの)の居士をよろこばすものも少くなかった。この時の事を記したのが「かけはしの記」で、翌二十五年になって新聞『日本』紙上に先ず現れたのがこの一篇である。文中の句は後に改刪(かいさん)を加えたらしく、「寒山落木」に存せぬのがあるけれども、「かくれみの」に比すれば慥(たしか)に数歩を進めている。
[やぶちゃん注:「日次」(ひつぎ)は毎日・日数の意であるが、ここは旅程の意。
「猿が馬場」現在の長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ:標高九百六十四メートル)附近であろう。ここ。
「木いちご」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の類。私も偏愛する木の実であるが、思いの外、種は多い。
「奈良井」中山道の旧奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。ここ。
「苗代茱萸(なわしろぐみ)」正式な種和名。バラ亜綱バラ目グミ科グミ属ナワシログミ Elaeagnus pungens。ウィキの「ナワシログミ」によれば、『別名タワラグミ、トキワグミ。 盆栽としてはカングミの名で呼ばれることが多い』。『日本の本州中南部、四国、九州、中国中南部に分布する。海岸に多いが、内陸』でも見かける。『常緑低木で、茎は立ち上がるが、先端の枝は垂れ下がり、他の木にひっかかってつる植物めいた姿になる。楕円形の葉は厚くて硬い。新しい葉の表面には一面に星状毛が生えているため、白っぽい艶消しに見えるが、成熟するとこれが無くなり、ツヤツヤした深緑になる』。『開花期は秋』で、『公園木、海岸の砂防用、庭木として植栽されている』。『果実(正確には偽果)は春に赤っぽく熟し食べられる。ナワシログミの名は、稲の苗代』(四~五月頃)『を作る頃に果実が熟すること』に由来する。『葉にはウルソ酸(ursolic acid)オレアノリン酸(oleanolic acid)、クマタケニン(kumatakenin)、ルペオール(lupeol)、β-シトステロール(β-Sitosterol)、3,7-ジメチルカエンフェロール(3,7-Dimethyl kaempferol)などの成分が含まれ』、『中国では生薬として「胡頹子」(こたいし)の名で』古く「本草綱目」「本草経集註」などにも記載がある。「本草綱目」は『葉の性質を「酸、平、無毒」とし、咳、喘息、喀血、出血、癰疽に効用があると』している、とある。これも私はかつてよく裏山で食べた。
「かけはしの記」「青空文庫」のこちらで全文が読める。]
山々は萌黃(もえぎ)淺葱(あさぎ)やほとゝぎす
馬の背や風吹きこぼす椎の花
桑の實の木曾路出づれば穂麥かな
[やぶちゃん注:「萌黃淺葱」「萌黃」は黄と青の中間色で葱(ねぎ)の萌え出る色の意であり、「淺葱」(時に「葱」を「黄」と混同して「浅黄」とも書く)は薄い葱(ねぎ)の葉の色の意で、緑がかった薄い藍色であるから、ここはそれぞれ切って色を山景に配して味わうべきである。]
松山帰省中、居士は永田村の武市雪燈(名は庫太、蟠松とも号す)の居に遊んで句会を催したりしている。碧、虚両氏が影の形に従う如く、その身辺に現れるようになったのは、この夏の帰省からである。
[やぶちゃん注:「永田村」現在の愛媛県伊予郡松前町(まさきちょう)永田か(ここ)。
「武市雪燈」子規の友人で後に政治家となった武市庫太(たけいちくらた 文久三(一八六三)年~大正一三(一九二四)年)。伊予(愛媛県)生まれ。松山中学から同志社大学を経て、この時より三年前の明治二一(一八八八)年には自由党に入り、後、愛媛県会議員や県農会初代所長などを経て、衆議院議員(当選六回)となった。]
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