芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十二」
十二
いろんな作物が勢い好くそだっている中学校の農園の横を降(くだ)り奥谷(おくだに)へ出て萬寿寺の石磴(いしだん)をのぼった。
本堂には義兄(あに)と、中学に出ている二人の子と、義兄の兄さんにあたる人とが先着していた。義兄と其兄さんにあたる人とは帷子(かたびら)のうえに絽(ろ)の羽織をきて袴をさばいて座って扇子をつかいながら話していた。誰もの顔にはかるい倦怠のこゝろもちが見えていた。[やぶちゃん注:ルビ「かたびら」の漢字は底本では「惟子」であるが、これは誤字と断じて、特異的に「帷子」に訂した。]
本堂の中は冷いやりとしていた。こんな法会の席に来てお寺の本堂に悠(ゆっ)くり座りこむような事はかなり久し振りであった。恐らく三四年まえ東京で叔父が死んだ時、谷中の寺で寒かぜの吹く日に坊さんたちがお経をよむのを聴いたとき以来の久しさのように想われた。正面の本尊の周囲(まわり)の暗がりに光っているさまざまの金具の形象(かたち)だの眉間(びかん)にかゝげてある十六羅漢の原始的な貌(かお)だの、経文をのせた机の煤けた色だのがながい間わすれていた釈門(しゃくもん)の教の哀しさを懐かしむこゝろを喚びさました。
お寺もいゝな………と思いながら広い畳のうえに眼の向く所をすべらせながら扇をつかいはじめた。
この本堂の中では時間は誰の心持にも拘泥せずに出来るだけ悠揚(ゆっくり)と移ってゆくように想われた。それで僕もじきに退屈の仲間入をした。何辺(なんべん)も山門の下から真直に向うに続いている町をながめるけれど待っている俥の影らしいものは見えなんだ。
でもその内六つになる子供を膝に載せて姉が乗って来た俥が山門の下で止った。子供は俥の上の窮屈さから解放されて愉快そうに小さい手を振りながら山門から本堂の方へあゆんで来た。
やっと法会が始まる段取りとなった。ずんぐり肥った若い僧が大きい太鼓の縁と胴とをかわるがわる撥(ばち)で叩いて、から、から、から、どん、どどんと鳴らし始めると、今までの寺の中の静寂が四方へ散らばって仕舞って誰も顔から倦怠のいろが消え失せた。
凸凹した頭、尖った頭、円い頭とさまざまの頭の所有者たる坊さんと小僧とが濁(だ)みた声澄んだ声を合せて経を読みはじめた。肥った若い僧も大きい太鼓を本堂の片隅に閑却した儘ほかの坊さんたちの席に加わって鐃鉢(にょうはち)と鉦(かね)とをちゃんぽんに鳴らしはじめた。
読経が或る段落まで進んで行ったとき坊さんたちの活動は俄(にわか)に生気を加えた………坊さんたちは合唱の声を続けながら頭を畳に摺り付けて仏の容(すがた)を礼拝しては腰を延ばして起ち上った。たち上ったかと思うと菩薩や梵天の名前を一つ宛(ずつ)唱えては復た膝を折って跪(ひざまず)き頭をひれ伏して礼拝した。
諸天諸界の隈々(くまぐま)に住みたまう仏の数が限り無いと等しく其立ったり座ったりの繰返しも果しが無かった。でもやっとそれが済むと今度はぐるりぐるり仏の前を廻りながらお経をうたいつゞけた。眇眼(びょうがん)の小僧が高く経文をさゝげながらきいろい声を張り上げて唱(うた)うのが一きわ耳についた。
祀(まつ)られるのは此夏の始め鎌倉で亡くなったSさんの霊魂であった。Sさんはかあいそうな人であった。一年志願の兵役を果した後東京で学校にはいっている間に病気にかゝつて転地して往った先ではかなく成った。
Sさんはすなおな性質(たち)で、ついぞ腹を立てた顔を見せたことは無かった。人の好かったSさんは彼(か)の世ではきっと上品(じょうぼん)に生れて、悦(たの)しい世界に逍遥することが出来るに相違あるまい。それから坊さん達が果しなく長い読経をつゞけても決して退屈な顔をする事などは無く、いつ迄も従容(ゆうよう)として聴いていることだろうと想われた。
[やぶちゃん注:「鐃鉢(にょうはち)」葬儀や法事の際に用いる打楽器。銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。
「眇眼(びょうがん)」片方の目が不自由なこと。眇目(びょうもく)。眇(すがめ)。
「従容(ゆうよう)」ルビは「しょうよう」の誤り。「悠揚」と勘違いしたものと思われる。ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま。]
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