芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十」
十
細かな雨がかすれかすれに糸の緒を曳いて降る静かな日には仰向けに臥転びながらひとり書をよむ。向いの家で機を織る梭(おさ)の音(ね)が悠長にひびいて来る。平常は朝から日暮まで歌いつゞける鴬が雨のふる日はジッと黙っていて、時偶(ときたま)杜の茂みからほがらかな囀りをこゝろみる許りである。気のせいか其声が悲しく沈んでいるようにきこえる。
仏蘭西(ふらんす)の詩人の詩集を頁の開いた所から順序なく誦(よ)んでゆく。わかるのもある。解らないのもある。そんな事には頓着しないでよんでゆく。その中からひとつ二つ訳して見ようと思う。
青白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく
スチュアル・メリル
残(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる
なが膝の上に青白き我額を置く
あはれ、秋のをんなよ
幽愁(うれひ)の時の壊(くず)ほれゆく前にこそ
我らはかたみに恋をせめ!
憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる
なが指のはたらきの優さしさ!
いまわれは悲しく王をば夢む
さはあれ、なんぢは
眼をあげてうたへよかし
黄金の兜せる国王が
妃の足下(あしもと)にひれ伏して
命はかなくなりしてふ
古き世の歌謡(うた)の悲しき節もて
わがたましいを揺(ゆ)りしづめよ
なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに
うもれて死なばやと
我れはねがふ
うばひ去られし王国を
ふたゝびわが手におめむため
おもひ出
アンリドレニエ
微睡(まどろむ)む池のをもてに
水葦がおのゝいてゐる
眼に見えぬ鳥の
ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに
ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ
息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく
涯も無い野のうねりの上に
月は青じろい光りをそゝぎ
風はみどりの叢(くさむら)のかをりを
艸のはなのかをりを
絶え間もなく吹きおくる
けれども夜の底には
泉の水が嘆きうたひ
慄(ふる)へる胸のなかには
古い恋ごゝろがめざめてゐる
そのよるの悲しく愛しい思ひ出は
過去の深みからうかび出て
遠い方からくちびるのうへに
恋のさゝやきが響いてくる
[やぶちゃん注:作者名は底本ではもっと下であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上げてある。最初の訳詩の最終行「おめむ」は「をさめむ」ための誤りのように思われるが、原文を確認出来ないのでママとした。ともかくも以上は、特異的に正字化して、原文に近づけたものを以下に示す。「アンリドレニエ」は中黒を打った。
*
靑白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく
スチュアル・メリル
殘(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる
なが膝の上に靑白き我額を置く
あはれ、秋のをんなよ
幽愁(うれひ)の時の壞(くず)ほれゆく前にこそ
我らはかたみに戀をせめ!
憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる
なが指のはたらきの優さしさ!
いまわれは悲しく王をば夢む
さはあれ、なんぢは
眼をあげてうたへよかし
黃金の兜せる國王が
妃の足下(あしもと)にひれ伏して
命はかなくなりしてふ
古き世の歌謠(うた)の悲しき節もて
わがたましいを搖(ゆ)りしづめよ
なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに
うもれて死なばやと
我れはねがふ
うばひ去られし王國を
ふたゝびわが手におめむため
*
おもひ出
アンリ・ド・レニエ
微睡(まどろむ)む池のをもてに
水葦がおのゝいてゐる
眼に見えぬ鳥の
ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに
ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ
息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく
涯も無い野のうねりの上に
月は靑じろい光りをそゝぎ
風はみどりの叢(くさむら)のかをりを
艸のはなのかをりを
絶え間もなく吹きおくる
けれども夜の底には
泉の水が嘆きうたひ
慄(ふる)へる胸のなかには
古い戀ごゝろがめざめてゐる
そのよるの悲しく愛しい思ひ出は
過去の深みからうかび出て
遠い方からくちびるのうへに
戀のさゝやきが響いてくる
*
「スチュアル・メリル」アメリカ合衆国ニューヨーク州ヘンプステッド生まれのアメリカ人の詩人スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三 年~一九一五年(フランス・ヴェルサイユ))。パリでルネ・ギルなどと親交を結び、一八八六年に一度、アメリカへ帰って、コロンビア大学で律法を学んだが、詩作に耽り、一八八七年に詩集「音階」を発表、二年後には、再度、パリへ赴き、以後はそこに定住してフランス語を以って詠む詩人としての道を歩んだ。当初は高踏派やヴェルレーヌなどの影響を受け、わざとらしい調和や絢爛たるイマージュを求める傾向があったが、やがて繊細な自由詩による象徴詩に転じた(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。
「アンリドレニエ」アンリ・ド・レニエ(Henri de Régnier 一八六四
年~一九三六年)はフランスの詩人で小説家。北フランスのオンフルールに貴族の末裔として生まれた。外交官志望を断念して詩作に転じた。造形美術的な詩法を学び、マラルメの火曜会の重要メンバーとなって音楽的な詩法を会得、高踏派と象徴主義派を合わせた詩風であったが、後に新古典主義へと移った。憂愁にして豪奢な詩と評され、永井荷風が私淑していたことでも知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]
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