柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 六
六
山中共古翁の椀貸古傳についての解釋は傾聽の値がある。翁の意見では、昔は村々の佛堂の中に膳椀を藏するものが多かつたらしい。それは村の共同財産で、例へば庚申待の日には庚申堂の棚の中に在る品を取り出して使ふと云ふやうに、信仰と結合して考へられて居たものが、道具が散逸して後此樣な記憶に變つて行つたのであろうと云ふ。是は古墳の土器を借りたなどゝ云ふよりは勿論事實に近さうである。長い山路の半途に在る小屋の食器なども借りられた。地方によつては岩穴の中に藏置したかも知れぬ。虛實は不定であるが、幕府時代に加州侯家では、信濃飛驒の深山を通過して、江戸と往來する間道を用意して置かれたと云ふ説がある。その道筋に當る丁場々々には社又は佛堂が建ててあつて、其中に一通りの家具調度が匿してあつたとも傳へて居る。更に今一層傳説化した話には、滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村の山奧に、天狗谷と稱して如何な高德の聖も行くを憚るやうな物凄い大岩の上に、自然と佛具類備はり常行三昧の法の如くであつたのは、多分山の神の在すところであらうと言ひ、或は泉州槇尾山(まきのをさん)の奧にも佛具岩があつて、平生佛具の音がするなどと云ふのも、元は同じやうな器具保存法から起つた話とも見えぬことは無い。只如何せん穴や岩塚から貸出したものは、必ずしも椀や御器(ごき)のみに限られては居らぬので、多くの類例を陳列して行くと、何分これでは説明の付かぬものが出て來る。
[やぶちゃん注:「滋賀縣犬上(いぬかみ)郡の五僧越(ごそうごえ)に近い河内村」現在の滋賀県犬上郡多賀町河内。
ここ(グーグル・マップ・データ)。五僧峠も確認出来る。
「泉州槇尾山(まきのをさん)」大阪府和泉市槇尾山町にある槙尾山。標高六百メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
例へば前に擧げた飛驒國府の龜塚のごときも、一説には國府山(こふのやま)の城主文書を塚の口に差し入れて色々の器物を借りて居る中に、ある時紫絲威の鎧を一領借り出して還さなかつたので、以後塚の口は永く閉じ其城も亦衰へた。その鎧は當國一宮に納めて什寶となつて居ると云ふ。更に奇拔なのは美濃加納領の某村では、穴の口に願書を入れて置くと口中療治の處方書を附與したと云ふ例もある。但し此は靈狐であつて、土地の百姓の娘と少々譯があり、療治以外にも望みの者には書を書いて與へたとて、近郷にはその狐の筆跡が相應にあつたと云ふ。
三重縣伊賀の島ケ原驛の附近に三升出岩(さんじようだしいは)と俗に謂ふ石があつた。この石を信ずれば每日米が三升づゝ出たと云ふことで、元は此側を通行する者五穀綿麻などを供へて拜したと云ふ。栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音は、鬼怒川の絶壁の中程に岩穴があつて、其中に弘法大師の安置したと云ふ金佛の觀音がある。此穴では三十三年に一度づゝ頂上から布を下げ其布に取附いて穴の中へ入り色々の寶物を取り出す例で、是を岩拜(いははい)と名づけて居た。同縣上都賀郡上永野の百目塚は、高さ七尺の塚であつたが平地のやうになり、僅に一基の石碑を以て其址を示して居る。村の熊野神社の寶物を埋めたと言ひ傳へ、又昔は此塚に一文の錢を供へると後に必ず百倍になつたので盲目塚と云ふ。ある氣短かの慾張りが一時に數百錢を供へて見たが效驗無く、却て本錢迄亡くしたのを憤つて其塚を發かんとし、大に祟を受けたと云ふから、多分其折以後例の通り恩惠の中止を見たのであらう。
[やぶちゃん注:「三重縣伊賀の島ケ原」現在の三重県伊賀市島ヶ原。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「三升出岩」柳田が過去形を用いているのが気になったが、やはり現存しない模様で、伝承も失われたか。
「栃木縣鹽谷郡佐貫村の岩戸觀音」現在の栃木県塩谷郡塩谷町佐貫にある真言宗佐貫観音院。ウィキの「佐貫観音院」によれば、『江戸時代までは岩戸山慈眼寺観音院であったが、明治期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺となり、現在は宇都宮市篠井町の東海寺の別院となっている。本尊は鬼怒川河畔にある聖観世音菩薩』。『寺域には高さ』六十四メートルの『観音岩と呼ばれる大岩が聳え、その窟内にある「奥の院大悲窟」には四国讃岐国多度郡郡司であった藤原富正所有の念持仏、佩刀、弘法大師(空海)作の如意輪観音と馬頭観音の』二『仏、中将姫の蓮の曼荼羅、藤原秀郷や源義家の奉納品(太刀、武具、銅鏡など)が納められていたと云われる。現在、銅版阿弥陀曼荼羅と銅鏡は宇都宮市篠井町の東海寺にて保管されているという。また、この観音岩の壁面には「大日如来坐像」が線刻されており、この磨崖仏は周囲の自然環境とともに佐貫石仏の名称で国の史跡に指定されている。観音岩下部には磨崖仏の大日如来を中央とする左右に祠がある。磨崖仏に向かって左側の祠は「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり木造の御堂が建てられている。右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞穴内の小さな石造の祠となっている。観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っており、神の使いとしてまた長寿の象徴として珍重されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。この「岩拜」も現在、行われているか(祭事スパンが長過ぎる)どうか、疑問である。
「同縣上都賀郡上永野」現在の栃木県鹿沼市上永野。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「ひばらさんの栃木探訪」のこちらに、「百目鬼塚」(または「百目塚」)という塚がこの地区に存在し、塚の北方に熊野神社があって、この社の宝物を埋葬したのが、この塚の起源で、『人がこの塚に銭一文を賽銭として供すれば、後日必ず百倍になって戻ってくるというので、その奇瑞にあやかろうとする遠近の人々が、多数参拝した時代があった』ということが、小林友雄著「下野伝説集 あの山この里」(昭和五一(一九七六)年栃の葉書房刊)に載っているとある。但し、同地区を探しても現在、熊野神社を見出せないのが悩ましい。]
此話などは、今では既に落語家も言ひ古した程の平凡事であるが、しかも立戾つて或時代に大阪の商人を狂奔せしめた泉州水間寺(みづまでら)の觀音の賽錢拜借、其又前型かと思はれる隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰などを考へ合せると、借りると云ふことが貰ふよりも更に有難かつた昔の人の心持もわかつて、椀貸の不可思議は到底手輕實用向の説明だけでは片付かぬことが知れるのである。關西の方の事はもう忘れたが、東部日本で最も普通な民間信仰は、齒の痛みに神佛の前から箸や楊枝を借り、小兒の百日咳に杓子を借り、子育てに枕を借り小石を借る等で、常に願が叶へば二つにして返す故に、靈驗ある堂宮の前には同じ品が非常に多く集まるのである。所謂椀貸も或は又此樣な意味を以て其由來を尋ぬべきものでは無いであらうか。
[やぶちゃん注:「泉州水間寺(みづまでら)の觀音」大阪府貝塚市水間にある天台宗の寺院。「賽錢拜借」とは、この寺にあった、賽銭を借用して翌年には倍返しする、という特殊な習俗を指している。同寺公式サイトのこちらにその「利生(りしょう)の銭」の解説がある。『利生とは、仏様が衆生に与える利益のことで、「利生の銭とは」水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しする事によって、ご利益を頂戴するもの』とある。『現在では旧初午の日にご祈祷を受けられた方に「利生銭入り餅」が授与され』るとあって、『水間寺には三重の塔があるが、これが利生の銭に因縁の話がある。或る年』、『江戸の名も知れない廻船問屋が一貫の利生の銭を借りて帰ったが、なかなか返済に来ない。とうとう』十三『年目に』、『馬の背に』十三『年間の元利を揃えて参拝した。よって』、『この銭をもってこの塔を建立したという話である。後に』、『この人は網屋という人だと判明した』とある。『この水間寺の利生の銭については』『井原西鶴の「日本永代蔵」』『にも取り上げられている』とある。西鶴のそれは「日本永代蔵」の巻頭、巻一の「一 初午(はつうま)は乘つてくる仕合(しあはせ)」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像から視認出来る。
「隱岐の燒火山(たくひさん)雲上寺の錢壺の信仰」島根県隠岐郡西ノ島町にある焼火(たくひ/たくび)神社は明治までは焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と称したが、悪名高き廃仏毀釈によって(隠岐の島前など、全国的にも島嶼部でのそれは、寺院の焼却や僧の追放、果ては殺害未遂にまで発展するほどに苛烈であった)改名された。創建や縁起はウィキの「焼火神社」を参照されたいが、同ウィキによれば、嘗て山上にあった「銭守り」の壺の話が載る。これは『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された』ものであったとされ、『かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから、』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録であ』った「板兒錄」という書にも『記載されるほど』、『著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の「年中御札守員數」『という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。]
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