芥川龍之介 手帳8 (12) 《8-12》
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《8-12》
○Bear 戰場ケ原 馬鈴薯一袋 友だちねがへりぶつかる故 肘にてつく 木樵にきく 曰盜なし 熊なり
[やぶちゃん注:「戰場ケ原」栃木県日光市の日光国立公園内にある高層湿原である戦場ヶ原か。ウィキの「戦場ヶ原」によれば、標高は約千三百九十メートルから千四百メートルで、広さは四百ヘクタールに及ぶ。『戦場ヶ原という地名は、山の神がこの湿原を舞台に争いを繰り広げたという伝説に由来している』とある。
「盜なし 熊なり」それは、その友人が寝返りを打ったのでも、「盗人(ぬすっと)が何かしようとしたのでもなく、熊じゃ。」の謂いか。]
○Gon Seaside 磯臭きCemetery Ghost 出る 兵士上り行く 女あり 船長の死せし後その船長を知りし淫賣來りて徘徊するなり
[やぶちゃん注:「Gon Seaside」不詳。大文字でなければ、岩礁性海岸で岩場が角張っているところ、という意味でとれるが、孰れも大文字であるから、固有名詞である。]
OCurious tale
夫婦にて(旗本)吉原へゆき遊び面白くなり財産を蕩盡す つひに子供二人をさし殺し 亭主の血を見ておそれ走る 途中亭主に肩を切らる 亭主死す 後妻は再緣す 娘四人 その娘の一人なり 伜一人 川村淸雄
[やぶちゃん注:「Curious tale」奇妙な話。
「川村淸雄」(嘉永五(一八五二)年~昭和九(一九三四)年)は洋画家。ウィキの「川村清雄」によれば、近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。江戸麹町表二番町で『御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男として生まれ』たとあり、以下、小学館の「日本大百科全書」によると、幼少の頃に住吉内記に入門、次いで大坂で田能村直入(たのむらちょくにゅう)に師事して、南画を学んだ。江戸に戻って、明治元(一八六八)年頃から開成所で川上冬崖に洋画を習った。明治四(一八七一)年に政治・法律の研究を目的として渡米したが、洋画に転じ、フランスからイタリアへ行き、ベネチア美術学校に学んだ。明治一四(一八八一)年に帰国してからは、大蔵省印刷局に勤めた後、画塾を開き、「明治美術会」の創立に参加して会員となって同志とともに「巴(ともえ)会」を結成したが、その作風は次第に日本趣味に傾いていった、とある。]
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