甲子夜話卷之四 20 敬信夫人、婚儀の御時の事
我曾祖松英君の養女を、乘賢養子の能登守乘薀に嫁しけり。これを敬信夫人とす。林氏は此夫人の襁褓より鞠養せられし人なれば、夫人の舊事を能知りて談ぜり。夫人新に嫁せられしとき、其當日に禮儀畢りて、その舅なる乘賢【此時加判】伴ひて表に出で、親類衆に引合せ、又御先手頭、奧御右筆組頭、御同朋頭等、其事扱たりとて招れ、饗應ありしが、其席へも伴ひ引合せ、世話に成しなど會釋ありしと云。實に世風の質實なること、今の薄俗より見れば、驚く計のことなり。又その婚儀一宗の簿册數卷あり。兩家の家來、互に掛合ことは少くして、多くは皆雙方賴の御先手衆同士の掛合なり。それ故に、禮儀も手重きことにて、中々今の世の省略を專らとする類に非ず。是等にても其時俗を見るべきなり。必竟事を省んとしては、さまざまあらぬこと迄も、鄙劣に相議するやうに成り行て、いつか擧ㇾ世家來同士の談計の世風に成り堅まりしなるべし。林氏話。
■やぶちゃんの呟き
「我曾祖松英君」松浦静山の曽祖父で肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)。「松英」は「しょうえい」(現代仮名遣)で彼の法号(松英院殿)。
「敬信夫人」篤信は千本倶隆の娘を養女としており、それが彼女。「敬信」は落飾後の法名(敬信院)。彼女は享和元(一八〇一)年五
月十日に没している(吉村雅美氏の「長崎県学術文化研究費研究成果報告書 松浦静山の学問ネットワークと平戸藩―蓮乗院の日記から―」(PDF)に拠る)。
「乘賢」前条で既出既注。美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。享保八(一七二三)年三月に奏者番から若年寄に昇進、その十二年後の享保二〇(一七三五)年五月に西丸老中に昇進、延享二(一七四五)年には本丸老中となったが、翌年、没している。
「能登守乘薀」既出既注。美濃岩村藩第三代藩主で松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)。彼は岩村藩の世嗣乗恒が早世したために、第二代藩主松平乗賢の養子となり、寛保元(一七四一)年十二月に従五位下美作守に叙位任官され、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任している。敬信夫人は彼の正室。
「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。彼の父はまさにこの松平乗薀なのである(寛政五(一七九三)年に林錦峯の養子となって林家を継いだ)。さればこそ以下の叙述も頷ける。但し、叙述から見て、彼は敬信の子ではなく、乗薀の側室(前原氏)の子のように読める。
「襁褓より」「襁褓」は「むつき」でおむつのこと。林述斎の幼時より。
「鞠養」「きくよう」(現代仮名遣)とは大切に慈しんで育てること。
「加判」老中の別称。
「其事扱たりとて」よく判らぬが、乗賢が奏者番・若年寄の時代及び老中になってより、担当し、関係した部下らであるからと、の意であろうか。
「世話に成し」これは、「その節はいろいろと世話になった」という意味にとれるが、それでは夫人を連れての挨拶としておかしく、寧ろ、この過去形の「し」は叙述時制からの林や静山の用いたものであって、寧ろ、「向後、拙者ともども、この妻も合わせてよろしくお頼み申す」ととった方が私は素直に読める。大方の御叱正を俟つ。
「世風」「せいふう」。当時の武家一般の風俗・風紀。
「計」「ばかり」。
「一宗の簿册」不詳。婚儀記録一式記録冊子の謂いか。
「掛合ことは少くして」「掛合」は「かけあふ」。よく判らないが、婚儀の式次第に於いて、家来衆らの動きや担当などは、それぞれ別個に協議談合して決めるという場面は驚くほど少なくて。
「賴の」「たのみの」。信頼している。
「御先手衆同士の掛合」それぞれの御家の警護担当者である先手組(さきてぐみ)の方々同士の打ち合わせ。
「手重き」厳重できっちりとしていること。
「類」「たぐひ」。
「時俗」「じぞく」。時の堅実なる風俗・風紀。
「必竟事を省ん」「ひつきやう、ことをはぶかん」。
「鄙劣に」「ひれつに」。卑劣。品性や行動が卑しくて下劣なさま。
「相議する」「あひぎする」。
「擧ㇾ世」「よをあげて」。
「談計」「だんばかり」。己(おの)がことしか考えぬ浅智恵の談合ばかり。
「話」「はなす」。