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2018/01/18

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十六」

 

    十六

 

 古浦へ行った翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲労(つかれ)が節々に残っている四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうえに長々と伸ばしていた。

 秋は已に暦の上に立っていた。窓框(まどわく)に頤(おとがい)をもたせて茫然(ぼんやり)ながめると、透(す)きやかな水をひろひろと[やぶちゃん注:ママ。「ひろひろ」の後半は底本では踊り字「〱」である。]湛えている湖の面がものうい眼のなかに一杯に映った。十六禿(はげ)のうすい細のいろの崕(がけ)が静かな影を冴えた水の隈に涵(ひた)している上には、真山(しんやま)や蛇山(じゃやま)や澄水山(すんずさん)やが漸次(しだい)にうすく成って消えて行く峰の褶曲(しわ)を畳みながら淡い雲を交えた北の空をかぎっていた。

 みずうみの手前の岸には白い茎をそろえて水葦が風にそよぎながら立って居り、水際に沿う街道を竹籠を背負って洗足ですたすたあるいて行く若い女の横顔には、そうした山やみずうみや水の涯(ほと)りの村里やを取り巻いて揺(ただよ)うているさびしい透明な気分を一点にあつめた哀しい表情がかすかにやどっていた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんじ)と乗り降りの人の稀れな駅々を汽車はたゆたげにすぎて行った。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云って頻りに賞めていた。

 簸川(ひのかわ)の平原は僕にとってはかなり馴染のふかいところである。鼻高山(はなたかやま)だの旅伏山(たぶしやま)だの仏教山(ぶっきょうさん)だのと皆少年のころに草鞋をはいてのぼったことのある山ばかりで、どちらを向いても懐かしみをさそわぬものは無い。中にもあの長い長い一筋町の大津(おおつ)の端れにかゝつている神立橋(かんだちばし)のうえの夜風の涼しさがふと心に想い出された。折々今市(いまいち)の町からそこまですゞみに行ったもので、輝く星を隙間無く鏤(ちりば)めた暗やみの空が円くかゝつている川上の方から冷えびえと吹いて来る川風に浴衣の胸をくつろげながら父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずるのを、僕たちは橋の欄干に黙って縋(すが)りついたまゝ聴いていることもあった。父は帰らぬ人に成った。僕たちの少年の日はとおく過ぎ去った。橋脚を揺(うご)かして流れる川水はそれ以来幾寸の砂の厚さをその河床に添えたのであろう?

 汽車は平原の夷(たいら)かさをよろこぶかのように西へ西へと疾(はし)りつゞけた。今市をすぎ朝山(あさやま)をすぎると松茂る砂丘の群が海やあらくれた太古の人や創世のふかしぎやを語りがおに行手に連っている。

 汽車は終点についた。そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われるが。

 二人は新しい駅のまえの道路をぶらぶらと北へあゆみ始めた。僕は前の日磯ばたの石の角で切った蹠(あしうら)の傷の疼(いた)みによけい遅れがちであった。

「いゝね。まったく山海の景勝の地だね!感心しちゃつた」と龍之介君は行手をながめた。

 そこには鋭く尖り立った弥山(みせん)の巓(いただき)が天を劈(つんざ)く神の戟(ほこ)と空の真中に聳え、その下にたゝなわり伏す山々は深い暗い木のみどりの影を抱いて日の光を露わにあびていた。

 

[やぶちゃん注:「秋は已に暦の上に立っていた」前の章の最後のクレジットは八月十日。大正四(一九一五)年の立秋は八月九日(特異点。通常は七日か八日)であった。

「十六禿(はげ)」底本の後注に、『宍道湖北岸に赤色の地肌の露出した岩壁が十六か所点在するところから付けられた呼称』とある。あるブログ記事では実際には(少なくとも現在は)十三ヶ所しかないともあった。私は宍道湖にも杵築にも行ったことない。行ってみたいのだが。

「真山(しんやま)」「新山」とも書く。松江の市街地の北側にある標高二百五十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。城跡がある。平安末期、平忠度がここに築城したと伝えられ、永禄六(一五六三)年には、毛利軍が尼子氏の拠点白鹿城攻略ために次男吉川(きっかわ)元春をここに布陣している(現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみ)。二人は後日、この山に登っており、そのシークエンスが後の「二十三」「二十四」に出る。

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市八雲町熊野(松江市街の南約九キロ)に標高二百九十二メートルの同名の山がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、どうも位置的におかしい。後の「二十三」で、井川は松江の「北」にある山として真山・澄水山に、この蛇山を並べているからでもある。どうも松江の北方にある山の別称のように思われる――と――底本の「二十三」の注に、蛇山は現在の滝空山(たきそらやま:読みはネット記載を渉猟して発見)である旨の注記があった。島根県松江市島根町大芦にある標高四百六十六メートルの山であった。(グーグル・マップ・データ)。

「澄水山(すんずさん)」島根県松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。現行では「しんじさん」と呼んでいる。「二十三」で井川は「澄水山(しみずさん)」ともルビしている。不審。或いは方言で訛るのかも知れない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湯町(ゆまち)」これは山陰本線(宍道湖の南岸を走る)の、現在の島根県松江市玉湯町湯町にある現在の「玉造温泉駅」のこと。この駅は当時は「湯町(ゆまち)駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「宍道(しんじ)」同じく山陰本線の島根県松江市宍道町宍道にある宍道駅。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「簸川(ひのかわ)」狭義には島根県第一の長江で「肥河」とも書く。現在は斐伊(ひい)川として宍道湖に注ぐ素戔嗚命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の舞台に比定されている。ここではその宍道湖附近の河口平原(出雲平野の東部)を指していよう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「鼻高山(はなたかやま)」出雲市別所町にある標高五百三十六メートルの山。出雲大社の北東後背に当る出雲北山では一番高い。

「旅伏山(たぶしやま)」出雲市国富町にある出雲北山東端の標高四百二十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「仏教山(ぶっきょうさん)」これは出雲市斐川町(ひかわちょう)阿宮(あぐ)にある仏経山の誤り。標高三六六メートル。「出雲風土記」には「神名火山(かんなびやま)」(「神の隠れ籠れる山」の意で古代からの信仰の山の一つ)と出る山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大津(おおつ)」島根県出雲市大津町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神立橋(かんだちばし)」先の斐伊川に架かる、現在の出雲市と斐川町を結ぶ国道九号の橋。古えより、出雲では旧暦十月のことを「神在月(かみありづき)」と呼んで、全国の神々が出雲に集まり、その年のことを語り決めるという神話は頓に知られているが、その神々が談合を終えて自身の国へと帰って行く際の旅立ちがこの橋からとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「今市(いまいち)」現在の大津町の西の出雲市今市町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずる」底本の後注に、『父井川精一は雙岳と号して、地方漢詩壇で活躍した漢詩人であった』とある。また、その後に続く寺本善徳氏の解説によれば、彼は旧『津和野藩士族の出』とある。

「朝山(あさやま)」現在の出雲市朝山はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、位置的に合わないから、附近(グーグル・マップ・データ)の旧広域地名であったか。

「そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われる」島根県簸川郡大社町北荒木にあった大社線(出雲市駅から旧簸川郡大社町(現在は出雲市)の大社駅までを結んでいた)の「大社駅」((グーグル・マップ・データ)。現在同線は廃止(一九九〇年四月一日)にされて存在しない)なお、私も「杵築」がよかったと思う。

「弥山(みせん)」出雲大社の北山連峰の東直近、出雲市猪目町(いのめちょう)にある弥山。標高五百六メートル。(グーグル・マップ・データ)。「みやま」と訓じている記事もあるが、「みせん」が正しいものと思われる。]

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