子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 駒込の一人住い
駒込の一人住い
十二月に入ってから居士は寄宿舎を出て、本郷区駒込追分町三十番地に移った。自分で一戸を構えたのは、この時がはじめである。これより前十月二十一日の陸羯南(くがかつなん)翁宛の手紙に、下宿を探している旨を述べ、その条件を次のように記している。
[やぶちゃん注:「本郷区駒込追分町三十番地」現在の東京都文京区向丘(むこうがおか)二丁目の、この附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。
「十二月」明治二四(一八九一)年十二月。
「陸羯南」(安政四(一八五七)年~明治四〇(一九〇七)年)は政治評論家で新聞人。青森の生まれ。本名は中田実。紆余曲折を経て、明治一六(一八八三)年に太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めた。この頃、友人加藤恒忠(安政六年~大正一二(一九二三)年は後の外交官・政治家。彼の三男忠三郎は子規の妹リツの養子となって正岡家の祭祀を嗣いでいる)の甥正岡子規の訪問を受けている。二年後には文書局が廃止されて内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの明治二一(一八八八)年の春に依願退職、翌明治二十二年二月十一日に日刊紙『日本』を創刊、紙上で日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開した。結局、この翌明治二十五年に隣りに移り住んで来た正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規は「生涯の恩人」と泣いた、と参照したウィキの「陸羯南」にはある。肺結核のため、満四十九歳で亡くなった。
以下の引用は底本では全体が二字下げ。歴史的仮名遣なので漢字を恣意的に正字化し、前後を一行空けた。]
尤(もつとも)通例の下宿屋では不都合也。なるべく離れ坐敷の貸間にて少しは廣き處(二間あれば殊に宜(よろ)し)ほしく(本箱少々有之(これあり)候故六疊の間位にてはとてもはいり不申(まうさず)候)といふむつかしき注文に御坐候。それでふと思ひつき候は、明治十六年頃御寓居の團子阪の植木屋はよほど右の注文に相應するものかと存候故御尋申上候次第に御座候。乍御面倒(ごめんどうながら)右御曾寓(さうぐう)之在り所御御聞被下度奉願上(おききなされくだされたくねがひあげたてまつり)候。勿論右の處に限る譯にはなけれども閑靜なる處にて學校より餘り遠からざる處と存(ぞんじ)候故、團子阪かまたは當時御住居の根岸近傍よろしくと存候。恐れ入候へどももし右樣の場處御坐候はば御一報被下度奉願上候。
[やぶちゃん注:「御曾寓(さうぐう)」かねてよりのお住まい。]
追分町の家へはどういう順序で入るようになったか分らぬが十月中から移転の意志があったことはこれで明であるし、翌年根岸に住むようになる前兆も已にここに見えているように思う。
居士が閑静なところに下宿を探したのは、学校の勉強のためではない。小説を草せんがためであった。しかもこの時の小説は前年来の合作小説などと違って、直(ただち)にこの一篇を提げて世に問おうとしたのである。
居士の小説に対する興味の変遷は、二十三年中藤野古白に与えた手紙に「少小より餘が思想の變遷を見るも龍溪居士に驚かされ春廼家(はるのや)主人に驚かされ二葉亭に驚かされ篁村翁に驚かされ近頃また露伴に驚かさる」とあるのに尽きているように思う。このうち最も居士に刺激を与えたのは春酒屋主人及(および)露伴氏で、前者の影響は「竜門」「山吹の一枝」などとなって現れたが、遂に大成するに至らなかった。露伴氏の影響は春廼家主人よりも更に強く深いものがあり、それが寄宿舎を出て小説執筆を決意する原動力になったのである。晩年この当時の事を回顧した「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」の中で、居士は次のように述べている。
[やぶちゃん注:「龍溪居士」矢野龍溪。既出既注。
「春廼家主人」坪内逍遙。既出既注。
「篁村」饗庭篁村(あえばこうそん 安政二(一八五五)年~大正一一(一九二二)年)は小説家・演劇評論家。本名は饗庭與三郎、別号に「竹の屋主人」。江戸文学の継承者。
以下、底本では全体が二字下げ。前後を空けた。「天王寺畔の蝸牛廬」(ネット情報によれば、明治三五(一九〇二)年九月の『ホトトギス』掲載)は原典を確認出来ないので底本のまま載せた。]
そこで今までは『書生気質』風の小説の外は天下に小説はないと思うて居った余の考えは一転して、遂に『風流仏』は小説の最も高尚なるものである、もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬという事になってしもうた。つまり『風流仏』の趣向も『風流仏』の文体も共に斬新であって、しかもその斬新な点が一々に頭にしみ込むほど面白く感ぜられた。『風流仏』は天下第一となり、露伴は天下第一の小説家となり了(おお)せた。さすがに瘦我慢の余も『書生気質』以後ここに至って二度驚かされたわけである。
それからは言うまでもなく露伴崇拝となってその『対髑髏(たいどくろ)』なども最もすきな小説のであった。これより後余は少し『風流仏』に心酔して熱に浮されたような塩梅で、どうか一生のうちにただ一つ『風流仏』のような小説を作りたいという念が常に頭の中を往来して居って、今まで小説には疎(うと)くなって居たものが遽(にわか)に小説中の人間となって、自ら立騒ぎたいほどの勢いであった。そこで一つの『風流仏』的小説を書くことが殆ど余の目的となって、それがためにいろいろの参考書を集めたこともある。それがためにわざわざ三保の松原を見に往ったこともあった。
居士の『風流仏』に対する心酔は尋常でなかった。「わざわざ三保の松原を見に往った」というのは、「しゃくられの記」上篇の時を指すのであろう。居士はこの決意の下に『風流仏』的小説を書くべく、駒込に家を借りて筆を執りはじめたのである。広い家の中に動く者は居士一人しかない。表には「来客を謝絶す」と貼札し、十四畳の間には置火燵を中心として、足の踏み処もない位書物を出しひろげ、寂然(せきぜん)たる裡(うち)に思(おもい)を凝(こら)したのであった。
[やぶちゃん注:「しゃくられの記」上篇は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから全文が視認出来る。]
この駒込の一人住いについては、あまり記されたものがない。漱石氏の談話の中に「追分の奥井の部内におった時分は、一軒別棟の家を借りていたので、下宿から飯を取り寄せて食っていた」とあるのが、僅にその生活ぶりを伝えているに過ぎぬ。「大將雪隠へ這入るのに火鉢を持つて這入る。雪隠へ火鉢を持つて行つたつて當る事が出來ないぢやないかといふと、いや當り前にするときん隱しが邪魔になつていかぬから、後ろ向きになつて前に火鉢を置いて當るのぢやといふ。それで其火鉢で牛肉をぢやあぢやあ煑て食ふのだからたまらない」という逸話もこの際のものである。
[やぶちゃん注:夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」は正字化した。しかし、原文の「ぢやあぢやあ」を「じいじい」(底本)に変えることは表記上、私は「あってはならないことだ」と考えるということは言っておかなければならない。これが仮に宵曲の仕儀だとすれば、彼の書誌学的態度は最低である。]
この年十二月三十一日、虚子氏に与えた手紙に「小生やむをえざる儀に立ち至り現に一小説を書きつつあるなり。その拙なること自分ながらうるさく實は冬期休暇已來來客謝絶致候得どもそれだけに仕事は出來ず、一枚かいてはやめ半枚かいては筆を抛(なげう)つこと幾度といふことをしらず」とあるから、小説の方が進行せぬうちに、二十四年は暮れてしまったものと見える。