芥川龍之介 手帳7 (24) 中国旅行最後の記録 / 中国関連「手帳6・7」全注釈~完遂
○上衣(衫) 裙子 褲子 ○背心(紐かたし) 木綿 フランネル 褲子 きやらこ(洋布) フランネル 緊身 きやらこ
[やぶちゃん注:「衫」(さん)は中国では、上半身に着る単衣(ひとえ)の上着・シャツ。或いは足元まで届く長い上着を指す。
「裙子」(くんし)中国で女性が腰から下に着ける衣。裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。
「褲子」(こし)は中国語で「ズボン」のこと。
「背心」ここは昔の中国服の上着の上に羽織るチョッキのことか。現代中国語では、袖無しの肌着やランニング・シャツを指す。
「フランネル」英語「Flannel」。柔らかく軽い毛織物のこと。衣類及びシーツや寝巻きに一般的に用いられる。
「きやらこ(洋布)」英語「calico」。インド産の平織りの綿布。ウィキの「キャラコ」によれば、『インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった』。『インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気を』呼び、十七『世紀以後』、『インドに進出したイギリス東インド会社は』、『この貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコと』呼ばれるようになった。『この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業したため、ドイツの経済学者であるカール・マルクスによって「職工夫の骨でインドの平原が白くなった」と形容されたほどの惨状を呈した』。『日本でも生産されている』が、『日本で「キャラコ」と呼ぶ場合はインドとは逆に』、『薄手で織り目が細かい糊付けした純白の布地を指し、主に足袋やステテコの材料となる』とある。後に再度「褲子」とあるのは、中国人穿くズボンの素材がキャラコであることをメモしたものか。
「緊身」これは恐らく、現代中国語の「緊身褲」(きんしんこ)で、伸縮性のある腰から脚までにぴったりとフィットするズボン又はタイツ状のスパッツ(spats)のことであろう。]
○短褲子 底裙子(緣レエス) 背心 緊身(底衣衫) 夾緊身(袷)(綿緊身)(冬秋)衣裳(襟あり)(寒氣に從ひ裏小 中 大毛) 裙子(襞あり)
「短褲子」半ズボン。
「底裙子」よく判らぬが、下着として穿く裙子か、或いは、洋風のスカートのことか。
「底衣衫」これは現代中文サイトの画像を見る限りでは、シャツやブラウスのような上半身に着る下着のことのようだ。
「夾緊身」これは中文サイト画像を見る限り、腰を細く締め付けるコルセット風のものを指すようである。さすれば、「袷」も意味が合うように思う。]
○靴 大部分ハ西洋靴(皮靴) 上下共紅は新妻のみ 親戚知人に慶事ある時は裙子のみ紅し 褲のみなるは娘
[やぶちゃん注:靴の話は二文目で切れて、「上下共紅は新妻のみ」以下は上着と下着の組み合わせの際の取り決めの記録。]
○鳳冠 双孖髻 辮子――娘(この髷は皆髮を分く)
[やぶちゃん注:「鳳冠」は女性が頭部に派手に装着した冠状の髪飾り。調べて見たところ、明代には九品以上の官吏の夫人は鳳冠を装着することが義務づけられていたとある。
「孖髻」は読みは音で「しけい」或いは「じけい」で、「孖」は対になってものを指す語であるから、これは恐らく中国の娘の髪型で、頭の上部左右に丸い髻(まげ)をつけるそれを指すのではなかろうか。
「辮子」現代中国音音写で「ピィェンヅゥ」でこれは辮(弁)髪の意もあるが、ここは「娘」とあるから「お下げ髪」のことであろう。さすれば、先の「孖髻」とも親和性がある語となる。]
○華絲褐(緞子に似たり 模樣浮き出づ)唐草色淡靑 冬
[やぶちゃん注:傍点の「◦」を下線太字に代えているので、「〔◦印は冬秋〕」は「〔傍線太字は冬秋」〕と読み替えられたい。なお、次の条の注も参照のこと。
「華絲褐」不詳。]
○緞子 水色へ細かに葡萄(實葉)の浮ぶものあり 模樣は桃色 冬 ○熟羅(眞夏) ○大紡綢(初夏)羽二重の如し ○小紡綢(夏)細き模樣浮き出づ その模樣銀に似たり 細き茶の線 ○夏布 麻也 ○官紗(放花官紗)薄紫の放花官紗 藻と金魚の模樣(小) ○縐紗 靑磁色に木蘭花の模樣を織出す 模樣は皆織 ○華絲緞 ○華絲羅 黑に波形模樣浮ぶ ○愛國布〔◦印は冬秋〕 ○緞子 縐紗 華絲褐 華絲羅 華絲緞 愛國布 紡綢――裙子 ○繭紬は主として夏 縐紗は四季共 寧綢
[やぶちゃん注:傍点の「◦」を下線太字に代えているので、「〔◦印は冬秋〕」は「〔傍線太字は冬秋」〕と読み替えられたい。但し、これは本文を読むに、実際には、その単漢字につけたマークではなく、「華絲褐」「緞子」「華絲緞」のそれぞれの服を指し、この三種は冬秋用であることを注記している。
「熟羅」不詳。「羅」は薄絹のことであろう。
「大紡綢」読みは「だいぼうちゅう」(現代仮名遣)と読んでおく。不詳。但し、「紡綢」(現代中国語音写「ファンチョウ」)は細くてしなやかな平織りの織り物で、夏服に用いるという中文記載があった。
「羽二重」日本で縮緬(ちりめん)と並ぶ高級絹織物の一種。生糸を用いて織り、後に練(ねり)をかける。平滑で光沢があり、平織が多い。
「小紡綢」不詳。前のそれと何が「大」で、何が「小」なのかさえ判らぬ。
「官紗(放花官紗)」杭州・紹興一帯を特産とする薄絹の高級織物。紗(しゃ)。古代に於いて宮廷へ貢納したことから「官」がついている。「放花」は不詳。
「縐紗」「しゅうしゃ」と読んでおく。紗の一種で、非常に繊細な織りで、摺り紋を有し、頭巾や顔を覆うレースに用いたといった内容のことが中文サイトにはあった。「縐」は縮緬のことと中日辞書にあった。
「華絲緞」不詳。
「華絲羅」不詳。
「愛國布」これは西欧列強の文化侵略に対して、西洋布地を用いずに、中国産の生地を布地として用いよう、と呼びかけたそれを指すように思われる。
「繭紬」「けんちゅう」は中国で織りっ放しの薄地の絹織物を指した。練りを加えた上級品は「練紬」(れんちゅう)と呼んだ。
「寧綢」不詳乍ら、例えば、この画像の中国服は清中期のもので「果綠色寧綢繡花蝶紋旗裝」とキャプションがある(リンク先は私のピンタレスト)。]
○學校 下宿(支那人拒絶) 警察 新聞(チヤンコロ) ○講堂に日淸戰爭の戰利品をかく 教官支那にかかるものあるかと云ふ 支那人は數學的天才なし ○警察支那人集會をいぢめる ○Opium Den のシネマ辯士チヤンコロと云ふ
[やぶちゃん注:「チヤンコロ」は中国や中国人を指す軽蔑語。以下、ウィキの「ちゃんころ」より引用しつつ、私の見解を附す。『中国人(中華民族=漢民族)を指す差別的な呼び方 その語源説の一部から、満洲民族(清国人)をも含む差別的呼称とする見解もある』。『江戸時代には銭などの小さくて取るに足らないものの意味で使われたが、語源が違』い、日本語としての使用の正当性が認められるとは言えない。『語源については諸説有るが、清国奴の台湾語読み(白話字:chheng-kok-lô)が、台湾の日本統治時代に訛って日本へ伝わり広まったとする説が有力である。その他に、留学生が用いた清国人(チンクォレン)説、中国人(チュンクォレン)説などもある』。『この「ちゃんころ」という言葉は、日本が中国大陸に積極的に出兵する昭和初期から頻繁に使われるようになる。中国服のことを「チャン服」、中華料理のことを「チャン料」などと形容詞的に略して用いることもあった。当時の日本人には中国人に対する優越意識を持つ人もおり、また日本と中国が戦争状態にあったことから侮蔑的に使われることが多かったため、現在では侮蔑的な言葉』として用いてはならない。芥川の叙述から、差別語として既に大正期に現地中国で用いられていたことが分かる。そしてそれが内地人である芥川には如何にも異様な響きでもって感じられたからこそ、これを叙述している点を見逃さないようにしたい。
「Opium Den」は一般名詞ならば、アヘン吸飲所・アヘン窟のことであるが、それでは意味が通らない。両単語の頭文字が大文字になっているので、中国の日本租界(上海の他には天津・漢口・杭州・蘇州・重慶に存在した)にあった映画館の館名であったか。既に「手帳」の中国パートは最後に近く、或いはこれはずっと以前の上海の租界での記憶等を記したものかも知れないし、メモ位置から考えると、帰路の途中の奉天や釜山での嘱目の可能性が高いとも言える。例えば、芥川龍之介の「雜信一束」の、
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十九 奉天
丁度日の暮の停車場に日本人が四五十人步いてゐるのを見た時、僕はもう少しで黃禍(くわうくわ)論に賛成してしまふ所だつた。
*
などを読むと、その感じが強くする。奉天には「租界」はなかったものの、事実上の日本租界と呼んでよいものが形成されていたからである。上記の「雜信一束」のリンク先の私の注を参照されたい。如何せん、北京出立以降の芥川龍之介の帰路は資料が著しく少なく、よく判らない。]
○標札 金屬(金 or 銀)赤字の名 又は額中 刺繡にて字を出すもの 字と共に畫を出すもの 金額札の周圍に電燈をともすもの 人力車に六個の火をともし行く妓あり ○門(對聯)門房 中庭 房 壁紙(洋風) Bed 鏡臺 床は瓦 壁上の掛物 啖吐
[やぶちゃん注:「人力車」は日本由来のものであり、「六個の火をともし行く妓あり」というのは、日本人芸妓のようにもとれる。とすると、釜山での嘱目の可能性が高くなるか。]
○方邱 稚拙愛すべし 唐寅 山水橫卷 北畫の體を學ぶ 新羅 鳥 朱葉鮮 石濤 枯木竹 三王惲 畫册 南田の山水よし 金農 鬼 大小鬼 項易庵(聖模) 墨畫花卉 俊 石濤 花卉山水册 墨竹妙 八大山人の畫 金俊明の梅 錢杜(錢叔美)の花卉册 方若家
[やぶちゃん注:「方邱」不詳。画人の名としか思われない。或いは、明末清初の画僧であった石谿(せきけい 一六一二年~一六七四年)の誤字、或いは、岩波旧全集編者の誤判読ではあるまいか? 彼の号の中に「介邱(かいきゅう)」があるからである。俗姓は劉氏で、幼少の時に父母を失い、諸地方を遍歴し、四十歳頃に金陵(南京)報恩寺の覚浪に参禅、牛首山(ごしゅせん)幽棲寺の住持となった。明遺民として、限られた友人の周亮工や程正揆などが石谿の伝を記している。画作は康熙初年(一六六〇年代)に多く集中しており、彼の山水図は当時、高く評価されたという(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「唐寅」既出既注。
「北畫」北宗画(ほくしゅうが)。中国の山水画の様式による区分で南宗画(なんしゅうが)に対するもの。日本では、かく「北画(ほくが)」とも称する。この対概念は、古くは明末の文人画家董其昌(既出既注)の提唱したものであったが、現在では彼の所説を離れ、画風・画法上から系譜的分類が行われて、華北地方の自然に密接した華北系山水画を「北宗画」と称し、江南地方の自然と関連する江南山水画を「南宗画」と規定している。
「新羅」(?~一七五六年頃)は清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒(しゅうがん)、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に「大鵬」「天山積雪図」など。
「石濤」(一六四二年~一七〇七年)は清初に活躍した遺民画人。石濤は字(あざな)、後に僧となった際にはこれをそのまま道号としている。ウィキの「石濤」によれば、『明王室の末裔にあたる靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家の末裔として生まれ』た。『黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家に挙げられる』とある。
「三王惲」これは芥川龍之介の錯誤があるか。まず、後ろの「惲」(音「ウン」)であるがこれは、恐らくは清初の文人画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年)のことであろう。字(あざな)を寿平(じゅへい)と称したが、後に寿平が通常の名となり、現在も惲寿平の名で知られる。既出既注の惲南田(うんなんでん)のことである。次に前の「三王」であるが「清初の六大家」と称される画家たちがいるが、これは「王」姓の四人の南宗画家である王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)を数え、これに呉歴とこの惲寿平を加えた六人で別に「四王呉惲(しおうごうん)」という。芥川龍之介はこれを思い出せなかったか、或いは龍之介の錯誤ではなく、現地では四人の内の一人を外した「三王」の命数と惲寿平の四人を並べた呼称があったのかも知れぬ。
「南田」前の惲南田のこと。
「金農」(一六八七年~一七六三年)清の文人画家で書家。銭塘(浙江省杭州)出身。故郷杭州の文人の間で育って詩名を揚げ、古美術の鑑識眼にも優れた。三十歳過ぎから詩書を持って各地を遍歴し、晩年、六十歳頃から揚州に寓居してから本格的に画筆を執り、「揚州八怪」(清の乾隆期を中心に富裕な塩売買の経済力を背景として揚州で活躍した八名の画家の総称)の代表的存在となった。南宗画の形式主義から脱した個性的画風による竹・梅・馬などを得意とし、晩年は仏画も描いた。書は収集した金石拓本をもとに独自の書風を確立した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「項易庵(聖模)」「模」は恐らく誤り。明末清初の画家項聖謨(こう せいばく 一五九七年~一六五八年)。祖父元汴(げんべん)、父徳新も画家。易庵は号。書と山水画に優れ、項氏一族の中でも最も名を知られた。
「花卉山水册」項聖謨の画集には「花卉圖册」が六冊、他に「花卉圖屛」が三冊、「山水」を題簽に含む図冊が多数ある。例えば「山水六段」二巻や「山水圖册秋林岩壑」・「山水圖册疏林听雨」・「山水圖册亭阜詩思」・「山水圖册云山不動」。
「八大山人」(一六二六年?~一七〇五年?:本名は朱耷(しゅ とう)或いは朱統𨨗(しゅ とうかん)は明末清初の画家・書家で詩人。先の石濤は遠縁の親族に当たる。
「金俊明」(一六〇二年~一六七五年)は明末清初は文人画家。梅花を好んで描いたらしい。中文サイトのこちらで画像が見られる。
「錢杜(錢叔美)」(一七六四年~一八四五年或いは一七六三年~一八四四年)清後期の画家。叔美は字。銭塘(浙江省杭州)の裕福な家柄に生まれ、書画を愛好した。宋・元の山水画を学び、洗練された画風は纎細過ぎて迫力に欠けるが、嘉慶・道光期(一七九六年~一八五〇年)の文人画の特色を代表する画家として知られる。色彩を用いた山水にも瀟洒な趣があるとされる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「方若家」不詳。誤記か誤判読が疑われる。]
〇一籃の暑さ照りけり巴旦杏
薄埃り立つから梅雨の風
若竹のいつか垣穗を打ちこして
大盃によよと酒もる
燈臺の丁子落ちたるはなやかさ
[やぶちゃん注:この中国行中の嘱目(というか、発句は嘱目で以下の付句は想像と断じてよかろう)の連句。「發句」(私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」参照)の句「ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏」前書、及び、芥川龍之介「雜信一束」附やぶちゃん注釈)の、
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二 支那的漢口
彩票や麻雀戲(マアヂヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。其處をひとり步きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口(ハンカオ)の夏を感じたのは、――
ひと籃(かご)の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)
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に従えば、五月下旬から六月上旬の漢口での作となる。初句の表記が「ひと籃の」となっている表記違いであり、四句の付句(と思しいもの)が続くが、これらは「一籃の暑さ照りけり巴旦杏」以外は、この手帳以外には見出せないものである。既に私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で芥川龍之介の句(連句形式)として掲げている。中国の旅の終りの思い出の独り連句の諧謔と採っておく。
「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ Prunus dulcis、所謂、「アーモンド」のことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂スモモが入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏」(ぼたんきょう)、「巴旦杏」(はたんきょう)という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いていると考えるのが妥当である。季語としては春となるが、ここは「暑さ」が季語。
「から梅雨」「空梅雨(からつゆ)」。
「垣穗」垣根。
「丁子」「ちやうじ(ちょうじ)」と読む。「丁子花(ばな)」「丁子頭(がしら/あたま)」のこと。灯心の燃えさしの頭にできる、チョウジ(バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum:クローブのこと)の実のような丸いかたまり。俗に、これが油の中に入ると貨財を得る吉兆だと言われた。]
○Like water under thin ice.
[やぶちゃん注:「薄氷を踏む思い」の意。「手帳七」掉尾。意味深長な謎の最後の言葉ではないか。……私にはちょっと判る気がしている……芥川龍之介が中国特派を望んだ理由の一つが、かつての不倫相手で、この頃には既に激しい生理的嫌悪の対象となっていた秀しげ子から逃避するためだったからである…………]
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