芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」
四
ある日戸棚の中に蔵(しま)って置いた行李を出してそのなかの物を検べた。
いろいろの日記だの、記録だの、スケッチブックだのと一緒に古い手紙がたく山入っていた。尤も用事の手紙は其用事が結了した後は存在の価値を失ったものと認めて引裂いてしまうて、残っているのは純粋な書信とも云う可きものばかりであった。
その手紙の中には高等学校にいたころ出来た友人からの便りも大分あった。向(むこう)が陵(おか)の自治寮で起臥(おきぶし)を共にした友人の中でその後も書信を往復している四人の手紙がかなり沢山積っていた。A君、Ⅰ君、F君、N君と呼ぶことにする。[やぶちゃん注:「向(むこう)が陵(おか)」旧制第一高等学校の別名。「向陵(こうりょう)」とも称した。東京都文京区向丘にあったことに由来し、「旧制第一高等学校寮歌」の第一番は「向が陵の自治の城、サタンの征矢はうがちえで、アデンの堅城ものならず、こもる千餘の大丈夫は、むかし武勇のほまれある、スパルタ武士の名を凌ぐ。」である。]
Aは東京の大学の英文科にいる。[やぶちゃん注:これが芥川龍之介である。]
Ⅰはおなじ大学の史学科、Fは哲学科にいる。[やぶちゃん注:「I」は後に歴史学者・東洋学者となった石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)。千葉市出身。底本後注には『石田静之助』とあるが誤植である。「F」は後の哲学者藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)。愛媛県出身。ドイツ留学後、甲南高等学校教授。孰れも芥川龍之介とも友人。]
Nだけは京都の大学の法科に籍を置いている。[やぶちゃん注:長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当った。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当り、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。]
この四人はみなかっきりと互いに異った性格を有(も)っている。[やぶちゃん注:太字は傍点「ヽ」。]
Aは芸術を生活の中心として生きている。生れは東京である。
Ⅰは驚嘆すべき記憶力の所有者でその生命は学問の研究に存している。生れはやはり東京である。
Fは一切の努力の方向を道徳に向って集注せしめようと努めている人間である。伊予の生れである。
Nは信仰の人である。彼は多くの事柄をキリストに結びつけて考える癖がある。土佐の人である。
僕がこの四人に対する関係も亦彼らが友人であると云う点に於いて共通している外はそれぞれ小さからぬ差異がある。
僕は彼等が二三年前に寄越した古い手紙をして彼れらの個性を語らしめたいと思い付いた。
1・Aの手紙 その一
上野の音楽会の切符を三枚もらったから君と僕と僕の弟と三人できゝに行った。楽堂の一番高い処にすわってまっていると合唱がはじまった。非常に調子はずれな合唱である。誰かゞ、あれは学習院の生徒のだからあゝまずいんだと云った。そのうち妙な女が出て来た。桃色のジュボンをはいて緑色のリボンをつけている。其女が「私は井上の家内であります」と云った。はゝあ俳優の井上の細君だなと思っていると、女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云うかと思うと妙な手つきをして体操みたいな事をやりはじめた。よくみると女のうしろの台の上に小さな女の子が二人礫(つぶて)[やぶちゃん注:これは「磔(はりつけ)」の誤り。本章最後に附した注の原書簡本文を参照。]のように両手をひらいて立っている。それが手を動かすにつれて眠るらしい。そのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行って一緒に成って妙な手つきをしている。何故だか知らないが、「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云って実は九尾(くび)の狐なんだ」と考えたから、君にどうしたらいゝだろうと相談した。其答が甚だ奇抜である。「狐と云うものは元来臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわっと云えばにげるにきまっている」と云うのである。そこで其通りに実行した。すると果して女は白い南京鼠程な狐になってストーブの下へきえてしまった。[やぶちゃん注:「南京鼠」(なんきんねずみ)はハツカネズミの飼養白変種。愛玩用及び実験用。]
それで目がさめた。近来に無い愚劣な夢である。
………略………
イエーツを送った。義曲(ぎきょく)[やぶちゃん注:「戯曲」の誤り。同前。]は少ししらべている事があるので送れない。
僕は郵便制度に迷信的な不安を持っている。其上F君からの便りが途中で紛失してから一層物騒になった。本がついたら面倒でもしらせてくれ給え。聊(いささか)心配になる。
此間ベルグソンの「笑」をよんだ。理屈が割合にやさしかったのでよくわかった。よくわかったから面白かった。
面倒くさいな。書くより逢って話しをした方が遥に埒があく。僕は君に話す事が沢山ある。一日しやべってもつきない程沢山ある。
[やぶちゃん注:柱の「1・Aの手紙 その一」は一字下げであるが、後の同様の柱が二字下げであるので、それに合わせておいた。さて、この手紙は大正四(一九一五)年(この年次は推定。後で問題にする)十二月二十一日田端から井川恭宛で旧全集書簡番号一九二(転載掲載。恐らくは恒藤の著作から)である。以下、全文を引く。
*
獨乙語の試驗一つすまして休みになつた
毎日如例 漫然とくらしてゐる 昨日は成瀬のうちへ行つて 久米と三人 暖爐のまはりに椅子をならべて一日話しをした 久米のかいてゐる戲曲の慷概[やぶちゃん注:「慷」はママ。「梗」の誤字。]もきいた 成瀨もやがて小説をかくと云ふ事であつた 無能なら僕は無能なるまゝに此休みも漫然と本をよんでくらさうと思ふ
上野の音樂會の切符を三枚もらつたから君と僕と僕の弟と三人できゝに行つた樂堂の一番高い所にすはつてまつてゐると合唱がはじまつた非常に調子はづれな合唱である誰かゞあれは學習院の生徒の合唱だからあゝまずいんだと云つた そのうちに妙な女が出て來た桃色のジュポンをはいて綠色のリボンをつけてゐる 其女が「私は井上の家内であります」といつた はゝあ俳優井上の細君だなと思つてゐると女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云ふかと思ふと妙な手つきをして體操みたいな事をやりはじめた よくみると女のうしろの臺の上に小さな女の子が二人 磔のやうに兩手をひらいて立つてゐる それが女の手を動かすにつれて眠るらしいそのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行つて一緒になつて妙な手つきをしてゐる何故だかしらないが「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云つて實は九尾の狐なんだ」と考へたから君にどうしたらいいだらうと相談した 其答が甚奇拔である「狐と云ふものは元來臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわつと云へばにげるにきまつてゐる」と云ふのであるそこで其通りに實行した すると果して女は白い南京鼠程な狐になつてストーブの下へきえてしまつたそれで目がさめた 近來にない愚劣な夢である
東京の大學ぢやあローレンス先生の御機嫌をよくとらなくつちやあ駄目ださうだ「さうだ」と云ふが之は皆先輩が「だ」と云ふのを君に傳へる爲に「さうだ」と謙遜したんだから確な事實として駄目なのである一體先輩たちが此樣な不合理な事の行はるゝのを默過するのみならず後輩をして其顰に習ふべく勸告するに至つては言語道斷であると思ふ 卒業論文はキーツ以後に下つては及第しないワイルドをかいて一番びりで卒業した人の如きは僥倖の大なるものである其上古代英語中世英語を學ばざるものは駄目で研究室に出入してチョーサアやスペンサーの質問をローレンスにしないものは駄目である英文の助手に井手と云ふ文學士がゐるが机の上ヘワイルドをのせておいたらローレンスが來て眉をひそめながら「不肖ながら自分は未こんなものに頭をわずらはされる程愚にかへつてはゐないつもりだ」ときめつけたそこで井手君は爾來ワイルドは悉机のひき出しにおさめて よまないふりをしてゐると云ふ話しである もう少し尊王攘夷をやらなくつちやあ駄目だと思ふが下手に動くと却つてひどい目にあふからこまる
山宮さんの如きは此點に於ては成功者で字の形までローレンスをまねて得意になつてゐる
松浦さんの講義も少し座談めいてゐる 夏目さんの文學論や文學評論をよむたびに當時の聽講生を羨まずにはゐられないどうしてかう譯のわからない世間だらうと思ふ
イエーツを送つた 戲曲は少ししらべてゐる事があるので送れない
僕は郵便制度に迷信的な不安を持つてゐる其上藤岡君からの便りが途中で紛失してから一層物騷になつた 本がついたら面倒でもしらせてくれ給へ聊心配になる
此間ベルグソンの「笑」をよんだ 理屈が割合にやさしかつたのでよくわかつた よくわかつたから面白かつた 面倒くさいな かくよりあつて話しをした方が遙に埒があく僕は君に話す事が澤山ある一日しやべつてゐてもつきない程澤山ある
城下良平さんが遊びに來たから筆をすてる皆さまの健在を折る
十二月廿一日午後
恭 君 梧下
*
さて、この旧全集に推定年次は誤りである。何故なら、これでは、この手紙が芥川龍之介の松江訪問に後に出されたことになってしまうからである。新全集の宮坂覺氏の年譜を閲するに、新全集では恐らく前年、則ち、大正三(一九一四)年に正しく移されているように思われる(私は新字体で気持ちの悪い新全集の書簡巻は所持しない)。この推定年次の誤りは底本の編者も気づいており、やはり大正三年十二月説を注で主張している。
「イエーツを送った」大正三年の三月の井川と書簡のやり取り(旧全集書簡番号一二三・一二五)によって芥川龍之介が井川に『新思潮』でアイルランド文学号を出す関係から、ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の“The Secret Rose”(「神秘の薔薇」一八九七年)を借りていることが判るので、それを返送したことを指しているようである。]
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