芥川龍之介 手帳8 (5) 《8-5》
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《8-5》
○研究所の二階 モデル倒る 皆近よる R 近よるにたへず 外へ寶丹をかひに行く かへりに階下の事務所に女畫師を見る 「水はないか」と云ふ 女畫師さう云ふ時は逆にぶら下げれば好いと云ふ 嫉妬なるべし 後 池の端のカツフエに人の妻となりしモデルとあふ 面やつれ 肉體を知り居る事 不快なり
[やぶちゃん注:この話は芥川龍之介の草稿断片、旧全集第十二巻の「斷片」(編者によるパート名)の「Ⅸ」に「或畫學生の手紙」という編者に仮題された以下に生かされてはいる。
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わたしはこの手紙を上げるのを可也躊躇してゐました。が、きのふの出來事以來、急に勇氣を生じました。
きのふの午後、わたしはパイプを啣へたまま、研究所の二階を駈け下りて來ました。するとあなたは階段の下に年の若い事務員と話してゐました。わたしはパイプを離しながら、かう事務員に聲をかけました。
「君、モデルが腦貧血を起したから、水を持つて行つてやつてくれ給へ。」
あのモデルは美人です。動物的な感じはするものの、兎に角世間並みの美人です。これはいつかあなたとも「美しい牝(めす)と云ふ感じですね」などと常談を言つたことがありました。わたしは格別あのモデルに氣のあつた訣(わけ)ではありません。しかし誰も騷いでゐる外にどうしてやると云ふものもありませんから、寶丹(はうたん)でも買つて來てやらうと思つたのです。あなたはわたしにその話を聞くと、妙にはげしくかう言ひました。
「寶丹(はうたん)など入りはしない、逆(さか)さにしてゆす振(ぶ)つてやれば好いのに。」
わたしは正直に白狀すれば、あなたの言葉の残酷なのに多少の不快を感じました。しかし研究所を出るが早いか、忽ち愉快な興奮が湧き上つて來ました。この手紙を上げるのは未だにその興奮を感じてゐるからです。
わたしはあなたを愛してゐます。どうかこの手紙に返事をして下さい。
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しかし、これが元となった決定稿や完成作品のシチュエーションなどは存在しない。この草稿断片は旧全集の後記によれば、「斷片」の「Ⅰ」から「Ⅻ」までが大正一三(一九二四)年から昭和二(一九二七)年までのの逆編年構成であるとあるから、先の「溫泉だより」のメモなどから見て大正一四(一九二五)年四月以降のメモと考えてよい。
「寶丹」(はうたん(ほうたん))は江戸末期に売り出された、赤褐色の湿潤性粉末の気つけ薬。現在の東京都台東区上野にある「守田治兵衛商店」が文久二(一八六二)年に売り出したもので、現在も同商店から販売されている(こちら)。但し、現在は胃腸薬(第三類医薬品)としてである。
「池の端」現在の東京都台東区の西部の池之端(いけのはた)。旧下谷区。南部の一丁目が不忍池に面している。]
○靑年伊豫がすりの仕立て下しをきて湯に行く 肌に紺色のこる
[やぶちゃん注:「伊豫がすり」伊予絣。現在の愛媛県で織られる木綿絣(もめんがすり)の総称。松山市周辺が主産地で、「道後絣」の別名がある。一八〇〇年頃(同年は寛政十二~十一年相当)「鍵谷かな」が、久留米絣にヒントを得て考案したとされる。明治後期に最盛期を迎え、夜具地・農作業衣などのほか、着尺地(きじゃくじ:大人の着物を一枚仕立てるための反物のこと。通常は幅三十六センチメートル、長さ十一・四メートルほどで、これを「一反」と呼ぶ)にも用いられた。かつては桐・鶴・亀などの絵絣(えがすり)を特色としたが、今日では十字絣,井桁(いげた)絣などの単純な総絣が殆んどである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]