芥川龍之介 手帳7 (16) 京劇女優の名のメモ
○劉少々(□報主筆)(法源寺)「思君五十未成家 無限風流罪在花」劉喜奎「五十成家無結果 無限風流罪在我」 張勳 袁克文 金少梅
[やぶちゃん注:「劉少々(□報主筆)」「□」は判読不能字。まず「々」は中国にはない記号であるから、「劉少少」が正しい。そこでこれで検索を掛けてみたところ、「梅蘭芳」を扱った中文作品(穆儒丐著「梅蘭芳:穆如丐孤本小説」)の中に『亞細亞日報』の主筆として劉少少の名を見出せた。「亞細亞」は省略してメモしても、判らなくなる字ではないから「亞報」と芥川龍之介は略記したと考えればよかろう。今まで放置されてきた本手帳の不明字が明らかとなったと言ってよいであろう。
「法源寺」既出既注。これは或いは亜細亜日報社の近くに同寺があったことを指すか。
「思君五十未成家 無限風流罪在花」「君を思ふて五十にして 未だ家を成さず 無限の風流 罪は花に在り」とでも訓ずるか。何を引き写したものか不明。京劇の台詞か?
「劉喜奎」(一八九四年~一九六四年)女優が京劇の舞台へ上がれるようになった初期の頃、京劇の大家と共演出来た女優の名。『「華風(ホワフォン)」八木章のブログ』の『ドキュメンタリ・京劇第六話「鳳還巣・坤伶」』によれば、『民国初期の頃に民国大統領袁世凱は、京劇舞台での男女共演を禁じる法令を廃止し、多くの著名な劇団がこの動きに呼応したため、梨園界での大きな流れを作り出した。また、女性解放思想の普及に伴い、女性が京劇舞台へ上っただけでなく、これまで男性に独占されていた京劇鑑賞も女性に解放されるようになった』。『しかしこの時代の梨園界はまだまだ非常に保守的だったため、女性俳優が舞台へ上がることができたのは古い伝統ある芝居小屋ではなく、ランクの低い郊外にある劇場に限られていた』。そんな中で、例外だったのが劉喜奎であった。『彼女が演じた「独占花魁」は梨園界で一世風靡したのである。劉喜奎は歴代の中国政治舞台のトップたちにも愛され、民国総理段棋瑞の姪っ子に襲われるという事件も起きている』。『梨園界で一世風靡した劉喜奎は、その後河北省地方にいたある普通の男性と結婚して京劇の舞台から姿を消していった』が(女優として活躍した時期は短い)、それから三十『数年後、彼女が再び姿を現した時には役者ではなく、中国戯曲学校の十大教授の一人としてであった』とある。芥川龍之介が中国特派員として北京に着いたのは、大正一〇(一九二一)年六月(十一日で七月十日までの一ヶ月間も滞在し、彼は友人に書簡で「此處なら二三年住んでも好い」「北京にあること三日、すでに北京に惚れ込み候」と記すほど、気に入っていた)であるから、当時の彼女は未だ十六歳であった。張雯氏の論文「近代中国の女優─日本近代の女優と比較して」(PDFのこちらの論文集の中に含まれている)によれば、彼女『の祖父は道光年間の進士で、江西省の官僚であったらしい。父親はもともと天津の兵器工場で働いていたが、劉喜奎が七歳の時に他界し、それからは母親と頼り合っての暮らしが始まった』。彼女の『家柄はもともと平民のものではないが』、『伝統的経済秩序とともに破綻して、年々困窮を増しつつあった家庭に生まれた喜奎は』、『生計のために八歳の時に梨園へ入れられた』(下線やぶちゃん)のであるが、『それは母子にとってやむを得ない選択であった。中国の伝統演劇では、基礎的な修業が非常に大事なこととされ、五、六歳から修業を始めるのが普通であった。小さい子供には、もちろん自分の意思はなく』、『したがって、女優としての「誇り」もなかった』とある。
「五十成家無結果 無限風流罪在我」「五十にして家を成せども 結ぶこと無くして果つ 無限の風流 罪は我れに在り」と訓じておく。明らかに前の句の対であるが、出所もそうだが、何故、これらがかく、女優「劉喜奎」の名を挟んで分断して記載されているのかが、まるで判らぬ。
「張勳」中国史では同名異人が複数いるが、これは恐らく清末民初の軍人で政治家で、革命後も清朝に忠節を尽した張勲(一八五四年~一九二三年)のことであろう。袁世凱死後の一九一七年七月一日、混迷する新政府の動きを見て、すでに退位していた先帝の溥儀を担ぎ、再び即位させて帝政の復古を宣言、いわゆる「張勲復辟(ふくへき)事件」に発展した。ウィキの「張勲(清末民初)」によれば、しかし、これは『国内各種勢力や世論から激しい反感を買った。しかも、かつて督軍団』(安徽派督軍による「十三省連合会」のこと)『の首領と目されていた張勲であったにもかかわらず、督軍団の督軍たちからも支持は得られ』ず、わずか二日後の七月三日、『段祺瑞』(だんきずい)『は素早く張勲打倒を宣言、日本の支援も受けて天津で「討逆軍」を組織した。段の軍勢は』五『万人余りの規模であり、張には対抗する術』もなく『壊滅し、ドイツの庇護により張はオランダ公使館に逃げ込んでいる。こうして張勲復辟は、僅か』十二『日であっけなく失敗に終わった』。翌年十月、『張勲は特赦を受けたものの、もはや何の実権も無かった』一九二一年には『熱河林墾督弁に任命されたが、実際には赴任して』おらず、その二年後、天津で病没した。
「袁克文」(一八八九年~一九三一年)は北洋軍閥の総帥袁世凱の次男。詩人・書家で、文物の収集家として知られた。
「金少梅」京劇女優。詳細不祥。]