芥川龍之介 手帳7 (8) 松筠庵(現在の楊椒山祠)
○松筠庵 宣武門外大街 達智橋郵便局橫町 鼠石煉瓦 楊椒山(忠愍)先生故宅(曹學閔書)これははめこみなり 中に劉石庵の碑 ※升山祠あり 祠壁の内外に碑を嵌むるもの多し 祠後更に一祠堂 升山とその妻との靈位あり 祠前瘦犬ねる ○諫草亭 ココニギボシユの鉢植多し ○庭は瓦 岩をつむ 柳 松 蔦 檜 蘭 椒山の「錢肩擔道義 辣手著文章」の碑ランプの臺となる(廊下)フシン中 入口に君子自重の小便壺 職人往來多し 祠は法源寺後街北第二號
[やぶちゃん注:「※」=「石」+(「潔」-「氵」)。
「松筠庵」(しょういんあん)は現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居(ここ(グーグル・マップ・データ)。地図上では「楊椒山祠」(「祠」の「示」は新字の「礻」)とある)。楊椒山(一五一六年~一五五五年)は本名楊継盛、椒山は号。忠愍(ちゅびん)は諡(おくりな)。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し』、『厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため』、嘉靖三四(一五五五)年に『厳嵩により処刑された。年わずか』四十『歳。その後』一七八七年に『ここは楊椒山祠と改められ』た。一八九五年、『清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら』二百『人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち』、『中国近代史上有名な「公車上書」』(和議拒否を求めた上奏文)『である』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。
「曹學閔」(一七二〇年~一七八八年)は清代の学者で内閣侍読学士(皇帝の侍講)。
「劉石庵」(一七一九年~一八〇四年)は清代の文人政治家で書家。宰相統勲の長子。後、父と同様に宰相となった。経・史・諸子百家の学に詳しく、詩文を能くし、小楷と行草に長じ、書風は個性的で、濃墨を用いて高雅な情感を有する。
「※升山祠」(「※」=「石」+(「潔」-「氵」)。「※升山」で人名であるが、不詳。
「諫草亭」楊椒山祠内に現存。諫言文に掛けた亭名。同亭内には朝廷を批判した諫言文が全て碑になって刻まれている。
「ギボシユ」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ(擬宝珠)属
Hostaの総称。タイプ種は Hosta plantaginea(同タイプ種のグーグル画像検索)。
「フシン中」「普請中」。修復(或いは復元新造)中。「職人往來多し」とあるのもそのせいか。
「君子自重の小便壺」「北京日記抄 五 名勝」にも記されてある。「君子自重」は「紳士ならば遠慮するべし」という意味であるが、こうした但し書きが貼られた上に小便壺が置かれていたとも思えないから、これは芥川の評言ととるべきであろう。
「法源寺」北京市西城区に現存する仏教寺院(ここ(グーグル・マップ・データ))。現在は中国仏学院と中国仏教図書文物館が寺院内に設置されている。ウィキの「法源寺(北京市)」によれば、唐の貞観一九(六四五)年に『創建の勅令が発せられ、武周の万歳通天元年』(六九六年)『に落成し、憫忠寺の名を賜った。高麗への遠征を行ったときに戦没した将士を祭るために建てたという。安史の乱』(七五五年~七六三年)『の時、「順天寺」と改称。後、「憫忠寺」』に戻し、『唐の末年の景福年間』(八九二年~八九三年)、『幽州節度使李匡威は寺院を再建して、憫忠閣を建立、詩賛に曰く「憫忠高閣、去天一握」』。遼の清寧三(一〇五七)年、『幽州大地震が起き、寺は地震で損壊された、また何度も全面修復が行われ』、咸雍六(一〇七〇)年に『「大憫忠寺」と改称。道宗の』太安一〇(一〇九四)年、『大規模再建が始ま』った。一二一五年、『兵火により一度は廃寺となったが、明の』正統二(一四三七)年、『住職僧相瑢が資金を募り重建し、崇福寺と改称』、『清の康熙年間に藏経閣を修復した』。雍正一二(一七三四)年、『「法源寺」と改称、宗派も律宗に改められた』とある。]
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