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2018/01/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 「しゃくられの記」三篇

 

     「しゃくられの記」三篇

 

 この年の六月二十四日、居士は高等中学の卒業試験を了(お)え、その結果を見るに先(さきだ)って、七月一日出発、帰省の途に就いた。[やぶちゃん注:「先って」とは、卒業試験の結果を待たずにの意である。以下、漱石の葉書は前後を一行空けた。宵曲は読み易くするために読点を打っており、日附と結語の位置も逆になっていて、おかしい。見た目の臨場感を出すため、岩波の旧「漱石全集」に載る通りに、書き換えた。明治二三(一八九〇)年七月五日『牛込區喜久井町一』より『松山市湊町四丁目正岡常規』宛葉書(但し、原本からではなく、「筆まか勢」からの転載)である。]

 

 早速御注進

 先生及第乃公及第山川落第赤沼落第米山未定 頓首敬白

    七月五日夜

 

という漱石氏の葉書は、居士より早く松山に着いていたのである。

[やぶちゃん注:底本では「乃公」は「だいこう」で一人称。男が仲間や目下の者とざっくばらんに話す際に用い、「僕」なんぞよりぞんざいな語。「山川」不詳。岩波旧漱石全集の注には「赤沼」は赤沼金三郎とする。彼は一高の自治寮の自治組織の中心的人物で、野球もともにした子規の友人である。「米山」保三郎。既出既注。]

 この帰省の際は三並良、小川尚義両氏と行を共にした。江尻に泊り、大垣に泊り、大阪神戸間に少しく彽徊して、九日故山に帰着するまでの顚末は、「しゃくられの記」上篇に記されている。この記事は大阪中ノ嶋の旅亭に筆を起し、待つ山に帰って後完成したらしいが、場所を異にするに従って文体を変えたのが居士の趣向であろう。江尻の条を「羽衣」の謡もどきにしたのと、大垣、大阪間を松山言葉の言文一致にしたのが殊に奇である。「しゃくられの記」なる題名の由来は大垣の宿にある。小川氏が養老の滝を見んことを主張して、どうも養老が引張るように思われてならぬというのを、それは養老の滝から糸をお前の身体につけ、手でしゃくっているのだろうと居士が評した、その言葉が同行者の間に盛に用いられたのを、直に採って題名としたのであった。

[やぶちゃん注:「三並良」既出既注

「小川尚義」(明治二(一八六九)年~昭和二二(一九四七)年:正岡子規より二歳歳下)は後の言語学者(台湾諸語研究者)・辞書編纂者で台北帝国大学名誉教授となった人物。ウィキの「小川尚義によれば、長男(第四子)の小川太郎は、戦後の同和教育の第一人者で『全国部落問題研究協議会会長も務め、日本作文の会にも関わった』とある。

「しゃくられの記」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像全文が視認出来る。]

 八月十八日、居士は松山から久万山(くまやま)、古巌屋(ふるいわや)に遊んだ。同行者は藤野古白をはじめ、皆親戚の年少者である。かつて明治十四年にここに遊んだのが、居士としては最初の旅行であり、当時の同行者は皆自分より年長であった。十年後に至り、年少者を率いて再達したことは、居士としても感慨に堪えなかったであろう。

 

 脱帽溪頭居石看

 危巖如劍欲衝天

 山靈能記吾顏否

 屈指曾遊己十年

  渓頭に帽を脱ぎ 石に据(すは)りて看る

  危巖 劍の天を衝(つ)かんと欲するがごとく

  山靈 能く吾が顔を記(き)するや否や

  指を屈すれば 曾て遊びしより 已に十年

 

の詩がある。この時の事を記したのが「しゃくられの記」中篇である。

[やぶちゃん注:「久万山(くまやま)」既出既注

「古巌屋(ふるいわや)」愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬にある古岩屋。岩峰が連なる名所で国の名勝に指定されている。現在、四国カルスト県立自然公園内に含まれている。]

 八月二十六日、松山を発して東上、先ず大阪に大谷是空、太田柴洲の二友を訪ねた。コレラの噂は久万山行の中にもちょっと出て来るが、大阪は殊に猖獗(しょうけつ)であったらしく、居士はここに止らず、大津の旅店に投じた。翌日義仲寺に芭蕉の墓を弔い、国分村に幻住庵の址をたずねなどしている。二十九日の夜は日暮から小舟を僦(やと)って湖に浮び、月明に乗じて辛崎まで赴いた。

 

 見あぐるや湖水の上の月一つ

 月一つ瀨田から膳所へ流けり

 

という句はその際の作である。「寒山落木」に「湖やともし火消えて月一つ」「明月は瀨田から膳所へ流れけり」とあるのは、後に改刪(かいさん)したものであろう。月は高く澄み、山々あh烟(けぶ)るが如き湖水の中を、しずかに舟を漕がしむる清興は、居士の一生を通じて前にも後にもない経験のようである。

[やぶちゃん注:「大谷是空」既出既注

「太田柴洲」既出既注

 八月三十日、大津の宿を去って、三井寺観音堂前の考槃亭(こうはんてい)に移り、滞留数日に及んだ。居士後年の句に「鮒鮨や考槃亭を仮の宿」とあるのは、この時のことを詠んだものである。松山出発以来のことを記した「しゃくられの記」下篇の冒頭に「ことしは上京の道すがら近江の月をながめんとてかくは早くたびだちけるなり」とあるから、琵琶湖畔に月を見ることは最初からの予定だったのであろう。ただ月に乗じて辛崎に遊んだ後は、附近に筇(つえ)を曳いたらしくもないし、考槃亭に宿を定めてからの消息は「しゃくられの記」を読んでもはっきりわからない。

[やぶちゃん注:「考槃亭(こうはんてい)」三井寺の門前にあった旅宿の屋号。]

 居士が帰省もしくは上京の途中を利用して各所に悠遊を試みるようになったのは、喀血後著しく目につく傾向である。それには保養の意味も含まれていることと思うが、往復と在郷中とを併せて三篇の「しゃくられの記」を産むようなことは、この年はじめて見るといわなければならぬ。

 

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