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2018/01/04

譚海 卷之二 江戸芝居座本市村・中村等の事

 

江戸芝居座本市村・中村等の事

○市村羽左衞門(うざゑもん)親の代迄は、竹之丞と號せしを、竹の字諱(いみな)奉りて今の名にかへたり。市村竹之丞は元來佐竹家の家老眞壁掃部之介(まかべかもんすけ)といふ人の譜代の家來筋也。此眞壁は天曆の比(ころ)、常陸大掾國香(ひたちだいじようくにか)とて平將門に討れたる人の後胤也。仍(よつ)て前年掃部之介出府せられしとき、羽左衞門由緒あるに付(つき)目見(めみ)へ致度(いたしたき)旨、眞壁へ願(ねがへ)けれ共、今は河原(かはら)ものの事ゆへいかゞとて、系圖にも其次第無ㇾ之(これなき)由挨拶有(あり)て其事(そのこと)止(やみ)たり。實は眞壁系圖にも、竹之丞事(こと)分明にある事也とぞ。又中村勘三郎先祖は、阿州蜂須賀(はちすか)家の家臣にて中村右近といへるもののよし。

 

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の「市村羽左衞門」の注に、『江戸三座』(幕府から興行特権を認められていた江戸の三大歌舞伎劇場。初め四座であったが、正徳四(一七一四)年に山村座が廃絶して以後、中村・市村・森田の三座となって明治初年まで続いた)『市村座の座頭を代々つとめた。真壁氏譜代の末流であることを申立てても、役者は河原者』(江戸時代に於ける役者を始めとして、芝居関係者・大道芸人・旅芸人などを包括した蔑称。「河原乞食(こじき)」とも称した。本来は中世に村落の周縁圏外に相当する川の河原に仮住まいした人々の称で、十二世紀頃から天災・戦乱・貧困などによる流浪民・逃散民の中で、非課税地の河原に逃れた者を呼称したのが起源である。零細な農耕・行商・屠畜・皮革加工・染色・清掃・死体埋葬等に従事したが、特に滑稽を主とした猿楽の系統を引く雑芸能を生業とする者も多かった。近世に入ると、彼らの一部は独立した職業として確立されたが、大半は厳格な身分制度のもとで四民の下の制外者(にんがいもの)扱いにされて差別された。しかし、寺社の権力等を背景として種々の特権を得たグループもあり、特に諸芸能の勧進(かんじん)興行は河原で催されることが多かったことから、河原者がその興行支配権を握り、説経・浄瑠璃・傀儡等に地方の新芸能等も加わって、近世の庶民芸能の殆んどが河原者集団やその圏内で発展した。京都四条河原で行われた出雲の阿国の歌舞伎踊りはもっとも有名であるが、こうしたことから、劇場が河原を離れた後も「河原者」という呼称が芝居関係者に対する差別語として用いられ続け、一般社会から卑しめられる風習が明治になるまで続いた。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)『で四民の下とされたので、みとめられなかったというのである。中村勘三郎は中村座の座頭である』とある。ここにある歌舞伎役者の名跡のルーツがどえらい武人であったというのは、典型的貴種流離譚であり、しかもその末裔が、貴種流離譚を舞台で演じることが多いわけだから、これは嵌り過ぎと言えば嵌り過ぎである。

「市村羽左衞門親の代」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の二十年余りに亙る見聞記録で、この場合の叙述上の当代(執筆時。刊行時には以下に見る通り、没しているが、「親の代」以下の叙述から彼に比定されるの「市村羽左衞門」は九代目市村羽左衛門(享保九(一七二四)年~天明五(一七八五)年)となる。彼が父八代目羽左衛門(後述)の死去により羽座衛門を襲名したのは宝暦一二(一七六二)年で、無論、同時に市村座の座元を相続した。しかしその後、火事や先代からの借金のために天明四(一七八四)年、市村座は事実上の倒産閉場となり、控櫓(ひかえやぐら:江戸で興行権をもっていた先に示した江戸三座が、負債その他の事情から興行が出来なくなった場合,代行して興行する権利を持った興行業者を指す。中村座は都座、市村座は桐座、森田座は河原崎座と決っていた)の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎(十代目か。九代目はこの年に没している)の勧めにより、羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じ、その中で「猿まわしの猿」に扮し、「娘道成寺」の所作事を演じたが、同年八月に没している(ここはウィキの「市村羽左衛門(9代目)」その他リンク先ウィキに拠った)。さて、その九代目市村羽左衛門の「親の代」は八代目市村羽左衛門元禄一一(一六九八)年~宝暦一二(一七六二)年)ということになる。ウィキの「市村羽左衛門 (8代目によれば、『芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから』(下線やぶちゃん)、元禄一六(一七〇三)年、『父を後見人として』五『歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元とな』った(初舞台はその二年後の宝永二(一七〇五)年)。『その後、座元と役者を兼ね』、『江戸の芝居に重きをなすようになる。本文に「竹の字諱奉りて今の名にかへたり」とあるのは、元文二(一七三七)年のこと、将軍家若君竹千代(後の第十代将軍徳川家治(元文二年五月二十二日(一七三七年六月二十日)~天明六(一七八六)年の幼名)の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名したことを指す。後、寛延元(一七四八)年に名も『「羽左衛門」と改めた。以後』、『市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る』こととなったのである、とある。

「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏であろう。この譜代の家来「眞壁掃部之介」という名は、同姓同通称の名を、同藩で宝暦七(一七五七)年に発生した経済政策(藩内での銀札発行)の失敗に端を発する秋田騒動に見出せる。当該騒動の始末として宝暦六(一七五六)年十一月に同藩家老が御役追放・蟄居となっているが、その家老の名が「真壁掃部助」である。但し、先の市村羽左衛門の事蹟とは時制が全く前後して合わないから、彼ではない。しかし、少なくともこの叙述は、その家老真壁掃部助の先祖の家来が、市村羽左衛門名跡の最初の人物のルーツであったことを意味していると考えてよかろう。しかもその真壁が平国香の末裔とするのだから、話としては浄瑠璃のようにブットんで面白いことは面白い。

「天曆」九四七年から九五七年誤り(次注参照)

「常陸大掾國香」平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)は平安中期の武将。平高望の長男。常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。ウィキの「平国香」によれば、寛平元(八八九)年、『宇多天皇の勅命により平姓を賜与され』て『臣籍降下し、上総介に任じられ』、『父の高望とともに昌泰元』(八九八)年に『坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。源護』(みなもとのまもる)『の娘を妻とし、前任の常陸大掾であ』ったその源護から『その地位を受け継ぎ』、『坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた』。『舅である護の子扶』(たすく)『に要撃された甥の平将門が』、承平五(九三五)年二月に『反撃に出た際、居館の石田館を焼かれて死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し』、『将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、承平天慶の乱の発端となった』。

「平將門」「新皇」を名乗った特異点の東国の反逆児。生年未詳で「承平天慶の乱」に於いて藤原秀郷・平貞盛らによって天慶三(九四〇)年に誅伐された。

「中村勘三郎」この場合も厳密には「譚海」の「当代」を考えねばならぬから、九代目中村勘三郎(明和二(一七六五)年~天明五(一七八五)年)か、十代目(?~文化七(一八一〇)年)であろう。

「阿州蜂須賀家」阿波国の国人蜂須賀氏。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名で、彼の代になってからまず織田信長の配下に属し、歴史の表舞台に登場した。後に秀吉の与力として活躍、その子の蜂須賀家政と共に秀吉直臣となって、阿波一国を治める大名へと立身した(ウィキの「蜂須賀氏」に拠る)。

「中村右近」中村右近太夫重勝(?~慶長一九(一六一四)年)は戦国武将。阿波海部城主・大西城主。ウィキの「中村重勝」によれば、『父は尾張国中村郷の領土を持ち、海部城主をつとめた中村重友で、豊臣政権の三中老のひとりである中村一氏の末弟とされる』。『徳島藩の蜂須賀家の家臣として』五千五百『石を与えられ、父の重友に代わり』、『海部城に配置され』、慶長三(一五九八)年には『牛田氏に代わ』って『大西城主となる』。『朝鮮出兵に従軍し、大坂冬の陣では』二百『人を率いて出陣』、『本町橋の夜襲戦で戦死した』。『「東都劇場沿革誌料」等によれば』、『歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・初代中村勘三郎と同一人物とする説や、重勝の息子や孫とする説があるが』、『明確ではない』とある。]

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