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2018/01/12

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 溺沒

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「溺沒」(できぼつ:おぼれて沈むこと・溺れて死ぬこと)は昭和一四(一九三九)年九月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「眥」は「まなじり」、「滾らせて」は「たぎらせて」、「拉がれて」は「ひしがれて」、「覘つて」は「うかがつて」と読む。

 この終章は私には、あたかも、原民喜の十二年後の自死の瞬間を感じさせて、慄然とせざるを得ない。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 溺沒

 

 錯亂は昂進し、河の堤に積上げてある礫の山がガラガラと崩れる。

 雷鳴を學んだ空の下、猛夫は礫ともに崖を轉び墜ちると、石と砂と靑い水が彼の顏を押流し、電柱の閃めき、夾竹桃、黑焦の杭が遙かなる空間を滑走する。

 游泳者の群の風にちぎられる聲が耳朶を打ち、今、斷末魔の眥に、白い巨大な網のやうな梯子が、おごそかな天空を搖れうごき、そこに生死不明の兄の姿が浮び出す。

 兄は、するすると身輕に梯子を傳つて來て、猛夫の片腕を握り締める。その昔、ふるさとの河で、彼の溺死を救つてくれた異腹の兄は、今、猛夫の片腕に兇暴な力を振ひだす。

 片腕は痺れて、既に、軌道の側に轉つてゐる死骸の一部と化したのか。

 胴の上、赤と綠のシグナルが瞬く闇に、涼風の窓を列らねた省線が走り、その女の靴の踵が、轢死した彼の上を通過してゐる。

 洋裁を習つて、二人の妹を養はねばならぬと、その女の踵。

 ガラガラとミシンは囘轉し、女の踵は猛夫の額を蹈み、蹈む。ああ、それも、これも、背き去らねばなら衰運の兒のさだめか。再び、彼の頭上を省線は橫切り、無用の頭蓋を粉碎してしまふ。

 

 既に、その魂魄は粉碎されてゐたのであらうか。

 ぐつたりと身を眞晝の部屋に橫へて、決行の時機を待つばかりであつた。絆は切斷された、と、自らに云ひきかせた。生きてゆく目的も、意志も喪はれてゐた。すべてが、君は無用の男だと、暗に、――それは殆ど不明瞭ながら、人の言語の端に、表情の裏に潛まつてゐるのを、彼は夙に感知した。

 窓を閉切つた、その部屋の屋根では、今も樹木が搖れてゐる。

 樹木、――少年時代にはそれが靜謐の心靈のやうに思へてゐたものだが、――樹木もまた狂亂の樹液を滾らせてゐるのか。栗の花、樟の若葉――一週間前、公園の靑葉は猛烈な叫びを放つて彼に迫つて來た。

 靑葉の焰にとりまかれながら、誰かを撲りつけてしまひたい衝動に驅られた。誰を、何のために、――理由のない怒りは不燃燒のまま、身裡に疼くばかりだつた。突貫だ、突貫だと叫びながら彼は坂を登つて行つた。太陽がギラギラ、樹木は爆發し、雲は雪よりも白かつた。なにものも心を滿たすものは無いのか。猛夫はくらくら燃える靑空に見入つた。と、眞晝の淡い月輪のかなたに、巨大な透明な梯子が浮上つた。

 梯子は夢にみる神の死骸のやうに空を緩く搖れて移動した。

 突然、猛夫の一方の瞳にチラリと奇異な痛みが襲つた。戰慄とともに涙が頰を傳はつた。眼の痛みによつて流されてゐるのか、號泣してゐるのかわからない氣持で、夕刻から酒場を飮み步いた。

 だらだらと淚が流れた。

 記憶にない三日間――否、數年間かもしれない――が過ぎた。ふと、眼科病院の控室のソフアで猛夫は意識を恢復してゐた。手も足も負傷はしてゐなかつたが、何ごとかを叫んだり、破壞したり、狂亂の限りを盡してゐたやうに思へた。眼帶をして、巷に出ると、眼は心配するほどの病氣でもなかつたが、顏は罪劫に拉がれてゐた。

 郷里の父に電報で送金を顧み、夜遲くアパートへ戾つて來た。敷ぱなしの夜具の上に、先日封を披いて讀捨てたままの、女からの手紙があつた。(あなたは來春御卒業なさればもう何不自由ない身分ではありませんか、私はまだ後に二人も妹がありまして、それを私の細腕で養つてゆかねばならないのです)――婉曲な拒絶。しかし、誰が誰に求愛なぞしてゐたのだつたか。このためにではない、と猛夫はこなごなに手紙を引裂いてしまつた。それから、夜具の中に石のやうに重い頭を埋めてゐた。

 

 頭は泣いたり、怒つたりして、夢はまだ微かに光を求めてゐた。

 夢は中學生の感傷に還つて、ふるさとの河邊をさまよつた。月見草の咲く堤に橫臥して、暗い世を嘆いて淚した。淚することにまだ慰籍はあつた。兄の出奔の記憶も生々しかつた頃で、猛夫は切に上京を夢みた。宇宙の核心を頭の中に捉へること、その鍵を、子供の時から想像してゐた。その鍵を得たならば、その時はじめて一切は充足するであらう。間もなく上京して學問をして行つたならば、その鍵は捉めるであらうと。川波のさざめき、舵の音、かぐはしの太陽、つばくらめ――今、いぎたなく睡り呆けてゐる眼に淚はひたぶるだ。

 忽ち河は汎濫し、水が狂奔する。水は其黑な怒りを湛へた牛。川床を轉がりゆく礫は猛夫。

 夕ぐれの窓では、出奔決行直前の紙のやうに白い兄の顏がある。父親と衝突して半年も監禁されてゐた兄は、夕闇の中に脱出の隙を覘つてゐる。

 ひらりと灰白いものが、窓から滑り落ちる、兄の白い脛が小走りに闇を消えて行く。一錢も持たなくて出奔した兄は――もう歸つて來ない。夕闇は宙をさまよつて移動する。

 

 猛夫は郊外の叢にゐる。友達と二人で冷酒をあふつてゐる。叢は火藥の臭ひがし、夕闇は鼻さきに漾ふ。街の方の空にはもう燈がともつてゐる。

 突然、兇惡な力が地下の闇から跳ね返つて來る。猛夫はそいつに彈かれて、だ、だ、だ、と走りだす。置き去りにされた友が後から何か喚いてゐる。

 いきせききらせて、アスフアルトの路はまつしくらに續く。街が、燈が、人が、前後左右から犇いて來る。そのうちに彼はどたんと誰かと衝突する。相手は彼に組附いて來る。舖道に投出された二人は組附いて離れぬ。群衆に取圍まれ、血みどろの格鬪が囘轉してゐる。この譯のわからぬ無我夢中の格鬪は次第にだらだらと間のびして來る。

 

 それからまた叫喚の中をつ走つてゐる。いくつも、いくつも同じやうな夜の街が怒號する。猛夫はへとへとになり、ふらふらと步みだす。終に街は盡きて、向うに河が見えて來る。それは故郷の夜の河に似て、心を鎭める。

 ふと、猛夫は孤獨な父親のことを想ひ出す。兄の失踪以來、氣の衰へて、猛夫には無性に優しい父親。祖母とともに家計を節約しながら、彼には莫大の學資を送つて來た。哀しい父は今も薄暗い電燈の下で算盤を彈いてゐるのだらうか。絆は堅く猛夫を締めつけ、放蕩の、愚行の負債は重く押しつけて來る。いつかは、いつかはすべてを償はねはなるまい。しかし、いつ、いつの日にか果して其の力は湧くのか。

 暫くすると、家の窓が見えて來る。窓には明るい電燈がつき、物干臺には襁褓が飜つてゐる。三人目の妻を迎へて若返つた父親が、今度生れた弟を抱いて、ふと窓から首を出す。

 忽ち猛夫を載せた地面はぐらぐら墜落してゆく。だらだらと淚が流れ、何處に自分がゐるのかまるでわからなくなる。

 額のすぐ上に星。無限の韻律が靜かに漾つて來る。碎かれた心を抱いて、物干臺に寢そべる暑中休暇の銀河なのか。さうしてゐるとまた胸の底に、眞黑な、不逞な、悲しい思考が宿る。一つの思考と睥み合つてゐると、彼の眼は靑く凍てつく。

 すると、かすかに絹ずれの音がして、白いベールをした女が現れて來る。その女は、倒れてゐる猛夫を宥め起し、彼を家まで送つてくれるといふのだ。猛夫は遠かに素直な氣持になり、默つて後から從いてゆく。街燈が霧に煙り、深夜の靴音は冴えて朧だ。曲角のところで、ふと、女は消え失せてしまふ。

 

 嵐は來た。今度こそ、今度こそだと、咆哮して嚙みつく嵐。嵐にむかつて、咆哮してゐる、もう一つの嵐。

 彼は風雨の中をずぶ濡れになつて走つてゐる。向うに旅館の燈が靑葉の動亂を射、水溜りは飛沫をあげてゐる。

 そこの玄關に駈けつけると、彼はほとほと倒れさうになる。廊下にゐた女中が彼の姿を認め、靑ざめて奧に引込む。やがて怯えきつた番頭の顏がやつて來る。番頭はおづおづと彼を奧へ案内してくれる。

 突當りの鏡で、ふと彼は自分の顏を覗く。血まみれだ、ひどい負傷だ。もう、助かるまい。

 

 かくて、脂汗の、夢現の數十時間が過ぎて行つた。

 ふと、戸の隙間から、部厚な封書が抛り込まれてゐるのに氣づいた。はじめ、猛夫は父親からの送金かと思つて、急いで封を切つた。卷紙に認められてゐるのは繼母の筆であつた。憂鬱な眼で紙をぐるぐる開いてゆくと終りに今度生れた赤ん坊の寫眞が挿んであつた。

(これでよろし)と猛夫は呟いて、手紙を捨てた。(さて、それから)と、猛夫はぐるぐる室内を步きだして眺めた。金になりさうなものは、殘つてゐる學生服だけだつた。(よし、こいつだ)と、無造作に風呂敷に包んだ。

 夕ぐれであつた。それはまるで夢のつづきに似てゐたが、夢はどの興奮もなかつた。質屋で服を金に替へ、彼は省線に乘つた。ある驛で降りた。驛前の居酒屋で長い間何かを待つた。

 誰かやつて來たやうであつた。そこで彼は立上つた。

 彼は酒屋を出て、蹈切の方へ步いて行つた。今、電車は杜絶えて、あたりは森としてゐた。やがて微かに軌道が唸りはじめた。響はすぐに增して來た。光と礫の洪水の中に、異腹の兄に似た白い顏がさまよつてゐた。

 

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