芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十七」
十七
大社の賽路(さいろ)は大鳥居からだらだらと下りに成っているので、それが社(やしろ)の尊厳をそこなう欠点であるかのように云う人もあるけれど、砂丘勝の地形を躊躇無くそのまゝ利用したところに却って土地の特殊な性格から来る風趣が自ずと現れているような気がする。
青銅の鳥居をくぐると向って右の境内に真赤に錆びた分捕砲が巨きい口をひらいて蹲踞(うずくま)っている。
Detestable Taiho と龍之助君がいきなり腹立たしげに叫んだ。[やぶちゃん注:「助」の右に底本編者によるママ注記がある。]
「まったくだ」と僕も言下に同じた。
拝殿のまえの大きい注連縄(しめなわ)の下に立って拝んだのち、社を一とめぐりした。濃い日光(ひざし)は森閑として境内に隈無くそゝいで、杉や檜の木かげを白い砂のうえに落していた。
それからいく度か振返って弥山(みせん)の尖峰を仰ぎ見ながら稲佐(いなさ)の浜に出て行った。その内に空には雲が塞(ふさが)り涌(わ)いて、僕たちが、浜辺に辿りついたころには重苦しく曇った空の下にもの凄く暗んだ海が鞺鞳(どうとう)のひびきを立てゝたけっていた。
浜の極るところの岩山の崕際には浮華(はで)な藍色に塗った俗悪を極めた建築が立っている。なんでも水族館か何からしい。水族館の設立そのものは大変結構な思い付きに違いないが、今少しこの神代ながらの海辺のおもむきに注意を払って欲しいと思った。
養神館(ようじんかん)を指して行くと、そこの二階の柱や欄干も例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキで塗ってあるのに二人とも辟易した。たいくつそうに玄関に跼(こしか)けていた宿の女中は立ちあがって僕たちを二階に導いた。
僕たちはそこに寝そべって欄干越しに海をながめた。浪は相かわらず白い牙を噛み鳴らして相搏(う)っていた。
「あのずっと向うへつゞいているのが石見潟(いわみがた)なんだよ。浜田はあの岬(はな)をまわったずっと先だ」と説明してきかせると、
「こゝまで来るとほんとうに遥々(はるばる)海の涯に来たってな気がするぜ。なんだか心ぼそくなっちゃった。日本海は暗いな」と龍之介君がしみじみとした語調で言った。
僕はどうも青ペンキで塗った欄干が気になって耐らないので「おい君一体どうしてこんな嫌やな色に塗る気になったんだろう?」とふしぎがると、
「宿の人がよほどエキゾチシズムが好(し)きなんだろうよ。はゝゝ」
と龍之介君はわらった。
女中の持って来たゆかたに着替えて裏の浴室に行って汐湯にはいると膚がヒリヒリとしみていたい。
「おい、解ったよ」と僕は湯の中で得意げに言をかけた。
「何だい?」
「あの欄干をあんな色に塗ったのはね、水族館の壁を塗ったペンキの余りが残っていたのを格安にゆずり受けたからなんだよ。きっとそうだよ。はゝゝは」
「成る程そうかも知れない……総ての問題は解決してみると案外あっけの無いものだからな、はゝゝ」
[やぶちゃん注:「賽路(さいろ)」参道。「賽」は「お参り・お礼祀(まつ)り(神から受けた幸いに対して感謝して祀る)」の意。
「大鳥居からだらだらと下りに成っている」この「下り参道」は全国の神社でも非常に珍しいものである。「遜(へりくだ)る」の意味を具現化しているというような解釈もあるようだが、ここで井川が述べている通り、「砂丘勝」(が)ちの地形によるものである。
「分捕砲」「ぶんどりほう」と読んでいるものと思う。底本後注に『出雲大社拝殿の横に置かれていた日露戦争の戦利品。第二次世界大戦時、供出した』とある。恐らく、これであろう(絵葉書販売サイトのもの)。鎌倉の鶴岡八幡宮にも古い写真を見ると、上宮へ上る階(きざはし)の右に砲弾が並んでいる。現在でも実は各地の神社には、この手のアナクロニックな戦利品の残骸が境内に飾り残されているところが、結構、ある。
「Detestable Taiho」「いまいましい大砲!」。
「弥山(みせん)」前段で既出既注。
「稲佐(いなさ)の浜」出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、
《引用開始》
弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。
塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。
屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。
つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:「たけみなかたのかみ」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。
《引用終了》
があると記す。ここで二人は海水を沸かした潮湯に入っているが、実はこれはここで行われる大社の宮司が行う神事に引っ掛けた旅亭のサーヴィスと思う。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (二)』を参照されたい。それでなくても、この浜で行われる(或いは曾て行われた)大社の宮司の神事は、ごく秘密なものなのである。
「鞺鞳(どうとう)」(因みに歴史的仮名遣では、この文字列の場合は「たうたふ」である)「鼕鼕」「鏜鏜」とも書く。波や水の流れが、勢いよく、音をたてるさま。音自体がオノマトペイアである。
「崕際」「がけぎわ」。
「浮華(はで)」派手。井川の当て漢字や当て訓は特異であるが、実に面白い。私は好きだ。
「水族館」初めは大正二年に竣工した私設の「大社教育水族館」。神聖な神の浜辺である稲佐浜に白亜の洋館風の外観を持つ施設として建てられ、オットセイなどがいたこともあったが、大時化(おおしけ)に見舞われるなどして、数年で閉鎖されたという。近畿・大社会のサイト「神話の国出雲・大社町」のこちらで写真が見られる(同水族館は存在期間が短かったため、写真はかなりレアである)。
「養神館(ようじんかん)」底本後注に『稲佐の浜にあった旅館。明治二十四』(一八九一)『年夏、ラフカディオ・ハーンは半月間ここに滞在して、海水浴を楽しんだ』とある。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』を参照されたい。前注のリンク先に写真入りで出る(「養命館」は「養神館」の誤り。写真の二階の右端に看板があり、そこにはっきりと「養神館」の屋号が読める)。この写真は大正四(一九一五)年頃とあるから、まさに井川恭と芥川龍之介が休憩したその頃のものである。まさにこの写真の「二階の柱や欄干」に「例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキ」をけばけばしく着色すれば、恭と龍之介の憂鬱は完成する。
「石見潟(いわみがた)」島根県浜田市から江津市にかけての遠浅の海浜の広域地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。歌枕で、多くは「石(いは)」に「言は」の意を掛け、また、石見潟の「浦𢌞(うらみ)」「浦見」から、同音の「恨み」に掛かる枕詞のようにも用いられる。
つらけれど人には言はずいはみ潟うらみぞ深き心ひとつに
詠み人知らず(「拾遺和歌集」)
いはみ潟うらみぞふかき沖つ波よする玉藻にうづもるる身は
詠み人知らず(「古今和歌六帖」)
石見潟たかつの山に雲はれて領巾(ひれ)ふる峯を出づる月かげ
後鳥羽院(「新後拾遺和歌集」)
「好(し)き」芥川龍之介は東京市京橋区入舟町(現在の中央区明石町の、私が三年前の夏、外傷性クモ膜下出血及び前頭葉一部挫滅のために入院した聖路加(ルカ)病院のあるところ)生まれのちゃっきちゃきの江戸っ子であるから、「さしすせそ」の発音が「しゃししゅしぇしょ」或いは総てが「し」に偏頗して訛るのである。]
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