芥川龍之介 手帳7 (23) 驚くべき書画骨董群
○王煙客 晴嵐暖翠圖(乾隆慶御印)〔卷後御題(乾隆)〕戊申淸和月畫於昆陵舟次王時敏當時年七十有七 ○郎世寧の乾隆肖像 世界空華底認眞 分明兩句辯疎親 寰中第一尊臺者 却是憂勞第一人 此予夢中自題小像舊作也 ○唐宋元畫册 王維雪溪圖其昌題(其昌畫禪室藏)李營丘(春夏山水)○名畫大觀(無上神品御筆)○趙子昂 瀟湘圖卷 王蒙 松路遷巖 陵天游 丹臺春賞 巨然 江山晩興 范寛 江山蕭寺 黃大癡 山水ト芝蘭室銘の小楷 倪瓚 山水 ○丹兵衞九鼎(衡山の賛あり)方々壺(上淸方文)李龍眠 五馬圖 黃魯道題(toute realiste) 燕文貴 秋山蕭寺 倪 陸の賛(狩野派と似たり)○唐宋元畫册、煙客老親家題董玄宰爲 ○林泉淸集 王蒙 紙本 其昌ノ賛
[やぶちゃん字注:先と同様、「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によって、ここに記された書画を芥川は北京西単霊境胡同にあった陳宝陦の家で見ていることが分かった。秦剛氏によれば、そこで芥川が観た作品として、ここに記された『李公麟「五馬図」』『王時敏「晴嵐暖翠図」』を挙げているからである。前のメモとの間に、万里の長城・大同・雲崗石窟の記事が挟まっていることからは、芥川は陳宝陦の家を二度目の訪問しているのかも知れぬ(推定とするのは、原手帳に当たることが出来ないからで、原手帳は破損が激しいことから、或いは保存時にページがばらけてしまったものを、その状態で活字に起した可能性、則ち、陳宝陦の家には一度しか訪ねていないが、その一連のメモがたまたま分離されてしまったに過ぎぬという可能性を排除出来ないからである)。
「王煙客 晴嵐暖翠圖」王煙客は明末清初の画家王時敏(一五九二年~一六八〇年)の号。婁東(ろうとう:現在の江蘇省太倉)の出身。「清初六大家」の最長老。董其昌の薫陶を受けて宋元画を習い、主に黄公望の画風を研究し、平明な山水画風を完成した。同郷の王鑑とともに清代呉派文人画の基礎を確立し、他方、名画を多数収集して後進をも指導したことから、画壇に大きな勢力をもった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「慶御印」の「慶」は賞讃したの意であろう。
「〔卷後御題(乾隆)〕戊申淸和月畫於昆陵舟次王時敏常時年七十有七」乾隆帝(高宗)の当時は一世一元制で「戊申」は乾隆五十三年で西暦一七八八年であるから、既に王時敏が亡くなって百八年後のこととなる。或いは数えで王時敏が七十七歳だったのは一六七〇年で、清の康熙帝の九年となる。仮に康熙の「戊申」だとすると、一六六八年であり、近くはある。「淸和月畫於昆陵舟次」が画題か。「淸和月」の「淸和」は空が晴れて和やかなことであるが、別に「淸和月」で旧暦四月の異名であり、「昆陵」は西方の青海辺りにあると考えられた黄河の水源とされた伝説的霊山の崑崙山の異名で、「舟次」は舟を停泊することであるから、これは「四月、崑崙山の麓の黄河の源流に舟を留めて「畫」(えが)くという、幻想の山水画ででもあったものか。大方の御叱正を俟つ。当該画は見つからなかった。
「郎世寧の乾隆肖像」「郎世寧」は既出既注。最も知られた郎世寧=ジュゼッペ・カスティリオーネの描いた乾隆帝の肖像画は「乾隆帝朝服像」。これ。
「世界空華底認眞 分明兩句辯疎親 寰中第一尊臺者 却是憂勞第一人 此予夢中自題小像舊作也」乾隆帝の肖像画に添えられた郎世寧の添書きか。無理矢理、訓読してみると、「世界は空華にして底を眞に認む 分明なる兩句は辯じても疎親たり 寰中(くわんちゆう)第一尊臺者 却つて是れ憂勞第一の人 此れ予が夢中に自(おのづか)ら題したる小像の舊作なり」か。
「唐宋元畫册」不詳。唐・宋・元代の歴代名画集の類いではあろう。
「王維雪溪圖其昌題(其昌畫禪室藏)」これはかの盛唐の詩人で画もよくした王維の「雪溪圖」(これ。中文サイト画像)に明代の文人画家で書家でもあった董其昌(とう きしょう一五五五年~一六三六年:南宗画を理論的様式的に最も優れたものとした画人として知られる)が讃して題したものであろう。「畫禪室」は董其昌の号の一つ。
「李營丘」「李營丘」は五代から北宋初期の山水画家李成(九一九年~九六七年頃)の別称。
「名畫大觀(無上神品御筆)」書名も筆者も不詳。
「趙子昂 瀟湘圖卷」「趙子昂」は既出既注。彼の「瀟湘圖卷」は不詳であるが、瀟湘(しょうしょう)八景は中国の山水画の伝統的な画題で、この題は他の画家の画題にも認められる。瀟湘は湖南省長沙一帯の地域で、洞庭湖と、そこに流入する瀟水と湘江の合流するあたりを「瀟湘」と称し、古えより風光明媚な水郷地帯として知られる。北宋時代の高級官僚宋迪はこの地に赴任した際、この景色を山水図として画いて後、この画題が流行し、やがては日本にも及び、八景の命数も流行した。
「王蒙 松路遷巖」「王蒙」は既出既注。画は不詳。
「陵天游 丹臺春賞」「陵天游」は元末明初の画家陸広。「丹臺春賞」はこれ(ウィキ・コモンズの画像)。
「巨然 江山晩興」「巨然」(きょねん 生没年不詳)五代から宋初(十世紀初め)の画僧。鍾陵(江西省)或いは江寧(南京)の出身とも。僧としては南京の開元寺・汴京(べんけい:開封)の開宝寺などに歴住した。董源(とうげん)の山水画風を受け継ぎ、後には「董・巨」と並称された。やや粗放な筆墨法によって江南の自然を平明に描いたが、伝記類には董・巨が入り交っており、確実な現存遺品はない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)とある。
「范寛 江山蕭寺」「范寛」(はんかん 生没年不詳)は北宋初期の山水画家。華原(陝西省耀県)の人。天聖年間(一〇二三年~一〇三一年)には未だ在世していたことが確認されている。当時「真」と呼ばれた写実に最も留意し、山林に分け入って自然を徹底的に観察して、独自の山水画を創出、巨大な峰巒(ほうらん)が威圧感をもって迫る感じは、ともに北宋を代表する李成の平遠山水と対照的である。「渓山行旅図」(台北故宮博物院)のみが現存唯一の真跡とされる(平凡社「世界大百科事典」に拠る)とある。
「黃大癡 山水ト芝蘭室銘の小楷」「黃大癡」(こうたいぎ)は元朝末期の水墨画家黄公望(一二六九年~一三五四年)の号。倪瓚(後注参照)・呉鎮・王蒙と並び「元末四大家」と賞され、その中でも、最も広い画風を持ち、後代に与えた影響も一番大きいとされる。「山水」画と、それに「芝蘭室」という「銘」が「小楷」(字体が小さく端正である楷書)で添えられているという意味であろうか。「芝蘭室」は号らしいが、調べても見当たらない。但し、これは故事成句の「芝蘭(しらん)の室(しつ)に入るがごとし」に基づくことは判る。これは「芳香を放つ芝蘭(霊芝と蘭)が置いてある部屋に入ると、いつの間にか、そのよい香りが身に染みつく」という原義から、「立派な人と交際すれば、よい影響を受ける」という意味を持つ。
「倪瓚」(げいさん 一三〇一年~一三七四年)は元末の画家。「元末四大家」の一人に挙げられる。終生、仕官しなかった在野の画人である。
「丹兵衞九鼎」「丹兵衞」は不詳であるが、九鼎(きゅうてい)は古代中国における王権を象徴する三本足の金属製祭器としての鼎(かなえ)。ウィキの「九鼎」によれば、『伝説によれば夏の始祖禹王が九州(中国全土)に命じて集めさせた青銅をもって鋳造したものという(史記・封禅書)。夏最後の王、桀王が殷の湯王に滅ぼされたのちは殷室に、帝辛(紂王)が武王に滅ぼされてからは周室の所有となった。周の成王即位の折、周公旦は九鼎を雒邑(洛陽)に移し、ここを新都と定めたという(墨子・耕註)。「鼎を定む」(奠都すること)の成句はこの故事に由来する』。『九鼎は周王朝』三十七『代にわたって保持され、それをもつものがすなわち天子とされた。周が秦に滅ぼされたとき、秦はこれを持ち帰ろうとしたが、混乱のさなか泗水の底に沈んで失われたという。秦朝は新たに玉璽を刻し、これを帝権の象徴とした』とある。「九」は夏の聖王禹(う)が、九つの州から金を貢上させてこれを創り、天子の象徴として夏・殷・周三代に伝えたという伝承に基づく。
「衡山」明代中期の文人画家文徴明の号。既出既注。
「方々壺(上淸方文)」不詳。前が鼎だったから、これは方形の壺か。「上淸方文」はよく判らぬが、明末清初の詩人に方文(一六一二年~一六六九年)がいるから、彼がその壺の上部に文を彫琢しているの意味かも知れない。
「李龍眠 五馬圖」北宋の画家李公麟(りこうりん 一〇四九年~一一〇六年)のことであろう。彼の号は彼の中文ウィキには「龍眠居士」とあるからである(同人の邦文ウィキでは「龍民居士」。以下の引用はそちらから)。現在の安徽省六安市出身で、官僚を務めるかたわら、『考古学者として銅器など骨董品の年代確定でも活躍した。退官後の晩年は画の制作に専念した』。「五馬圖」は判らぬが、彼は非常に好んで馬を描いている。グーグル画像検索「李公麟 馬」を見られたい。
「黃魯道題」不詳。「黃魯道」は名前ではなく画「題」のようだ。
「toute realiste」はフランス語で「非常に写実的」の意。
「燕文貴 秋山蕭寺」「燕文貴」(生没年未詳)北宋前期の宮廷画家。呉興(浙江省)の人。「江海の微賤」と称されるように、江南出身の元兵士で、太宗の治世に、高益の推挙で画院祗候となった。画風は当時の山水画を主導した華北と、出身地華南の折衷様式であったと考えられ、それは後の宮廷山水画様式の方向を示唆するものであったという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「秋山蕭寺」は中文サイトのこちらで見られる。
「倪」先の倪瓚。
「陸」単にこう書くからには、先の陵天游であろう。
「煙客老親家題董玄宰爲」「董玄宰」は先の董其昌の字(あざな)。「煙客老親家」が画題(意味不明)で、その「題」を「董其昌」が「爲」(な)しているという意味か。よく判らぬ。
「林泉淸集」明末清初の画家林泉淸(一六三三年~一七〇四年)の画集か。中文サイトのこちらで一部が見られる。]
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