芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十一」
十一
松江に帰ってから四五日目の朝であった。親類の死人の四十九日の法事に参列する為萬寿寺(まんじゅじ)をさして家(うち)を出て行った。
未だ少し時刻が早退ぎるだろうと云うので北堀の町から左へ折れて中学校に寄って見ることにした。
暑い白けた日光(ひざし)が裸かな赤土の上にひかって居て、正門までの坂路の両側に生えている山ざくらの並木の梢を見上げるにも何んとなく心懶(こころう)い日和であった。
僕の頭の中には、嘗て其坂みちを毎朝登って行かねばならなんだ頃に刻み付けられた印象がぼんやり浮んだ。多くの物はその当時の悌(おもかげ)を依然として眼の前に開展していた。併しまた自然に或は人為に由(よつ)て変ったものも少くなかった。
目立って変ったのは坂の上に記念館が出来たことであった。坂の両側に生えている山桜の並木もいちじるしく幹が太り枝葉が茂りを加えた。突当たりの芝生に蔽われた傾斜面にはふしだらに小松の群れが丈を伸ばし、坂の右側には何軒も家が建ちつづいてそこいらが賑かになった。
ぼんやりして居る(それ故によりうつくしく思われるところの)過去の印象と、眼の前に明るい日光の下(もと)に一切を露(さら)けている現実とを心の裡に比べて見………それから嘗て此坂を登って行った自分のすがたを考え、一緒に連れて来た今三年生に成っている弟のことを考えて、過去と現在とを隔てゝいる「時(たいむ)」の長さを具体的に意識しようと試みた。[やぶちゃん注:ルビ「たいむ」の平仮名はママ。]
けれどその意識の内容はいちじるしく不安定なものであった。例えば魔術師がはっと懸け声をして隻手(かたて)をあげる間に、過去が廻れ右をして其背中からひょっくり現在が顔をのぞけたのだと云う様な気もするし、そうかと思うと二つの「時」が渡る事の不可能なほど広い深い水の淵を距てゝ顔を見合せているんだってな気もした。
僕たちはことことと、坂を登って行った。弟は記念館に就いて若干の説明を与えた。僕は背延びをしてその向いにある生徒控所の窓から内部を覗いて見た。がらんとした天井とがらんとした石段の床とが何よりもなつかしかった……僕の頭の中に在る過去の世界そのものが薄暗いそこの空間に拡っている様に想われたから。[やぶちゃん注:段落冒頭は底本では「僕たちはこと、ことと坂を登って行った」となっている。松江中学へ向かう坂を「ことと坂」と呼んだかどうか、ネットで検索しても出てこないから、この読点は衍字(記号)か錯字(記号)と断じ、特異的にかく移動させた。万一、『殊、「ことと坂」を』が正しいのであれば、ご連絡を戴きたい。早急に復帰させる。]
そこの石板(いしはん)の上に立ちながら汚ないテーブルの上に弁当をのせて、湯で温めた飯を掻き込んだ記憶が真っ先に心にうかんだ。冬の日の寒さにかじけた手に持つ箸の先から黒豆の煮ころばしが幾つもいくつもころころ落ちて行く形がふしぎな鮮明かさをもって記憶の中から飛び出して来た。ひそかに苦笑しながら僕はその窓の下をはなれた。[やぶちゃん注:「いしはん」(「いしばん」でなくて)はママ。]
ひろい運動場の土の面はからりと乾燥いていて何物も眼を遮るものは無かった。それを越して向うには遥かな山や野や水やのかたちが透明な空気のなかに揺(ただよ)うていた。
朝早く登校して、ズボンの衣嚢(かくし)に両手を突込みながら靴の尖(さき)をかろくあげて、うすい朝霧を透かして旭の光が射して来る其グラウンドのうえを一方の端から一方のはしへとあても無くあるいて行った時の屈託の無い心持を再び味わうことの為ならばもう一返この古びた校舎が与える束縛の中へ後がえりをしても好いなと思った。
[やぶちゃん注:「萬寿寺」現在の島根県松江市奥谷町にある臨済宗の寺院。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「中学校」現在の松江市奥谷町の、小泉八雲も教壇に立った旧「松江中学校」。井川が在学して頃は「島根県立第一中学校」であったが、彼が卒業した翌年の明治四〇(一九〇七)年四月に「島根県立松江中学校」と改称していた。現在の島根県立松江北高等学校。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「記念館」不詳。識者の御教授を乞う。]
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