子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 その後の俳句
その後の俳句
ここで少しこの時分までの子親居士の句を調べて見る。
「寒山落木」の二十一年の条には、前に「七草集」から挙げたものの外に、
萩ちる檐(のき)に掛けたる靑燈籠(あをどうろ)
靑々と障子にうつるばせをかな
というような句がある。二十二年にはまた
水鳥や蘆うら枯れて夕日影
袋井
冬枯の中に家居や村一つ
のような句があり、徐(おもむろ)にその歩を進めてはいるけれども、大体においてさのみ見るべきものがない。居士が三津浜(みつがはま)に大原其戎(おおはらきじゅう)という旧派の宗匠を訪ねたのは、明治二十年夏帰省の際、居士自身「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」と『筆まかせ』の中に記している。しかしここに「始めし」とあるのは、恐らく先輩について教を乞うの意であろう。居士の歌は十八年より早く――松山時代三並良氏に寄せた手紙の中にもあり、十六年最初の上京の事を記した「上京紀行」の中にもある――作られたものがあるし、俳句の方も「寒山落木」に十八年から句を存していることは已に述べた通りである。大原其戎は梅室門下で、居士が勝田氏の紹介でその門を敲(たた)いた時、八十近い老人であったという。次の時代に一新紀元を劃(かく)すぺき使命を持って生れた居士が、この老俳人によって何らかの暗示を受けるということは、如何なる意味からいっても先ず望みがたいとしなければならぬ。
[やぶちゃん注:「二十一年」一八八八年。
「袋井」旧山名郡袋井宿、現在の静岡県の西部の中央に位置する袋井市。この年に町制が施行されて町名は「山名郡山名町」であった。これは子規(第一高等中学校本科二年)がこの明治二二(一八八九)年の冬、汽車で東京から松山に帰省する際、袋井の駅から見えた風景を詠んだ一句とされる。
「三津浜(みつがはま)」現在の愛媛県松山市三杉町三津浜地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「大原其戎(おおはらきじゅう)」(文化九(一八一二)年~明治二二(一八八九)年)は伊予松山の俳人で「四時園其戎」とも称した。ウィキの「大原其戎」によれば、『伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商』(ふとものしょう:絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物などの太い糸の織物を扱う商人。江戸時代の大手の呉服商の看板にはしばしば「呉服 太物商」の表記が見られる)『で俳人』でもあった(号は其沢(きたく))。万延元(一八六〇)年、『京都に出て』、『七世桜井梅室』(我々の知っている天保の三大家(他は成田蒼虬と田川鳳朗)の一人である桜井梅室(明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)の後継者ではあるものの別人)『に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り』、『俳諧結社の明栄社を興し』、明治一三(一八八〇)年には『月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は』八百人にも『達した。上京後、俳句に興味を持った正岡子規が』、この『帰郷の際』、年下の『友人の勝田主計』(しょうだかずえ 明治二(一八六九)年~昭和二三(一九四八)年:後に大蔵官僚を経て政治家となった)『の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。この時、其戎は』既に七十五『歳であった。同年、子規の』「蟲の音を蹈(ふみ)わけ行くや野の小道」の『句が『真砂の志良辺』に掲載され、これが彼の初めて活字になった句とされている。以後、子規は「丈鬼」などの俳号で、明治二十二年に『其戎が没し、子の其然が刊行を継承した後の』明治二十三年八月まで、正岡子規は『同誌に投稿を続け』ており、『『真砂の志良辺』に掲載された子規の句は』四十四句に上ぼる、とある。
「余が和歌を始めしは明治十八年井手眞棹(まさを)先生の許を尋ねし時より始まり、俳句を作るは明治二十年大原其戎宗匠の許に行きしを始めとす」「筆まか勢」の明治二十一年のパートの「哲學の發達」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左ページ四行目から)で視認出来る。「井手眞棹」天保八(一八三七)年~明治四二(一九〇九)年は本名、正雄。真棹は号。旧松山藩士。実業家で歌人。秋山眞之・正岡子規の和歌の師。松山城下三番町で松山藩士西村清臣の長男として生まれた。嘉永三(一八五〇)年に家督を継ぐ。和歌を嗜んだ父に手ほどきを受け、後に上京して桂園派の僧性海に師事し、松山へ帰省して「蓬園吟社」を設立、松山歌壇の第一人者となった。
「三並良」「良」は「はじめ」と読む。既出既注。
「上京紀行」私は不詳。]
二十二年中の『筆まかせ』に「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」という一章がある。それによると居士比較譬喩ということについて、格段に発句の上に感じたといい、来山(らいざん)が女人形を詠んだ「折ることもたかねの花や見たばかり」以下五十余句を挙げ、普通の譬喩は剽窃(ひょうせつ)、効顰(こうひん)の毀(き)を免(まぬか)れぬが、新趣向に出たものはいちいち面白いといっている。例句の中には元禄俳人の句なども相当入っており、悉くが見るに足らぬわけではないけれども、句の価値よりも譬喩に重きを置き過ぎた嫌がある。後年居士自らこの条に註して「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」といったのは固より当然であろう。この点は二十二年から二十三年に移っても、格別の変化はなかったろうと思われる。
[やぶちゃん注:「比較譬喩(ひかくひゆ)的詩歌」国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。事実、子規の掲げる句はろくなものがない。個人的には、
いもうとの追善に
手の上にかなしく消ゆる螢かな 去來
家を出る時
五月雨に家ふりすてゝなめくしり 凡兆
因果應報の心を
おどしたる報いにくちるかゞし哉 不覺
ぐらいが目を惹いたぎりである。
「譬喩は多く理窟なり。理窟は文學にあらず。余は文學にあらざる所より俳句に入りたり」原文は「譬喩ハ多ク理窟ナリ。理窟ハ文學ニアラズ。余ハ文學ニアラザル所ヨリ俳句ニ入リタリ(自註)」とカタカナ表記である。]
碧梧桐氏がはじめて子規居士の許に送って来た句稿には、明治俳句の曙光と認むべきものは何も見当らない。これに対する居士の添削にも、いまだ新しい世界を開拓すべき素地は出来ていないようである。むしろこの頃までの居士は、一たび薫染(くんせん)した旧趣味から脱却し得ぬような状態であるかに見える。ただ自己の所信の上に立って常に後進の指導を怠らぬ居士の態度は、已にこの時代に現れている。これは居士の一生を通じて終始渝(かわ)らなかったというべきであろう。