芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十」
二十
海から上って二人は風呂場をさして行った。
ごえもんぷろ
「ヤッ五右衛門風呂だね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」
と龍之介君が大に無気味がる。
「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏(おどり)をするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。[やぶちゃん注:「せないでも無い」はママ。西日本方言圏の表現という気がする。]
僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸(つか)っていたが、
「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。
湯からあがって海をながめているとおかみさんが魚づくめの夕飯の膳を持って来た。
それをお腹(なか)におさめたあと二人は追々暗く成って行く海の面に見惚れながらいろんなことを話していた。
たちまち闇の中に一点の光が閃いてしずかに瞬きはじめた。光が光の伴侶(つれ)を呼ぶように更にひとつの光がそれに並んで輝きを放ち始めた。三つ四つ五つと光の列は漸次(しだい)にながく成って海のはてに広がった。
「海の向うに街があって、灯(ともしび)の光を水に落しているようだね」
「光が一つひとつ浪のうえを此方へあゆんで来るような気もするし、お出で、おいでと手招きするようにも見えるね」
二人は勝手な想像を描きながら漁り火をみつめた。
大分つかれたので床をとらせて蚊帳の中にはいったが和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた。
あくる朝めざめると暁の海は軽快な透明なうしおのいろをたゝえながらながい弓形(ゆみなり)の砂は夫(それ)に抱かれていた。
朝飯をすませてから鰐走(わにばし)りのあたりまで散歩した。そこにかゝつている橋の欄干に凭れながら、浄らかに水の面の澄んでいる波根の湖水のあなたに三瓶山の秀抜な峯の容(すがた)をながめるけしきは、人の心を深く引付ける趣をそなえている。
宿にかえるとまた浜辺へ下りてみずを泳いだ。およいでは浜にあがって日光(ひ)に照れている砂のうえに身を投げてあたゝめた。龍之介君が砂のピラミッドをきずくと、僕は砂のスフヰンクスをつくったが、スフヰンクスは自分の首の重さに耐えかねてがくりと砂の頭をうつむけた。
「年代(タイム)は斯うして一切の営みを亡ぼすのだ」と砂のくずれを指して僕はわらうた。
龍之介君はせっせと砂を盛り上げて日本アルプスのひな形をつくりはじめた。それが出来上った時、
「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」と説明したが、その群嶺も間もなく僕たちの足の下に踏みくずされた。
それから正午(ひる)過の汽車に乗って僕たちは今市に向った。
「愛すべき波根の村よ!うつくしかった昨夕の日没よ!」とこゝろの中にさけびながら、隧道(トンネル)の中に呑まれて行こうとする汽車の窓から僕はうしろを振返ってみた。
[やぶちゃん注:「漁り火」日本海の夏の風物詩である烏賊釣り舟の漁火(いさりび)である。
「和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた」芥川龍之介は稀代の怪奇談蒐集家であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介の怪談採録集「椒圖志異」を参照されたい。
「鰐走(わにばし)り」底本後注に『波根』海岸の『西の奇巌「掛戸の岩」などのある岩場』とある。この景色(グーグル・マップ・データの写真)。また、サイト「おおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖」の「7.掛戸開削」も是非、参照されたい。ここは現在のとなっては幻の波根湖からの排水路として切り開かれた(と伝わる)ものであることが判る。『掛戸の床面は海面高度とほぼおなじで、排水のための水路がその床面に掘り下げられている』とあり、私はこれを読んで何となく「鰐走り」の名が腑に落ちた。
「波根の湖水」現在の地図ばかり見ていると、この意味が判らない。何故、私が前の注の、サイト「おおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖」を太字にしたか? そこの「2.砂州が湾をふさぐ」を読んでいないと、この井川や芥川の目に映っている景色が判らないからである。井川が「湖水」と言っているように、当時、ここには波根湖という巨大な「潟湖」があったのである。そこの七十前の地図を見られよ!
「三瓶山」大田(おおだ)市三瓶町(さんべちょう)志学。島根県のほぼ中央にある標高千百二十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。掛戸からは直線で南東に十五キロメートル弱の位置にある。大山隠岐国立公園内の名峰である。
「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」芥川龍之介はこの六年前の明治四二(一九〇九)年、三中の三年生(十七歳)の夏(八月八日出発で十日頃に槍ヶ岳に登攀、十二か十三日に帰宅(この頃はまだ本所)している模様)に同級生の中原・中塚・市村・山口と五人で槍ヶ岳に登っており、この時の日記も残っている(日記は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収の「槍ケ岳紀行」。なお、彼には大正九(一九二〇)年に『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」がある(「青空文庫」のこちらで読める)が、驚くべきことに芥川龍之介は作家になってからまた槍ヶ岳に行ったと信じ込んでいる研究者(言っとくが、ただの龍之介好きの読者なんかではなく、芥川龍之介研究者を公に名乗っている奴である)がいたのには、ビックらこいた。これは、この十七の時の記憶と日記を元に彼がフェイクで作った立派な創作物、小説なのである)。]
« 芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十九」 | トップページ | 芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十一」 »