北條九代記 卷第十一 北條兼時卒去 付 吉見孫太郎叛逆
○北條兼時卒去 付 吉見孫太郎叛逆
同三年六月北條越後守兼時、鎭西より鎌倉に皈り、病気に罹りて身心快らず、同九月に愈(いよいよ)重く惱出でて、鍼石灸治(しんせききうぢ)の品を變へ、藥劑療養の術を盡しけれども、定(さだま)れる業果(ごふくわ)、耆扁(ぎへん)といへども力及ぼず、遂に卒去せられけり。今年未だ三十五歳、「誠に人の世の盛(さかり)、一時に散りける事よ」と、親疎、皆、惜まぬはなし。同十一月七日龜谷(かめがやつ)より、吉見孫太郎源義世(よしよ)と云ふ者を生捕(いけど)りて、相州貞時に參らする。是はその前(さき)、三河守範賴の末葉とて、關東を徉徊(さすら)ひしが、死生不知(ししゃうふち)の溢者(あぶれもの)共を語(かたら)ひ、叛逆(ほんぎやく)を企(くはだ)て、「如何にもして天下を二度(ふたたび)源氏の世となし、家運を四海に開かばや」と思立ちて内々祕計を囘(めぐ)らし、畿内、西國までも竊(ひそか)に一味の輩(ともがら)を求め、「若、今、義兵を擧(あぐ)る程ならば、近國遠域(ゑんゐき)の源氏等、何ぞ起らざらん、然らば運に乘じて謀(はかりごと)を致さんに、平氏北條を打亡(うちほろぼ)し、世を治むるに難きことか」と、大事を輕く思ひけるは、誠に蟷螂(たうらう)の斧を揚げて、隆車(りうしや)の隧(すゐ)に當(あた)るが如く、蚍蜉(ひふ)、脚(あし)を振(ふるつ)て大木の本を搖(ゆす)るに似たり。與黨(よたう)の者共を鎌倉所々に隱置(かくしお)き、時の至るを伺ひ、相圖を定め、將軍の御館(みたち)、執權の屋形(やかた)に火を差し、その騷動の弊(ついえ)に乘り、軍(いくさ)を起さんと支度して、風荒き夜をぞ待居たる。運の盡る所、返忠(かへりちう)の者、出來て、孫太郎、忽に搦捕(からめと)られたりければ、一味同心の者共は散々(ちりぢり)に逃失(にげうせ)せて、一人も鎌倉中に足を止(とゞ)めず。斯て吉見は強く糺問せらるれども、中々、同類一人をも差申(さしまう)さず。さらば、とて、由井濱(ゆゐのはま)に引出し、頭(かうべ)を刎(は)ねてぞ梟(かけ)られける。
[やぶちゃん注:「北條兼時」前項の私のを参照。
「吉見孫太郎」「義世」(よしみよしお ?~永仁四(一二九六)年)武蔵国吉見荘(現在の埼玉県)を本拠とする源範頼の子孫。吉見頼氏又は吉見義春の子とされる。幕府御家人として活躍したが、この時、幕府へ謀反を企て、ここでは由比ヶ浜とあるが、江ノ島の陸側正面、相模龍ノ口に於いて処刑された。孫太郎は通称。
「同三年六月」永仁三(一二九五)年六月。既に注した通り、兼時はこの永仁三年四月に鎮西探題職を辞して、鎌倉に帰還し、評定衆の一人に列せられて幕政に参与していたが、帰還から五ヶ月後に死去している。筆者は「今年未だ三十五歳」と言っているが、数えでも三十二歳で、誤り。
「皈り」「かへり」「歸り」に同じい。
「業果(ごふくわ)」この場合は因果応報としての業(ごう)といった意味ではなく、フラットな命数・命運の意。
「耆扁(ぎへん)」既出既注であるが、再掲しておく。世に希な名医を指す一般名詞。元は伝説の名医「耆婆(ぎば)」と「扁鵲(へんじゃく)」のこと。前者は古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師ジーヴァカで、釈迦の弟子の一人でもあった。多くの仏弟子の病気を癒し、父王を殺した阿闍世 (あじゃせ:アジャータシャトル) 王をも信仰に入らせたとされる。後者は「韓非子」や「史記」にその事蹟を記す、古代中国漢代以前の伝説的名医の名。
「同十一月七日」「同」も「日」も誤り。翌永仁四(一二九六)年十一月二十一日(これは増淵勝一氏の訳文の割注に拠った)。
「三河守範賴」(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)は源義朝の六男。本作では前の方にさんざん出ているが、一応、ここで注しておく。三河国蒲御厨(かばのみくりや:現在の静岡県浜松市)で生まれたことから「蒲冠者(かばのかんじゃ)」と呼ばれた。幼時に公家藤原範季(藤原南家高倉流の祖で後白河法皇の近臣、順徳天皇の外祖父)の養子となる。兄頼朝が平氏追討の兵を挙げた際、頼朝のもとに馳せ参じてその部将となった。寿永二(一一八三)年に弟義経とともに源義仲を京都に討ってこれを倒し、続いて一ノ谷で平氏を破って、戦後の論功行賞で三河守となった。やがて再び、平氏追討のために中国から九州に遠征、文治元(一一八五)年四月に平氏が滅亡した後は九州の経営に当った。範頼は頼朝・義経の衝突と義経の末路を見、頼朝に対しては努めて従順な態度をとったが、それでも頼朝は範頼を疑い(一説に建久四(一一九三)年五月二十八日に冨士の巻狩の最中に曾我兄弟の仇討ちが起こり、一時、「頼朝が討たれた」という誤報が鎌倉御所へ伝えられ、悲歎する政子に対し、範頼が「後には某(それがし)が控へておりまする」と述べたことに猜疑が始まったとされるが、これはずっと後の南北朝時代に成立した歴史書「保暦間記」にしか載らぬもので、逆に政子自身の虚言或いは権力拡張を画策していた北条方の陰謀であるとする説もある)、同建久四年八月、範頼を捕らえ、伊豆修禅寺に幽閉して、その後に処刑した。なお、範頼の子孫はその後、ここに出るように吉見氏を称し、南北朝頃には能登の守護ともなっている(ここは本文を小学館の「日本大百科全書」に拠り、ウィキの「源範頼」も参考にした)。
「徉徊(さすら)ひ」「徉」(音「ヨウ」)は「さまよう」の意。
「死生不知(ししゃうふち)の溢者(あぶれもの)」増淵勝一氏の訳は『命知らずのならず者』。いい感じ。
「四海」国内。天下。
「蟷螂(たうらう)の斧を揚げて、隆車(りうしや)の隧(すゐ)に當(あた)る」これは三国時代の詩文家陳琳が劉備に袁紹の側につくように薦めた檄文の中に「今乃屯據敖倉、阻河爲固、欲以螳螂之斧、禦隆車之隧」と出る比喩。「蟷螂の斧を以つて、隆車の隧を禦(ふさ)がんと欲す」で「隆車」大きく立派な車、「隧」は「道」、「禦」は一般には「ふせがん」と訓ずるようだが、それでは意味が採りにくいと感じたので、敢えてかく訓読した。「蟷螂の斧」の譬え自体は「荘子」にまで遡れる。
「蚍蜉」羽蟻(はあり)。大蟻の意もあるが(増淵氏の訳はそれ)、採らない。
*
李杜文章在
光焰萬丈長
不知群兒愚
那用故謗傷
蚍蜉撼大樹
可笑不自量
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李杜 文章在り
光焰 萬丈長し
知らず 群兒の愚かなる
那(な)にを用(も)つて故(さら)に謗傷するか
蚍蜉 大樹を撼(うご)かす 笑ふべし 自ずから量らざるを
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「返忠(かへりちう)」主君に背き、裏切りの行為を働くこと。「内応」「内通」とも同義であるから、自軍の機密を敵に告げたり、敵を陣営内に導くこともこれに含まれる。ここはまあ、単に「裏切り」でよろしい。
「差申(さしまう)さず」徒党した者の一人の名さえも白状しなかった。男だね! 吉見孫太郎!
「由井濱(ゆゐのはま)に引出し、頭(かうべ)を刎(は)ねてぞ梟(かけ)られける」鎌倉初期・前期には由比ヶ浜(砂丘と蘆原で現在よりも遙かに内側(鶴岡八幡宮寄り)へ入り込んでいた)が刑場として頻繁に用いられたが、中期以降は由比ヶ浜自体が三浦半島先端や西岸域からの重要な物資運搬の経路ともなって行っており、日蓮の龍ノ口の法難を見ても判る通り、あちらが処刑場としてよく用いられていた。]