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2018/01/22

芥川龍之介 手帳8 (18) 《8-21》

《8-21》

○河童

二十七年己卯夏四月已亥の朔壬寅四日近江國言く 蒲生河に物有り其形人の如しと 秋七月攝津の國の漁父(アマ)罟(アミ)を堀江に沈(オ)けり 物ありて罟(アミ)に入る 其の形兒(ワクゴ)の如く 魚にも非ず 人にも非ず 名づけむ所を知らず 推古天皇紀

[やぶちゃん注:「日本書紀」の推古天皇二十七年(ユリウス暦六一九年)四月と七月の記載。思うに、所謂、現在の我々の想起する人型形態を有する河童、河童らしい河童の本邦での最初期の記載(私がかく言うのは中国由来の本邦の河童とは無関係(と私は考えている)「河伯」系(それらしい系統の記載も「日本書紀」には別にある)とは全くルーツの異なるものという意味で、である)と私は考えている

   *

二七年夏四月己亥朔壬寅。近江國言。於蒲生河有物。其形如人。

(二十七年の夏四月(うづき)己亥(つちのとのゐ)朔(ついたち)、壬寅(みづのえとらのひ)、近江國、言(まう)さく、「蒲生河(かまふがは)に、物、有り、其の形、人のごとし。」と。)

秋七月。攝津國有漁父。沈罟於堀江。有物入罟。其形如兒。非魚非人。不知所名。

(秋七月、攝津國に漁父有りて、罟(あみ)を堀江に沈(お)けり。物、有りて罟に入る。其の形、兒(わかご)のごとく、魚にも非(あら)ず、人にも非ず、名づける所を知らず、と。)

「四月己亥朔壬寅」「四月己亥」は「朔」(四月一日)の干支を示し、その四月の「壬寅」は四月四日に当たり、ユリウス暦では六一九年五月二十二日(グレゴリオ暦で換算すると、五月二十五日相当となる)。

「蒲生河」は現在の滋賀県中東部を西流する日野川の旧称で、現行でも別称としてある。鈴鹿山地の綿向(わたむき)山(標高千百十メートル)を水源とし、滋賀県蒲生郡日野町及び同郡域を流れて、近江八幡市西部で琵琶湖に注ぐ。総延長約四十四キロメートル、流域面積約二百平方キロメートル。上流部の山は大部分が花崗岩からなるため、侵食・運搬・堆積作用が激しく、下流部では天井川となり、しかも上流部は局地性豪雨地帯でもあることから、古えより、水害に襲われることが多かった(解説及び別称確認は小学館「日本大百科全書」に拠った。この地図で全流域が含まれる(グーグル・マップ・データ))。

「其形人の如し」ここは水系が完全に淡水の閉鎖系であることに着目する。則ち、後の摂津の例のような、海生哺乳類の可能性は完全に排除出来るからである。しかも、ごく河口附近であったなら、記録は琵琶湖の名を出すはずであるから、これは蒲生川=日野川の中・上流域(無論、下流でも構わない)と、取り敢えず措定することは誤りではあるまい。さすれば、鈴鹿山脈の水系で、一般の市井人が見かけない(だから驚いて朝廷に報告する)、人形(ひとがた)をした=四足を持った水棲生物となれば、私は脊索動物門脊椎動物亜門両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus を見たか、捕獲したのではないかと考える。現行、日野川に同種の棲息は確認されていないが、同種は本邦では本来的に岐阜県以西の本州・四国・九州の一部に棲息する(或いはしていた)固有種であり、実際に現在も滋賀県内の琵琶湖東岸(日野川源流の綿向山はここの南南東五十五キロメートルである)北方、長浜市古橋大谷川は県内最大のオオサンショウウオの棲息地であり、「滋賀のオオサンショウウオを守る会」も存在するからである

「七月」例えば、朔日七月一日はユリウス暦六一九年八月十六日(グレゴリオ暦換算八月十九日)であるから、現在の八月中旬から九月中旬に相当する。

「攝津の國」「堀江」現在の地名で謂うなら、大阪府大阪市西区南東部の北堀江及び南堀江を指す(この中央(大阪府道29号大阪臨海線のマークのある周辺。グーグル・マップ・データ)が、ウィキの「堀江(大阪市)によれば、『堀江は大坂城下の南西端に位置し、陸地になったのが最も遅い低湿地であり開発は遅れた。石山合戦』(一五七〇年~一五八〇年)『の時期は、この地域はまだ海だったと思われ、石山本願寺を支援する毛利をはじめとする大名方と織田信長方の水軍同士の戦闘(木津川の戦い)がこの付近で行われている』とあるから、ここは古代に於いても、恐らくは、大坂湾湾奧(わんおう)最深部の入「江」或いは砂浜海岸或いは大干潟或いは原(げん)淀川河口に広がっていた大砂州か大湿地帯であったと考えてよい。

「漁父(アマ)」当然、海漁の漁師となる。

「罟(アミ)を」「沈(オ)けり」現在の定置網のような、竹木に網を固定して魚類を絡ませて捕獲するタイプのものか、或いはより進化した、四手網(よつであみ)のように四角形の袋状の網の上に餌を置いて魚を誘き寄せ、網の上に集めて引き上げるタイプの「敷(し)き網」であろう。

「兒(ワクゴ)」「若子」とも書く。本来は成年男子の美称で「若様」の意であるが(万葉語)、転じて「幼児・乳児」を指す。「わかご」。

「魚にも非ず 人にも非ず 名づけむ所を知らず」これはもう、海棲哺乳類と採ることが可能である。

 

まず、私が第一に想起するのは、

哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

の幼体である。ウィキの「ニホシカ」によれば、同種は『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』を本来の棲息域とし、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに』、古くはかなり普通に分布していたと考えられ、現在でも学術上では、『太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島各地(新島』、『鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)、庄内平野沿岸』、『アシカ島(東京湾)、伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている』とあり、さらに、『縄文時代以降の日本各地の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本近海広域に分布していたと推定されている』とあるから、当時の分布状況からは、最も難がない但し、成体は体長がで平均二メートル四十センチメートル、でも一メートル八十センチメートルもあり、体重で平均四百九十四キログラム、で百二十キログラムと、アシカ属で体長も体重も最大種であることで、当時の漁師の網など、簡単に破ってしまうから、幼体でないと都合が悪いこと、また、逆に、当たり前に広く分布していた場合、漁師が知らないのは、逆に不審ということにもなりかねないという点で完全同定するには難があるようにも思われる。ただ、一言言っておくと、彼らは耳介を有し、これはまさに「人のようで人に非ず」という感じは最も私はする気がする。総合的には私は、無理がないこの「日本書紀」の以上の奇怪生物の同定候補は本種であると考えている

 

次の候補は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

である。アザラシ科は十属十九種からなり、頭蓋骨及び四肢骨の特徴から、モンクアザラシ亜科Monachinae(主に南半球に棲息)とアザラシ亜科 Phocidate(主に北半球に棲息)に分けられており(ミナミアザラシ亜科・キタアザラシ亜科とも呼ぶようである)、熱帯域にも棲息する種がいる。日本近海で見られる種(迷走個体を除く)

アザラシ亜科のゴマフアザラシ属ワモンアザラシ Phoca hispida

同属ゴマフアザラシ Phoca largha

同属クラカケアザラシ Phoca fasciata

同属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina

アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇二年に東京都の多摩川に出現したタマちゃんはこれ)

の五種である。耳介がない点でアシカ類(次注参照)と区別される。これらは小型・中型の種がいるが、これも幼体としておけば、網には入るであろう。問題は本邦でのこれらの棲息域定説が、『流氷のあまり来ない北海道から千島列島の結氷しない地域』(ウィキの「アザラシ)とする点であるものの、まさに上に示した「タマちゃん」のように、定説に従わない個体もいるから、大坂湾の堀江まできてしまった「ホリエもん」がいたとしても、強ち、笑い飛ばすことは出来ないようにも思う。

 

今一つは所謂、「膃肭臍(おっとせい)」、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

で、同類はキタオットセイ属 Callorhinus とミナミオットセイ属 Arctocephalus に分かれ、本邦にやって来るのは北半球に棲息する前者である。アシカ科 Otariidae には冒頭に比定候補としたニホンアシカを含むアシカ類とオットセイ類が含まれ、耳介があること、四脚で体を支えて陸上を移動できること、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことで遊泳出来ることなどはアシカ科特有の特徴であるが、アシカ類(アシカ亜科 Otariinae)よりは、やや小振りで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である(ここはウィキの「オットセイ」に拠った)。なお、「膃肭臍」という漢字名は、アイヌ語で「オットセイ」を意味する「onnep」又は「onnew」(オンネップ・オンネプなどと音写する)となどに、彼らと交易のあった中国商人らにより「丸々太った」を意味する漢語「膃肭」がその発音に当て漢字され、オットセイのの生殖器(或いは腎臓ともされる)が強壮効果を持った漢方薬として「膃肭」の「臍」(へそ)と名づけられ、その漢方薬が日本に流入したことに拠るものとされている。但し、現在の中国語ではオットセイは「海狗」であるので注意されたい。現在は銚子沖の太平洋がキタオットセイ属の南限とされているが、古代の海水温は或いはもっと低かったかも知れぬし、親潮の南流も現在とは違っていたとも考えられるから、一概にはオットセイを候補から外すには当たらぬと思うし、オットセイがアシカよりも小振りであることは、当時のちゃちな網でも、より入り易いと言えるからであり、体毛が密生している点では「魚」でもなく、「人」でもない、という表現はまさにオットセイにこそしっくりくるとも思われるからでもある。]

 

○父 藝妓を妾とす 子その藝妓を愛す 父その藝妓と心中す

○武士の妻 Christ is a coward

[やぶちゃん注:「coward」臆病者・卑怯者。語源は古フランス語で、原義は「怯えた動物が尾を垂らした」さまを指す語であった。]

 

○細川忠興夫人の死 suicide 問題

[やぶちゃん注:「細川忠興」(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)は元戦国大名で、丹後国宮津城主を経、豊前小倉藩初代藩主。その「夫人」とは正室で、明智光秀の娘であった玉子、通称細川ガラシャ(永禄六(一五六三)年~慶長五(一六〇〇)年七月十七日)で知られる彼女のこと。彼女は天正一五(一五八七)年、忠興が九州征伐に従軍して不在の間に、大坂の教会を訪れ、また、侍女を通じて教理を学び続け、「ガラシャ」の洗礼名で侍女から受洗した。その後、邸内でキリシタンの信仰を深めたが、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で夫忠興が徳川方についたことから、ガラシャは豊臣方から、人質として大坂入城を強要され、大坂玉造(たまつくり)の細川邸に於いて、石田勢に囲まれる中、家臣の手で自らの命を絶っている。ウィキの「細川ガラシャによれば、夫『忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時』(慶長五(一六〇〇)年七月十六日(グレゴリオ暦八月二十四日)に忠興が徳川家康に従って上杉征伐に出陣した)『も同じように命じていた』。『この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け』、『火を点けて自刃した』。「細川家記」の編著者は彼女が詠んだ辞世として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」であったと記している、とある。但し、『一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし』、太田牛一(大永七(一五二七)年~慶長一八(一六一三)年?:安土桃山時代の武士で軍記作家。後に和泉守。尾張国安食(あじき)に生まれ、初め、僧侶であったともいうが、織田信長の弓衆となり、奉行を務めた。信長の死後は一時、加賀松任(まっとう)に居住したが、後、豊臣秀吉・秀頼に仕えた。信長・秀吉に近侍した経歴を生かし、自身の手控えをもとに「信長公記(しんちょうこうき)」「大(たい)かうさまくんきのうち」「豐國大明神(とよくにだいみょうじん)臨時御祭禮記錄」「關原御合戰雙紙」「猪隈(いのくま)物語」などを著述した。ここは小学館の「日本大百科全書」に拠った)の「関ヶ原御合戦双紙」(蓬左文庫本)では、『彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、』十『歳の男児と』八『歳の女児を刺殺した後に自害した、とある』。また安土桃山時代の公家の山科言経(ときつね)の日記「言經卿記」の『慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時』、『噂になっていたことが伺える』。『また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても』、江戸初期の三浦茂正(永禄八(一五六五)年~正保元(一六四四)年:法号の浄心で知られる。元は後北条氏に仕えた武士であったが、小田原征伐等で戦った後に故郷三浦郡に落ち延び、出家した)によって書かれた随筆「慶長見聞集」には『「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである』とある。確かに、この「suicide」(自殺)「問題」(その経緯や事実)は興味が尽きない。芥川龍之介はこれを素材として、大正一三(一九二四)年一月の『中央公論』に「糸女覺え書」を執筆している。同作は「青空文庫」ので読める。]

○支那の船の乞食の帶

[やぶちゃん注:意味不明であるが、私は妙に惹かれる。]

 

○女中來(11月) 腹に子あり 生ませる その主人の胤と疑はる 波瀾

[やぶちゃん注:「胤」「たね」。]

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