芥川龍之介 手帳7 (9) 謝文節公祠
○謝文節公祠 (黑へ金)黑煉瓦の門 外右四區警察署第一半日學校 綠色の扉にこの札かかる その右の壁に刻字石をはめし壁 女一人婆一人縫物をしてゐる所をすぐれば庭なり 庭中央 天水壺 ○薇香堂 堂 疎檜 蘭 堂は朱柱 黑煉瓦積み 堂中疊山の像 紙錫がぶらさがる 硝子張の燈籠四つ下る 柱聯二三 埃滿堂
[やぶちゃん注:「謝文節公祠」「謝文節」(一二二六年~一二八九年)は本名謝枋得(しゃぼうとく)、南宋の文人政治家。元との戦いに敗れて捕らえられ、南宋滅亡後は山中に隠棲していたが、捕らえられ、北京に護送された。その才能を惜しんだフビライ・ハンから慫慂を受けるも節を屈せず、遂に絶食して餓死し果てた。「文章軌範」全七巻の撰者として知られる。「文章軌範」は科挙試の受験生のために韓愈・柳宗元・欧陽修・蘇軾といった唐宋の作家を中心に六十九編の名文を集成したものである。彼を祀ったここは、北京在住の教え子の探査により、現在の宣武区の法源寺の裏手(北)の、この中央辺り(グーグル・マップ・データ)にあるものと推定される。
「外右四區」こちらの地図(私がアップした民国二五(一九三六)年の北京全図の画像)の北京城の西南、黄色に塗られた向かって左下の地区に「外四區」と書かれてある。「右」なのは君子南面によるもの。
「薇」はシダ綱ゼンマイ科ゼンマイOsmunda
japonica又は同属の仲間を指す。「史記」列伝の冒頭を飾る「伯夷叔斉 第一」によれば、周の武王は父を亡くした直後、暴虐無比な圧政を続ける殷の紂王を伐つために挙兵したが、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟がそれを止めて、父の葬儀もせず喪の明けぬうちに戦をする者は不孝者であり、暴虐の君主とは言え、臣下の身でそれを弑する者は不忠者であると諫めた。武王は攻略を敢行、美事、殷を滅ぼすが、兄弟の言の全きことに心打たれ、招聘するも、伯夷と叔齊は、不義不忠の王の粟(=禄)を食(は)むを潔しとせず、として拒否し、首陽山に隠れ住んで「薇」――ゼンマイやワラビの類――を採って食い、「采薇歌」(以下示す)を作って、遂には餓死して死んだ。この堂の名は、謝文節の自死の志を伯夷叔斉に擬えたものである。
采薇歌
登彼西山兮
采其薇矣
以暴易暴兮
不知其非矣
神農虞夏
忽焉沒兮
吾適安歸矣
吁嗟徂兮
命之衰矣
○やぶちゃんの書き下し文
采薇の歌
彼の西山に登りて
其の薇を采る
暴を以て暴に易へ
其の非を知らず
神農(しんのう) 虞(ぐ) 夏(か)
忽焉として沒しぬ
吾れ 適(まさ)に安くにか歸せん
吁嗟(ああ) 徂(ゆ)かん
命の衰へたるかな
○やぶちゃんの現代語訳
ぜんまい採り
あの西の方 首陽山に登って
そこのぜんまいを採って暮らす
暴力を暴力でねじ伏せて
それが人の道を踏み外していることを知らぬ者よ
あらたかな天地開闢の炎帝神農氏――聖王堯から位を譲られた尊王虞――尊王虞改め舜から禅譲を受けた夏改め賢王禹――
みんな あっというまに はい さようなら
私は 一体 何処(いづこ)へ行けばいいのか? 一体 何処へ去ればよい? いや それはもうあそこしか ない……
ああ さあ 行こう 私の運命も遂に窮まったのだ……
「疊山」謝文節の号。
「紙錫」飾りとして貼る錫(Sn)の薄い箔を紙に貼付したもの。]