芥川龍之介 手帳8 (4) 《8-4(続き)》
○活辯(東京に活動はやらざりし内)長岡へゆく 新派ホトトギスのfilm 每晩來る客 年增の女 樂屋へ通し物が來る(すぐ行くと估券を下げ且連中一同がまき上げる 便宜上始數囘はとりまきをつれて行く もう自分の手の内と思ふ時のり出す)のり出せし時酒肴出づ 活辯がくどかんとする時女からかみをあけ佛壇を指さし「今まで汝を呼びしは亡夫に似し故なり 佛の向養」と云ふ
[やぶちゃん注:「活辯」活動弁士の俗称。活動写真、則ち、無声映画(サイレント映画)の上映中に、その内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者。しかし、この構想設定メモはそもそもが複数の矛盾が存在する。何故なら、東京に映画館がなく、活動写真が一般興行されていない時期に、新潟長岡で活動写真(後注参照)を興行しているという設定はヘン(そんな活動写真黎明期には活動弁士なる職業者は日本には数えるほどしかいなかったはず)。しかも、そういう活動写真黎明期という設定なのに、明治三十年代に隆盛した新派(後注参照)が演じた、明治三十一年発表の徳富蘆花の「不如帰」(後注参照)を活動写真(film)に撮ったものを上映しているというのは、設定自体が異様にヘン。「芥川龍之介! 一つ、弁解してもらおうじゃあ、ねぇか!」。
「新派」日本の近代演劇の一派。同明治二一(一八八八)年十二月、角藤定憲(すどうさだのり)が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして不平士族の窮状を訴えた「壮士芝居」を始めたが、新派内に於いてはこれを以ってその発祥と見做している。三年後の明治二十四年三月には川上音二郎が堺で「改良演劇」を謳った一座を興して「書生芝居」を始めて以降、伊井蓉峰の済美館・山口定雄一座・福井茂兵衛一座などの新演劇が各地で興り、日清戦争を題材とした戦争劇で基礎を築いた。その後、離合集散を繰り返すうちに際物(きわもの)性を脱皮し、小説の脚色上演で演技面でも新境地を開いた。大正末期から昭和初期にかけて衰えたが、敗戦後、分立していた劇団が大同団結し、「劇団新派」となり、現代に続く。当世の庶民の哀歓や情緒を情感豊かに描いた演目が多い。
「東京に活動はやらざりし内」ウィキの「活動写真」によれば、明治三〇(一八九七)年二月十五日、フランスから帰国した稲畑勝太郎が「シネマトグラフ」の映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映したのが日本初の「映画興行」とされ、翌三月六日には東京市の「新居商会」によって神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打って「ヴァイタスコープ」による興行が行われている。日本の国産第一号の活動写真の公開は明治三二(一八九九)年六月二十日の東京歌舞伎座で、「芸者の手踊り」という題名のドキュメンタリー映画であった。劇映画の第一号は「稲妻強盗」という作品(日本初の拳銃強盗犯として死刑に処せられた清水定吉(明治二〇(一八八七)年九月処刑。享年五十一)の事件をモチーフにした駒田好洋の「日本率先活動写真会」の製作・興行)で、同年九月に製作されている。「やらざりし」という語を厳密にとるなら、明治二十九年以前となる。
「ホトトギス」徳富蘆花の小説「不如歸」(筆者は後年は「ふじょき」と読んだが、現行は「ほととぎす」の読みが広く行われている模様である)。明治三一(一八九八)年から翌年にかけて『国民新聞』に掲載された。調べてみると、明治三六(一九〇三)年四月に本郷座で藤沢浅二郎が「不如帰」を初めて脚色上演しているから、前注の事実とは異なることになる。則ち、明治三十六年では既に活動写真は盛んに興行されているからである。
「通し物」差し入れの料理であろう。
「估券」「沽券」とも書く。対面・品位。本来の「沽券」とは江戸時代の土地・建物などの売渡証文のことで、江戸の町屋敷の所有者としての町人にとってのステイタス・シンボルであったことから、近世末期から近代にかけて「人の値打ち」「プライド」の意で使われるようになったものと推測される。
「向養」ママ。旧全集は「供養」。回向と供養を芥川龍之介が混同して誤表記したものであろう。]