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2018/01/14

原民喜「眩暈」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十月号『文藝汎論』発表。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「瞠いて」「みひらいて」と訓じていよう。

 「ブラツケー」は不詳であるが、文脈からは貝の方言名と読める。すると、個人サイト「お魚の図鑑 珍魚すくい」ページに、ホラガイ(腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis)の異名として「ブラゲー」(他に「ブラ」「ブラー」「ブラゲー」「ブラヌーン」などもある)を見出せた。これでよいとしたいところだが、気になるのは前に民喜が「法螺貝」を出してしまっていることである。「がうな貝」は一般にヤドカリの異名であるが、ここは貝と見て、小型の巻貝(腹足類)を指すと考えるなら、ここで民喜が「ブラツケー」と言ったものは「法螺貝」に似ているが、違う巻貝、もっと大きな或いはもっと高そうに見える絢爛たる巻貝を指しているかのように私には思われる(但し、本邦産で法螺貝を超える大型種は存在しない)。或いは、「稀れに見る巨大な法螺貝」を特異的に「ブラツケー」と読んでいる野かもしれぬと私は思ったりした。

 「蒟蒻」は「こんにやく(こんにゃく)」。

 「齒朶」は「しだ」。羊歯。

 「見憶」「みおぼえ」。「見覺え」。

 「饂飩」「うどん」。因みに「饂飩のマントを纏ひ」はママである。

 「覗間」「すきま」と訓じておく。

 「在處」「ありか」。

 「凭つたまゝ」「よりかかつたまま(よりかかったまま)」と訓じておく。

 「蔓り」「はびこり」。

 「雞」「にはとり」或いは単に「とり」と訓じているかも知れぬ。「鷄」に同じ。

 「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」。一目散に。

 「鸚哥」「いんこ」。小鳥のインコのこと。

【2018年1月14日 藪野直史】]

 

 

 眩暈

 

 溝の中でくらくら搖れてゐる赤い糸蚯蚓、太陽は泥に吸ひつく蛭の化けもの。

 砂がザラザラ押流され、ザラザラと睡むたい顏が溝の緣で、眼球を瞠いてゐる。

 それは彼であるが、彼ではない。

 砂はザラザラと彼の眼の前を橫切り、今は貨幣であるが、がうな貝、法螺貝、ブラツケー、見たこともない異樣な貨幣で彼の頭は混濁してゆく。

 見よ、數字が雜音とともに、この時、一齊に攻擊して來る。

 夢中で彼は求める。何かを、何ものかを、――たしかに、はつきりしたもののきれつぱしを。

 そして、彼は怪しく不自由な手つきで、空間を探る。

 電車の釣革の如きもの、ベルの如きものが彼の指に在る。その手觸りは遠い母親の乳房に似てゐる。

 と、(誰だ、そんなものを拾ふのは)と耳許で叱聲。

 彼はあわてゝ飛びのく。

 彈の破片が眼を掠め、くらくらと鋪道は蒟蒻と化し、建物が飴のやうにとろける。

 かすかに(明日の天氣豫報を申上げます)明日の、待つて呉れ。とたんに彼は目を白黑させてゐる。

(教へてあげないわよ)と女の聲。まごついてしまつた窓。

 暫くして、白い柱の嘲笑の列。

 

 いくつもいくつも太い眞白な柱は天井へ伸び、その白い柱の前に立留まつた彼は、出口を探さうとしてゐるが、この、きてれつの大ビルヂングは混沌として答へず。

 見上げる天井に水晶の三日月。

 はや足許に蔓草が茂り、蛇を潛めし太古の闇は階段の方を滑つて來る。バサバサと齒朶類は戰ぎ、鈍重な太鼓の音が陰濕と熱氣を沸きたたせば、既に彼は身動もならず悶死の姿で橫臥してゐた。

 やがて、巨龍の顎によつて、彼はカリカリと嚙碎かれてゐる。記憶を絶し、記憶を貫く、今の、昔の、彼の眼底に、ひそかに白象の妙なる姿は現じた。

 と、忽ち、外科醫の鋸が彼を強く威嚇する。不思議な裝置に依つて彼を裁くもの、實驗材料は縮まつて、悲しい啞の眼をしばたたく。その寢臺のまはりを群衆は無關心に通過してゐる。祭日めいた群衆の旗は散じ、彼は身の自由を得てゐる。

 しかし、混沌とした建物の内部にゐることに變りはない。彼は出口を求めて、再び放浪する。

 向に見憶のある噴水の池。

 明るい造花の房を音樂の蜜蜂が𢌞り、ロボットの女は默々と糸を紡いでゐる。そのあたりから、いけない豫想が微かに唸りを放つ。

 忽ち、彼の同僚の一人が裸身に饂飩のマントを纏ひ、池をめがけて突走つて來る。

 その顏は苦業に火照り、裸身は飜つて、池に投じた。くらくらと湯氣に饂飩は崩れ、その男の眼が發狂して彼を睥む。

 發散する湯氣はその言え池を消し、その男を消し、疲勞を重加された彼のみが、いつしか昇降機によつて運ばれてゐる。密林や暗雲が鐵格子扉の覗間に、時折、靑い紋條をもつ宇宙の破片も閃き、遂に眞暗な天蓋に達したと思ふ時、昇降機ははや針金の如き細き一本の煙突にすぎなかつた。

 彼の重みによつて、煙突はもろくも傾きはじめる。全身全靈の祈願と戰慄は彼を乘せた細い煙突の割目に集中され、やがて呻吟とともに身は放り落された。

 

 その足は床に達せず、いつまでもコンクリートの廊下の上を腹匍ふやうに飛んでゐる。この苦しい低空飛行がはじまるとともに、彼は飢えを覺え、食堂の在處を探してゐるのだが、群衆の往交ふ廊下は侘しい障害物である。

 ふと、この混迷の中を彼の幼友達が同じ恰好で飛んでゐるのを見つけ、彼は微かに安堵を覺えた。だが、彼の蹠(あしうら)に轉がる空氣の球をうまく操りながら進むには、妖しい一つの氣合が保たれねばならぬ。

 苦しい努力に依り、彼はゆるやかにタイルの上を流れ、テーブルの一隅に辿りついた。人々の犇めく空氣が背後で杜絶え彼の眼の中には眞白なテーブル・クロース。眼の前にある銀の匙とカツプに陰々と困憊の影はこもり、それをもし指にて觸れば、忽ち金切聲で感應するであらう。觸ることの豫想の苦惱に悶え疲れ、暗澹と彼は椅子に凭つたまゝ、妖しくゆらぐ空氣を吸ふうち、椅子はひとりでに床を進行してゆく。

 

 椅子のエスカレーターに運ばれて、彼はホールに來てゐる。

 會衆は暗闇の中に茸の如く蔓り、合唱とも囁きともつかぬものが刻々に高まりゆけば、暗黑の舞臺に突如、劍を閃かして一人の老人が舞ふ。雞の冠を頭につけ、眼は瞋恚に燃え、莊嚴な劍にて突差すところから、めらめらと焰が發して、見る間にあたりは火の海と化した。黑烟の渦と噴出する火に追跡されて彼は逸散に遁走する。

 

 曲つた柱。黑焦の階段。鉛の水槽。痙攣する窓枠を拔けて、彼は巨大な梁の上を傳ふ。

 今、凄慘な工事中の建物の橫腹が彼の頭上に聳え、赤黑い錆の鐵材と煉瓦の懸崖が目を眩ます場所にある。

 彼は墜落しさうな足許を怖れて、一心に異常な風景を描く。

 靑葉の中に閃いてゐた鮎。白い美しい網で掬はれた蝶。消えてしまつた幼年の石塊。

 その彼の骨を引裂く大速力の車輪のなかの情景の露が空中に見え隱れして、彼は危い梁の上の匍匐狀態を脱した。

 

 やがて屋上に來た。こゝでは工夫達が身を屈めて、コンクリートの床に鯖を釘で打つけてゐる。

 何のために、そんなことをするのか。困惑がこゝにも落ちてゐるといふのか。

 困惑する彼の眼に、一匹の鯖は近寄り、一本のネクタイと化せば、次いで彼の全視野は雜貨商品の群に依つて滿たされた。

 蜥蜴の靴下。彫刻の馬。鸚哥の女。猫の帽子。苺の指環。金魚の菓子。火打石。

 それらの虹も疲勞の渦で灰色となり、すべては存在しないに等しい。ゆるくゆるく灰色ばかりが彼の眼蓋をすぎてゆき、やがて罫線の麗しい白い紙があり、彼は靜かに氣をとりなほした。

 彼はペンを執つて、事務のつづきを始める。ペンの音が紙の上を空滑りしてゐて、間もなく數字は葡萄の粒々となる。

 すると、いつもの天井の方からするすると一すぢの綱を傳つて、一人の兇漢が彼の背後に近寄る。

 わあつと、呻き聲とともに、彼は兇漢のまはりを泳いでゐる。

 

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