芥川龍之介 手帳7 (17) 辜鴻銘
○辜鴻銘 王風起華夏 喜氣滿乾坤
[やぶちゃん注:「辜鴻銘」(一八五七年~一九二八年)清末から民国初期の学者。中国の伝統文化と合わせて西洋の言語及び文化に精通し、同時に東洋文化とその精神を西洋人知識人に称揚した。イギリス海峡植民地(現マレーシア)のペナンに生まれた(父は福建省出身のゴム農園管理人、母はポルトガル人)。一八六七年にゴム農園のオーナーと共に渡英、一八七〇年にはドイツに留学、一八七七年に英国に戻って、エジンバラ大学で西洋文学を専攻した。一八七七年の卒業後、再びドイツのライプチヒ大学で土木工学、次いでフランスのパリ大学で法学を学ぶ。一八八〇年にペナンに帰郷するが、ここで学識の外交官馬建忠に感化を受け、中国文化に目覚めた。一八八五年には清に赴き、秘書や上海黄浦江浚渫局局長を経て、一九〇八年の宣統帝即位後、外交部侍郎に任命された。一九一〇年には上海南洋公学(現・上海交通大学)の監督となったが、一九一一年の辛亥革命により、公職を去った。その後、一九一五年に北京大学教授に任命されてイギリス文学を講義した(一九二三年の蔡元培学長の免職に抗議して辞任。大正一三(一九二四)年と、翌年の二度、来日して講演活動を行い、帰国した翌年に北京で死去した。英語以外にもドイツ語・フランス語・イタリア語・ギリシア語・ラテン語・日本語・マレー語を話すことが出来、芥川の他にも、モームやタゴールといった高名な文人達が、彼を訪問している。「生在南洋、学在西洋、婚在東洋、仕在北洋」や「気平一生楽」、「男の心に通ずる道は食道、女の心に通ずる道は陰道」等、名言迷言の多い人物でもある(以上は主にウィキの「辜鴻銘」を参照した)。「北京日記抄 二 辜鴻銘先生」を参照。
「王風起華夏 喜氣滿乾坤」「王風 華夏(くわか)に起こり 喜氣 乾坤に滿つ」と訓じておく。「王風」とは君子たる正しき人物が支配する気配の謂いであろう。「華夏」とは漢民族の間にある自民族中心主義である中華思想に於いて中国のことを美化して表現するための歴史民俗的用語。「乾坤」は天地。]
« 芥川龍之介 手帳7 (16) 京劇女優の名のメモ | トップページ | 芥川龍之介 手帳7 (18) 陳宝陦邸で見た驚くべき書画群 »