筑紫探題の始め 付鎌倉大地震 竝 賴綱入道果圓叛逆
○筑紫探題の始め 付 鎌倉大地震 竝 賴綱入道果圓叛逆
永仁元年三月、北條相摸守貞時が計(はから)ひとして、北條越後守兼時、去(い)ぬる正應六年正月に六波羅の南の方を辭して、鎌倉に下向せられしを、筑紫へ遣して、鎭西(ちんぜい)の探題とし、西國の成敗(せいばい)を掌(つかさど)り、異賊襲來の押(おさへ)とす。兼時が代(かはり)として、北條前〔の〕陸奥守重時の曾孫武藏守久時を六波羅の北の方として上(のぼ)せらる。又、一族の内、一人を長門(ながと)の探題とし、中國の事を司(つかさど)らしむ。同四月五日、鎌倉、大地震あり。日比(ひごろ)、空曇りて、月日の光りなく、墨色の如くなる雲覆ひ、垂(たれ)かゝるやうに見えて、殊更、恠(あやし)きは、榎島(えのしま)の地形(ちぎやう)、時々振ひて、沖の鳴る事、夥し。如何樣(いかさま)、只事にてはあるべからず、又、兵亂の先兆(ぜんてう)か、饑饉(ききん)疫癘(えきれい)の端相(ずゐさう)かと、皆人、不思議に思ひける所に、午刻(うまのこく)計(ばかり)、俄(にはか)に、大地震、震動して、海は湧き揚りて陸(くが)を浸(ひた)し、山は崩れて谷を埋み、寺門(じもん)、宮社(きうしや)を初(はじめ)て、殿中御館(みたち)、民の家々、顚倒して崩るゝ者、天は鳴り靂(はため)き、地は淘(ゆ)り動き、啼喚(なきさけ)ぶ人の聲、物の色目も見えわかず。壁、倒れ、棟、落ちて、或は微塵に打碎(うちくだ)かれ、或は眞平(まひら)に押付(おしつ)けられ、男女を云はず、凡(およそ)死する者、一萬人に及べり。親は子を先立(だ)て、妻は夫に後(おく)れて、歎悲(なげきかなし)む聲、洋々として、聞くに哀(あはれ)を催しける。未だ淘靜(ゆりしづま)るべからずとて、貴賤上下、終夜(よもすがら)用心しけれども、續(つゞい)て振ふ事もなければ、死骸を野邊に送り、寺に遣(つかは)し、葬禮を營む所もあり、崩れたる家々、引起(ひきおこ)し、作直(つくりなほ)す所もあり。鎌倉中の有樣、流石に亂後の如くなり。この比、相州貞時の管領平左衞門尉賴綱入道果圓(くわゑん)は、先年、秋田〔の〕城〔の〕介泰盛父子を訴(うつた)へける折節は、萬(よろづ)に付きて深く愼憚(つゝしみはばか)りけるを、權威、殊更に耀(かゝやき)出でて、
世の崇敬(そうきやう)する所、人の畏隨(おそれしたが)ふ事、將軍家の重寄(おもよせ)にも過ぎたるが如くなりければ、次男飯沼(いひぬま)判官、その威(ゐ)、父に劣らず、勢(いきほひ)、盛なり。時の人、「飯沼殿」と號して、門外を通る人、下馬せぬはなかりけり。判官、既に安房守に任じ、大に侈(おごり)を極め、主君貞時を侮りて、蔑(ないがしろ)にするのみならず、賴綱入道に如何なる天魔の入替りけん、又は奢(おごり)を惡(にく)みて天道神明(てんだうしんめい)、既に家運の籍(ふだ)をや削り給ひけん、あらぬ心の付きて、將軍の家を傾け、執權の門を滅(ほろぼ)し、安房守を將軍に任じ、威光を四海に輝かさばやと謀りけるを、嫡子宗綱、大に恐驚(おそれおど)きて、「是は然るべくもなき思召立にて候。今この世の中に斯樣の御企(おんくはだて)候とも、誰(たれ)か一人も味方になりて、力を助(たすく)る事の候べき。只徒(いたづら)に家門を失ひ、滅亡するより外の事、あるべからず。平(ひら)に思留(おもひとゞま)り給へ」と諫めければ、賴網入道、大に怒(いかつ)て、安房守に心を合せ、先(まづ)宗綱を打つべき支度(したく)に見えければ、宗綱、竊(ひそか)に相摸守貞時に告知(つげしら)せたり。貞時、驚き給ひ、一族を集めて内議一決し、俄に軍兵を催し、殿中に隱置(かくしお)き、賴綱父子を召されしかば、何心もなく参りけるを、軈(やが)て生捕(いけど)り、誅戮(ちうりく)せられ、その家をば闕所(けつしよ)となし、妻子は皆、追放致されけり。その有樣、偏(ひとへ)に泰盛が滅亡せしに違(たが)はざりければ、「あはれ、因果歷然の報(むくい)かな」と、いはぬ人は、なかりけり。「嫡子宗綱、この叛逆の事を主君貞時に告げたるは、忠節に似たれども、正しき父を訴へて誅せさせ、『我が世にあらん』と謀りけるは、目前に不孝の罪ありて遁(のが)るべからず」とて、佐渡國へ流されしが、程なく召返され、二度(ふたゝび)管領となりけるを、また罪有りて、上總國に流刑せらる。賴綱入道、大に侈(おごり)て、非道の企(くはだて)、天罸を蒙り、身を失ひ、家を亡(ほろぼ)しければ、世の人、惡(にく)まぬは、なかりけり。
[やぶちゃん注:題名の「叛逆」は「ほんぎやく」とルビする。
「永仁元年」一二九三年。
「北條越後守兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条宗頼(第八代執権北条時宗の異母弟)の子。弘安三(一二八〇)年、長門探題であった父の死に伴い、長門国守護となり、翌年には異国警固番役を任ぜられて播磨国に赴いている。「弘安の役」から三年後の弘安七(一二八四)年には摂津国守護と六波羅探題南方に任ぜられていた。ここにある通り、正応六年一月に探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来によって、再び、蒙古襲来の危機が高まったことから、僅か二ヶ月後の同年三月には、執権北条貞時は軍勢とともに九州に下向させている。ここで筆者ははっきりと「鎭西の探題」と記しているのであるが、当時の資料ではこの探題名称は確認されてはいない。但し、兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もあることはある。また、兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉で本篇後半の「平禅門の乱」が起って、五月三日には事件を報ずるための早馬が博多に到着して、九州の御家人達が博多に群聚し、兼時はその対応に追われた。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は「異国用心」のために、筑前国と肥前国で九州の御家人らと「狼煙(とぶひ)」(烽火。中国のそれが古代から知られるが、本邦でも歴史は古く、天智三
(六六四) 年、新羅の入寇に備えて対馬・壱岐・筑紫に置いたのを初めとする。律令制では四十里間隔に設備を設け、烽長・烽子の職掌を置く規定となっているが、延暦一八(七九九)年を以って大宰府管内以外のものは廃止されていた)の訓練を行っている。他にも軍勢の注進や兵船の調達などを行って、異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、翌永仁三年四月、兼時は鎮西探題職を辞して、再び鎌倉に帰還している(翌年には北条実政(金沢流北条氏の始祖北条実時の子)が鎮西探題に派遣された)。帰鎌後、兼時は評定衆の一人に列せられ、幕政に参与したが、帰還から五ヶ月後に死去した。享年三十二歳の若さであった(以上はウィキの「北条兼時」に拠った)。元寇襲来前後、幕府の要人の何人かは、意外な若さで亡くなっている(第八代北条時宗も三十四で没)。職掌や人格にもよるが、精神的にも肉体的にもかなりの過剰労働であったことが窺われる。
「正應六年」一二九三年。この年、後の八月五日に「永仁」に改元している。
「武藏守久時」北条(赤橋)久時(文永九(一二七二)年~徳治二(一三〇七)年:六波羅探題北方・連署を務めた北条重時(北條義時三男)の嫡男である長時の嫡男義宗の嫡子)弘安三(一二八〇)年に執権北条時宗の命を受け、河内・信濃・日向・紀伊・摂津の五ヶ国を兼ねる守護となり、ここにある通り、永仁元(一二九三)年三月に六波羅探題北方に任ぜられた。四年後の永仁五年六月、探題職を辞して鎌倉に帰還し、翌年四月には評定衆の一人に列せられた。その後も引付頭・寄合衆・官途奉行などに任ぜられ、幕政の中枢に参与したが、やはり三十六の若さで死去している。なお、後に鎌倉幕府を滅ぼすこととなる足利尊氏は彼の娘婿であり、室町幕府二代将軍足利義詮及び初代鎌倉公方足利基氏は彼の孫に当たる。
「長門(ながと)の探題」ウィキの「長門探題」より引く。一般には建治二(一二七六)年に鎌倉幕府が元寇に対処するために長門国に設置した最前線防衛機関の呼称として知られるが、実はあまりよく判っていない。『長門守護の権能を受け継ぎ』、『拡大したものと考えられるが、詳細は不明』。ただ、本文に出る通り、『初代に相当するとされる北条宗頼以後、北条氏一門が任命された。史料上では、北条時直』(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)『に対してのみ「長門周防探題」の称が確認されている』。文永一一(一二七四)年十月に『元軍が九州北部方面に侵入したこと(文永の役)を契機として、鎌倉幕府は』建治二(一二七六)年に『最前線防衛の強化を企図して執権北条時宗の弟である北条宗頼を長門守護に任命し』、『長門へ派遣した。これが長門探題の始まりと考えられている。蒙古襲来という非常事態に対処するため、宗頼には他の守護よりも強大な権能を与えられていたとされるが』、『その権能の詳細は明らかでない』。『長門には長門警固番役が設置され』弘安四(一二八一)年の『元寇(弘安の役)に際し、元軍が襲来したとの伝承が残るが、確認できる時期は比較的新しい』ものであり、『長門への襲来は、史料の不足などにより詳細は不明』である。『長門守護職は周防守護職も兼ねることが多く、長門周防探題の呼称はそのためであろう。また後世には、長門探題の権能が拡大されて山陽道・山陰道全域の検断を管轄していた時期もあったため、中国探題と呼称されることもある』。元弘三年、『全国的に鎌倉幕府への反旗が上がり、九州では幕府の重要機関である鎮西探題が激しい攻撃を受けた。そのため、当時の長門探題北条時直は鎮西探題の救援に向かったが、たどり着く前に鎮西探題は滅亡してしまい、時直は豊前国柳ヶ浦で降伏することとなり、鎌倉幕府における長門探題の歴史もここに幕を閉じた。
その後の室町幕府では、将軍足利尊氏の庶子である足利直冬が一時、長門探題に任命され』ている。史料上では『「長門探題」は北条時直が知られるのみであるが、北条宗頼以後の北条一門がつとめる長門守護は、他の守護よりも強い権能を持っていたことが散見され、後世における「長門探題」の名称はそれによると考えられている。ただし、その実体はつまびらかではない』。『北条宗頼が長門守護職に補任されて、長門探題が実質的に創始される以前は、二階堂氏が長門守護職にあった。しかし二階堂氏は鎌倉に常駐していたため、現地代理人として三井氏が長門守護代を務めていた。三井氏の屋敷跡と考えられているのが、下関市安岡富任にある「三太屋敷跡」遺跡』としてある。『通常、鎌倉期の守護は鎌倉に在住したままで、現地へ赴任する例は多くなかったが、長門守護に任命された北条宗頼は、対元防衛の最前線司令官として実際に長門へ赴任する必要があった。現在、北条宗頼が駐在した守護所として、もっとも有力視されるのは、長門国衙が存在していた長府(現下関市長府)である』。『また、後に三井氏は豊浦郡室津(現・下関市豊浦町室津)へ転居していることから、地元安岡地域では三井氏は富任の屋敷を北条宗頼の居所、すなわち長門探題の拠点として北条宗頼へ譲ったとする説』『もある』とある。
「同四月五日、鎌倉、大地震あり」正応六年四月十三日(ユリウス暦一二九三年五月二十日)の誤り。ウィキの「鎌倉大地震」の日付は十二日であるが、これは「鎌倉大日記」(足利氏を中心とした作者不詳の年代記で南北朝末期頃に成立)に拠るもので、他の諸記録(以下参照)から見ると、十三日が正しいようである。増淵勝一氏も十三日と割注する。同ウィキのよれば(一部の記号を変えた)、『関東地方で地震が発生。建長寺を代表として多数の神社仏閣が倒壊し、多数の死者が発生した。「鎌倉大日記」』(足利氏を中心とした作者不詳の年代記で南北朝末期頃に成立)『では、翌日にも余震と思われる地震の記述が残されており、建造物の倒壊のほか多数の土砂災害などが発生』し、二万三千三十四人もの死者があった『とされている』(原本は鎌倉末期から南北朝初期にかけて書かれ、戦国初期に増補されたと推定される年表形式の「武家年代記裏書」に拠る)。『また、この震災による混乱を利用し、鎌倉幕府執権・北条貞時は、当時幕府内で専横を振るっていた平頼綱(杲円)邸への襲撃を命令し、頼綱父子の討伐に成功した(平禅門の乱)。朝廷では、地震の発生や、この後』の六月から八月にかけて全国を襲った『干魃等を重視し、同年』八月五日(ユリウス暦九月六日)に『永仁への改元を行っている』。二〇〇八年に『東京大学地震研究所では、三浦半島小網代湾の堆積物に着目、分析を進めた結果、鎌倉大地震により発生した大津波の痕跡を見いだして』おり、二〇一四年には日本政府の地震調査委員会がマグニチュード八クラスの『相模トラフ地震としている』が、二〇一五年四月には同委員会は『評価を変更し、相模トラフと分岐断層である国府津(こうづ)-松田断層帯が連動して地震が起こったとした』。『鎌倉建長寺は倒壊後に炎上、由比ヶ浜の鳥居付近では』百四十人もの『死体が転がり、幾千もの死者が出たと「親玄僧正日記」』(鎌倉後期の真言宗醍醐寺の僧(公卿久我通忠の子)の記録)『に記される。「武家年代記裏書」には大慈寺』(廃寺。十二所にあった大伽藍の寺)『が倒壊したことが記される』。歴史学者峰岸純夫氏は「中世
災害・戦乱の社会史」で、『直下型地震で極浅、震源地は相模陸地の丹沢付近かと記しており』、推定マグニチュードは七・一としている、ともある。
「榎島(えのしま)」江ノ島。個人ブログ「kurunakare.com」の「永仁元年から三年にかけての関東(鎌倉)大地震について」には(ここでも本震は十三日説を採っている)、この半年後の十月二十一日のこととして「親玄僧正日記」に『天陰(くもる)、辰のはじめ降雨、午のはじめ雷鳴、卯刻、江ノ島鳴動、二箇度。また辰のはじめ鳴動』とあるとするのを混同したか。或いは別な記録で四月十二日にも江ノ島の異変が書かれてあるのかも知れない。江ノ島は大型地震ではしばしば激しい変動を起しており、先のウィキの記載にあるような大津波(本文の後に出る「海は湧き揚りて陸(くが)を浸(ひた)し」はまさしくそれを想起させる)などが発生しているのだとすれば、それも納得は出来る。
「端相(ずゐさう)」この語には「吉兆」以外に、単に「前ぶれ・前兆・きざし」の意がある。
「午刻(うまのこく)計(ばかり)」正午頃。
「淘(ゆ)り動き」「淘」は本来は「盥や桶などに水を入れて掻き廻して米などを研ぐ・水洗いして掬うようにして選り分ける・
水中を浚って物を掬い出す」の意であるが、ここは振動・風波によって「揺れ動く」の意。
「凡(およそ)死する者、一萬人に及べり」先の引用によれば、その倍以上である。
「洋々として」巷間に満ち溢れて。
「この比」所謂、「平禅門の(へいぜんもん)乱」(後注参照)は正応六年四月二十二日(一二九三年五月二十九日)に発生しているから、大地震の九日後である。先の「永仁元年から三年にかけての関東(鎌倉)大地震について」を見ると、十三日以降も頻繁に余震が続いているから、まさに地震に乗じた兵乱であることが判る。
「管領」「かんれい」。内管領(ないかんれい/うちのかんれい)が正しく、御内頭人(みうちとうにん)とも称し、執権北条氏宗家である得宗家の執事である得宗被官の御内人の筆頭を指す。「得宗の家政を司る長」の意味であって、室町以降の役職とは異なるので注意が必要。「内管領」の呼称はこの平頼綱が初めとされる。
「平左衞門尉賴綱入道果圓(くわゑん)」北条得宗家御内頭人(内管領)平頼綱(仁治二(一二四一)年)頃~正応六年四月二十二日(一二九三年五月二十九日))。法名「果圓」(は「杲圓(こうえん)」とも(後者が正しいような感じはする)。「卷第十一 城介泰盛誅戮」で既注であるが、新たにウィキの「平頼綱」の記載から引く。『頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。頼綱は代々として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた』。弘長元(一二六一)年『頃に父盛時から侍所所司を継承し』、未だ三十歳ほどの文永九(一二七二)年『以前には得宗家の執事となっている』。年齢的には安達『泰盛と時宗の中間の世代に相当し』、建長八(一二五六)年:同年中に康元に改元)『まで執権であった北条時頼の偏諱(「頼」の字)を受けて元服したものと判断される。「吾妻鏡」には建長八年一月四日の条の『「平新左衛門三郎」を初見として』四『回登場』している。文永八(一二七一)年九月、『元寇に際して御家人に鎮西下向の命が下される中、頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていた日蓮の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状では、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。日蓮は斬首に処される所を直前で回避されているが、これは時宗の妻(堀内殿)の懐妊と、その養父である安達泰盛の進言があった事によるものとの見方もある。建治元年頃には父盛時が没しており、その跡を受けて』建治三(一二七七)年には『時宗が幕府の重要事項を決める寄合衆の一員となっている』。弘安二(一二七九)年の日蓮の『書状には「平らも城らもいかりて、此一門をさんざんとなす」とあり、本来』、『身分的には御家人より一段下である御内人の頼綱の勢力が、有力御家人であった安達泰盛らの勢力と拮抗していた事を示している。蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出すると同時に、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していく中で、得宗権力を行使する御内人の勢力は増し、その筆頭である頼綱と、得宗外戚で伝統的な外様御家人を代表する泰盛との対立が深まっていた』。弘安七(一二八四)年『正月には内管領就任が確認され、父から受け継いだ侍所所司・寄合衆・内管領を兼ねる得宗被官最上位として長崎氏一門が得宗家公文所・幕府諸機関に進出している』。同年四月、『両者を調停していた執権時宗が死去する』と、『得宗の死と同時に北条一族内で不穏な動きが生じ、六波羅探題北方の北条時村は鎌倉へ赴こうとして三河国で追い返され、探題南方の北条時国は悪行を理由に鎌倉へ召還され、頼綱によって誅殺された。時国の叔父の時光は謀反が露見したとして種々拷問を加えられて佐渡国へ流された』七月に十四歳の『貞時が執権に就任する。貞時の外祖父である泰盛は将軍権力の強化、得宗・御内人の権力を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父で内管領である頼綱との対立は更に激化する。弘安八(一二八五)年十一月、『ついに鎌倉市街で武力衝突に至り、執権貞時を奉じる頼綱の先制攻撃によって泰盛と安達一族は滅ぼされ、泰盛与党であった御家人層は一掃された。
これを霜月騒動という』。『この後』、『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』弘安一〇(一二八七)年に第七『代将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け』、『京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』。『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後にはそれまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷』(きょうじがやつ:現在の長勝寺のある名越の手前)『の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。
頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」によれば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。後、『室町時代に禅僧の義堂周信が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十年『以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』と記す。なお、ウィキの「平禅門の乱」によれば、自身の暗殺への『予兆があったのか、頼綱はかつて泰盛調伏の祈祷を依頼した山門の護持僧に、「世上怖畏」として自身の身の安全を祈らせている』とある。
「秋田〔の〕城〔の〕介泰盛」安達泰盛。「卷第十一 城介泰盛誅戮」参照。
「訴(うつた)へける」頼綱は泰盛の子宗景が源姓を称した事を以って、将軍になる野心ありと執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得ている。
「崇敬(そうきやう)」読みはママ。普通は「すうけい」。崇(あが)め敬うこと。
「將軍家の重寄(おもよせ)にも過ぎたる」将軍久明親王に対する信任を超えるほど。
「次男飯沼(いひぬま)判官」飯沼資宗(文永四(一二六七)年~正応六(一二九三)年四月二十二日)。ウィキの「飯沼資宗」によれば、彼は本文にある通り、「安房守」に任命されているが、御内人で国司となったケースは稀であるとある。弘安二(一二七九)年九月、『得宗領である駿河国富士郡内で「刈田狼藉」を行ったとして日蓮門徒の百姓が捕縛され』、『頼綱の命で鎌倉の侍所へ連行された、いわゆる「熱原法難」の際、当時』十三『歳(数え年)の資宗が門徒に改宗を迫って鏑矢を射たと』される。正応二(一二八九)年九月、『得宗政権による将軍すげ替えのため、将軍惟康親王が京都へ送還され』たが、『資宗は御内人としては異例の検非違使に任ぜられ』ており、十月の『新将軍久明親王を迎える』際にも彼が上洛している。『その際、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」と、流罪として送還された前将軍惟康親王の通った跡は通れぬと詠い、箱根を通らず足柄山を越えたという。入洛後は検非違使任官の挨拶回りのため、束帯姿で』四、五『百騎の武士を従えて上皇御所や摂関家、検非違使別当邸を訪れ、そのありさまを多くの貴族達が大路の傍で見物した。資宗はさらに五位の位を得て、大夫判官となり、御内人としてかつてない栄誉を極めた。直属の上司である検非違使別当は、ある法会の上卿(責任者)を急遽辞して、資宗の訪問を待ち受けている』。『この年の』三『月から鎌倉に滞在していた』「とはずがたり」の作者である後深草院二条を資宗は『邸にたびたび招いて和歌会を催している。二条は資宗を「思ったよりも情ある人」と評し、その交流の深さから周囲に仲を疑われたと思わせぶりに描いている』。正応四(一二九一)年には『鎮西の訴訟と引付衆による神社・仏寺の裁判迅速化のための監察とな』り、翌年五月には『再び上洛し、検非違使として葵祭の行列に加わった。金銀で飾り立てた資宗一行の出で立ちは、見物した正親町三条実躬』(おおぎまちさんじょうさねみ)がその日記「実躬卿記」に於いて『「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評するほどであった』という。しかし、この翌年、『鎌倉大地震での混乱の最中、鎌倉の経師ヶ谷にある頼綱邸で、頼綱の権勢を危険視した貞時の命を受けた武蔵七郎の軍勢に急襲され滅ぼされた』享年二十七。『御内人の賀茂祭り参加は資宗が最初で最後となった』とある。
「入替りけん」「いれかはりけん」。
「家運の籍(ふだ)」家運隆盛ばかりか、この世に定められてあったであろう平一族の寿命の意。
「將軍の家を傾け、執權の門を滅(ほろぼ)し、安房守を將軍に任じ、威光を四海に輝かさばやと謀りける」「保暦間記」(ほうりゃくかんき:南北朝時代に成立した歴史書)に、嫡子宗綱(次注参照)がかく、貞時に讒訴したと記す。
「嫡子宗綱」平宗綱(生没年未詳)平頼綱の嫡男。ウィキの「平宗綱」によれば、『侍所所司として将軍惟康親王に侍する。侍所の別当は執権が兼任するが、執権と得宗が分離しているこの頃には得宗御内人が幕府の侍所所司となる制度となっており、その威勢は「関白のようだ」と』「とはずがたり」には記されている。『得宗政権による将軍すげ替えのため、惟康親王が都へ送還され』たが、『その際、将軍は流人に対する扱いである後ろ向きの粗末な張輿に乗せられ、居所の御簾を土足の雑人が引き落とし、将軍権威の消滅を内外に示したが、宗綱はその有様に憤慨した』という。『父頼綱は次弟の飯沼資宗を鍾愛しており、宗綱とは不仲であったと見られ』、「保暦間記」には、『宗綱は主君貞時に「父杲円(頼綱)は、次男の助宗と共に専権を振るい、いずれは助宗を将軍にしようとたくらんでいる」と讒言したという』。ともかくも、「平禅門の乱」の『合戦の前に出頭した宗綱は、自分は父とは「逆意」であると陳弁したが、佐渡国へ流された。しかし』、『のちに召還されて内管領となっている。しかし』、「保暦間記」によれば、『再び罷免され、上総国へ再配流されたという。なお』、『この宗綱罷免には同族の長崎氏が関わっており、一旦』、『宗綱配流の際に内管領となり、実権をほぼ掌握していた長崎氏に謀られての讒訴と言われ』ており、『その後』、御存じの通り、幕府滅亡まで『長崎氏の権力が得宗家内で絶大なものとなった』のであった。
「闕所(けつしよ)」土地や所領を幕府が召し上げる財産刑。
「偏(ひとへ)に」平頼綱が讒言した結果、「泰盛が滅亡せしに違(たが)はざりければ」。
「正しき父」実の父。
「我が世にあらん」自分はこの世に生き永らえよう。
「目前に不孝の罪ありて」誰の目から見ても、親に対する不幸の罪であることは明白なれば。]
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