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2018/01/26

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 房総行脚、木枯の笠

 

     木枯の笠

 

 八月二十五日に故山を出発して東上の途中、居士は広嶋、厳嶋、尾道、岡山、小豆嶋寒懸(かんかけ)などに遊んだ。

 

   小豆嶋寒懸

 頭上の岩をめぐるや秋の雲

 

 その他数句がある。

[やぶちゃん注:「寒懸(かんかけ)」現在は寒霞渓(かんかけい)と表記するが、私が大学一年の時、卒業論文のために尾崎放哉の最期の地として小豆島を訪れた時、無償で宿を貸してくれた西光寺(放哉はこの寺の奥の院である南郷庵(みなんごあん)で没した)の住職杉本宥尚氏の娘さんたち(幸さんと文さんという名であった)は「かんかけ」と可愛らしく言っていたのを思い出す。]

 学年試験を受けずに帰った居士は、九月に追試験を受けなければならぬ。この間題については漱石氏に問合せていた模様であったが、上京後間もなく試験準備のため、大宮に赴いて万松楼(ばんしょうろう)に投じた。丁度萩の盛で、あたりは閑静でもあるし、「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」ったらしい。竹村黄塔(こうとう)、夏目漱石というような友人たちは、居士の手紙によって大宮に来り、各〻万松楼に一、二泊した。漱石氏の帰るのと同時に、居士も大宮を引上げたようである。漱石氏もこの時のことを「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」といっている。この滞在は十日ばかりで「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」り、試験はどうにか通過した。

[やぶちゃん注:「万松楼」現在の大宮公園にあった高級割烹旅館。推定であるが、附近(グーグル・マップ・データ)にあったと思われる。

「松林を徘徊したり野逕を逍遙したり、くたびれると歸つて來て頻りに發句を考へる。試驗の準備などは手もつけない有樣だ」宵曲は不親切にも原典を示していないが、これは「墨汁一滴」(新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載)の「六月十六日」からの引用である。ここは国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出冊子で訂した。こんなものまであるのは、やっぱり、国立国会図書館、凄い!

「竹村黄塔」竹村鍛(きたう)。河東碧梧桐の兄。河東静渓(せいけい)の第三子で、先に出た河東可全(静渓第四子)の兄。既出既注

「なかなか綺麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた」夏目漱石の「正岡子規」(明治四一(一九〇八)年九月一日発行の『ホトトギス』に発表)からの引用。岩波旧全集第十六巻(「談話」中に所収)で補正した。踊り字「〱」は正字化した。

「試驗の準備は少しも出來なかつたが頭の保養には非常に効驗があ」同じく「墨汁一滴」の「六月十六日」から。上記と同じもので訂した。]

 この年の「寒山落木」には

 

   十月廿四日平塚より子安に至る道に日暮て

 稻の香や闇に一すぢ野の小道

   翌廿五日大山に上りて

 野菊折る手許に低し伊豆の嶋

 

などの句がある。この旅行は文科大学の遠足会で、藤井紫影氏などは大山登りの途中ではじめて居士と言葉を交したのだという。この時居士は大学の制服を著ていたそうである。

[やぶちゃん注:「藤井紫影」後の国文学者藤井乙男(おとお 慶応四(一八六八)年~昭和二〇(一九四五)年)の号。淡路(兵庫県)生まれ。東京帝国大学卒業後、四高・八高の教授を経て、明治四四(一九一一)年、京都帝国大学教授となった。専攻は近世文学で「近松全集」「諺語大辞典」を編集し、著書に「江戸文学研究」等がある。大学時代から正岡子規と親交を持ち、俳句を始めた。句集に「かきね草」がある。]

 十一月上旬、居士は川越方面に遊んだ。武蔵野に試みた小行脚で、忍(おし)、熊谷、松山などの各地を歩いている。子規庵に現存する菅笠は、この旅行の際、蕨(わらび)駅あたりでもとめたもので、前に引いた「室内の什物」の中に「三日の間武藏野をさまよひて、時雨にも濡れず霰にも打たれず、空しく筆の跡を留めて發句二つ三つ書きたる菅笠なり」と記されている。

[やぶちゃん注:「忍(おし)」埼玉県北部の行田(ぎょうだ)市の中心市街地の旧地名。(グーグル・マップ・データ)。関東七名城のひとつに数えられる忍城の跡がある。

「松山」埼玉県東松山市附近。松山町の地名が残る((グーグル・マップ・データ))。

『「室内の什物」の中に』。先に示した「国文学研究資料館所」の同館蔵「日本叢書 子規言行録」で確認されたい。そこには以上の言葉に添えて、

 

 春雨のふるき小笠や霰の句

 

の句が配されてある。]

 

 木枯やあら緒くひこむ菅の笠

 

という句は、この旅行の実感であろう。

 『筆まかせ』の終に合綴(がってつ)された「常盤豪傑譚」なるものがある。舎監たる鳴雪翁をはじめ、常盤会寄宿舎にいた人々の逸話を興味本位に記したもので、その最初に「明治二十四年十一月上旬旅行中熊谷小松屋にて書初む」と註記してあるのを見れば、旅宿の夜長にこの稿を起したのである。果して全篇のどの位を草し得たかわからぬが、滞留久しきに及んで無聊に苦しむ場合ならともかく、僅三日の行脚旅行に、昼は笠を被って歩き起りながら、夜は夜で旅宿に筆を執る。それも旅行とは全然関係のない「常盤豪傑譚」であるに至っては、その筆まめに驚かざるを得ない。

[やぶちゃん注:「常盤豪傑譚」岩波文庫「筆まかせ抄」の最後に附された全目録によれば、「筆まか勢」第四編の『明治廿四十一月上旬より』としてこれ一篇のみが載る。未見。]

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