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2018/01/20

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十二」

 

    二十二

 

[やぶちゃん注:以下の短歌群は底本の五十四ページから始まるのであるが、五十四ページは短歌のみで、それは裏の五十三ページを透かして見ると、総て一字下げで印刷されてあることが判る。ところが、最後の六首は五十五ページに載り、その後半部は次章「二十三」本文となっているのであるが、そこでは六首総てが、行の頭、一字目から記されてあるのである。そこで、ブラウザ上での見た目の悪さも考えて、総てを一字目から表記することとした。また、短歌には表記その他に複数の不審があるが、総てそのまま示し、後の注で疑問を挙げておいた。]

 

 ほそい雨が冷たい滴を落しながら早くもすがれた庭の杏の梢に降りそゝぐ静かなあさ、久しぶりにおちついた歌をかんがえて見た。城山の杜かげの草叢にすだく虫の音は、緑りのいろの白く濁った濠の水のうえを渡ってひる間もさびしくひびいて来るのであった。

 たちまち、視界のうすれて行く境をあかるい藍色の光が礫(つぶて)をなげうつ様に過ぎ去った。眼をあげて光のゆくてを追うと、お濠の岸から岸へ翔(かけ)って行く翡翠(かわせみ)の翅(はね)のいろであることが知れた。

 

わが生(よ)哀し日の没(お)りぎわの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土蔵(くら)の扉のかな錆(さび)もさ青むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は黙(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かいな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに揺するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな帰り来そ

海をみつめて立てる男の横顔くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆうかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり真菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土蔵の鉄(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚児(おさなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けうちくとう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

みずうみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家毎に住みならはせりうきくさのはな

人いとをしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちぢく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が帰ってしまった後の、井川の中の欠落感・寂寥感を彼は美事にこの章で短歌に託して示して美事である。……さてもさても、「芥川龍之介は帰ってしまったのか」とあなた(本ブログの読者)も淋しく思われるであろう(事実、帰っちゃったんだけれども)、ところが、どっこい――なんだな、これが……♪ふふふ♪……

 まず、歴史的仮名遣の誤りを訂した上で、短歌全文を恣意的に正字化して以下に示すこととする(仮名遣を訂した箇所は太字下線とした)。

   *

 

わが生(よ)哀し日の沒(お)りぎの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土藏(くら)の扉のかな錆(さび)もさ靑むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は默(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに搖するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな歸り來そ

海をみつめて立てる男の橫顏くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり眞菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土藏の鐵(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚兒(さなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けちくう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

うみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家每に住みならはせりうきくさのはな

人いとしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

   *

 以下、私の正字正仮名版で引いて注する。

「わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かひな)かもいのちかなしき」の「浪をうちゝつ」が私には意味が判らない。私は「浪をうちつゝ」の錯字(錯記号)かと思ったのだが。「うちちつ」で意味が通るということであるから、どうか、御教授下されたい

「城山(しろやま)の木のうれに群れて暗く鳥のゆふかたまけて飛び散らひけり」「城山」は旧松江城(千鳥城の異名の方がこの一首には相応しい)跡を指す。因みに、現在は(公園となっているが)「しろやま」よりも「じょうざん」「じょうやま」と呼び慣わすことが多く、小泉八雲が好んで散歩し、愛した城山稲荷神社も「じょうざんいなりじんじゃ」である。「うれ」は「末」で草木の新しく伸びた末端、梢の意。「ゆふかたまけて」万葉語。「夕片設けて」で「夕方を待ち受けて(受けるように)」の意。

「牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ」井川が借り、芥川龍之介と一緒に滞在した内中原町の濠端の家から南方直近の、現在、島根県立図書館(ここ(グーグル・マップ・データ))がある場所には、当時、刑務所があった。猶、位置の確認は出来ないものの、井川の実家内中原町御花畑。この「御花畑」という地名は堀尾吉晴が藩主であった頃に整備されたが、武家の屋敷町であると同時に、藩主の庭園(御花畑)とされたことに由来するらしい)も、この濠沿いであったことは間違いない)もこの借家のごく近くであったと考えられ、調べて見たところ、まさに現在、この島根県立図書館(旧刑務所)の西側の通りが、「お花畑通り」と呼称されているようである。]
 

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