芥川龍之介 手帳8 (14) 《8-14/8-15》
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《8-14》
○更くる夜を上ぬるみけり鰌汁
[やぶちゃん注:「鰌汁」「どじやうじる」。没後の「澄江堂句集」など、公に知られた表記は「更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁」である。大正一二(一九二三)年から翌年にかけての『にいはり』を初出とし、現存書簡では前年の大正十一年九月八日附真野友次郎(旧全集書簡番号一〇六九。芥川龍之介の普通人の愛読者の一人であるが、龍之介はかなり書簡のやりとりをしている)宛にまさに「泥鰌汁」ではなく、この「鰌汁」で初出する。無論、旧作の覚書とすることも出来るが、この初出時期を重視するならば、新全集の「後記」が本「手帳8」の記載推定時期を大正一三(一九二四)年から晩年にかけてと推定するその上限は絶対のものとは必ずしも言えなくなる気がする。]
○30越した女(子供をおいて放す)兩乳はり卒倒す 旅人乳をすひすくふ(腦貧血) 旅人は弟の生まれるまでに間ありし故 乳の吸ひ方を知る 男女共春情を催す
○英語の教師 英語をやらねば出世せぬと云ふ 生徒思ふ 先生は如何
○永山が山口重春の二十四孝(錦畫)を五圓(古本屋)にかひ永見へ四十圓に賣る
[やぶちゃん注:「永山」後の「永見」(後注参照)から考えると、これは長崎県立長崎図書館初代館長として切支丹文献や対外貿易史料の収集に勤めたことで知られる永山時英(慶応三(一八六七)年~昭和一〇(一九三五)年)ではあるまいか。
「山口重春」柳斎重春(りゅうさいしげはる 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は大坂の浮世絵師。肥前国長崎鍛治町の商家山口善右衛門(屋号「大島屋」)の次男。俗称は山口甚次郎。
「二十四孝」浄瑠璃「本朝廿四孝」(時代物。五段。近松半二他に成る合作。明和三(一七六六)年、大坂竹本座で初演。「甲陽軍鑑」に取材し、中国の二十四孝の故事を配したもの)の芝居絵か。
「永見」永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛・竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた人物である(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎」、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の「真昼の銅座巡遊記」を参照した)。大正八(一九一九)年の龍之介の長崎行の際に宿を提供して以来、親しく交わった。]
○會社にて寫眞帖を出しその中の女を世話し話をまとめる
○豪傑
神風連 種田少將の書生營兵司令(軍曹) 會津藩士 顏の肉を削らる 褌にて卷く 閑院宮殿下の檢閲 中隊長として
blow
wind 日淸戰爭前 陸軍中佐 日露役の時後備 70歳退役
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《8-15》
○聯隊長を打つ 昇進を中止せしむ 上申までには及ばず
○北淸事件凱旋 廣島の宿屋 少佐(豫備)――義兄 少將――義弟 アア五郎かワレは何時ついた? コツチヘ來い コツチへ來い――ウン昨日宇品へついた ウンユキンムの爲一泊した 少將兄扱ひす
○Meckel をなぐる(榊原と) 講評(圖上假設演習)の時 Meckel に叱らる German tactics は愚なりと叫び Meckel を打つ 少尉頃 停職
○貔子窩 日淸役 聯隊長ひけと云ふ 孤山より玉來る故 鞭にて聯隊長を打つ(お前の知るコトか) 岩上燒飯と梅干を食ふ 玉來る 倒る 飯をさがす
[やぶちゃん注:「○豪傑」以降、以上までは一連のものと判断する。
「神風連」明治九(一八七六)年十月二十四日に熊本市で発生した明治政府に対する士族反乱の一つである神風連(しんぷうれん)の乱。ウィキの「神風連の乱」によれば、『旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約』百七十『名によって結成された「敬神党」』(旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった勤皇党の一派)『により、廃刀令に反対して起こされた反乱』で、『この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれている、同日『深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明』(後注参照)『宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか』、『県庁役人』四『名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし』、『翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難した』後、『自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した』。『敬神党側の死者・自刃者は、計』百二十四名で、残りの約五十名は『捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約』六十名に及び、負傷者は約二百名であった。『この反乱は、秩禄処分』(明治政府が明治九(一八七六)年に実施した秩禄(華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称)給与の全廃政策。経過措置として公債が支給されたものの、支配層がほぼ無抵抗のままに既得権を失ったという点では世界史的にも稀な例とされる。ここはウィキの「秩禄処分」に拠った)『や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる』とある。
「種田少將」陸軍少将種田政明(天保八(一八三七)年~明治九(一八七六)年)。ウィキの「種田政明」より引く。旧薩摩藩士。『鹿児島城下の高麗町で生まれ』、文久二(一八六二)年、『島津久光の上洛に従い、中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した』。『戦後、薩摩藩常備隊』二『番隊長を経て』、明治四(一八七一)年、『御親兵大隊長として上京。兵部省に出仕し、兵部権大丞、兵部少丞を歴任』、翌年の『陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し』た後、明治六年に『陸軍少将となった』。『東京鎮台司令長官を経て』(明治九年、『熊本鎮台司令長官に就任。陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹』(くにもと)『と並ぶ人物であった。桐野等と異なり』、『官僚としての力量もあり』、『明治六年』の『政変で西郷等が下野した後は』、『必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあったが』、この『神風連の乱で妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ』、『殺害された』。『派手好き女好きで』、『盛んに色町に出入りし』、「花の左門様」(左門は彼の通称)と『囃されていた。また熊本においても妾である小勝と共に小間使いの女を妾とし、両手に花と喜んでいたという』。『小勝は事件後、東京の両親に「ダンナワイケナイ
ワタシハテキズ」との電報を打ち、当時の人気ジャーナリスト仮名垣魯文が』、『その下に「代わりたいぞえ、国のため」とつけて『仮名読新聞』に載せたことから有名になった』。『傷の養生のため』、『日奈久温泉に滞在。西南戦争の際には他の』五~六『人の女性と共に熊本城に篭城した』。『小勝の打った電報は、「語簡にして意深く」と称賛された。また、下の句を作る者が続出するなど』、『流行語にもなった。川上音二郎一座が電報文を題名にした芝居を上演しており、内容はひどいものであったが、題名のおかげで客入りは良かったという』とある。
「閑院宮殿下」閑院宮載仁親王(ことひとしんのう 慶応元(一八六五)年~昭和二〇(一九四五)年)は皇族で陸軍軍人(元帥陸軍大将大勲位功一級)・日本赤十字社総裁。ウィキの「閑院宮載仁親王」によれば、伏見宮邦家親王第十六王子。『後継のいなくなった閑院宮を継ぎ』、第六代当主となり、明治三三(一九〇〇)年『以後から第二次世界大戦終了直前まで』、『皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物であ』った。『日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した』とある。
「blow wind」「羽振りを利かせる」の謂いであろうが、英語に疎いけれど、英語ではこうは言わないのではないか? Influential とか great deal of influence とはあるが?
「北淸事件」北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。
「ウンユキンム」運輸勤務。
「Meckel」プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人で、明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いたクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 一八四二年~一九〇六年)。参照したウィキの「クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル」によれば、明治一八(一八八五)年三月に来日、陸軍大学校教官となり、参謀将校の養成を担当した。『メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の』一『期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の』十『人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく』、『希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め』、『様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した』という。三年間、『日本に滞在した後』、明治二十一年三月にドイツへ帰国した。
「榊原」後の陸軍中将榊原昇造(さかきばら しょうぞう 安政六(一八五九)年~昭和一五(一九四〇)年)か。そもそもがここに書かれた人物の名前が記されていないので、よく判らぬ。この人物を御存じの方、是非、御連絡を乞う。
「German tactics」ドイツ流戦術法。
「貔子窩」「ひしか」と読む。遼寧省の遼東半島東南部、現在の大連市普蘭店区(旧皮口鎮)にある皮口街道。ここは現在、新石器時代の遺跡があることで知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「孤山」ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○村幸の話 妻齒醫者と通ず 子供の空氣銃にて打ちし穴より覗く 二人立ち來るけはひ 雨天をわすれ日火の見に上る 火事と云ふ ねぼけた事になる 妻湯に入ると云ふ 幸焚きつけんとす 妻勿體ないと云ふ 床へはひり來る
[やぶちゃん注:「村幸」芥川龍之介の「輕井澤日記」(リンク先は私の電子テクスト)に『村幸主人』と出る、同日記の筑摩全集類聚版脚注(第六巻)に『港区新橋にあった古本屋の主人、村田幸兵衛』とある人物のことであろう。メモが簡略に過ぎ、シチュエーションを想像しにくい。これ、妻に不倫された本人の告白らしく、何だか、異様にその映像が、気になるのである。]
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