芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十五」
十五
岸に沿うて茂っている水草の叢を次へと次へと揺り靡かせながら、長いながい佐陀川(さだがわ)の川波を乱して進んで行つた汽船が、ゆかしく反りを打った橋の手前の川岸に着くと、今まで狭い船の中に窮屈な思いをして乗っていた船客はのびのびと背を延ばしながら陸(おか)にあがつた。
船の中で一緒に成った水澄(みずみ)さんと泰(ゆう)ちゃんとが一足先に行く後から、龍之介君と僕とが「暑いなあ」と口癖に言いながら歩いて行った。桑畑や、芋畑や、戸内(なか)のうす暗いわら家やの間をさくさく砂を踏んで十丁ばかりも歩むと、漁夫の家の赤瓦の屋根のうえに日本海が見えはじめた。
「暗いねえ!海のいろが」と龍之介君がつぶやいた。
空にはねずみ色の雲がひろがっていた。薄日の光りのもとに撫子の花が力無く首を傾(かし)げて咲いている径を足下あやうく降りて行くと、鉛色に濁った海は憤りの声を高くあげて白浪を打ちながらそこから一面に磯を荒らしていた。
海に臨んで山蔭に建てた宿を指して行くと、太郎さんが一家の人々と来ていたお互いにかろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した。朝五時に松江を出る船で古浦に来たとのことであった。
宿の椽にあぐらを組みながら僕たちは海をながめた。風が西から強く吹いて来る為夏分には希れな荒れだと云うことで、巨きい浪のうねりが遥かの沖から黒い腹を膨らませたり凹ませたりしながら寄せて来ては岸から二丁ばかりのところで浪の頭から見る見る白い雪頽(なだれ)と成って崩れ落ちちるかと思うと、更に岸破(がば)と身を起して互いに衝ち合う恐ろしい力にたがいに砕け、浪と渦(あわ)とのめまぐるしい塊りを汀へ向けて揉(も)みにもみ寄せていた。
「壮(さか)んだなあ」と龍之介君が言いつゞける。
「泳げるかしら?」
「なあに泳げるさ」
「じゃあ直ぐにおよごう」と衣服(きもの)を脱いで裸に成ると「少々壮快すぎるようだね」と龍之介君が弱音を吐いた。
白い髪毛をみだした頭を狂わしげに振り立てながら海のうえをまっしぐらに寄せて来る浪を汀に立ってにらむと大分臍(ほぞ)寒い気がしたが、なあにと思って双手(もろて)をあげて入って行った。
浪が寄せると共に底を蹴って跳びあがりながら肩まで深さのある所に来ると、身体を浮かせて浪に向って抜き手を切る。目のまえ一間ばかりのところで崩れた浪が巨きい口を開けて頭のうえに落ちかかる。右手を高くあげながら浪を潜ると、浪は僕の身体を水の凹(くぼ)みに残した儘更に勇躍して、磯ばたへ向って打寄せて行った。
すなおに巻いて折れて進んで行く浪は度し易いがぐじゃぐじゃに砕けて雪頽(なだ)れて行く浪は中々厄介で、そのぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には、身体が水の中でぐるぐるっと旋回する。夢中にもがいて浪の面に浮きあがると潮っからい水が鼻の孔から口のなかへ流れ通して、喉の奥がひりひりといたむ。
斯うして次第に泳いで沖に出ると浪は巨きくうねりを打っているけれど巻いたり折れたりしない。海が深い胸でいきづく鼓動にまかせて浪と共に浮きしずむ快さは一寸外に比壽(たぐい)がないような気がする。
頭のうえには潮(うしお)の気を一杯に含んだ風が嶮しい岸の岩山を蔽う草木の緑を慕っていさんで吹いて行く身体の下には海が暗い神秘の生(いのち)をひそめてふかしぎの踊りを止み間も無くおどり続けている……大空と、海とそのあいだに真(まこと)の悦びと自由とが原始人の感じたまゝのフレシュネッスを帯びて揺(ただよ)っていることを知る。
(八月十日)
[やぶちゃん注:冒頭に言っておくと、御存じの方も多かろうが、芥川龍之介は水泳が非常に得意であった。彼は正(まさ)しく河童であったのである。
「佐陀川(さだがわ)」宍道湖の北東部と日本海沿岸の恵曇(えとも:ここ(グーグル・マップ・データ))を結ぶ人工河川。全長約八・三キロメートル、川幅約三十六メートル。天明五(一七八五)年、松江藩普請奉行清原太兵衛の建議により、藩主松平治郷(はるさと)が施工、難工事の末。二年後に完成した。城下町松江を水害から守ることと(宍道湖の増水調整)、宍道湖沿岸の諸港と恵曇間の舟運を実現することを目的とし、沿岸に新田も造成された。現在、一級河川に指定されているが、舟運と排水能力はない(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」に拠る)。底本後注には『昭和初期まで小型蒸気船が往来していた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「水澄(みずみ)さん」「泰(ゆう)ちゃん」不詳。井川の郷里の年長の友人や歳下の幼馴染みか。
「十丁」約一キロ九十一メートル。
「足下」「あしもと」と訓じていよう。
「太郎さん」不詳。やはり井川の年長の友人か。「かろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した」とあるところからは親族とは私には思えない。だとしても、それほど縁の近いそれではあるまい。
「古浦」現在の島根県松江市鹿島町古浦。以下に示す古浦海水浴場は、ここ(グーグル・マップ・データ)。底本後注には田山花袋の「新撰名勝地誌」(明治四五(一九一二)年博文館刊。花袋はこの手の旅行案内書風のものをかなり多量に手掛けている。但し、東京や近郊の鎌倉などのものはいいとしても(それらは所持していて読んだ)、大部の本シリーズ(全国)などを管見するに、これはもう、梗概部をちょっと監修しただけで、主要な細目部分は総て、現地の識者に丸投げしている疑いが濃厚である)の「山陰道之部」の一部が引かれてあるが、ここではその引用部分を、国立国会図書館デジタルコレクションの当該原書の当該箇所の画像を視認して、電子化し示す。頭の太字は原文では傍点「●」。原典画像を見て戴ければ判るが、ルビには複数箇所に不審があり、敢えて示さなかった箇所がある。
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惠曇海水浴場 朝日山(あさひざん)を背面に下れば、古浦(こうら)に至るべし。惠曇(ゑぐも)灣深く陸地に侵入して古浦江角の漁村灣頭に連り、佐陀川(さだがは)、その中央に注ぎ、西端を古浦海水浴場、東隅を江角海水浴場とす。白砂靑松の好避暑地なり。而も、地は松江を距(さ)ること二里半、佐陀川より和船の便(びん)あり。またこの地に島根縣水産試驗場を置く。[やぶちゃん注:以下、原典では「出雲風土記」原文を引くが、略す。]
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「二丁」二百十八メートル。
「岸破(がば)」オノマトペイアに、洒落た漢字を当て字している。
「衝ち合う」「うちあう」と当て訓しているか。
「渦(あわ)」ママ。誤字ではなく、当て訓ととっておく。雰囲気は判る。後の「ぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には」も「あわ」と読むことになる。これも雰囲気は判るし、意味としては自然である。
「臍(ほぞ)寒い」聴かない成句であるが、「臍を嚙む」を捩じって「心底」「ひどく」の意か。或いは「ほぞ」には江戸時代より、男根の隠語として用いられるから、金玉がきゅっと縮むほどに寒いの意とも採れる気が私はした。
「一間」一・八メートル。
「比壽(たぐい)」「壽」はママ(「寿」ではなく、正字で示されてある)。しかし、こんな熟語もこんな当て訓も私は知らない。小学館の「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。
「フレシュネッス」freshness。新しさ・新鮮味・清々しさ・生き生きした感覚。
「八月十日」松江着から五日後。芥川龍之介の松江滞在は正味十六日間に及んだ。]
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