老媼茶話拾遺 由井正雪 (その3)
正雪は七月廿二日、
「駿河の久能の御城を乘取(とつとら)ん。」
とて、宗徒(むねと)の者ども、大勢、先達(さきだつ)て登(のぼ)し、其身はかごに乘(のり)、わづか供人(ともびと)二十人斗(ばかり)召連(めしつれ)、東空[やぶちゃん注:ママ。「東雲」(しののめ)の誤字か。]に東武を立(たち)、駿河へ下(くだる)とて、神奈川の宿外(しゆくはず)レにて鵜野九郎兵衞を招(まねき)、
「忠彌は武勇の者なれども、其氣質、物に忍(しのび)ず、短慮未練にして、大功、とげ難し。汝、東武に忠彌を密(ひそか)に差殺(さしころ)し、後難を除(のぞく)べし。はやはや、急げ。」
と申付(まうしつく)。
九郎兵衞、聞(きき)て、
「忠彌は四天八勇の隨一にて候。かの忠彌を、今、故(ゆゑ)なく殺(ころし)候ては味方、甚(はなはだ)疑(うたがひ)を生じ、返忠(かへりちう)のものも候わん。其上、武州にて、又、誰(たれ)か大將の人と成(なる)。此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて、先(まづ)、駿河へ御登(おのぼり)候て、今度の大望(だいまう)をとげ候へ。」
と、熊谷三郎兵衞・九郎兵衞、とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、
「是は紀伊大納言殿の家來由井正雪と申(まうす)者にて候が、長病(ちやうびやう)にて紀州へ罷登(かまりのぼ)り候。乘打(のりうち)御免あるべし。」
といひければ、「苦(くるし)からず。御通り候へ。」
とて相違なくかごを通ける。
夫より、正雪は駿河の府中の旅籠町梅屋庄右衞門といふものの方へ落着(おちつき)ける。
[やぶちゃん注:「鵜野九郎兵衞」正雪門人の中でも高弟で大将格。鵜野九郎衞門。
「物に忍(しのび)ず」冷静に期を見ることが出来ず、やたらに血気に逸り、肝心なる忍耐が出来ない。
「四天八勇」仏法を守護する四天王・(天龍)八部衆に掛けた勇猛なメンバーの名数。
「返忠(かへりちう)」裏切ること。
「此度(このたび)の大事を發(おこす)べき者なくはとて」この度(たび)の世を覆す大事を成すを支えるに相応しき者は、かの丸橋忠也弥をおいては、他に御座らぬと存ずればとて。「は」は「取り立て」(強意)の係助詞と採り、濁音化しない。
「熊谷三郎兵衞」浪人。由比正雪の乱に参加し、加藤市右衛門とともに、京都二条城奪取計画を担当したが、乱の未然露見によって逃亡、同慶安四年七月二十九日、江戸で自殺した(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「九郎兵衞」彼の弟か。
とりどり、強(つよく)是を諫(いさめ)ける間、正雪、ぜひなく、夫(それ)よりかごをいそぎ、箱根御關所に至り、かごを椽の方へよせて、乘物の戸を開き、
「乘打御免」病者であるから、駕籠から降りずに、乗ったままで関所を打ち越す(通過する)ことを許す(許してもらう)こと。
「梅屋庄右衞門」この宿「梅屋」は実に徳川頼宣の定宿であった。]
爰に正雪が徒黨隨一奧村八郎右衞門と云(いふ)もの有(あり)けるが、親(したし)き友に十時醉龍子(とときすいりやうし)といふ隱居あり。此者、八郎右衞門方へ來(きたり)、語(かたり)けるは、
「我、先夜【七月九日なり】、天文をみるに、一星(いつせい)、月の正東(しやうとう)に出(いで)て月中(げつちう)を直通(ぢきつう)にし、寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日戌の刻、斯(かか)る天變有けるが、肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り、其上、賊星(ぞくせい)、盛(さかん)にして、直(すぐ)に主星を犯す。不思義成(なる)事也。」[やぶちゃん注:【七月九日なり】は二行割注。]
と語(かたる)。
奧村、密(ひそか)に正雪が事を語りければ、醉龍子、大(おほき)に驚き、奧村を禁(いましめ)て曰、
「今は天下泰平にして、萬民、堯舜(げうしゆん)の世に逢(あひ)て鎖(とざさ)ぬ御代(みよ)を樂(たのしみ)、百歳彌勒の代に及ぶ共(とも)、何者か天下を亂すべき。然るに況(いはんや)、正雪・忠彌が分ざいにて、かゝる大望、企(くはだて)候事、蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)に似たり。其上、當陽成院御在位也。公家に西八條殿おはしまし、武家には幼君御堅めとして井伊・保科(ほしな)の名將を始(はじめ)、御家は重代の御大名、雲の如く霞の如(ごとし)。昔の楠、再び生出(いきいで)るとも、容易には叶(かなふ)まじ。訴人に出(いで)て後(のち)の大難を遁れ玉へ。疾々(とくとく)。」
と進(すすめ)ければ、奧村、忽ち心を變じ、松平伊豆守殿へ訴人に出(いで)けるこそ、忠彌・正雪が謀叛は顯われける[やぶちゃん注:「わ」はママ。]。
[やぶちゃん注:「奧村八郎右衞門」一般には訴人は奥村八左衛門と、その従弟奥村七郎右衛門とされる。但し、鏡川伊一郎氏のブログ「小説の孵化場」の「慶安事件と丸橋忠弥 5」その他のネット記載を見るに、この二人は実は幕府の間者であったと考えられ(八左衛門の兄奥村権之丞は当時の老中首座松平伊豆守信綱(後注参照)の家来であったからである)、のちに彼らは三百石を得て御家人となっており、鏡川氏によれば、彼らの兄奥村権之丞もこの慶安の乱未遂直後に百石加増されて千石の知行取りとなり、しかも公儀からは別に金十枚と『着物二かさねを貰っている。弟たちの密偵の成功報酬であったと思われる』と述べておられる。また、奥村八左衛門・七郎右衛門だけでなく、別に林理左衛門なる訴人もおり(同じく松平伊豆へ知人を通じて訴え出ている)、彼も実に五百石を貰っている、とある。「絵本慶安太平記」などでは丸橋が奥村に借金を願い出て、早急に融通してもらうために計画を打ち明けてしまってその謀略の内容に驚いた奥村が訴え出たと書かれているいるが、堪え性がないとは言え、丸橋の低劣軽率なる粗相とするそれは鏡川氏同様、受け入れられない。なお、変わった形での本件の公儀側への情報露見が、根岸鎭衞の「耳囊 卷之七 備前家へ出入挑燈屋の事」、及び、松浦静山の「甲子夜話卷之一 28 松平新太郎どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事」(孰れも私の電子化注。前者は訳もつけてある)に出る。短い上に面白いので、参照されたい。
「十時醉龍子」不詳。この星占の老人を出す辺り、如何にも持って回った芝居染みた「ありがち」な展開で、却って作りものっぽい。
「七月九日」慶安四年のそれは、グレゴリオ暦で一六五一年八月二十四日。
「寛文十四年丁丑(ひのとうし)二月八日」「寛文十四年」は存在しない。寛文は寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日)
延宝に改元している。後の天草の乱勃発から、これは「寛永十四年丁丑」(一六四七年)の誤りであることが判る。こういう誤り自体が、このシークエンスの作話性を物語っている。因みに、以上の誤りなので注する必要もないが、延宝二年は甲寅(きのえとら)である。寛永十四年の二月八日はグレゴリオ暦で一六四七年三月四日。
「戌の刻」午後八時前後。
「肥前の天草嶋原の耶蘇(やそ)の亂、起り」天草の乱は寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発し、翌寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)に終っている。しかし、十ヶ月弱も後(同年は閏三月がある)の乱の予兆というのは、これ、今の感覚では、如何にも間が抜けているように私には思われる。
「賊星(ぞくせい)」彗星。流星。
「主星」陰陽五行説で、その日の干支の干と、他の五行の気との関係に於ける相生相剋の変化を星に置き換えた時に措定される十大主星の孰れかを指す。
「百歳」永い年月の意。
「彌勒の代」弥勒菩薩は釈迦入滅から五十六億七千万年後に地上に如来となって来臨し、衆生を救うとされる。
「分ざい」分際。
「蟷螂(たうらう)車轍(しやてつ)にふれ、蚊蜂(ぶんぱう)鐵牛の角を喰(くふ)」孰れも「力のない者が自分の実力も顧みず、天下をとろうとしたり、強い者に立ち向かう無意味な行為を指す譬え。前者は、虫のカマカリが前足を振り上げて車の輪に向かおうとすることで、「蟷螂が斧を以って隆車に向かう」「蟷螂車轍に当たる」などとも言う。前漢の韓嬰(かんえい)「韓詩外伝」に基づく故事成句。後者は、蚊(か)や蜂(はち)が鉄製の牛の像(或いは本物の屈強な猛牛の角でもよい)の、その角を刺して血を吸おうとすること。
「陽成院」不審。当代の天皇は後光明天皇(ごこうみょう 寛永一〇(一六三三)年~承応三(一六五四)年:反幕府的であったともされる)である(追号も後光明院)。彼の祖父で三代前の後陽成天皇(後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年:追号・後陽成院)とごっちゃにしてしまったものか。この辺りも、あってはならない誤りで、やはりこのシークエンスの作話性の証左とは言えまいか?
「西八條殿」不詳。識者の御教授を乞う。
「井伊」井伊家。当代の井伊家では、家督を譲ったものの、存命であった井伊直勝(天正一八(一五九〇)年~寛文二(一六六二)年:上野安中藩初代藩主で直勝系井伊氏初代)がいる。徳川四天王の一人井伊直政の長男で家康の信望も厚かった。
「保科」保科正之(慶長一六(一六一一)年~寛文一二(一六七三)年)会津松平家初代。信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫で第三代将軍徳川家光の異母弟。家光と第四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなし、日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。
「松平伊豆守」松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。]
去程に、江戸中、騷動し、御老中御寄合ましまし、忠彌が討手には石谷(いしがや)將監殿、向(むかは)れける。
此折(このをり)、忠彌、女房に向(むかひ)、申けるは、
「家は近き内、百萬石取(どり)の大名と成(なる)ならば、汝、御臺所と仰(あふ)がせ、大勢、侍女を召仕(めしつかひ)、榮華の春を迎(むかへ)、今の貧苦を忘るべし。賢者の戒に糟糠の妻は堂をくたさず、貧賤の朋(とも)をば捨(すつ)べからず、と云(いへ)り。汝、貧にして朝暮のくらしに侘(わび)ながら、老母に孝有(あり)て、我によく仕(つか)り。報恩の酬(むくふ)べき折、來(きたる)也。」
と、心よげに語(かたり)ければ、女房、泣(なき)て曰、
「貧は先(さきの)世の宿報也。然るに、御身、及(および)なき天下を望(のぞみ)、今にも此事顯(あらはれ)なば、御身は心からなれば、いか成(なる)荒き刑罪にあひ、釜に煎られ、牛裂(うしざき)に逢(あひ)給ふとも、是非もなき次第也。七十に餘(あまる)母人(ははびと)、常々まづしき渡世なれば、心に任せ給ふ御事もなくて、子故(ゆゑ)にうきめを見玉はん事、餘りにいたわしく候。急(いそぎ)て此惡事を思ひ留(とどま)り、訴人に出(いで)玉はゞ、天下に對しては大忠臣、母御(ははご)へは孝行の第一に候。今夜の内に心を飜し、善人となり給へ。」
とさまざまに勸めければ、忠彌、笑(わらひ)て、
「大丈夫といふ者は、生(いき)て公侯に封(ふうぜ)られずんば、死して五體を煎らるゝ共(とも)、悔(くい)なかるべし。」
と云(いひ)ける。
其詞(ことば)の未終(いまだをはらざる)に、捕手(とりて)の足輕、忠彌が家をおつ取卷(とりまき)、大竹を手々(てんで)にひらき、
「火事よ、火事よ。」
と呼(よばは)る。
忠彌、竹の割るゝ音を聞(きき)て、帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)、障子、押明(おしあけ)、緣先へいでけるを、石谷殿の組の同心、間込彌右衞門、一番に走懸(はしりかけ)、
「無手(むず)。」
と組(くむ)。
忠彌、
「はつ。」と思ひしが、
「忠彌に組(くむ)は氣健(けなげ)也。」
と、彌右衞門が元首(もとくび)をつかみ、押付けるを、彌右衞門、忠彌を懷(いだき)、緣より下へ落(おち)けるを、二番三番の捕手ども、すかさず大勢折重り、忠彌をからめ引居(ひきすゑ)ける。
足輕ども、大勢、家の内へ込入(こみいり)ければ、忠彌が女房、申樣(まうすやう)、
「此家の内には只(ただ)自(みづから)と老母斗(ばかり)にて、靜(しづか)に御入候へ。」
とて、連判狀の有(あり)けるを、爐に入(いれ)、燒捨(やきすて)、髮を撫付(なでつけ)、我(われ)と後へ手を𢌞し、顏色も變せず、靜に繩をかけられける。斯(かく)て、母をも禁(いまし)め、三人、獄屋へ引(ひき)たりける。
[やぶちゃん注:丸橋忠弥の妻の健気さが如何にも哀れである。
「石谷(いしがや)將監」石谷貞清(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)は旗本。本事件の一ヶ月前の慶安四年六月十八日(一六五一年八月四日)に江戸北町奉行に就任していた。但し、彼が従五位下左近将監に叙任されたのは同年八月十六日である。しかし、別に後代に書かれたものであるから、これは何ら、問題はない。
「堂をくたさず」底本では「堂」を「黨」(党)の誤字(右に補正注がある)とするが、意味は「堂(家・家門を腐(くた)さず」で通るように私には思われるので、字はそのままとした。
「うきめ」「憂き目」。
「いたわしく」ママ。
「大竹を手々(てんで)にひらき」逃走を防ぐためのバリケードではなく、後に見るように、竹を折り割って、火災の際、家屋が焼けて爆ぜる音を出すためのものであろう。
「帶を引摺(ひきずり)乍(ながら)」妻と就寝しようとしたところであったか。
「間込彌右衞門」不詳。「まごめやゑもん」と読んでおく。
「無手(むず)」オノマトペイアに漢字を当てたもの。上手い当て字だ。
「元首(もとくび)」頸根っこ。
「からめ」「搦め」。]
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