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2018/01/16

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――

 

    十三

 

 毎日々々空が群青(ぐんじょう)色に深く晴れて雨を降らす法をまったく忘れて仕舞ったように憎らしい程澄み切った天が涯無く頭のうえに拡がっている七月の末ごろであった。東京から友人の龍之介君が手紙をよこした。

「……事故の起らない限り八月一日二日位に東京をたとうと思う。八月上旬は僕が毎年東京を出る時になっているのである」と書いて、その後に歌を七つ八つ添えてあった。

 その歌のなかに「こちごちのこゞしき山ゆ雲出でて驟雨(はやち)するとき出雲に入らむ」というのがあった。

 湖水で泳いでいると海の潮水と一緒に入って来た海月がふわりふわり泛んで居り、家の裏のお濠の水まで潮が来て朝起きて見ると鮒が四つも五つも腹を出して死にかゝつているってな案配で、「一と雨さあっと降って来たらどんなにか爽快だろう!」と空を仰いでは渇望していたころであったから、「ほんとうに龍之介君が来る日には雨をふらせてすゞしい目に遭わせてやり度いな」と思いながらその手紙をもとの如く巻いて封筒におさめた。

 やがて八月に成った。二日午後に東京を出た端書には「明三日午後三時五分東京駅発……五日午前九時八分城崎発、午后四時十九分松江着」と旅程が記してあった。

 四日の朝僕は郵便局へ行って、其日のあさ京都を出た列車に乗っている筈の友人に宛て、「アスレイジ四七フンハツニセヨヘンマツ」と云う電報を打った。夕方には城崎に下りた彼から折返し返電があって承知した旨を知らして来た。

 わざわざそんな面倒な手続を踏んで夕方に松江に着く都合にさせたのには一とかどの理由があった。第一には、すべて人は最初の印象(ファースト イムプレッション)に支配される力が強い。僕は自分の生まれた土地として此松江に対して或る程度の愛着の念を有(も)っている。だからこの未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった。

 次にはすゞしい夕ぐれに湖を西へ西へと彼を載せた舟を棹さしながらこの春品川で別れて以来溜っているたく山の聞き度いこと、話したいことを聞きもし話しもし度いと思っていた――その事自身の中にロマンチックな或るものが含まれているような気がして、ぜひ夕方でなくちゃあと云う考えを更につよくした。

 四日の晩(く)れ方にうつくしい虹が城山の杜のうえにかゝつた。

 五日の朝起きて見ると天気はがらり変って、滅茶々々の暴風雨(おおしけ)に成っていた。草木は一夜のうちに溌溂(はつらつ)とした緑りのいろを蘇らせ、お濠の水は雨の足に叩かれて爽かに鳴っていた。

 一と月近くも待ちに待った雨は斯うして勢い猛く襲って来た。久し振りに気がせいせいしたけれど、天気の奴に見事に裏切りされた様な気がしてばかに腹立たしかった。

 風も雨も終日(いちにち)しぶき続けた。

 友も舟に迎えてゆうぐれの湖を漕いで行くと云う計画は、それに伴わせてこゝろの中にゆめみていたROMANTIC NUANCEと共に痕跡(あとかた)も無く現実の面(おもて)から消え失せた。

 その夕かた、会ったら先ず「君の歌があまり利きすぎたようだぜ」と言ってやろうかなど心の内に考えながら独り雨のなかを停車場をさして友を迎えに出た。

 附言――この次には彼の松江印象記を紹介し度いと思う。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べたが、芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊した。井川恭が来訪を切に慫慂した大きな理由の一つは、芥川龍之介の吉田弥生への失恋の大きな傷手を癒さんがためでもあった。

 少し長くなるが、ここで改めて、吉田弥生との破恋について述べておく必要があろう。芥川龍之介を愛好する者にとっては彼女の名とその失恋事件は自明のことであろうが、それを語らないのは不特定多数の私の読者への注としては、如何にも不公平であるからである。

 吉田弥生は芥川龍之介の本格的な初恋の相手で、同年の幼馴染み(実家新原(にいはら)家の近所)であった。彼女の父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた。当時、東京帝国大学英吉利文学科一年であった芥川龍之介(満二十二歳)は、大正三(一九一四)年七月二十日頃から八月二十三日まで、友人らとともに千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら、海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度、この頃、縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対し、龍之介は二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家一族の猛反対に遇い、翌年二月頃に破局を迎えることとなる。反対の核心は、吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系であった)、弥生が同年齢であったこと等が、その主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があったことが大きい)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正四(一九一五)年四月二十日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。その四月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をした、ともある。鷺只雄氏は一九九二年河出書房新社刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。この失恋は芥川龍之介生涯のトラウマとなった事件であり、まさに龍之介の諸作品の核心のテーマであるエゴイズムの淵源であり、後年の龍之介の女性遍歴(不倫)の根っこも、私は、この忘れ難い失恋体験の消去不能な記憶と、それに纏わるところの親族を中核とした癒し難い強烈な人間不信にあると分析している。因みに、正に、この弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、その避暑から帰った直後の大正三(一九一四)年九月一日発行の『新思潮』に発表した「青年と死と」である(リンク先は私の古い電子テクスト。この吉田弥生についての解説もそこで私が注したものを下敷きとした)。

 さて次に、非常に長くなるが(芥川龍之介の井川宛書簡の一通当たりの分量が特異的に多いため)、以下、松江へと旅立つまでの、現存する井川宛書簡を電子化することで、ここの注に代えたいと思う。因みに、短歌の頭の「こちごちのこゞしき」とは「そこここの、ごつごつと重なり合って嶮(けわ)しい」という意である。また、「ROMANTIC NUANCE」の文字は縦書である。

 電子化する書簡は、岩波版旧全集書簡番号で一六五・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上、総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までとする。底本は無論、岩波版旧全集を使用した。頭に岩波版旧全集書簡番号を振った。踊り字「〱」は正字化した。一部、あまりに読み難いと判断して私が字空けを施した箇所がある。先え進めなくなるので、語注は一切なしとした。

   *   *   *

一六五

(六月二十九日(推定)・田端発信)

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど 試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻室  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

毎日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が横濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの[やぶちゃん注:この「の」には底本では右手にママ表記有り。]一しよに持つて行つてしまつた 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャップをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 学校へ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして 豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に封しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解繹して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣りの段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつほとぼつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉強しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉強する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな來がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカツッエンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフォーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに Novel weak としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千寓な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに組合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給へワアグネルだ」つて教へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山官學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に[やぶちゃん注:底本は「に」の右にママ注記する。]捧げて東京をしのぶよすがとする

      一

   うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも[やぶちゃん注:底本は歌の末尾にママ注記。]

      二

   あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

   庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

      三

   藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

      四

   うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

   流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

      五

   思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

   これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

   *

一六六

(七月十一日・田端発信)

手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい

今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごprosaic な用があるのだから困る

三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ

藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄[やぶちゃん注:底本、右にママ注記。]へ上つた

成瀬はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の温泉へ思索にゆくさうだ

 

但馬の何とか温泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹緲としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと樂な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい一體江戸つ子と云ふものは 旅なれないものだからね

出まかせに詩をかく[やぶちゃん注:次の冒頭の一行、底本は「ゝ」の右にママ注記をする。第二連の文句から下に「に」が脱落していると考えてよい。]

      Ⅰ

   こゝあはれはドンホアン

   紅いマントをひきかけて

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   市のおと女は窓のかげ

   戸のうしろからそつとみて

   こはやこはやとさゞめけど

   一どみそめた面ざしは

   終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭

   なりひゞくまでわすられぬ――

   こひとおそれの摩訶不思儀[やぶちゃん注:「儀」はママ。]

 

   ドミニカ法師の云ふことにや

   羊の趾爪(けづめ)犬の牙

   地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が

   紅いマントの下にゐて

   市のおと女を一人づゝ

   こひの難機(はぢき)につりよせる――

   こゝにあはれはドンホアン

   心もほそく身もほそく

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   こひとおそれの摩訶不風儀――

 

      Ⅱ

   月輪は七つ

   日輪は十一

   その光にてらされて

   のそのそとあるいてく

   きりん 白象 一角獸(ウニコール)

   地にさくのは百合と牡丹

   空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア

   山は 靑い三角形をならべ

   その下に弓なりの海

   海には 金の雲が下りて

   その中にあそぶ赤龍白龍

   岸には 綠靑の栴檀木

   その下にねころぶパン人魚セントオル

   月輪は七つ

   日輪は十一

   荒唐の國のまひるを

   のそのそとあるいてく

   東洋は日本の靑年

 

      Ⅲ

   われは今桃花心木の倚子の上に

   不可思儀の卷煙艸をくゆらす

   その匂と味とは ものうき我をかりて

   あるひは 屋根うらのランプの下に

   あるひは ノオトルダアムの石像の上に

   あるひは 若葉せるプラターヌの

   ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)

   あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と

   そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)

   あるひは へロヂアスの娘の饗宴に

   あるひはジアンダルクの火刑に

   ほしいまゝなる步みをはこばしむ

   不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは

   わがオノーレ ド バルザックの語なり

 

  井川君

   *

一六八

(七月二十一日・消印七月二十六日・書簡内クレジット/七月二十一日・田端発信)

出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出至るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚ほかかなければならない 考へてもいやになる

出雲は涼しいかね 東京の暑さは非常なものだ 大抵九十度以上になる裸でじつと橫になつてゐても汗がだらだらでる だから弱つた事も一通りではない これで二十何時間も汽車へのつてゐたら茹りはしないかなどゝ思ふ 兎に角出雲へゆく迄の間が大分暑さうだが今をはづすと一寸行く行く機會もないだらうと思ふから事故の起らない限り八月一日か二日位に東京をたたうと思ふ 八月上旬は僕が每年東京を出る時になつてゐるのである

實はしばらく手紙なかつたので或は都合が惡くなつたのかと思つて中途半ばな心配も少しした、

何にしてもかう暑くつてはやり切れないから用のすみ次第出たいと思ふ その爲に呉々も出雲の湖水の上のすゞしからむ事を祈る

   八雲たつ出雲の國ゆ雲いでて天ぎらふらむ西の曇れる

   はろかなる出雲の國ゆ天津風ふきおこすらむ領巾(ひれ)なす白雲

   そのむかし出雲乙女あ紅の領巾(ひれ)ふりふりて人や招(ま)ぎけむ

   紅の領巾ふる子さへ見えずなりて今あが船は韓國に入る

   いづちゆく天の日矛ぞ日の下に目路のかぎりを海たゝへけり

   こちごちのこゞしき山ゆ雲いでて驟雨するとき出雲に入らむ

   その上の因幡の國の白兎いまも住むらむ氣多の砂山

    七月廿一日

   井川君 案下

   *

一六九

(消印七月二十九日・自筆絵葉書)

 

Akutaigawaehagaki

 

差支へさへなければ三日に東京をたつ

五日には松江へゆけるだらう

よろしく御ねがひ申します

   *

一七〇

(八月二日・田端発信・葉書)

明三日午後三時廿分東京驛發

四日午前五時廿七分京都驛着

〃 〃 七時廿分  〃 發

〃 午前十一時卅九分城崎着(一泊)

五日午前九時八分  〃 發

〃 午後四時十九分松江着

大體右の如き豫定にてゆくべく候 匆々

   *

一七一

(八月六日 松江より・芥川道章宛・絵葉書)

松江へ安着いたしましたから御安心下さいまし

汽車の中では天氣が惡かつたおかげで少しも暑い思をしずにすみました

松江は川の多い靜な町で所々に昔の土塀がそのまゝのこつてゐます 雨の中を井川君と車で通つた時にその土塀の上に向日葵の黃色い花のさいてゐるのが見えました

井川君の家は御濠の前で外へ出ると御天主が頭の上に見えます

   *   *   *

「その後に歌を七つ八つ添えてあった」前に示した「書簡一六八」であるが、実際にはご覧の通り、短歌は全部で七首である。

「この未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった」底本の後注に、先行する『井川恭「松江美論」』(『松陽新報』(大正二(一九一三)年八月発行)に掲載)『には、次の一節がある』として引用がある。そのまま引く。

   《引用開始》

若し旅人が、日暮れて停車場につき、和多見裏から小舟をやとって、大橋の橋影黒く水に砕け、ほそ眉の月の光り銀砂をこぼす頃、大橋川を横ぎって東の水門を潜り、両岸の灯水に落ちては、夜の静けさに泣き暮れる京橋川をさかのぼって、一夜の宿を求め、

   《引用終了》

ここにはまさに当時の井川の内的なロマンティシズムが横溢しており、それを傷心の親友に見せたかった優しさが痛いほど伝わってくるではないか。

「この春品川で別れて以来」底本の後注には、『大正三年四月上旬、失恋の痛手を受けて「僕はどうすればいゝのかわからない」と言い送ってきた芥川を慰めるために上京している』(正確には「いゝのだか」。後の電子化した書簡を参照)とあるのだが、この大正三年というのはまさにこの松江訪問の前、大正四(一九一五)年四月の誤りである。最新の新全集の宮坂覺年譜には何故か記されていないが、先に示した鷺只雄年譜には、大正四年四月の条に『上旬の春休み中』、『恒藤』(井川)『恭が芥川家に滞在する』と明記されているからであり(太字下線はやぶちゃん)、ここで記されている井川宛書簡も旧全集書簡番号一五二で、それは大正四年三月九日発信のものだからである。この書簡は非常に重要なものであるから、やはり、ここで電子化しておく。田端発信で「直披」(親展)の書簡である。

   *

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたることは出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出來ない イゴイズムの愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ

僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

君はおちついて画[やぶちゃん注:ママ。「畫」ではない。]をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を淺墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

毎日不愉快な事が必起る 人と喧嘩しさうでいけない 當分は誰ともうつかり話せない そのくせさびしくつて仕方がない 馬鹿馬鹿しい程センチメンタルになる事もある どこかへ旅行でもしやうかと思ふ 何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

    三月九日            龍

   井川君

   *

こんな手紙を親友から貰ったなら、私のような男でも何としても何かしてやりたくなる。

 

「松江印象記」現在、全集類で芥川龍之介の「翡翠記」の龍之介の記載部分だけを抜いて一つに纏めたそれの標題として用いられているそれは、実はここで初めて井川が記したものであり、それはあくまでも井川が説明するために使用した、一般名詞としての松江来訪の印象記、の謂いなのである。なお、底本の後注には『因みに、ピエール・ロチの『日本印象記』は、前年大正三年十二月の刊行である』という附言がある。確かに、井川はそれを意識した可能性はあるかも知れぬ。]

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