明恵上人夢記 57
57
一、夢に云はく、神主、使者を遣はして云はく、「何(いか)にしてか只(ただ)御分別無き。此へ來(きた)らしめ給ふ事候べし哉(かな)。卽ち、早々に來るべき由を念願(おもひねが)ふ也と思ふ。」と云々。卽ち、賀茂之山寺へ入るべき由也と云々。神主は卽ち大明神也と云々。
[やぶちゃん注:クレジットがないが、見た目は、前の「56」が建保七(一二一九)年(推定)「二月十九日」とあり、次の「58」が「同二月廿七日」と始まっていることから、同年二月二十日から二十六日の孰れかの夢記述とまずは採ってよかろう。「云々」は今までの夢記述に徴すると、夢を以下の部分を忘れてしまったことを指し、また、一夜の夢で複数見た場合にもこれを以って前の夢と区別する意味を持つ場合もあるが、ここは明らかに連関したもので、前者と考えてよい。
「神主」底本編者注に、『賀茂能久。賀茂別雷神社』(かもわけいかづちじんじゃ。京都の上賀茂神社(これは通称)のこと)『の神主。嘉応元年(一一六九)の誕生。建保二年(一二一四)九月九日に神主に補された。承久の乱後鎮西に流され、貞応二年(一二二三)六月十日没。五十五歳』とある。講談社の「日本人名大辞典」によれば、彼は後鳥羽上皇の近臣であり、承久の乱では幕府軍と実戦でも戦っていた。このため、六波羅に捕らえられて太宰府に流罪となったのであった。この時、四百年続いた同神社の斎院も廃絶している。ふと思ったのだが、或いはこの事実とこの夢は関係しているのではないか? 神に奉仕すべき神聖な処女が永遠に失われた今、明恵以外に新たな神への真の潔斎した奉仕者はいないと言っているのではあるまいか?
「賀茂之山寺」現存しない賀茂別雷神社に付随した別当寺であろう。「山寺」とあるから、同神社の後背地か。さすれば、これはまさに「51」に出た「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、底本注で『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』というそれではあるまいか?
「大明神」これは本地垂迹説に基づくものである。賀茂別雷神社の祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であるが、この神名は記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命」によれば、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』とある。先の「56」では明恵は自身の強力な鎌倉新仏教のシンボルたる法然(浄土宗)への論難書「摧邪輪」(ざいじゃりん:邪輪(よこしまなる法説)を打ち摧(くだ)く)が重要なアイテムとして出てきている。まさに今、強力は正しい仏法の力を以って、正邪を果敢に裂き分けるべき力を持っているのは「摧邪輪」を書名とした明恵以外にはないことを、仏が垂迹して賀茂別雷命の明神として夢に現れて示現したのだ、と明恵は解釈しているのではるまいか?]
□やぶちゃん現代語訳
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こんな夢を見た。
賀茂別雷神社の神主賀茂能久殿が使者を遣わしておっしゃることには、
「どうして! そのように、ただもう! 勘所の御決心をお下しになられる御覚悟がおありで無いのか! ここへ御来臨なられて「在る」ことがなんとして「在る」べきことなんで御座いますのに! そうなのですよ! いち早く、何より早々に! ここへこそ御来臨あるべきことをこそ心の底から切に思い、願(ねご)うておるということを祈念致いておるで御座る!」
と……。則ち、彼は、
「直ちに! 賀茂の山寺へあなたは入らねばならない使命がある!」
と……。
……おや? おお! かの神主は、人、ではない! 賀茂能久殿その人ではないぞ! まさしく! 即ち「大明神」そのものなのであった! と……。
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