芥川龍之介 手帳7 (18) 陳宝陦邸で見た驚くべき書画群
○徽宗臨古張僧※ 毛延壽 荆浩 顧愷 王維 曹弗 二王 此卷始于崇寧四年八月至大觀元年十一月共得一十七景宣和殿御筆(緣に龍の模樣あり 肉筆)
[やぶちゃん注:「※1」={(へん)「淫」-「氵」}+{(つくり)「缶」}。但し、これは「繇」の字の誤記か、岩波旧全集編者の誤判読。これは張僧繇で、先に出た初唐の画家閻立本がその画風を学んだとする、梁の張僧繇(ちょうそうよう)なる画家のことである。南朝梁の画家で呉県(江蘇省蘇州)の人。顧愷之(こがいし)・陸探微と並ぶ大家で諸大寺の壁画に腕を揮った。画法は西域から伝来した超絶技巧の立体画法を用いたという。
「徽宗」(きそう 一〇八二年~一一三五年)北宋の第八代皇帝。書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人とされるが、政治的には無能で、人民は悪政に苦しんだ。「臨古」は画題らしい(次条の私の注及びそのリンク先を参照)。
「毛延壽」前漢時代の画家。人物画を良くし、第十代皇帝元帝は女色を好んだが、後宮の女官を引見することが出来ないことから、画工らに彼女たちの像を描かせ、それによって召すべき女を選んだという。そこで女官たちは画工に賄賂を送って、ことさらに美しく描いて貰った。毛延寿もその時の画家の一人であったが、かの美人として知られた王昭君はをそれを毛に贈らなかったため、美しく描かれず、その結果として、彼女は匈奴の王呼韓邪単于(こかんやぜんう)に貢物の女として送られてしまった。元帝は送るに際して王昭君の備忘を見て驚愕し、不審を抱いて調べさせたところ、画工らの不正が暴露され、毛も捕えられて重刑に処せられた、といったことが、金井紫雲「東洋畫題綜覽」(昭和一六(一九四一)年~昭和一八年刊)に記されてある。
「荆浩」(けいこう 生没年不詳)は唐末から五代後梁の山水画家。中原の混乱を避け、太行山中の行谷(河南省林州)に隠れ住んだといわれる。華北山水画隆盛の基礎を作り上げた人物とされている。
「顧愷」顧愷之(こ がいし 三四四年?~四〇五年?)は東晋の画家。無錫(現在の江蘇省)の出身。桓温及び殷仲堪の参軍となり、安帝の時代に散騎常侍となる。「画聖」とよばれ、謝安からは「史上最高の画家」と評された。
「王維」言わずと知れた盛唐の高級官僚で「詩仏」と呼ばれた詩人であるが、画家・書家・音楽家としても勝れていた。
「曹弗」(生没年未詳:曹不興とも。三国時代の呉の伝説的な名画家。Chincho氏のブログ「雲子春秋」の「曹不興の龍」を参照されたい。
「二王」東晋の書家として有名な王羲之(おうぎし)とその子の王献之の二人を指す語。
「崇寧四年」一一〇五年。北宋の徽宗の治世。
「大觀元年」一一〇七年。崇寧の後。
「宣和殿」北宋代に皇宮にあった収蔵建物(三棟)。
なお、次の条の私の注も必ず参照されたい。]
○郎世寧百駿圖 雍正六年歳次戊申仲春臣郎世寧恭畫
[やぶちゃん注:「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によって、この前二項目に記された書画を芥川は北京西単霊境胡同にあった陳宝陦の家で見ていることが分かった。秦剛氏によれば、陳宝陦は淸朝の遺臣で『溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をすっかり瞠目させた』とあり、そこで芥川が観た作品として『宋徽宗「臨古図」』『郎世寧「百駿図」』を挙げている。秦剛氏はそこで『陳宝陦宅で芥川が鑑賞した書画はやがて散逸し、その多くが所在不明となっている。北京城内の胡同にある一軒の居宅で、これほど多くの名品を一斉に眼にすることは、もはや不可能である。その意味では、芥川龍之介は相当恵まれた旅行者だったとも言える』と添えておられる。更に、どうも芥川の陳宝陦宅訪問は二度あったように思われる。後注参照。
「郎世寧」(ろうせいねい)はイタリア生まれのイエズス会の宣教師で画家でもあったジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione 一六八八年~一七六六年)の中国名。ウィキの「ジュゼッペ・カスティリオーネ」によれば、清の宮廷画家として、康熙・雍正・乾隆の三帝に仕えて『西洋画の技法を中国へ伝え、美術や建築に影響を与えた。絵画作品では乾隆帝大閲図、ジュンガル討伐戦の情景画、香妃肖像画などが有名である。バロック様式を取り入れた離宮である円明園西洋楼を設計した』。『カスティリオーネはミラノに生まれた。ボローニャ派の伝統に従ったプロの画家としての訓練を積み、アンドレア・ポッツォに直接学んだわけではないが、その影響を受けていた』。一七〇七年に『ジェノヴァのイエズス会の会士となったが、司祭ではなく』、『修士であり、中国で画家として働く任務を与えられた』。一七〇九年にはポルトガルの『コインブラ』(Coimbra)『に移り、そこでも画家として活躍したらしいが、作品は残っていない』。一七一五年に『中国へわたった』。『康熙帝の崩御後、雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができた。乾隆帝にはまだ皇子だったころから仕えており、とくに重用された』。『雍正帝と乾隆帝は円明園の大々的な拡張を行い、カスティリオーネはその設計に参加し』ている。『北京で没し、侍郎の官位を贈られ』ている。『康熙年間の作品は残っておらず、雍正元年に描かれた静物画「聚瑞図」が現存する作品でもっとも古い。雍正年間には有名な』ここに出る「百駿圖」(これ)『をはじめとして多くの馬の絵も描かれた。乾隆年間はもっとも多産であり、乾隆元年に乾隆帝・皇后・』十一『人の貴妃を描いた「心写治平」(クリーブランド美術館蔵)、乾隆帝の外征や外国の帰順などの歴史的場面を描いた作品などがある』。『カスティリオーネは西洋画と中国の伝統的な絵画を折衷させた独特の様式を発達させた。当時の中国人の趣味に合わせて、肖像画は常に正面から描き、陰影はつけなかった。また絹や宣紙に膠状の顔料で絵を描く必要があった』。『カスティリオーネは西洋から清にわたった画家としてもっとも優れていたが、乾隆帝の宮廷にはカスティリオーネ以外にもジャン=ドニ・アティレら』四『人の西洋人が働いており、また』、『西洋人に学んだ中国人画家もいた』から、『カスティリオーネの名前を冠していても、実際にはこれらの画家との共同製作も少なくないことに注意しなければならない』とある。
「雍正六年歳次戊申」一七二八年。]