芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種
『芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種』を、芥川龍之介『日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)』に追加した。
まあ、ここにも載せとくか。
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芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種
[やぶちゃん注:底本は岩波の新しい「芥川龍之介全集」第二十一巻(一九九七年刊)に『「松江印象記」草稿』として載るものを使用したが、私のポリシーに則り、漢字を概ね正字化して示した。標題も仮題でしかないので、以上のように変更した。私は現在の「松江印象記」はやめて、この両草稿に出る「行人抄」にすべきであろうという気さえしている。
私が【草稿(1)】としたものは、底本で『Ⅰ―a』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙二枚半相当のもので、同『後記』では、次の『1―b』に先行して書かれたものと推定されてある。
私が【草稿(2)】としたものは、底本で『Ⅰ―b』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙一枚相当のものであるが、原稿用紙の『下部三字を空けて』、『一行』当たり、十七『字の形で用いて』いるとある。同『後記』では、井川恭の「翡翠記」が掲載された『松江新報』『への提出原稿に極めて近いものと考えられる。但し』、『現行本文』(これは新全集の編者がどう考えて『現行本文』と謂ったものか知らぬが、厳密には、新旧の岩波全集の妖しげな「松江印象記」(仮題)ではなく、「翡翠記」の中の「十四」の芥川龍之介の「日記より」を指すと、当然、考えるべきものである)『ではこの書き出しの部分は削られている』とある。
なお、「不可思儀」の「儀」はママ。「餘りに遲鈍である」の部分は底本の行末にあり、「しかし」と直に繋がるのはおかしいので(そうなっているが、これは改行と誤解されるのを防ぐために底本編者が行った仕儀と私は採った)、恣意的に一字空けを施した。【2018年1月21日:井川恭著「翡翠記」のブログでの完全電子化完遂を記念して追加 藪野直史】]
【草稿(1)】
日本に生まれて 日本に育つた自分たちが屢〻 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記からさへも)從來自分たちの眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新しい「日本の不可思儀」に就いて 教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究が ゴンクールに依つて始められ 北齋の批評がフェノロサを待つて開かれたのも 偶〻 此事實の一端を洩らしてゐるものに過ぎない 自分たちが 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも その郷土に對して 屢〻 盲目の譏を免れないのは 不二山と椿の花と煎茶の煙とを 新しい刺戟として受入れるべく 餘りに長く 「紙と竹との家」の中に居住してゐるからである――自分の 行人抄を書くのが 必しも かう云ふ新しい不可思儀を示す爲であるとは云はない いや さう云ふ目的に役立つには 自分の感受性は 餘りに遲鈍である しかし 習慣を離れ 傳説を忘れて 周圍をあるがまゝに觀じ得る點で(たとへ それが自分の個性によつて色づけられてゐるにもせよ)或は寛大な士人の讀書慾を充す爲に幾分の意味があるかも知れない――行人抄は かう云ふ己惚れの中に胚胎した 一旅客の平凡な松江遊記である
自分が松江へ來て 始めて見たものは 千鳥城の天主閣であつた 夏とは云ひながら 雨あがりの しめやかな日の午前である 内中原の路上に立つて 菱や蘭の茂つた靜な水の上に高い天主閣の白壁を仰いだ時には 蘆の茂みに鳴くかいつぶりの聲と共に 久しく忘れられた封建時代の記憶が あらゆるエキゾティックな思想の上に 漢詩と俳句とによつて陶冶された 愛すべき「寂(さ)び」をかけて 心さへ 遙な鬼瓦の影に暗くされたかと疑はれた 遠い櫓の下に掛けたつばくらの巢は見るよしもないが 一つ一つの石 山 つ一つの狹間は 昔ながらに 物寂びた城下の町々を見下して 白壁の一角にさした 微な日の光にも 云ふ可らざる追慕の情が喚び起される 自分は棕櫚と無花果とに圍まれた 小さな家つゞきの町を あのさびしい稻荷橋へ出るまで何度 足を止めて 所々にほのかな靑い色を浮かせた灰汁のやうな八月の空の下に この懷しい城樓の姿を眺めたかわからない
天主閣は その名の示す如く 天主教の渡來と共に はるばる 南蠻から輸入された築城術が日本の戰術に新な變化を與ふ可く 齎し來た建築である……
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【草稿(2)】
行人抄
日本に生まれて日本に育つた自分達が 反て屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記によつてさへ)從來自分達の眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新なる「日本の不可思儀」を教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究がゴンクウルに依て始められ 北齋の批評がフェノロサを俟て開かれたのも 偶〻此事實の一端を洩してゐるものと云はなければならない 自分達が 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも屢〻 其郷土に對して盲目の譏を免れないのは 一つは確に 自分達が 不二山と椿の花と煎茶の匂とを 新なる刺戟として受入れる可く 餘りに長く「紙と竹との家」の中に居住してゐる
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