芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十三」
二十三
松江を中心とした此地方の風景を遺憾無く観照し度いと思ったら、少くとも附近の丘陵の一つに登って、眺嘱(ちょうしょく)を縦(ほしいまま)にするのが必要である。[やぶちゃん注:「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察し、意味を明らかに知ること、或いは、美学用語としては、対象の美を直接的に直観として感じとることを指す。「眺嘱」万葉語。現行、「万葉集」では、この二字で「ながむ」と訓じている。]
或る物に即くと云うことは観照の態度から遠ざかることを意味するし、或る物から離れると云うことは其反対を意味するものとすれば、若干の自然の景象(けいしょう)の組合せから成り立つ或る地方の風景を、夫れ自身一つの天成の芸術品として観照するためには、高きに登って眸(ひとみ)を放つことが必要であるとの断定が正当と成って来る。[やぶちゃん注:「即く」「つく」。]
東から北から南から松江を取り巻いて立っている山の数はかなり沢山ある。東には嵩山(だけさん)に羽久羅山(はくらやま)、北には枕木山(まくらぎやま)、澄水山(しみずさん)、蛇山(じゃやま)、臥牛山(がぎゅうざん)、真山(しんやま)、朝日山(あさひさん)、南には茶臼山(ちゃうすやま)、天狗山(てんぐやま)、星上山(ほしかみやま)、京羅木山(きょうらぎさん)などを挙げることが出来る。最高の天狗山から最低の茶臼山まで二千四五百尺から五六百尺の海抜を示している丘陵であるが、何しろ平原から直ちに崛起(くっき)しているので、高さの割合には登路(とうろ)が長く且つ山頂の眺望が開闊(かいかつ)である。[やぶちゃん注:各山は最後に注する。「崛起(くっき)」山などが高く聳え立っていること。「開闊」気持ちよく、広く開けていること。「二千四五百尺」約七百二十八メートルから七百五十七・五八メートル。「五六百尺」約百五十二メートルから百八十一・八二メートル。]
僕は之れ等の山々のいずれも少くとも一回、多きは十回くらい登った事があって、夫れぞれの山が有(も)っている性格に一種のなつかしみを感じているが、僕の好みから云うと、蛇山の頂からの眺めが一等勝れているように思われる。殊に秋も長けた十月ごろあの山の絶巓に踞(こしか)けて、涯もなく茂りつづく銀の穂芒(ほすすき)のあいだから、秋の日光(ひざし)にほのかに匂う海やみずうみや野や市街やのけしきをうっとり眺めるうつくしさ快さは、いつ迄も忘れ得ないもゝのひとつである。山の相(すがた)からから云っても僕はこの山を最も愛している。
併し登る路の楽なこと、麓までの里程の短いこと、しかもその割合に眺めの住い点に於ては僕は嵩山と真山との二つを推奨する。そう云う理由から、東京から来た友人を所々案内したのち帰京の日が迫ったとき、僕はこの二つの山を挙げて、その孰れかに登ってみようと言い出した。
二つの山をいろいろの点から比較したのち僕たちは真山を登臨(とうりん)の目的に選んだ。尼子(あまご)の城跡があると云う事と、登りが割合に短いと云う事との二つのこの選択を決定する最要件であった。
大きい灰色の雲が頭上の空を蔽うて渡って行くのを仰ぎながら、如何(どう)も怪しいなと言い言い龍之介君と僕と弟と三人家を出かけた。
西原(にしばら)から法吉(ほっき)の村へ入って川沿いの石ころ道を辿って行くと間も無く常福寺の丹瓦(あががわら)の屋根が竹薮のうえに現れた[やぶちゃん注:「薮」はママ。次の段では「藪」である。]。
庫裏に訪れると梵妻(だいこく)さんがいつ見ても肥りたるんだ体躯(からだ)をはこんで出て来て挨拶する。そこへ「どうも井川さんの声らしいがと思った」と言いながら和尚さんが畑か藪の中からか帰って来て、「まあ少し休んでから山へあがりなされ」と勧めて呉れる儘、三人は本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ。
それから龍之介君と僕とは肌衣一枚に成り、弟はシャツを着て来なかったので裸の体にズボン下をはいて出かけようとすると、和尚さんが「まあ是れでも引っかけてお出でや」と言って襦袢(じゅばん)を貸してやった。
三人は寺で借りた藁草履をはいて山門の外の石段を降り細い谷川に沿う径をあゆみはじめた。
「和尚さんの襦袢の汗臭いには少々閉口だわ」と後から踉(つ)いて来る弟がつぶやいて笑わせた。
[やぶちゃん注:ここで、時計が巻き戻って、再び、芥川龍之介が登場する。井川の芥川龍之介への思いが痛いほど判る作品構成となっているのである。
「嵩山(だけさん)」島根県松江市川原町にある標高三百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ。以下、既に出た山もあるが、ここでは標高は総て国土地理院地図で統一した。登山サイトの標高とはかなり有意に異なるものもあるので注意されたい)。
「羽久羅山(はくらやま)」恐らく、現在の松江市上東川津町にある和久羅山のこと。標高二四十四メートルの山。ここ。誤りかどうかは不明。何故なら、以下の名前も現行と異なるものがあるからで、古名や当時の通称名・異名である可能性も捨てきれないからである。
「枕木山(まくらぎやま)」松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌(ちくみ)にある標高四百五十三メートルの山。ここ。
「澄水山(しみずさん)」松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。ここ。
「蛇山(じゃやま)」現在の松江市島根町大芦にある滝空山(たきそらやま)。標高四百七十五メートルの山。ここ。
「臥牛山(がぎゅうざん)」現在の蛇山(東方)と同じく島根県松江市島根町大芦にある大平山(おおひらやま)。標高五百二・八メートルの山。ここ。
「真山(しんやま)」松江市西持田町にある標高二百五十六・二メートルの山。ここ。「新山」とも書く。ここは本文にある通り、尼子氏と毛利氏の攻防戦の場として知られる。個人サイト「中国地方の登山紀行 法師崎のやまある記」のこちらが詳しく、実際の登頂記録が写真で掲載されている。必見。なお、芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の真山での感懐を、
眞山覽古
山北山更寂
山南水空𢌞
寥々殘礎散
細雨灑寒梅
眞山覽古
山北(さんぼく) 山(やま) 更に寂し
山南(さんなん) 水(みづ) 空を𢌞(めぐ)る
寥々(れうれう)として 殘礎(ざんそ) 散り
細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ
という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にはしたが、從っていない部分もある)。
「朝日山(あさひさん)」松江市東長江町にある標高三百四十一・八メートルの山。ここ。
「茶臼山(ちゃうすやま)」松江市山代町にある標高百七十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データだと城跡名だけなので、ここでは国土地理院地図を用いた。一切、画面を移動させず、左下の「+」ボタンだけで拡大されたい)。
「天狗山(てんぐやま)」松江市八雲町熊野にある標高六百十・四メートルの山。ここ(また、グーグル・マップ・データに戻す)。
「星上山(ほしかみやま)」松江市八雲町東岩坂にある標高四百五十八メートルの山。ここ。
「京羅木山(きょうらぎさん)」星上山の東方、松江市東出雲町(まち)上意東(かみいとう)にある標高四百七十三メートルの山。ここ。
「尼子」大名としての最後の当主は尼子義久(天文九(一五四〇)年~慶長一五(一六一〇)年:出雲国の戦国大名尼子晴久の次男)。永禄九(一五六六)年十一月、義久は兵糧攻めを受けていた月山富田(がっさんとだ)城の開城を決意し、毛利元就に降伏する旨を伝えた。元就は義久の身柄を安堵することを記した血判を送って開城となった。この富田城陥落によって、出雲国内で抵抗していた尼子十旗(あまごじっき:根城富田城の防衛線として出雲国内に配した主要な十の支城)の城将達も次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、取り敢えず、安芸の円明寺に幽閉した。これを以って大名としての尼子氏は滅亡したが、その後、義久は天正一七(一五八九)年、元就の孫毛利輝元によって、毛利氏の客分として遇され、安芸国志道(しじ)に居館を与えられ、慶長元(一五九六)年、長門国阿武郡嘉年(かね)にあった五穀禅寺(現在の極楽寺)に於いて剃髪、出家して「友林」と号し、十四年後、享年七十一で死去している。毛利家の意向により、甥(義久の弟倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で、尼子氏を継いでいる。尼子と言えば、私の偏愛する上田秋成の「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」だなぁ。
「西原(にしばら)」現在、松江市奥西原という地名が残るが(この中央附近(グーグル・マップ・データ))、井川の叙述から考えると、その北の現在の松江市春日町(ここ(グーグル・マップ・データ))を含む広域の古い地名であろうと推察する。
「法吉(ほっき)」現在の島根県松江市法吉町(ほっきちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。真山のピークは現在の村域では、ごく僅かに東にずれるようだ。
「常福寺」松江市法吉町二五八に現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。開基・開山は不詳。毛利と尼子の白鹿合戦の際、白鹿城城主で尼子の勇将であった松田左近将監満久はここの僧であった、また満久の末弟であった普門西堂は常福寺丸(この寺の後背の山)に砦を構えて奮戦したが、落城の時に自刃したとも伝えられている。寺はこの合戦によって荒廃したが、寛永一〇(一八三三)年清光院
高厳栄甫大和尚が再建した。現在の本堂は明治四〇(一九〇七)年に建てられた(こちらのデータ他に拠る)とあるから、まさに芥川龍之介が訪れた時のままということになる。
「梵妻(だいこく)」は僧侶の妻のこと。大黒天が厨(くりや)に祀られたことから。「大黒」とも書く。先に紹介した井川と芥川の連句の中に、龍之介の句として、
梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風
があり、句の後に『この句を定福寺の老梵妻にささげんとす』という添書きもある。
「本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ」グーグル・マップの航空写真で見ると、現在、北側に墓がある。この真山方向を向いて開かれた板縁で彼らは裸になって涼んだのだった。
「細い谷川に沿う径をあゆみはじめた」グーグル・マップの航空写真でそのルートが判る。]
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