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2018/01/03

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一

 

    隱れ里 

      

 此間理科大學の鳥居龍藏氏は、日本學會とかで亞細亞諸民族の間に行はれた無言貿易の話をせられ、今日日本の各地方に存する椀貸傳説は亦一種の無言貿易である。傳説學者は大抵の事を皆傳説にして了ふ傾きがあるが、椀貸などは實はエスノグラフイーの方の材料であると斯う言はれたさうである。其意味は十分には解らぬが、若し此傳説の語るやうな土俗が曾てあつたと言ふのならば勿論誤謬、若し又是が昔の或土俗の訛傳である痕跡であると言ふのならば、御説を須たずして恐らくは誰も否とは云ふまいと思ふ。何れにしても實例を擧げて説明をせられなかつたのは缺點である故に、自分は其御手傳のつもりで、目下集めかけて居る所謂椀貸の傳説を少しばかりこゝへ列べて見やうと思ふ。一々出處は掲げないが、皆世に有りふれた書物から忠實に拔出したものであることを最初に斷つて置く。

[やぶちゃん注:鳥居龍蔵(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。柳田は「理科大學の」と肩書を記しているが(本論文「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年二~三月の『東京日日新聞』)、鳥居は明治三八(一九〇五)年に初めて、正規教師(それまでは東京帝国大学の助手で、明治三一(一八九八)年着任)として東京帝国大学理科大学講師に任命されていた。後、大正一一(一九二二)年には東京帝国大学助教授に就任しており、「一つ目小僧その他」の発行された昭和九(一九三四)年には(大正十三年に東京帝国大学は辞職)、上智大学教授及び文学部長(昭和三(一九二八)年)であった。私には、当時、既に民俗学アカデミストの権化であった柳田のここでの口吻や表現には、端々に、学歴を持たない鳥居、その思いつき(柳田の主要な論説のそれも同様に甚だ恣意的(非科学的)な思いつきが多いと私は実は考えている)の論説に対し、あからさまな軽蔑感が感じられ、非常に不快である。

「無言貿易」沈黙交易(Silent Trade, dumb barter, depot trade)。ある共同体が別な外部とのコミュニケーションを出来る限り避けながらも、その外部から資源を得るための方法として、世界各地で用いられた交易取引法を指す。ウィキの「沈黙交易」によれば、『一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。言語が異なるもの同士の交易という解釈をされる場合があるが、サンドイッチ諸島での例のように言葉が通じる場合にも行なわれるため、要点は「沈黙」ではなく「物理的接近の忌避」とする解釈もある』。『フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスンは、世界各地の沈黙交易を研究し、人類史における平和が、市場の中立性や、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた。カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした。ピーター・バーンスタインは貿易商人たちに捕えられて奴隷にされることを避けるためと推測しており』、『商人の側としてはアフリカ人のもたらす金を何としても欲しいため、この奇妙なやり方に従うしかなかったとしている』。『日本での沈黙交易の最古の記録としては』、「日本書紀」斉明天皇六(六六〇)年三月の条に於ける『阿倍比羅夫が粛慎と戦う前に行なった行為があげられる。鳥居龍蔵は北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており』、『岡正雄は椀貸伝説やコロポックルの伝説』や「譚海」の記載されたアイヌの例や、「梁書」「唐書」の『記述にある中国の鬼市を無言交易とした』。『柳田國男は大菩薩峠や六十里越で黙市が行なわれたとし、他に』「諸国里人談」「本草記聞」の『記述にある交趾国の奇楠』(香木の沈香のこと)『交易を例としてあげた。かつて栗山や日光、大菩薩峠などの峠路にあった中宿で行なわれていた無人の交易を沈黙交易とするかどうかは、研究者の間で解釈がわかれている』。また、大正六(一九一七)年に『鳥居龍蔵が椀貸伝説を「沈黙交易」であると指摘すると』、翌年、まさにこの論文で』『柳田はこれに対して反論し、椀貸伝説は「異郷観念」の表現形態であり、竜宮伝説や隠れ里伝説に類する信仰現象であるとした。椀貸伝説の「沈黙交易」説は戦後も論争が続き』、昭和五四(一九七九)年に『栗本慎一郎は『経済人類学』において』、『椀貸し伝説は「沈黙交易」であり、さらに交易の原初的形態と指摘した。この「沈黙交易」を「交易の原初的形態」であるとする説に対しては、同年に岡正雄は「沈黙交易」は「交易の原初的形態」ではなく』、『交換の特殊型であるとし、客人歓待を前提とした「好意的贈答」の習慣であると指摘した』。新井白石が「蝦夷志」に『記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などを交換に用いた。アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などの間にも行われている。瀬川拓郎はアイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源が千島アイヌの沈黙交易にあるとし、千島アイヌの沈黙交易は疱瘡をはじめとする疫病を防ぐために行われたと論じた』とある。

「エスノグラフイー」EthnographyEthno(民族)+Graphy(記述)で「民族誌」の意。文化人類学や社会人類学に於いて、ある共同体(コミュニティ)にフィールド・ワークとして入り込んでその中での行動様式を記述し、価値観や意識大系を見出していく手法として使われてきた。現在は民族や生物集団だけでなく、発達した情報機器などの人工的包括体などにも拡張して用いられ、「フィールド情報学」などとも呼ばれている。]

 自分は鳥居氏の言はれた傳説學者の中では無い筈であるが、右の椀貸傳説なる名稱は實は近年我々の仲間だけで用い始めた語である。各地の言傳へが大同小異であつて、しかも共通の名がないのは不便なので、一二の地方に椀貸と云うて居るのを幸に、餘り好い語では無いが假にさう呼んで居るのである。そこで便宜上先づ其話から始めることにする。

 香川縣三豐郡大野原村の椀貸塚、是がその一例である。寛永年中に勸請したという八幡宮の塚穴で、近村中姫村の人々食器類をこの穴から借りて、塚の上の祠を祀るを例として居た故に、椀貸塚とも又椀貸穴とも呼んで居たが、後に借りた者が一の器を紛失してから貸さぬやうになつたとある。大野原が開墾せられ八幡を祭るに至つたのはそれよりも更に後の事で、以前は塚穴の中に大子殿(おほじどの)と云ふ神が住んで居られたなどと傳へて居る。之を椀貸と名づけたのは偶然で、現に同郡財田上村には膳塚と稱して、昔村民の請に任せ膳を出して貸したと云ふ故跡もある。

[やぶちゃん注:「香川縣三豐郡大野原村の椀貸塚」現在の香川県観音寺市大野原町大野原にある大野原八幡宮の境内(現在は同八幡宮の後背地)にある応(おう)神社の西方、この附近(中央)と推定される(グーグル・マップ・データ)。「玄松子の記録」の「神社」によれば、『椀貸塚と呼ばれる古墳の南に位置し、当社社殿は、椀貸塚の東に、東向きに鎮座する』とあり、社前の案内板の電子化を引くと(一部の字空けを詰めた)、『古来椀貸塚の東腹に鎮座し中姫村の産土神として崇敬せられたり』。『伝うる所に據れば武内宿祢の裔 紀氏 この地を開拓して住し紀氏の尊崇厚かりし社と云う』。『亦 延喜式内 於神社は当社なりと伝えたり』。『寛永年間 平田氏により郷社八幡神社の鎮座するところとなり 当社が飛地なるが故をもって 屡々八幡社と境界を争いたるが 丸亀藩の裁くところとなり 境石を建て紛争も絶えたち 而して今猶 当社の祭典維持等は数町を隔てたる中姫中央部落の人々により之を取り行われるものなり』とあり、「大野原八幡宮境内案内」の「香川県指定文化財 史跡 椀貸塚」の電子化によれば、『椀貸塚は周りに濠をめぐらした(現在は埋めている)大円墳で我が国古墳の特色を示すものである。羨門は南向きの横穴石室で巨岩(推定三五トン)をもって築いてある。石室の構築からみて、椀貸塚が最も古く玄室は巨岩を五段に積み重(つめ石を使用)天井石四枚でおおっている。玄室の高さは三つの古墳で最も高い、後期古墳と考えられる』とあって、玄室内からは鉄釘や須恵器が出土しているとあるから、この場合の「椀貸」の「椀」とはこの古墳内の須恵器であると考えてよいであろう。また、本文に出る「大子殿(おほじどの)」というのも、当初、私は王子信仰(本宮の主神からその子供の神として分かれ出でた神格を祀る習慣があり、これを「若宮(わかみや)」又は「御子神(みこがみ)」と呼んだ。後に神仏習合によっ仏教の神格の一つとして仏に扈従する少年の姿としての「童子」が「若宮」と習合されて「王子」と呼ばれるようになり、それを単独で祀る王子の社(やしろ)も「王子」と呼ばれるようになった)とも思ったのだが、「應神社」の「おう」、或いは、引用にある通り、この神社が式内社の「於(お)神社」(但し、古くは於は「お」ではなく「へ」と読んだ)と呼ばれる社格であったことからの「應神殿」「於神殿」で「おほじどの」であったのかも知れぬ。

「寛永」一六二四年から一六四五年。

「同郡財田上村」現在の香川県三豊(みとよ)市財田町(さいたちょう)財田上(さいたかみ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。同所の「膳塚」は不詳。]

 自分の郷里兵庫縣神崎郡越知谷村の南にも、山の麓に曲淵一名を椀貸淵と云ふ處があつて、淵の中央に大きな岩がある。昔は椀を借りたいと思ふ者は、前夜にこの淵に向ひ數を言つて賴んで置くと、次の朝は必ず此岩の上にその通りの椀が出してあつた。後に椀を一つ毀して返した者があつてから、絶對に貸さぬようになつたと云ひ、なおこの淵は底が龍宮に通じて居ると云ふことであつた。

[やぶちゃん注:柳田國男の郷里は飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「越知谷」(おちだに)は現在の同神崎郡福崎町越知(おち)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、辻川から越知谷は北へ二十キロメートル近く行ったところであるので、注意。「曲淵」はこの中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。夏季の川遊びの子供らの飛び込みで現在も知られる場所である。]

 福井縣の丸岡から中川村へ行く道の右側に、椀貸山と云ふ丸い形の芝山があつて、土地の人はこれを椀貸塚とも呼んで居る。越前國名蹟考に影響錄と云ふ本から抄錄した下久米田の黍塚と云ふのが若し是であるならば、この地でも慶長の頃までは申込に應じて椀家具を貸したさうである。其から更に七十年ばかり後の延寶の頃までは、此岡から出る何とか川の水に、每朝米の磨水(とぎみづ)が流れたとも言ひ傳へて居る。

[やぶちゃん注:「椀貸山」現在の福井県坂井市丸岡町坪江にある椀貸山古墳。ここ(グーグル・マップ・データ。航空写真での形状が確認出来る)。全長約四十五メートルの前方後円墳で須恵器などが出土している。一説に用明天皇の皇子であった椀子(まろこ)皇子(=当麻(たいま)皇子)の墓と伝えるのは如何にもな感じである。

「越前國名蹟考」福井藩右筆井上翼章の編になる越前地誌。文化一二(一八一五)年完成。

「影響錄」不詳。柳田國男は「妹の力」でも「越前大野郡誌」からとしてこの引用書を挙げているが、失礼ながら、この謂い方からは、当該原典は未見のように思われる。或いは散逸してしまった越前の古い地誌か?

「下久米田の黍塚」ここ(グーグル・マップ・データ)だが、先の椀貸山古墳とは南南東に七キメートル以上離れており、この柳田國男の同定は信じ難い

「慶長」一五九六年から一六一五年。

「延寶」一六七三年から一六八一年。]

 石川縣河北郡傳燈寺村字アラヤシキ小字椀貸穴と云ふ處には、口の幅二尺七寸高さ三尺ほどの橫穴が田の岸根に一つある。今では只穴の内に石が多く投げ込んであるが、昔此穴に居た古狐が椀を貸したと云ふ話が有る。岐阜縣飛驒の益田川の流域、下呂(げろ)村大字小川にも椀貸せ淵と云ふ淵があつて、播州の椀貸淵とほぼ同じ話がある。龍宮に通ずる穴と云ふのは、その淵では岩の眞中に明いて居つて、この穴に向つて借用を賴んださうである。返辨の時一人前を損じてそのまま返したために、「龍人の怒りに觸れてその後は如何に乞ふも貸さずなりしと云ふ」と、二年前に出た益田郡誌にも書いてある。

[やぶちゃん注:「石川縣河北郡傳燈寺村」現在の金沢市伝燈寺町内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳細位置は特定不能。

「二尺七寸」約八十三センチメートル。

「三尺」約九十一センチメートル。

「岐阜縣飛驒の益田川の流域、下呂(げろ)村大字小川」「益田川」(群名は「ました」であるが、河川(流域名)の名は現行では「ますだ」とも読むようである)下呂温泉周辺の飛騨川及びその支流を指すようである。さすればグーグル・マップ・データの下呂市小川附近(特に下呂に近い北西端の地区)或いはその地区へ東北から入ってくる支流の合流部であろう。何故なら、同小川地区のには「大渕公民館」があり、この地区が「大渕」(大淵)と呼ばれていることが判るからである。さらに調べると、PDFファイルの「下呂市下呂地域の民話に『竹原川と合流する大淵地域に「椀貸せ淵」の話が伝えられて』いる、とあることから、まさにこの大渕(大淵)地区がそこであることが明確となった。そこにはさらに、「椀貸せ淵」として『下呂駅より約4キロ下ったところに帯雲橋(たいうんきょう)という橋がある。帯雲橋の下に今では、泥水がたまっているところがある。ここが昔、椀などを貸したという椀貸せ淵である。深さはわからないが、この下の横の方に、穴があいており、この穴は遠く竜宮に通じているといわれている。昔は、竜宮の乙姫様の機を織る音が、かすかに聞こえていたそうである。そのころ里の人々は、お正月・お盆・お祭りなどに、お膳やお椀を借りにきていた。前日になると必要な数を頼んでおいて翌朝行くと、その数だけ入り口にちゃんと並べてあったという。里の人は喜んで、本当に不自由なしに暮らしていた。だがある年、一人の里人が借りていたお椀を割らしてしまった。さらに、割ったことを黙っていた。それ以来お椀を借りることができなくなってしまった。(参考資料『飛騨下呂』ほか)』とあった。

「益田郡誌」岐阜県益田郡(ましたぐん)編大正五(一九一六)年益田郡刊。国立国会図書館デジタルコレクションの同書画像三十三章 説」の「貸せ淵」で読める。既に述べた通り、本論文「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年二~三月である。]

 

 

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