芥川龍之介 手帳11 《11-1~11-6》
芥川龍之介 手帳11
[やぶちゃん注:発行年・発行所ともに不明の手帳。
現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)し、岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻はそれを底本としている。従って、底本はそれを用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものは、注で可能な限り、言葉で説明して示した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《11-1》というように見開きごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附してその後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。底本が読み易く整序して繋げた箇所は、原資料に合わせて、注によって復元した。
新全集の「後記」では、本「手帳11」の記載推定時期に就いては言及されていない。
なお、一読、判明することであるが、本手帖は冒頭の《11-1》を除いて、他の手帳類と異なり、全篇が陶磁器に関わる特異なメモである。思うに、これは陶磁器史を扱った洋書の内容を一部訳しつつ、本邦の解説書等からも抜書きしながら、自分の意見を添えたものかも知れない。]
*
《11-1》
○僕は誰にでも噓をつくまいと決心したんだ
○僕はこれから噓をつくまいと思つたんだけれども人と話してゐると何時か噓をついちまふんだね 私は滅多に本當の事はしやべるまいと思つたんです けれども人と話してゐると何時かほんとの事を云つちまふんですね
[やぶちゃん注:前の「手帳10」の末尾注に示した通り、旧全集では、これは「手帳11」の最後の部分に記されてある。]
*
《11-2》
○古今東西(+)の中點にあるものを Arabian Pottery(窯工術)と爲ス
[やぶちゃん注:「古今東西(+)の中點にあるもの」意味不明。文化的時空間にあって有意な価値(過去に対しても未来に対しても普遍的に)のフラットな位置にあるもの、という意か。
「Arabian Pottery」アラビア風の陶器の製造業。]
○陶 }
七寶}3 heads
硝子}
[やぶちゃん注:三つの「}」は底本では一つの大きな「}」である。
「七寶」「しつぽう(しっぽう)」。金属などの表面にガラス質の色釉(いろぐすり)を焼きつけて模様・絵などを表わす装飾工芸。エマーユ(フランス語:émail)。
「3 heads」三大代表群。]
○原料燃料ノ地理的缺乏は窯業の發達を impossible ならしめしがその領土的 development はこれを可能にせり 且 commercial の發達も技術を教へしならん 唯その period の短かりし爲 Persian Patten より劣る
*
《11-3》
ならん 唯 Arabian Pattern は織物に伴ひし爲傳播したり Arabian Pattern は囘教關係より beasts 等を使はざりし爲 幾何的 pattern をなす 正倉院中の甃の如き是乎
[やぶちゃん注:「development」「発展」よりも「進行」よりも皮肉に「侵攻」ととりたい。
「commercial」商業上の・工業上の。後者であろう。
「beasts」動物類。イスラムは偶像を嫌うので、具体的なシンボルと見えるような人を含めた動物などを意匠化しない(植物のそれは許容されて反復模様とされる)。]
○A文化ノ傳統
○Rome(東)& Paris
○Rome には七寶 硝子あり 東Rome の硝子も色硝子より發達し Damube よりBohemia に入る この内地は Gothic Architecture の本場也 卽ちこの二者
*
《11-4》
の關係起る but 之は問題外なり
[やぶちゃん注:「Damube」ダニューブ川。ドイツ南西部に発し、東流して黒海に注ぐドナウ川のこと。
「Bohemia」ボヘミア(ラテン語:Bohemia:チェコ語:Čechyドイツ語:Böhmen:ベーメン)。現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広く、ポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。この中央一帯(グーグル・マップ・データ)。
「Gothic Architecture」ゴシック建築。但し、ここで言っているそれは十二世紀後半に生まれた洗練されたフランスのそれとは直接の関係性を必ずしも持たない、原ゴシック様式を指すと考えないと地理的文化的にはおかしいように思われる。]
○隨――Persia (盛)
○唐――Arabia (盛)
{Arabian Civilization の方向=From east to west
{Persian Civilization の方向=From west to east
[やぶちゃん注:「唐――Arabia (盛)」の「盛」は底本では「〃」であるが、特異的に判り易く変更した。旧全集でも繰り返し記号ではなく「盛」となっているからでもある。
「Civilization」文化・文明。その中でもここは特に技術的工業(科学)的側面でのそれを指していよう。]
*
《11-5》
○Persian Prince married with a
Chinese Princess
[やぶちゃん注:これはイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico
Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)のオペラ「トゥーランドット」(Turandot 一九二六年初演)のもととなった、フランスの東洋学者フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix 一六五三年~一七一三年)が一七一〇年〜から一七一二年に出版した「千一日物語」(Les
Mille et un Jours:所謂、「千一夜物語」とは全く別物なので注意)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に基づく話ではなかろうか。参照したウィキの「トゥーランドット」によれば、この異国の王族間の恋物語は『アラビア半島からペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩』「ハフト・ペイカル」(七王妃物語 一一九七年)という作品に『までさかのぼる』伝承で、『この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまった』ものの、『同じような筋書きのペルシャ語写本が』今も『残されている』という。『ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーランの国名はあるもののトゥーランドットの人名はなく、フランス人の研究者オバニアクは、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている』(一八〇一年)。『なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている』とある。私はオペラに関心もなく、これ以上、付け加える情報も持ち合わせていないので、ここまでとする。因みに、「高僧伝」などの史料によると、安息国(次条の注を参照)の王の太子と伝えられる安世高(安清)が当時の後漢に行って経典の漢訳を行ったと、ウィキの「パルティア」にはある。]
○大智安息國公主の碑 俗説 長安の囘寺(大秦寺)
[やぶちゃん注:「大智安息國公主の碑」「安息國」は、かつて、紀元前二四七頃から紀元後二二六年の長きに亙って、西アジアあった王国パルティア(Parthia)の漢名。都はヘカトンピュロス。セレウコス朝の衰微に乗じて、ペルシャ人で遊牧民パルニの族長であったアルサケスが建国した。ローマ帝国と対抗、ミトラダテスⅠ世の時、最盛期となり、インダス川からユーフラテス川に亙る地域を版図(はんと)としたが,ササン朝に滅ぼされた。そのパルティアの王の妃の碑、ということになる。
「長安の囘寺(大秦寺)」中国の唐代に伝来したネストリウス派キリスト教である景教の、長安に存在した寺院(教会)の固有名。ウィキの「大秦寺」によれば、但し、「大秦寺」はその後に中国各地に建立された同教の教会の一般名称でもある。六三五年にネストリウス派宣教団が長安に到着し、その三年後に景教は唐朝公認の宗教となり、朝廷から資金が援助されて、長安にこの寺が建立された(但し、この時は「波斯寺」或いは「波斯経寺」(波斯はペルシアの漢訳語)と呼ばれていた)。高宗の治世(六四九年~六八四年)になると、景教は唐王朝全域に広まり、六九八年に武則天が仏教を重んじた時期には仏教勢力から攻撃を受けて、一時は衰退したものの、続く玄宗の時代(七一二年~七五六年)には再び隆盛し、七四五年には大秦国(東ローマ帝国)から高僧佶和(ゲワルギスの漢音写)が訪れている。同年、教団の中国での名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたことから、朝廷側による当寺院の呼び名も「大秦寺」に改称されている。『これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている』。しかし、八四五年、時の『武宗は道教を保護する一方で、教団が肥大化していた仏教や、景教、明教(摩尼教)、祆教などの外来宗教に対する弾圧を行な』いこれを「会昌の廃仏」と称する)。寺院四千六百ヶ所余、招提・蘭若四万ヶ所余『が廃止され、還俗させられた僧尼は』二十六万五百人に及び、『寺の奴婢を民に編入した数』も十五万人に達したとされる。この時、『大秦景教流行中国碑も』『埋められた』。『武宗は、翌年の』八四六年に三十三歳で『崩御し、弾圧は収束する。しかし、会昌の廃仏によって、中華本土の景教は衰滅していったと考えられている』。それでも、『中原をとりまく周辺地域ではネストリウス派信仰が』、『ケレイトやウイグルなどのモンゴル高原や中央アジアの人々の間で存続していた。彼らが王朝の担い手となった元の時代には中国内で再び活性化し、華南の港湾都市に景教教会が建設された』りはした。しかし、『その後、元の滅亡やイスラム教・チベット仏教の普及により』、『東アジアにおけるネストリウス派信仰』自体が『衰え、明代の』一六二三年(または一六二五年)になって、『「大秦景教流行中国碑」が発見される』『まで、景教は中国人に完全に忘れ去られることとなった』とある。]
○甘肅眞州の窯(五雜俎)ニ
Persian
Ottery アリ
[やぶちゃん注:「甘肅眞州」不詳。こんな地名は見当たらぬ。……古くからシルクロードの要衝だった蘭州(現在の蘭州市)の誤記じゃあねえかなぁ?……。
「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになったという数奇な経緯を持つ書物である。]
○唐太宗に對 Arabia の援兵を乞ふ 得ず Defeat
[やぶちゃん注:「唐太宗」唐の第二代皇帝李世民(五九八年~六四九年)の在位期間は六二六年~六四九年。
「Defeat」負け。敗北。サーサーン朝ペルシャは六五一年にアラブ帝国に亡ぼされている。]
○Arabianization of Persia
○Persia は Arabia ニ服せられしを以て Arabian Civilization ハ Persia に入れり
○遣唐副使に使ひ Persian 奈良に來る(聖武)
[やぶちゃん注:「使ひ」は「使(仕)へし」の意であろう。
「続日本紀」には天平八(七三六)年十一月に唐人三人と波斯(ペルシャ人)一人が聖武天皇に謁見したという記録があり、これは遣唐使が連れ帰った人物で、中国名は李密翳とある。しかも最近では「破斯清通」という、彼或いは彼の縁者である可能性がある人物が、なんと、平城京で役人(大学寮の大属(だいさかん:四等事務官)として宿直勤務に当たっていた木簡の調査で明らかになってきてもいる(こちらのニュース記事を参照されたい)。]
*
《11-6》
○End of 宋
Influence
of
[やぶちゃん注:完全な宋の滅亡であろうから、南宋の滅びた一二七九年。本邦では弘安二年に当たる。
「Influence」影響。現在の中国を支配していた民族が全く変わるわけで、その文化的影響は計り知れない。]
○Arabian influence on China
○大食窯=七寶=the relation between Arabia
& China
[やぶちゃん注:「大食窯」イスラム(アラブ)の窯のことであろう。
「relation」関係(性)。]
○Pottery
○15 C. Spain ニアリシ Arabian ガ Majorca or Majoria 島民ニ製陶術を教ふ
lustre を帶びし釉藥を特色とす(交趾ニ似タリ。)
[やぶちゃん注:「Majorca or Majoria」綴りが不確かなために併記したものと思われる。英語では Majorca(マジョルカ)で前者が正しい。マヨルカ島(カタルーニャ語:Mallorca:スペイン語:Mallorca:は地中海西部、スペインの西のバレアレス海に浮かぶ島。バレアレス諸島最大の島。ウィキの「マヨルカ島」によれば、『日本では以前マジョルカ島と呼ばれたが近年はフランス語の発音に近い「マヨルカ島」に統一されてきた。マリョルカ島とも表記される』。『中世からルネサンス期のマヨルカ島は地中海貿易の中継地となった。バレンシアから輸出されたムーア人様式の陶器の影響を受けてイタリア各地で作られるようになった「マヨリカ焼き」の語源はマヨルカ島であるとされることもある』とある。そこでウィキの「マヨリカ焼き」を見ると、『マヨリカ焼き(Maiolica)はイタリアの錫釉陶器でルネサンス期に発祥した。白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたものが多い。地名呼称の表記のゆらぎにより』、『マジョリカ焼、マヨルカ焼、マリョルカ焼、マジョルカ焼とも』言う。『その名称は、中世イタリア語でマヨルカ島を意味する。マヨルカ島はバレンシア地方からイタリアにムーア人様式の陶器を輸出する際の中継点だった。ムーア人の陶工はマヨルカ島を経由してシチリア島にも移住したと見られ、同様の陶器はカルタジローネからもイタリア本土に入ってきたとされている』。但し、『別の説として、スペイン語の obra de Malaga、すなわち「マラガから(輸入された)食器」が語源とする説もある』。『ルネサンス期には、「マヨリカ」』焼きは』『イタリア産のものとスペインからの輸入ものを含んでいたが、その後』、『イタリア産の錫釉陶器全般を指すようになった。スペインがメキシコを征服すると、錫釉のマヨリカ焼きは』一五四〇年『ごろからメキシコでも生産されるようになり、当初はセビリア産の陶器を真似て作っていた』。『メキシコ産マヨリカ焼きは「タラベラ焼き」として有名である(タラベラ・デ・ラ・レイナが産地として有名)』。『錫釉は不透明で真っ白な表面を生み出し、その上に絵付けしたときに鮮やかに映える。錫釉薬を全体に施して、火にかける前に金属酸化物などで絵を描く。フレスコ画のように釉薬が顔料を吸収し、間違っても後から修正できないが、鮮やかな発色を保つことができる。時には表面にもう一度釉薬をかけ(イタリアではこれを coperta と呼ぶ)、さらに光沢を強くすることもある。光沢を増すには、低温での火入れに時間をかける必要がある。窯には大量の木材が必要とされ、陶芸が盛んになるに従って、森林伐採が進んだ面もある。釉薬の原料は砂、ワインのおり、鉛、錫である』。『マヨリカ焼きに端を発した』十五『世紀の陶芸(ファイアンス焼き』faience:繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器を指す。北イタリアのファエンツァが名称の由来。酸化スズを添加することで絵付けに適した白い釉薬が考案され、陶芸は大きく発展することになった。この発明はイランまたは中東のどこかで九世紀より以前になされたと見られている。錫釉陶器を焼くには摂氏千度以上の温度となる窯が必要)『と総称される)は、シチリア島経由で入ってきたイスラムの陶器の影響を受けてスズ酸化物を釉薬に加え、それまで中世ヨーロッパで行われていた鉛釉陶器の様式に革命を起こした』。『そのような古い陶器』『は「プロト・マヨリカ」などとも呼ばれる』。『それまで陶器の彩色はマンガンの紫と銅の緑ぐらいしかなかったが』、十四『世紀後半にはコバルトの青、アンチモンの黄色、酸化鉄のオレンジ色が加わった。ズグラッフィートと呼ばれる技法も生まれた。これは、白い錫釉をかけた後にそれを引っかいてその下の粘土が見える部分を作り模様などを描いたものである。ズグラッフィートはペルージャやチッタ・ディ・カステッロが本場とされていたが、モンテルーポ・フィオレンティーノやフィレンツェの窯からズグラッフィートの不良品が大量に見つかっており、そちらの方が生産量が多かったことがわかった』。十三『世紀後半以降、イタリア中部で錫釉陶器を地元で使用する以上に生産するようになり、特にフィレンツェ周辺が産地となった。フイレンツェの彫刻家の家系であるデッラ・ロッビア家もこの技法を採用するようになった(アンドレア・デッラ・ロッビアなど)。フィレンツェ自体は』十五『世紀後半には周辺の森林を伐採しつくしたために陶芸が下火になったが、周辺の小さな町に生産拠点が分散していき』十五『世紀中頃以降はファエンツァ』(Faenza:現在のエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市。ここ(グーグル・マップ・データ))『が中心地となった』。『フィレンツェの陶器に触発され』、同時期には『アレッツォやシエーナでも独特な陶器を生産するようになった』。この十五『世紀にはイタリアのマヨリカ焼きが完成度の面で頂点に達した。ロマーニャはファエンツァの名がファイアンス焼きになったことからもわかるとおり』、十五『世紀初頭からマヨリカ焼きの生産拠点となった。ファエンツァは陶器生産が経済上重要な地位を占めるようになった唯一の大都市だった』。『ボローニャでは輸出用に鉛釉陶器が生産された』。十六『世紀になると』、『マヨリカ焼きはウルバーニア、ウルビーノ、グッビオ、ペーザロでも作られるようになった』。十六『世紀初めには istoriato と呼ばれる様式が生まれた。これは歴史上または伝説上の光景を極めて精緻に描く様式である』。その後、『マヨリカ焼きの生産は、北はパドヴァ、ヴェネツィア、トリノまで、南はシチリア島のパレルモやカルタジローネまで広ま』り、十七『世紀にはサヴォーナが生産の中心地となった』が、十八世紀になると、『マヨリカ焼きは廃れ、より安価な陶磁器が主流となった』。『マヨリカ焼きという呼称は主に』十六『世紀までのイタリアの陶器を指し、ファイアンス焼き(および「デルフト焼き」)という呼称は』十七『世紀以降のヨーロッパ各地のものを指すが、その様式は多種多様である』とある。
「lustre」luster に同じ。主にイギリスで用いられる。光沢。
「交趾」交趾焼(こうちやき)。中国南部で生産された陶磁器の一種。名称はベトナムの旧地方名コーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船により、本邦に齎されたことに由来する。ウィキの「交趾焼」によれば、『正倉院三彩などの低火度釉による三彩、法花と呼ばれる中国の元時代の焼き物、黄南京と呼ばれる中国の焼き物や清の時代の龍や鳳凰が描かれた焼き物も広い意味では交趾焼である。総じて黄、紫、緑、青、白、などの細かい貫入の入る釉薬のかかった焼き物の』ことを指す、とある。]
○South Kensington, Museum
[やぶちゃん注:現在のロンドンのサウス・ケンジントンにある国立科学産業博物館(National Museum of Science and
Industry)に属する科学博物館である「サイエンス・ミュージアム」(Science Museum)の前身。一八五七年に設立される以前は、「ケンジントン・ミュージアム」と呼ばれ、その当時のミュージアムは、次に出る、現在、向かいにある「ヴィクトリア&アルバート博物館」の一部であった。一九〇九年に独立の施設となり、一九一三年に現在ある位置に移転している。]
○Victria-Albert Museum ニ多數の標本アリ
[やぶちゃん注:最後の「アリ」は次の《11-7》の頭に記されていると底本の編者注があるが、流石にこれは底本のママ、ここに配した。
同じくケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)は現代美術・各国古美術・工芸・デザインなど多岐に亙る四百万点余りの膨大なコレクションを中心にした国立博物館。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫アルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。]
« 芥川龍之介 手帳10 《10-6~10-17》及び旧全集一条 / 手帳10~了 | トップページ | 芥川龍之介 手帳11 《11-7~11-9》 »