ブログ・アクセス1050000突破記念 梅崎春生 葬式饅頭
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月号『新潮』に発表された。
底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。
「勝味」は「かちみ」で勝ち目と同じ。
「金壺眼」とは落ちくぼんでいて丸い目のこと。
「ワクドウ」ネットの天草方言集の中に(ここ)、ポルトガル語“wakudo”由来で、「蝦蟇(がま)」「蟇蛙(ひきがえる)」(そういえば、そこに記載されている英語の“toad”も発音が似ているように思える)の意とある。
本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1050000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年1月16日 藪野直史】]
葬式饅頭
寺内孝治の席が、二日前から空席になっていた。三日目の朝早く、僕が学校に行くと、校門のそばのポプラの木のかげから熊手伍一がぬっと出て来て、僕を呼びとめた。偶然にそこにいたのではなく、僕を待伏せして、ポプラのかげにかくれていたのらしい。
「おい。お前。知ってるか」
「な、なにをだい?」
熊手に対すると、どうも僕の声はどもり勝ちになる。いじめられまいとして、虚勢を張るせいだ。
「何かあったのか」
「ワクドウが死んだぞ」
「ワクドゥが? ま、またウソをつく!」
伍一はよくウソをつく癖があって、ウソツキ伍一と言うあだ名がついていた。ことに伍一は僕みたいな体力の弱い者にウソをつき、きりきり舞いをさせて、それを見て楽しむような傾向があった。強い者相手にウソをつくと、報復されるおそれがあるからだ。僕は強(し)いて落着き、わざとにやりと笑って言い返した。
「そうそうだまされてばかりはいないぞ」
「なに。おれがウソをついてるとでも言うのか」
白眼を剝(む)き出すようにして、伍一は詰め寄って来た。見るともう両掌が拳固になっている。僕は逃げ腰になった。向うは身軽だが、こちらはカバンを肩から下げているので、格闘になっても勝味はない。カバンを下げていなくても、先ず先ず勝味はないのだが。
「友達が死んだと言うのに、笑ってもいいのか」
「笑ってやしない」
飛びかかって来る気配を見せたので、僕はカバンを押え、横っ飛びに飛んで逃げた。力は弱いけれど、脚は僕の方が早い。伍一はとても遅い。運動会の徒競走でも、伍一はいつもビリだ。がに股だから、がたがたして、速く走れないのだ。伍一のお父さんは石屋で、石屋と言っても石塔専門の石屋で、やはりがに股だった。伍一のがに股はお父さんに似たのだろう。
伍一は僕を追っかけてがたがたと走ったが、途中で走るのを止め、大声で怒鳴った。
「あとからひどい目に合わせてやるからな。覚悟しておれよ」
その日はまだ五月だと言うのに、むんむんとしてむし暑い日だった。どろりと空気が淀んでいて、校庭の木の葉はそよともそよがなかった。やがて中庭の鐘がカーンカーンと鳴り、授業の一時間目が始まった。それなのに僕らの組担任の富岡先生は、なかなか教室にやって来なかった。だから皆は騒ぎ始めた。十分間ぐらいたって、扉をがたがたと引きあけ、詰襟服を着た富岡先生が、出欠簿をきちんと脇にかかえ、ぬっと姿をあらわしたから、ぴたりとがやがや騒ぎはしずまった。富岡先生が教壇に上ったので、僕は大声で号令をかけた。
「いち。礼。に」
いち、と言うのは、起立と言うこと。に、とは、着席のことだ。何故僕が叫ぶかと言えば、その時僕は級長だったのだ。
「今日は皆さんに悲しいお知らせをする」
いつもなら直ぐ出欠薄を開くのに、今日は先生はそうしなかった。詰襟のカラーに指を突込み、いかにも暑そうに、それを拡げる恰好をした。
「寺内孝治君が昨夜、なくなられた」
カラーに指を突込んだまま、先生は金壺眼(かなつぼまなこ)で皆をぐるぐると見回した。引込んだ下瞼にも、鼻の頭や顎(あご)などにも、先生はぶつぶつと汗をかいていた。出欠簿を机の上に置き、それを開いた。
「病気は盲腸炎だ。皆も用心せんけりゃならん」
カラーから指を引抜き、先生はうつむいて出席を取り始めた。その隙(すき)に乗じて、前方の席の伍一がふり向き、僕に向って憎々しげにアカンベーをして見せた。僕は知らんふりをしていた。級長ともあろうものが、アカンベーなんかに応じるわけには行かない。
(やはりワクドゥは死んだんだな。ウソじゃなかったんだな)と僕は考えた。(伍一の親父ほ石塔屋だから、ワクドウの親父が石塔を注文に行ったんだろう。だから伍一がそれを知ったのだ)
寺内孝治の家は魚屋で、ちょっと顔がヒキガエルに似ていて、だからワクドウと言うあだ名がついていた。僕らの地方では、ヒキガエルのことをワクドウと呼ぶのだ。ワクドウは組中で一番背が低く、いつも筒袖の着物で学校に通って来た。その筒袖の着物は、いつもぷんぷんと魚のにおいがした。寺内魚屋で製造するシべツキカマボコはうまかった。店の一番奥に掘抜井戸があり、そこらの薄晴い場所に石臼(うす)が据(す)えられ、石臼の中の魚肉を機械仕組の鉄棒が、ぐっしゃ、ぐっしゃ、とこね回す。これがこね上ると、千切って形をととのえ、ワラシべをまぶし、そのまま一箇十銭のカマボコになるのだ。もうこれからは、寺内魚屋に孝治を誘い出しに行っても、井戸と石臼の間から孝治の姿は出て来ないのだ。そして孝治も、出来上ったカマボコを聯隊(れんたい)に納めに行かなくても済むし、納めに行きたくとももう行けないのだ、と思った時、急に頭の奥が熱くなって、僕は汗を拭くふりをしながら、瞼の上から眼玉を押えていた。その時先生が僕の名を呼んだ。元気よく返事したつもりで、僕の声は甲高くかすれたらしい。先生は出欠薄から眼を上げ、不審げな視線を僕に向けた。僕は恥じて、うつむいた。
しかしワクドウの死は、それほどショックを僕ら級友に与えはしなかった。ワクドウはそれほど級では派手な存在ではなかったからだ。地味で、目立たず、それに勉強もあまり出来なかった。だから僕らは午前中、いつもと余り変らぬ気持で、授業を受けた。
お昼になった。気温はじりじりと上って、ひどく暑くなった。弁当を開くと、おかずにカマボコが入っていた。お母さんがそのカマボコをどこで買って来たのか知らない。(孝治は昨夜死んだ筈だから)僕はカマボコを嚙みながら思った。(寺内魚屋でカマボコをつくる筈がない。これは他の店のカマボコだろう。だからうまくない)
昼飯が済むと、僕は教員室に呼ばれた。教員室はいつも煙草のにおいがこもっている。今日放課後、先生と一緒に葬式に行くから、帰らずに待っているように、とのことだった。僕はお辞儀をして、教員室を出た。葬式に行くのはこれが初めてで、葬式に行ってどういうことをするのか、ただじっとしておればいいのか、そこのところがよく判らなかった。判らないままお辞儀をしてしまったのだ。教員室を出て、咽喉が乾いたから、水道の蛇口からがぶがぶと水を飲んでいると、隣の蛇口に熊手伍一がやって来て、同じく水をごくごくと飲み始めた。こんなに暑いと、誰だって咽喉が乾く。
「おい。お前」
飲み終ると伍一は僕に呼びかけた。
「葬式に行くんだろ。ワクドウの葬式に」
「どうして?」
「お前、今、教員室から出て来たじゃないか」
ふしぎなことだが、伍一の顔は一瞬おどおどと、不安そうな色を浮べているようだった。でもこれは僕の勘違いで、あまり暑かったからそう見えたのかも知れない。
「先生に呼ばれたんだろ」
「そうだよ」
「葬式に行けと言われたんか」
「まだ判らんよ」
朝からずっとつきまとっているようで、変にうるさい感じがしたから、僕はつっぱねた。
「じゃ、教員室で、何の話をしたんだい?」
「うるさいなあ。何の話だっていいじゃないか」
「ほら。やっぱり葬式だな」
伍一は僕の腕を摑(つか)んで、ねつっこい調子でくり返した。
「葬式だ。やっぱり葬式だ。な、お前、葬式に行くんだな」
「そんなに行きたけりゃ――」
僕は腹を立てて怒鳴った。
「お前も行けばいいじゃないか」
「誰があんなとこに行くものかい」
伍一は僕の腕をぎゅっとねじ上げた。
「あんな線香くさいとこ、誰が行きたがるもんか」
「行きたくなけりゃ、放っとけばいいじゃないか」
僕は伍一の手を力をこめて振り払った。
「あんまりしつこくすると、先生に言いつけてやるぞ!」
只今教員室から出て来たばかりだから、僕のその言葉には実感があったらしい。何時もと違って、伍一は僕に飛びかからず、口惜しげに唇を嚙み、僕をにらむだけだった。その伍一を尻眼にかけて、僕は教室の方に歩いた。
葬式はひどく退屈だった。
僕は富岡先生と並んで、ござをしいた板の間に坐らせられた。ござの上には、ぎっしりと人が坐っていた。お経は長いこと続いた。永久に続くのかと思われるほど、いつまでも続いた。学校の読方の本なら、大体終りの見当がつくが、お経となるとそうは行かない。僕の前には大人が坐っているから、和尚さんの姿は見えない。だからなおのこと退屈だった。
退屈だけならいいけれど、足が痛くてつらかった。ござがしいてあっても、もともと板の間だから、板の堅さがごりごりと脛(すね)に当る。葬式だから、あぐらをかくわけには行かない。ちゃんと正座して、膝に手を置いていなければならない。
隣の富岡先生をぬすみ見ると、先生も青黒い顔を緊張させて、たいへんつらそうだった。子供より大人の方が、体重があるから、その分だけつらいだろう。板の間にぎっしりつまった人々の、身じろぎする度にごりごりと鳴る脛骨の音が、お経の間(あい)の手のように、あちこちで鳴った。
つらいのは足の痛さだけでなかった。板の間は風通しが悪く、暑さがむんむんとこもり、汗がひっきりなしにしたたり落ちた。大人と違って、ハンカチなんて気の利(き)いたものを、僕は持っていない。掌で拭くより仕方がない。掌が濡れて来たら、あとは上衣の袖口だけだ。汗は拭いても拭いても吹き出した。一番噴出量の多いところは、鼻の両脇とおでこだった。おでこの汗は、油断をすると、玉になって、眼にするりと流れ入った。流れ入ると、眼玉がやけに塩辛かった。塩辛いから、それを薄めるために涙が出る。辛いから涙が出るのか、悲しいから涙が出るのか、よく判らないような気分になり始めた頃から、僕は何となく悲しくなって来たらしい。
(ワクドウよ。死んだお前もつらかろうが、生き残ったおれたちもラクではないぞ)
気分をごまかすために、僕はそんなことを考えた。
(しかし、お前はまあいいよ。ごりごりの板の間に坐らずにすむし、もう勉強なんかしなくてもいいし、伍一などにもいじめられないし)
実際ワクドウも、伍一からはよくいじめられた。ワクドウは顔に似ず力は弱いし、勉強は出来ないし、誰だってちょっといじめたくなるような感じの子だった。しかしワクドウは泣き虫じゃなかった。いくらいじめられても、泣かなかった。だから、なおのこといじめられるのだ。泣いてしまえば、いじめは終るので、それではいじめ甲斐がない(お前が死んだんで、いじめ相手が一人減って、伍一もきっと淋しがってるぞ)
永々と果てしなく続いていたお経が、突然と言った感じで、ふっと終った。樹にとまって啼(な)いていたセミが、とらえてやろうと樹に近づくと、ふっと啼きやめて飛んで行く。それに似ていた。お経が終ると、あたりがちょっとざわめいて、安堵のあまりに汗がひとしきりどっと吹き出した。
ワクドウは白茶けたような顔で、棺の中で死んでいた。閉じた瞼は、青みを帯びていた。僕は先生と並んで棺の前に坐り、先生がする通り頭を下げた。頭を畳にこすりつけた。すりつけたまま先生が頭を上げないので、頭をずらすようにして横眼でうかがうと、先生は突然、ううっ、と言うような声を立てた。そして先生は急いで頭を上げ、右腕を眼に当て、肩をがくがくと上下に動かした。
先生が泣いているんだと、僕はその時初めて判った。
先生が泣いてるのに、生徒の僕が泣かないなんて、ちょっと具合が悪いと思ったが、そう思ったせいで、もう涙が出なくなってしまった。眼をばちばちさせて催促したが、どうしても出て来なかった。余儀なく出来るだけ神妙な顔となり、ワクドウの顔ばかりを眺めていた。ワクドウの全身は白布でおおわれ、出ているのは顔だけだった。その顔だけをにらんでいることは、悲しいと言うよりも、苦痛だった。
早く棺から離れたいと思うのに、先生はまだ泣きやまない。
ずしりと重い紙袋を呉れた。
それを持って表に出ると、もう夕方になっていた。十間ばかり歩いて、紙袋の中をのぞくと、饅頭が二つ入っている。祝日に学校で貰う饅頭より一回り大きく、平べったかった。色も紅白でなく、表に茶色の焦げ目がつき、葉っぱのような模様が浮き出ていた。僕は唾を呑んだ。夕方だから腹が減っていたのだ。
いくら腹が減っているとは言え、また人通りが少いとは言え、街中でむしゃむしゃと食えない。葬式の帰りだし、級長がそんな行儀の悪いことは出来ない。
カバンにしまい込もうかと思ったが、カバンは教科書や筆入れで満員で、入りきれない。
仕方なくぶらぶらと下げてあるいた。
ずんずん歩いて、静かな寺町に入ると、うすら夕日の射す道端で、ウソツキ伍一がひとりで淋しそうに、石蹴りをして遊んでいた。ここで伍一なんかに会うのはまずい。別の道に変えようか、と立ち止ったとたん、僕は伍一に見つけられてしまった。伍一は石蹴りを中止し、長い長い影を引きずって、僕の方に大急ぎでかけて来た。砂ぼこりがばたばたと立った。
「葬式、済んだのか」
つぶつぶ汗の吹き出した顔の、下唇を突き出すようにして、伍一は言った。
「面白かったか」
「面白いわけがあるもんか」
脛の痛さを思い出して、僕はとげとげしく言い返した。
「お前、待ってたのか」
「何をだ」
「おれをだよ。待伏せしていたのか」
「誰がお前なんかを待伏せするもんかい」
道にころがった小石を、伍一は溝の方にえいとばかり蹴飛ばした。
「おや。それは何だい」
「何でもないよ」
紙袋をうしろに僕はかくすようにした。
「貰ったんだよ。饅頭だ」
「なに。饅頭だあ?」
伍一は僕のカバンの紐をしっかと握った。逃げ出さないためにだ。
「見せろ」
「イヤだ」
僕はふりほどこうとしたが、伍一の握力が強かったので、失敗に終った。だから仕方なく言った。ここらで手間取ると、帰りが遅くなる。
「では、見せるだけだよ」
僕は紙袋を出した。伍一は眼を丸くしてのぞき込み、さっきの僕と同じように、ごくりと唾を呑み込んだ。
「すごく大きいなあ。この饅頭は」
「大きいにきまってるよ。葬式饅頭だもん」
僕は知ったかぶりをした。葬式なんて初めてだから、饅頭の大きさなんか知っているわけがない。
「小さけりゃおかしいよ」
「二つもあるじゃないか」
「あたりまえだ。葬式饅頭だもの」
「二つとも、お前が食べるのか」
伍一は上目遣いで、じろりと僕を見た。
「二つなんて、ぜいたくだ。一つ、おれに呉れ」
「イヤだよ。おれが貰ったんだから」
「だから、呉れと言ってるんじゃないか」
要求を拒まれると、むきになってしつこくなる癖が、伍一にはある。
「おれだって、ワクドウの友達だ」
「しかし葬式には行かなかったじゃないか」
「行かなかったから、頼んでるんじゃないか」
カバンの紐ごと、伍一は僕の身体をがくがくとゆすぶった。
「どうしてもイヤだと言うのか」
「どうしてもイヤだ」
「なに。こんなに頼んでも、イヤだと言うか」
伍一はいきなり紙袋をひったくろうとした。僕はそうさせまいとした。紙袋が四つの手の間でもつれ、饅頭がころころと空間に飛び出した。あわてて受止めようとしたが、遅かった。饅頭はぼとぼとっと続いて地面に落ち、砂ぼこりの中にころがった。
「あ!」
伍一もびっくりしたらしい。烏の囁くような声を立てると、そのまま後しざりした。僕と饅頭を七三に見ながら、どもった。
「お、おれのせいじゃないぞ。おれのせいじゃないぞう」
そのままくるりと背を向けて、伍一はがに股をすっ飛ばして逃げて行った。
僕は全身汗だらけになって、饅頭を見おろしていた。途方もなく大切なものをこわしたような気分で見おろしていた。どうしたらいいのか。
(拾ってうちへ持って帰って、割って中の饀(あん)だけ食べようか)
そう考えた次の瞬間、僕はひどく腹が立って、何やかやに対してむちゃくちゃに腹が立って来て、エイ、エイ、とかけ声をかけて、饅頭を次々に溝の中に蹴り込んだ。蹴り込む足の先が、しびれるような気がした。
家に戻ると、帰りの遅いのを心配して、門のところにお婆さんが立って待っていた。僕は孝治の葬式の話をした。お婆さんが聞いた。
「何も貰わなかったのかい」
「いいえ」
僕はウソをついた。
「何も貰わなかったよ」
「ほんとかね」
お婆さんはきつい眼をした。僕はうなずいた。葬式饅頭を貰って、途中で食べてしまったのではないか、とお婆さんは疑っているのだ。その証拠にお婆さんは、晩の食事で僕が平常通り食べるかどうか(葬式饅頭を食えば、夕食の量は減るだろう)眼を光らしているようだった。
そのお婆さんの気持は了解出来るが、どうしてあの伍一が一日中、ワクドウの葬式にばかりこだわっていたかは、今もって判らない。