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2018/01/11

芥川龍之介 手帳8 (2) 冒頭パート(Ⅱ)

 

○ランプ來る 始 三分心 一圓五十踐。(年代不明) ○明治二三年時代。百兩のムジン飛び切り 凡そ七八兩が通例 七八兩にて良馬あり ○明治十二三年。大工の手間五匁。(八錢六リン六毛)(食事さきもち) ○同時代 娼妓五匁 酒一合八リン 散らし(一時間三味線をひき騷ぎゆく事)四錢 洗馬に石鹸來るは二十年頃 華魁の夷講 身錢を切つて客をよぶ 客なければ友だちをよぶ 年季をますも恐れず

[やぶちゃん注:「三分心」九ミリメートルのランプの芯であろう。

「明治二三年時代」明治二、三年頃の謂いであろう。当時は未だ旧暦を使用していた(明治五年まで。新暦への改暦は明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)に布告され、翌月に実施された。則ち、旧暦明治五年十二月二日(グレゴリオ暦十二月三十一日)を以って天保暦が廃止された。このため、明治五年の十二月は二日間のみとなり、この年の一年は三百二十二日となった。師走の期間がほとんどなく、年中行事に支障を来したという。明治六年一月一日が正しく西暦一八七三年一月一日となった)から、一八六八年末から一八七一年年初に相当。

「ムジン」無尽講(参加した全会員が毎回幾ばくかの金を拠出して資金を積み立てていき、各会員は条件に沿って全期間の内の一回積立金を取る。全員が積立金を受け取った時点で一旦終了となる、古くから日本にあった名目上の相互扶助システム)のことか。ウィキの「無尽」によれば、『明治時代には、大規模で営業を目的とした無尽業者が発生していった。中には会社組織として営業無尽をするものが多く現れるようになったものの、これらの事業者には脆弱な経営、詐欺的経営や利用者に不利な契約をさせる者も多かったが、当時は、これを規制する法令がなかったため、業界団体無尽集会所などを中心に規制する法律の制定が求められるようになり』、大正四(一九一五)年になって、やっと、旧『無尽業法が制定され、免許制となり、悪質業者は排除されていった』とある。

「兩」現行の通貨単位「円」は明治四年五月十日(一八七一年六月二十七日)に制定された新貨条例で定められたもので、この明治二、三年頃はまだ最高金額単位が両だったのである。

「飛び切り」無尽講の最高額の謂いか。

「明治十二三年」一八七九~一八八〇年。

「洗馬」「せば」で現在の長野県中央部の塩尻市の一地区である、中山道の宿駅であった旧洗馬村のことであろう。芥川龍之介の盟友であった画家小穴隆一(明治二七(一八九四)年生まれで龍之介より二歳歳下)はここの旧家の出身である。彼からの採話と考えてよい。因みに、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で彼の著作「二つの繪」「鯨のお詣り」を完全電子化注している。

「石鹸」ウィキの「石鹸」によれば、『最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門である。堤磯右衛門石鹸製造所は』明治六(一八七三)年三月、『横浜三吉町四丁目』(現:南区万世町付近)『で日本最初の石鹸製造所を創業、同年』七月に『洗濯石鹸』を、『翌年には化粧石鹸の製造に成功した』。明治十(一八七七)年の第一回『内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。その後、香港・上海へも輸出され、明治』十『年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えた』。明治二三(一八九〇)年、『時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で第』一『位になったが、全国的な不況のなかで経営規模を縮小し』、『翌年』、『創業者の磯右衛門が死去』すると、その二年後の明治二十六年には『廃業した。彼の門下が花王、資生堂などで製造を続けた』とある。『銭湯では明治』十『年代から使用され始め、洗濯石鹸のことを「洗い石鹸」、洗面石鹸のことを「顔石鹸」と称していた、ともある。

「二十年」一八八七年。

「華魁」「おいらん」。花魁。

「夷講」ここは遊廓行事としてのそれ。正月二十日(見世(みせ)によっては他の日に行ったところもあるらしい)に、商売繁盛を祈願して夷棚を飾り、親戚や知人を呼んで宴席を設けた(十月にもあった)が、ここはその日に花魁が馴染み客に行ったそれであろう。]

 

○河童。――明治二三年、洗馬に二十人程入れる小屋をかけ(地藏裏のあき地)赤胡蘿に長毛をつけ 水にうかし時々うかし河童と稱す 豚一匹外に見せ物とす 大人小人の見料を拂ふ(覗きは三文と云ふ言葉あり)

[やぶちゃん注:「明治二三年」ここも明治二、三年頃の謂いであろう。

「洗馬」前条参照。やはり、これは洗馬出身の友人小穴隆一からの採話であると断じてよかろう。

「赤胡蘿」「あかこら」。人参のことではないかと思われる。「胡蘿蔔」(こらふ)はニンジンの漢名であり、元は西域(「胡」国)から渡来した「蘿蔔」(大根(ダイコン))の意で「赤」はその色を添えたのであろう。]

 

○小兒の言葉 鬼の齒よりおれの齒の方が先へはえろ ○御天陽 御天陽 御手紙あげるで戸をあけておくんなさんし(雨天に云ふ) ○女の中に男が一人もの 女をかばふはへぼ男

[やぶちゃん注:「御天陽」「おてんたう(さま)」或いは「おてんと(さま)」と読むのであろう。]

 

○せせらぎ――せんげ せんぎ or せぎ

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」に「せんぎ」があり、『方言』とし、『灌漑用水などの小さい流れ』とあって、長野県諏訪・静岡県田方郡及び「せんげ」として長野県松本・静岡県下田を採取地として挙げる。なお、大正一一(一九二二)年七月発行の『中央公論』に掲載された「庭」の「中」で(リンク先は私の古い電子テクスト。太字は芥川龍之介の原文では傍点「ヽ」)、

   *

 それから二三日たつた後、三男は蕗の多い築山の陰に、土を掘つてゐる兄を發見した。次男は息を切らせながら、不自由さうに鍬を揮(ふる)つてゐた。その姿は何處か滑稽な中に、眞劍な意氣組みもあるものだつた。「あに樣、何をしてゐるだ?」――三男は卷煙草を啣(くは)へたなり、後から兄へ聲をかけた。「おれか?」――次男は眩(まぶ)しさうに弟を見上げた。「こけへ今せんげ(小流れ)を造らつと思ふ。」「せんげを造つて何しるだ?」「庭をもとのやうにしつと思ふだ。」――三男はにやにや笑つたぎり、何ともその先は尋ねなかつた。

 次男は每日鍬を持つては、熱心にせんげを造り續けた。が、病に弱つた彼には、それだけでも容易な仕事ではなかつた。彼は第一に疲れ易かつた。その上慣れない仕事だけに、豆を拵(こしら)へたり、生爪を剝いだり、何かと不自由も起り勝ちだつた。彼は時時鍬を捨てると、死んだやうに其處へ橫になつた。彼のまはりには何時になつても、庭をこめた陽炎(かげろふ)の中に、花や若葉が煙つてゐた。しかし靜かな何分かの後、彼は又蹌踉(よろよろ)と立ち上ると、執拗に鍬を使ひ出すのだつた。

 しかし庭は幾日たつても、捗捗(はかばか)しい變化を示さなかつた。池には不相變草が茂り、植込みにも雜木が枝を張つてゐた。殊に果樹の花の散つた後は、前よりも荒れたかと思ふ位だつた。のみならず一家の老若(ろうにやく)も、次男の仕事には同情がなかつた。山氣(やまぎ)に富んだ三男は、米相場や蠶(かひこ)に沒頭してゐた。三男の妻は次男の病に、女らしい嫌惡を感じてゐた。母も、――母は彼の體の爲に、土いぢりの過ぎるのを惧(おそ)れてゐた。次男はそれでも剛情に、人間と自然とへ背を向けながら、少しづつ庭を造り變へて行つた。

 その内に或雨上りの朝、彼は庭へ出かけて見ると、蕗の垂れかかつたせんげの緣に、石を並べてゐる廉一を見つけた。「叔父さん。」――廉一は嬉しさうに彼を見上げた。「おれにも今日から手傳はせておくりや。」「うん、手傳つてくりや。」次男もこの時は久しぶりに、晴れ晴れした微笑を浮べてゐた。それ以來廉一は、外へも出ずにせつせと叔父の手傳ひをし出した。――次男は又甥を慰める爲に、木かげに息を入れる時には、海とか東京とか鐵道とか、廉一の知らない話をして聞かせた。廉一は青梅を嚙じりながら、まるで催眠術にでもかかつたやうに、ぢつとその話に聞き入つてゐた。

   *

と出る。なお、この登場人物の「廉一」は小穴隆一がモデルともされる。]

 

○雨乞鳥 簑笠きこきいとナク(夏)

[やぶちゃん注:「雨乞鳥」鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科ショウビン(翡翠)亜科ヤマショウビン属アカショウビン Halcyon coromandaウィキの「アカショウビンの「伝承」が興味深い。『和歌山県では本種を方言名でミズヒョロと呼ぶ』。『中辺路町誌に「ミズヒョロと呼ぶ鳥」との記事があり、内容は以下の通りである』。『「果無山脈など奥地に赤く美しい鳥が雨』模様になる時だけ、『ひょろひょろと澄んだ声で鳴く。この鳥は元は娘で、母子二人、この山の峰伝いで茶屋をしていた。母が病気になり、苦しんで娘に水を汲んでくるように頼んだ。娘は小桶を持って谷に下ったが、綺麗な赤い服を着た自分の姿が水面に映っているのに見とれてしまった。気がついて水を汲んで戻ったときには母はすでに事切れていた。娘は嘆き悲しんで』、『いつしか』、『赤い鳥に生まれ変わった。だから普段は静かに山の中に隠れ、雨模様になると』、『ひょろひょろと鳴き渡る」』という。また、別な資料の伝説では、もう少し詳細が描かれており、話の題は「みずひょうろう」で、『母子がすんでいたのはこの話では美山村の上初湯川(かみうぶゆかわ)で、娘は素直に母の言葉を聞かない子だった。そのため』、『明日をも知れぬ状態の母はどうしても水が飲みたくて『赤い着物を着せてあげる』から汲んできて欲しいと願う。娘は大喜びで着替えて井戸に向かい、しかし井戸に映った姿に見とれ、結局汲んで戻ったものの』、『母はすでに死んでいた。娘は自分を恥じて泣き、とうとう井戸に飛び込んだ。そこに白い毛の神様が出てきて『お前のように言うことを聞かない子は鳥にでもなってしまえ』と言うと、娘は赤い鳥に変わり、今もこの地方の山奥で『ミズヒョロ、ミズヒョロ』と鳴いている、という』。『龍神村』にもこの『鳥の伝説』があり、それは『上記二つの話をさらに簡素にしたようなものである。ただし』、『夏に日照りが続くほど高いところで鳴き、雨が続くと里に下りてくること、その泣き声が哀調を帯びていて母を助けられなかった嘆きのようだとある』。『龍神村ではまた単にミズヒョロが鳴くと雨が降るとの言い伝えもあったらしい。さらに上記の伝承との関連かミズヒョロは『水欲しい、水欲しい』と鳴いているとも伝えられ、あるいは子供に川に洗濯にやらせたとき、あまり遅いと『そんなことをしているとミズヒョロになるぞ』と脅したとも言う』(下線やぶちゃん)とあり、龍神村という名といい、雨・水との強い連関性が窺える。You Tube kenomisawa で鳴き声が聴ける。私には「キョロロロロ……」と聴こえる。

「簑笠きこきい」「簑笠」を「着(き)て来(こ)」、「来(き)い」な、雨が降るぞ、の謂いか?]

 

○易者前世に着物を一枚かりたりと云ふ 女着物を寺にをさめに行く 途中乞食にあひその着物をやる 乞食驚く

○大工六百圓に體をうる その金にて洋服靴をつくる 靴出來し時金なし(のんでしまふ)靴は十二文甲高故外にはきてなし 靴屋原料代にてよしと云ふ それもなし 靴屋へきえきし去る

[やぶちゃん注:後の条は、大正一四(一九二五)年六月発行の『女性』初出の「溫泉だより」の素材である。時代背景は明治三十年代(一八九七年~一九〇六年)で主人公の名は萩野半之丞という大工である。題名の温泉は伏せてあるが、芥川龍之介が同年四月に滞在した修善寺温泉で、萩野半之丞もこの町の山寄りに住んでいたと初めに出る。メモ絡みの当該箇所のみを岩波旧全集より引く(冒頭の「……」は私が省略したことを示す。読みは一部に限った)。

   *

……「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の體を賣つたのは。しかし體を賣つたと云っても、何も昔風に一生奉公の約束をした訣ではありません。唯何年かたつて死んだ後(のち)、死體の解剖を許す代りに五百圓の金を貰つたのです。いや、五百圓の金を貰つたのではない、二百圓は死後に受けとることにし、差し當りは契約書と引き換へに三百圓だけ貰つたのです。ではその死後に受けとる二百圓は一體誰(たれ)の手へ渡るのかと言ふと、何なんでも契約書の文面によれば、「遺族又は本人の指定したるもの」に支拂ふことになつてゐました。實際又さうでもしなければ、殘金二百圓云々は空文に了る外はなかつたのでせう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さへ一人もなかつたのですから。

 當時の三百圓は大金だつたでせう。少くとも田舍大工の半之丞には大金だつたのに違ひありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買つたり、背廣を拵へたり、「靑ペン」のお松と「お」の字町へ行つたり、たちまち豪奢を極め出しました。「靑ペン」と言うのは亞鉛(とたん)屋根に靑ペンキを塗つた達磨茶屋(だるまぢやや)[やぶちゃん注:売春宿。売春婦のこともかく称する。寝ては起き、寝ては起きするところからの蔑称。]です。當時は今ほど東京風にならず、軒(のき)には絲瓜(へちま)なども下つてゐたさうですから、女も皆田舍じみてゐたことでせう。が、お松は「靑ペン」でも兎に角第一の美人になつてゐました。尤もどの位(くらゐ)の美人だつたか、それはわたしにはわかりません。唯鮨屋に鰻屋を兼ねた「お」の字亭のお上の話によれば、色の淺黑い、髮の毛の縮れた、小がらな女だつたと言ふことです。

[やぶちゃん注:中略。「半之丞」ではなく、「靑ペン」の話が一段落分挟まっている。]

 半之丞の豪奢を極きわめたのは精々一月か半月だつたでせう。何しろ背廣は着て步いてゐても、靴の出來上つて來た時にはもうその代(だい)も拂へなかつたさうです。下(しも)の話もほんとうかどうか、それはわたしには保證出來ません。しかしわたしの髮を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元價(もとね)に買つておくんなさい。これが誰(たれ)にでも穿ける靴ならば、わたしもこんなことを言ひたくはありません。が、棟梁、お前さんの靴は仁王樣におうさまの草鞋(わらぢ)も同じなんだから」と頭を下さげて賴んだと言ふことです。けれども勿論半之丞は元價にも買ふことは、出來なかつたのでせう。この町の人人には誰(だれ)に聞いて見ても、半之丞の靴をはいてゐるのは一度も見かけなかつたと言つてゐますから。

   *

全文は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名である。なお、この小品の内容が完全に事実に即しており、その時に聞き書きしたメモが確かにこれであったとするならば、この条は、大正一四(一九二五)年四月十日から五月三日まで滞在した修善寺で記録されたと仮定することは可能である。序でに言えば、次に蕎麦の薬味を記しているが、修善寺は蕎麦の名所である。]

 

○ソバの藥味 大根おろし 胡椒 蜜柑の皮 燒味噌

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