芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」
五
1・Aの手紙 その二
其後君の返事を待っていたが来ないから之をかくり
…………略…………
江尻の海岸は眼界が余り広くない。右に長くさし出た三保の半島、左にたゝなわる愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)その間には伊豆の山々が曇った日はかすかな鼠色に、晴れた日にはさえた桔梗(ききょう)色に長く連っているために、殆水平線と云うものは見られないと云っていゝ。唯塩分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云いようの無い美しい青藍色をたゝえるのがうれしい。
設備も鎌倉や鵠沼に比べると不完全だが靴をはいて泳ぐような人を見かけないのが取柄だろう。
泳ぐのにつかれると濡れた体を熱い砂の上にふせてうとうとゝねむりながら懶(ものう)い海のつぶやきをきく。ダンヌンチオの Triumph of Death に Giorgio と Ippolita が海水浴をする美しい描写があった。藻のかおりと髪のかおりとの中に伊大利(いたりー)の海が鈍い銀色に光る官能的なあのパッセイジはこうして砂の上に寝て海の声をきいているとしみじみと心によびかえされる。
海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁った緑色(りょくしょく)につぶつぶと不平らしい泡をたてゝあるが、遠い所は濃いエメラルド、グリインからインヂアン、ブリユウに至るあらゆるうつくしい語調をつくって南の空をめぐる太陽の下に、はればれと笑っている。ゴルキイの
Malva 第一行に the sea is laughing とかいてある。丁度その様に海が笑っているのである。
日が傾いて砂の上に落ちたものゝ形が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかえってくる。
玉蜀黍(とうもろこし)の畑で行水をつかい、夕飯(ゆうめし)をすましてから散歩にゆく。清水(しみず)の町へゆく事もある。龍華寺(りょうげじ)鐡舟寺へゆく事もある。豆の葉の黄色くなった畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちているのに気がつく。蛙(かわず)がなく。「種豆南山下、草長豆苗稀」と云うような田園詩の気分をなつかしく思う。
……………略……………
1・Aの手紙 その三
……………略……………
木曽は大へん蚤の沢山いる所だった。福島へ泊った晩なぞは体中がまっ赤にふくれ上ってまんじりとも出来なかった。これから木曽へゆく旅客は是非蚤よけを持ってゆく必要がある。矢張福島で横浜商業の生徒と相宿になった。体格のいゝ立派な青年だったが驚く可く寝言を言う。夜中にいきなり「冗談云ってら、そんな事があるもんか」とか何とか云われた時には思わずふき出しちまったものだ。
……………略……………
かけはしだの寝覚めの床だのに低徊してからやっと名古屋へ行った。……僕たちは伊東屋呉服店の木賊色(とくさいろ)と褪紅色(たいこうしょく)との
NUANCE を持った食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た。偕楽亭の草花の鉢をならべたヴエランダであいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯(ひ)の海をあるく名古屋人を大勢見た。そうしてその中のどいつをみても皆いやな奴であった。某々(ぼうぼう)の会社からの紹介状や名刺を出して参観を頼んだ。帳簿や書類の間から黄疸やみのような顔を出す書記や給仕や職工に大勢遇った。そうしてそのどいつをとってみてもみないやな奴ばかりだった。
至るところで旅烏の身に与えた不快な印象を負っていたるところの工場で参観を拒絶されて僕たちはとうとう中京と呼称する尊敬すべき名古屋を御免蒙った。僕は名古屋と甲府ほど嫌な都会を見た事がない。尤も名古屋に蚤のいないだけは木曽より有難ったけれど。
[やぶちゃん注:「1・Aの手紙 その三」は底本では「1Aの手紙 その三」となっているが、前後と照応させて、特異的に中黒点を打った。また、「鵠沼」には「くがぬま」のルビがあるが、採用しない(無論、「くげぬま」だからである)。更に、「Giorgio」は実は底本では「Ciorgio」となっているのであるが、これも綴りの誤り(後の原書簡参照)であるので、特異的に訂した。最初の略のリーダ数が少ないのはママ。
まず、最初の方の「1・Aの手紙 その二」の書簡抜粋は、岩波旧全集書簡番号一〇〇の大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持ったものである。以下に全文を示す。
*
其後君の返事を待つてゐたが來ないから之をかく
大學の手續は分つたかね
結婚問題は片づいたかね
本は屆いたらうか
以上用事 之から僕の生活をしらせる
朝六時頃起きて床をあげ部屋の掃除をする
朝飯 飯は大抵少し糠くさい それから机を西向の窓の下にうつして本をよむ 窓の外は桑畑 幅の廉い綠色の葉に蕗が眞珠のやうに光つて其間にうなだれた夾竹桃の赤い花を蜂が唸りながらふるはせてゆく 土のにほひ 八月の日光 十時頃机を東の庭にむいた座敷へうつす もう簾一面に當つてゐた日が椽に落ちて座敷には微涼が芭蕉の葉のほのかなにほひと共にうごいてゐる 白つちやけた砂まじりの庭の土に山茶花 枇杷 棕櫚竹が短い影をおとす 蟬の壁 晝飯をくつてから一時間 午睡をするか新聞をよむかする 新聞は國民で三重吉の桑の實を每日おもしろくよんでゐる
一時うつと手拭を腰にさげて一高の夏帽子をかぶつて海水浴へ行く 浴場は江尻の海岸で寺から約半里ある 途は可成あつい 桑の葉黍の葉の綠、胡麻の花のうす紅 埃に白けた月見艸がしほれ乍ら路ばたにさいてゐる 不二見橋と云ふのを渡る 欄干の下を碧い水がみがいた硝子板の如く光り乍ら流れる 半町ほど隔てた港橋の向ふには漁船の檣が林立して其上に晝の月が消えさうに白く浮んでゐる 橋の袂の氷店の赤い緣をとつた旗の下をすぎると低い茅茸瓦屋根の狹い町になる 理髮店 梨や西瓜を商ふ靑物店 機屋 荒物屋 それらの家々の間には玉蜀黍の葉がそよぎ黃色い向日葵の花がさしのぞく 町はづれの松原を二三町行くと煉瓦燒場の低い板葺 美普教會の尖つた塔が江尻に近づいた事を知らせる 路ばたの甘藷畑、砂糖畑の向ふに靑い海が的爍と光るのも見える 輕便鑄道(清水靜岡間)の線路を一つ橫ぎると江尻で魚屋の壁にはられたすゝびた江戸役者の似顏繪も宿驛らしいなつかしさを感ぜしめる[やぶちゃん注:「美普教會」「みふきょうかい」(現代仮名遣)。日本美普教会(The Methodist Protestant Church)のこと。メソジストの流れにあった日本の教派であるが、米国メソヂスト教会からは正式には後の昭和五(一八三〇)年に分離している。但し、昭和一七(一九四二)年に日本基督教団の部制解消によって消滅し、この教派は現存しない。詳しくはウィキの「日本美普教会」を参照されたい。但し、これは大正二(一九一三)年の記載であるから、龍之介は「メソジスト(派)の教会堂」の意で使っている。]
江尻停車場の後をだらだらと海へ下る 錢道院の管理の下に營業する海水茶屋が三四軒葭津張を海へ張り出して旗をたてたり提灯を吊つたりして客をよんでゐる 無料休憩所へはいて[やぶちゃん注:ママ。]着物をぬぐ
江尻の海岸は眼界が餘り廣くない 右に長くさし出た三保の半島 左にたゝなはる愛鷹の連嶺 その間には伊豆の山々が曇つた日はかすかな鼠色に晴れた日にはさえた桔梗色に長く連つてゐるために殆水平線と云ふものは見られないと云つていゝ 唯鹽分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云ひやうのない美しい靑藍色をたゝへるのがうれしい
設備も鎌倉や鵠沼に比ると不完全だが靴をはいて泳ぐやうな人を見かけないのが取柄だらう
泳ぐのにつかれると濡れた體を熱い砂の上にふせてうとうととねむりながら懶い海のつぶやきをきく D’annunzio の Triumph of Death に Giorgio と Ippolita が海水浴をする美しい描寫があつた 藻のかほりと髮のかほりとの中に伊大利の海が鈍い銀色に光る官能的なあの PASSAGE はかうして砂の上に寐て海の聲をきいてゐるとしみじみと心によびかへされる
海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁つた綠色につぶつぶと不平らしい泡をたてゝゐるが遠い所は濃い EMERALD GREEN から INDIAN BLUE に至るあらゆるうつくしい諧調をつくつて南の空をめぐる太陽の下にはればれと笑つてゐる Gorky の Malva 第一行に“the sea is laughing”とかいてある丁度その樣に海が笑つてゐるのである
日が傾いて砂の上に落ちるものの影が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかへつてくる
玉蜀黍の畑で行水をつかひ夕飯をすましてから散步にゆく 龍華寺錢舟寺へゆく事もある 淸水の町へゆく事もある 豆の葉の黃色くなつた畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちてゐるのに氣がつく 蛙がなく
〝種豆南山下 草長豆苗稀″と云ふやうな田園詩の氣分をなつかしく思ふ[やぶちゃん注:終りのクオーテーション・マーク「″」は底本では左下にある。]
鴟尾の一つかけた寺の門の上に月をみながらかへつて來て蚊帳をつる 寐る その間に近所の小供や寺のおかみさんと話しをする事もある 小栗栖君の不二見一村に於ける人望は大したものである 八木君も中々信用がある 僕に至つては到底あんなに評判がよくなりさうもない
戸田君の逸話も寺のおかみさんからきいた 行水を使ふときにみそのおしろいをつけるのださうだ 冗談ぢやあない いくらやさ形だつて二十三になる男がおしろいなんぞつける奴があるもんですかと云ふとまああんたいくら田舍者だつとつてもみそのおしろいぐらいはしつとりますわね ほんとうですよあんたと極力主張する この分では僕もあとで何とか云はれさうだ 餘程素朴質素な生活をしなくつちやあ小栗栖八木兩君に封しても申譯が立たないやうな氣がする
毎日鹽からい田舍料理と鹽からい海水をのむので甘い物が戀しくて仕方がない 尤も東京からデセールや甘納豆やバナヽケークなどを持つて來た事は來たがそれも一週間たゝないうちに食つてしまつた 此近所の菓子は實にまづい 仕方がないから淸水迄ミルクセーキをのみにゆく事にしてる
蛙がどこにでも澤山ゐる 蛇の顏に HUMANITY があると云つたのは Walter Pater だが僕には蛙の方が更にHUMANITY がある樣な氣がする 東京近在にはゐないが黑白染分けの小さな蛙が行水を使ふ時なぞ鼻のさきへ來てすはつてゐると何だか口をきゝさうで氣味が惡い 一寸佐藤修平のひまごのやうな氣もする
BÖCKLIN
に「魚の王」と云ふ繪がある 人の顏と魚の顏とを一緒にしたやうな醜怪な動物の肖像だが蛙をみると僕は必この魚の王を思ひ出す
もう一週間もしたら鶴沼へうつるかもしれない さようなら
八月十五日
*
この年の七月一日、芥川龍之介は第一高等学校一部乙類(文科)を卒業(全二十六名中、成績は二番であった。一番は、何を隠そう、この筆者井川恭であった)している(既に無試験によって東京帝国大学文科大学英吉利文学科への入学が決まっていた。井川は京都帝国大学法科へと別れ別れとなった。また原書簡冒頭から既にこの時、恒藤家への養子婿入りの話がほぼ終わっていたことも明らかになる。なお、この当時、大学初年で既に婚約が決まっているというのは必ずしも特異なケースではない)。以下、あくまで「翡翠記」の本文に対して注を附す(そうしないと、私の偏愛するベックリンの注まですることになってエンドレスになるからである)。
芥川龍之介はこの大正二(一九一三)年八月(大学の入学は九月)の六日(新宿の自宅発で当日着)から同月二十二日(自宅着)まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村の臨済宗新定院(現在の清水市清水区北矢部町に現存。ここ(グーグル・マップ・データ))に滞在している。この書簡は、そこから京都に既に移っていた井川へ宛てたものである。
「江尻」この中央の南北の海岸線(当時はもっと内陸にあったものと推定される)の広域地名と思われる。北の現在の内陸に「江尻町」があり、反対の南の内陸位置に「不二見小学校」がある。
「愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)」静岡県東部、富士山南隣に位置する火山愛鷹山(あしたかやま)。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰を指し、「愛鷹山塊」或いは龍之介の言うように「愛鷹連峰」とも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「靴をはいて泳ぐ」女性やハイカラを気取った男子が足や蹠(あうら)を傷つけるのを嫌ってゴムやズック製の靴を履いていたものか。そうでなくても日本の当時の上流階級の海水浴客は、上下ともかなりロングな海水着を着て、身体を隠して泳いだ。それは、かの夏目漱石の名作「こゝろ」の冒頭(現行の「先生と私」の第二章。リンク先は私の初出版注釈「心」)で、
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大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。
*
でよく判る。この「先生」と学生「私」の鎌倉海岸でも邂逅については、私は明治四一(一九〇八)年の八月に比定している。詳細は私の『「こゝろ」マニアックス』の後半の作品内時系列の推理部分を参照されたい。
「ダンヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。
「Triumph of Death」ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説“Il Trionfo della Morte”(「死の勝利」)。私は読んでいないので、「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を引く。快楽主義者である主人公ジョルジョ・アウリスパがイッポリタという女性との恋愛に惑溺し、次第に自分の感覚までも疑い始め、最後には死のみが女の情熱に勝利し得ると悟って、イッポリタを海岸に誘い出し、彼女を抱いて海に沈むという物語。しかし、小説の筋立ては必ずしも統一のとれたものではなく、寧ろ、美文による音楽的詩的効果に力点がおかれている。作者は自著の膨大な小説群を「百合のロマンス」「柘榴(ざくろ)のロマンス」「薔薇のロマンス」という種類に書き分け、この「死の勝利」は「薔薇のロマンス」三部作の最後の作品としている。全般にニーチェの超人思想の影響が色濃く表われている。
「パッセイジ」原文はご覧の通り、英文。「経緯」や「推移」だが、作品を音楽に比喩しての「楽節」の意の方がしっくるくるように私は思う。
「ゴルキイ」原文は英語(ラテン文字転写)。社会主義リアリズムの創始者とされるロシアの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年:本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネーム「ゴーリキー」(Го́рький:旧綴り:Горькій)はロシア語で「苦い」の意。
「Malva」「マールワ」(女性名)。一八九七年にゴーリキーが発表した短篇。井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、歌劇「夢見るゲルゲ」でツェムリンスキーが素材検討した本作についての梗概が載るので引用させて戴く。
《引用開始》
妻と息子のもとを去って海岸にやってきて、網元の見張り役として働くワシーリイは、奔放に生きる若い女性マールワを自分の情婦として扱っている。そこに、息子のヤコヴが現れ、やはり漁師として働き始める。マールワはヤコヴにまとわりつき、一方でワシーリイから心を離したような態度を取ったり、逆にあらためて誘惑したりするので、ワシーリイは気が気でない。やがてヤコヴもマールワに魅了されてしまい、ワシーリイから彼女を奪う決意をする。そこに、漁師として長く働いており、村から来たワシーリイを嫌っているセリョージカがつけこむ。彼はマールワにはたらきかけて、ヤコヴがワシーリイと対決するように唆させる。ふたりはセリョージカとマールワの計略に嵌って喧嘩を始め、ヤコヴがワシーリイを殴り倒す。失意のワシーリイが村へ帰る決意をする一方で、ヤコヴは意気揚々とマールワに求愛するが、マールワはヤコヴを軽くあしらう。ワシーリイはセリョージカに真相を知らされて怒りに震えるが、どうすることもできない。セリョージカはワシーリイの後釜におさまり、マールワは今度はセリョージカの情婦となる。
《引用終了》
「第一行に the sea is laughing とかいてある」やはり先に引いた井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、「ゴーリキイ全集」第二巻(袋一平訳・昭和六(一九三一)年改造社刊)の邦訳が載る(井上氏によれば引用に際して表記を現代語に改めた由の注がある)ので、やはり引用部だけを引用させて戴く。原論文の傍点「ヽ」は太字に代えた。字配はママ。
《引用開始》
海が――笑っていた。
熱風の軽い息使いの下で身震いしていて、眩くばかりにキラキラと陽を反射しているさざなみをいちめんに湛えながら、青空に向って、幾百千の白銀の微笑をほほえんでいるのだ。その海と空との間の深い空間には、砂浜の坂になっている岸辺に、一つまた一つと続けざまに駆け上る、陽気な波の拍手の音がただよっている。その音と、さざなみのために幾千倍となって照り反されている太陽の輝きとが、生命の歓喜でいっぱいな不断の運動の中に諧調的に溶け合っている。太陽は、輝いているということで幸福であるし、海は、太陽の大喜びな光を反射しているということで幸福を感じているらしい。
《引用終了》
「龍華寺(りょうげじ)」静岡県静岡市清水区村松にある日蓮宗龍華寺。「りゅうげじ」が正しい(公式サイトで確認済)。東海の名刹と謳われ、富士山の眺望の素晴らしさから、多くの人に親しまれ、「滝口入道」を書いた、ニーチェや日蓮に傾倒した国家主義者作家高山樗牛(明治三五(一九〇二)年十二月二十四日)の墓もここにある。ここ(グーグル・マップ・データ。北北西直近に次の鉄舟寺も確認出来る)。若き日の龍之介は樗牛を愛読していた。本時の訪問を含め、芥川龍之介の随筆「樗牛の事」(大正八(一九一九)年『人文』初出)に詳しい。「青空文庫」の新字新仮名版でここで読める。
「鐡舟寺」龍華寺と同じ村松にある臨済宗鉄舟寺。ウィキの「鉄舟寺」によれば、『飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた』。永禄一三(一五七〇)年、『武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり』、『新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる』。『江戸時代には朱印寺領として』二百『石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった』。『その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い』とあるから、龍之介の目当てはそれであろう。
「種豆南山下、草長豆苗稀」陶淵明の「歸園田居 五首」(田園の居に歸る)の「其三」の冒頭の二句。
*
種豆南山下
草盛豆苗稀
晨興理荒穢
帶月荷鋤歸
道狹草木長
夕露沾我衣
衣霑不足惜
但使願無違
豆を種(う)う 南山の下(もと)
草 盛んにして 豆苗(たうみやう)稀れなり
晨(あした)に興(お)き 荒穢(かうゑ)を理(ととの)へ
月と帶(とも)に 鋤(すき)を荷(にな)ひて歸る
道 狹くして 草木(さうもく)長じ
夕露 我が衣を霑(ぬ)らす
衣の霑(ぬ)るるは惜むに足らざれど
但(た)だ 願ひをして違(たが)ふことを無からしめよ
*
「1・Aの手紙 その三」この書簡は岩波旧全集には所収されていない(或いは新全集には含まれているかも知れぬが、確認出来ない)。問題は、この書簡が書かれた時期であるが、内容から見て、これは前の書簡よりも前、大正元(一九一二)年八月の夏季休業中、同月十六日から友人(中塚癸已男(明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年:「きしお」と読むか)と思われる。鷺只雄年譜(「年表読本 芥川龍之介」一九九二年河出書房新社刊)には『一高に合格した友人(未詳)二人で』とあり、彼は二浪してこの年に一高に合格しているからである。彼とは槍ヶ岳にも一緒に登攀している府立一中時代からの古い友人で、後に山一證券調査部に勤務した)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出た時のものである。新全集の宮坂覺年譜によれば、同八月十七日には御嶽山に登攀、翌十八日頃には名古屋に到着した模様で、二十日には名古屋を発ち、帰宅(新宿)している。
「偕楽亭」不詳。古い資料を見る限り、名士の歓迎会や相当な人数の祝賀会などが、ここで行われているから、名古屋市内にあったかなり大きな、有名な料亭かレストラン(「ヴエランダ」「あいすくりいむ」)と推定されはする。]
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