子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 未発表の小説
未発表の小説
飄亭氏の「夜長の欠(あく)び」という文章によると、二十二年の末に常盤会寄宿舎で「銀世界」という懸賞小説の課題が出た、これに応じた者は飄亭、非風両氏のみで、鳴雪翁審査の結果、飄亭氏の勝に帰したということがある。居士は学事多忙の故を以て珍しくこの事に与らなかったが、一月帰省の際松山で筆を執って、忽に「銀世界」五篇を草した。五篇とも全く別の角度から雪を扱ったもので、いずれも半紙七枚を限度としているのは、前の懸賞小説の規定に倣ったのである。小説というほど纏ったものではないけれども、さすがに居士らしい才気のほのめいているところもある。
[やぶちゃん注:五百木飄亭の「夜中の欠び」は『ホトトギス』に明治三一(一八九八)年十月から翌年三月まで六回に亙って連載された随筆。
「二十二年の末」明治二十二年は一八八九年。子規、満二十二歳。
正岡子規の「銀世界」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇を視認出来る。]
懸賞小説はただその一端の現れに過ぎぬが、そういう事によっても想像出来るほど、常盤会寄宿舎における文学熱は盛であった。「夜長の欠び」にはこれに続いて、日課として合作小説を書いたということも出ている。居士の小説草稿として伝わっているものは「竜門」及「山吹の一枝」(非風合作)の二種であるが、いずれも年代は明でない。「竜門」は『書生気質』愛読の余波を受けた作とおぼしく、筋の発展するに至らぬうちに筆を投じており、「山吹の一枝」は飄亭氏を主人公に擬した作で、非風と交〻(こもごも)執筆、十七回に及んで中断している。居士の作品としてはその特色が発揮されておらぬのみならず、小説全体の趣向も完成の域には達しておらぬけれども、常盤会寄宿舎内における文学熱が如何なるものであったかは推察するにかたくない。
[やぶちゃん注:「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」という個人ブログの「子規の小説と焼芋」によれば、現在では、小説「竜門」は明治二〇(一八八七)年、新海非風との合作小説「山吹の一枝」は明治二三(一八九〇)年の作であることが判明しているらしい。後者は後で宵曲が推理する年代と美事に一致している。]
「山吹の一枝」の主人公は紀尾井三郎という名である。紀尾井を逆に読めばイオキであるし、三郎の名も顚倒すれば良三と見られぬことほない。主人公がかくの通りである上に、作者たる居士も非風もツレの格で登場する。三人三様の萩の句を短冊に書く場面があるかと思うと、上野公園の野球試合の場で、主人公の打つ球が見物の美人の胸に当るというようなところもある。舞台を多く居士の身辺に採ったのは、楽屋落の意味もあったと思われるが、それだけ当時の空気を髣髴することにもなっている。明治二十五年三月七日、飄亭氏に宛てた端書に
ふとした事より「山吹の一枝」を引きずり出し
読み出したところがやめられずとうとう読つく
尽したがこんな面白いものとは思わなかった。
目が見えるなら見せたい。
とあるのは、小説の出来栄(できばえ)よりも、この中に現れた当時の環境が、居士をして懐旧の情に堪えざらしめたものであろう。
[やぶちゃん注:書簡引用は書簡自体が口語で、歴史的仮名遣になっておらず、書簡集も所持しないので、底本のままの表記とした。]
この小説の成ったのは何時頃か、常盤会寄宿舎内に文学熱が勃興したのは、飄亭氏上京後の話だから、二十二年五月後であることはいうまでもない。「銀世界」より後の事とすれば、どうしても二十三年以後でなければならぬ。ただ問題は三人が寄宿舎内に蟠踞(ばんきょ)していた時代の作かどうかという点にある。飄亭、非風両氏は二十三年末にそれぞれ軍隊に入営しているからである。入営後匇々の間は、そういう執筆の余裕を見出し難かったであろうし、多少の余裕を見出した後とすると、後における居士の小説執筆と抵触する虞がある。ふとした事より引きずり出して読んだという端書の文言から考えても、二十五年三月よりもよほど前に書かれていたものだろうと思われる。以上のような諸理由から、「山吹の一枝」は二十三年中――日課として合作小説を書いたという時代の産物ではないかと推察するのである。
諷亭、非風両氏が時を同じゅうして入営したのは、この年における特筆すべき事件であった。文学排斥党からいえばむしろ慶賀すべき現象だったかも知れぬが、居士の身辺は俄に寂寞(せきばく)になったわけである。藤野古白宛の手紙に
近時非風子露伴風の小説を作る、文章意匠實
に『風流佛』を離れず、また奇といべし。そ
の奇思涌出(ゆうしゆつ)するに至ては小生
などの及ぶ所にあらず。然(しか)るに氏と
五百木氏と佐伯氏と已に塵界(ぢんかい)の
人となる悼むべきかな。
紅葉會員已に四人を失す南塘先生の句調をか
りてこれを評せんに
紅葉滿山風寂々
錦衣零落不堪秋
(紅葉 山に滿ち 風 寂々(せきせき)
錦衣(きんえ) 零落して秋に堪へず
とでもいふべし
とあるのは、当時の感懐を洩したものであろう。周囲は明に寂しくなった。しかし居士の文学熱は毫も減退せず、更にその歩を進むるの観があった。
[やぶちゃん注:「佐伯氏」これは不詳な人物ながら、先に出た常盤会寄宿舎での第一回「もみじ会」に出たメンツの中の「佐伯蛙泡」なる人物のことであると考えて考えてよかろう。
「南塘先生」内藤鳴雪の初期の号。「身辺に現れた人々」を参照。]
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