芥川龍之介 手帳10 旧全集冒頭~《10-4》
芥川龍之介 手帳10
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月五日新潮社発行の「新文章日記1925 新潮社」(扉の記載。アラビア数字は顚倒しない横書)の右開きの日記帳。
この原資料は現在、山梨県立文学館所蔵で、底本はそれを用いた岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつも、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻の手帳「十」を参考にして漢字の正字化をして示すこととした。但し、一部に原資料にない箇所(他の旧全集の手帳にあるものは除く)があり(冒頭及び終りの方)、そこは旧全集で補填した(今まで通り、その箇所の句読点は除去した)。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改頁の相当箇所には「*」を配した。新全集の「見開き」部分については各パートごとに《10-1》というように見開きごとに通し番号を附けた。「○」は項目を区別するために旧全集及び新全集で編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。
適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。
新全集の「後記」では、本「手帳10」の記載推定時期を記していないが、使用されいる日記帳の上記の発行日から、自ずと閉区間は形成される。]
○京都にて友禪や震災の時 鐵の買ひつぎ(屑)をし損(5000)をし 東京に出でて型を彫りながらやり 或友染屋に入り 主人の氣に入り 幹部になる 花見の時奴さんをまつ先にをどる(二時半より) ちやんとした着物を着てゐる(羽二重友禪の長襦袢 高貴職ひげあり 尻はしよりに鉢まき)
[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。「5000」は横転表記。]
○主人役割をきめ 或男には席をたのみ 或粹がつた男に藝者をたのませる その藝者來ず 或一人旦那 わたしがよんで來ましようかと言ふ いけない その男の顏がつぶれる そこへやつと singer 來る すぐをどる
[やぶちゃん注:以上の一条は現存資料には存在しない。]
*
《10-1》
○某女元祿袖の着物を着るを褒める 相手曰そんな事をしては片身わけの時に困る 若き奧さん曰わたしは片身にする着物のない爲に死に切れない 相手曰わたしは××の叔母さんの片身に鼠のお高祖頭巾を貰ふ 當時の娘は皆紫色なりしかど ちりめん故それをかぶつた云々
○上根岸百十七 碧童生
[やぶちゃん注:以上の「○」二条分は旧全集には存在しない。因みに、最初の条の「××」には底本編者により、右にママ注記がある。
「碧童」小澤碧童。]
*
《10-2》
○顏に腫物出來 醫者へ行く 醫者切るも泣く その爲に學校を休み 後出る かへる 母曰何ぼお醫者でもあんまりだとて泣く おのれも泣く その爲に學校を休み 後出る 先生出席簿をよみ 返事に驚き「ああ 出てゐるんですか」と云ふ 又「御飯粒がついてゐます」と云ふ 万創膏を少々はれる也
○母産婆の稽古に行き 二人きり故 子供學校よりかへるも母なし 且戸じまりしてある故 雨天にはシネマヘはひる 成績惡し 自習學校に一圓 家庭教師に六圓也 「どうか中學へあげたい」と云ふ 始め受持の教師に家庭教師にたのむ 受持 いけないと云ひ 他の教師にたのむ(小學校教師に家庭教師組合あり)禮は? 五六圓と答ふ一週に一時間づつ三度 先生怠ける その外につけ屆をする 先生座蒲團を持つて來いと云ふ 拵へて行く
*
《10-3》
○女曰 お醫者樣がさういふ事は(氣の違ふ事)月經の時にあると云ひました その女はもう月經もありとは思はれぬ 黃面なり(半年 or 二年にて癒る) その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す 母これを惡魔の同類とし追ひまはす 子供泣いて二階に上る 母も二階に上る 後にその事を話して曰 向うは泣いてゐたんですが こつちには近眼故見えなかつた 發狂中は夫も子供も憎し 且彼等の罪惡を犯す樣見ゆ 故に彼等を責む 後にその事を話して曰 それでもよくわたしを答めずに置いてくれた
[やぶちゃん注:「その女の子一高の試驗をうけむとし勉強す」旧制高校は敗戦前には女子は受験出来なかった(旧制高校の廃止(新生大学への切り替え)は昭和二四(一九四九)年であったが、敗戦後からこの間で幾つかの旧制高校で女子の入学を受け入れてはいる)。]
○度々話せし發狂中の事故誰も聞くものなし 父(○)はトランプの獨り遊びをなし居る 突然歌をうたひ始む 「ホントニソノ通リダ」と獨語す 父曰よくそんな事を覺えてゐるね
[やぶちゃん注:「父(○)」は総て本文そのまま(ルビではない)。]
○二十四型の時計ナンゾトラナイ 顏ニハサウ言ツテヰル
[やぶちゃん注:「二十四型の時計」不詳。文字盤が倍の二十四時間表記になっていて、短針が一日で一回りする時計のことか? 現在も存在する。]
○子に 諏訪へ來て氷すべりせよ 湖水はあぶなければ裏の田畝に氷はる故そこへ來てせよ 官權もそこでやる
*
《10-4》
○結婚前の母娘と母とのヒステリイ
○原始 オケコケ
[やぶちゃん注:「オケコケ」不詳。]
○祇園女御 出雲のお國 安南の最後の日本人(海外の日本人)
[やぶちゃん注:「祇園女御」(生没年不詳)平安後期の女性。出自未詳。祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子惟清の妻という説もある。白河院の下級官女として仕えていたのを見出され、院の寵愛を得る。長治二(一一〇五)年、祇園社の東南に阿弥陀堂を建てて盛大な儀式を営み、堂を邸宅とした。女御宣旨は下らなかったが、「祇園女御」と通称され、「東御方」「白河殿」とも呼ばれて権勢をふるった。長治元(一一〇四)年頃、藤原公実の娘璋子(しょうし:鳥羽天皇の后で崇徳・後白河両天皇の母待賢門院)を養女に迎え、白河法皇の養女として育んだ。天永二(一一一一)年、仁和寺内に威徳寺を建立して晩年の住居とした。「平家物語」には平清盛を、忠盛に下賜された女御の生んだ白河法皇の落胤とする説があるが、信憑性は薄い。正盛・忠盛父子が女御に取り入って(女御は永久元(一一一三)年に正盛の六波羅蜜寺で一切経供養を行っている)、白河法皇に接近し、官界へ進出したことと関係するか(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「安南の最後の日本人」阿倍
仲麻呂(文武天皇二(六九八)年~宝亀元(七七〇)年)ことか? 遣唐の留学生であった彼は、何度も帰国を試みるが、失敗し、その際に安南(ベトナム)にも漂着しており、その後、帰国を断念して唐で再度、官途に就き、七六〇年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として、ベトナムに赴き、総督を務め、七六一年から七六七年までの六年間も、ハノイの安南都護府に在任している。]
○神風連(福本日南)
[やぶちゃん注:「神風連」既出既注。
「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年はジャーナリスト・政治家・史論家。ウィキの「福本日南」によれば、勤王家の福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれた。本名は福本誠。司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で原敬・陸羯南らとともに退校処分となった。その後、『北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年、同じ『南進論者である菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、翌明治二十二年には陸羯南らと『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという』明治二十四年には、発起人の一人となって『アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立』、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』明治三八(一九〇五)年、『招かれて』、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』、二年後の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し』て当選した。一方、同年に「元禄快挙録」の連載を『九州日報』紙上で開始している。これは『赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が』、「忠臣蔵」の『巷説・俗説を排して』、『史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の』「忠臣蔵」の『スタイル・評価を確立』したものとされる。彼には大正五(一九一六)年実業之日本社刊の「淸教徒神風連」という著作があり、芥川龍之介のこれはその本のメモランダである可能性が高いと思う。]